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可能空間/Possible Spaces for the first World Listening Day

  1. 2010/07/23(金) 00:35:56|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:2
7月18日(日)はワールド・リスニング・デイでした。サウンドスケープの提唱者であり、「世界の調律」等の著書で知られるR・マリー・シェーファーのバースデイにちなんで、今年から定められたんだそーです。へー。で、環境音に耳を傾けたり、フィールド・レコーディングを用いた演奏を聴いたりなどすると。
この日、代々木20202(ツーオーツーオーツ)でPossible Spaces /可能空間 V.4.2というイヴェントが開催されました。企画者マルコス・フェルナンデスによる案内は次の通りです。

「Possible Spaces」はフィールド・レコーディング、サウンドスケープ、 そして複数名の音楽家による即興演奏の発表の場です。 アートとして音を読み解いていこうとするこの試みは、 環境音と私たちの関係性や“音のエコロジー”を認識させることにより、 聴衆の耳を引きつけるでしょう。聴覚の重要性は、 視覚情報にばかり気をとられるあまりしばしば軽視されがちです。 「Possible Spaces」は環境音より取り出された情報の再認識を促す概念を紹介します。


午後2時から7時まで、途中休憩を挟みながら、フィールド・レコーディングを素材とした様々な演奏を聴くことができました。以下はそのレヴューです。


マルコス・フェルナンデスが長身を窮屈そうに折り曲げ、ノートPCのモニタをのぞき込むうち、いつの間に演奏は始まっていた。水の音。小さな波がかぶる。人の話し声。何かを木製のものを叩く音がして、人の働く空間の広がりが浮かび上がる。だがそれもすぐに移り変わる。蝉時雨のような電子音。アナウンス。行き交う車の騒音。耳慣れた街の風景。だがはっとするような鮮やかさ、生々しさはない。おそらくそれは狙いのうちなのだろう。ぼんやりとかけられたディレイが音像の輪郭をにじませ、互いに溶け合わせる。こちらへは迫ってこない、どこかモノクロームに夢見るような景色の連なり。そこでは水音、交通騒音、話し声、鳥の鳴き声はさざめくような運動性/流動性を有する希薄な充満として、ひとつの範列をかたちづくっている。大工仕事やおはじき、コインの音など、手元で立てるちっぽけな音が空間を照らし出す様がそれと対比される‥‥そんなことを考えながら、響きに耳を浸していると、いつの間にか列車に乗っている。さっきまで聴こえていた祭り太鼓の遠い響きが、レールの継ぎ目が生み出すリズムに移し変えられている。車両の壁にアルミのコップでも掛けられているのか、電車の揺れに合わせて、涼やかな金属音を立てている。いま思わず「電車の揺れに合わせて」と言ったが、もちろん揺れが見えるわけではない。列車のガタゴト音とカランカランという金属音は厳密には同期していないが、私の身体はいとも簡単にそれを媒介してみせる。この心地よいシークウェンスに象徴されるように、彼の演奏はイマジナリーな線に沿ったトラヴェローグととらえることができるだろう。音像の曖昧化や暗騒音の利用、あるいは断片のループ化や同質の響きの間の滑らかな移行といった「音楽的」操作も、この「視点」の移動に適合した流動性の獲得に奉仕している。

マルコスが最後に残した水音を引き継ぐようにして、中山がしぶきを上げ逆巻く波音で演奏の幕を開ける。すぐに風鈴の響きが重ね合わされる。さらに船のエンジン音や海鳥の鳴き声が加わる。先ほどのようには風景は流れ行かず、むしろじっとそこにある。自然と我々はこの音景色をかたちづくる細部の運動に眼を凝らすことになるだろう。また、マルコス以上に彼は電子音を用いる。間欠的で緩やかなビートの提示、あるいは高音でのギターのサステインにも似た希薄なたなびきが、波のしぶきや風鈴、海鳥の鳴き声と重なり合う。

遠い水音をいったんクローズアップし、その後、再度引き下げて曖昧化した後、伊達はちっぽけな金属音を吟味しはじめる。まるでハープの部品を叩きながら点検するように。くぐもったちっぽけな響きが手元を照らし、遅れて長い残響がぼうっと部屋を照らし出す。薄暗く生暖かい親密な空間。やがてエレピやギターに似たマイクロトーンが、緩やかに波打ちながら空間をかがっていく。ひと針ひと針が仮想の平面を現出させる。ちょうどマイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』のように。半透明の空間は透過性を高め、微かな人の声や動きが気配となって滲みだしてくる。逆に言えば、映画のサウンドトラックがしているように、画面上の人の動きに(この場合は描かれたサウンドスケープに)おぼろな感情のヴェールをかける。チェロの響きが高まり、まばらな物音を水没させると、鳥の声に伴われて赤ん坊が寝息を立てる。彼はこの空間にたゆたう親密さの感触を、最後まで決して手放そうとしなかった。

先の3人にカール・ストーンとコリー・フラーを加えた全員による即興セッション(もうひとり参加が予定されていた虹釜太郎は体調不良のため残念ながら不参加)。最初、水琴窟にも似た不思議な響きが浮かび、石遊び、水音、鳥の声、(無線による?)話し声が加わる。先に指摘した「希薄な充満」の範列は「台紙」として多用(重用)される傾向にある。あるいはそれとよく似た系列で、さらに特定の場所を強く喚起する次のような音たち。駅のアナウンス、アジアの雑踏、子どもがはしゃぎ遊ぶ声、学校の部活動の練習、遠くの踏切の警報‥‥。にもかかわらず、これらの音の入れ替わりは「異なる空間が接合されている」ことの不思議さをほとんど感じさせない。マックス・イーストリーによるサウンド・インスタレーションの録音では、トラック間の沈黙がないことにより、空間から空間へ瞬時移動するような感覚を何度となく覚えたにもかかわらず。
それらはスクリーンの上で、あくまで投影された像として混ぜ合わされ、モンタージュされているように感じられる。注意深く保たれた「距離」と「不鮮明さ」によって、切り取られた風景の集積。それは一刻も早く「現在」から抜け出して、「過去」に「記憶」になろうとしている。一瞬浮かんでは消えるメロディの断片。街角に響くポップ・ミュージック。見たことのない、でもよく知っている懐かしい景色。
そこでは聴き手に語りかける等身大の音は遠ざけられ、空間を曖昧/希薄に満たす遠い甘やかな広がりか、手元に手がかり/手触りとして残されたちっぽけな音のかけらが選ばれる。
そうしたことは最後に行われた2度目の全員参加セッションでも確かめられた。子どもの歌、鳥の声、せせらぎ、蝉時雨、眼前を行きすぎる自動車、ウインドチャイム、浮かんではすぐに消えるポップ・ミュージックの断片‥‥。情景喚起力のある音が文脈を規定してしまい、そこに固着して新たな文脈を切り開けないことによって、たとえ細部は異なっていても風景は既視感にとらわれる。何度も見た美しく慎ましく懐かしい風景。それは心象風景として内面化されていくよりないだろう。そうした罠を逃れ、新たな文脈を獲得していくためには冒険が必要だ。
「いらっしゃいませー」と場違いなウェイトレスの声が響く。仕掛けたのはおそらくカール・ストーンだろう。他の演奏者に苦笑いが浮かぶ。腕組みをして辺りを眺め回す彼の動きは、ノートPCのモニタやミキサーの盤面だけを見詰め、キーボードやつまみから指を離そうとしない他の演奏者たちとは明らかに異なっていた(ICCでインタヴューした10年前に比べて、ずいぶんと下腹の出た彼は、ヒゲとサングラスでマフィアに扮しているように見えた)。あるいはJR線らしき電車の通貨音やホームの騒音に、何語なのだろう列車案内のアナウンスがかぶせられる。見慣れた風景が実は再構成されたものであり、実際にはあり得ない混合物だと気づいた時の小さな驚き。

最後のセッションに先立って行われたカール・ストーンのソロは、あるいは既にそうした違和の表明(異議申し立て)だったのかもしれない。街頭の騒音、犬が吠え、オートバイがうなる。だがそれは明らかに再構成された風景だ。拡声器を通したような不自然な声とディレイの操作で波打つ暗騒音。それは曖昧に捏造された記憶として音風景を立ち上げる代わりに、音のアブストラクトな強度を際立たせ、サウンドとして構築することにほかならない。早回し、イコライジング、ループ化等、それぞれの「音響部品」に対するテープ・ミュージック的な、いささか古風な個別操作も、そうした意図に沿うものだろう。空間を提示することなく、いきなり前景に現れる声。早回しされることによって貼り付けられた断片であることを明らかにする物音。イコライジングにより粒子を荒げ、輪郭を失ってざらざらとしたノイズへと荒れ果てていく響き。
途中休憩時にかけられた虹釜太郎の作品(本人に確認したところ、昔、沖縄でサウンド・インスタレーションをした時のものではないかとのこと)もまた、素材や肌理の異なる同色の布地を並べたような、モノクロームでアブストラクトな手触りにあふれたものだった。彼が参加すれば全員セッションのバランスはもう少し違ったものとなったかもしれない。そこに切り開かれたかもしれない可能性を思うと残念でならない。

サササササ‥‥タタタタタタ‥‥。コリー・フラーは自らのソロ演奏を、情景を喚起しないアブストラクトなサウンドで始めた。その中に含まれる貝殻をこすり合わせるようなノイズが細部にリアルな手触りを与えている。空間を異なる軌道/周期をもって旋回する物音の向こうに、弦楽アンサンブルとコーラスが混ぜ合わされたような「音楽的」な響きが現れ、ホーミーにも似た引き延ばされた螺旋状の詠唱を伴って、天上へと立ち上っていく。立ち上る響きもまた複数のループを含んでいるのだろうか、イーノ「ディスクリート・ミュージック」に似た生成的な手触りを有している。さらに、外側を旋回する音像と中心部分の間を、より輪郭の曖昧な響きがゆっくりと脈動しながら動いている。とりあえず眼についた4つの主要な要素(=音響機械)を書き出したが、これはむしろ前景/中景/遠景に相当するような区分であり、先に触れたようにそれぞれが複数の音響部品から構成され、その都度ミクロな響きを生み出しているのだろう。この全体像は「風景」とも「音楽」とも感じられない。それゆえ心象化もされない。旋回するノイズが「音楽」を異化し続け、不断の生成によるバランスの移り変わりが「風景」を固定しない。逆に言えば、この眼前を過ぎるざらつきがなければ、豊穣な倍音を含む響きは、たやすく飽和してしまうことだろう。一見ポスト・クラシカル風の甘く優しげな響きが、結局、この日聴いた演奏の中で、最も印象に残るものとなった。
終演後、いったい幾つのサウンド・ファイルを同時に操作していたのか、彼に尋ねてみた。彼の説明によると、16トラックを用意していて、途中でファイルを入れ替えているものもあるから30前後ではないかとのことだった。演奏がカオス状態になってしまうのが嫌なので基本的な構造を設定しているが、その中で一定の幅を持たせている。例えばループの周期をずらして設定してあり、ぴたりとは合わず、常にずれていく。各種パラメーターも一定程度変化させることができる。こうした不確定性と向き合いながら即興的にコントロールしている。だから全く同じサウンド・ファイルを使ってもう一度演奏したら、たぶん全然違う演奏になってしまうだろう。実は今日使ったフィールド・レコーディング素材の幾つかは、カナダの山奥にあった精神病院、もう閉鎖されて廃墟になっているのだけれど、そこで録音したものだ。小さな物音やドアの軋みとか。その病院は変わった治療方針を持っていて、薬ではなく、自然と音楽で病気を治療しようとしていたんだ。
特別な(神秘的な/マジカルな等)場所で録音した音だからと言って、そこに不思議な力が宿るとは私は思わない。けれど空間の特性を肌で感じながら、響きの細部に耳を凝らし収めた音を、その時の記憶とともに用いるのならば、それは音の匂いや手触り、温度感や重さを活かした使い方ができることだろう。

演奏プログラム(途中休憩あり)
1.マルコス・フェルナンデス http://www.marcosfernandes.com/
2.中山信彦 http://www.ne.jp/asahi/dream-walkers/kazehakase/main/main.htm
3.伊達伯欣 http://www.kualauk.net/
4.全員
5.コリー・フラー http://www.myspace.com/coreydavidfuller
6.カール・ストーン http://www.sukothai.com/v.2/index3.html
7.全員


写真はhttp://www.soundingthespace.com/から転載

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コメント

読み応えありました

はじめまして。山道と申します。虹釜太郎の知り合いで、World Listening Dayに行けず、検索していてこちらを発見しました。イベントの状況がよく分かり、鋭い考察もあって参考になりました。マルコスに誘われて11月にUPLINKでのPossible Spacesに参加する予定です。
  1. 2010/09/13(月) 01:39:05 |
  2. URL |
  3. 山道 晃 #-
  4. [ 編集]

コメントありがとうございます

山道様コメントありがとうございます。お名前は存じ上げております。11月のPossible Spaces参加されるとのこと。楽しみです。
  1. 2010/09/16(木) 23:59:48 |
  2. URL |
  3. 福島恵一 #-
  4. [ 編集]

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