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北国からの声 − リアストゥライニ東京公演  Voices from Northern Land − LYOSTRAINI Live in Tokyo

  1. 2013/10/14(月) 21:09:44|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 多田雅範のブログに謎のライヴへの道しるべが載っていて(*)、思わずその指差す先をたどったら、「おおっ」と唸るライヴ情報にたどりついた。Ale MollerとのデュオやトリオFrifot等で知られるLena Willemarkを擁するトリオが来日公演を行うというのだ。しかも会場はアコースティックの貧しいライヴハウスではなく教会! これは駆けつけねばと早速予約を入れた。
 何しろ出無精で、ライヴも滅多にでかけないのだが、前々回でご案内した津田関係のライヴに続き、久々のライヴ強化月間に。特に今回のリアストゥライニはまだ音源のリリースされていないグループで、そのサウンドは未知数だが、否応無しに期待は高まる。たまには勘に賭けてみるのも悪くない。1982とは北欧つながりだし。
*http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131008

 以下に主催者であるFly Soundのページ(※)から、ライヴ情報を転載しておく。
※http://flysound-fuku.jugem.jp/?eid=195



 10/22日に下北沢の富士見ヶ丘教会で、スウェーデンが誇るワールド・ミュージックプロジェクトのLYOSTRAINI (リアストゥライニ)の東京公演が有ります! Taguchiのフラットスピーカーを使って繊細な音場を作りたいと思います!


 【東京公演】

日にち 2013年10月22日 (火)

時間 Open 18:00 / Stert 19:00 

会場 富士見ヶ丘教会 http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujimigaokachurch
 東京都世田谷区代沢2-32-2

料金 前売 4,000円 / 当日 4,500円
 チケット 9月9日発売
 Fly sound info@fly-sound.com

[予約方法] 

e-mailにて、
1.枚数 2.お名前(カタナカ) 3.お電話番号 4.ご住所
 をお送りください。 受付ご返信致します。 満席になり次第、受付を終了致します。

お問合せ Fly sound info@fly-sound.com

 Harmony Fields 072-774-8838(平日 10:00-18:00)

info@harmony-fields.com
音源の方も近く、発表される予定です。

Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
スウェーデンフォークミュージックの国立フィドル演奏者。 ノルウェー室内管弦楽団、ロイヤル·フィルハーモニー管弦楽団、イェーテボリ交響楽団。 1994 年 Nordan Project で ECM よりリリース。 スウェーデングラミー受賞。
2004 年 Frifot “sluring” スウェーデングラミー受賞。
2006 年 ソロプロジェクト ÄlvdalensElektriska でスウェーデングラミー受賞。 2011 年 より スウェーデン王立アカデミーのメンバー。
スウェーデン中部ダーナラ地方の山間のエルヴダーレンに近いエヴェルツベリという小さな村の出身。 幼い頃より、伝統文化や音楽を大切にする大人達に囲まれ育ってきた。そして 18 才になった時、ストックホルム に下り立ち、クラシックとジャズを学ぶ。その後 89 年にはフォーク/トラッドのソロ・アルバムとジャズ・アルバムをリリー スする。もはやレーナは北欧フォーク/トラッド・シーンの女王と呼ぶに相応しく、その素晴らしい歌唱は、世界中 のありとあらゆるジャンルの中でも最高の歌い手のひとりだといっても過言ではないだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=FinqYrt05XA

Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
スウェーデンの作曲家、著名なコントラバス奏者。国際的に非常に現代的な即興音楽の分野内で尊敬されてい る。音楽大学教授でありながら、ヨーロッパ圏において即興の演奏家の第一人者である。彼は ECM がリリースす る スカンジナビアのジャズ・アーティストとして最も信頼されるプレイヤーで、数多くのアルバムに参加している。
1992 年 Jan Johansson Scholarship スウェーデングラミー受賞。 1994 年 Jazz Kannan スウェーデングラミー受賞。
1996 年 Bobo Stenson Trio ‘Reflections’ スウェーデングラミー受賞。 2010 年 スウェーデンの王立音楽院ジャズ賞を受賞。 ヨーテボリ大学音楽演劇アカデミー教授。 ヘルシンキのシベリウス・アカデミーの客員教授。
http://www.youtube.com/watch?v=oKrTzvf6La8

Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏
かりんが主に奏でるのは二十五絃箏。その美しい形や音域の広さは豊かな表現を生み出し、その演奏は魂を揺 さぶるような圧倒的な世界観を持つ。音楽一家に育ったかりんが、両親の知人であった野坂惠子氏を訪ね、彼 女が考案した二十五絃箏にであったのは中学生の時。東京芸大では古典の十三絃と地唄三弦を学び、卒業 後、箏の音色と自分の声でうたをつくっていくことを決意。原点は日本の田植え唄だ。そこには日本人のグルーブ がある。日本で育った楽器で、日本人の血を持つかりんが自分の言葉で歌う。即興的な柔軟さを持ち、邦/洋 /民族楽器、ジャズ、現代音楽、弾き語り、役者、ダンサー、絵描き、ジャンルや楽器を問わず様々な芸術家と 共演。音楽公演の他に、舞台役者・音楽監督、画を描くなど幅広く活躍中。2010 年デビュタント賞受賞
国際交流基金によ、2000 年 スウェーデン 2007 年 アフリカツアー等 海外公演18カ国。
http://www.youtube.com/watch?v=Rm_F_eyKbcc


タダマスの「11人いる!」(萩尾望都)  "They Were Eleven !"(by Moto Hagio) for "TADA-MASU"

  1. 2013/10/13(日) 22:26:53|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 先日掲載した「浸透的聴取」(*1)について、益子博之が言及してくれている(*2)。そこで彼は私が採りあげたレヴューについて「苦し紛れに書いた」と述べているが、きっとその通りなのだろう。作品が位置づけられると想定されるジャンルや参加ミュージシャンの来歴が、耳の掘り当てた響きの鉱脈とまっすぐにつながっているならば苦労はない。しかし、研ぎ澄まされた耳は時として、そうした当然の想定とははるかにかけ離れた何物かを探り当ててしまうのだ。思わず掴んでしまった蛇の尻尾を放り出して、何食わぬ顔であらかじめ用意しておいた講釈を垂れることを潔しとしないのであれば、あれこれ思い悩んだ挙句、途方に暮れることとなる。耳の体験を裏切らぬ新たな言葉/新たな論理を紡ぎだすのは大変なことだ。苦し紛れに言葉を絞り出すことにもなるだろう。そこには生々しい苦闘の跡が刻まれ、同じ戦いを強いられている者たちを引き寄せることになる。私はそのように戦場へと引き寄せられ、あくまでも私なりの仕方で体験をトレースし、それによって問題を自分の視点からの物に組み替えたに過ぎない。二つの聴取の間のリレーは、他の耳にはどう映るだろうか。

 そうした「複数の耳の間で聴く」という、他では得難い体験の機会を毎回与えてくれる貴重なリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」の11回目が開催される。同じ音源を同時に同じ空間で聴きながら、実際には一人ひとり違う「こと」を聴いているという体験の差異を明らかにしてくれるこの場は、ライヴ・イヴェントにおける共通体験性ばかりが強調され、ニコニコ動画の試聴においてすら時報による同時体験性が注目されてしまう強迫的な「同期依存症」がはびこる昨今(「お前らどれだけ同期したいんだ」って話だよな)、ますますその価値を増していると思う。
 *1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-247.html
 *2 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43768

 以下、告知ページ(*3)から抜粋転載する。なお、益子とともにホスト役を務める多田雅範による案内記事(*4)も参照のこと。
 *3 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
 *4 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131007



masuko/tada yotsuya tea party vol. 11: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 11

2013年10月27日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:30(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山本昌広(サックス奏者/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)

今回は、2013年第3 四半期(7〜9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン〜ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。前回ご紹介したような、既にデフォルト化しつつある、触覚的なサウンド・テクスチュアや、演奏者毎に異なるサウンドおよびタイム感のレイヤーを織り重ねたような構造をベースに、それぞれの「ポップ感」を反映させた音楽が更に増えて来ているように感じられます。

そこで今回はゲストに、サックス奏者/作曲家で、長らくニューヨークで活動されていた山本昌広さんをお迎えすることになりました。現場の動向を良くご存知の山本さんは我々の受け取り方や解釈をどのようお感じになるのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


ライヴ告知2題 於ギャラリー・セプチマ  2 Live Information at Gallery Septima

  1. 2013/10/13(日) 21:23:43|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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  4. コメント:0
 以前にこのブログで紹介したhofliこと津田貴司からライヴの案内をもらった。いずれも興味深い企画なので紹介しておきたい。

 まずは「逆まわりの音楽 その7」。以前にディスク・レヴューで採りあげた繊細なざわめきに満ちた音響ポップを奏でるminamoの参加にもそそられるが、遠く北欧から参加の1982は、以前に某通販ショップで作品を見かけ、LPしかないので購入を躊躇していたグループ。下記URLで聴くことのできるその演奏は、ヴァイオリンとオルガンの希薄なたなびきが石畳の床から冷気のようにたちのぼり、あるいは礼拝堂の仰ぎ見るヴォールト天井から緩やかに降ってくる魅惑的なもの。もちろん窓の外の物音に耳を澄まし続ける津田の、部屋の空気に沁み込んでいくだろうギター演奏も楽しみだ。
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=7291

以下にSweet Dreams Pressのページ(※)から案内記事を転載しておく。ページでは1982はじめ、参加者による演奏風景の動画を見ることができる。
※http://www.sweetdreamspress.com/2013/10/blog-post.html


逆まわりの音楽、先に「その8」のほうをご紹介しましたが(こちら、10月27日です。来てネ!)、ようやく「その7」もアウトラインが整いました。会場はいつもの立川・砂川七番のギャラリー・セプチマで安永哲郎事務室と共同で企画している「逆まわりの音楽」の第7回目、今回はECMやルネ・グラモフォンから作品をリリースしてきた名うての名手が揃った北欧フリー/ジャズ・トリオの1982と、1999年の結成以来、世界を股にかけて活躍してきたエレクトロ・アコースティック・ユニットのminamo(現在もアメリカ・ツアー中!)、さらにアンビエントなギター奏者としてのたたずまいから領域を拡大させつつある津田貴司のお三方をお迎えします。秋の夜長に音と静寂、楽音と物音、360度の音世界に包まれる一夜をぜひ。平日のギャラリー・セプチマで密かな、しかしあまりにも濃密な体験ができること請け合いです。

10月16日(水)立川・砂川七番 ギャラリー・セプチマ(*)
東京都立川市柏町3-8-2/多摩都市モノレール砂川七番駅より徒歩2分
1982 〜シグビョルン・アーペラン(pf)、ニルス・ウックランド(fiddle)、ウィヴィン・スカルポ(ds)〜、minamo、津田貴司
開場 7:00pm/開演 7:30pm 入場料 2,000円
予約:galleryseptima[a]gmail.comまで、タイトルをライブ予約とし、お名前・人数・ご連絡先を明記してお送り下さい

*http://galleryseptimablog.blogspot.jp




 続いては同じ会場での津田貴司と笹島裕樹によるデュオStilllifeのライヴ。笹島もまたそのフィールドレコーディング等による作品を、本ブログのディスク・レヴューで何回も採りあげたことのあるアーティストだ。津田の耳が聞こえるか聞こえないかのひそやかなざわめきに分け入り、耳の視線をどこまでも浸透させていくのに対し、笹島の耳は顕微鏡的に拡大された音響の切り裂くような速度に身じろぎもしない透徹した強度をたたえている。Stilllifeの演奏は彼ら自身により「非楽器・非即興・非アンサンブルという抑制の果てに立ち現れる、気配と静謐のフラグメント」と説明される。youtubeに投稿されたPV(☆)を見る限り、アコースティックな物音系インプロヴィゼーションと言えようか。サウンド・オブジェに触れ合う指先に感覚を集中させるにつれ、身体の輪郭が溶け出して意識が空っぽになり、耳の風景がピンホール・カメラのようにそのまま意識のスクリーンに投影され、手探る指の動きに連れて移り変わる。
☆http://www.youtube.com/watch?v=TC7xz4FDXts

 本来こちらが主役であるギター・アンサンブルによる間歇的/散逸的なサウンドの生起にも期待できそうだ。


 以下に会場であるギャラリー・セプチマの告知ページから転載しておく。

『Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント』
Daisuke Miyatani待望の新アルバム『utsuroi』の発売を記念してリリースイベントを行います。この1曲のみ約40分のアルバムが本当に素晴らしいです。雨音のように、風に揺れる木の葉のように浮遊感たっぷりに鳴らされるギターたち。「ギターたち」というのも、このアルバムはたくさんのぽつりぽつりと鳴らされるギターの音色のみで構成されていて、一聴してひとりで多重録音したのかなと思ったのですが、そうではなく総勢15名のギタリストが他の音を知らない状態で録音されたそう。すごい。それを再現するべくこの日はなんと総勢13名のギタリストが集まり合奏します。きっとセプチマを空高く浮かび上がらせる、この日しか体験できない音楽をぜひお楽しみください。

<Daisuke Miyatani Ensemble メンバー>
Daisuke Miyatani
Takeyuki Hakozaki
Asuka Tanaka
Takahisa Umehara
Yutaka Hirasaka
Paniyolo
Yoshinori Takezawa
[.que]
Haruna Yuasa
Kouhei Harada
Go Koyashiki
Eiji Mitomi
Daisuke Ogura

時間:開場18:30/開演:19:00
料金:1500円+1ドリンク
出演:Daisuke Miyatani Ensemble、三富栄治、あおやままさし、Stilllife(津田貴司+笹島裕樹)
予約:galleryseptima[a]gmail.comまで、タイトルをライブ予約とし、お名前・人数・ご連絡先を明記してお送り下さい


高潔さの喪失 − 三善晃・堂本尚郎追悼  Loss of Nobility − Akira Miyoshi & Hisao Domoto RIP

  1. 2013/10/13(日) 19:11:15|
  2. アート|
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 2013年10月4日に三善晃と堂本尚郎が亡くなった。「時代」が終わった。

 三善晃の名は以前から知っていたが、聴き始めたのは最近のことだ。多田雅範の高評価に興味をそそられて再発された『交響四部作』を聴き、一気に引き込まれた。続けて先行して再発されていた『レクイエム』へと聴き進んだ。再発のディレクターは共に日本伝統文化振興財団在籍時の堀内宏公。彼は多田と共に音楽サイトmusicircusを主宰している。
 私が魅せられたのは、三善の硬質なリリシズムであり、それを支えている覚醒した構築感である。深い叙情をたたえ、ロマンティシズムに身を沈めながら、甘さやべたつきが微塵も感じられないのは、音の配置と配合に対するぱきぱきと覚醒し透徹した感覚による。「構築感」と言い、「構築」と言わぬのは、三善のつくりだす響きが音のピラミッド状の積み重なり、石造りの重厚さとは無縁だからだ。散乱する響きは初秋の陽の光にきらめく透き通った蜻蛉の翅を思わせる。まぶしさのない鮮烈さ。醒めた熱情。積み重ならず、壁を築かず、どこまでも向こう側を見通せる開かれた響き。僅かな濁りも許さず常に清冽であろうとする響きには、いつもアドレッセントな痛みが伴うが、それを永遠の文学青年的なイメージに押し込めてしまうのはあまりにも勿体ない。だから、毎日新聞に掲載された梅津時比古による追悼文「死を通した生の称賛」の、死の影、死への志向性を三善の通奏低音としてとらえる見方には違和感を覚えずにはいられない。そこでは東京大空襲に遭遇し「多摩川で水遊びしていたら、隣にいた子供たちが機銃掃射で真っ赤に血を流して死んでしまった」体験や、「オーケストラと童声合唱のための 響紋」においてオーケストラにかき消される「かごめかごめ」が象徴的に取り扱われている。
 「追悼」が終わってしまった一人の生を総括し、棺の蓋を閉じることである以上、それは作法にかなった所作なのかもしれない。しかし、後にも述べるように、私たちはこれからも三善晃を聴き続けなければならない。あるいは今こそ心して聴き始めなければならない。ため息をひとつついて「三善晃」という書物を閉じ、書棚にしまい込んでしまうのではなく、すぐさま頁を開き読み進めること。せめていつの日にか読み改めることを自らに課して、机の上に出しっぱなしにしておくこと。

 
  三善晃『交響四部作』   三善晃『レクイエム』


 堂本尚郎の作品を直接見たのも、つい最近のこと、このブログでレヴューした(※)『アンフォルメルとは何か』展(2011年ブリヂストン美術館)においてだった。そのレヴューで私は「先駆者」であるジャン・フォートリエやジャン・デュビュッフェに比べ、「流行としてのアンフォルメル」の中で制作された作品(マチウやスーラージュ、アルトゥングら)は一定のテンプレートに拠っているがゆえに食い足りないとして、次のように記している。
「もうひとつは、個々人の〈様式〉に沿った作成過程に生じる不確定性への注目であり、筆の運びの揺らぎや刷毛目のずれが、まさに「不定形」を呼び込むものとして尊重されることになる。こうなると書道における筆のかすれ等を尊ぶ日本伝統の美的感覚は強力な武器であり、実際、堂本尚郎の作品の完成度の高さは群を抜いていたが、この作品をあえて〈アンフォルメル〉の名の下に評価する必然性は薄いように感じられた」。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-109.html
 その後、2005年に開催された大回顧展の図録を入手し(何とブックオフで500円!で購入)彼の変遷の軌跡を知ることになるが、ごく初期の日本画を別にすれば、「アンフォルメル」時期、続く「二元的アンサンブル」や「連続の溶解」の時期から、晩年の「無意識と意識の間」の時期に至るまで、そこには通底した感触があるように感じられる。筆触や飛沫による揺らぎへの繊細な鋭敏さ。「アンフォルメル」期において、カンヴァスに油彩により描かれる形態は流動化し、マッスは解体され、絶え間ない運動へと解き放たれていく。最初から風がうなり吹き抜け、荒波が襲い逆巻く空間だけがあるとでも言うように。そこには鈍重な枠組みがないのと同様に、重苦しい混沌も存在しない。油彩本来の形態の、色彩の、量感の積み重なりの代わりに、奥行きの浅さにもかかわらず伸びやかにすれ違う速度/運動あり、それを可能にするモビール様の可動的な構築性がある。
 こうした特質は、画面分割による構成を導入した「二元的アンサンブル」期や、一見ブロックの集積を思わせる構成に至る「連続の溶解」期、さらにはそれがブリジット・ライリーのオプ・アート作品をすら連想させる正円のシステマティックな反復にまで発展するそれに続く時期でも変わらない。時にリジッドな精密さを装いながら、それでもなお形態/構成にはにじみやかすれを介して常にずれていく可動性、音もなく這い進む菌糸の先端の震えが宿っている。また、色彩は積み重なって量感のあるマッスを形成することなく、はらはらと剥がれ散り落ちる脆さ/はかなさをたたえている。そうした不確定な流動への契機が「構成」を侵食し前景化してきたのが、晩年の「無意識と意識の間」ととらえることができよう。
 毎日新聞に掲載された尾崎信一郎による追悼文「変容を恐れぬ勇気」が、「半世紀以上に及ぶ作品の変容、実験精神の軌跡」にスポットを当てていることは、何かひとつのことに打ち込み、長い年月をかけて「深化」の物語を紡いでいくこの国の職人的芸術家たちと堂本を峻別しようとする意図の現れ、語りの戦略として理解できる。だが、自解しながら次々とコンセプトを破り捨て、マーケティングに沿って「変貌」を遂げていく、この国の昨今のアーティスト群と画然と峻別するためにも、ここではむしろ通底する連続性の方を指摘しておきたい。なお、尾崎は前述の2005年の大回顧展のキュレーターであり、図録にも長文の批評を寄せている。彼は2004年にはもはや伝説的な「痕跡」展をキュレートしており、著書『絵画論を超えて』(東信堂)はフォーマリズムやアンフォルメル及びそれ以降について思考する際には必読と言える。

 
堂本尚郎回顧展図録(2005年) アンフォルメル期の作品

 
「連続の溶解」期の作品


 「連鎖反応」期の作品


 三善と堂本に共通しているのは、研ぎ澄まされた響きの強度にだけ賭ける集中と潔さであるように思う。そこに言い訳はない。もっともらしいコンセブト解説も、流行への追従や反発(を装った追従)も、受容の水準に「配慮」した(と称する)妥協もない。自らのエクリチュールを高め極め尽くす高潔さがあるだけだ。無論、達成のあるところには権威が生じ、権力を呼び寄せがちである。よほど注意深く振る舞わなければ、そこには取り巻きたちによる低レヴェルの「政治」が忍び込む。このことは否定しない。そのことによって本人を免罪するつもりもない。だが、そうした「実績」によって達成の価値が減じられるわけではない。繰り返しになるが、人間なんてドングリの背比べで、一人の人生などたかが知れている。だが作品や達成はそうした一人の人生を軽々と超え出て、他人の人生を触発し、後世へと受け継がれていく。そうした輝きを、汚辱に満ちた生から拾い上げずして、批評の役割など存在しない。
 学芸会の演目を批評の刃で切り裂くのは大人気ない振る舞い、いや乱暴狼藉とすら言うべきものだろう。それは出来不出来にかかわらず、家族や友人たちに「頑張ったね」と祝福されるべきだし、何よりも演じた当人たちは達成感に酔ってよい。それはそれで構わない。けれど何の関係もない他人を巻き込んで、皆に「感動」を強要するのはお門違いだ。「私たちは一生懸命やっているのだから、あなたたちにはそれに感動する義務がある。もとよりそれを拒絶したり、批判する権利など誰にもない」というのは、それこそ乱暴狼藉にほかなるまい。
 アイドル歌謡にしろTVドラマにしろ、あるいは音楽でも美術でも演劇でも映画でも、今日ほど「感動」や「共感」がこのような回路で息苦しく強制されてくる時代はなかったのではないだろうか。いや違う。こう言うべきかもしれない。何度となくこの国で繰り返されてきた「同化」の強制が、今日ほど空虚な微笑みと浮かれた軽薄さを浮かべている時代はなかった‥と。
 大友良英は著書『ENSEMBLES』(月曜社)の冒頭で飴屋法水の芝居を採りあげ、そこに登場する女子高生たちが「それぞれ個々の個性と歴史を持ったひとりの人間たち(生き物たち)に見えてくる」変化について書いている。芝居が終わり出演者の名前=本名がスクリーンに映し出されると理由もわからずボロボロと泣いてしまうと。演技や脚本の質にかかわらず、名前を持った一人ひとりの存在はかけがえがないというわけだ。このことはわざわざ他人のブログから、打ち上げの席で「私たちの名前を全部言えますか」と紹介を求められ、18人「全員の名前を言えた飴屋さんが友人であることをちょっとだけ誇らしく思った」という一節を引用してみせていることからも明らかだろう。そしてそれはそのまま、スタッフ一人ひとりの本名を掲げた日記体によるYCAM「ENSEMBLES」展の準備作業の記録に引き継がれる。年間4億円の維持運営経費を要する公立施設におけるプロのアーティストとスタッフによる一大企画は、こうして女子高生の学芸会と周到に重ね合わされる。同展のチーフ・キュレーターを務めた阿部一直は注意深くこう書き留めている。「今回の大友の『ENSEMBLES』に共通する、きわめてシンプルなルールは、同期(シンクロ)してはいけない、ということである。(中略)同期せずに存在(共存)せよという、共存はするが微細な多数の動きの突出・交走によって存在が現れる、またそれらを見出し合う知覚を形成せよ、というラディカルな空間のポリティクスが、強靭に『ENSEMBLES』全域に響き渡っているのである」と。まさに然り。そして歯止めとなる唯一の倫理である、この「同期の禁止」を欠けば、2008年の『ENSEMBLES』は2013年の「あまちゃん」狂想曲にまっすぐつながってしまうのだ。


 三善や堂本の死に際して多くの論者が「ひとつの時代の終わり」を感じたと記している。だが先に触れた息苦しいまでの低俗の充満を思う時、彼らが貫いた高潔さにこの国で巡り会うことは、もう二度とないように私には思えてならない。「ひとつの時代」ではなく、「時代」が終わったと冒頭に記した所以である。


浸透的聴取  Osmotic Listening

  1. 2013/10/03(木) 23:19:00|
  2. 批評/レヴューについて|
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  4. コメント:0
 前回更新からまた随分と間が空いてしまったことをお詫びしたい。身内の不幸等もあって公私とも多忙となったことに加え、ある意味「回顧」的な企画であるが故に、新譜レヴューほどは手間がかからないだろうと高をくくって始めたTMFMRの連載が、聴き進めるうちにいろいろと興味深い問題を掘り起こしてしまい、さらにはまるで磁石に引き寄せられるように新たに聴き込むべき魅惑的な音盤をたぐり寄せてしまった結果、こちらも改めて仕切り直し、考え直さないといけない状態になってしまった。(T_T)うぅ
 そうした事情もあって、新譜レヴューの素材は継続して仕込みつつ掲載には至らない状態が続いてしまったのだが、そんな中、ガツンと衝撃を覚えたのは多田雅範の指摘で参照した益子博之のディスク・レヴューである。クロス・レヴューであるのに、他の執筆者から随分遅れての掲載は、後に見るように彼の逡巡を示すものだろう。だが、そうした迷いは彼が他の聴き手よりはるかに深く掘り進めているからにほかならない。私なりの読み方で、そのことを明らかにしてみようと思う。


益子博之が音楽批評サイトcom-postにDerrick Hodge:『Live Today』のディスク・レヴューを執筆している(※)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=817
 やや長めの引用を含んでいることから推察されるように、いささか論旨が入り組んでいるのだが、簡略化すれば次の2つの主張が接合されていると言えるだろう。
 まず彼はこの作品をジャズ・ミュージシャンでなければ創造できない作品として評価している。そうした論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 この音楽はジャズ・ミュージシャンでなければ演奏できない、創造できない音楽であるという点で、21世紀のジャズなのだと言い切ってしまいたい。
 綿密に構成された作曲/編曲の中で個々のプレイヤーの演奏には大きな自由度が与えられている。
 更に、曲の進行の中でメンバー間の緻密なインタラクションがリアルタイムで展開される。これこそジャズ・ミュージシャンでなければできない演奏、音楽と言えるだろう。


 ‥‥とここまでの論旨はわかりやすい。彼と多田が開催しているリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」においても、NYジャズ・シーンの先端部分を定点観測しながら、そこで進行する「サウンドスケープ化」という事態の中に彼が見詰めていたのは、決して「サウンドスケープ化」という「モード」の転換ではなく、ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造が、より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容であることに改めて注意を促したい。彼の姿勢は極めて一貫している。
 いささか論旨が輻輳してくるのは、そこに彼が「個性の「濃さ」に纏わる議論」を絡めてくるためだ。彼は高橋健太郎による「ヘッドフォンで歌ものの音楽を聞くと、ヴォーカルは眼前から聞こえるとういよりは、頭蓋骨の中に定位してしまうことが多い。つまり、言葉とメロディーが頭の中で鳴る。あたかも、(**********)という内なる声のように。」との論を引用して、次のように語り始める。やはり論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 これはヴォコーダーやオート・チューン、或いはボーカロイドを巡る議論であり、ジャズ・ミュージシャンについて論じたものではない。だが、スピーカーと対峙して音楽を聴くことで音楽家に向き合うような聴取の仕方と、何かをしながらヘッドフォンやイアフォンで行うような聴取の仕方とでは、聴き手が求める音楽の性格に大きな違いが生じることは同様だろう。
 頭蓋骨の中に定位している音楽と、その外側に定位するアンビエンス。前者が例え器楽演奏だったとしても、その演奏やサウンドがあまりに「個性的」であったら、それはあくまで外から聞こえる音であり、共感したり感情移入したり、更には自己投影したり自己同一化したりするには却って邪魔になってしまうことだろう。それに対して、スムーズに耳に入ってくると同時に、その音楽に浸っている自己を周りの他者から差別化できる程度には「個性的」な音楽と、現実の外界から自己を遮断する役割を果たすアンビエンスの組み合わせは、そうした耳にはこの上なく心地良く響くことだろう。


 ‥‥ということは、巷間囁かれる現代ジャズ・ミュージシャンの個性の薄さは、ヘッドフォンによる「内在的」聴取に向けたものだと言うのだろうか。昨今のポップ・ミュージックの大勢として進行する「微温湯化」については、確かにその通りだと思う。それは聴き手の感覚を慰撫し、これに抗うことがない。耳を不意撃ちすることのない、聴覚を眠り込ませるための音楽。「マインド・リゾート・ミュージック」あるいは「セピア・ミュージック」(共に虹釜太郎)。このことは「予定調和」という点において、たとえ見かけは暴力的であっても、その実、揺るぎなく様式化されたラウド・ロックやピュア・ノイズについてもそのまま当てはまる。発見を求めない、浸るためだけの音楽。「ああ、これこれ」と想起のスイッチが入りさえすれば実質終わってしまう、ほんの5秒あれば足りる音楽。だが、益子の耳の追い求める音楽はそうしたものではなかったはずだ。

 そう訝る読み手に「しかし、果たしてジャズが、そしてアートがここまで内向的に、閉鎖的になってしまって良いのだろうか」との転調が示される。ここからレヴューの論旨はさらにわかりにくくなる。と言うのも、レヴューは最終的に「一つ言えることは、デリック・ホッジの音楽はそんな私が聴いても非常に心地良く、強く共感できるものだということだ。」という対象作品への肯定により締めくくられるからだ。
 ここで益子は自身による全く別の作品に関するライナーノーツを引用してみせる。

 この音楽は、あくまで受動的な聴き手という立場に安穏としている限り、落ち着き所がわからないまま、恰も中吊りにされ、置いてけぼりを喰ったかのような感覚を覚えさせかねないものだ。だが、ひとたびプレイヤーの一人として参加し、音楽の行方を積極的に追いかけるような聴き方をするならば、ジェット・コースターや山間のワインディング・ロードを疾走するスポーツ・カーが与えてくれるようなスリルとは本質的に異質な、街中の交通の流れや信号の表示といった状況を的確に察知し、急加速・急減速をすることもなく、スムーズに一定の速度で走行し続けているときのような快感を得ることができる。

 そして、それに続けて次のように述べる。

 私には楽器演奏の経験があり、尚且つヘッドフォンによる音楽聴取をしていないという点で、現代の音楽リスナーとしては特殊な部類に入るだろう。だから、演奏者の一人としての自己を対象の音楽に投影できるのだと言うことは可能だ。とは言え、これは聴き手の態度の問題だと捉えることもできる。自己投影の仕方が受動的なのか、能動的なのか、その違いによって音楽が聴き手にとってどのような価値を持つのかが左右される、能動的に耳を働かせることによって他者に接して自己を開いていくことができるのだと…。

 後段の前半部分、すなわち「私には楽器演奏の経験があり‥‥と言うことは可能だ」の部分は、いささかエクスキューズが過ぎるのではないかと感じてしまう。わざわざ別作品のライナーノーツを引用したのは、明らかにこの主張のための準備作業なのだから、このことが彼の論旨展開の中で一定の重要性を帯びていることが推察される。また彼が演奏体験を特権化することにより、聴取の門戸を閉ざしてしまうのを警戒していることもよくわかる。しかし、彼が重視/注目する「ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造」は、決して楽器演奏やアンサンブルの体験がなければ理解できないものではない。むしろ反対に、「より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容」を捉えることができるのは、楽器演奏やアンサンブルの体験によってかたちづくられた〈音楽耳〉ではなく、初めて泊まる旅館でふと夜半に目覚め、部屋にくすぶる何物か判別し難い奇妙な軋みに、胸騒ぎを覚えながらそばだてられる〈音響耳〉ではないか。楽音の聴取が捨象してしまう音の表面の微かなざらつきや、響きに混じる僅かな匂いを探り当てる鋭敏な耳の「指先」。
 とすれば「能動的」な聴取もまた、音楽の流れを先読みし、アンサンブルの一体性を感じ取ることに限定されはしない。そうした演奏者の思考に聴き手の思考を重ね合わせ、同一化を図ることにより、そこから生み出される音の流れに棹さす「内在的」な聴取に対し、音が自らの外部にあることを当然の前提としながら、言わば聴覚を「ナノ化」して響きの隙間へと浸透させ、複数の表面に同時に触れながらその震えや温度、色彩や輝きを猫のヒゲのように感じ取る「媒介/媒体的」聴取。益子がこともあろうに菊地雅章による「Ensemble Improvisation」の試みに言及しているのは、そうした響きに沁み込むように身を沈める聴き方を念頭に置いているからにほかなるまい。

 「群盲象を撫でる」と言うが、視覚により一望の下に外形/輪郭をとらえるのではなく、その都度限られた範囲の手触りの推移から全体を編み上げること‥‥いやそうではない。触覚はそのように積分されて総体の構築へと至る代わりに、茫漠たる差異の広がりのうちに深みへと引きずり込まれ全景を見失う。不安に掻き立てられた皮膚は、ますますその感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、ミクロな差異を際立たせ、不連続な断層に悩まされながら、藁をもすがるように言葉をまさぐり、仮初めに紡ごうと試みては果たせず、いらだちを募らせる。「能動的」聴取とはそのような心細い孤独な探求にほかならない。

 多田雅範が一瞬の耳のまたたきのうちに音を捉え、これと深々と切り結びながら、ぶっきらぼうな断言を繕うことなく放り出し、夢遊病者のようにふらふらと当てのない連想の糸をたどらざるを得ないのも、益子博之がますます深く遠くへと耳の眼差しを届かせながら、そうした聴取の体験をいささかも特権化しようとせず、それどころか音への扉を広く開いたままにし続けようとするのも、未知の響きに不意討ちされた衝撃への切実な、そして極めて倫理的な反応であるように私には思われる。それゆえ彼らの聴取の対象がたとえ未だ耳にしていない音源であっても、ふと漏らされたつぶやきに深く揺さぶられてしまうのだ。



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