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演劇レヴュー「ネエアンタ」−Inspired by Samuel Beckett  Theater Review for "Eh Joe" −Inspired by Samuel Beckett

  1. 2013/03/09(土) 23:54:03|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 3月2日(土)に観てきた演劇「ネエアンタ」について感じたことを書いてみようと思う。もとより演劇にはほとんど縁がないし、この作品はサミュエル・ベケットによるテレビ・ドラマ脚本「ねえジョウ」を下敷きにしているとのことだが、正直ベケットのこともよく知らない。だから後に述べる舞台装置の簡素さや人物のミニマルな運動に「ベケットらしさ」を感じたりはするものの、場面設定やテクストが属するもともとのコンテクストはまったくわからない。しかし、そのような予備知識の持ち合わせのない観客にとっても、この作品/上演は充分に興味深く、優れたものであると感じられた。それゆえレヴューの題材とする次第である。


1 空間(1)

 黒い幕で覆われた空間に設置されたL字型の白い床。正面の白い壁(左側の窓には白いカーテンがかかっており、右側には壁に沿って白いベッドが置かれている)と右手前の白いドアだけが「外」と室内を隔て、またつなげる仕切りとなっている。他に壁はつくられていない(照明のせいで黒い壁があるように見えるが実際には開け放たれている)。左側の端には白い冷蔵庫。ベッドと冷蔵庫以外に家具はなく、上から灯りがひとつ吊り下がっている(天井はない)。ぎりぎりまで禁欲的に切り詰められた簡潔な装置。

2 男の身体(1)

 客電が落とされ照明も消されて訪れたしばしの闇が明けると、白いパジャマに褪せた赤のガウンを羽織った裸足の男がベッドに腰掛けている。男は動かない。動こうとしないのでも、動くまいとじっとしているのでもなく、以前からそこにあった置物のように空間にすっとはまり込んでいる。これはダンサーの身体ならではの業だ。
 やがて男はゆっくりと左手方向を向くが、ヴィデオの再生をジョグ・ダイアルで操作するように、時折ふっと動いて、それ以外は動いているかいないかの超微速度で移ろっていく。そうした動きにもかかわらず動作は滑らかで段差がない。連動して動く身体の各部を巻き戻していく印象。これもやはりダンサーならではの身体技法と言えよう。

3 男の身体(2)

 彼=山崎広太を初めて観たのは今から16年以上も前、1996年に行われたコントラバス奏者斎藤徹の企画によるシンガポール公演だった。日本からは二人のほかに沢井一恵(箏)が、フランスからはミッシェル・ドネダ(ss)とアラン・ジュール(perc)が、韓国からは巫楽を奏する打楽器奏者キム・ジョンヒ、チョン・チュルギの二人、さらに地元シンガポールからパフォーマーのザイ・クーニンが参加する一大プロジェクトだった。山崎はさほど広くないステージの端から端まで優雅な足の運びですたすたと歩き、そうした下半身に乗せて運ばれる上半身においては、多方向からの力線に刺し貫かれ突き動かされる高速の運動を、恐ろしい高密度に圧縮して重ね合わせてみせた。機銃掃射に跳ね上がり痙攣する死体を思わせる仕方で、コマ落としのフィルムのようにぶれ、輪郭を多重化する身体。それはたとえばジョン・ゾーンのゲーム・コールズによる速度と強度、切断と衝突に満ちたソロ演奏の視覚的等価物とでも言うべきもので、徹底して物語の次元を欠いたブロックの接合である。

4 時間(1)

 吊り下げられた部屋の灯りが点滅して消え、薄暗くなった室内で男は立ち上がり、窓の方に歩いていってカーテンを開け、また閉める。一方、そうした彼の動きとはまったく関係がないかのように左手前のドアが開き、そこから外の明るさとともにきらきら輝く砂粒のような音が流れ込んでくる。カーテンを閉めた彼は冷蔵庫に歩み寄り、扉を開け中を覗いて、扉を閉める(そのとたんに流れていた音のある部分がふっと消える)。それから部屋を横切り、ドアノブに手を掛け、外を覗いてからドアをばたんと閉める。音が止み、男は元の位置・姿勢に戻り、部屋には再び灯りがつく。以降、このサイクルは上演中4回繰り返されることになる。換言すれば上演の時間はそのように分節化されている。

5 女の声

 「ねえあんた‥」とどこからか女の声が響く。男が振り向く。「ねえあんた、全部よく考えてみた? 何も忘れていない?」
 女の声はどうやら男に語りかけているらしい。抑揚をやや平坦にした、どこか息の漏れるような力ない発声。現代詩の改行のように本来あるべきでないところにブレスが配置され、声が一瞬止まり、意味に沈黙のナイフが入って、呼吸の運びはうわずるように宙に浮き、メッセージを宙吊りにする。まるで自動機械が話しているようにも聞こえる。テクストの内容は男の過去や現在を暴き続けるが、この声のつくりがそこに恨みや後悔といった情念の入り込む余地を与えない。ちらしに印刷された解説は、女が男と以前に付き合っていて、その後別れ、今はもう死んでいる可能性を指摘するが、虚ろに響くこの声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない。あるいは声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない。だがやはりこの声を、男の自責の念がつくりだした幻聴と片付けてしまうこともできない。どうにも始末しようのない厄介な存在(まるでゴロンと横たわった身体/死体のように)として、女の声はただそこにある。

6 女の身体

 声が止み、部屋の明かりが点滅して、男がゆっくりと立ち上がり、前述の一連の動作を反復する。動作は繰り返すたびに抵抗/負荷を増していくようだ。カーテンを開け閉めし、れいぞうこと格闘する時間がだんだん長くなっていく。と同時に女の身体が舞台上に少しずつ姿を現すようになる。最初は冷蔵庫の陰に隠れており、次いでドアの向こう側から伸び立てが部屋の内側のドアノブに触れ、さらに後ろ姿の半身をさらし、ついには部屋へと入ってきて男とすれ違い、冷蔵庫に首を突っ込む男の顔を今にも触れんばかりの近さで覗き込み(男には女の姿は少しも見えていないようだ)、からのベッドに倒れ込む。白いドレス、顔を隠す長い銀髪、誇張された動作、時にさらす異形(竹馬(?)を履いてとてつもない大女の姿で現れたりする)により、女が既にこの世のものではなく、声の主である死んだ女であろうことはたやすく想像される。しかし、にもかかわらず、声と女の身体を結びつけるものは何もない。むしろ舞台上に現れる女の身体は、声との関係を持つこと、声の重みを背負うことを注意深く回避している。

7 時間(2)

 男が一連の動作を反復する「暗い時間」には女の声は流れない。声が現れるのは決まって男がベッドに腰掛け、部屋の灯りがついている「明るい時間」だ。その「暗い時間」に流れる音には前述の「きらきら輝く砂粒のような音」だけでなく、ざわめきを伴う持続音や音響的なブルース・ギター(ローレン・マザケイン・コナーズを思わせる)の断片の反復等が重ねられていく。時間を差別化するための舞台装置的なアンビエンスや記号的な効果音ではなく、かと言って情感やメッセージを濃密に担うこともない、精密に設計され巧妙に仕組まれた、たいそう魅力的でありながら決してどこかに着地することのない「どっちつかずの音」。

8 男の身体(3)

 「明るい時間」に語りかける女の声は、男の身体に様々な事実や関係性を投げかけていく。それらは意味や文脈の重さで男の身体を縛り付けようとする。しかし男=山崎の身体はこれに抵抗する。声のながれる「明るい時間」には空間にぴたりとはまり込んで声をやり過ごし、「暗い時間」には意味/文脈の重みに抗いながら動作を反復する。それゆえドアへと向かう最後の行程は大変な力業となった。暴風雨に幹がしなり枝が折れ葉々が引きちぎられるように、多様な力線の交錯に翻弄される身体(実際、その動きは「暴風に向かって歩く人」のパントマイムのようだった)。そのプロセスは堆積するテクストの重みを洗い流す高圧シャワーでもあっただろう。

9 空間(2)

 最後になって気づいたのだが、「暗い時間」が訪れるたび(実際には最初と最後を除いた3回)、私たちが男の身体の格闘に眼を奪われている間に、正面の壁が手前へと押し出され、部屋の奥行きが浅くなり、男の戻るベッドがだんだん客席に近づいていた。「暗い時間」における男の動作がだんだん引き伸ばされていった理由として、ひとつには空間の圧縮による意味の充満=負荷の増大を、もうひとつには観客からの距離の短縮による細部の拡大を挙げることができるかもしれない。

10 時間(3)

 最後の「暗い時間」では音響は流れず、手前に迫り出していた正面の壁が急に元の位置まで後退し、鈴の音のような不思議な響き/変調をまとった女の声が姿を現した。女の身体もまた姿を現し、男と並んだかと思うと、ベッドを叩き叫び声を挙げ、その途端、それまでの抽象的/構築的な音響ではなく、大音量でジャズが再生され、上演は終了した。
 ここでのジャズ・サウンドの突然の登場には、カタストロフあるいは「外」の世界の露呈の象徴など、様々な意味を読み取ることが可能だろうが、そうした意味性/象徴性の濃密なサウンドのいきなりの使用に正直当惑したことを告白しておきたい。意味/文脈の重みに埋もれてしまうことなく屹立し続けるダンサーの身体と、声の現前と身体の不在、声の不在と身体の現前を巧みに演じた俳優(かつて転形劇場で活躍した安藤朋子)の技量の上に組み上げられた、それまでの削り込み張り詰めた構築が、このジャズの使用(及びそのきっかけとなるように見える女の叫び声)によって、一気に押し流されてしまう(注意深い宙吊り状態がある特定の感慨へと短絡的に結びつけられ解消してしまう)危うさがそこには横たわっているようにかんじられたからである。それともこれはどうしてもジャズを特権化し、そこに含意を読み取ってしまう私自身の耳の偏差によるものなのだろうか。

ARICA第24回公演「ネエアンタ」 inspired by Samuel Beckett
2月28日(木)〜3月3日(日)
森下スタジオ Cスタジオ
演出・テクスト構成:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:山崎広太・安藤朋子
主催:ARICA
http://www.aricatheatercompany.com/


余白の重ね合わせ − 「タダマス8」レヴュー(補足2)  Layer of Blanks − Review for “TADA-MASU 8” (supplement 2)

  1. 2013/02/06(水) 21:05:02|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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  4. コメント:0
 前々回の「タダマス8」レヴューの補足の補足ということで、レイヤー指向に基づく「余白の重ね合わせ」等について少し述べておきたい。


1.余白の重ね合わせ

 通常のオブジェクト指向によるサウンド・コラージュでは、楽器音であれ、ヴォイスであれ、物音であれ、そこで対象としてとらえられている音が貼り合わされる。対称に付随している音や背景に潜んでいる音は無視されるか、あるいはできるだけ消去される。すなわち可能な限りそうした「対象の輪郭をはみ出した音」の存在しないシークェンスを採用するか、あるいはイコライザー処理等により余分な音を消去/希薄化する。これはグラフィックなコラージュにおいて、目的の図像を輪郭に沿って切り抜いたり、他の図像や背景を塗りつぶしたり(マックス・エルンスト「主の寝室」参照)することに等しい。コラージュの台紙は、別途、平坦で一様な白紙や背景の切抜きが用いられる。サウンド・コラージュでは沈黙か、あらかじめ用意したBGMや環境音等がこの役割を果たすことになる。

 レイヤー指向の重ね合わせにおいては、対象となる音の「図像」部分だけでなく、「余白」に含まれる付随音や背景音もまた注目される。「タダマス8」の席上でホストのひとりである多田雅範が「最近こんなものを聴いている」と言って、鉄道路線の実況録音CDをかけた。多くの録音は列車の車内/車外で聴かれる走行音や駅のアナウンス、沿線の音風景等であるようだが、ここで多田が選んだのは到着予定駅や次の駅への到着を告げる車内アナウンスを編集したトラックだった。アナウンスを担当しているのは同じ車掌なのだろうが、背景となる列車の走行音の違いにより幾分声音が変化して聴こえる。また、周囲の環境音や乗客の話し声がふと通り過ぎる。車内アナウンスだけに着目して抜粋編集していることが、かえって音背景の唐突な切り替わりや予想だにしない音の侵入/通過をもたらし、その結果、おそらくは制作者の意図とは別に、思いがけず秀逸なサウンド・コラージュ足りえていた。

 いま触れたのは意図しない「余白の重ね合わせ」の結果だが、そうしたレイヤー指向の空間構築を意図的に展開しているアーティストの代表がフランシスコ・ロペスである。彼は「何もない」空間にマイクロフォンを向ける。そばだてられた機械の耳が照らし出すがらんとした空っぽの部屋。壁に遮られてほとんど聴こえない外部の物音。建物の微かな軋み。平行な壁面の間に生じる定在波や滞留音。温度の不均衡がもたらす対流ノイズ。あるいは付近を走る地下鉄の連れてくる輪郭の不確かなもやもやとした超低域の揺らぎ。これら暗騒音=バックグラウンド・ノイズとひとくくりに呼ばれるざわめきは、いま見たように雑多な成分を含んだ本来的に複数的/多元的なものである。マイクロフォンの感度を限界まで高めれば、沈黙を満たすざわめきはざらついた金属質の輝きへと姿を変え、不穏さで耳を傷つけることだろう。
 こうした録音を再生すると、そこには何の対象も存在しないにもかかわらず、広がりや深さが触知され、パースペクティヴが浮かび上がり、空っぽな空間それ自体が姿を現す。月のない暗い夜道で彼方にぽつんと灯りが見えるように、「ああ、あそこには空間がある」という確かな手触りが感じられる。それは前方に小さく浮かぶこともあれば、身体を包み込むように立ち上がることもある。いずれにしても録音が再生されている現実の空間(聴き手の身体が存在している空間)とは別のパースベクティヴを有し(フレームは必然的に多重化される)、時には現実空間に存在する壁面を取り払ったように広大なイメージを結ぶことすらある。
 そこに作動する巨大な機械が眼前を圧して現れる。放たれる轟音は虚空へと吸い込まれ、周囲の空間は天窓から射し込む光に沿ってはるか上方に焦点を結ぶ。空間/パースペクティヴは多重化され、時に入れ子状となり、時に垂直に交わり、時に同じ軸線上に重ねあわされて強迫性を極限まで高める。

 ガスター・デル・ソルで活動し、ファウスト『リエン』のミックスを担当した頃のジム・オルークもまた、そうした空間編集マイスターのひとりだった。
 彼の場合には、形象はみな脆くて移ろいやすく、その輪郭はさらさらと崩れかたちを変えていく銀色の砂粒の集まりや、どろりとした粘性をたたえたゲル状の原形質がたまたま凍りついた束の間のものに過ぎない。一方、空間は、砂粒や原形質の絶え間ない流動として常に変形を繰り返し、揺らぎたゆたい続ける。それは自身パースペクティヴを持たない茫漠とした広がりであり、尽きることなく滾々と湧き出す混じりけのない持続である。彼が多くの作品で「水」をイメージしていたことは、このことと無関係ではあるまい。そこで耳は水没し、溶け広がり、響き/振動と一体となる。
 それゆえ音の眺めはずっと同じようでいて、ふと気がつくと変わっている。媒質のゆるやかなメタモルフォーゼに耳が溶け、流動にゆっくりと運ばれて、そこから切り離され目覚めた瞬間に風景が構成される。移り変わる夢の継ぎ目は曖昧でよくわからない。

  
マックス・エルンスト「主の寝室」 左掲作品の素材となった図像集

 
2.Nurse with Wound 関係参照先

 前回の補足として音源等の参照先を掲げておく。前回掲げた6作品のうち、第1作〜第5作はbandcampで試聴・購入できる。

Chance Meeting on a Dissecting Table of a Sewing Machine and an Umbrella
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/chance-meeting-on-a-dissecting-table-of-a-sewing-machine-and-an-umbrella

To the Quiet Men from a Tiny Girl
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/to-the-quiet-men-from-a-tiny-girl

Merzbild Schwet
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/merzbild-schwet

Insect and Individual Silence
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/insect-and-individual-silence

Homotopie to Marie
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/homotopy-to-marie

The Sylvie and Babs Hi-Fi Companionについては以下を参照していただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=pbVr8ievW-0
http://www.youtube.com/watch?v=N2254QQS9Ho

Nurse with Wound Listについては以下を参照していただきたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nurse_with_Wound_list



写真:多田雅範
Niseko-Rossy Pi-Pikoe Reviewより転載

ポップ・ミュージック再構築への視点 − 「タダマス8」レヴュー  A View Point for Reconstruction of Pop Music − Review for "TADA-MASU 8"

  1. 2013/02/02(土) 22:31:12|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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  4. コメント:0
 1月27日(日)、四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記において、第8回四谷音盤茶会(通称「タダマス8」)が開催された。今回のゲストは橋爪亮督グループ等で活躍するベーシスト織原良次。本日の予定は2012年第四四半期の10枚と年間ベスト10の発表。
 ここではいつもの通り、私が触発された部分を中心にレヴューしたい。そのため当日の模様を偏りなく伝えるリポートではないことをあらかじめお断りしておく。なお、当日プレイされた音源については、*1を参照していただきたい。また、当日の模様についてはホストのひとりである多田がすでに自身のブログに振り返りを掲載している(*2)。こちらもぜひ参照していただきたい。
*1 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
*2 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130130


1 第四四半期の10枚

 珍しく女性ヴォーカル作品で幕を開けた前半は、耳に優しく楽しく心地よいが、何かひっかかりのないまま進んでしまった。しかし、その分、「第四四半期の10枚」後半は聴きどころ満載。その5枚を順に見ていこう。

 まずはJeremy Udden『Folk Art』。益子が「Paul Desmond的」と紹介したUddenのアルト・サックスはなるほど息を多く含んで空間に滲みを広げていくサウンド。これを「バンジョー界のスティーヴ・ヴァイ」ことBrandon Seabrookの弓弾きバンジョーが斜めに横切っていく。ゲストの織原がコメントを求められて、各演奏者が「面で進んでいく」そのグループ・アンサンブルの技量の高さを賞賛していたが、確かにアルトにしても、バンジョーにしても、空間に浸透して空気に濃度/粘度を与えながら広がりをつくりだしていくサウンドは、互いの間に高い摩擦/軋轢を生み出し、アンサンブルはこの触れ合いを通じて進められているように感じられた。






 続いてはキューバ出身のDavid Virelles『Continuum』。Andrew Cyrille(dr)とRoman Diaz(perc)が生み出す散発/拡散的な暗くゆったりとした広がりのうちに、Virellesのピアノが深く深く沈み込み、時折オルガンによるドローンが月に照らされたように青白く浮かび上がる。2曲目にかけられた短い「Unssen Mother」の次第に音の間を空けながら踏み外すように沈んでいく仕方は、どこかPaul Bleyを思わせるところがある。そのPaul Bleyトリオのメンバーを長く務めたCYrilleについて益子が「最近、NYシーンで非常に評価が高く、引っ張りだこになっている」と語っていたのが興味深かった。






 その次にかけられたGiovanni di Domenico/Arve Henriksen/Tatsuhisa Yamamoto『Distare Sonanti』も同質の夢幻的な空間の重さを有しているように感じられた。散らかすような金属音が冷たく響き渡り、満たされた暗く重い水をHenriksenのチベット的なトランペットがゆっくりと押していくと、どこからか水音が聴こえてくる。di Domenicoのクレジットにelectronicsに加えeditingと記されているように、音色/響きを重視したかつてのNurse with Wound的なサウンド・コラージュに聴こえる。その点で「(遊園地の)アトラクションに乗せられたような感じがする」という多田の指摘は相変わらず鋭い。「ジャズ」が通常基本としているライヴなセッションを通じてつくりあげるプロダクション感覚とは明らかに異なる、ポスト・プロダクション感覚に満ちた作品と言えるだろう。






 その点で、益子、多田、織原が激賞し、アフターアワーズでも好評だったというRafiq Bhatia『Yes It Will』にはいささか疑問を感じた。ビートを中心にいじりまくり直列で唐突に切り替わっていくリズム・トラックと粘っこく引きずるギター&ベースの対比に、突如としてストリングスがカットアップされる構成は確かに見事なものなのだが、ここまで来ると最初からコラージュを志していた者たち(たとえば前述のNurse with Woundsがその代表であるだろう)
にどうしても一日の長があるように思うのだ。






 「第四四半期の10枚」の最後はMarc Ducre『Tower,Vol.4』。この盤は以前に月光茶房でさわりを聴かせてもらったことがある。多田や益子も同席していたその場では、頭上高くに設置されたスピーカーからの音だったが、今回、スピーカーと向かい合って聴き、Ducreの演奏の凄さに改めて息を呑んだ。おそらくはスライド・ギター奏法を拡張的に用いて、音程をスリップさせた音が空間を斜めに横切りながら鋭く切り裂いていく。だがそこに過剰なテンションはない。アコースティック・ギターはそれが生得の音色であるかのように力むことなく響き渡り、彼方に聴こえる小鳥の声にまったく違和感なく溶けていく。金属質の濡れたような潤いをたたえた音は典雅ですらあり、東南アジアの見知らぬ宮廷民族楽器(ヴェトナムの一弦琴ダン・バウを多弦化したような)
を聴いているような気分になる。







2 ポップ・ミュージックの再構築

 この日発表された益子・多田選定による2012年度ベスト10は次の通り。
 1.Henry Thredgill Zooid『Tomorrow Sunny/The Revelry,Spp』
 2.Rafiq Bahtia『Yes It Will』
 3.橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』
 4.Jeremy Udden『Folk Art』
 5.Eivind Opsvik『Overseas IV』
 6.Thomas Fujiwara & The Hook Up『The Air Is Different』
 7.Tim Berne『Snakeoil』
 8.Masabumi Kikuchi Trio『Sunrise』
 9.Colin Stetson『New History Warfare Vol.2』
 10.Becca Stevens Band『Weightless』

 この選定結果について何より興味深かったのは、2〜6位のラインナップを指して、益子が「ポップの再構築という感じがする」と発言し、これを受けて織原が「ひとりで音楽を作れるようになって、音楽のとらえ方が変わってきている」と応じたやりとりである。多田が「スレッギルの1位で我々の矜持を示し、ECMからのティム・バーン、菊地雅章という間違いのないところをあえて7・8位に置いて、その間に注目させるようにした」
と補足していたことからも、この2〜6位が今回の肝であることがわかる。

 ここで指摘されている傾向は、画像加工ソフトであるPhotoshopの操作等で用いられる「レイヤー」という語に象徴される感性のあり方ではないだろうか。他のポップ・ミュージックではもはや当たり前のことであり、エレクトロニカ等ではそもそもジャンル発生の前提ですらあるこうした感性が、なぜいまジャズの先端で問題になるかといえば、やはりジャズが演奏のライヴな現場に軸足を置いた集団創造の音楽であることが理由として挙げられるだろう。いま/ここ=演奏の場でつくりあげられる音楽。ここには即興性の問題も当然関わってくる。即興演奏が他の演奏者との相互触発や場との関係によって生成される一回限りのものであるとすれば、録音にできるのはせいぜいそれをあるがままに記録することであり、その一部を切り取り、あるいは貼り合わせることはできない。そんなことをすれば即興性が不純なものになってしまうからだ(だからこそマイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』の編集は革命的だった)。
 一方で本来的に編集/加工の音楽であるヒップホップが、既存の音源を切り貼りするというポスト・プロダクションとしかいいようのない操作をしていながら、それでもライヴな場でリアルタイムのターンテーブル演奏にこだわるのは、それがジャズ同様「場の音楽」であるからだろう。

 もちろんここで言いたいのは「ジャズもようやくミックスに目覚めた」というようなことではない。ポスト・プロダクションが一般化し、サンプリング機能を含めた編集ソフトが普及して、織原の指摘するように「ひとりで音楽をつくれるようになって」、明らかに音に対する感性に変化が生じていることである。それはポスト・プロダクション的視点がプロダクション(演奏やサウンド制作、あるいはサンプリング等)やプリ・プロダクション(作曲や構成・編成、作品コンセプト等)へと滲みだしていく過程として、あるいはサウンドのとらえ方の楽器(群)単位のオブジェクト指向からレイヤー指向への変化として、さらにミュージシャンシップ優位からリスナーシップ優位への転換としてとらえることができるのではないだろうか。
 たとえば3位に選ばれた橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』(以前に本ブログでもレヴューした)を見てみよう。本作品では響きの広がる空間を重視し、アンサンブル主体の演奏でありながら余白を効果的に活かした演奏/アレンジメントが特徴として挙げられるが、これは弾き過ぎを抑制し響きを触知する耳の感性(リスナーシップ)の優先、音自体にとどまらず、響きの広がる空間、音の滲む余白を重ね合わせるレイヤー指向が生み出したものと言える。
 橋爪の作品はよく「ECM的」と形容されるが、実は益子・多田による四谷音盤茶会でかかる作品には、ECM的な空間の現出を感じることが多い。これはECMレーベルが先ら指摘した変化を先取りしていたためにほかなるまい。マンフレート・アイヒャーは他のポップ・ミュージックに比べ卓越したミュージシャンシップが当然とされていたジャズの世界に研ぎすまされたリスナーシップを持ち込み、響きを溶け合わせて楽器と楽器の間の空間に風景を描き出し、空間構築をこれに先立つと考えられていた作曲やミュージシャンの組合せへと波及させた。

 エレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーションも、フィールドレコーディングが織り成すサウンドスケープも、先に挙げた変化の先に開けた世界だ。これらの音楽と益子や多田が聴き進めるNYの先端ジャズは、言わば同じところに向けて様々な方向から穴を掘り進んでいるととらえることができよう。
 その先行者はもちろんECMだけではない。アート・アンサンブル・オヴ・シカゴやアンソニー・ブラクストンによる一連のパリ録音、スティーヴ・レイシー『ラピス』等の名前を直ちに付け加えることができる。むしろこれら60年代末から70年代初めにかけての「ポスト・フリー」と呼ぶべき断層期の多様な実践の一環として初期ECMの諸作品を位置づけられることは、慧眼にもすでに清水俊彦が指摘していることだ(「ポスト・フリーのパラダイムをきりひらく二人の先導者」 青土社『ジャズ・アヴァンギャルド』所収)。

 次回は今回の補足として、「ポスト・フリー」期と同様に多様な実践が交錯し、数多くの実験がそのまま振り返られることもなく打ち捨てられたままとなっている70年代末から80年代初めにかけて走る断層から、Nurse with Woundの作品を採りあげることとしたい。


2012年ベスト1に選ばれた
Henry Thredgill Zooid
『Tomorrow Sunny/The Revelry,Spp』
これは文句なく素晴らしい!

イヴェント「Studying of Sonic」レヴュー  Review for an Event “Studying of Sonic”

  1. 2012/12/28(金) 23:10:05|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 去る12月23日(日)、西麻布Calm and Punk Galleryにおいて、このブログでもご案内したイヴェント「Studying of Sonic」が開催された。30名という当初予定した定員は申込期限前に予約で埋まり、その後の問合せ多数につき一部追加予約を受け付けたと主催者であるサウンド・アーティスト小野寺唯から聞いていた。
 当日詰め掛けた熱心な聴衆に向け、次のプログラムが上演された。順を追って見ていきたい。

 .譽チャー「The Way to Ambient Music」金子智太郎・福島恵一
 ▲薀ぅ堯アーティスト・トーク(with 飯島淳)
  sawako+holifi
  Yukitomo Hamasaki+yui onodera
  Carl Stone+Christoph Charles

1.The Way to Ambient Music

 小野寺による挨拶と趣旨説明に続き、 音源と映像を用いたレクチャーを始める。アンビエント・ミュージックと総称される音楽の聴きどころやその可能性を活かす聴き方について、関連領域を横断しながらイントロダクションを提供する試み。
 金子は米国の老舗レーベルであるフォークウェイズの1950年代に録音されたフィールドレコーディング音源(蒸気機関車の走行音、虫の声、花火の音など)を紹介しながら、そこに音楽を聴き取ったり、風景を発見する心性/欲望を、録音/通信テクノロジーが世界をまた私たちの身近な生活環境を変えていく動きと関連付けながら解説した。
 米国アンペックス社による民生用テープレコーダーの発売が、SPレコードの制作・流通によりいったんは「購入するもの」と化した音楽を含む私たちの身の回りの音を、改めて「自分たちで録音/再生するもの」とした(その可能性をより幅広く開き直した)とか、「フィールドレコーディングされた音を聴く」という行為自体が録音/再生テクノロジーの発達(特にLPレコードによる再生ノイズの飛躍的軽減)に支えられている‥等の指摘は極めて重要かつ触発的だ。また、マイクロフォンに飛び込んでくる音を何でも取り込んでテープに定着するテープレコーダーの原理が、ジョン・ケージ「4分33秒」をを基礎付けているとの指摘も興味深く、ケージによる「拾得物としての音楽」をこうしてテクノロジーと結びつけることによって、さらに視野を広げることができるだろう。そして何よりも、これら一連の出来事が全て1940年代末から50年代初めにかけての、ごく短い期間に集中して起こっていることに驚かされる。フェイズの大きな変わり目と言えよう。
 さらには、こうしたシーンのキー・パーソンと言えるトニー・シュワルツの業績にも一部言及が為された。この部分はもっと掘り下げてもらいたかったところだ。
 もちろん金子ならではの選曲眼により、披露された音源がいずれもサウンドとして興味深かったことは指摘しておきたい(決して歴史的価値だけではない)。なお、金子が雑誌『アルテス』に連載している書評が、ちょうど現時点での最新刊である第3号で、今回のテーマとも深く関連するSteve Roden編纂によるSPレコード音源集+アンティーク写真集の体裁の『I Listened to the Wind that Obliterates My Traces』を採りあげていることもご案内しておこう。

 続いて私のプレゼンテーションは、金子の記録/記憶を介した「聴くこと」への時間的アプローチに対し、もっぱら空間的アプローチになることを予告した後、まずは音源1としてカイロの街頭音を素材としたGilles Aubry『Les Ecoutis, Le Caire』の何とも言えない魅惑的音像/音場を紹介し、この聴取体験を深めるために次の5つの補助線を引いてみた。プレイした音源や図像とともにご紹介しよう。

 .侫蝓次Εぅ鵐廛蹈凜ゼーション
  音源2:Derek Bailey『Solo Guitar Volume 1』
 空間による侵食とこれによって明らかとなる音のマテリアル性
  音源3:Derek Bailey, Min Tanaka『Music and Dance』
 2散間のヘテロトピア性
  音源4:Michel Doneda, Tetsu Saitoh『Spring Road 01』
  図像:ル・コルビュジエ「サヴォワ邸」
     ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの笞刑」
     フラ・アンジェリコ「受胎告知」
     ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ「牢獄」
     原田正夫「(仮)ある晴れた日の新宿風景」
 ご恭亟鏨韻箸靴討亮蝣運動器官としての耳
  資料:認知運動療法によるリハビリテーションの視点
 セ覲丱ぅ瓠璽犬板鯵个寮擇衫イ
  音源5:Lucio Capece『Zero Plus Zero』
  図像: Lucio Capece演奏風景
  音源6:Michel Doneda, Xavier Charles, Jean-Leon Pallandre『Gaycre 2』

 プレゼンテーション後は金子と短くやりとりし、金子の「時間的/空間的と二人のアプローチの際が指摘されたが、共にフィールドレコーディングを素材に「聴くこと」や「聴き方」を問うものではなかったか。私のプレゼンテーションもテレビ普及前(=ラジオの時代)に深められた「聴くこと」の様相をとらえるものである」との投げかけに対し、「その通りで、youtubeをはじめ映像の氾濫の前に、いま「聴くこと」が貧しくなっている。視覚のフレームに従属させるのではなく、まず音に耳を傾けてもらいたい」と私が返してコーナーを締めくくった。
 「参考になった」、「触発された」、「面白かった」とアフターアワーズに直接多くのご好評をいただいた。演者としてありがたい限りであり、今後に向け大層励みとなった。金子とも「また機会があれば‥」と話し合ったところである。


金子のプレゼンテーション  
左:福島 右:金子


2.Live Performance & Artist Talk

 続いて後半は3組のデュオ・ライヴと飯島淳をファシリテーターに迎えたアーティスト・トークで構成。

(1)sawako+hofli
 sawakoのPCからカラカラ、コトコトと小石を踏みしめて歩くような感触の音の細片が振りまかれ、一方hofliは少し水を入れた巻貝をゆったりと揺すりながら客席を巡り、ステージに到着してからもそれを続け、あるいはやはり水を入れたガラス壜を叩いた音を拡散させる。ミュート加減の丸みのある音が気泡のようにゆっくりとたちのぼる。後に続くアーティスト・トークでsawakoが語った通り、森を散策するようなゆるやかな眺めの変化が魅力的。会場内に8基がランダムに配置された無指向性スピーカーKAMOMEの「散在する点音源」としての特性を最も効果的に活かしていたのは、このペアかもしれない。各スピーカーは覗き込めば響きが湧き出す泉と化していた。聴衆が最も頻繁かつ流動的に会場内を歩き回っていたのも、このペアの時だった。もちろん一番手だったし、しかも演奏者であるhofliが率先して歩き回った性もあるだろうが、通常はコンサートで主催者がいくら「どうぞご自由に歩き回ってください」と呼びかけても、ほとんど動かないのが日本の観客である。それをこれだけ動かしたのは、やはり二人の演奏の魅力ゆえではないか。

左:hofli 右:sawako

(2)Yukitomo Hamasaki+yui onodera
 流麗なドローンが足元からひたひたと満ちてきて、ピアノの旋律の断片が中空に繊細な綾を織り成していく。牧歌的だった前ペアに対し、2番手に登場した彼らの音には都会の夜のテイストが香る。彼らの演奏に先立って、今回発売前のKAMOMEを提供してくれた(株)PHONONから製品説明があったため、演奏中にもかかわらず来場者の質問と担当者による説明が会場にぼそぼそと響く悪条件だったが、そうした予定外のつぶやきすら余裕でサウンドスケープに取り込む貫禄のパフォーマンスだった。後のアーティスト・トークでは、ピアノのサンプリング音だけに音素材を限定してプレイし、風景を構成するよりもタイムラインに沿った音の動きの推移変容を編み上げることを意図したと力強く語ったHamasakiの発言が深く印象に残った。

左:Hamasaki 右:onodera

(3)Carl Stone+Christoph Charles
 大御所二人のパフォーマンスは、持続音により全体としては安定した音場で空間を満たしながら、貝殻をこすり合わせる音、イルカの鳴き声、小石をかき混ぜる音(それぞれ音素材を同定できるわけではなく、〜のように聴こえるという印象記述に過ぎないが)等のサウンドの細粒がそこここで間欠的に噴き上がり、サウンドの花を咲かせるバランスの取れた仕上がり。低音がぶ〜んと分厚く共鳴しながらゆるやかなうねりをつくりだし、エスニックな歌謡の蜃気楼を揺らめきのうちに呑み込んでいく。幾重にも敷き重ねられた音の層の空気をはらんだふうわりとした柔らかな厚み/広がりがアンビエントと呼ぶにふさわしい。アーティスト・トークではKAMOMEの可能性について尋ねられ、音量や周波数帯域には制限があるものの(今回も音にならなかったサウンド・ファイルがあったとのことだ)、無指向性点音源の特性を掘り下げれば、インスタレーションをはじめ様々な使い方ができると答えていた。

手前:Carl Stone 奥:Christoph Charles


アーティスト・トーク 左端:飯島


 三者三様のパフォーマンスながら、生の物音やフィールドレコーディング素材(サンプリング音を含む)が共通して用いられることにより、前半のレクチャーの内容との連続性が確保されていると感じられた。両者が相互に補完しあうことにより、聴取体験が、また「聴くこと」への理解と楽しみがより一層深まったと信じたい。


 ともあれ、多面的な構成により出色のイヴェントとなったことは間違いあるまい。休日の午後から夕方という時間帯設定も成功だったように思う。詳しくは別稿に譲るが、短いながらいろいろな方と直接お話しできたし、素敵な出会いもあった。
 主催者やスタッフ、出演者各位、そして何よりも冷え込みの厳しい中をご来場いただいた多くのお客様(何とはるばる新潟や名古屋からおいでいただいた方も)に深く感謝したい。どうもありがとうございました。



この日の立役者のひとりKAMOME

音響:枯山水サラウンディング http://www.kare-san-sui.com/
KAMOME提供:株式会社PHONON http://www.phonon-inc.com/

「舞天 祝祭の大地」ライヴ・レヴュー  Live Review for “Dancing Heaven, Festival of Earth”

  1. 2012/12/25(火) 22:54:57|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 公益(財)日本伝統文化振興協会のスタッフ・ブログ「じゃぽ音っと」(*)で知った韓国舞踏の公演「舞天 祝祭の大地」の印象を書き留めておきたい。
*http://d.hatena.ne.jp/japojp/20121114


 会場少し前に草月会館に着くと、すでに列が地下のホールから1階のチケット売り場近くまで伸びている。あちこちから聞こえてくる韓国語のやりとりに耳を澄ましながらしばし開場を待つことに。
 草月ホールは久しぶりだが、ホール内に入ると、かつてのビル・フリゼール・バンドや金石出(キム・ソクチュル)一座の熱演の記憶がふとよみがえる。舞台に対して放射状に並ぶ客席の奥行きが比較的浅く、傾斜もゆるやかで、舞台が近く見えるのは舞踏公演に向いているかもしれない。

 今回の公演は8種類の舞踏を入れ替わりで見せる。目まぐるしいショーケース的攻勢を予想したが、観終わって思った以上にたっぷりな大盛り加減にびっくり。前菜8種盛り合わせではなく、主菜8品の満腹コース。
 企画構成を担当した陳玉燮の日本語を交えたユーモアたっぷり(いささかオヤジ・ギャグ)の司会進行により、踊り手たちが次々に舞台に上がる。音楽はサムルノリ系の打楽器アンサンブル(チャンゴ、ケンガリ、チンなど)やこれにダブル・リードの管楽器ピリが加わったものとテーグム、カヤグム、ヘーグム等の管弦楽器中心のアンサンブル(それでもコンサート・マスターはチャンゴが務めるのが韓国伝統音楽ならでは)の2種類。後者ではヴォイス(「口音」という)が加わる場面も見られた。

 まずはホール客席後ろの出入り口が開き、そこから歓声とともに打楽器群が鳴り渡り、ケンガリ奏者に率いられた少女集団が通路から舞台へと駆け上がる。これは実は続く「チン舞」のためのイントロダクション。チン(縁の部分が厚く折り返された銅鑼)を携えた赤白衣装の女性(彼女はひとり少女ではなく「おばちゃん」年齢)が一座から歩み出て、チンを叩きながらゆるやかに旋回する。やがてチンを置いた彼女はくるくると激しい回転に達して、客席からやんやの拍手喝采を引き出し、村祭りの広場に沸き立つ興奮を伝える。

 続いては一転して重々しい静寂の支配する「サルプリ舞」。背景に月と雲を浮かばせた陰影濃い照明に、白装束に身を包んだ女性が片手に持った白い布を泳がせる。視線は伏したまま、多くは客席に背中を向け、重々しく、だがすべるように足を運ぶ哀しみの舞。

 明るさを増した舞台に初老の男性が姿を見せると「トッペギ舞」。同じく白装束姿ながら、こちらには飄々とした軽みが感じられる。手の構えとゆっくりとした回転は一瞬「太極拳」を連想させるが、あのように腰を深くは落とさない。重心を軽やかに操り、身体の運動でダンスの空間をさらさらとクロッキー風にスケッチしてみせる様は、どこかマース・カニンガムを思わせる(ゆるやかな流動にふと透き通った空間が浮かび上がる印象)。ただ、ときどき両足を開き、思い切り腰を落として「ダンッ」と床を踏みしめるキメが入るあたりは「農夫の舞」とちらしに説明のある通りか(少なくともモダニズムではあるまい)。

 そしてサムルノリ再び(「パンクッ」)。やはりホールの外から演奏が始まり、吹き鳴らされるピリの喧騒さに煽られてみるみるうちにうちに舞台へと流れ込み、渦を描いて跳ね回る十数名の少女たちの熱気に、ホールの空気がたちまちのうちに沸騰する。うち5名の少女は防止に棹と長いリボン状の布飾りを付けて、それをわずかな首の動きでひゅんひゅんと回転させ、さらには輪になって走り回りながらトンボを切ってみせる。華やかな祝祭(ハレ)の賑わい。さらに少女たちにひとり紛れ込んだ少年(まだ小学生とのこと)が、さらに長い3mはあろうかという防止の布飾りを激しく振り回しのたくらせるパフォーマンスも。

 急に続いては緩。白装束の女性がやはり白い布を操る「トサルプリ舞」。先ほどの「サルプリ舞」が視線を伏せ背中で暗示することにより、貴族文化的な様式性やシンボリックな物語性を担っているとすれば、首にかけ両手でたくし上げるほど長い布を自在に操るこちらは、正面に向け見開かれた眼がこちらをしっかりと見つめ、衣装もより民衆的で舞もおおらかな力強さをたたえている。ヘーグムのうねりと絡みながら、もう高齢の鄭英晩(人間国宝にしてアンサンブルの音楽監督)が張り上げくゆらせる声の、しなやかな強度が素晴らしい。

 「芸者の踊り」と紹介された「長鼓舞」は、にこやかな笑みを浮かべながらチャンゴをあしらうように奏で、艶美さを振りまきながら、民謡調の女声の柔らかな節回しに乗せて舞い踊る。途中から同様にチャンゴを携えた女性3名が加わり、さらに艶やかさを増す。確かにサムルノリ等の広場の祝祭とは別物、閉ざされた座敷で繰り広げられる宴である。

 続いて管弦の演奏にケンガリが入って音圧を増しテンションを高めて、韓国時代劇によく登場する皇后風の額縁髪型ときらびやかな宮廷衣装による「太平舞」が始まる。「王女メディア」風の威圧的なメークアップにふさわしい威風堂々たる舞。途中で脱いだ上掛けを下げに来る女官役の踊り手のカラクリ人形的な動きが面白い。

 ラストを飾る8番目は男性の踊り手。でんでん太鼓を大きくした手持ちの太鼓を叩きながら、帽子に付けた棹とリボン状の布飾りを鮮やかに操る。帽子飾りが鞭の如くしなって鋭く空間を切り裂き、あるいはレーザー光線のように素早く8の字の軌跡を彫り刻む様に思わず息を呑む。先ほどの少女たちの嬌声に満ちた賑やかさとは異なり、見事な達人技にどんなに拍手歓声があがっても、沈黙の中に風切り音だけが響く冷ややかでモノクロームな鋭利さが決して失われることはない。頚椎の具合を心配したくなるほど、次々と超絶技を繰り出しながら、彼は客席の興奮を一身に担う。トリにふさわしい白熱のパフォーマンスだった。

 アンコールは演者全員が舞台上に顔を揃え、演奏に載せて始まる簡素な舞に、客席から部隊へ挙がって参加するよう呼びかけるおなじみの趣向。金石出一座の際の賑わいを思い出す(確か笹に短冊よろしくお札(お金)がぶら下がっていたっけ)。あの時は村々を巡る巫者の祭儀だから‥と何やら「民俗学」的な理解をしたが、今回のようなプログラム/パッケージされたアーティスティックな舞踏公演の装いであっても、その内容はそうした民俗をしっかと踏まえ、それゆえにこそ高いエンターテインメント性を確保している。すっかり満腹になり、頭の中を真っ白にした一夜だった。


2012年12月14日(金) 草月ホール

金貞淑:チン舞 静寂の趣
趙寿玉:サルプリ舞 清浄無垢
李潤石:トッペギ舞 一代壮観
演戯団八山台:パンクッ 師走の流星群
李貞姫:トサルプリ舞 無限の重
下仁子:長鼓舞 浄の拍動
金順子:太平舞 生涯の深遠
金雲泰:チェサン小鼓舞 華麗な激
※各惹句は公演パンフレットから引用


左から順に、太平舞、トサルプリ舞、チン舞、チェサン小鼓舞、サルプリ舞、長鼓舞、トッペギ舞、パンクッ

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