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文化横断的変異「民俗音楽」探求 その2 スペイン  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.2 Spain

  1. 2013/07/27(土) 22:54:37|
  2. ディスク・レヴュー|
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 さてTMFMR第2回はスペイン。
 かつてのローマ帝国の栄光があるにもかかわらず、現在のイタリアの近代国家としての成立の遅さ(「リソルジメント」と呼ばれる国家統一は明治維新よりも後)はよく知られるところだし、それゆえ各地方の文化も、料理で体験できるように個性の違いを際立たせている。だが、前回イタリア音楽を紹介した際に南のナポリと北のミラノを並べることに特に違和は感じなかった。だがスペインは違う。後に首都マドリードを核として再編されるカスティーリャに対し、ガリシアやアストゥーリアはともかく、やはりカタルーニャやバスクは絶対一緒にできない気がしてしまう。これはスペイン音楽と言えばフラメンコのほかはスパニッシュ・プログレしか知らない時点でLluis Llachの作品と出会い、これを聴き進めるうちに、カタルーニャ音楽のサウンドの肌触りやカタラン語の響きが、自分が勝手に築いていた「スペイン」のイメージと大きく異なることに驚かされたせいかもしれない。
 実際、これはもう遥か昔のこととなるが、確か四谷にあったスペイン語書籍を扱う書店の前を通りかかり、どういう風の吹き回しかぶらりと立ち入って、その片隅にLluis Llachのスペイン盤LPが何枚も埋もれているのを見つけたことがあった。持っているのは仏La Chant Du Monde盤や独Plane盤ばかりだったので、これ幸いとばかりにレジに運んだのだが、そこでずっと気になっていた彼の名前の発音(おそらく彼を初めて日本に紹介したであろうLa Chant Du Monde音源の編集盤『帰らぬ兵士の夢』の解説では「ルイス・ヤッカ」としており、独Plane盤のライナーは「リュイス・リャック」としていた)について尋ねると、あろうことか「自分はスペイン人なのでカタロニア人の名前はどう読めばいいかわからない」という答が返ってきた。あれー。



Atrium Musicae / Las Cantigas de Santa Maria del Rey Alfonso X El Sabio
Hispavox ‎  HH 1
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=z-MlsUbI4gs
 スペインの「フォーク・ミュージック」を初めて意識して聴いたのは、小石川図書館で借りた「スペイン古楽集成」の第1作たる本作。それはこの後長い付き合いとなるGregorio,Eduardo,Carlos,Luis等のPaniagua兄弟との出会いでもあったし、何より古楽の豊穣極まりない音世界への扉を開けてくれた1枚となった。それまでバッハやヘンデル、ヴィヴァルディ程度しか聴いていなかった耳に、複雑な対位法的構築によらず、ゆったりとした旋律がほとんど音色の強度と抑揚だけで空間を渡っていく姿は、強烈な一撃を見舞ってくれた。「演奏会場としてのホール」といったことを超えた演奏空間と音のあり方の関係、たちのぼる豊かな倍音や長くゆっくりと尾を引く残響と演奏の関係等について考えるようになるのも、この時の一撃がその後じわじわと効いてきた結果と言えるかもしれない。間を置いて打ち鳴らされる一見単調な打楽器のリズムが、いかに音楽に脈動を吹き込み、これにより勢いを得た音楽の飛翔がいかに音空間の眺めを変容し、聴き手の身体に投げ出されるような、あるいは一気に俯瞰の視界が開けるような感覚を与えるかも、本作で初めて体験したことだった。暗闇に沈んだ極彩色の音の肌理、石畳や石壁の冷たい肌触り、鞣された皮の響きに潜む甲高い金属質の芯、眼の眩むほど高い天井まで届く分厚い空気の層、耳までの距離を渡ってくる音の歩み、遠くに聴こえる小鳥の声‥‥。本作の衝撃の余韻はフィールドレコーディングにレイヤーの集積を感じ取る耳にも響いている。1970年あるいはそれ以前の録音。


Babia / Oriente - Occidente
Guinbarda GS-11152
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=50624882
 Luis Paniaguaを中心に兄のEduardo Paniaguaや彼らの盟友たるLuis Delgado等が参加した1枚。タイトルの『東洋 − 西洋』通りに、ギターやサキソフォン、キーボードの音色がシタールやタブラ、さらには世界各地から集められた何十種類の民族楽器や古楽器と混ぜ合わされる。長兄Gregorio Paniaguaの神々しい荘厳さからほとんど冒涜的な想像力の下半身的跳躍を経てラブレー流の喧噪と哄笑に至る、どこまでも暑苦しい極端な密度と鬼面人を驚かす振幅の広さに比して、こちらはパステル画のように淡く繊細な夢想がゆらりと香り立つ。とは言えやはり血は争えず、次掲作に比べるとずいぶん「濃い」のだが。それでも民族楽器の倍音豊かな音色が開く「新たな交感の回路」を積極的に活かし、通常のジャズ/ロック・アンサンブルとは別のかたちをつくりあげようという強固な意志は、びんびんと伝わってくる。1982年作品。なお、Luis Delgado等が核となったスペインの先鋭的音楽家の一群「マドリードの彗星」については、次のSHE Ye,Ye Recordsによる解説を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=37281926
http://www.sheyeye.com/?pid=61314758


Luis Paniagua / De Magico Acuerdo
Nuevos Medios 13 221 L
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=36801680
   http://www.youtube.com/watch?v=PJ3fp1EXkXE
 前掲作で示された繊細な音風景はさらにゆったりと解きほぐされ、薄霞のたなびく静謐な空間の中、「西洋」と「東洋」はさらに親密に分ち難く溶け合う。だが本作が多くのエスニック・フュージョン(シタールらタブラなどアジア系民族楽器を多用したニューエイジ的エキゾティシズム)と異なるのは、後者が結局はプレーヤーシップ優先のフュージョンのフィールドに楽器の音色の置換を施しただけ(もちろんそれは自ずとフレーズやリズムの変容をもたらすことになるのだが)であるのに対し、本作は徹底して響きの次元にこだわり、重なり合い滲み合う音色の変容の過程に聴き手として耳を澄まし続ける点である。それゆえ楽曲構成はむしろクラシック(室内楽)的であり、弦アンサンブルが多用されるが、その皿に盛りつけられた各音素材の音色の精妙な配合には驚かされる。1986年作品。


Benito Lertxundi / Zuberoa - Askatasunaren Semeei
Elkar ELK 9-10
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=CzPnh5R-4E0
 マドリードを中心とするスペイン音楽が赤い平原の音楽だとすれば、バスク音楽(ここではとりあえずスペイン・バスク)は緑の陰濃い山地の音楽だ。ちょうどイングランドやアイルランド音楽に対するスコットランド音楽のように、体温が低く、さらりと血も薄く、気品高い白木の香りをたたえ、冷ややかに透き通った響きの湖。それだけではなくマドリードに集うPaniaguaたちが本来的に都市の持つ文化的交配性を言わば過剰適用して、古代ギリシャに、舞踏リズムであるタランテッラに‥とありとあらゆるところに忙しなく起源にまつわる「混血」を見出し、それを根拠に越境/侵略を繰り返して止まないのに対し、バスク音楽は山間にひっそりと身を潜め、なだらかな時間の流れとともに響きを研ぎ澄まし熟成させ澄み渡らせていく。
 それゆえ私にとってのバスク音楽とは、ケルト音楽的な「越境性」(その問題点については後に触れることになるだろう)を発揮するKepa Junkeraではなく、何よりもまずBenito Lertxundiでなければならない。しかしその音のあり方は少しも閉鎖的ではない。起源に「混血」を見出すと言うより、もともと西欧から隔絶していたバスクが、近代に侵されていく過程を冷静に見詰め受け止めること。それゆえフォーキーなギター弾き語りとハーモニカ、バスク語によるヴォーカルや語り、教会音楽的なオルガンや合唱、悲しげなハープの爪弾き、弦アンサンブルの典雅さ等、音楽は常に複数化への変容の下に置かれ、ゆるやかなオーケストレーションを施されている。1977年作品。


Oskorri / Musik Aus Dem Baskenland
FolkFreak FF404014
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=XF6jyqJH1AQ
   http://www.amazon.co.jp/Oskorri/dp/B003W7D66I
 バスクからもう1枚。独レーベルからリリースされ、オシュコリのバスク地方以外へのデビュー作となった本作は、その後、彼の地の音楽の代表として押しも押されぬ存在となった彼らの他作品には見られない独特の熱気とテンションをはらんでいる。ツアー移動用のバンが警察の検問を受け、裏面では血の滲んだ包帯や車椅子姿のメンバーがステージに登るという告発的/挑発的なジャケットの意匠と張り合うように、加速された蛇腹のリフが鋭くリズムを刻み、フルートの一吹きが鮮やかに空間を切り裂いて、悲しみをじっと絶え続けるヴァイオリンや硬質で彫りの深いヴォーカル・ハーモニーとぶつかり合う。本作の存在を知ったのはワールドミュージックを広範に探求し、トラッドやフォークについてもディープな突っ込みを見せた音楽誌『包』でだった。1984年作品。試聴トラックの一つ目は彼らの代表曲ではあるのだが、ゆったりした曲調で本作特有の緊張感は伝わりにくいことをお詫びしておく。


Olatz Zugasti / Bulun Bulunka
Elkarlanean KD-532
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=OV9yw8vbpS0
   http://www.youtube.com/watch?v=D2YHpwARn3c
 バスクからさらにもう1枚。女声のハープ弾き語り(童歌にも似た簡素なメロディとハープ弦の典雅なきらめき)に、チェロやクラリネットがしっとりと絡む、想いの深さをたたえながらも抑制の効いたアレンジメントは、蛇腹の走り回ることの多い彼の地の音楽にしてはかなり異色。こうした体温の低い「引き」のサウンドゆえに声の素肌の美しさが光り、バスク語の他の何語にも似ていない、どこか古代の呪文を思わせる不可思議な響きがすらりと立ち上がる。伏し目がちながらきっぱりと前を見詰めた声は、ゆったりと歩みを進める壊れやすく繊細なサウンドに伴われ、一段一段少しずつ踏み外しながら、水底へと降りていく。1999年作品。彼女はBenito Lertxundiの作品にも参加している。


Maria Del Mar Bonet / Saba De Terrer
Ariola 250265(9A)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=VdoUaJkuDZ4
 今回の企画の趣旨からすれば、古来から交通の網の目たる地中海に開かれた、陽光きらめく「海の音楽」たるカタルーニャ音楽から選ぶべきは、やはりSSW然としたLluis Llachよりも、この海によりつながれる各地を経巡って止まない歌姫Maria Del Mar Bonetということになろう。トルコやマグレブといった地中海沿岸地域にとどまらず、アラン・スティーヴェルやミルトン・ナシメントといったビッグ・ネームとも共演し、トルバドールの曲を採りあげ、弦楽アンサンブルやコンテンポラリー・ダンスと共同作業を進める彼女の、本作は比較的初期の1979年作品。ゆらりと香の薫りがたちのぼるような声のくゆらし方。声を支える落ち着いた深い呼吸。北アフリカからペルシャやアラビアへと連なるさわりをはらんだ金属弦のきらめき。そしてそれを浮き立たせる深い闇。


Eliseo Parra / Viva Quien Sabe Querer
Boa 24002002
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=pXoGZ119a4w
   http://www.amazon.es/El-Reloj-De-Valdetorres/dp/B009CF7DEK
 前掲作にパーカッションとヴォイスで参加しているEliseo Parraのソロ作品。これがまた何とも形容し難い不思議な音楽となっている。少なくともカタルーニャやガリシアなど一地方の伝統音楽の枠組みに収めることは到底できまい。祝祭の開放的な高揚と宗教儀式のしめやかな瞑想的集中。カーニヴァルの到来に浮き立つ市街の喧噪と中世にタイムスリップした市場のざわめき。レコードからサンプリングされたと思しきアコースティック・ベースのリフレインと左右から響いてくる物売りの声にも似た嗄れ声の交響。縄目や線刻にも似た文様を空間に書き込んでいく各種の打楽器や笛、ギターのつぶやき。ばたばた、がたがたと破れた障子のようにはためくパーカッション。張り上げられ胸に迫りあるいはコーランの朗唱のように揺らめきながら空に吸い込まれていく声。2002年作品。


Doa / O Son Da Estrela Escura
Edigal EDL-70.005
試聴:http://videoixir.com/izle/4948856/doa-live-musica-de-galicia-festa-de-loor-hd-o-son-da-estrela-escura.html
 曙光に向けて飛翔する不思議なジャケット・イメージに彩られた彼らのサウンドは、出身地ガリシアの音楽というよりはスペイン古楽の豊かさに満ちている。と同時に電化やエレクトロニクス操作がもたらすサイケデリアにもまた。鳴り渡る打楽器、ギターやダルシマーのきらめき、響きで空間を埋め尽くすリコーダーやバグパイプ、光が立ち上るようなヴァイオリンの輝き、チェロの重厚な佇まい‥‥それぞれの音色の個性を存分に明らかにしながらくっきりと浮かび上がるサウンド絵巻は、鮮やかな場面転換をはらみ、眼にも絢なタイル絵の壁画を思わせる。中世を現代に直接接合したサウンドは、むしろロック的構築をその真髄としている。1979年録音。



Eusebio Y Pilar Mayalde / La Herencia
Saga SED-5.035
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=KGG12OHtUKw
 手持ちのスペイン産フォーク・ミュージックを聴き返す中で、その土臭さに改めて驚かされた1枚。米Nonsuchや仏Ocoraに似た現地録音の匂いがする。太鼓の皮の短い余韻、繰り返し擦られた弦の軋み、細い縦笛の祭り囃子、打ち合わされる金属の転がるような響き等に乗せて(これら伴奏はほぼ楽器ひとつにまで絞り込まれており、声と交互にしか演奏されないこともあるほど簡潔極まりないものとなっている)、歌い交わされる男声と女声が、乾ききった赤い大地とどこまでも青い空に吸い込まれていく。スペイン北部サラマンカ県の音楽とのことだが、むしろペルーあたりの風景が浮かぶ。1986年作品。なお、試聴ファイルとして掲げたのは本作収録の音源ではなく最近の演奏。


 今回はマドリード周辺からバスク、カタルーニャを経て、ガリシアやサマランカへと向かう旅となった。すでに規定の10枚に達したが、まだまだスペイン産フォーク・ミュージックの豊穣さを伝えるには少ない。次回掲載では補足編としてスペイン・ユダヤ音楽とよりポップな視点からのアプローチを採りあげたい。なお、グラナダ等を中心としたアル・アンダルース文化も実に豊かな音楽の水脈を有しているが、これはバランス上、対岸の北アフリカに含めてとらえることとしたい。

文化横断的変異「民俗音楽」探求 その1 イタリア  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.1 Italy

  1. 2013/07/20(土) 15:50:24|
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 文化を遡り、井戸の底深く降りていくことにより、それをかたちづくり変容させ突き動かしてきた様々な力が見えてくる。国家権力による定式化の努力にもかかわらず、文化は基本的に国境で切り分けることができず、明確な境界すら持たない。人々の移動や文物の伝搬の障壁となるのは、切り立った山々や向こうの見えない大海原等の自然地理的な隔離だが、逆にこれらが交通の欲望を誘い、その経路を束ねることにより相互の異文化交流を促した側面も見逃してはならない。
 この「文化横断的変異『民俗音楽』探求」シリーズでは文化を生成する諸力の交錯に眼を凝らし、その力動による変容過程に身をさらして数多の刻印を受け取り、結果として様々な文化の横断/再構築に至ったフォーク・ミュージックの実験を採りあげる。「実験」といいながら、それらは決してラボの中だけの産物ではなく、「もしも」が許されるならば現実の歴史の中で実現していたかもしれない音世界にほかならない。蛇のように絡み合う諸力が、ある力の加速/増大によって別の均衡を着地点として見出していたとしたら。あるいは形成が進む前に運命的な一撃が加えられていたとしたら。

 それにしても、なぜ「フォーク・ミュージック」なのか。それは先に触れた変容の過程を生きながら、抽象へと飛翔/脱出してしまうのではなく、民衆生活文化の次元に留り、統治権力への抵抗や風土との格闘を決して手放そうとはしない彼/彼女らの決意を賞揚したいがためである。
 もともと今回の企画は、伊ロルケストラ・レーベルに残された驚異的な作品群をいつか採りあげたいという想いに端を発している。同じくミラノを本拠とするクランプスの左翼音楽の衣鉢を受け継ぎ、その後も他に比肩し得るものがないほど複雑に入り組んだ音楽迷宮世界を打ち立てながら、今やほとんど言及されることのない彼らの達成をぜひ紹介したいと。だが、以前に『マーキー・ムーン』9号の特集記事で知っただけで、その後のレーベル・リリースの全容など知る由もない私には、正直自信がなかった。だが、そうしたロルケストラ・レーベルの作品群をはじめ、アヴァンギャルドな、あるいはラディカルなフォーク・ミュージックの実験の数々に対し、きっぱりと高評価の論陣を張るSHE Ye,Ye Records & Books(※)の慧眼と姿勢の高潔さに触れ、大いに共感したことから改めて挑戦してみることとした。私を力づけてくれたSHE Ye,Ye Records & Booksという超強力な「同志」には感謝の言葉もない。
 というわけで第1回はイタリアからの10枚。ただし、ここで国名は便宜的な区切りに過ぎない。所謂「汎地中海音楽」の試みだけでなく、幅広く探求を進めていくことにしたい。なお、これまで随所で採りあげてきたMauro Pagani, Fablizio De Andre, NCCP等はあえて外すこととした。これらの作品が必聴であることは論を俟たない。
※http://www.sheyeye.com



Zeit / Un Giorno In Una Piazza Del Mediterraneo
Materiali Sonori MASO 009
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=59730432
 ヴァイオリン、ギター&管楽器、民族音楽系打楽器×2の4人編成で、雰囲気に流れることなく、厳しいまでに焦点を絞り込んだ硬質極まりない演奏を聴かせる。せいぜいタンブレッロのざらざらとした響きやヴァイオリンの繰り返しが中低音を支える程度の、ベース不在の腰高アンサンブルが冷ややかな緊張感をいや増し、金属質の芯を持つパーカッションの鋭い打撃に、弦と管が切れ味鮮やかなリフレインを基調にめまぐるしく高速で駆け巡る。その編隊の密集度は他に類を見ない。地中海の陽光のきらめきというよりは北アフリカやアラビア半島の陽射しの目映さとくっきりした陰影の濃さを感じさせる。時折挿入される金属鍵盤打楽器メタロフォンの夢幻的な響きが乾いた大地に揺らめく陽炎を思わせる。1979年録音。


Zeit / Il Cerchio Degli Antichi Colori
Materiali Sonori MASO 015
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=xF2qzRUTsS4
 コントラバス奏者が新加入し、少しは落ち着くかと思えば、さらに加速して縦横無尽に駆け抜ける第2作(試聴トラックをどうぞ)。曲によりゲストも参加してソロ・パートが設けられるなどアンサンブルが立体化し、迸る水銀流のように単色に絞り込まれていたサウンドにはいささか色彩感が増したが、乾燥した速度に満ちた演奏の本質は変わらない。1980年録音。中心人物Andrea TamassiaがAktualaの作品に参加していたことは前掲のSHE Ye,Ye Records & Booksの指摘で初めて知った。



Aktuala / Tappeto Volante
Bla Bla BBXL 10009
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=AUSclG6P-g8
 そう言えば確かAktualaは1枚あったような‥‥と棚を探して、NCCPの隣に埋もれていたのを掘り出したのが本作。彼らの3作目にして最終作で、果たして前述のAndrea Tamassiaの参加作品でもあった(ただし演奏者としてではなく録音エンジニアとしてだが)。基本的に熱血シンフォ好きが多数を占めるイタリアン・ロックのファンには評価の低い作品だった。けれど2作目に引き続きTrilok Gurtuがメンバーとして参加‥と書くと「おっ」と眼を輝かせる方がいるかもしれない。インドもトルコも北アフリカもアラブもごった煮でミクスチャー度の高さは前掲Zeitを遥かに上回り、その分、試行錯誤的かつエレクトロニクスの使用も見られるなど雑色的でもある。それゆえ散漫/冗長になりがちなところを実験精神の志の高さとサイケデリックな酩酊性が救っており、根底にはむしろアーシーなブルース色が感じられる。その点ではむしろ北欧の連中に近いかもしれない。1974年から76年にかけての録音。彼らの他作品についてはたとえば次を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=34733173


Pasquale Minieri, Giorgio Vivaldi / Carnascialia
Mirto 6323 750
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=18693395
 極小マイナー・レーベルの作品ながらMauro PaganiとDemetrio Stratosのゲスト参加でやたらと有名な作品。だが核となっているのはあくまでCanzoniere Del LazioのメンバーであるPasquale MinieriとGiorgio Vivaldiの2人であり、グループの同僚たちも全員参加している。凄まじいばかりの腕達者な面々を揃えながら、油の煮えたぎるような熱血パフォーマンスに走らず、乳白色にけぶる牧歌的な優雅さすらたたえた、引きのパースペクティヴの構築に専念しているあたりは心憎いばかりだ。民族音楽系打楽器のフレーズ/リフレインもミニマルに解体/再構築され、確かな抽象性と幾何学的均衡を獲得している。内袋にさりげなく掲載されたインドやアフガニスタン、キューバの写真はかつての音楽放浪の記録か、それともCramps以来の左翼的心性の成せる業か。1978年録音。


Canzoniere Del Lazio / Miradas
Cramps CRSLP 5351
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=18690579
 聴き手が想像力を羽ばたかせるべき余白を確保しながら冷静な均衡へと向かい、距離と抽象の力を遺憾なく発揮した前掲Carnascialiaに対して、母体グループの最終作となった本作には脳の血管があちこち切れまくるほどの突発的高揚が全編に渡り詰め込まれている。単に祝祭的と言うだけでは足りない、雑踏の喧噪と高らかなアジテーションに満ち満ちたカーニヴァル/革命的な生命讃歌。魚市場の名物オバちゃんの掛け声にも似たClara Murtasのヴォイスの喚起力が素晴らしい。一見伸びやかなアンサンブルのたゆたいにも、一瞬にして歓声と哄笑が弾ける。特に冒頭曲で息もつかせぬパーカッションの強靭な連打が煽り立てる、聴き手を踊り死にさせるような猛毒性のビートは凄まじいばかり。北園克衛が探求したプラスティック・ポエムを思わせるジャケット・デザインは、見開き内側にレイアウトされたフランツ・ファノン、パトリス・ルムンバ、ジャック・ラカン、ジャン・ポール・サルトル、ヴィルヘルム・ライヒ、ピエロ・パオロ・パゾリーニへの言及を含め、クランプス/ジャンニ・サッシの真骨頂を伝える。1977年作品。彼らの他作品についてはたとえば次を参照。
http://www.sheyeye.com/?pid=59234859
http://www.sheyeye.com/?pid=30237277


Gruppo Folk Internazionale / Il Nonno Di Jonni
L'Orchestra OLPS 55001
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=30123693
 本作は彼らの4作目にして最終作。トルコからアラビア半島中もしっかり視界に入れた地中海音楽ミクスチャーにさらに陰影濃い東欧性ふんだんに盛り込み、時代錯誤的な世紀末サロン趣味をあざといまでにまぶした上に決して3で割ろうとしない掟破りの濃密/濃厚さが、彼らの嗜好/志向を物語っている。オーボエやファゴット等を活かした入念なオーケストレーション、オペラティックな朗唱から語りに至る声の振幅、ミュゼット的なワルツ端唄の頽廃した香りを奇妙奇天烈なアンサンブル構成(ノイジーな物音、たなびく口笛、「世界に冠たるドイツ」の勇壮極まりない斉奏がやがてぐずぐずに崩壊していく‥)が引き立てる。舞台音楽的な情景喚起力の強さと場面転換の鮮やかさは他に類例を見ない。かつてAreaが掲げたThe International Pop Groupの称号と彼らのグループ名との響き合いにも注目してほしい。1979年作品。


Ensemble Havadia / Ensemble Havadia
L'Orchestra OLPS 55017
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=45542059
 前掲Gruppo Folk Internazionaleが発展的に再編され、このEnsemble Havadiaが生まれた。新たに少女のヴォイスが加わり、聖歌を思わせるコーラスが盛り込まれるなど、アッサンブラージュ性を高めながら、ヨーロッパ音楽の様々な類型が擦り切れるまで酷使される。その分、直接的な民族音楽風味はやや薄まっている。スパイスやハーブを塗りたくられた分厚い焙り肉から繊細なミルフィーユへ。だが聖なる合唱がやがて鼾に侵食され、さらにはラジオから流れるファンファーレに取って代わられ幾つもの寸劇が始まるように、すべては舞台上の書き割りに過ぎない。Jerome Savary(何と今年3月に亡くなっていました。合掌)率いるGrand Magic Circusを思わせる破壊力のあるフモールはさらに毒性を増している。1981年作品。


Daniele Sepe / Senza Filtro
Dunya 28049
試聴:http://www.cduniverse.com/search/xx/music/pid/4903545/a/senza+filtro.htm
 本作はナポリ出身の異能サックス奏者/作曲家ダニエーレ・セーペが過去の作品からのセレクションに新規録音を追加した変則的構成となっており、a sample of "de-composed " traditional music from South Italyと副題にある通り、切り貼り/重ね合わせによる解体/再構築モードが卓越している。小気味よく突っ走り切れ味鋭くステップを踏む民族音楽系のリズムを、モーダルな次元で切り結んだジャズ演奏が揺らめかせるように引き延ばしながら輪郭を崩壊させていく。一瞬で情景を喚起する効果音が鳴り響き、弦の分厚い波がこれに被さり、すべてを水没させ押し流す。ここでは冒頭に述べた諸力は、むしろ甘く切なくおぼろな記憶と個人史を巡って、映画的/精神分析的に推移する。こうした傾向/手法は翌年の『Anime Candide』でさらに過激に発展させられ、痛々しいトラウマに容赦なく踏み込み、堪え難いフラッシュバックや痙攣するような強迫反復を引き起こすものとなっている。2002年作品。


Paolo Fresu / Sonos 'E Memoria
Act 9291-2
試聴:http://www.amazon.com/Sonos-E-Memoria/dp/B0011YL90Y
 歌姫Elena Leddaのゆっくりと巡りながらたちのぼり、思い出の糸をゆっくりと記憶の繭から紡ぎだしていく声の力に導かれて、あり得ない懐かしさを秘めた記憶が次々に立ち騒ぐ。名手Mauro Palmasの爪弾くマンドーラの切ないきらめき、Daniele Sepe作品にも参加しているAntonello Salisによるアコーディオンの空間的な閃き、打ち込まれる民族音楽系打楽器の硬い倍音、サルデーニャ伝統の男性四重唱による胸を締め付ける響き、震えで視界を覆い尽くしてしまうラウダネスのダブル・リードの振動。むしろFresuのトランペットは短く切り詰めた淡い響きで、次なるスペースをアンサンブルに指し示しているように見える。1930〜50年代に撮影されたサルデーニャの民衆の日常生活を収めた記録フィルムの抜粋/編集作品のためのサウンドトラック。降り注ぐ陽光に白く飛んだ屋外風景と暗くしめやかな礼拝堂の明暗の対比。きびきびと動き回り羊の毛を紡ぎオリーヴを収穫する働き者の女たちの民族衣装。鉄鉱石を掘り出し、塩田から塩を積み込み、獲れた魚を陸揚げする男たちが船に乗っていく。子どもたちは屈託なく路地で遊び、祭礼の行列を見詰める。放たれたサウンドの震えが空間に滲んでいく様は、ここで記憶の回帰/変容とひとつになっている。次でフィルムの一部を見ることができる。2001年作品。
http://www.youtube.com/watch?v=xUUCsXwCBtw


Roberto De Simone, Media Aetas / Li Turchi Viaggiano
Oriente Musik Rien CD 44
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=epiUhFnhRis
 先鋭的トラッド・グループの草分けとして、地中海音楽のサラセン的要素にも敢然とアプローチを試みたNuova Compagnia Di Canto Popolare(NCCP)を1968年に創設し、その初期活動を中心となって支えた作編曲家の近作。圧倒的な存在感を持つ骨太肉厚な声と演奏の力は、他の紹介作品を蹴散らすほどの気迫をたたえている。喉から胸、横隔膜から腹腔にのしかかる強度と響きの強靭さが分厚い金管の斉奏と拮抗し、さらに裏返らんばかりに張り上げた声に斜めに横切られ、その傍らを弦が滑り落ちていく。古楽風の対位法的構成も、緻密さよりもゴシック建築のがっしりとした石組みと遥か見上げる穹窿による重量感溢れる構築を思わせる。一種のオペラ(オペレッタ?)なのだろうが、朗々と響く声を襲い続ける前述の「拮抗」と「横断」が、舞台をプロセニアムに囲われた壇上から土埃の煙る平土間へと引き摺り下ろす。Roberto De Simoneにとっても会心作に違いあるまい。

ディスク・レヴュー2013年1月〜5月 その3  Disk Review Jan - May, 2013 vol.3

  1. 2013/07/12(金) 23:29:27|
  2. ディスク・レヴュー|
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 ディスク・レヴュー第3弾はエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションの領域からの7枚。
 今までにも繰り返し述べてきたように、another timbreやcreative sources、あるいは比較的最近のpotlatch等のレーベルの作品とサウンドスケープ、アンビエント、フィールドレコーディング等と呼ばれるジャンルの作品のサウンドの類縁性に気づいて以来、それらのエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションと器楽的インプロヴィゼーションをレヴューの対象として仕分けるようになった。
 両者のどこが違うかと言えば、後者においては、向かい合う演奏者の身体の輪郭が空間のパースペクティヴに浮かび上がり、それらが相互に触発し合う運動の結果としてサウンドが編み上げられていく。コンピューターやエレクトロニクスに用いる演奏者であっても、こうした対峙の構図の中では「個」としての「ヴォイス」を持つことになる。たとえそれがプリセットされた音色であり、固有の声ではない場合であっても。そこには時間の経過の遅速の揺らぎはあったとしても、同一の(単数の)タイムラインが共有されている。まるで共に演奏する空間同様、すでに存在している枠組みが共有/共用されるのはごく当たり前のことであるかのように。
 対して前者においては、演奏者の身体は薄闇に沈み、輪郭は薄暮に溶解してあてもなく流出し、たとえソロ演奏であってもサウンドは常に複数形で現れる。空間に対しては常に変容が仕掛けられ、充満し相互に浸透しあい、分割され貼り合わされ敷き重ねられる。同様に時間に対しても複数のタイムラインが浮かび上がり、各レイヤーは思い思いの時を刻む。ここで注意すべきはひとつひとつのレイヤーが、それぞれ単一の現実に対応しているわけではないことだ。レイヤーとはあくまで便宜的な表現であり、その素材となったひとつのサウンド・ファイル、あるいはひとつの画像データに対応する物ではない。むしろ、複数の空間と複数のタイムラインの立ち現れに当惑した知覚が、それらをレイヤーの重ね合わせになぞらえてとらえようとしているに過ぎないだろう。

 多田雅範がブログでこの謎めいた核心部分を的確に言い当てている。

 このChristian Muntheのたとえばソロ演奏を、
涼しく聴いた、ということではなくて(それじゃあおハナシにならない)、
以前のように、抽象図形の美を脳内に描くように聴くこともしていた、んだが、

ひとつのギター、ひとりの奏者であるソロ演奏に、複数のタイムラインといったものを視てみて、

たとえばボールの動きだけ見ればそのジグザグ、速度変化、高低、カーブが抽象図形美に近しいとして、

サッカー選手の4・5にんの動き(=複数のタイムライン)が存在するものとして、

「聴こえてしまう」んだなあ・・・

もう20ねん近く前のレコーディングなんだけれど。
これもまた「メロディフェア状態」と言えるのではないだろうかー。
※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130709

 これは重要な指摘だ。これまで私は複数の異なる生成原理の集積である点を「風景」になぞらえたり、あるいは一見揺るぎない輪郭が実は内外の絶え間ない往還の動的平衡によりかたちづくられた境界面に過ぎないと言ってみたりしていたのだが。これは東浩紀が『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』で論じていた「互いに異なる演算速度を持つ情報処理装置が複数組み込まれている」状態とパラレルと言えるだろう。

 今回採りあげた7枚中、冒頭の広瀬淳二作品を除く6枚が、まさにこうした関係性のヴァリエーションとでも言うべきもので、自然とレヴューのアプローチも類似ケースの症例集的なものとなった。そのことを意識してレヴューに眼を通し、音源に耳を傾けてみるのも面白いかもしれない。前置きが長くなったが、それでは始めよう。



広瀬淳二 / SSI-4
Hitorri hitorri-997
Junji Hirose(self-made sound instrument version 4)
試聴:http://www.ftarri.com/hitorri/997/index-j.html
 息音に似た響きがゆっくりとたちのぼり、薄暗がりの中で金属質の軋みに傷つけられていく。そこにかつて聴いた広瀬の手製ノイズ・マシーン演奏の、泡立つような性急な速度はない。共通の枠組みに取り付けられ、互いに振動を伝え合い干渉し合う各部分の「鳴り響き」の交錯/衝突は一段と深いレヴェルへと移行し、より繊細で微視的な、だが以前を上回る静かな速度を秘めた戦闘を繰り広げている。音は刻一刻、絶えることなく滾々と湧き出し続け、もつれ絡み合い、複雑な、だが澄み切った文様を織り上げていく。時にその様は古びた工場に放置された自動作業機械の端正な律動に限りなく接近し、彼は手練の職人のように指先の感触に注意深く耳を傾ける。響きはそのまま水深を増し、すべてを呑み込んで水没させ、さらに圧力を高めながら、「耳を聾する静寂」へと一歩一歩近づいていく。この充満のかたちづくり方は循環呼吸とマルチ・フォニックスを用いるサキソフォン奏者のそれを思わせるところがある(より細部が顕微鏡的に拡大され、音の密度を増してはいるが)。だが、広瀬のサキソフォン演奏がかつてたたえていた、噛みちぎり破り捨て燃やし尽くす性急さを、この音はやはり遠く離れている。彼自身は否定するだろうが、私はこの変容を「円熟」と呼びたい。傑作。



Atolon, Chip Shop Music / Public Private
Another Timbre at59
Ruth Barberan,Alfredo Costa Monteiro,Ferran Fages
Eric Carlsson,Martin Kuchen,David Lacey,Paul Vogel
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=7FldWrPZJno
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/anothertimbre/at-59.html
 かさかさと鳴る細かい粒子の振動、震える空気の柱、遠くで聴こえる群衆のざわめき、蜂の羽音のようなエレクトロニクスのうなり、ベルの鋭い一撃がぴりぴりと鳴り響かせる空気。アコースティックなものとエレクトロニックなもの、音と言葉、器楽演奏とラジオやテープの導入。ここには様々な質感の違うものが混在/共存している。けれどそれらは決して見分け難くひとつに溶け合っているわけではない。フレーズの排除はこれらの音を「音響」化し、各々がもともと属していた文脈から切り離すが、それでもひとつひとつの音は異なる仕方で空間を開き照らし出すことを止めようとはせず、それは空間に対する化学作用の違いとして現れている。音がそれぞれくっきりとした輪郭を保ち(たとえどれほど希薄ではあっても)、互いに作用を及ぼしあわないことにより、サウンドの全体は明滅の集合体、きらめく星空としてその姿を現す。密度と持続を巧みにコントロールしたアンチ・クライマックスの演奏は、だから少しも積み重ならず、決して台地状の連なりを形成しない。「Public」と題された聴衆のいる演奏に対し、聴衆のいない「Private」では、その不在を埋め合わせるかのように、音はいよいよ切り込みの深さと重なりの厚みを増している。7人という演奏者数の多さを考えれば、むしろこちらの方が「通常」の即興演奏モードと感じられ、そこから顧みれば前者の演奏の鮮やかな達成が浮き彫りとなる。


Johnny Chang, Stefan Thut / Two Strings and Boxes
Flexion flex_005
Johnny Chang(zither,object),Stefan Thut(zither,object,composition)
試聴:http://www.flexionrecords.net/?page_id=803
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/flexion/flex-005.html
 低くうなり続けるチターの弦のミクロな震えを、水平に構えたヴィデオ・キャメラの超近接撮影が克明にとらえ、その向こうに淡く揺らめくエフェメラルな空間が浮かび上がる。ごく手前に像を結ぶがさがさとした摩擦音を、永遠に続くかと思われるピュアな弦の振動が溶かしさり、やがて自らも沈黙の中に身を沈めると、空間の「そこにある」気配が亡霊のように浮かび上がり、はるか遠くを車が通り過ぎ、学校の階段で子どもが何かを叫んでいるような気がする。前掲作で聴かれる音の輪郭/手触りの確かさに比べ、本作では音は常に近すぎるか遠すぎるかして、一様に不確かさに汚染されている。ふと気がつくと鳴っており、知らぬ間に鳴り止んで別の響きと交替している音の不確かな立ち現れに、耳はうまく焦点を合わせることができない。まさにそれがWandelweiser楽派のひとりでもある作曲者のねらいなのだろう。だがそれはかつてこの楽派に注目した音楽評論家たちが得意げに語った音が少ないとか音量か極めて小さいとか、あるいはライヴ会場で空調の動作音や冷蔵庫のコンプレッサーの音が聴こえたというような暢気な話ではない。彼らは聴きたいものを聴いているに過ぎない。これはむしろ耳が聴取の構図を設定できず、とまどいの中で「耳の枠」からこぼれ落ちてしまう音があることを、聴かされてしまう/聴かざるを得ない過酷な体験なのだ。聴き手は耳の視線があてどもなく宙に浮き、伸ばした指が空をつかみ、自分が何を聴いているのか/聴こうとしているのか判然としない不安との戦いを通じて、辛うじてこの演奏の一端を耳の視界の隅にとらえることができるに過ぎない。静けさに満ち満ちたハードコア。171枚限定。


Sarah Hughes / Accidents of Matter or of Space
Suppedaneum Number One
Sarah Hughes(zither),Rhodri Davies(harp),Neil Davidson(guitar),Jane Dickson(piano),Patrick Farmer(electronics),Dimitra Lazaridou-Chatzigoga(zither)
試聴:https://soundcloud.com/suppedaneum/sets/sarah-hughes
 Sarah Hughesによるソロ・インプロヴィゼーションと5人の演奏者のためのコンポジション「Can Never Exceed Unity」のグループ演奏を収録。後者は「第一奏者は連続したトーンやサウンドをあらかじめ定めた時間演奏せよ。これがコンポジションの半分の長さとなる。第二奏者は合計で第一奏者の半分の時間、自由に演奏せよ。第三奏者は合計で第二奏者の半分の時間、自由に演奏せよ。第四奏者は‥‥」という簡潔な指示のみで構成され、ここには同一グループによる3つのリアリゼーションが収められている。表題とは裏腹に、後から付け加えられた(持続)音は全体性へ向けて補完するというよりは、常にこれまで見えていなかった別の側面を浮かび上がらせ、むしろ全体像を遠ざける。
 対して前者は、遥か遠くの爆発のようにゆっくりと空間を伝搬し、粉塵の雲のように不明瞭に立ちこめる打撃音、近く遠くきらめく澄んだ弦の響き、電子音を思わせる持続振動(おそらくはe-bowによる)等が、距離のパースペクティヴをあからさまに欠いたまま希薄に充満する。空間の中に音が置かれるというより、黒い雲の中を稲光が走りとらえどころのない不定形の明滅が繰り返される光景にも似て、空間それ自体の混濁した揺らめきだけがある印象。私にはむしろこちらの演奏の方が刺激的だった。A3版の大きなシートにCD−Rが封入されている。100枚限定。


Animist Orchestra / Auscultation
レーベル・番号記載なし
Animist Orchestra Seattle, Animist Orchestra Austin,Jeph Jerman
試聴:
 向こう側に開けたスクリーンに映る外の環境音の手前で、刻一刻生成し続けるちっぽけな物音が視界を洗い続ける。指先で小石を探り、木目をたどり、陶片を打ち合わせ、掌の下で枯れ葉が砕ける感触を楽しみながら、絶え間なく音を紡ぎ続ける。手の動きに合わせて皮膚の上を移ろう響きだけが、視覚いっぱいに広がるざわめきの中で、自分のたてている音だとわかる。だがそれもふと視線を上げると、エコーにより不明瞭に滲んだはかなげな揺らめきに溶け、どれがどれだかわからなくなってしまう。タージマハール旅行団を思わせる「日常的な営み」としてのインプロヴィゼーションは、だが小杉たちが過剰なリヴァーブにより留保していた距離の感覚や時間/空間のLSD的な変容を伴わない。彼らはすでにある空間の片隅にそれぞれひっそりと閉じこもり、指先にちっぽけな響きを灯すだけだ。同調のくびきから逃れるというより、隙間からこぼれ落ちてしまう細かな音の粒。CD−R2枚組。


Ernesto Rodrigues, Radu Malfatti, Ricardo Guerreiro / Late Summer
Creative Sources CS230CD
Ernesto Rodrigues(viola),Radu Malfatti(trombone),Ricardo Guerreiro(computer)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/creativesources/cs-230.html
 車の音、遠い人の声、犬の吠え声。離れた窓の向こうに広がる外の景色の手前を物音が横切り、ツーンとした耳鳴りやブーンといううなりが視界を曇らせる。「演奏」が進むにつれ、彼らがこうした音響的インプロヴィゼーションの定型(をとらえる視角)を自在に裏切る老獪さをたたえていることに気づかされる。楽器は自らの輪郭/相貌を際立たせることなく、生活騒音の中に潜み、これを擬態する。部屋の軋みや窓から進入する物音、階段室に響く話し声、外から響いてくる風の唸りにくぐもった息音が身を沈め、その手前には息の掠れがふと浮かび上がる。希薄に重なり合いながら層の積み重ねとして奥行きを示す音響とそれを刺し貫き交錯する演奏。
 2枚組のもう1枚に収められているのは外の音が入らない閉塞空間で、ここでは演奏だけが音空間を構成する。音素材の感触はほぼ同様でありながら、もやもやとしたざわめきがすぐそこに行き止まりの「壁」として立ちはだかる奥行きの浅い空間のせいで、弦のねじれや軋み、ふっと吹き込まれた息の広がりやマウスピースの泡立ち、シーンとした電子音の水平線、プチッと鳴るグリッチ、ぴちゃぴちゃした口腔音や重苦しく下腹部にのしかかる低音等の各サウンド群は、「地」へと潜り込むことができず、ほとんど気配しか市内にもかかわらず、その場に姿を浮かび上がらせずにはいない。



Guerreiro, Malfatti, Rodrigues / Shimosaki
B-Boim Records 027
Ernesto Rodrigues,Radu Malfatti,Ricardo Guerreiro
試聴:
 前掲作と同一メンバーによる前日の演奏を収録。音楽祭のライヴ録音だけあって、眼差しがとらえ得るのはあくまでステージの上の出来事だけであり、前掲作のように部屋にたゆたいあるいは澱む空気が見えてくるわけではない。だからこそ、真っ黒なフィルムの影の上をせわしく走り回るカリグラフのように、点描が明滅し、希薄さのうちに鋭く応答の線が走る。極端なまでに絞り込まれギリギリまで削られた音が、硬く尖った鉛筆で描かれた点と線だけのドローイングを鋭い筆致で支えており、一方、持続音の敷き重ねとそれらの層の間の摩擦/軋轢が触覚を刺激し、緊密/緊張と速度による支配を確実な物としている。



ディスク・レヴュー 2013年1月〜5月 その2  Disk Review Jan. - May, 2013 vol.2

  1. 2013/06/25(火) 23:08:10|
  2. ディスク・レヴュー|
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 ディスク・レヴューの第2回は器楽的インプロヴィゼーションからの7枚。ミッシェル・ドネダ参加作品が2作も含まれているが、透明な流麗さから荒々しい肉体闘争まで、速度そのものと化したサウンドの奔流から古びた心霊写真のように優雅な停滞まで、アコースティックな交錯からエレクトロニックな散乱まで、むしろ演奏の手触りは幅広く変化に富んでいると思う。長い準備期間をかけて選び抜いただけあって、いずれも秀作揃いと自負している。ぜひ耳を傾けてみていただきたい。



Benoit Delbecq & Fred Hersch Double Trio / Fun House
Songlines Recordings SGL-1600-2
Benoit Delbecq(piano),Fred Hersch(piano),Jean-Jacques Avenel(bass),Mark Helias(bass),Gerry Hemingway(drums),Steve Arguelles(drums,live electronics)
試聴:http://www.delbecq.net/bd/bd2audio.html
   http://www.allmusic.com/album/fun-house-mw0002482989
   http://vimeo.com/58387908
 ピアノとプリペアド・ピアノによる足のもつれたリズムの交錯。トリオの交感がつくりあげる本来は閉じた三角形を外へと開き、溢れ出す音の流れ。手前と背後で、右手前と左手奥で緊密に呼応しながら、異なる平面を推移する響き。ものの動きとかげの移ろい。光線の翳りと輪郭のちらつき。ピクニックのバスケットを囲む家族の団欒の後ろで、ふと風にそよぐ樹々の揺らめき。時折ピアノからドビュッシー的なきらめきが香るのは、そうした光に鋭敏だからかもしれない。決して場所を占めすぎることのない、各楽器の冷ややかに抑制された端正なタッチは、空間を埋め尽くすことなく、確かな余白の広がりを指し示す。小鳥の羽ばたきにも似た、粘度の低いさらりとした素早い動きが、磨かれた表面を滑走していく。そぼ降る雨の中、音もなく行き交う人の群れを、四角く切り取る窓のガラスに、弾ける水滴の予測し難い振る舞い(ズームの寄りと引きを繰り返すキャメラの視線による)。終曲を飾るのはオーネット・コールマン「ロンリー・ウーマン」。


John Butcher, Tony Buck, Magda Mayas, Burkhard Stangl / Plume
Unsound U35
John Butcher(saxophones),Tony Buck(drums,percussion),Magda Mayas(piano),Burkhard Stangl(guitar)
試聴:http://www.unsounds.com/35u.html
 冒頭のDerek Bailey,Evan Parker,Tony Oxleyのトリオを彷彿とさせるやりとりに一瞬驚かされるが、すぐに互いの感覚的距離がずっと近いことに気づく。音は投げ交わされるのではなく、演奏者の身体から切り離されることなく肌を触れ合わせ、折り重なる。響きの肌理を震えを触知する皮膚感覚的演奏。その一方で、ひたすら希薄な広がりを編み続けることに飽き足らず、間断なく音の粒立ちを変容/推移させ続けるヴィルトゥオージテは、旧世代から綿々と受け継がれた今となっては貴重品にほかなるまい。特にJohn ButcherとTony Buckの驚くほど繊細かつ多彩にして、ダイナミクスの振幅の大きな演奏が素晴らしい。後半は二人の紡ぐ電子パルスの雲のような集積に、Magda Mayasが冷たく硬質な輪郭を深々と刻印するトリオとなる。


Michel Doneda, Nils Ostendorf / Cristallisation
Absinth Records 023
Michel Doneda(soprano & sopranino saxophone,radio), Nils Ostendorf(trumpet)
試聴:http://www.absinthrecords.com/clips/023free.mp3
   http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16336
 風神の戦い。まっすぐに管を吹き抜ける息と、息の流れがねじれて生じた結び目が、管の各部をポリフォニックに分割振動させ、多重な輪郭の揺らぎが姿を現す。彼らは至近距離で対峙しながら、決して息を溶け合わせることがない。そそり立つ息の柱の間近を、噴出する鋭い風のうなりが削るように行き過ぎる。二人は互いの左手首を結わえ付け、右手にナイフを持った決闘者のように斬りつけ合う。両者の放つ音が「無声音」から「有声音」の領域へと移行し、寸断されたフレーズが寄せ集められて、彼らの向かい合う距離を介して「対話」へと編み上げられる時であっても、そこには常に「音響」へとこぼれ落ちていく回収不可能な逸脱があり、それを先の「接近戦」の感覚が支えている。500枚限定。


Doneda, Lasserre, Pontevia / Miettes & Plaines
Petit Label PL son 014
Michel Doneda(soprano & sopranino saxophone,radio), Didier Lasserre(snare,cymbal), Mathias Pontevia(horizontal drums)
試聴:https://soundcloud.com/psaihtam/miettes-plaines-extrait1
   http://www.petitlabel.com/pl/disque.php?ref=PL%20son%20014
 またしてもドネダ。しかし本作では、ほとばしる流動への純化に至った前掲作とは異なり、より色彩豊かに音色の運動を繰り広げる彼を聴くことができる。シンバルの連打の交錯を篠笛を思わせる甲高い音色が鋭く突き刺し、弓弾きシンバルの軋みから溢れる倍音の雲に対しては超高速の息の奔流が応え、ほとんどエレクトロニクスにも似た剛直な音色のパルスが激しく泡立ちながら明滅を繰り返す。ここで三人は演奏の場が張り裂けそうになるほど激しく息を吹き込み、忙しなく打ち込み揺すり立てながら、各々の動き回る身体の輪郭を聴き手の視線にさらし、等身大の世界を生きている。牙を立て噛みちぎるようなサックスと雪崩落ちるパーカッションの肉弾戦。あるいはふつふつとたぎる息と静かに擦られる打面の振動、間を置いて打ち鳴らされる金属音に注意深い眼差しを注ぎ続ける耳。だからこそ雑色的な異空間を導入するため、時折ラジオが用いられるのだろう。


Stephen Cornford, Samuel Rodgers / Boring Embroidery
Cathnor Recordings Cath015
Stephen Cornford(electronics),Samuel Rodgers(piano)
試聴:http://cathnor.com/?product=stephen-cornford-samuel-rodgers-boring-embroidery
   http://www.art-into-life.com/product/3476
 暗闇にピアノの打鍵がぽつりぽつりと滴り、空間に静かに波紋を広げる。空気がねっとりと波打ち、突然の衝撃にひしゃげ、あるいは一瞬プラズマが閃く様が、冷えきったエレクトロニクスにより彫啄され、皮膚表面のうぶ毛をざわつかせる。速度へと傾くことなく、一音一音の内部に潜む微細な振動の重なりにひたすら眼を凝らすピアノが、何より素晴らしい。希薄なエレクトロニクスの広がりに浸されながら、その響きは音響へと解体されてしまうことなく、目蓋の裏に映る残像のように希薄化しながらも、断じてそこに留まり続ける。耳の奥に貼り付いたピアノの地縛霊。そう言えば、このエレクトロニクスの感触は心霊写真にぼんやりと浮かび上がるエクトプラズムに似ている。カヴァー・アートのほとんど意味不明な、得体の知れない優雅さもまた魅力的。


Axcel Dorner, Mark Sanders / Stonecipher
Fataka 5
Axcel Dorner(trumpet,electronics),Mark Sanders(drums,percussion)
試聴:http://recordings.fataka.net/products/513486-stonecipher-axel-dorner-mark-sanders-fataka-5
 トランペットの息音、間歇的なあるいは変化することなく鳴り続ける電子音、鋭く短くあるいはやはり変化することなく擦られるシンバル‥‥。そうしたいかにもな音響的素材は、しかし通常のエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションの語法、すなわち触れるか触れないかぎりぎりに保たれた水平な層の重なりや、形なく溶解してクロマトグラフィックに滲み広がっていく希薄な響きの相互浸透等、に従うことなく、解き放つことの衝動と快感のままに放射/噴射され、勢いよくぶつけ合わされる。もちろんそこには冷徹な抑制が貫かれており、情動の垂れ流しに至ることなど決してないのだが、この交感はむしろロックあるいはノイズ・ミュージックのそれに近い(ミクロな次元まで研ぎ澄まされているとは言え)。それゆえ器楽的インプロヴィゼーションの枠に入れた次第。向かい合う二人の音像は明確な輪郭をたたえ、至近距離で激しく切り結ぶ。息音と電子音をまったく並列的に取り扱うDornerが素晴らしいのは当然として(その手つきはデヴィッド・チュードアを思わせる)、音色の遠近を際立たせながら、実に的確に対象を打ち抜くSandersの鮮やかさには驚かされた。録音も演奏の核心を鮮明にとらえている。


Ikue Mori, Steve Noble / Prediction and Warning
Fataka 6
Ikue Mori(electronics),Steve Noble(drums,percussion)
試聴:http://recordings.fataka.net/products/513487-prediction-and-warning-ikue-mori-steve-noble-fataka-6
 見事なスティック・ワークで風のように駆け抜け、鮮やかに身を翻すNobleと向かい合い対抗するのではなく、ミクロな細流となってその間隙に入り込み、衝突することなくすり抜け、常に高速で交錯し続けること。Moriは実に考え抜かれた明確なヴィジョンの下、表情ひとつ変えることなく沈着冷静に、サンプリングされた打撃音の破片を振り撒き続ける。降りしきる豪雨を幾重にもセットされたプロペラの回転が切断するような、恐ろしいばかりに高密度に圧縮された高速運動体(だが超高速度撮影で見返せば、ローターと雨粒はまったく衝突などしていない)。本作に比べれば、「高速ビートの交錯」を謳うスピード・メタルやターンテーブル・スクラッチはまったく児戯に等しい。チャン・イーモウがスローモーションで魅せるスーパー・アクション(時折濃密に過るオリエントな香りからの連想)を、反対にバスター・キートン的に何倍にも加速したような、思わず込み上げる笑いを抑えきれない圧倒的快作。

ディスク・レヴュー 2013年1月〜5月 その1  Disk Review Jan. - May 2013 vol.1

  1. 2013/06/19(水) 22:43:54|
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 遅ればせながら、今年第1回目の新譜ディスク・レヴューをお届けしたい。まずはフィールドレコーディング、サウンドスケープの領域からの7枚。


Toshiya Tsunoda / The Temple Recording
Edition.T, e.03
Toshiya Tsunoda, Koichi Yusa, Sachie Hoshi, Teppei Soutome
試聴:http://www.art-into-life.com/product/3207
 まだ幼い頃、布団に入って横向きに寝ていると、どこからともなく行進の音が聞こえてきて、何だろうと起き上がると消えてしまう。そして再び寝入ろうとすると、ざっざっざっという規則正しい足音がまた響いてくる。何のことはない、その正体は蕎麦殻の枕に押し当てた自分のこめかみの脈動だったわけだが、そのことに気づくまでずいぶんと怖い想いをした。ジャケット写真に示されるように、ここで角田俊也は表題通りこめかみにマイクロフォンを装着し、風景と向かい合う。いわゆるバイノーラル・レコーディングと異なるのは、マイクロフォンが前方だけでなく周囲の、とりわけ身体内部の音もとらえてしまう点だ。それゆえ先に述べた雪を踏みしめるような「行進の足音」が規則正しく刻まれ、不透明にこもった響きの向こうに烏の鳴き声や小鳥の囀りが浮かび上がり、その遠ざかるような距離感が妙にリアルに感じられる。視覚が、対象との間の距離、介在する空間=分厚い空気の層をないものとしようとするのに対し、ここで聴覚はそうした隔たりを際立たせ、我々が重たい肉を被っていることを気づかせる。薄暗くはっきりしない風景の前で、耳の視線は内面へと沈み込んでいかざるを得ない。かつてのWrk以来の角田のコンセプチュアル・アート的な実験音楽志向について、私はそのすべてを無条件に賞賛するものではないが、本作が明らかにしている世界の手触りは素晴らしい。300枚限定。


Jakob Ullmann / Fremde Zeit Addendum 4
edition RZ 1029
Hans-Peter Schulz(organ)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=17326
 昨年聴いた最良の作品のひとつとして挙げたCD3枚組Jakob Ullmann『Fremde Zeit Addendum』の続編(作曲作品としては前作にSolo�鵯+�鵺+�鶚のうちの�鶚の部分に当たるようだが、別の機会の録音でもあり、当然のことながらまったく違って聞こえる)。オルガンの持続音の静かなうねり/うなりの向こうに、遠くたなびく薄いもやのような層が現れ、空間の奥深さがそうした層の重なりとして次第に浮かび上がると、その奥行きに投影されるように、稲光の素早いちらつきがはるか遠くで発光し、その前に新たな持続の層が立ちふさがったかと思うと、ゆるやかに薄らいでいく。暗闇を凝視するうちに次第に目蓋が重く閉じていくように、視界はコントラストを失って、薄闇と薄明がひとつに溶け合って、墨跡の滲みの重なり合いと化し、音もなくたゆたいながら、時折、鈴鳴りにも似た透き通った響きが空間を震わせる。


Jeph Jerman / Psaltery
レーベル番号なし
Jeph Jerman(psaltery,editing)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/jephjerman/jerman-131.html
 物音系コンクレートの大家ジェフ・ジャーマンの自主制作による本作には、ほとんどクレジットがないが、表題と収録された音から推察すれば、プサルテリーの弦をe-bow等で持続的に振動させているのではないか。ほとんど電子音といってよい響きの中に、指先にかかる軋轢や摩擦を連想させる「しこり」が感じられる。それゆえ音はざらざらとした砂を噛むような異物感を湛えたまま、中空に掲げられ磔刑に処され、ふるふると震えちらつき、あるいはひくひくと不均衡に痙攣を続ける。ドローンの思わず覗き込むような深さはここにはない。代わりに奥行きを欠いた不透明な浅さが際立っており、種も仕掛けもない極めて具体的な物質の手触りを伝える。と同時に録音や編集の過程で不可避的に付け加わったのであろう不明瞭さや虚ろな反射が、これらの響きをさらに魅力的なものとしている。


Jeremie Mathes / Efequen
Unfathomless U15
Jeremie Mathes(fieldrecording,editing)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/unfathomless/u15.html
 Unfathomlessが継続している特定の記憶を持った土地におけるフィールドレコーディングを素材としたコンクレート作品。ここでは主としてカナリア諸島で録音された渦巻くような風の唸り、子どもたちの声、泡立つ水音、そよ風に揺らぐ軽やかな雨音の粒立ち等が精密にして繊細極まりないパッチワークを経て、家族のアルバムから滑り落ちた1枚の色褪せた見知らぬ写真のように、あり得ない記憶のどきどきするほどリアルな迫真性をたたえている(サウンドの移り変わりのスリリングなこと!)。接合/投影され重ね合わされた音素材がもたらす、あえかな滲みや相互干渉による歪み、空間のパースペクティヴのずれや乱れ、多重露光を思わせる異なる速度のすれ違い、本来同時に成立し得ない物音の共存等が、ほとんどドラッギーな酩酊と言うべき、物静かな錯乱を招き寄せる。物語性や象徴性の次元をあからさまに欠いて、指先の感覚によって導かれた隣接性の論理のみによってつくりあげられた、精緻な音の象眼細工。このレーベルの作品の水準の高さにはいつも驚かされる。限定200枚。


Sala / Plotina
obs* 042
Audrius Simkunas(fieldrecording,arrangement,transformation,mixing)
試聴:http://abser1.narod.ru/index/0-37
 地を這う押し殺した息遣いが、しばらくするうちに次第に頭をもたげ、あたりを眺め回し、眼前に立ち上がる中から吹きすさぶ風音のどよめきや吹き晒されて錆びた門扉の軋み、遠くから風を渡る犬たちの吠え声、あるいは太い送電線の唸り等が姿を現す。しかし人々の口端から漏れるつぶやきや脈々と尽きることのない清水の流れが聴こえてくるにつれ、先ほどから眼前を覆って揺らぎ続ける見通し難い音の幕が、風の音であることが急に疑わしくなってくる。降り続く雨にいよいよ水かさを増した河の流れのようでもあり、厚いコンクリートの壁を隔てて伝わってくる巨大な機械の動作音のようでもあり、巧みに自然音の陰影を施されたジェット旅客機の飛行音のようでもある。いずれにしても音は、通常ドローンと呼ばれる一様にして稠密な深さとは似ても似つかぬ、不均質な隙間/気泡をはらみ続ける。「これは全き流れである 年月を経ることもなく‥」とジャケット代わりの大判ポストカードに引用された詩文は始められる。65枚限定。


Marc Behrens / Queendom Maybe Rise
Cronica 076-2013
Marc Behrens(fieldrecordings,electronics,editing,mixing),Yoko Higashi(voice sample)
試聴:http://www.cronicaelectronica.org/?p=076
 視界を覆い尽くすほどに湧き上がる虫の軋り、猿の遠吠え、彼方で鳴き交わす長短の鳥の声。息の詰まるほど濃密にたちこめる熱帯雨林のサウンドスケープが、高熱にうなされるように揺らめき遠のいて、ぐるぐると廻り始める。空をつかむ指の間から逃れ去る音の手触り。エレクトロニクスによる響きの再構成が、ぐわんぐわんと頭蓋骨を振動させ、落ち葉の間から蟻の群れが這い出るように、ざわざわと耳の視界をシミュレートし続ける。その精緻さは時に晩年のRolf Julius(『Raining』等)を思わせもするが、ここでのBehrensの構築は随所にぞっとするような深淵が口を開けており(超低音の響きの凄まじいこと)、そうした空間構成の乱脈さとサウンドの熱量において上回っている。東陽子のヴォイスの登場は最後の7分間のみ。


V.A. / Touch. 30 Years and Counting
Touch Tone 33cd
Touch 33,Fennesz,Bruce Gilbert,Rosy Parlane,Oren Ambarchi,ELEH,BJ Nilsen,Nana April Jun,Chris Watson,Mika Vainio,Carl Michael von Hausswolff,Jana Winderen,Philip Jeck,Francisco Lopez,Z'EV,Hildur Guonadottir,Biosphere
試聴:http://www.linusrecords.jp/products/detail/6528/
   http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=10139
 アンビエント、サウンドスケープ、フィールドレコーディング作品等を多くリリースしてきた英国の老舗レーベルTouchの活動30周年記念コンピレーション(2012年作品)。超豪華な面子に驚くが、決して既出音源の編集盤ではなく、すべてここでしか聴けないトラックにより構成されている。同時にリリースされたLP盤2枚組に合わせたのか、各ミュージシャンの音源は4トラックにまとめられているが、重ね合わされているわけではない。わずかな沈黙だけに隔てられて、異なる風景/音響世界が連ねられていく。たとえば3トラック目の冒頭を飾る、おそらくは走る列車の車内から外界へと耳を澄ましたChris Watson作品において、疾走する列車と線路が刻む心地よい振動を果てしなく滑らかに伸びていく軸線として、車窓を移りゆく風景は次第に輪郭を失って溶解し、ひしめく砕片の流動となってぐるぐると巡りながら聴き手を押し流していく。記憶がとめどもなく逆流し、涙で視界が混濁する幻惑的な持続がすばらしい。そうした息遣いは、同トラックを締めくくるJana Winderenによる、ぴよぴよと囀る雀の一群を思わせる電子音が中空で明滅し、その向こうに明度の低い雲のような音塊が揺らめきつつ、ゆっくりと静かに流れていく空間構成と、確かに一脈通ずるものがある。

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