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多田雅範の文章世界−疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる  Masanori Tada's Composition World−Views Running in Full Career Remind Me Essntial Randomness of Life

  1. 2012/09/28(金) 22:59:49|
  2. 批評/レヴューについて|
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 多田雅範のブログ『Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review』にウェブ・マガジン『Jazz Tokyo』掲載予定の「タガララジオ31」の元原稿がアップされている(*1)。執筆している本人は「CDジャケット写真の掲載やレイアウトあっての連載コラム」と謙遜(自嘲?)しているが、むしろレヴュー対象盤のジャケット写真はおろか、アーティスト名も作品名もなく、ましてやレヴューの区切りすらわからないノンストップ・パワープレイのこの掲載方式の方が、彼の言葉の力、文章世界のマジカルな魅力が伝わってくるように思う。
 *1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120924

 それは「疾走」の力だ。言葉が走っているのではない。描き出され浮かび上がる眺めが場面が風景が、矢継ぎ早に後ろへと飛び退り、疾走しているのだ。以前にも例えた「笑わない喜劇王」バスター・キートンの疾走のように、彼自身は走り続けながらも画面の中央から動かず、背景だけが物凄い速さで流れ、くるくると入れ替わり、彼は切り立った急な崖を転がり落ち、汽車に追われながら鉄道線路をひた走り、さらには走る列車の屋根の上を爆走し続ける。

 だからまわりの景色は気がつくともう変わっている。筆者の眼差しも、口調も、話題も、それに対する読み手の位置関係も。事実とフィクションの垣根を軽々と跳び越え、美化されているだろう思い出を散りばめ、錯誤を含んだ記憶のかけらを振り落としつつ、風景はあてもなくひた走る。以前に彼の「ノルウェー大使館コンサート事件」を例に挙げて、事件を出来事をドミノ倒しのように起こし続け、地球の自転の速度を遥かに追い越していく彼の爆発的な行動力を伝えたが、今回の速度はさらに言葉/文章の力に拠っている。

 この「いつの間にか変わっている」滑らかな不連続性、切断面を明らかにしない飛躍は、まるで夢の展開を思わせる。気がつくと場面が転換し、物語が変容して、物の形や大きさ、有無さえ移り変わり、忘れかけていた誰かがふと姿を現し、自分だけしか知らないはずの記憶が「みんな」によって繰り返され、「私」はいつの間にかそのひとりとなって私の視界の中に姿を現し、何やら聞き覚えのないセリフを話している。

 実際、多田はよく夢の話を書いている。そこに横たわる夢にしかありえない「リアル」な手触りは、背筋をぞくりとさせ、胸をぎゅっと締め付ける。他人の夢なのに、まさに「夢である」そのことによって私の中に入り込んできてしまう夢の不思議さが、そこには確かに保たれている。

 「ふと気がつくと変わっている」からには、時間の経過が飛躍あるいは圧縮され、そこで起こっている移動や変形、出現や消失の瞬間が欠落しているのではないかと、後から訝しく疑ってみたりもするのだが、そのようには感じられない。夢の世界を支配しているのは夢の論理や夢の感覚なのだから。そうした夢の論理をフロイディズムやバイロジックがどれほど明らかにできているのか私にはわからないが、多田の夢には性的な隠喩/象徴があからさまに欠けているのは確かなように思う。あるいは(無意識的な)事後の検閲によるものかもしれない。たぶんそうなのだろう。だがそれでも、そこには後から順序付けられた夢の「わざとらしさ」が感じられない。話題は、場面は、言葉は、自由気ままに散乱しながら、常に思い出や記憶と強く結びついている(たとえそれが仮に事実とは異なる誤った思い込みである場合でも)。ここで「いつの間にか変わっている」唐突さは、人生そのものの剥き出しの唐突さ、ランダムネスにほかならないと言うかのように。

 といって、それは決して拾い集めただけの記憶のかけらのブリコラージュではない。それは彼による引用の特異さ、再文脈化の力の強さを見ればわかる。今回の文中に「あるいはうつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切りや、鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘、とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂いを。古井由吉の作品から聴こえてくる誰のものともつかぬ(死者の)声を思わせる音の手触り」と私(=福島)自身によるJakob Ullmannの作品に対するディスク・レヴューからの一節が引用されているが、もはや書いた本人にすら身に覚えがないような変貌した固有の輪郭、不可思議な独特の響きをたたえている。もともとの書き手が自らの書いた文章の自身への帰属を希薄に感じ、誰か他人の言葉のように思えてしまうのは、それだけ文章が遠く奪い去られ、新たな文脈に深く埋め込まれているからだ。そして多田の場合にはもうひとつ、先に述べた疾走する風景の一片としてたちまちのうちに通り過ぎ、そこへ他の異なる景色がひしめきあうように押し寄せてくるからにほかならない。彼は「これは夜中の天空の集会所で鳴っている音楽だ」と高らかに宣言するや否や、その響きのかそけさが静かな場を要することを指摘し、虫の音の喧騒さに言及し、宮沢賢治や稲垣足穂を召喚し、「タルホロジー」を歌うあがた森魚を連れてきて、彼がプラネタリウムでライヴを行った際の限定CD「雪ヶ谷日記」が聴きたいと言い出す。多田の記憶を介して、回想/想起/連想の一部として再浮上することにより、書き写された言葉はまったく別の輝き/手触りを放っている。

 喪失を笑い飛ばし、出会いに涙しながら、記憶の風景は疾走を続ける。偶然を喜んで受け入れ、錯誤を深く愛しながら。それは以前に述べたように踏み外しの連続でもある。そうした中から、夢を、記憶を、人生を、高らかに肯定する宣言が力強く響いてきて、読み手の背中をドンと叩いて元気づけてくれる。











※写真はすべて多田雅範のブログから転載

響きに追いつき、音に書き込む  Catching up Sounds, Writing on Notes

  1. 2012/08/19(日) 10:33:48|
  2. 批評/レヴューについて|
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 演奏を聴いていて、意識がその場に参加し、次の音が視えることがある。激しいブロウの応酬になって「イケイケ」で盛り上がる時や、場面を転換する決定的なステートメントが発されて、次の情景がありありと眼前に浮かぶというような場面ももちろんあるが、そうではなくて、演奏者間の水面下の探り合いに引き込まれ、こちらの耳も水中に没し、水の動きを全身の皮膚で感じながら次の音が視えてくることがある。もちろんそれは一種のデジャヴュ現象かも知れず、すでに鳴ってしまった音に対して、あたかも自分が事前にそれをありありと思い浮かべていたかのような錯誤に陥っているだけなのかもしれないが。
 それでも前述のように演奏者の交感に耳が引き込まれ、演奏の場の深さ/奥行きに間違いなく耳が届いていると感じられる時がある。事前に何の取り決めもない即興演奏であるにもかかわらず、発せられる音がことごとくそれでしかあり得ない必然と感じられ、痛いほどに身体に突き刺さってくることがある。そうした意識のフォーカスがぴしりと合った瞬間は必ずしも長く続かない。意識と音がずれ始めるというより、先ほどまでの痛いような音の手応えが身体の奥に残っていることで、その瞬間の終わりにぼんやりと気づくことになる(そこまでは深く突き刺さらない音の手ごたえの薄さに)。あるいは周期的に焦点が合ったり外れたり、あるいは専ら一人の奏者にのみ意識が同期して、その肩越しに覗いたカメラ・アイのようないささか偏った音場が広がることもある。


 Msabumi Kikuchi Trio『Sunrise』(ECM)のディスク・レヴューで次のように書いた(*)。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-171.html


 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。

 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り替えすが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。


 この作品の冒頭部分の冷ややかに静謐で、空気をかき乱すことのないほどに緩やかでありながら、同時に揺るぎなく緻密に描き出された風景の提示と、その細部を巡る簡潔にして緊密な探り合いに思わず耳が引き込まれ、透き通った水に身を沈め、全身で響きを感じ取っている様、身体の表面/内部で交錯する様々な感覚の束を、拙いながらも何とか書き記そうとした部分だ。
 これに対し、原田正夫氏から次のようなコメントをいただいた。


 「そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。」という『サンライズ』に関するブログの一節にはどきりとします。『サンライズ』に最初に接した時はこのまさにピアノが「線を描かない」ことに戸惑いを覚えたのだと思います、自分。ベーシストのベースにも同様の戸惑いを覚えましたが、ベース音が前面に出ているので、ピアノ・トリオ盤の録音によくあるウッド・ベースの音の気持ちよさに助けられるところがあって、まだピアノほどの戸惑いは無かったかもしれません。
 「それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時の やり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えて くる。」
 このくだりはまさに、『サンライズ』の冒頭を集中して聴いている時の自分の心の動きを言い当てられたかのような気になります。
実際、自分も聴いていて、はっきりとした形に像を結ばないけれど、演奏にある眼差しが感じられて、その視線の先に自分が導かれていく感覚に陥ります。

 もうひとつ須川さんの文章(註:Jazz Tokyo掲載の菊地雅章TPTトリオのライヴのクロス・レヴュー※)で面白かったのが以下の部分。
 「あるいは、たった今放たれた音を同様に聴く。これが高次元で連続的に展開されてできあがってゆく音楽のうねりは、一つの現在進行形で制作されては消えてゆく芸術作品だけに、一聴するとかなり難しく聴こえるかもしれない。しかし、それと対面してジッと絵画を見つめるように集中して聴いていると、魂が揺さぶられる瞬間が訪れてその背後に音楽が成してゆく自然なフォースが見えてくる。こうなると、聴き手にもプレイヤーと似たような楽しみを与えてくれる。と私は思っているが、(後略)」
 わたしは『サンライズ』の一曲目を集中して聴いた時にそんな感覚に襲われました。福島さんが書かれていた「出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく」感覚で、自分も演奏の中に入って一音置いてみるような感覚です。こういう感覚、ライヴでは、ごくまれに訪れることがあります。聴いている音 (演奏) が自分の中で自由に動きだすような感覚、そしてその音の生成に自分も参加しているような感覚です。

※http://www.jazztokyo.com/live_report/report450.html
 なお多田雅範による次のレヴューも参照のこと。
 http://www.jazztokyo.com/live_report/report448.html


 1枚のディスクには様々な瞬間が詰まっている。『Sunrise』のレヴューでは特に冒頭2曲にスポットを当てたから対象は限られている。それでも、この描写が全編を通じた一般的な(言わば平均的にならした)ものではなく、冒頭部分の引き込まれ沈み込んでいく感じ、聴き手に音を置くことを求める感覚を指し示したものであることを直ちに看て取られたのには正直言って驚いた。もちろん文中に様々なヒントは散りばめられてはいるが、原田氏の「読み」は「これしかない」という力強い直感に支えられているように思う。あたかも二人が同じ眺めを共有しているかのように。
 このディスク・レヴューでは演奏者たちが寸分違わぬ同じ風景を見詰めていることが、この簡潔にして緊密極まりない演奏を成り立たせていると論じているが、それは聴き手にも感染してくるもののようだ。もちろん「寸分違わぬ」と言いながら、それはスクリーンに投影されるように現れるわけでは必ずしもなく、むしろ演奏者の「あいだ」に空気の流れや澱み、肌触り、温度感、色合い、匂いのように存在するものかもしれないし、聴き手が見ている風景と演奏者が感じ取っている風景はずいぶん異なっているかもしれない。しかし、にもかかわらず、そうした同期が生じることによって、危うく切り立った音楽のあり方が、そして演奏と聴取が、かろうじて可能となるのだ。


Masabumi Kikuchi Trio『Sunrise』


文中に登場するゴダール『気狂いピエロ』のオープニング・クレジット

  
原田正夫、多田雅範は菊地雅章TPTトリオの来日公演を聴いてコメントしてくれている。

   
ポール・セザンヌによる筆触の例。彼はこの色彩の小区画について、面(プラン)という語をよく用いた。

不意討ちされて立ちすくむ  Standing Paralized by Unexpected Attack

  1. 2012/07/15(日) 21:11:41|
  2. 批評/レヴューについて|
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【前口上】
 菊地雅章トリオ『サンライズ』には耳をそばだてさせられたが、それでもレヴューに記したように全編に渡ってではなかったし、いかんせん「ブルー・ノート東京」はジャズ・ファンでない者にとっては敷居が高すぎて(値段も)、菊地雅章TPTトリオの来日ライヴの情報を知ってはいたものの、会場に足を運ぶことはなかった(ピアノとギターの共演の難しさに関する先入観も影響したかもしれない)。
 その後、多田雅範や原田正夫がライヴの印象を書き留めているのを読んで、とびきりの演奏が繰り広げられたらしいことを知った。しかし両者とも「絶賛の嵐」というのとは違う。何か途轍もなく凄いもの、素晴らしいものが眼前を通り過ぎたことははっきりと知覚できているのに、どうしてもそれを言葉にできない‥‥と、そんな風なのだ。
 それはきっと思いもかけなかった響きに耳を不意討ちされ、立ちすくんだからにほかなるまい。今回はそのことについて考えを巡らしてみたい。


1.不意討ちされて立ちすくむ

 多田は菊地雅章TPTトリオの演奏の印象を「居合い抜きの連続、持続、能の集中した状態の微動する光速。破綻や緩みなど無く。言葉はもどかしいものだ。宇宙の一瞬に漂う、消失しそうな自我。忘我。」と書き散らしながら、その演奏の聴取/体験が極度の集中を要するものであることを強調している。2ステージを聴き通す演奏ではないと。そして評文の最後を次のように締めくくっている(*1)。
 「他の週のプログラム予告が流れる休憩時間。シュールに身体が冷えて硬くなってゆくのがわかる。だめだ、セカンドステージまで持たない。 」
 もともとステージごと入替制であり、そのため彼が聴いたのはそのうちファースト・ステージだったのだが、それだけのことならこうは書くまい。といって、このほとんど投げやりとも言える幕切れは、文章表現上の演出でもないだろう。聴いていて、身体が飽和してくる感覚というのはあるからだ。それは情報量が過多であるのとは違う。多田の言う通りむしろ集中の問題であり、同時に受容の問題である。音に不意討ちされることなく、耳にした音が次から次へと滞りなくそれなりの景色/構図に収まって、違和感なく消化されていくならば、たとえ飽きることはあっても飽和することはない。飽和を、そして持続し難い緊張をもたらすのは、不意討ちによる生(なま)な世界の露呈の連続である。それはまさに聴き手の生(せい)に揺さぶりをかけてくる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120624

 まだ耳にしたことのない響きに、音の光景に、したたかに耳を不意討ちされ、たじろぎ、打ちのめされ、未曾有の事態にただ呆然と立ちすくむ。その一方で思考は懸命に言葉を、表現を手探りしている。眼前で起こっていることを何とか名指すために。ここで名指すとは切り分けることであり、輪郭/境界を見定めることであり、空間的/時間的順序を整理することにほかならない。それは生きていくための自己防衛(生な世界の耐え難い露呈を言葉によって和らげる)であると同時に、せわしないパニック反応でもあるだろう。
 ただ、そうした反応は単に一時の、事態をやり過ごすためだけのものでは終わらない。この未曾有の事態に強く惹きつけられ、むしろその深奥へと道なき道をかき分け、そこにぱっくりと口を開けた亀裂へと測鉛を垂らし、深みへと降りていくための目印、手がかり、足がかりとして、何とか言葉やイメージを手繰り寄せるということがある。それは決して流暢な文章や鮮明な映像などではあり得ない。切れ切れのなけなしの言葉。ふと耳元で響いた(ような気がした)誰かのつぶやき。音のない不鮮明なモノクロ映像の緩慢な明滅あるいは動いているかいないかのスローモーション(いずれにしてもごく短い断片)。脈絡なく思い浮かんだ小説や映画の題名。夢で見たのかもしれない茫漠とした風景。

 都合よく言葉に置き換え忘れ去ってしまうのでなければ(だから言葉に詰まり絶句することは、実に正確にして正当な事態への、そして世界への対応なのだ)、未曾有の事態は言葉にならない耳の光景として脳裏に、というより身体に刻まれ残っている。それが先に述べた当てのない手探りの果てに、何かの体験や言葉、イメージが引鉄となって、一瞬のうちに思考の霧を晴らし、事態に明確なかたちを与えることがある。ユリイカ!!
 あるいは一瞬のうちに開くことはなくとも、ことあるごとに思い出され(その度に細部の鮮明さを高めていくことも、まったく違ったかたちをしていることもある)、世界の豊かさを増していくこともある。
 こうした不意討ちの豊かさに対し、その場で語り得る言葉の範囲内に体験を縮小(シュリンク)させてしまうことの何と貧しいことか。言葉によって余すことなく仕分けられ、仕立てられた光景(デジタルな再構成?)へと体験を洗浄してしまわないこと。そんなことをすれば、後に残るのはチキン・ナゲットみたいに無味乾燥でバサバサな言葉の集積でしかない。

  
写真は多田雅範のブログから
緊張のあまり遠のいていく意識のように遠ざかる風景



2.「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興」というマジック・ワード

 本来なら耳の不意討ちによって立ちすくむべき事態を凡庸に回避してしまうためのマジック・ワードとして用いられがちなのが「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興(演奏)」等の語である。これらの語が何ら具体的な内実を伴わずに、言わば自分には縁のない「川向こう」を指し示すために用いられる時、耳の届かなさ、事態の不明さは語と共に運び去られ、便利に片付けられてしまう。
 これらの語は、未だに歴史の埒外に放っておかれたままの「番外地」としての影を引きずっている。それゆえに語の対照区画が厳密に測量されることなどなく、都合の良い「概念の違法投棄場」とされてしまっているのだ。
 逆に言えば、これらの語をご都合主義的にマジック・ワードとして用いる者たちは、これらの語により割り切れない過剰を外部へと一掃し(払われた厄は後ほど別の神殿に祀られることとなるのだが)、その結果として安全に掃き清められた内部は、これまでの歴史や言葉で一切が了解可能であり、割り切れ、語り尽くせると信じている。そんな馬鹿なことはない。実際にはそれらの過剰は、まさに演奏の、音楽の、音の核心部分に棲みついているのだ(これは別にこれらの語と関連性の深い「ジャズ」だけの話ではない)。先のマジック・ワードを弄する者たちの所業は必然的に足元から崩れ去るしかあるまい。

 別にこれは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれる演奏/音楽(たとえばデレク・ベイリー)を聴き知っていることの優位を主張するものではない。そんなことは優位でも何でもない。耳を不意討ちされた際に言葉に詰まり絶句することなく、内実の空疎なマジック・ワード(先の3つだけでなく、「前衛」とか「実験」とか)を安易に用いて何食わぬ顔でその場を切り抜け、事態をやり過ごし忘れ去ろうとするのであれば同じことだ。
 耳の感度(演奏の強度に対する)とは、耳が直面した事態をどれだけ効率よく流暢に言語化できるかではなく、どれだけ不意討ちされ、打ちのめされ、立ちすくむかによって決まる(このことは自戒を込めて書き付けておこう)。

 灰野敬二はオーレン・アンバーチ、スティーヴン・オマリーとの最近の共演(ideologic organからリリースされたばかり)において、トリオの命名を求められて『なぞらない』と名づけている。灰野自身は「〈即興〉じゃないってことだ」と説明しているが、これには補足が必要だろう。ここで「〈即興〉じゃない」とは、もちろんあらかじめ作曲されたとか、記譜されていることを意味しない。その一方で灰野は通常「即興」と呼ばれる演奏が、単に「あらかじめ作曲された(記譜された)もの」の裏返しに過ぎず、準備されていない、行き当たりばったりのものを容認することでしかない安易さを手厳しく批判している(「棺の蓋が覆われて初めて『奴はインプロヴァイザーだった』と言われるかどうかというくらい厳しいものだ」と彼は語っていた)。とすれば、「なぞらない」という語が、いかにも灰野流の絶妙な仕方で、即興演奏の在るべき姿を指し示していることがわかるだろう。彼もまた「即興」をマジック・ワードとしてしまうような仕方と闘っているのだ。


 『なぞらない Nazoranai』


 菊地雅章TPTトリオのライヴに関する原田正夫の文章(*2)では、トマス・モーガンの左手の指使いを巡っていささか唐突に平野威馬雄の自伝的エッセー『癊者の告白』(*3)の名が登場する。そこで原田は多くを語らないのだが、「混血児」という出自に悩み、ドラッグに溺れながら、語学の才を通じて同時に文学に打ち込み耽溺していくことで、人生を貫き通していったこの特異な文学者(その無頼さゆえに「ぶんがくしゃ」ではなく、「ぶんがくもの」と読みたいところだ)が、指先のフェティシズムにもまた浸っていたことを知れば、そこに多くのことが仮託されているのに気づくだろう。ネック上を滑らかに舞う指先の優雅で正確な動きにとどまらず、ここぞというツボを精密に探り当てる鋭敏さ、そして触れることと触れられることが相互に嵌入し甘美に溶け合う匂い立つエロティシズム‥‥。
 ここで思考は結論を急いでいない。当てのない連想を手繰り寄せ、また荷解きしながら、先に見たライヴの光景を見詰め続け、何度となく緩やかに反芻している。思わず顎が動き、じわりと唾が湧く。通り過ぎた美味の後姿を追うというより、後ろ髪を手放さぬまま、まだ飲み込んでしまうのが惜しいというように。
*2 http://timbre-and-tache.blogspot.jp/#!/2012/07/blog-post.html
*3 『癊者の告白』 話の特集社
   『陰者の告白』 ちくま文庫


写真は話の特集社版
カヴァーを取ると真っ黒な表紙に
小口3面も黒という凝った装丁

「現在進行形のジャズ」を巡って  Around "The Shapeof Jazz Now Coming"

  1. 2012/06/22(金) 23:23:32|
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 【前口上】
 音楽批評サイト「com-post」に先日掲載されたばかりのクロス・レヴューで、益子博之が「現在進行形のジャズ」という語を用いている(*)。私はジャズについてはおよそ語る資格がないが、自分の好んで聴いている音楽を、やはりどこかで「現在進行形」とみなしているところがあり、そうした自分の姿勢や考えを整理するためにも、この機会に「現在進行形」について考えてみるのも悪くない。というわけで、今回は「現在進行形」を巡って書いてみたい。
 *http://com-post.jp/index.php?itemid=630


1.「現在進行形」の魅惑

 「現在進行形」とは確かに魅惑的な語だ。そこには産み落とされたばかりのみずみずしさがあり、と同時にそれを見出す者の眼差しの強さを感じさせる。先ほど述べたように、私も自分が好んで聴いている音を、ある種の「現在進行形」ととらえているように思う。いま思わず「ある種の」と書いたが、それだけ「現在進行形」という語が指し示してしまう範囲が広いということだ。それゆえ混乱を避けるために、まずは「現在進行形」の諸相(と私が考えるもの)を概観しておこう。


2.「現在進行形」とは(1) 現況/現状としての「現在進行形」

 まずは「現在進行形」の語が「現況」とか「現状」という意味合いで、現在のあるシーンの全体的な布置を指し示すために用いられる場合がある。この種の「現在進行形」を語ることは、どうしても状況論になりやすく、大雑把な「標語づくり」に陥ってしまいがちであることを注意しておく必要があるだろう。「いま〇〇の時代って言われてるじゃない。で、オレが思うにはだね‥」と始まる話は、たいていこの陥穽にはまっている。音楽であるならば、作品や演奏の具体的な細部に触れることなしに、批評たり得ることは難しい。そして個別具体的な細部から状況までの距離の何て遠いことか。もちろん、細部から積み上げて状況を語るのではなく、その細部を有する作品や演奏を、時代状況を突き抜ける特権的なものとして語るという論法はあるのだが、それはそれで典型的な物語にはまりやすい。革新者/革命者の系譜としての音楽史。たとえばロックの「歴史」は、いったいどれだけ多くの革命の象徴を抱えているのだろう。


3.「現在進行形」とは(2) 最新モードとしての「現在進行形」

 続いて、今までのモードを書き換える最新モードを「現在進行形」と称する場合がある。ジャーナリズムが用いる「現在進行形」はたいていこれだ。この場合、「今までのモードとは何か」、「最新モードの〈新しさ〉とは何か」を論者が規定するところに、一種のトリックが生じ得る。「今までのモード」とは「これまでの流行」であったり、「業界標準」であったり、「とりあえず聞きなれた『いつものやつ』」だったり、何でもござれだ。同時に〈新しさ〉の定義も千差万別、多種多様、自由自在。すると当然のことながらある種の逆転が生じて、売り手側が勝手につけた「キャッチ・コピー」が〈新しさ〉を保証し、当の対象を「現在進行形」に祭り上げるということが起きる。「〈新しさ〉の捏造」とでも言うべきか。
 そもそもモードの移り変わりの中で評価されるのは、過去と地続きの延長線上に現れる「わかりやすい未来」でしかない。瞳を、耳を不意討ちするような存在は、そもそもモードたり得ない。印象派、ダダイズム、未来派、キュビスム、シュルレアリスム、構造主義等、かつてのようにわかりやすい宣言や党派が運動を主導する「イズムの時代」はもうとうに終わってしまった(それはアルフレッド・バーが作成した有名なフロー図として歴史化されている)。いまやモードはもっと消費中心の並列的な(横一線にずらりと並べられて、どれでもよりどりみどりの)何かだ。だが、たとえそうだとしても、では最新流行の、いま一番売れているものが「現在進行形」なのだろうか。「そうだ」と言うなら話は早い。ならばAKB48が「現在進行形」なのだ。彼女たちがジャズ・ナンバーを採りあげたなら(決してあり得ない話ではあるまい)、それが「ジャズの現在進行形」ということになる。だが、そんなにもわかりやすい話で果たしていいのだろうか。


4.「現在進行形」とは(3) 〈不意討ち〉するものとしての「現在進行形」

 そして三番目に、前二者と比べて、いかにも不安定な「現在進行形」がある。ふらふらとさまよいでて、あてもなくただよい、いまのところ位置づけも帰属先もよくわからない音の群れ。それが〈新しさ〉なのかどうかも未だ明らかではないが、それが聴き手の耳を不意討ちし、途方に暮れさせ、いまのはいったい何だったのか‥‥と、それについてまた聴きたい、語りたいという欲望を強く惹き起こす限りにおいて、それを「現在進行形」と呼んでしまおうというわけだ。それは潮流のぶつかりあいがたまたまつくりだした砂洲のようなもので、しばらくしたらかげもかたちも消え失せてしまうような、束の間の儚いものかもしれない。歴史の流れに痕跡すら残さないかもしれない。たとえそうであっても一向に構うまいというのが、ここで「現在進行形」の語に込められた潔さと解すべきだろう。
 先ほど「イズムの時代」の話をしたが、「前衛の時代」ももう過ぎ去って久しい(両者はほとんど同じものだった)。先の「現在進行形」が前衛として時代を革新し、やがて光栄舞台がこれに追いついて、前衛は古典となり、歴史化されるという物語はもう成立しようがない。「今日のチャーリー・パーカーは、昨日のパーカーとはまったく違う姿でこの地上のどこかで演奏しているだろう」(高橋悠治)。だが誰もそれに気づかない。逆に言えば、将来古典となる可能性が「現在進行形」を支えているわけではない(同様に「将来の値上がり可能性」もまた。音楽は株券ではない)。
 と言って、それはもちろん単なる「マイ・ブーム」とは異なる。それは「語りたい欲望」が紡ぎ出した思考をたどれば明らかになるだろう。耳を不意討ちしたのがいったい何物であるのか。思考はこれまでの体験や知見を懸命にスキャンしながら、この未曾有の事態をとらえ名指すべき言葉を探し求める闘いを展開する。それが思わず惹き込まれるように魅惑的なものであるならば、それは彼/彼女が見出したかけがえのない「現在進行形」なのだ。そしてその「現在進行形」の闘いに参加するならば、それはあなたにとっての「現在進行形」ともなり得るだろう。


5.「現在進行形のジャズ」

 益子博之の言う「現在進行形」を、私はこの最後の定義において受け止めている(今回のディスク・レヴューの「余白」に書き留められた言葉は、具体的な細部の描写分析に欠け、そのぶん状況論やモード論に傾いているが、それはしょうがない)。彼は、多田雅範とともに主催するイヴェント「四谷音盤茶会」で、彼の耳がとらえた「現在進行形のジャズ」を提示し続けている。そのセレクションを「偏りがある」と非難することは簡単だ。だが、シーンの方向性や将来像が共有され、誰の眼から見てもそれに合致する作品があるとしたら、先ほどの定義からすればそれは「現在進行形」ではあり得ない。
 それゆえ「現在進行形のジャズ」はジャズの将来をまったく保証しない。それは後になって、ジャズとは似ても似つかぬ異なる名前で呼ばれるかもしれない音楽である(もちろん後になって、「これこそがジャズだ」と言われる可能性だってある。それは否定しない)。フリー・ジャズが登場した頃には、単に「ニュー・シング」と呼ばれていたことを思い出そう(現在の「フリー・ジャズ」は古色蒼然たる伝統芸能としてのジャンルか、あるいは依然として歴史化されることのない「よくわからないもの」をとりあえず放り込んでおく「隔離室」の名称みたいになっているが)。
「現在進行形」として指差されているものが、ひとまとまりのまま推移して、後に名称が与えられる可能性は決して高くはない。それは空を流れる雲のようにすぐに形を変えてしまうし、だいたいが夜空に輝く星座みたいに、たまたま〈いま/ここ〉から見ているからあのようなかたちをしているだけかもしれないのだ。


6.「現在進行形」と批評的瞬間

 私が自分の好んで聴く音をとらえる場合の「現在進行形」の感覚も同様である。それは何よりも素早く変化/推移している。植物の根の先端の最も細胞分裂が盛んな「成長点」。それゆえ輪郭を明確にとらえ難いにもかかわらず、そこには共通の匂いや手触りがあって、ひとまとまりに論じたい欲望を掻き立てられる。いや、むしろひとまとまりにとらえることによって、かろうじて目鼻がついてくるような気がする‥‥と言った方が正確かもしれない。魅惑的な相貌をたたえた細部が、様々な予兆や暗号めいた符合、思わせぶりに交し合う目配せを通じて、探索を思考を誘っているように感じられる。それは端的に「魅力的な謎」と言ってもいいかもしれない。
 「そこに何かある」というのは、研ぎ澄まされた直感の帰結であるとともに、批評の到達点にして新たな始まりでもある。その点で批評とは「賭けること」にほかならない。

 耳を不意討ちされて立ちすくみ、思わず音のした方を見据える。眼が暗闇に慣れてくるにつれ、何か景色のようなものが浮かんでくる(これは言葉の世界でも同じだ。意識が深みへと降り立ち、視界が澄んでくるにつれ、新たな言葉のつながりが見えてくるようになる)。景色が明らかになるに従い、そこから逆に照らし出されるように、見詰めている私自身の身体が浮かび上がる。それとともに同じ方を見詰めている人影が他にもあるのに気づく。「ここには何かある」との確信をいよいよ深める瞬間がそこにある。


      
    私の耳のとらえた「現在進行形」の音盤からの5枚

批評のチカラ−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景2−

  1. 2012/06/09(土) 13:28:25|
  2. 批評/レヴューについて|
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 前回アップした「勢いあまって踏み外す−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景−」に対し、多田自身が早速「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」でレスポンスをくれた(*)。
*http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html

 彼は「パリ・ダカール・ラリー」のくだりを大層気に入ってくれたようだが(笑)、それはさておき、批評において飛躍や逸脱(たとえそれが束の間の誤りだとしても)、問題を外部へと開くことの重要性を、彼ならではの仕方で改めてとらえ、再度見詰め直している。

 今回の彼のレスポンスをぜひご一読いただきたい理由はそれだけではなく、私がごく簡略化して紹介した「石造りの地下のスタジオ」や「ノルウェー大使館のビヨルンスタ」のエピソードが原テクストへのリンクにより、多田によるオリジナルな語り口で読めることだ。いわば非常にコンパクトに圧縮された「多田雅範選集」とも言うべきこれらのテクストを、ぜひお読みいただきたい。

 そうすれば「批評のチカラ」がわかるだろう。批評とは決して作品の背景情報や出来の良し悪しだけを取り扱うものではなく、作品や演奏、さらには他の様々な出来事との不可避の出会いを通じて、生きることの喜びや悲しみの奥深くにまで、その眼差しを届かせることができる。それはひとりの人間の人生の狭く限定された範囲を軽々と越えて、共感や驚き、感動の波紋をどこまでも広げていく力を持っている。そのことが晦渋さとはまったく無縁な、とてもしなやかなわかりやすさで示されているのが、これらの文章で読める通り、多田の真骨頂にほかならない。


  
多田の耳はあきれ果てた長距離を走破する。悪路なぞものともせずに(笑)。

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