容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

浸透的聴取  Osmotic Listening

  1. 2013/10/03(木) 23:19:00|
  2. 批評/レヴューについて|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 前回更新からまた随分と間が空いてしまったことをお詫びしたい。身内の不幸等もあって公私とも多忙となったことに加え、ある意味「回顧」的な企画であるが故に、新譜レヴューほどは手間がかからないだろうと高をくくって始めたTMFMRの連載が、聴き進めるうちにいろいろと興味深い問題を掘り起こしてしまい、さらにはまるで磁石に引き寄せられるように新たに聴き込むべき魅惑的な音盤をたぐり寄せてしまった結果、こちらも改めて仕切り直し、考え直さないといけない状態になってしまった。(T_T)うぅ
 そうした事情もあって、新譜レヴューの素材は継続して仕込みつつ掲載には至らない状態が続いてしまったのだが、そんな中、ガツンと衝撃を覚えたのは多田雅範の指摘で参照した益子博之のディスク・レヴューである。クロス・レヴューであるのに、他の執筆者から随分遅れての掲載は、後に見るように彼の逡巡を示すものだろう。だが、そうした迷いは彼が他の聴き手よりはるかに深く掘り進めているからにほかならない。私なりの読み方で、そのことを明らかにしてみようと思う。


益子博之が音楽批評サイトcom-postにDerrick Hodge:『Live Today』のディスク・レヴューを執筆している(※)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=817
 やや長めの引用を含んでいることから推察されるように、いささか論旨が入り組んでいるのだが、簡略化すれば次の2つの主張が接合されていると言えるだろう。
 まず彼はこの作品をジャズ・ミュージシャンでなければ創造できない作品として評価している。そうした論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 この音楽はジャズ・ミュージシャンでなければ演奏できない、創造できない音楽であるという点で、21世紀のジャズなのだと言い切ってしまいたい。
 綿密に構成された作曲/編曲の中で個々のプレイヤーの演奏には大きな自由度が与えられている。
 更に、曲の進行の中でメンバー間の緻密なインタラクションがリアルタイムで展開される。これこそジャズ・ミュージシャンでなければできない演奏、音楽と言えるだろう。


 ‥‥とここまでの論旨はわかりやすい。彼と多田が開催しているリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」においても、NYジャズ・シーンの先端部分を定点観測しながら、そこで進行する「サウンドスケープ化」という事態の中に彼が見詰めていたのは、決して「サウンドスケープ化」という「モード」の転換ではなく、ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造が、より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容であることに改めて注意を促したい。彼の姿勢は極めて一貫している。
 いささか論旨が輻輳してくるのは、そこに彼が「個性の「濃さ」に纏わる議論」を絡めてくるためだ。彼は高橋健太郎による「ヘッドフォンで歌ものの音楽を聞くと、ヴォーカルは眼前から聞こえるとういよりは、頭蓋骨の中に定位してしまうことが多い。つまり、言葉とメロディーが頭の中で鳴る。あたかも、(**********)という内なる声のように。」との論を引用して、次のように語り始める。やはり論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 これはヴォコーダーやオート・チューン、或いはボーカロイドを巡る議論であり、ジャズ・ミュージシャンについて論じたものではない。だが、スピーカーと対峙して音楽を聴くことで音楽家に向き合うような聴取の仕方と、何かをしながらヘッドフォンやイアフォンで行うような聴取の仕方とでは、聴き手が求める音楽の性格に大きな違いが生じることは同様だろう。
 頭蓋骨の中に定位している音楽と、その外側に定位するアンビエンス。前者が例え器楽演奏だったとしても、その演奏やサウンドがあまりに「個性的」であったら、それはあくまで外から聞こえる音であり、共感したり感情移入したり、更には自己投影したり自己同一化したりするには却って邪魔になってしまうことだろう。それに対して、スムーズに耳に入ってくると同時に、その音楽に浸っている自己を周りの他者から差別化できる程度には「個性的」な音楽と、現実の外界から自己を遮断する役割を果たすアンビエンスの組み合わせは、そうした耳にはこの上なく心地良く響くことだろう。


 ‥‥ということは、巷間囁かれる現代ジャズ・ミュージシャンの個性の薄さは、ヘッドフォンによる「内在的」聴取に向けたものだと言うのだろうか。昨今のポップ・ミュージックの大勢として進行する「微温湯化」については、確かにその通りだと思う。それは聴き手の感覚を慰撫し、これに抗うことがない。耳を不意撃ちすることのない、聴覚を眠り込ませるための音楽。「マインド・リゾート・ミュージック」あるいは「セピア・ミュージック」(共に虹釜太郎)。このことは「予定調和」という点において、たとえ見かけは暴力的であっても、その実、揺るぎなく様式化されたラウド・ロックやピュア・ノイズについてもそのまま当てはまる。発見を求めない、浸るためだけの音楽。「ああ、これこれ」と想起のスイッチが入りさえすれば実質終わってしまう、ほんの5秒あれば足りる音楽。だが、益子の耳の追い求める音楽はそうしたものではなかったはずだ。

 そう訝る読み手に「しかし、果たしてジャズが、そしてアートがここまで内向的に、閉鎖的になってしまって良いのだろうか」との転調が示される。ここからレヴューの論旨はさらにわかりにくくなる。と言うのも、レヴューは最終的に「一つ言えることは、デリック・ホッジの音楽はそんな私が聴いても非常に心地良く、強く共感できるものだということだ。」という対象作品への肯定により締めくくられるからだ。
 ここで益子は自身による全く別の作品に関するライナーノーツを引用してみせる。

 この音楽は、あくまで受動的な聴き手という立場に安穏としている限り、落ち着き所がわからないまま、恰も中吊りにされ、置いてけぼりを喰ったかのような感覚を覚えさせかねないものだ。だが、ひとたびプレイヤーの一人として参加し、音楽の行方を積極的に追いかけるような聴き方をするならば、ジェット・コースターや山間のワインディング・ロードを疾走するスポーツ・カーが与えてくれるようなスリルとは本質的に異質な、街中の交通の流れや信号の表示といった状況を的確に察知し、急加速・急減速をすることもなく、スムーズに一定の速度で走行し続けているときのような快感を得ることができる。

 そして、それに続けて次のように述べる。

 私には楽器演奏の経験があり、尚且つヘッドフォンによる音楽聴取をしていないという点で、現代の音楽リスナーとしては特殊な部類に入るだろう。だから、演奏者の一人としての自己を対象の音楽に投影できるのだと言うことは可能だ。とは言え、これは聴き手の態度の問題だと捉えることもできる。自己投影の仕方が受動的なのか、能動的なのか、その違いによって音楽が聴き手にとってどのような価値を持つのかが左右される、能動的に耳を働かせることによって他者に接して自己を開いていくことができるのだと…。

 後段の前半部分、すなわち「私には楽器演奏の経験があり‥‥と言うことは可能だ」の部分は、いささかエクスキューズが過ぎるのではないかと感じてしまう。わざわざ別作品のライナーノーツを引用したのは、明らかにこの主張のための準備作業なのだから、このことが彼の論旨展開の中で一定の重要性を帯びていることが推察される。また彼が演奏体験を特権化することにより、聴取の門戸を閉ざしてしまうのを警戒していることもよくわかる。しかし、彼が重視/注目する「ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造」は、決して楽器演奏やアンサンブルの体験がなければ理解できないものではない。むしろ反対に、「より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容」を捉えることができるのは、楽器演奏やアンサンブルの体験によってかたちづくられた〈音楽耳〉ではなく、初めて泊まる旅館でふと夜半に目覚め、部屋にくすぶる何物か判別し難い奇妙な軋みに、胸騒ぎを覚えながらそばだてられる〈音響耳〉ではないか。楽音の聴取が捨象してしまう音の表面の微かなざらつきや、響きに混じる僅かな匂いを探り当てる鋭敏な耳の「指先」。
 とすれば「能動的」な聴取もまた、音楽の流れを先読みし、アンサンブルの一体性を感じ取ることに限定されはしない。そうした演奏者の思考に聴き手の思考を重ね合わせ、同一化を図ることにより、そこから生み出される音の流れに棹さす「内在的」な聴取に対し、音が自らの外部にあることを当然の前提としながら、言わば聴覚を「ナノ化」して響きの隙間へと浸透させ、複数の表面に同時に触れながらその震えや温度、色彩や輝きを猫のヒゲのように感じ取る「媒介/媒体的」聴取。益子がこともあろうに菊地雅章による「Ensemble Improvisation」の試みに言及しているのは、そうした響きに沁み込むように身を沈める聴き方を念頭に置いているからにほかなるまい。

 「群盲象を撫でる」と言うが、視覚により一望の下に外形/輪郭をとらえるのではなく、その都度限られた範囲の手触りの推移から全体を編み上げること‥‥いやそうではない。触覚はそのように積分されて総体の構築へと至る代わりに、茫漠たる差異の広がりのうちに深みへと引きずり込まれ全景を見失う。不安に掻き立てられた皮膚は、ますますその感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、ミクロな差異を際立たせ、不連続な断層に悩まされながら、藁をもすがるように言葉をまさぐり、仮初めに紡ごうと試みては果たせず、いらだちを募らせる。「能動的」聴取とはそのような心細い孤独な探求にほかならない。

 多田雅範が一瞬の耳のまたたきのうちに音を捉え、これと深々と切り結びながら、ぶっきらぼうな断言を繕うことなく放り出し、夢遊病者のようにふらふらと当てのない連想の糸をたどらざるを得ないのも、益子博之がますます深く遠くへと耳の眼差しを届かせながら、そうした聴取の体験をいささかも特権化しようとせず、それどころか音への扉を広く開いたままにし続けようとするのも、未知の響きに不意討ちされた衝撃への切実な、そして極めて倫理的な反応であるように私には思われる。それゆえ彼らの聴取の対象がたとえ未だ耳にしていない音源であっても、ふと漏らされたつぶやきに深く揺さぶられてしまうのだ。



<<  文化横断的変異「民俗音楽」探求 その3 北アフリカ(補足)  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.3 Northern Africa(Supplement)  |  ホーム  |  高潔さの喪失 − 三善晃・堂本尚郎追悼  Loss of Nobility − Akira Miyoshi & Hisao Domoto RIP  >>

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/tb.php/247-13d73a1a

DTIブログって?