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ブログ「耳の枠はずし」は引っ越しました

  1. 2013/11/17(日) 12:57:51|
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    引越ししました




 DTIブログの終了に伴い、ブログ「耳の枠はずし」は下記に引っ越しました。お手数ですが、「お気に入り」等の変更をお願いいたします。これまでのご愛読どうもありがとうございました。今後は新ブログ「耳の枠はずし」をよろしくお願いいたします。

  新 : http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/

  旧 : http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/

 今後、新たな記事のアップは新ブログに行っていく予定です。なお、新ブログには旧ブログの過去記事ごと引越ししています。旧ブログの記事は2013年12月17日以降見られなくなりますのでご注意ください。

 新ブログには引越ししたばかりで、わからないことだらけです。レイアウトに慣れなかったり、記事カテゴリが消えてしまったりと、ご不便をおかけするかと思いますが、改善を心がけますのでよろしくお願いします。

 振り返ればもともとは、吉祥寺Sound Cafe dzumiでの連続音盤レクチャー「耳の枠はずし」の告知用に急遽作成したブログでした。その後も「ブログ」を謳っている割には長い記事ばっかりで、更新もたびたび滞り、いろいろとご迷惑をおかけしました。

 新ブログに引越ししても、基本的な路線は変わりません。なかなかメディアで採りあげられることのないフリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディング、民族音楽、現代音楽、トラッド等の「マイナー音楽」を、美術、映画、演劇、建築等、他領域を横断しながら取り扱っていきたいと思います。よろしくお願いします。

ディスク・レヴュー 2013年6〜10月 その1  Disk Review June - October 2013 vol.1

  1. 2013/11/16(土) 16:43:50|
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 すみません。長らくお待たせいたしました。新譜ディスク・レヴュー再開第1回は、器楽的インプロヴィゼーションからの7枚。もっとも「器楽的」と言いながら、ほとんどの作品がエレクトロ・アコースティックな領域へと大胆に踏み込んでいて、その「侵犯の力学」ゆえに、より深みへと達している観もあります。いずれにせよ、前回同様5か月分からの選りに選った7枚なので、作品のレヴェルの高さは保証します。それではどうぞ。

【重要なお知らせ】
 DTIのブログ事業からの撤退により、12月17日以降、このブログ「耳の枠はずし」は消滅してしまいます。現在、過去記事を含めた引っ越しを検討中です。移転先が決まり次第、このブログ上にてご連絡を差し上げるようにいたします。よろしくお願いします。



John Butcher, Thomas Lehn, John Tilbury / Exta
Fataka Fataka 7
John Butcher(saxophones), Thomas Lehn(synthesizers), John Tilbury(piano)
試聴:https://soundcloud.com/fataka/exta
 さまざまな様相で現れる「間」を生きること。一目でサキソフォン、あるいはピアノとわかる楽器音。痛いほどに手触りを触発して止まない物音。空間が凝るように析出しまた空間へと溶解していく電子音の持続。思わずそばだてられる耳に、ざらざら/ぶつぶつと顕微鏡的に拡大された肌理をさらし、視界いっぱいに投影される亀裂や断層に満ちた音の表面。希薄にたちのぼってあたりを満たし、揺すぶられて濃淡の波紋を描く倍音。沈黙に沁み込みながらクロマトグラフィックに色合いを変え、交錯し混じり合う響き。プリペアドや特殊タンギングによって楽器音の領域を踏み外し、深淵へとこぼれ落ちていく音の群れ。合わせ鏡のように、それらの間に走る無数の線が、それらを区分けすることの無意味さを明らかにしている。ほとんどシュルレアリスティックな仕方で眼前と彼方が結びつけられ、遠近はまるで霜降り肉のように複雑に入り組み、パースペクティヴ性はその機能の停止を余儀なくされる。「図」と「地」の区分は消滅し、空間と響きがひとつになって、「音響」としか呼びようのないものが生々しく露呈する。「ここ」と「あそこ」としか名指しようのない地点で起こる「出来事」の間に、緊密な照応の線が走り、それらが蜘蛛の巣のように縦横に張り巡らされていることに気づいてしまえば、世界の生成/運動の原理があからさまに剥き出しにされている感覚に、ひとり恐れおののくよりほかにない。ここで演奏は、カヴァーに掲げられる臓物写真のように、ぎらつく脂肪のぬめりや鼻をつく粘膜の臭気を、薄暗いモノクロームな静寂の底に沈ませ、耳の視線から覆い隠している。本作の一望を拒み要約に抗う「掴みにくさ/言い表し難さ」が、ディスク・レヴュー執筆を長期に渡り停滞させていたことを白状しよう。傑作。


Lol Coxhill & Michel Doneda / Sitting on Your Stairs
Emanem 5028
Lol Coxhill(soprano saxophone), Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://subradar.no/album/lol-coxhill-michel-doneda/sitting-your-stairs
 2012年7月10日に死去したLol Coxhill(※)の生前最後の録音(2012年2月3日)は、Les Instants ChaviresにおけるMichel Donedaとのソプラノ・デュオとなった。基本となる音域をはじめ、楽器が同じであるがゆえに、互いの奏法の選択やヴォイスそれ自体の差異が際立つ。いささか癖のあるにょろにょろとした筆跡で、紙面にすらすらとペンを走らせるCoxhillに対し、Donedaは紙の表面を穿ち、繊維の間へと音の身体を滲ませる。その結果として、このデュオにおける二人の立ち位置は、Coxhillが前面に出てソロを取り、Donedaが先達に敬意を表して一歩退き、バッキングに回ってこれを支えているように見えるかもしれない。だがそれは見かけ上のことに過ぎない。Donedaは一見「地」と見える部分を泡立たせ揺り動かし押し流して、演奏の拠って立つ基盤自体に熱く息を吹き込み、そこから地霊のようにたちのぼり、噴出する。そうしたDonedaの肩先越しにCoxhillを眺めれば、ちょうどプールの底から水面でもがく足先を見上げるように、一見飄々と我が道を歩むCoxhillが、この地平の揺らぎ/液状化を鋭敏に察知して、これに懸命の応戦を図る様が看て取れるだろう。実際、演奏が進むにつれ、両者の位相は次第に接近し、ついにはほとんど重なり合い、コンパクトに圧縮された領域で、より緊密かつ流動的にプレーが進められるようになっていく。
※以下の追悼記事を参照。http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-177.html


Mary Lattimore / The Withdrawing Room
Desire Path Recordings PATHWAY006
Mary Lattimore(harp,looper), Jeff Zeigler(korg mono/poly only on tr.1)
試聴:http://www.desirepathrecordings.com/releases/mary-lattimore-the-withdrawing-room/
 本作のジャケットを飾る窓からの眺めは、いかにも素人臭い素朴派風の筆触にもかかわらず、静物画とも風景画ともつかず、窓辺に並べられた不可思議なオブジェ群を眺めるうちに、線がはらはらと散り落ち、色彩が風に吹かれて剥がれ、次第に何物ともつかぬ茫漠たる広がりへと変貌を遂げていく。
 典雅なハープの爪弾きの足下でとぐろを巻き腐敗していく獣のうなりや反復する機械の動作音。鬱蒼と暗く深い森に潜み、うごめき、鳴き交わすものたち(それらの響きには窓の外から聞こえてくるような違和感がある)。やがて視界は闇に沈み、ハープの音色は微かな瞬きへと遠のいて、流動質の不定形な広がりに覆われていく。だが、月が傾き、それらの暗い雲が薄らぐと、オルゴールにも似たつぶやきがぼんやりと浮かび上がり、前景と後景がゆっくりと交替していく。
 あるいは立ち上がる端から水にふやけたセロファンのように、揺らめき、輪郭を震わせ、空間に滲んでいく響き。繰り返しは決して律儀に積み重なることなく、しつけ糸を解かれたごとく形を失い、はらりはらりと散り溶けていく。後には響きだけが残り、文字通り「残響」のたゆたいだけがいつまでも耳の浜辺を洗い続け、やがてきりもみするような空間の蠕動へと至る。
 触覚的な音響の粘土細工と器楽的な展開の間、あるいは素材の提示に続く音響操作と構築のための一連の動作である演奏の間、両者の中間にゆらゆらと漂い、どちらにもたどり着くことのない強靭な意志の在りよう。


Ilia Belorukov / Tomsk,2012 04 20[Live]
Intonema INT005 / Akt-Produkt AP10
Ilia Belorukov(alto saxophon,preparations,recording,mixing,mastering)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fahALuhgB0Y
 管を鳴らさぬ「息音」と微かな軋みだけによる演奏は昨今の流行というべきものだが、単に流行に乗って繰り広げられるだけの演奏は、奏法の選択の時点で、もうすでにして自分は何事かを達成し得たと思い込んでしまうためか、ただそれだけに終始しがちである。そこにのんべんだらりと横たわっているのは、このところマスコミを賑わしている「食材虚偽表示」と共通する「素材主義」にほかなるまい。そこでは一皿の料理はせいぜい素材と産地の足し算に過ぎない。1987年生まれというから、すでに開発済みの語法として「息音」を学んだであろう彼は、そうした「選択」の段階にとどまってはいない。彼は風景が色彩を失ってモノクロームに凍り付くほどに疾走する速度を追求し、響きは音色も音階も脱ぎ捨てて吹きさらしの「息音」へと至る。あるいはLucio Capeceの如く管を弓弾きする工作機械音にも似た反復に、細く張り詰めた息をしみこませる。時に息は管が張り裂けんばかりに吹き込まれ、けたたましく鳴り響き、迸り駆け巡る。その姿は私に1973年の阿部薫の音を思い出させた。ここには決して手の届かぬ遠い彼方への憧れはなく、代わりに冷ややかに突き放した熱中があるのだが。


河崎純 / biologia
Kamekichi Records kame6-701w
河崎純(contrabass)
試聴:http://www.e-onkyo.com/music/album/kam0034/
 何と充実した響きであることか。甘くしなやかな中低域の弦の震え。糸を引く高音のフラジオ。暗い深淵へと沈み込み、船底をかいくぐって、再び浮かび上がる最低音のアルコ。弦を灼き切り責め苛む激しい繰り返し。ソロ・インプロヴィゼーション特有の、瞬間瞬間に目映く輝き、その都度その都度燃え尽きながら、強度の尾根を伝ううちに運動/速度へと自らを研ぎ澄まし純化していくあり方とはきっぱりと異なり、彼は息を長く保ち、誰よりも遠くまで視線を放ちながら、「作曲的」としか言いようのない射程の長さで音の軌跡をとらえようとする。深くえぐるような弾き込み具合、駒の高さによる豊かな倍音とさわり、プリペアドによるノイジーな散乱、「無伴奏」を掲げながら無造作に導入される呼び子や韓国打楽器‥‥ここには彼の師である斎藤徹との共通点を幾つも指摘することができる。どこか内にこもったつぶやきは独白めいた自らへの語りかけであり、安定した息遣いは「バッハ的」ともいうべき、叙情性を豊かにたたえながらも垂直に切り立った響きを可能としている。そうした響きをごく自然な佇まいのうちにとらえた録音も素晴らしい。


Razen + Razen featuring Andrew Lies / Rope House Temper
Kraak K0079
Brecht Ameel(santur,bombos,bouzouki,keys,bass,lamellophone,bass drum,voice), Kim Delcour(bagpipes,shawm,recorders,voice), Pieter Lenaerts(double bass), Suchet Malhotra(tabla,percussion), Paul Garriau(hurdy gurdy), Andrew Lies(extra instrumentation,mix&edits)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11939
http://www.art-into-life.com/product/3032
 甲高い笛の音と駆け抜けるタブラによるエスニックなアンサンブルをよそに、低域の律動はぐにゃぐにゃに歪み、背景には電子の影がちらつく。以降も民族音楽基調のアコースティック・アンサンブルと暴力的に歪みぼろぼろに腐食したエレクトロニクスが分ち難く結びつけられ、空間を異様な色合いと不穏にざわめいた手触りに染め上げ、足元をぐらつかせる。本来は広大な空間へと解き放たれ、拡散/希薄化を通じて、波動的な秩序をかたちづくっていくはずの豊穣な倍音が、ここではエレクトロニクスにより強迫的に圧縮/変形され、サウンドの本体を切り刻み変容させるものとなっている。それゆえハーディ・ガーディの喉を掻きむしるような持続音は、その倍音を自らへとフィードバックされ、空間を息苦しく閉ざすとともに、パイプ・オルガンにも似た崇高な響きへと変貌させられている。フィールドレコーディングによる環境音/バックグラウンド・ノイズを用いることなく、楽器と音響操作だけで、これほどまでに空間を埋め尽くし、隅々まで閉塞をみなぎらせた偏執狂ぶりには脱帽せざるを得ない。一見、器楽的な演奏を前面に押し立てながら、彼らの本領はシュルレアリスム的というにはあまりに禍々しく錯綜した、鬱血や糜爛、潰瘍にも似た病理学的結合にある。Andrew Liesの参加ゆえに、それをNWW的と呼べばいいのだろうか。


Bill Orcutt / A History of Every One
Editions Mego eMEGO 173
Bill Orcutt(guitar)
試聴:https://soundcloud.com/editionsmego/bill-orcutt-zip-a-dee-doo-dah
   http://www.youtube.com/watch?v=zgeGyhGUZ-k
 激烈なアタックが弦を急襲する。響きは一瞬のうちに砕け散り弾け飛んで、破片が空間に思い思いの軌跡を描く。その軌跡を辿り、余韻をたどり直して、そこに「ブルース」の色濃い面影を発見することは確かに可能だ。だが、このギター・ホールに鼻先を突っ込むような、極端な近接地点からの聴取による、にわかには全貌をとらえようもない「事故」を、苦労して後から再構成し、結局は「ブルース」の棚にしまい込まねばならぬいわれはない。それよりもむしろ、事件の現場により深く立ち入って、歪んだ弦の震えや引き攣った胴鳴り、思い切りクラッシュした響きの爆発に耳をなぶらせ、身体を刺し貫かれるままにしておこう。その時、Bill Orcuttの姿は、たとえばDerek BaileyとJohn Faheyの間にふと浮上してくることになる。演奏中、ほぼ途切れることなく漏らされ続けるうなり声も、感極まってというより、ふやけたうわ言のように響く。ブチッと無造作に断ち切られる録音もまたここにはふさわしい。

1982 / 奥行きの戦略  1982 / Strategy of Depth

  1. 2013/11/03(日) 22:31:20|
  2. ディスク・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
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 先日、立川セプチマにおいて素晴らしいライヴを聴かせてくれた、ノルウェーから来日のトリオ「1982」について、ディスク・レヴューをお届けする。当日、会場で買い求めた中には、ECMからリリースされたNils Oklandのソロ作『Monograph』や彼とSigbjorn Apelandのデュオによる『Hommage A Ole Bull』、あるいはやはりNils Oklandが参加したノルウェー伝承曲集『Abel En Norveg』等もあるのだが、美しさの果てに昇り詰めるようなNils Oklandによるヴァイオリンの響き(あるいはこれに添えられるSigbjorn Apelandの奏でるピアノの滑らかなきらめき)の素晴らしさを認めながらも、三人三様の仕方でクロマトグラフィックに空間に浸透し、空間そのものとなって震え揺らめきながら、同時にカタカタと眼前を横切って空間の奥行きをつくりだす「1982」の確信犯的手口に深く魅了されてしまう。
 というわけで、「1982」の全作品3枚をまとめて紹介したい。



1982 + BJ Cole / 1982 + BJ Cole
Hubro CD2522
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), BJ Cole(pedal steel), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/hubro/01-09-03
   http://www.amazon.com/1982-BJ-Cole/dp/B009LUE93E
 耳の視界を何か茫漠とした影のようなものが覆い横切って、しばらくするうちにそれがBJ Coleの奏でるペダル・スティールの揺らめきだと気づく。ハルモニウムがカタカタと古めかしいメカニズムを軋ませ、ヴァイオリンがゆっくりと旋律を口ずさみ始めると、ペダル・スティールはますますうっすらと希薄化し、エーテルのようにさざめく。山裾を取り巻いていた霧がゆるゆると湧き上がり斜面を昇っていく大きな流れ/揺らめきと、カチカチコトコトと細密な象眼を施すようなミクロな響きが共存し、「図」と「地」が常に緩やかに交替していくのが彼らのサウンドの真骨頂だ。寄せては返し重なり合い移り行く響きの流れと、その手前を横切るちっぽけな物音。それは必ずしも楽器ごとに配分されているわけではない。ヴァイオリンの香り立つ豊かな倍音の広がりとネック上の微かなスクラッチ。空間へと沁み込み空気自体が震えているようにしか感じられないハルモニウムの持続音と鍵盤やペダルのメカニカルなノイズ。ドラムの緩めた打面の響きの深さとブラシに擦られたざわめき。眼の中に音もなく広がる暗がりから次第に熱気を増して、ブルージーなロック・サウンドでうなりを上げるペダル・スティール。2011年録音の現在のところ最新作。


1982 / Pintura
Hubro CD2510
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/1982-pintura-album-preview-mp3
 ゆっくりと明るさが増していくにつれ、モノクロームな静寂が次第にざわめき始め、ゆるやかに暖色に染まっていく。少し離れた舞台の奥の方で、天窓からの明かりに照らし出されたヴァイオリンが、弦の豊かな響きをたちのぼらせている。その手前でハーモニウムの響きが、陽炎のように揺らぎながらヴァイオリンのきらめきにうっすらと紗をかける。さらにその手前でカタカタと乾いた物音が転がり、眼前を横切る。彼らのアンサンブルは常にこうした空間構成の奥行きと共にある。据えっぱなしのキャメラに映し出される揺らめく雲の流れ、強さを増しやがて陰っていく陽射し、濃さを変じながら一度短くなり再び長く伸びていく影の移ろい。ヴァイオリンのゆるやかな繰り返しを「図」としながら、「地」をかたちづくるハーモニウムとパーカッションは、微妙に配合を変えながら、足下をさらさらと掘り崩していく。2010年録音のトリオ2作目。


Sigbjorn Apeland, Oyvind Skarbo, Nils Okland / 1982
NORCD NORLP0985
Sigbjorn Apeland(harmonium), Oyvind Skarbo(drums), Nils Okland(hardinger fiddle,violin)
試聴:http://www.amazon.co.uk/Øyvind-Skarbø-Økland-Sigbjørn-Apeland/dp/B0028GFYW8
 トリオとしての記念すべき第1作(2008年録音)。ここではまだ「1982」はタイトルに過ぎず、アーティスト名は3者の連名となっている。次作ですでに確立される独特の空間構成の整合性はまだなく、一聴、即興演奏性が強く感じられるが、肌理や手触りを感じさせる艶消しのくぐもった音色を時間をかけて空気に沁み込ませていくハルモニウム、ブラシやミュートを多用し定型のビートを叩かず時間を細分化しながらやはり触覚に訴えるドラムス、少し離れたところで冷ややかな倍音をゆったりと巡らせるヴァイオリン‥‥といった個性はすでに出来上がっている。LPのB面を占める長尺の曲における、厚いカーテン越しに射し込む淡い月の光の下で繰り広げられる、もう長く済む人もない部屋で埃除けの布カヴァーをかぶせられた家具たちのつぶやきにも似た、密やかな交感が素晴らしい。


 「1982」のスター・プレイヤーというかフロント・マンは明らかにNils Oklandなのだが、にもかかわらず彼らの「奥行きの戦略」の核心を担っているのはSigbjorn Apelandにほかならない。彼は「1982」での主要楽器であるハルモニウムに子ども時代から親しみながら、その後、ピアノとチャーチ・オルガンを学び、演奏者としてのキャリアを積んでいく。改めてハルモニウムの可能性を見出したのは、最近になってからだという。
 ハルモニウムを音響発生装置として再発見し、持続音がせめぎ合うドローンをかたちづくりながら、楽器各部の共振/共鳴の不均衡やそれにより生じる軋み等を介して、音響に豊かな「傷跡」をはらませていくやり方を、たとえば以前にディスク・レヴュー(*)で採りあげたFavrice Favriou『Phases』(Creative Sources)に見ることができる。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-197.html
 それは例えばRohdri Daviesがハープの弦を爪弾きながら、即興的にこれをプリペアドし、弦に挿入された素材のみならず、ハープという複雑な音響構造体の不均質な細部に眼を凝らし、さらにはそうした各部に直接e-bowを押し当て、振動とこれに付随する各部の共振の干渉状態をつくりだしていくことと比較できるかもしれない。
 だが、Sigbjorn Apelandの、あるいは「1982」の戦略はまた異なる。Favrice Favriou やRohdri Daviesがまるで検査技師のように細部の反応を確かめ、せめぎ合う諸力がかたちづくる束の間の平衡を切り替え結びつけていく点で「モンタージュ型」とするならば、奥に揺らめく広がりを必ず手前で物音が横切っていくSigbjorn Apelandや「1982」は「ディープ・フォーカス型」と言えよう。
 ここで注意しておかなければならないのは、インプロヴィゼーションのみならず、通常、音楽の提示される空間はライヴの演奏空間を前提としてイメージされ、また、受容されていることだ。アクースマティック・ミュージック作品の上演において、マルチ・チャンネル・スピーカーを駆使して様々な音場操作を行ったとしても、コンサート・ホール自体の空間の連続性/一様性が変化する訳ではない。こうした遠近法的構図に基づき構築された三次元音場は、もとより奥行きの次元を有しており、オーケストラのホルンはヴァイオリンの奥から聴こえてくる。だから、奥行きを持つ三次元空間は言わば当然のことと見なされがちだ。しかし、「1982」が用いる奥行きは、むしろ「重なり」によってもたらされる。
 響きが提示され、それに覆い隠されながらもその向こうにぼうっとした曖昧な揺らぎが浮かび上がる。持続する最初の響きに、流れる雲のように影を落としながら別の響きがと通り過ぎる。さらにそのずっと手前、眼前をちっぽけな物音たちが逆方向から足早に横切る。小津安次郎はトレードマークのロー・アングルにより畳の目を消し去り(ピエロ・デラ・フランチェスカからフェルメールに至るまで、床面の市松模様の推移は遠近法の要だった)、代わって開けられた襖や障子の縁と鴨居や欄間のかたちづくるフレームの重ね合わせにより奥行きをつくりだしていた。それと同じ「順序構造」としての奥行きを彼らは取り扱う。
 そうした空間構成がジャズやフリー・インプロヴィゼーションにおいて用いられることはほとんどないように思う。自らのランゲージの確立/検証過程でパンニングやフレーム・イン、フレーム・アウトを多用していた1970年代半ばのDerek Baileyも、奥行き方向に対しては積極的に取り組んでいない。例外としてArt Ensemble ChicagoやAnthony BraxtonのBYGレーベルへのパリ録音(たとえば『Jackson in Your House』や『Anthony Braxton Trio』)、Steve Lacy『Lapis』(Saravah)等が思い浮かぶ。そこにBrigitte Fontaineの初期作品(Saravah)を媒介項として加えれば、レコーディング・エンジニアDaniel Vallancienの名がまるであぶり出しのように浮かび上がってくる。
  



Sigbjorn Apeland / Glossolalia
Hubro CD2503
Sigbjorn Apeland(harmonium)
試聴:http://www.amazon.com/Glossolalia-Sigbjorn-Apeland/dp/B004Q1DFLK
 ソロのためか、引き伸ばされた一音の中でもつれあう息の震えに耳を澄ます感じが薄れ、複数の音を敷き重ね、ON/OFFしてみせるようなレイヤー操作が前面に出てきてしまうのだが、それでも遠近を意識しながら音を重ね、さらに鍵盤やペダルの軋み、胴のうなり、おはじきを振り撒くような、あるいはネズミが走り回るようなミクロな物音を手前に配し、その隔たりの間にさらに音を浮かび上がらせるなど、彼ならではの「奥行きの戦略」を存分に看て取ることができる。動きを抑え息の深い3曲目、さらに平坦さを志向し、深みを覗き込む視線を水面に移ろう波紋が掠める4曲目、親密な思い出の淵にゆっくりと沈み込みながら、物音を遠く見詰める5曲目と後半が素晴らしい。


アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの −「タダマス11」レヴュー  Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble − Review for "TADA-MASU 11"

  1. 2013/10/31(木) 21:44:28|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
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 他の耳が切り開いた道筋をたどる。同じ道を歩みながら別の景色を見ている。だがそれでも、「ああ、彼らはこれを見ていたのか。この光景に打たれ揺すぶられたのか」と思わずにはいられない瞬間がある。耳と耳が切り結び、視線がぴたりと寸分の狂いなく重なり合う一瞬。その場で語られた言葉が身体へと入り込み、身体の奥底から湧き上がる言葉と互いに映し合う。思考が巡り、イメージが羽ばたく。その時、「聴取」は知らず知らずのうちに、ひとりではたどり着けぬほど沖合までさまよい出ている。振り返ると浜辺が遠く揺らぎ、足下の水がしんと冷たくなって、不安で心臓が締め付けられる。

 益子博之と多田雅範がホストを務める「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も11回目を迎えた。生の演奏ではなく音盤のプレイバックだが、そこにホストの2人やゲスト、あるいは聴衆の生な反応や言葉が絡むことにより、私にとって耳を開かされることの多い貴重な「ライヴ」の場である。特に今回はプログラムの途中で道筋を見失いかけながら、最後には彼らが見て打たれたであろう光景を、いま私も目撃しているという「一致の感覚」に不意に襲われ、驚かされることとなった。
 以下にレヴューを試みるが、例によって自分が触発された部分を中心にしているため、プログラム全体のバランスのとれた紹介とはなり得ないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては下記URLを参照。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 また、ホストのひとりである多田によるリポートもぜひ参照していただきたい。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131027
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131030


 「タダマス」に先立ってオーディオ・イヴェントが行われたため、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記のこの日の装置は、いつものヴィンテージ・オーディオではなかった。写真の通り、ブルトンの詩句「窓で二つに切られた男」を連想させるスピーカーは、共振をダンプされた厚いガラス板に、フルレンジのユニットを平面バッフルの要領でマウントしたもの。音像型で暖かみに溢れ音楽的表現力に優れたいつものアルテックに対し、こちらは極端に音場型で空間表現に秀でており、誤解を恐れずに言えば、その高い透明度/解像度により音楽から「音」を解き放って聴かせる傾向がある。

中央の四角錐ではなく、壁状
のガラス板にマウントされて
いるのが当日鳴らされたSP


 最初に掛けられたAya Nishinoの作曲による女性ヴォイスの多重録音作品は、こうした装置の再生特性に見事にはまっていた。身体の重さをまったく感じさせない声の、うっすらとした雲のような広がりは、互いに重なり合いながら滲むことも溶け合うこともなく、能う限り触覚から遠ざかっていく。益子はこの作品が「記憶」を刺激することを指摘し、BjorkやCocteau Twins、菅野よう子らの名前を挙げていたが、私が反射的に思い浮かべたのもBjork『Vespertine』と「反例」としてのEnyaである。Aya Nishinoの生成させる響きは、何重にも音を重ねながら決してEnya的なふうわりと煙る厚みへと至ることなく、常に必要な隙間をはらみ、透明な見通しを失わない。むしろBjork『Vespertine』に似て、敷き重ねられるほどにますます薄層化し、ぼろぼろの穴だらけであることを際立たせていく空間の手触りがそこにはある。
 以降、「記憶」をひとつのキーワードとして、トラックが連ねられていく。多田雅範による「ECMは演奏者の記憶を引き出してきたレーベルだ」という名言を差しはさみながらも、その流れが私にはどうもしっくりとこなかった。

 たとえば以前にこのブログで採りあげた益子によるクロス・レヴューの対象作品Derrick Hodge『Live Today』の明らかにMiles Davis『In A Silent Way』を下敷きにした、質量をいっさい感じさせない構築の、サウンドの出入りの完璧さに驚きながらも、それは果たして「記憶」の関数なのだろうかと訝っていた。このサウンドの出入りの完璧さは、明らかにDJたちのスクラッチによる構築の探求を受け継いでいる。しかし、彼らがその名人芸でもってつくりあげた、あえてデコボコと接合面を際立たせたつぎはぎだらけの、編集の産物であることを明らかにした挑発的な構築は、ここでジャズならではの技量を駆使した、極端に隙のない、完璧に磨き上げられたリアルタイムの構築に取って代わられている。もちろん事後的な編集も施されているのだろうが、それでもすっすっとまったく遅れも摩擦もストレスも感じさせずに空間に入り込み隙間へとはまり込む、絶妙なタイミングとイントネーション/アーティキュレーションは、編集だけでは生み出せまい。本作品を語るのに、益子や多田が一見似ても似つかない菊地雅章によるアンサンブル・インプロヴィゼーションを持ち出すのはよくわかる気がする。菊地が一音一音の不確定性から演奏を組み上げていくにあたり、アンサンブル・インプロヴィゼーションを全面適用しているのに対し、Derrick Hodgeたちはフレーズやリズムはプリセットしておいて、出入りのタイミングを精密に測り、空けられた隙間に正確にはまり込むピースをつくりあげるためにイントネーション/アーティキュレーションを研ぎ澄ますことにだけ、アンサンブル・インプロヴィゼーションを局所限定的に適用しているのだ。

 だが、後半になって、いきなり転機が訪れる。Mary Halvorson Septet『Illusionary Sea』におけるMary Halvorsonのギターの足がもつれて階段を踏み外していく身振りに、コンポジションとしてはジャズ・ロック風のポップさを香らせながら、やはり複雑にもつれていく四管の絡みや演奏に推進力を供給し続けるドラムのズレをはらんだ煽りに、レイヤー的な構築性が垣間見えた気がしたのだ。ここで「レイヤー的」とは、精密な敷き重ねよりも、むしろ各レイヤーを切り離し、勝手気ままに走らせてしまうことを指す。それらが必然的にズレをはらむことは、当然あらかじめ計算済みだ。本来の意味でのアンサンブルはいったん破綻し解体されるが、そこで生じるズレに対し、改めてジャズ・プレイヤーならではのリアルタイムの演奏構築感覚が発動することにより、アンサンブルはより拡張された次元で再構築される。このことはその直前に掛けられたMark Dresser Quintet『Nourishments』との対比でより明らかとなる。Mark Dresserたちの演奏は、枠組みとなるコンポジション/アンサンブルを言わば折り畳んで複雑化することを目指しており、枠内の分割は施されるものの枠そのものは決して揺らぐことがないのだ。Mary Halvorsonたちのやり方は、例えばRadioheadがエレクトロニカ的な視点を採り入れ、アンサンブルによるグルーヴを解体し、深みへと踏み外していったのと共通性を有しているように思う。

 一度、そうした気づきを手に入れると、続く3枚の描く軌跡が連続した線として浮かび上がってくるように思われた。Dave King Trucking Companyの急にギアを切り替えたようなテンポの変化等、まるでPCによるポスト・プロダクションを最初から生アンサンブルでトレースした感覚の演奏。The Claudia Quintet『September』のヴァイブとアコーディオンのミニマルなリフを基軸とした構築に、各レイヤーの加速/減速や、持続音を狭い音域に押し込めて倍音領域に至るまでサウンドを衝突させモジュレーションを起こさせる等、エレクトロニカ的な操作を施す仕方。そしてMatt Mitchel『Fiction』でピアノとドラムのミニマルな繰り返しが、右手と左手のアンサンブルをレイヤーの重ね合わせと見立て、複数の速度と加速度感を操り、時に疾走による逸脱へと至りつつズレを堆積させていく様。あるいはピアノとヴァイブの明滅の星座的な重ね合わせにおいて‥‥。

 後半4作品の畳み掛けるような怒濤の押しは、それらを聴き終えた地点から振り返って見れば、Aya Nishinoによる声の雲や、Derrick Hodgeたちによるサウンドのすれ違いの完璧なマネジメントとまっすぐにつながっているように感じられた。

 今回クローズ・アップされたレイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーションによって達成すること、これによりアンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。そう考える時、対極的なモデルとして、音の顕微鏡的なまでにミクロな局面へと沈潜し、コーダを延々と引き延ばし、時間感覚を拡大して、もはやコントロール不能な確率的揺らぎへと触覚的感覚を研ぎ澄ましていく仕方が挙げられるだろう。

 先走った物言いになるが、益子や多田がこの間ずっと追いかけているのは、新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体の姿ではないかという気がする。ビバップはモダン・ジャズ共同体のとびきりのアスリートたちが、極限的な演奏の加速と複雑化に向けて、命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲームだった。晩年のコルトレーンが繰り広げたのも、精神共同体を背景とした、極限的な加速と飛躍と充満と溶解に向けたゲームだったと言えるだろう。だから清水俊彦が指摘したように、コルトレーンの死は、熱病に浮かされたフリー・ジャズ共同体に冷水を浴びせかけることとなった。失われたルーツとしてのフォークロアと宗教性を常に探し求め、霊的共同体を志向したアルバート・アイラーの破滅は、そうしたゲームがもはや成立し得なくなったことを示しているだろう。崩壊した即興共同体から析出した個人によるパースナルな演奏語法の探求を、これまでのように象徴的な次元ではなく、まさに明示的かつ即物的なゲームの平面で編集しようとしたジョン・ゾーンによる「ゲーム・ピース」やローレンス・"ブッチ"・モリスが継続した「コンダクション」の試みは、こうした系譜の最後に位置している。

 NYダウンタウンで展開されつつある新たなゲームは、アンサンブルの解体/再構築の果てにどこに向かおうとしているのか。それはポップへの接近/達成を当面の目標としているように見えながら、おそらくはそれを突き抜けていくだろう。これまでのように仲間内で賭け金をレイズし続けることが、いつしか限界を超えて生命を蝕み、なし崩しの自死を呼び込んでしまうのだろうか。EC諸国のシーンで見られる音響的インプロヴィゼーション(それはデレク・ベイリー的な内省の徹底と、ジャン・デュビュッフェからミッシェル・ドネダに至る野生と外部による侵食の相関の二つの起源を宿しているように思う)との部分的共振は、今後どのように作用していくのだろうか。

 以前にも述べたように、そこに生み出される新たな音楽/演奏のかたちは、たとえどんなにこれまでの「ジャズ」と似ていなくとも、「ジャズ・ミュージシャン」にしか生み出し得ない演奏であることによって、それこそが新たなジャズの姿にほかならない。それを見出すには複数の耳の間の化学作用が必要なのだ。


  

 

耳を開き続けること  To Keep Your Ears Open

  1. 2013/10/29(火) 22:36:01|
  2. 批評/レヴューについて|
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 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com

 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html

 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。

 インターネットの発達によってディスコグラフィをたどるのは容易になったし、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの人脈もすぐにたどれる。だが、「響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋」は耳によって切り開かれるよりない。「セレクト・ショップ」的な性格を有するpastel recordsが、「オシャレ」とか「流行の先端」とか「サブカル」とかに自閉してしまわなかったのは、寺田がこうした耳の冒険を欠かすことがなかったからにほかなるまい。



 インターネットの発展により世界にはアクセス可能な情報が溢れており、もはや個人が選択できる範囲をはるかに超えている。それを個人に代わってやってくれるのが、amazon等でおなじみの「パーソナライゼーション」の仕組みであり、これまでの購入履歴からおすすめの本を紹介してくれる。このサービスに対し、自分の内面に知らず知らずのうちに深く入り込まれてしまうことに違和感を表明する者もいたが、他の大多数には便利な顧客サービスと受け止められた。だが、実際には「パーソナライゼーション」は、「購入履歴に基づいておすすめの商品を案内する」といったわかりやすく限定された範囲を超えて、どのリンクをクリックしたかをカウントし、その傾向を検索エンジンの表示順位に反映することにまで及んでいる。インターネット検索が世界を映し出す「鏡」だとすれば、その「鏡」は知らぬうちに歪まされ、あるいは切り取られて、偏った世界を映し出すように変えられている。
 様々な事故や事件を通じて社会不安が高まり、政府や企業、あるいはマスコミは情報を操作し、我々を欺いているとの「陰謀史観」が広まっている。そこでは善悪二元論的な単純化された構図にみんなが飛びつく。いや、というより、そうした単純な構図に世界を押し込めようとする時に、「陰謀」のようなそれを可能とする「物語」が必要とされるのだ。実際に「陰謀」が存在するか否かはここでは問題しない。ただ私が指摘しておきたいのは、先に見たように「パーソナライゼーション」によって強大な権力の意図に基づかずとも、それよりもはるかに匿名的かつ個別的な洗練された仕方で、情報は操作され得るということだ。ここで情報操作が個々人の「消費」(情報消費を含む)動向に基づいて為されていることに注意しよう。「パーソナライゼーション」は「あなたに代わって」選択・提案しているのであって、「あなたに向かって」ではない。私たちは自分の鏡像を果てしなく増殖させる「鏡の檻」に閉じ込められてしまうことになる。
 このシステムが巧妙であるのは、私たちがクリックにより選択行動を起こすたびに、システムがそれを学習してシミュレーションの精度を高めていくことにある。私たちは情報を操作されていることも、他者と共有すべき事実を侵食されていることも気づかぬまま、一人ひとり切り離され、「お気に入り」や「いいね!」だけに埋め尽くされたオーダー・メイドの繭世界に閉じこもる(自らを閉じ込める)ことになるのだ。
 そこには葛藤も軋轢も対立も混乱もない。発見もなければ衝撃もない。すべては「既視感」という安心毛布にゆったりとくるまれ、「飽き」を防止するためほんのわずかな差異が、新たな流行や個人の趣味がつくりだすオプションとして用意される。

 自分が信頼していたCDショップの閉店を、デジタル・サウンド・ファイルとアナログ・ヴァイナルの間で、情報的機能性もオブジェ/アート物件としての魅力にも欠けるCDというメディアの性格に結びつけて了解してしまうような(CDの終焉?)社会学的/マーケティング的見方を、私は到底することができない。
 むしろそこで生じているのは聴き手の自閉/自己完結にほかならない。それは未知のものに対する好奇心の減退と言い換えてもいいし、「雑誌」的な場の機能不全という事態でもある。かねてからインターネットについて言われていた「隣接性」の喪失、すなわち検索がそのものずばりを指し示すことにより、それと隣接する異なるもの、たとえば雑誌でお目当ての記事の隣のページに載っている別の記事にアクセスする機会がぐっと減ってしまうという変化は、先に見たパーソナライゼーションによりさらに深刻な症状を来す。

 MoveOn.orgのイーライ・パリサーは『閉じこもるインターネット』(早川書房)で、「フィルターバブル」(パーソナライズのためのフィルターに閉ざされ包み込まれてしまうこと)の危うさについて、次のように述べている(ちなみに私は例によって図書館で借りて読んだので、帯に東浩紀と津田大介が書いているとは今の今まで知りませんでした)。
 「フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。そう作られていると言ってもいい。我々がとらえている世界に合った情報は簡単に吸収できるし楽しい。一方、新しい考え方をしなければならなかったり過程を見直さなければならなかったりする情報は、処理が苦痛だし難しい。(中略)だから、クリック信号を基準に情報環境を構築すると、すでに持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。」(p.109)
 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築することだ。スポーツのトリビアや政治関連のちょっとしたことなど、自分のスキーマが根底から揺さぶられることはないが、ただ、新しいものだと感じる情報だけで環境を構築することだ。パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の回答を探すには便利だが、視野にはいってもいない疑問や課題を提示してはくれない。(中略)フィルタリングがかんぜんにおこなわれた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。このほかにもうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的パランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。」(p.112〜113)

 インターネット上の情報がコピペの嵐であって、特に音楽の場合、制作者/販売者側の情報ばかりがソースとなりやすいことを思えば、あるいはニコニコ動画の時報機能に「同期性」を感じる心性(あるいは「同期性」を読み込むような思考)が蔓延していることを思えば、事態はより深刻と言えるだろう。もちろんコトはインターネットだけの問題ではない。道路や鉄道駅、電車の車内といった公共空間で、イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマホやゲーム機に釘付けにして外界を遮断している者たちは、まさにパブリック・スペースを「パーソナライズ」しているのにほかならないのだから。



 pastel records寺田さん、まずはお疲れさまでした(と言ってもお仕事はまだまだ続くわけですが)。でも、少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。



画像はすべてpastel recordsのページから転載。ヴィジュアル・デザインもとても優れたお店でした。

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