容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

萩尾望都に花束を 檗嵎厳殃椋 総特集 萩尾望都」

  1. 2010/08/19(木) 22:33:03|
  2. アート|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1
 引き続き7月の落穂拾いネタです。前回ファンであることをカミングアウトした萩尾望都について。

 「文芸別冊 総特集 萩尾望都」が河出書房新社から発行されている。売り物はデビュー前原稿(未完成)の収録と2万字ロングインタビューなのだろうか。そのほか、まんが家・作家のお友達からの特別寄稿と長嶋有との作家対談など。「マニア嫌い」で知られるモーさまゆえか、いわゆる「批評」系の論考の掲載はない(実はあるのだが後述)。
 本人へのインタヴューも、作家仲間の寄稿や対談も、あるいは「主要47作品」の徹底解説も、いずれも踏み込みが甘く、「おっ」と思わせるところはほとんどない。彼女の作品にちりばめられた「家族との確執」(特に抑圧的な母と自己を確立しないがゆえに「軟体動物」的な姉)を思えば、ファンなら「わっ」と思わずにはいられない「家族へのインタビュー」は、さすがにその辺踏み込まないし。
 実は「評論」として短いものが2本掲載されているのだが、いずれも外国人研究者(イタリアとアメリカ)によるものであるのが興味深い。村上春樹やよしもとばななの翻訳紹介者であり、後者から萩尾望都「残酷な神が支配する」を読むように紹介されたというジョルジョ・アミトラーノは、この作品を手に取った時に「なぜ漫画の表紙に、イェーツの言葉があるのだろうと不思議に思」ったと、いかにもヨーロッパ知識人的な反応を見せる。対して、22歳の時に「トーマの心臓」を読んで、ル=グウィン「闇の左手」やサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」にも優る衝撃、いや影響を受けたというマット・ソーンは、彼自身が萩尾望都に対して行った4時間にも及ぶインタヴューから、一部を紹介してくれている。ここでの彼の質問の仕方はあけすけなぐらいにストレートだ。そしておそらくは外国人相手だからでもあるだろう(それにより日本という共感共同体のしがらみから離れることができる)、彼女もまたびっくりするくらいストレートに返答している。結果として、本書の中で一番彼女の本質へ切り込み得ているのはこの部分だろう。

マット
 (前略)「トーマ」のテーマは何でしょう。
萩尾
  テーマはですね、いつ人は愛を知るのか。愛に目覚めるのか。だから最初に手紙を残して死んじゃうというむちゃくちゃを若さの勢いでやったが、たとえば30過ぎて描いたとしたら、もっと死ぬ理由をいろいろこじつけてたかもしれない。でも当時は「理由無く死んでもいいさ」と思ったわけです。(後略)
マット
 僕が初めて読んだのは22歳の時だったが、ユーリが翼を、羽根をなくした理由を話しているところを読んで、僕は当然「これは性的暴行を受けたんだ」と捉えたんです。
萩尾
  あ、そうですね。
マット
 そういうことを論文に書いて学会で発表したんですけど、それを僕のホームページに載せたらある日本のファンがそれを読んで怒り狂って「なんてことを言うんだ」て言われて。どうですか、その解釈は?
萩尾
  いや、当たってると思います。うん。

 後半はまあ読めば誰でもそう思うところで(「性的」がどこまでを指すかは人によってイメージが異なるだろうが、たとえ性器玩弄や性交に至らずとも、自分に惹かれて近づいてきた少年に、より強い屈服/服従を強いるためだけに暴行を施すということ自体、すでに「性的」な行為であると言ってしまっていいだろう)、「そんなこと、さも自分が発見したかのように論文に書くなよ!」とは思うけれど、こうしたほとんど無頓着なストレートさが彼女を武装解除し、トーマの死に関するびっくりするほど率直な回答を引き出したのは確かだろう。

 溶けかかる雪を踏みしめ、鉄橋の金網の破れ目から身を躍らせるトーマ。彼の身体の墜落とともに物語は幕を開ける(まるで錘を利用したカラクリ細工のように)。一瞬、時が止まったように、トーマが書きのこしたメッセージが掲げられる(なお、この「出されなかった手紙」は、図書室の本の頁にはさまれてしばらく時を過ごした後、作品のまさに最後のコマでユーリの元に届けられる)。映画なら、ここがタイトルバックだろうか。トーマの絶叫と通り過ぎる列車の轟音がクラッシュしたままモノクロームに凍りつき、ヘンデルによる「サラバンド」(キューブリック「バリー・リンドン」のオープニングを飾った)の弦楽合奏が重々しく鳴り渡る様を、何度思い浮かべたことか。そして演奏は、翌朝のシュロッターベッツ・ギムナジウムの喧騒によって突然に断ち切られる(まるでトーマの生のように)。
 自らが堕ちたこと(翼を失ったこと)をひた隠しにして生きるユーリにとって、最初トーマの死は押し付けがましい支配のための企みとしか映らない。彼がその真意に気づくのは、ずっと後、物語のほとんど最後に近づいてからだ。エーリクの言葉によってトーマの真意に気づき、立ち尽くすユーリを残してエーリクは走り去る。一人残され、書棚の前でうなだれるユーリのもとへ、翼を失った堕天使となって墜落していくトーマの姿が、実に印象的に描かれていることに注意しよう(すべてを捧げ尽くすように)。
 ここで物語を推し進めているのは、高低差(落下のエネルギー)にほかならないのだ。



<<  血は黒く、すぐに乾く−「ぼくのエリ 200歳の少女」  |  ホーム  |  John Butcher&Eddie Prevost 来日ツアー  >>

コメント

無頓着なソーンです

私の萩尾先生とのインタビューを取り上げて下さってありがとうございます。

無頓着…ですか。(・・;)どちらかというと「確信犯」です。そのインタビューをしたとき、私は萩尾先生とは10年ほどお付き合いさせていただいていて、『11人いる!』や『A, A'』などの翻訳をさせていただいていました。アメリカの『The Comics Journal』から萩尾先生のロング・インタビューを頼まれた時、「やるからにはみんなが訊きたくても訊けないようなこと訊いちゃう」と決意しました。そしてインタビューを始める時に、「色々ぶっ飛んだ質問もさせていただきますが、もし『それはやめてほしい』というのがあればご遠慮なくおっしゃって下さい」と、一応断っておきました。ちなみに「それはやめてほしい」という内容は全くありませんでした。萩尾先生は寛大であります。それを知った上での先生への甘えでした(苦笑)。この日本語版を出すとき、日本のファンに「無頓着」と思われるだろうと予想していました。(編集の方に「本当にこれを載せちゃっていいんですね?」と再三確認しました。)それでも日本の方に先生のストレートで大変興味深い回答を読んでほしかったです。

あと、言い訳に聞こえるかもしれませんが、「さも自分が発見したかのように論文」を書いたつもりはなく、逆にその解釈は普通だろうと思って書いたので、日本のファンからの激しい反論にびっくりしました。でも、実際に、あの論文を発表して間もなく、そういった比較文学論的な「批評」を書くのは自分の性に合っていないと気づき、「文化人類学」の方に移って、フィールドワークに基づいた読者の調査を始めました。

などということより、最後の方のあなたのトーマの解説と言うか感想がすばらしい!…と、それだけ言いたくてコメントをしようと思いました。
  1. 2010/08/20(金) 10:30:11 |
  2. URL |
  3. マット・ソーン #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/tb.php/48-ebbc96b5

DTIブログって?