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他の耳が聴いているもの − 「タダマス10」レヴュー  What Another Ear is Listening to − Review for "TADA-MASU 10"

  1. 2013/07/31(水) 23:15:12|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 触覚的な響きやレイヤー構造による異なる速度の重ね合わせ/ずらしといったサウンド傾向が広くシーンに浸透するにつれ、次第にポップな試みが出てくるようになった。これはいろいろな人に聴いてもらうために、より聴きやすいものを目指すミュージシャンの意図の現れととらえている‥とホスト役の益子が今回の選盤のねらいを説明する。
 今回のプレイ・リスト中、そうした説明に最もふさわしいのは冒頭を飾ったErimajだろう。ローズの奏でる各音の浮かび上がりとそれとは速度感の異なるドラムスのストロークがすれ違い、ベースとギターの絡みには、やはりドラムスが足を滑らせるようにタイミングを外しながら重ねられる。そうしたずれ/滑り/すれ違いはヴォーカルに対しても同様に仕掛けられる。
 しかし、こうした取り組みはよくあるケース、すなわち普及の結果としての平板化あるいはマニエリスム化のように思えてならない。プログレッシヴ・ロックやニューウェーヴの末期がそうであったように。Jonathan Finlayson & Sicilian Defence(‥って将棋の矢倉や穴熊みたいなチェスの陣形じゃなかったっけ)の演奏がHenry Threadgill的だという指摘もまったくその通りだが、いささか糸巻きの糸が緩んでいると言わねばなるまい。Colin Stetsonによる一人多重奏的なポリフォニーを「ポップだ」と言うのもこれまた異論のないところで、たとえBon Iverへの参加がなくとも、長短のリフを自在に繰り出し重ね合わせる演奏は、まさにポップ・ミュージック的な快感に満ちている。大道芸の名人的なパフォーマンス。だが、私にはそれ以上のものは感じられなかった。
 もちろんこうした「不満」が不当なものであることは承知している。益子は彼が魅せられている世界への入口を広げたいのだろう。それは疑いなく正しい。飽くなき挑戦を続けるミュージシャンたちを支えることにもなる。だがその一方で、今回の彼の手つきが、彼の魅惑されている音世界を「ある効果を得るための手法」のように見せてしまう危惧を感じた。後述するように、ここでの本質は明らかに結果ではなくプロセスにあるからだ。それも演奏の中でリアルタイムで繰り広げられる相互作用のプロセスに。
 これらの音楽が今日の、あるいは明日の「ジャズ」として語られるべき必然性は、私にはそこにあるように思える。「タダマス」に召喚されるミュージシャンたちは、これまでのジャズ共同体の決まり事を次々に破り捨てながら、むしろこの「リアルタイムの相互作用のプロセス」については放棄するどころか、ますます深く身を沈めているように見える。と言うより、ポスト・プロダクションですべてがつくりだされるポップ・ミュージックに抗して「演奏の現場」にこだわる者たちが、互いに深く触発しあえる空間として見出したのが、冒頭に掲げた傾向ではないのだろうか。
 今回、多田が珍しく益子と一見対立する「ジャズ耳」的な立場から「こんな音を聴かされて、いったい何を聴いたらいいんだってことですよ」といった旨の発言を繰り返していたのも、私には冒頭の益子の提言を反対側から補足していたように思える(当人は風邪のせいで頭がぼうっとしていたんだと言っているが)。ヴォーカルや明確なメロディ・ラインがあって取っ付きはいいが、それではその背後に広がる演奏の生成プロセスには耳が届かない。これはロック的な轟音の充満でも同様であり、サウンド・プロダクションの結果として造形/構築されたマスとしてのサウンドが提示されているのは事実としても、それだけに酔いしれていたのでは、飽和したサウンドから析出してくる音響のかけらや、うっすらとした変調が均質化した表面をふと過る素早い動きに注目することはできない。かつてのECMに特徴的だった「運動と空間」あるいは「構造と響き」を枠組みとして、前者を通して後者に耳を届かせる聴き方でも充分ではない。

 休憩を挿んだ後半のブログラムは、まさにこのプロセスの重要性を明らかにする、思わず耳をそば立てずにはいられない充実した作品ばかりだった。

 Bureau of Atomic Tourism / Second Law of Thermodynamics(かつて「Total Mass Retain 〜 」と歌っていたロック・グループがいたっけ)は、ちょうどガラスをはめられた額縁の中の絵画にも似た不思議な距離感があり、通常の録音のように演奏にフォーカスしたというより、演奏の周囲に広がるサウンドが滲むべき空間を併せて見込んだ視角が提示される。その中に輪郭を揺らめかせた管が漂い、パーカッションがちらちら瞬き、ローズの打鍵がきらめいて、それらの波紋をさらにどもるようなエレクトロニクスが空間の震えとして広げていく。庭先の水たまりに陽光が反射して薄暗い居間の天井に映し出す不思議な揺らめきを、ぼうっと眺めていた子ども時代の思い出がふとよみがえる。

 揺らめきの強度という点では、最近の「タダマス」の最多登場ミュージシャンと言うべきMary Halvorsonも負けてはいない。濃密なエレクトロニクス操作を介してではなく、ほとんど化粧っ気のない線の細い音色で、神経が震えるような深い揺らぎをつくりだしてしまうのが彼女の真骨頂と言えるだろう。Stephan Crump(double bass)とのデュオによる『Secret Keeper』では、ベースがぐいぐいと弾き込む分、彼女の浮遊する「引き」の魅力がよく出ていたように思う。

 Gerald Cleaverも「タダマス」の常連だが、Halvorsonと異なり、その本質を名指すのが難しいミュージシャンだ。2011年のジャズ系のベストと言いたいFarmers by Natureでも一番輪郭がおぼろで明度/彩度の低い、一種とらえ難い役回りを演じていたし、「タダマス」の初回でかかったGerald Cleaver 's Uncle Juneも、細部の切れ込みの深さにもかかわらず、全体としては像を結びにくい仕上がりだった。今回のGerald Cleaver Black Hostでもそうした底の見えなさは健在。アンサンブルのON/OFFの切り替え、ピアノとドラムスのサンプリング感覚のミニマルな繰り返し、アルト・サックスとギターのユニゾンと言うにはあまりに微妙な、触れ合うか触れ合わないかギリギリの持続、ピアノ・ソロ+α的な揺らぎ‥‥。実は今回、ホスト役の益子と多田の打合せに同席させてもらい、プレイ・リストの各曲を事前に一通り聴かせてもらったのだが、70歳近いヴェテラン・ピアニストCooper-Mooreによるいかにもなフリーっぽいソロは、その際に益子宅のスチューダー+マランツ+JBLというヴィンテージ銘機ながら、むしろカール・ツァイスのオールド・レンズを思わせる高解像度と丸みを持つサウンドで聴いた時には随分と他から「浮いて」聴こえた。だが、喫茶茶会記のアキュフェーズ+アルテックではそう聴こえない。これは打合せ時に「ミスキャストではないか」と問いかけて、益子から「でもCleaverがこのグループを組む際に最初に選んだのが彼なんだ」と説明を受けたせいなのだろうか。
 ここでdrums,sound designという本作におけるCleaverのクレジットは、まさにグループのサウンドの統括デザイナーと理解できる。先に述べたサウンドの堂に入った配合の仕方は、彼が事前にグラフィックを描き、「お前はこの青い線を演れ。あんたはこっちの赤いシミだ」と指図しているのではないかと思われるほどだ(本作のカヴァー・デザインのグラフィックも彼が制作している)。すなわちそこでは線的な推移よりも、面的な配置の方が優先される。ここでの彼のコンポジションは、そのように時間の軸をいったん捨象してつくりあげたサウンドのブロックを、サウンド・ファイルのデスクトップ操作感覚で改めて結合することによって成り立っているのではないか。
 そのように考えると、Cooper-Mooreが選ばれた理由も見えてくるように思う。他のCleaverと同世代のメンバーと異なり、彼は今回の「主素材」なのだろう。つまり彼の演奏の個性をどう活かすかが、このプロジェクトのテーマと言う訳だ。逆に言うと、彼の演奏を出発点/帰還点に置くことで、Cleaverはいくらでも過激にグラフィックを凝らすことが可能となるし、他のメンバーも逸脱を重ね遠くまで行ける。
 Cleaverのような深く読み込むことを求めるミュージシャンを聴く場合、複数で聴くことは大きな助けになる。多層的な展開に焦点を絞れず、推移を看て取れず、空を掴むばかりで途方に暮れかける耳を、それでも「ここには耳を傾けるに足るものが何かある」と引き止めてくれるのは、他の耳の眼差しの存在である。別に言葉を交わさずともよい。他の耳がそこに聴くべきものを見出したとの事実が、そして他の眼差しが見通す先を自分も見極めたいという願いが、とらえ難い茫漠とした広がりに、あるいはうごめくものの姿の定かでない暗がりに耳をそばだて続けさせるのだ。

 Eric Revis Trio / City of Asylumでは、Kieth Jarrett作曲の「Prayer」で、音を突き放すように孤独に輝かせ旋律を粒立たせていくKris Davis(彼女もまた「タダマス」がずっと追いかけている一人だ)の単音ピアノ、深く深く杭を打ち込むベース、空中に打音で象形文字を刻んでいくパーカッションの三者の距離感というか、間に覗く闇の深さが凄い。まるで真空中で演奏しているようだ。また、三者の即興演奏によるであろう表題曲では、ネックを軽く撫で回すように弦に触れ、つむじ風に舞う枯れ葉のようなリフを生み出すベースに対し、響きを抑えカタカタと乾いた音を立てるピアノの高弦が僅かずつタイミングを踏み外していき、暗がりに沈むタムの響きがそれらの影を縫い取っていく。前述の打合せ時にこの2曲に漂うあまりに深い静けさに、思わず「Clean Feedらしくないんじゃないか」と言ったら、益子は「Clean Feedはレーベル・カラーは決して強くない」と言いながら、でもこの盤で選んだ2曲は異色であることを教えてくれた。実際、その場で少し聴かせてくれた他の曲では、駆け回るピアノに対応したAndrew Cyrilleの身体の運動が、そのままドラムの軌跡となっており、そこにこのような深い闇はなかった。

 Gerald Cleaver Black Hostと並ぶ今回のハイライトがCraig Taborn Trio / Chants。実は本作は以前に聴いて「何かある」と思いながらも、その核心をしっかりとつかむことができず、ディスク・レヴューの対象から外して先送りした、私にとっての「難物」である。演奏は淀みなくさらさらと進む。細やかなさざめきの中で三者が互いに交感しあう。細部に眼を向ければ、必ずそこには精密なやりとりが潜んでいる。だがそれは暗闇に潜む巨大な全体を、ペンライトのちっぽけな灯りで探るのにも似て、いっこうに像を結ばない。聴き手の手元には膨大な材料が与えられ、至るところに痕跡が残されるが、所在はいっかな明らかにならない。そうこうするうちに耳はあてもなく空をつかみ、視線は虚ろにさまよって、時間ばかりが経過してしまう。
 前述の打合せ時に多田は、益子がこの盤から「All True Night/Future Perfect」を選んだことに驚いていた。そして一見して特徴のない、とっかかりの見当たらない長尺の演奏は、まさにそれゆえにこの盤の特質を表しており、このトラックを聴くことを通じて本盤の核心に耳を届かせることができることを、私たちは後ほど知ることになる。
 打合せ時に聴いて気がついたのは、この演奏が風景を編み上げないということだ。サウンドの多元的な生成を風景としてとらえることは、演奏者の輪郭をあらかじめ前提としないことにより、即興演奏の聴取において有効なアプローチなのだが、ここで演奏は言わば風景的な均衡に至ることなく、力のままに果てのない流動を繰り広げていく。
 四谷音盤茶会の場で、益子は本盤について「聴きどころが難しい」としながら、ピアノ・トリオというフォーマットを前提として聴くのではなく、個々の役割に注目して聴くことを提言していた。すなわち、Tabornが持続的に一定のサウンドを生み出すことによりキャンヴァスの役割を務め、Cleaverがこれに絵筆を振るい、そしてMorganが句読点を打っていくというような。
 打合せ時にも「これは他の耳が選んだトラックである」ことを前提とし、その理由、眼差しのありかを探りながら聴くことで、耳の視線の射程をより深めることができたが、今回のディレクションはさらにそうした効果を深めるものとして作用した。
 Tabornのつくりだすさざなみがある平面をかたちづくる。そこに生じる起伏を点で結んで線を描き、複数の流れをつくりだし、全体を洗うように押し流していくCleaverに対し、砂浜を洗う波が浜辺に取り残す漂流物を思わせる仕方でMorganのベースが響く。それは新たに杭を打ち立てるように見えて、実はすでにそこにあったものが波に洗われて姿を現すのだ。それは異物や抵抗というよりも、流れが流れであるために束の間つくりだす「構造」とでも言うべきものである。そして結果としてそれは流れの縁/布置をピンで留めるように流れを際立たせる。だがあくまで定常状態は「流動」であり、ドミナントなのはそちらである。
 途中、ピアノの響きがふと遠のき、入れ替わりにすっとベースが前面に出る瞬間がある。ここが曲の切れ目なのかもしれない。束の間、ベースはより積極的に演奏をコンダクトし、舞台を傾け、サウンドの濃度/演奏の密度の勾配をつくりだす。再びピアノとドラムスがすっと戻ってきて、示された方向性に肉付けしながらシンコペートされた明滅/脈動をつくりだす。益子が「同期」と指摘した部分だ。益子の選曲と言葉に導かれた聴取は、演奏者の皮膚感覚へと沈潜していく。演奏者自身、このレヴェルを意図として明確に対象化してはいないかもしれない。
 ただ、全体にかけられた深い「アイヒャー・エコー」が演奏を神秘化しているのは否めない。もちろん「アイヒャー・エコー」は事後的な音響操作として一方的に施されるものではなく、演奏者との相互交通が保証された下で、演奏の前提としてあるものなのだが、それでも直前にかけられたClean Feed盤のKris Davisのような音でTabornを聴くことができれば、また違うものが見えてくるかもしれないと感じたのも事実だ。NY帰りの益子によれば、生で聴くTabornのタッチはそれはそれは強力なんだそうだ(それは積み木を積み上げていくような「建築家」的なエレピの演奏からも想像されるところだ)。事前の打合せ時には、これが「アイヒャーがいじる前の『ネイキッド』音源が聴けないか」という話に膨らみ、『ネイキッド・ケルン・コンサート』などという多田のコアな発言も飛び出したりしたのだが。

 「他者の耳の視線を意識して聴くこと」、「同時に複数の耳で聴くこと」を存分に経験できた貴重な時間だった。

 なお、当日プレイ・リストの詳細については以下のURLを参照のこと。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767



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