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別の空間へ − リアストゥライニ ライヴ・レヴュー  Into Another Space − Live Review for LYOSTRAINI

  1. 2013/10/26(土) 18:10:48|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 例によってひとしきり道に迷ってからたどり着いた会場は、すでに暗くなった街角にひっそりと佇んでいた。そとから全体を仰ぎ見る間もなく入口の灯りに吸い込まれ、受付を済ませて演奏の行われるスペースに立ち入って、柔らかくあたたかな証明に浮かび上がる空間の変わりように驚かされる。まるで別の空間がワープして、ふっと現れたようだ。そこは使い込まれた木の長椅子が並ぶ教会の礼拝堂で、正面の壁のアーチ状の窪みに十字架が掲げられている。裕に3階分はある高いヴォールト天井、木と漆喰の壁、高い位置に設けられたステンドグラスも外が暗いため色彩を放つことなく身を潜めている。
 80年前の建築当時からそのままで、現在も礼拝時に使われているという長椅子は固くがたがたで、そこに座っていると身体が空間に次第にはまりこんでいく感じがする。離れたところの話し声が妙に近く感じられるのは長い残響のせいだろう。平面としてはさして広くない会場は、結局、ほぼ満席となった。

 この日の演奏について語るべきことはそう多くない。先に結論を言えば、この日の演奏への称賛も多く聞こえてくるなかで(※)、私は見事にすれ違ってしまったのだ。あるいは1週刊前に「1982」のライヴを聴いた記憶を生々しく留めたままこの空間に入り込んで、ああ、ここで彼らを聴けたならどんなにいいだろうと、あらぬ夢想を膨らませてしまったせいかもしれない。聴くべき何かを見出せないうちに、この日の演奏は終わってしまった。
 大きな期待とともに演奏が始まった瞬間、速いパッセージを繰り出すコントラバスの、パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色に驚かされた。立ち騒ぐ疑問符は5秒で失望に、10秒で落胆へと変わり、その後、一度も浮かび上がれないまま演奏は終わりを迎えることになる(アンコールを含め)。その間、私は一度も拍手することができなかった。
※たとえば次を参照
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131023
 http://homepage3.nifty.com/TAKEDA/live2013/20131022-1.html

 私にとってほとんど唯一の聴きどころは、Lena Willemark自身の説明によれば「牛やヤギを呼ぶ声」だという、あの空気を切り裂き、風を渡り、まっすぐに空間を射通して、聴き手を縛り上げる声を彼女が放った30秒間だった。その時、彼女は口元をマイクロフォンから外していた。ならば、もともとマイクロフォンは無くてよかった。歌の旋律を舞いながら声を閃かせる仕方に、凡百の歌い手とは異なる際立った技量を予感させながら、彼女の声は何重にも仕切られた向こう側にあるようで、むしろ生来の声の力をマイクロフォンに合わせてセーヴすることに力を注いでいるようにすら感じられた。そこにCD作品で聴き親しんだ、大地からあるいは古代から湧き上がる生々しい力を、いまここに解き放つ鮮やかな直接性はなく、言い訳を重ねるような持って回ったもどかしさを覚えることとなった。もしかするとそれは、声が踏みしめ、あるいは蹴立てて飛翔すべきコントラバスの地平が、先に述べたような「液状化」を来して成立していなかったことによるのかもしれない。

 そうした影響は箏を奏する中川果林にも及んでいたかもしれない。トリオにおいて旋律を歌いながらリズムを彫り刻み、さらには荒々しいグリッサンドや弦へのアタックにより、触覚的な要素を一手に引き受けていた彼女の負担はかなり大きかったと思う。それゆえ肩に力が入ったのか、もっとすっと筆を入れてすらりとまっすぐな線を描くべきところを、徒に流れを滞らせ、軌跡をうねらせていたように思う。それは旋律の歌わせ方に関してはルバートの多用、フレーズの提示についてはヴィブラートの不適切な適用として現れて洗われていた。これらの選択、というより箏の慣用的な語法の無頓着な名残は、演奏を重くして軽やかさを奪い、インタープレイにおける反応を遅らせる。それは箏がエキゾティックなスパイスの役割を超えて、インプロヴィゼーションの領野に身を投じていく際に再検討されるべき重要なポイントだと思う。沢井一恵は彼女のインプロヴィゼーション初体験となったフレッド・フリスとの無惨な共演(私はその「9×9」と題されたコンサートの聴衆だった)を踏みしめて、その後、鮮やかに羽ばたいた。
 さらに前述のグリッサンドをはじめとするノイジーで触覚的なサウンドを奏でる部分では、ドライヴ感を重視するあまり、音が垂直に立ち上がらず斜めによれてしまっている。ちょうどフィギア・スケートのジャンプで回転軸が傾いている感じか。だがこれも結局、沢井一恵の演奏と無意識に比較してしまっているわけで、あまりにも基準が厳し過ぎるかもしれない。先に述べたように彼女は多くの役割を献身的にこなし、見事な力演を見せたのだから。

 コントラバスのAnders Jorminについては前述の「パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色」への違和感に尽きる。運指の素早さは流石だが、出てくる音がこれでは評価のしようがない。アルコ音も上滑りで実体感に乏しく、どこを採ってもアーティキュレーションが不明瞭なものだから、アンサンブルは合わない入れ歯のようにフガフガしたものに成り果ててしまう。Bobo Stensonの共同作業者なのだから、これが本領とも思えないが、コントラバスのリアルなボディ感を消去して弦の振動だけをイコライザーやリヴァーブで加工したような「エアー・ベース」的音色設定は、PAエンジニアの責任ではあるまい。彼自身が今回の使用楽器(ライヴ・ツアー用のレンタルかもしれない)のサウンド戦略を確立できていないのではないか。今回の演奏空間の豊かなアコースティックを思えば、輪郭が固めのゴリッとしたピチカートや、切り裂くようなアルコ、深々とした胴鳴りや倍音領域へのアタック等が非常に効果的なものとなったことが明らかであるだけに、返す返すも残念でならない。


2013年10月22日(火) 世田谷区 富士見ヶ丘教会
LYOSTRAINI (リアストゥライニ)
 Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
 Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
 Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏




ああ、まだ虫が鳴いていますね 外は雨が降っているのに  Ah, Crickets Are Still Chirping, Though It's Raining Outside

  1. 2013/10/24(木) 23:40:59|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 津田貴司から案内されたライヴの2日目は、Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント。プログラムは出演順に三富栄治によるエレクトリック・ギターのソロ、津田貴司と笹島裕樹のデュオStilllife、あおやままさしによるエレクトリック・ギターのソロ、大人数によるDaisuke Miyatani Ensembleの演奏の4部構成。

1.デュオ
 「ああ、まだ虫が鳴いていますね。雨が降っているのに‥」演奏を始める矢先、津田がぼそりとつぶやく。
 デュオ演奏の準備として、スペースの中央が空けられ、そこに2枚のラグが敷かれ、音具というよりも様々な魅力的なオブジェが、まるでアンティーク・ショップの店先のように並べられる。素焼きの管、小石、陶器のかけら、水の入ったガラス壜、巻貝の貝殻(やはり水が入っている)、水とガラスの粒を入れたフラスコ、試験管、木の枝、藁の束、小型のチター‥‥。二人は靴を脱ぎ向かい合って座り、キャンドルを灯し、照明がすべて落とされ、空調も停められる。暗がりの中にぼうっと陽炎のように虫の音と雨音がうっすら浮かび上がる。
 腿に打ち付けた音叉の根元を木の床に押し当てマッチの閃きのような響きを立てる。素焼きの管を三本、掌で転がし感触を楽しむ。藁の束をまさぐり、感触を空間に投影する。竹の筒の切り口に息を当てる。吊るされて揺れる木の枝の触れ合い。竹の筒に吹き込まれる細い息の流れが、もつれながら引き伸ばされ紡がれていく。
 暗がりの中で耳が目覚めていく感覚。いつの間にか虫の声はさらに大きくはっきりと聞こえるようになっている。オブジェの奏でるか細い響きは、離れたあちらにありながら耳元で聞こえ、やがて耳の視界の大半を占めるに至り、くっきりと手触りを伝える。耳がそば立てられ対象に集中すればするほど、閉じていくはずの感覚は逆に開かれ、周囲の空間がますますくっきりと浮かび上がり、虫の音や足音、床の軋みが大きく聞こえるようになる。だが、それらは「対象」をマスクすることはない。手前から向こう側までピントの合ったディープ・フォーカスの空間が現れ、さらに視界は透明度を増していく。
 小石を転がし、石を打合せて口の中に響かせる。陶器のかけらをこすり合わせ、水とガラスの粒の入ったフラスコをゆっくりと振り混ぜる。チター弦の微かな震えがガラス壜に閉じ込められた水の揺らぎと重ね合わされる。
 アクションの連鎖(モンタージュ)ではなく、何物かの表面に触れている指先への集中と、それを距離を置いて冷ややかに眺める耳の眼差しの拮抗。意識が思い浮かべたものを指先でつくりだすのではなく、両者を切断し、触覚と聴覚をそれぞれ別の仕方でオブジェに横断させること。そこに新たな発見/遭遇が生じる。「沈黙」という白紙のキャンヴァスに物音を配置していく観念的な抽象性はここにはない。オブジェに焦点を絞り込み集中する感覚は感度と解像度をいや増し、空間も時間もすでに染みや汚れ、折り目や破れだらけであることにとっくに気がついている。
 この日の30分程度の演奏は、彼らにとってほんのイントロダクションに過ぎまい。聞けば夜中に出かけて山道をさまよい、谷の奥で録音した音源を作品化すべく現在作業中であるという(この日、「先行シングル」だというCD−Rが販売されていた)。アフターアワーズに暗い山道は危なくないかと訊くと、視覚が閉ざされる分、他の身体感覚が鋭くなるので、意外とこわくないとのこと(むしろシカやイノシシに出くわしてしまうのがこわいらしい)。そうした道行きに同道して、夜更けの谷間が白々と明けてくるまで彼らの演奏に包まれてみたいものだ(そうだな5時間くらい)。夜の森はしんと静まり返るどころか耳を聾する喧噪に満ちている。彼らの演奏に耳で触れ肌を傾けることにより、オブジェへの聴覚と触覚の集中を通じて、風の唸りに、森のざわめきに、水のせせらぎに耳を澄ますこと。


2.ソロ
 三富栄治もまた今年9月に新譜『ひかりのたび』をリリースしたばかり。そちらはフルートやチェロを配したジェントルな肌触りの室内楽だが、この日のソロでも同じく、いやそれ以上に陽だまり的な温もりを感じさせた。抱えたギターを赤子を寝かしつけるようにゆっくりと揺らし、フレーズを音色を同様にくゆらせる。香るようにたちのぼり、そのまま空間に溶けていく音楽。とりとめのない夢想は、一切の言い訳なしにそのまま提示されることにより聴き手を武装解除し、ゆったりと手足を伸ばして響きに浸ることを可能にしている。ただし眼の前で演奏されるべき音楽、あるいは他人といっしょに聴きたい音楽かといえば、私には違うように感じられた。彼はますますギターの上に身を屈め(ほとんど折り重なるように)、赤子のように言葉を解しないギターに密やかに語りかける。フィンガー・ピッキングの柔らかな指さばきは、決して音を周囲に飛び散らせることがない。浮かんでは消えながら「音もなく」通り過ぎていく情景。くっきりとした輪郭/陰影を持たず、夢うつつの間接的な距離を生きる音色は、ギター・アンプから漏れ広がるバックグラウンド・ノイズをスクリーン/フレームとして、8mm映画のようにありえない懐かしさとともにぼうっと浮かび上がる。音に沈み込むうちに世界の手触りはいよいよ遠ざかり、物語など気にならなくなる。時折告げられる曲名は、「暖かい夜」、「天国の月」と両極を結びながら対比を際立たせず、緩い勾配で結ぶともなく結んでいる彼の音世界をさりげなく言い当てている。
 同じくフィンガー・ピッキングによりながら、あおやままさしのギターは三富と対照的なあり方を示す。素早い指さばきが繰り出す音は砕け散るまぶしさをはらんでおり、空間になじむことなく響き渡る。高速アルペジオの繰り返しはモアレ効果の印象を与えながら、実際にはもつれることなく、重層化もせず、広がりやにじみも持たない。ただそこできらきらと輝く音の宝物。一言も発さずにただ黙々と演奏を続け、演奏中に何度も曲間でチューニングを改める偏執狂的な身振りは、響きの指紋ひとつない輝きと通底している。きれいな色ガラスのかけらや、鱗粉が金属質の光沢を帯びたモルフォ蝶の標本、曇り一つなく磨かれたコインを収集する潔癖性の少年。熱を持たない響きの蛍光灯的な輝き。だが私には運指が減速し、音に間が空いて、その消え様を明らかにする場面の方が、よりリリカルなように思われた。

3.アンサンブル
 再び客席の模様替え。中央にラグが敷き詰められ、周囲をギター奏者の座る椅子がぐるりと取り囲む。聴衆は13台のギターに包囲される。リーダーのDaisuke Miyataniがそのうちの一人に「コードはG。一音弾いたら3秒は間を空けてもらって‥」とルールを説明している。演奏が始まり、周囲でぽつりぽつりとギターが鳴り響いていく。音源の位置を移ろわせながら、軒先から滴る雫が庭先の石を打つように五月雨式に音がこぼれていく。ギターごとの音色の、そして発音の特性が際立つため、中世音楽の技法「ホケット」のように、振り撒かれた音がメロディを紡いでいく感覚はない。Stilllifeの演奏が深くたたえていた耳を目覚めさせる力もない。本来は多様にして豊かであるはずの音と音の出会いは、「アンビエント」な響きの広がりの安逸さに身を委ね、明度や彩度を引き下げ、自らを単色に染め上げて、聴き手の感覚を眠り込ませようとする。だが、小賢しい「表現」を離れ、自らの贅肉を削ぎ落とし、あるいは移ろい漂わせて、「無心に」(たとえ一人ひとりの演奏者がそうした無我の境地に至っていなくとも、コンポジションによる限定/抑制の仕掛けが「私」を濾過し希釈化する)「雨垂れ」と化す様に身を委ねるのが心地よいのは確かだ。虚ろな希薄化に向かって引き延ばされていく永遠のコーダ。
 だが愚か者はどこにでもいる。私のほど近くに位置した奏者は、どうやらじっとしていられない「お子ちゃま」のようで、演奏の終盤には自分を抑えきれなくなり、盛んに弦を擦ったり、ボディを撫でたりと悪戯を繰り返している。すぐそばのDaisuke Miyataniの様子を何とはなしに伺い、微かな音での逸脱/挑発にとどめているあたりが、何ともはや情けない。タイマー代わりに仕掛けられたと思しきカセット・テープレコーダーがカチャンと停止し、演奏者たちが自信なさげに顔を見合わせ、さらに疎らになった音が床の軋みやため息に呑み込まれていくエンディングを経て、お礼の挨拶をしているDaisuke Miyataniの傍らで、何を思ったのか彼はギターを弾き始める。BGMのつもりなのだろうか。一部の知り合いが笑みを浮かべ、仲間内の弛緩し澱んだ腐臭がたちこめ始める。彼の「演奏」は、自分の抱えているのが他ならぬギターであり、それを自分は多少なりとも弾けることを懸命にアピールしているようにしか見えなかった。そんなものは友人の誕生パーティの余興でやってくれ。いわゆる「空気を読む」とは、仲間内でのだらけた馴れ合いに身を染める貧しい体験でしかなく、即興的感性や本来の意味でのアンビエントな感覚とはまったく無縁であることを、いまさら実演で紹介する必要などないのだ。

2013年10月19日(土) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
三富栄治、Stilllife、あおやままさし、Daisuke Miyatani Ensemble

   

  

1+2+3 / 1982 Live Review for Gallery Septima 16/10/2013

  1. 2013/10/20(日) 23:42:07|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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  4. コメント:1
 ほとんど真四角な白い部屋。古い木の床にあれこれ種類がバラバラな椅子が並べられている。無垢の木の丸いテーブル。壁際に置かれた白いソファ。反対側の壁際には木のベンチ。ぽっかりと開いた大きな窓と壁に作り付けの木製の棚がギャラリーらしいだろうか。
 音具とエフェクターが床に散らばり、左手奥に斜めに置かれたアップライト・ピアノ(上半分は手前の板が外されて弦が剥き出しにされている)の手前のテーブルにも、ガラクタ・オモチャな音具が山積みになっている。右手奥には簡素なドラム・セット。正面奥のテーブルにはヴァイオリンが2台。

1.ソロ
プログラムの幕開けは津田貴司のエレクトリック・ギターによるソロ。高域の張り詰めた音がディレイにより引き延ばされ、左右にパンで振られる。木の床の軋みと寄り添う「水琴窟」ギター。そうしたきらめきの波紋が広がる向こうにハーモニクスのうっすらとした影が揺らぎ、サンプル&ホールドされてさらに音が重ね描きされていく。口を尖らせた舌先でくるっと丸まってしまう響き。床の軋みや足音と親しく混じり合うのは、津田の耳の志向ゆえだろうか。
 素早い遷移のうちにある高音の繰り返し、ゆっくりと背筋を伸ばしていく低音、弦のさわり、分厚いドローンとか細いアルペジオ‥‥寝た子を起こすことのないよう細心の注意を払って取り扱われるギターから引き出される様々な響きは、それぞれに固有の速度と時間をはらんでいる。それは一方で「グリッチ以降」のエレクトロニカ美学の帰結だが、むしろ津田にとってはサウンドスケープに耳を傾け、ひとつの時間/空間のうちにあれこれの響きがマッピングされているわけではないことを、発見したのが大きいのではないだろうか。

2.デュオ
 minamoは結成当時からのコアである安永哲郎と杉本桂一によるデュオ編成で、音具を中心とするインプロヴィゼーションを繰り広げた。杉本がギターを、あるいは安永がピアノを弾いたり、二人がハーモニウム(?)に手を伸ばしたりする場面もあったが、それらはすべてゆったりと靄がたなびくようなエレクトロ・アコースティックなサウンドの一部を構成するに過ぎない。
 電子ノイズのひそやかなつぶやきがギター弦の弓弾きの倍音に水没し、金属質の打撃音の長い尾の揺らめきが遠い国からやってくる短波放送にも似た高周波の混信や変調に溶けていく傍らでは、アコースティック・ギターの爪弾きもあらかじめ散布された電磁波に逃れ難く汚染されており、すべての響きは空間を包み込む微かな波動の網の目にかかり、それを震わせてしまう。彼らはそうしてかたちづくられたサウンドの希薄でこわれやすいプラトーを、リアルタイムの音の加工を含め、崩してしまうことなくゆるゆるとくゆらせていく技術に長けている。

3.トリオ
 彼ら「1982」は、はるばるノルウェーからやってきたヴァイオリンとピアノとドラムのトリオ。東京でのライヴはここだけだという。すべてのマイクやアンプは取り払われ、演奏はすべてアコースティックで行われた。
 まるで音を高く放り上げ、あるいは遠くへと飛ばすように、一音を一弓で弾き切っていくヴァイオリン。冷ややかな音色が弧を描き、指で弦をミュートしたピアノのトレモロやドラムの打面や縁を擦って生み出される音の切れ端等のマイクロサウンドを見下ろしている。やがてヴァイオリンが掻き鳴らすようなピチカートに転じ、ピアノのミュートされたトレモロやブラシに擦られるドラムと、繊細なさざめきの重層をつくりだしていく。
 三人の真ん中に立つヴァイオリンは、演奏によって弓を取り替えて臨む。冒頭の冷気がたちのぼる鋭敏さは円弧型の弓によるもので、より希薄で透明な音色が生み出される。これに対し通常の弓はより輪郭が明確で中身が詰まった厚みのあるサウンドを提供する。
 ドラムが脚で鈴を鳴らし続け、ピアノがノイジーに掻き回されるざわめきの中で、なめらかに滑りゆく弓の推移がつくりだす音が、列車の車窓から眺める電信柱のように通り過ぎる。大きな空間を占有するヴァイオリンに対し、ピアノとドラムは緊密な連携で対応する。ピアノの左手が弾き出すむしろベース・ソロ的なつまづくリズムに、ドラムがアタックの強弱で拮抗し、この緊密なリズムのやりとりにヴァイオリンは胸に迫る叙情を覆いかぶせ、ピアノがミュートせずにトレモロを解き放ったことをきっかけとしたフリー風の盛り上がりには、極端に落差をつけた沈鬱な響きで均衡をかたちづくる。

 彼らはまた10歳ずつ年齢が違うのではないかと思われる「齢の差トリオ」でもあるのだが(vn > pf > dr)、演奏が進むにつれ、最初のうちに見せたトリオ内の役割分担を含め、そうした階層性を侵食し、自在に組み替えていく動きが見られた。
 ピアノの弦がガムテープでミュートされ、荒々しいグリッサンドが繰り出されるかと思えば、テープを剥がす際のノイズが際立たせられ、ドラムはと言えば打面の張りを緩め、輪郭の歪んだ不定形の響きを床に這わせ、ハイハットの下の皿に様々な音具(独楽の類?)を放り込んで音を立てる。アルバート・アイラーを思わせるカリプソ風のメロディをピアノが弾き散らかすフリーな盛り上がりを「苦々しげに」眺めていたヴァイオリンが割って入れば、懸命に美音を奏でる彼をよそに、ドラムは席を立ってピアノのところに密談に行き、ピアノの位置をずらし、少し向きを変えたかと思うと、天板の上で、靴下をはめた手をパペット代わりに陳腐なショウを繰り広げ、"Money,Money"とクッキー・モンスターみたいにパクパクする口の中に、ピアニストが小銭を押し込む。ピアニストがピアニカで「ハーレクイン・ロマンス」的な甘ったるいメロディを奏でれば、お高く留まっていたかに見えたヴァイオリンも辻楽士的な泣きの旋律で加わり、靴下パベットの熱き抱擁を引き立てる。いささかダダ的なヒューモアの破壊性が、奇妙に歪み始めたサウンドの化学変化を推し進め、「ノリ」を加速し、北欧的な昏い混沌へと突き落としていく(ここで私はInternatinal HarvesterやTrad Gras Och Stenar等の土臭くサイケデリックなスープを思い浮かべている。これらはスウェーデン産だけど)。ピアノ弦から剥がしたガムテープをつるつるの光頭に巻き付けるといったハン・ベニンク的なパフォーマンスもその一部に過ぎず(だからまったく「浮いて」しまうことなく演奏の血肉化される)、規制の窮屈な枠組みの底を荒々しく踏み抜いて、すべてをつなげてしまうことが目指される。足踏みしながらのダンス・チューンの演奏も、ミニ・ハーモニカのロング・トーンへの音響的な重ね描きも、ここではもっともらしいコンセプトの説明や編集意図を超えて、分ち難くひとつになっている。

 希薄さと透明さを突き詰めてどこまでも高く昇りつめていく響き。ライヴを予約した時点で思い浮かべていたのは、そうした冷ややかさだったが、そうした予想/期待は心地よく裏切られた。彼らの演奏は天井の高さがなく、それほど広くもない会場のルーム・アコースティックも踏まえた対応であったろう。確かな技量に支えられた自由闊達な演奏は、とびきり豊かな時間をもたらしてくれた。会場で買い求めた彼らの録音作品群がまた素晴らしかった。いずれ改めて紹介することとしたい。

2013年10月16日(水) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
「逆回りの音楽 vol.7」
津田貴司、minamo(安永哲郎+杉本桂一)、1982(Nils Okland, Sigblorn Apeland, Oyvind Skarbo)


   

  

北国からの声 − リアストゥライニ東京公演  Voices from Northern Land − LYOSTRAINI Live in Tokyo

  1. 2013/10/14(月) 21:09:44|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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  4. コメント:0
 多田雅範のブログに謎のライヴへの道しるべが載っていて(*)、思わずその指差す先をたどったら、「おおっ」と唸るライヴ情報にたどりついた。Ale MollerとのデュオやトリオFrifot等で知られるLena Willemarkを擁するトリオが来日公演を行うというのだ。しかも会場はアコースティックの貧しいライヴハウスではなく教会! これは駆けつけねばと早速予約を入れた。
 何しろ出無精で、ライヴも滅多にでかけないのだが、前々回でご案内した津田関係のライヴに続き、久々のライヴ強化月間に。特に今回のリアストゥライニはまだ音源のリリースされていないグループで、そのサウンドは未知数だが、否応無しに期待は高まる。たまには勘に賭けてみるのも悪くない。1982とは北欧つながりだし。
*http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131008

 以下に主催者であるFly Soundのページ(※)から、ライヴ情報を転載しておく。
※http://flysound-fuku.jugem.jp/?eid=195



 10/22日に下北沢の富士見ヶ丘教会で、スウェーデンが誇るワールド・ミュージックプロジェクトのLYOSTRAINI (リアストゥライニ)の東京公演が有ります! Taguchiのフラットスピーカーを使って繊細な音場を作りたいと思います!


 【東京公演】

日にち 2013年10月22日 (火)

時間 Open 18:00 / Stert 19:00 

会場 富士見ヶ丘教会 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujimigaokachurch
 東京都世田谷区代沢2-32-2

料金 前売 4,000円 / 当日 4,500円
 チケット 9月9日発売
 Fly sound info@fly-sound.com

[予約方法] 

e-mailにて、
1.枚数 2.お名前(カタナカ) 3.お電話番号 4.ご住所
 をお送りください。 受付ご返信致します。 満席になり次第、受付を終了致します。

お問合せ Fly sound info@fly-sound.com

 Harmony Fields 072-774-8838(平日 10:00-18:00)

info@harmony-fields.com
音源の方も近く、発表される予定です。

Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
スウェーデンフォークミュージックの国立フィドル演奏者。 ノルウェー室内管弦楽団、ロイヤル·フィルハーモニー管弦楽団、イェーテボリ交響楽団。 1994 年 Nordan Project で ECM よりリリース。 スウェーデングラミー受賞。
2004 年 Frifot “sluring” スウェーデングラミー受賞。
2006 年 ソロプロジェクト ÄlvdalensElektriska でスウェーデングラミー受賞。 2011 年 より スウェーデン王立アカデミーのメンバー。
スウェーデン中部ダーナラ地方の山間のエルヴダーレンに近いエヴェルツベリという小さな村の出身。 幼い頃より、伝統文化や音楽を大切にする大人達に囲まれ育ってきた。そして 18 才になった時、ストックホルム に下り立ち、クラシックとジャズを学ぶ。その後 89 年にはフォーク/トラッドのソロ・アルバムとジャズ・アルバムをリリー スする。もはやレーナは北欧フォーク/トラッド・シーンの女王と呼ぶに相応しく、その素晴らしい歌唱は、世界中 のありとあらゆるジャンルの中でも最高の歌い手のひとりだといっても過言ではないだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=FinqYrt05XA

Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
スウェーデンの作曲家、著名なコントラバス奏者。国際的に非常に現代的な即興音楽の分野内で尊敬されてい る。音楽大学教授でありながら、ヨーロッパ圏において即興の演奏家の第一人者である。彼は ECM がリリースす る スカンジナビアのジャズ・アーティストとして最も信頼されるプレイヤーで、数多くのアルバムに参加している。
1992 年 Jan Johansson Scholarship スウェーデングラミー受賞。 1994 年 Jazz Kannan スウェーデングラミー受賞。
1996 年 Bobo Stenson Trio ‘Reflections’ スウェーデングラミー受賞。 2010 年 スウェーデンの王立音楽院ジャズ賞を受賞。 ヨーテボリ大学音楽演劇アカデミー教授。 ヘルシンキのシベリウス・アカデミーの客員教授。
http://www.youtube.com/watch?v=oKrTzvf6La8

Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏
かりんが主に奏でるのは二十五絃箏。その美しい形や音域の広さは豊かな表現を生み出し、その演奏は魂を揺 さぶるような圧倒的な世界観を持つ。音楽一家に育ったかりんが、両親の知人であった野坂惠子氏を訪ね、彼 女が考案した二十五絃箏にであったのは中学生の時。東京芸大では古典の十三絃と地唄三弦を学び、卒業 後、箏の音色と自分の声でうたをつくっていくことを決意。原点は日本の田植え唄だ。そこには日本人のグルーブ がある。日本で育った楽器で、日本人の血を持つかりんが自分の言葉で歌う。即興的な柔軟さを持ち、邦/洋 /民族楽器、ジャズ、現代音楽、弾き語り、役者、ダンサー、絵描き、ジャンルや楽器を問わず様々な芸術家と 共演。音楽公演の他に、舞台役者・音楽監督、画を描くなど幅広く活躍中。2010 年デビュタント賞受賞
国際交流基金によ、2000 年 スウェーデン 2007 年 アフリカツアー等 海外公演18カ国。
http://www.youtube.com/watch?v=Rm_F_eyKbcc


タダマスの「11人いる!」(萩尾望都)  "They Were Eleven !"(by Moto Hagio) for "TADA-MASU"

  1. 2013/10/13(日) 22:26:53|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 先日掲載した「浸透的聴取」(*1)について、益子博之が言及してくれている(*2)。そこで彼は私が採りあげたレヴューについて「苦し紛れに書いた」と述べているが、きっとその通りなのだろう。作品が位置づけられると想定されるジャンルや参加ミュージシャンの来歴が、耳の掘り当てた響きの鉱脈とまっすぐにつながっているならば苦労はない。しかし、研ぎ澄まされた耳は時として、そうした当然の想定とははるかにかけ離れた何物かを探り当ててしまうのだ。思わず掴んでしまった蛇の尻尾を放り出して、何食わぬ顔であらかじめ用意しておいた講釈を垂れることを潔しとしないのであれば、あれこれ思い悩んだ挙句、途方に暮れることとなる。耳の体験を裏切らぬ新たな言葉/新たな論理を紡ぎだすのは大変なことだ。苦し紛れに言葉を絞り出すことにもなるだろう。そこには生々しい苦闘の跡が刻まれ、同じ戦いを強いられている者たちを引き寄せることになる。私はそのように戦場へと引き寄せられ、あくまでも私なりの仕方で体験をトレースし、それによって問題を自分の視点からの物に組み替えたに過ぎない。二つの聴取の間のリレーは、他の耳にはどう映るだろうか。

 そうした「複数の耳の間で聴く」という、他では得難い体験の機会を毎回与えてくれる貴重なリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」の11回目が開催される。同じ音源を同時に同じ空間で聴きながら、実際には一人ひとり違う「こと」を聴いているという体験の差異を明らかにしてくれるこの場は、ライヴ・イヴェントにおける共通体験性ばかりが強調され、ニコニコ動画の試聴においてすら時報による同時体験性が注目されてしまう強迫的な「同期依存症」がはびこる昨今(「お前らどれだけ同期したいんだ」って話だよな)、ますますその価値を増していると思う。
 *1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-247.html
 *2 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43768

 以下、告知ページ(*3)から抜粋転載する。なお、益子とともにホスト役を務める多田雅範による案内記事(*4)も参照のこと。
 *3 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
 *4 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131007



masuko/tada yotsuya tea party vol. 11: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 11

2013年10月27日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山本昌広(サックス奏者/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)

今回は、2013年第3 四半期(7〜9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン〜ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。前回ご紹介したような、既にデフォルト化しつつある、触覚的なサウンド・テクスチュアや、演奏者毎に異なるサウンドおよびタイム感のレイヤーを織り重ねたような構造をベースに、それぞれの「ポップ感」を反映させた音楽が更に増えて来ているように感じられます。

そこで今回はゲストに、サックス奏者/作曲家で、長らくニューヨークで活動されていた山本昌広さんをお迎えすることになりました。現場の動向を良くご存知の山本さんは我々の受け取り方や解釈をどのようお感じになるのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


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