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アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの −「タダマス11」レヴュー  Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble − Review for "TADA-MASU 11"

  1. 2013/10/31(木) 21:44:28|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 他の耳が切り開いた道筋をたどる。同じ道を歩みながら別の景色を見ている。だがそれでも、「ああ、彼らはこれを見ていたのか。この光景に打たれ揺すぶられたのか」と思わずにはいられない瞬間がある。耳と耳が切り結び、視線がぴたりと寸分の狂いなく重なり合う一瞬。その場で語られた言葉が身体へと入り込み、身体の奥底から湧き上がる言葉と互いに映し合う。思考が巡り、イメージが羽ばたく。その時、「聴取」は知らず知らずのうちに、ひとりではたどり着けぬほど沖合までさまよい出ている。振り返ると浜辺が遠く揺らぎ、足下の水がしんと冷たくなって、不安で心臓が締め付けられる。

 益子博之と多田雅範がホストを務める「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も11回目を迎えた。生の演奏ではなく音盤のプレイバックだが、そこにホストの2人やゲスト、あるいは聴衆の生な反応や言葉が絡むことにより、私にとって耳を開かされることの多い貴重な「ライヴ」の場である。特に今回はプログラムの途中で道筋を見失いかけながら、最後には彼らが見て打たれたであろう光景を、いま私も目撃しているという「一致の感覚」に不意に襲われ、驚かされることとなった。
 以下にレヴューを試みるが、例によって自分が触発された部分を中心にしているため、プログラム全体のバランスのとれた紹介とはなり得ないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては下記URLを参照。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 また、ホストのひとりである多田によるリポートもぜひ参照していただきたい。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131027
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131030


 「タダマス」に先立ってオーディオ・イヴェントが行われたため、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記のこの日の装置は、いつものヴィンテージ・オーディオではなかった。写真の通り、ブルトンの詩句「窓で二つに切られた男」を連想させるスピーカーは、共振をダンプされた厚いガラス板に、フルレンジのユニットを平面バッフルの要領でマウントしたもの。音像型で暖かみに溢れ音楽的表現力に優れたいつものアルテックに対し、こちらは極端に音場型で空間表現に秀でており、誤解を恐れずに言えば、その高い透明度/解像度により音楽から「音」を解き放って聴かせる傾向がある。

中央の四角錐ではなく、壁状
のガラス板にマウントされて
いるのが当日鳴らされたSP


 最初に掛けられたAya Nishinoの作曲による女性ヴォイスの多重録音作品は、こうした装置の再生特性に見事にはまっていた。身体の重さをまったく感じさせない声の、うっすらとした雲のような広がりは、互いに重なり合いながら滲むことも溶け合うこともなく、能う限り触覚から遠ざかっていく。益子はこの作品が「記憶」を刺激することを指摘し、BjorkやCocteau Twins、菅野よう子らの名前を挙げていたが、私が反射的に思い浮かべたのもBjork『Vespertine』と「反例」としてのEnyaである。Aya Nishinoの生成させる響きは、何重にも音を重ねながら決してEnya的なふうわりと煙る厚みへと至ることなく、常に必要な隙間をはらみ、透明な見通しを失わない。むしろBjork『Vespertine』に似て、敷き重ねられるほどにますます薄層化し、ぼろぼろの穴だらけであることを際立たせていく空間の手触りがそこにはある。
 以降、「記憶」をひとつのキーワードとして、トラックが連ねられていく。多田雅範による「ECMは演奏者の記憶を引き出してきたレーベルだ」という名言を差しはさみながらも、その流れが私にはどうもしっくりとこなかった。

 たとえば以前にこのブログで採りあげた益子によるクロス・レヴューの対象作品Derrick Hodge『Live Today』の明らかにMiles Davis『In A Silent Way』を下敷きにした、質量をいっさい感じさせない構築の、サウンドの出入りの完璧さに驚きながらも、それは果たして「記憶」の関数なのだろうかと訝っていた。このサウンドの出入りの完璧さは、明らかにDJたちのスクラッチによる構築の探求を受け継いでいる。しかし、彼らがその名人芸でもってつくりあげた、あえてデコボコと接合面を際立たせたつぎはぎだらけの、編集の産物であることを明らかにした挑発的な構築は、ここでジャズならではの技量を駆使した、極端に隙のない、完璧に磨き上げられたリアルタイムの構築に取って代わられている。もちろん事後的な編集も施されているのだろうが、それでもすっすっとまったく遅れも摩擦もストレスも感じさせずに空間に入り込み隙間へとはまり込む、絶妙なタイミングとイントネーション/アーティキュレーションは、編集だけでは生み出せまい。本作品を語るのに、益子や多田が一見似ても似つかない菊地雅章によるアンサンブル・インプロヴィゼーションを持ち出すのはよくわかる気がする。菊地が一音一音の不確定性から演奏を組み上げていくにあたり、アンサンブル・インプロヴィゼーションを全面適用しているのに対し、Derrick Hodgeたちはフレーズやリズムはプリセットしておいて、出入りのタイミングを精密に測り、空けられた隙間に正確にはまり込むピースをつくりあげるためにイントネーション/アーティキュレーションを研ぎ澄ますことにだけ、アンサンブル・インプロヴィゼーションを局所限定的に適用しているのだ。

 だが、後半になって、いきなり転機が訪れる。Mary Halvorson Septet『Illusionary Sea』におけるMary Halvorsonのギターの足がもつれて階段を踏み外していく身振りに、コンポジションとしてはジャズ・ロック風のポップさを香らせながら、やはり複雑にもつれていく四管の絡みや演奏に推進力を供給し続けるドラムのズレをはらんだ煽りに、レイヤー的な構築性が垣間見えた気がしたのだ。ここで「レイヤー的」とは、精密な敷き重ねよりも、むしろ各レイヤーを切り離し、勝手気ままに走らせてしまうことを指す。それらが必然的にズレをはらむことは、当然あらかじめ計算済みだ。本来の意味でのアンサンブルはいったん破綻し解体されるが、そこで生じるズレに対し、改めてジャズ・プレイヤーならではのリアルタイムの演奏構築感覚が発動することにより、アンサンブルはより拡張された次元で再構築される。このことはその直前に掛けられたMark Dresser Quintet『Nourishments』との対比でより明らかとなる。Mark Dresserたちの演奏は、枠組みとなるコンポジション/アンサンブルを言わば折り畳んで複雑化することを目指しており、枠内の分割は施されるものの枠そのものは決して揺らぐことがないのだ。Mary Halvorsonたちのやり方は、例えばRadioheadがエレクトロニカ的な視点を採り入れ、アンサンブルによるグルーヴを解体し、深みへと踏み外していったのと共通性を有しているように思う。

 一度、そうした気づきを手に入れると、続く3枚の描く軌跡が連続した線として浮かび上がってくるように思われた。Dave King Trucking Companyの急にギアを切り替えたようなテンポの変化等、まるでPCによるポスト・プロダクションを最初から生アンサンブルでトレースした感覚の演奏。The Claudia Quintet『September』のヴァイブとアコーディオンのミニマルなリフを基軸とした構築に、各レイヤーの加速/減速や、持続音を狭い音域に押し込めて倍音領域に至るまでサウンドを衝突させモジュレーションを起こさせる等、エレクトロニカ的な操作を施す仕方。そしてMatt Mitchel『Fiction』でピアノとドラムのミニマルな繰り返しが、右手と左手のアンサンブルをレイヤーの重ね合わせと見立て、複数の速度と加速度感を操り、時に疾走による逸脱へと至りつつズレを堆積させていく様。あるいはピアノとヴァイブの明滅の星座的な重ね合わせにおいて‥‥。

 後半4作品の畳み掛けるような怒濤の押しは、それらを聴き終えた地点から振り返って見れば、Aya Nishinoによる声の雲や、Derrick Hodgeたちによるサウンドのすれ違いの完璧なマネジメントとまっすぐにつながっているように感じられた。

 今回クローズ・アップされたレイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーションによって達成すること、これによりアンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。そう考える時、対極的なモデルとして、音の顕微鏡的なまでにミクロな局面へと沈潜し、コーダを延々と引き延ばし、時間感覚を拡大して、もはやコントロール不能な確率的揺らぎへと触覚的感覚を研ぎ澄ましていく仕方が挙げられるだろう。

 先走った物言いになるが、益子や多田がこの間ずっと追いかけているのは、新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体の姿ではないかという気がする。ビバップはモダン・ジャズ共同体のとびきりのアスリートたちが、極限的な演奏の加速と複雑化に向けて、命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲームだった。晩年のコルトレーンが繰り広げたのも、精神共同体を背景とした、極限的な加速と飛躍と充満と溶解に向けたゲームだったと言えるだろう。だから清水俊彦が指摘したように、コルトレーンの死は、熱病に浮かされたフリー・ジャズ共同体に冷水を浴びせかけることとなった。失われたルーツとしてのフォークロアと宗教性を常に探し求め、霊的共同体を志向したアルバート・アイラーの破滅は、そうしたゲームがもはや成立し得なくなったことを示しているだろう。崩壊した即興共同体から析出した個人によるパースナルな演奏語法の探求を、これまでのように象徴的な次元ではなく、まさに明示的かつ即物的なゲームの平面で編集しようとしたジョン・ゾーンによる「ゲーム・ピース」やローレンス・"ブッチ"・モリスが継続した「コンダクション」の試みは、こうした系譜の最後に位置している。

 NYダウンタウンで展開されつつある新たなゲームは、アンサンブルの解体/再構築の果てにどこに向かおうとしているのか。それはポップへの接近/達成を当面の目標としているように見えながら、おそらくはそれを突き抜けていくだろう。これまでのように仲間内で賭け金をレイズし続けることが、いつしか限界を超えて生命を蝕み、なし崩しの自死を呼び込んでしまうのだろうか。EC諸国のシーンで見られる音響的インプロヴィゼーション(それはデレク・ベイリー的な内省の徹底と、ジャン・デュビュッフェからミッシェル・ドネダに至る野生と外部による侵食の相関の二つの起源を宿しているように思う)との部分的共振は、今後どのように作用していくのだろうか。

 以前にも述べたように、そこに生み出される新たな音楽/演奏のかたちは、たとえどんなにこれまでの「ジャズ」と似ていなくとも、「ジャズ・ミュージシャン」にしか生み出し得ない演奏であることによって、それこそが新たなジャズの姿にほかならない。それを見出すには複数の耳の間の化学作用が必要なのだ。


  

 

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