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クラリネット・ルネッサンス−クラリネットを巡る耳の個人史から  Clarinet Renaissance−From Personal Ear History around Clarinet

  1. 2012/02/01(水) 23:45:00|
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 綜合藝術茶房喫茶茶会記での四谷音盤茶会の時だったと思うが、益子博之から「NYダウンタウン・ジャズ・シーンにおいてクラリネットが復権してきている」と聞かされて、私の脳裏にはすぐさま、昨年のベスト30に選んだクラリネット・デュオThe International Nothingのことが浮かんだ。まるで暗い水の中を泳ぎ回る黒い魚のように、暗がりからすらりと立ち上がり、輪郭をおぼろにしたまま、滑らかな肌をすり合わせる息遣いのアンサンブル。それからしばらくして、やはり四谷音盤茶会で益子が聴かせてくれたThe Clarinetsの演奏には、それと共通する今にもほどけてしまいそうな、あえかな手触りがあった。それは共演者の身体のアクションにアクションをもって応え、生み出されるサウンドはそうした反復強迫的なアクションの連鎖(マス・ヒステリー的な集合身体)の結果でしかないような「即興演奏」には望み得ない世界だ。そのとき私は、ここへと至るクラリネットの足取りを、私の耳の記憶を通じて改めてたどり直してみようと思った。


1.前史〜Eric Dolphy

 とは言え、所詮は私の耳の記憶だから、それほど遠い過去まで溯るわけにはいかない。かつて、ジャズ・エイジの初期、Benny GoodmanやSidney Bechetが花形スターだったクラリネットの黄金時代については、知識としてしか知らないことを白状しよう。
 やがて音量/音圧に優るサキソフォンの誕生とビバップによる小編成化の浸透が、クラリネットをまばゆいフットライトから遠ざける。そうした中で、まるで古代生物のようにでかい図体をして、不器用にのそのそと這い回るバス・クラリネットが、マルチ・リードの一環としてEric Dolphyにより見出される。これ以降、この扱いにくい楽器が、まさに扱いにくいがゆえの潜在的可能性の豊かさによって、たとえば先鋭的なジャズやフリー・インプロヴィゼーションのシーンで注目を集めていくことになるわけだが、後で詳しく見るように、そうした後の探求とDolphyの演奏には根本的な違いがあることに注意しよう。ひとことで言えば、後の探求がメカニックな奏法の開発による表現領域拡大であり、そうした奏法/サウンドのモジュールの獲得であったのに対し、Dolphyのそれはそうした水平的な拡大ではなく、〈別人格〉としての新たなヴォイスの獲得/憑依だったのではないだろうか。彼にとって、アルト・サックス、フルート、バス・クラリネットは、それぞれ異なる仕方で世界と〈交信〉する〈交信機〉にほかならない。〈交信機〉が変われば、そこに現れる〈世界〉も様相を一変し、これに対する主体の在りようも変わってくる。だから『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candid)に収められた「What Love」におけるMingusのベースとDolphyのバス・クラリネットによる不可思議なデュオが、「宇宙生物同士の会話」にたとえられるのはまったく正しい。ここでのDolphyの演奏は楽器の機能の新たな拡大に向かう代わりに、むしろジャズ的な語法の洗練(それはいかに振舞えばカッコイイかという膨大な決まりごとの集積である)を脱ぎ捨て、ジャズ・コミュニティで承認されているコミュニケーションのコードを放り投げた、サウンドのざらざらした(あるいはのっぺりした)生地を無様に露呈させるものとなっている。

  
『Mingus Presents Mingus』  Eric Dolphy on bass clarinet
                     後ろはMisha Mengerbergか


2.NYダウンタウン・シーン

 後の探求の例として、ここでは80〜90年代にNYダウンタウン・シーンで進められたNed RothenbergやElliott Sharpによる実践に触れておこう。彼らはバス・クラリネットの豊穣な倍音や同様に豊かな楽器本体の共鳴/共振(これらは様々な表現可能性を開くト同時に、それだけ制御しにくく、音色を不安定にしやすい)に果敢にアクトし、特殊タンギングによる分厚い鉈を振り下ろすような破裂音や重音、尺八を思わせる極端な音の跳躍と鋭く甲高い響き、ノンブレス・マルチフォニックスによる濃厚な倍音の渦等を次々に獲得していった。これらの特殊奏法の獲得が、単に楽器の機能/表現領域の拡大にとどまらなかったことに注意を促しておきたい。すなわちRothenbergにおいて、それは広がりのあるサウンドスケープの中に高域/中〜低域/破裂音やキーによる打撃音の対比と重音を含む構成を持ち込むための回路として機能したのだし、また、Sharpにおいてはオールオーヴァーな音響構築に打/弦楽器のみならず、管楽器による金属質の肌理を導きいれるための水路となっている。
 ここでひとつおさらいをしておきたい。彼らは(即興)演奏者であると同時に作曲家でもある「コンポーザー/パフォーマー」としてシーンに登場した。その背景には当時のNYダウンタウン・シーンが、従来の即興共同体が崩壊した後に演奏者間の交感をどのように成立させるかを模索していたことがある。互い異なる音楽的出自を持ち、それぞれにユニークな語法を個々に探求してきた演奏者たちを、「ゲーム・ピース」(John Zorn)や「コンダクション」(Butch Morris)といった規則によって構造化されたメディア空間において出会わせることが、とりあえずの解決としてもたらされた。シーンのメンバーたちは、即興共同体が崩壊し、これまで積み上げられてきた前述の決まりごと(イディオムもまたそのひとつである)が灰燼に帰した時に、楽器/サウンドをDIY的に解体/再構築すること(John Zornのゲーム・コールズ、Elliott Sharpの自作楽器、David Mossのジャンク打楽器、Christian Marclayのターンテーブル等)を彼らなりの再出発点とした。こうした解体によるサウンドの断片化と新たな文脈による再構築(コラージュ/ブリコラージュ)という方向性は、言わば演奏/サウンドの量子化=情報化の側面を有しており、もともとメディア空間と親和性が高い(さらにはその後のサイバー・スペースとも)。これによりシーンは「情報戦争」的な様相を呈し、ほとんど自滅的な消費の加速へとのめりこんでいくことになる。だが、少なくともその初期においては、この解体/再構築のパンクなDIY性が、情報消費の加速に対する一種の抵抗拠点たり得ていたように思う。すなわち、映像を早送りで眺めるような、距離を置いた一方的な対象化の眼差しの下での視覚的情報消費に対し、いちいち皮膚に触れ、指先にひっかかるような、距離を欠いて相互的な触覚による読み取り/書き込みとして。
 さて話を元に戻そう。バス・クラリネットの〈発展的開発〉の一方で、John Zornが「ラディカル・ジューイッシュ・カルチャー」と呼んだ界隈では、クラリネットは依然としてクレズマー・バンドの花形楽器だった。例えばThe KlezmaticsにおけるDavid Krakauerがそうした代表として挙げられるだろう。そこにはディアスポラにより様々な場所で生活することを余儀なくされたために、ユダヤ文化にしみこんだ多様な民族文化(主に東欧ということになるのだろうが)や大道芸、マーチング・バンドや結婚式や葬式の賑わいの遠い記憶が鳴り響いているように思う。こうしたクラリネットへと流れ込んだ過去の記憶の堆積については、また後で触れることになるだろう。
 実は当時、初期のChris Speedのクラリネット演奏も耳にしているのだが、Tiny Bell Trio等の東欧系マイクロ・ミュージック(硬い鉛筆で描かれたデッサンの感触)の一種として、こうした過去の記憶を投影しつつ、また読み取りながら聴いていたことを白状しておかねばなるまい。

      
  Ned Rothenberg   Ned Rothenberg『Trespass』   Elliott Sharp『(T)HERE』


  
   David Krakauer   David Krakauer's Klezmer Madness
                        『Klezmer,NY』


3.Luis Sclavis〜Trio de Clarinettes

 実を言うと(告白ばかりだな‥)、私の「クラリネット初体験」はアンサンブル・タッシによるオリヴィエ・メシアン「世の終わりのための四重奏曲」である。もちろん、それ以前にクラリネットを聴いたことがないわけではない。幼稚園で「クラリネットをこわしちゃった」を歌い、小学校で「ラプソディ・イン・ブルー」を聴かされ、テレビでクラリネットをくわえた北村英治の姿だって見ているのだから。
 それでも、クラリネットという楽器が私の耳に改めて刻み込まれたのは、この作品を通してだろう。冒頭曲、クラリネットは輪郭を淡くして、薄闇に溶け込むように鳴り響き、遠くでカリヨンのようにおぼろにたなびくピアノの和音と、手前で時の流れに端正な刻み目をつける弦との間の空間を曖昧に満たす。およそ抵抗というものを感じさせず、空間ににじみ広がるように自在にかたちや容積を変え、時の流れを伸び縮みさせる音色。対して2曲目では、眼前で炸裂するピアノに続き、とてつもない危機を告げるかのように鋭く鳴り響くクラリネットは、谷を渡る角笛に、天使のトランペットに、弦アンサンブルの一員に見事になりすましてみせる。自分自身の個性/輪郭を浮き立たせず、背景に溶け込んだまま、何にでも姿かたちを変えてみせるトリックスター的な万能の語り手‥。私は久しぶりに出会ったクラリネットに対して、勝手にそんなイメージを持ったのだった。
 そうしたイメージが一瞬よみがえったのは、Louis Sclavisを初めて聴いた時だった。曲は「Duguesclin」(『Chine』(IDA)の冒頭曲)ではなかったろうか。乾いた風が運んでくる異国の気配。曲がりくねったフレーズが紡いでいく濃密なエキゾティシズム。さしずめアーラーブに当たりそうな前奏部分のゆったりした息遣いが、テーマ部分ではがらりと声音を変えて端正な口調となり、さらに続く急速調の即興部分では、音色は輝きと鋭さをいや増して、自らを切り刻みながら疾走し、振り返れば砂漠の逃げ水にも似たおぼろな像を結んでいる。次々と移り変わる場面転換に合わせて、鮮やかに生成変化を遂げながら、魅惑的な物語を紡ぎ続けるシェヘラザードの如き不可思議な語り手。あるいはソロ第1作『Ad Augusta Per Angustia』(Nato)のやはり冒頭に収められたライヴからのひとこま(「La Signification des Choix Musicax」)で、息つく暇もない早口の繰り返しを、そのまま続けてバス・クラリネットで「声態模写」し、満場の笑いを取るトリックスターぶり。
 当時でもSclavisの主楽器はむしろバス・クラリネットだったが、先に見たNYダウンタウン・シーンの演奏者とは異なり、それは確かにクラリネットと地続きの土地だった。トルコからバルカンを抜ける横軸とイタリアから北アフリカに至る縦軸を自在に組み合わせて仮想の「汎地中海音楽」をつくりあげていた彼にとって、クラリネットという硬い鉛筆や面相筆に似た「筆記具」はきっと使い勝手が良かったのだろう。ここで彼は、クラリネットに流れ込んでいる過去の記憶を想起しているのではなく、あくまでそうした過去の記憶を素材の一部として新たな物語を書き進めているのだ。
 Sclavis絡みでもうひとつ特筆すべきものに、クラリネット・アンサンブルの活動がある。まずはJacques Di Donato、Armand AngsterとのTrio de Clarinettes。90年のトータル・ミュージック・ミーティングのライヴ録音がFMPからリリースされている。現代音楽畑でも活躍する2人(この盤でもピエール・ブーレーズ「ドメーヌ」をデュオで演奏している)を引き込んで、クラリネットからバス・クラリネットはもちろん、コントラバス・クラリネットまで持ち出して演じる名人芸の数々は、もう「ごめんなさい」と平伏するしかないほど素晴らしい。
 同種楽器のアンサンブルという点では、すでにThe World Saxophone QuartetとRova Saxophone Quartetが70年代末から活動を始めており、Julius Henphil, Oliver Lake, Hamiet Bluiett, David Murrayとそれぞれ単独で活動する奏者が集ったソロ中心の前者と、グループでの活動がメインで構造的なアンサンブル演奏に基本を置く後者という二大類型
示されていたのだが、このTrio de Clarinettesはそのどちらにも当たらない。鮮やかな超絶技巧と卓抜なヒューモア、思いがけないひらめきに溢れた彼らの演奏は、楽器の同質性を基盤としながら、むしろそれゆえに明らかになる僅かな抑揚の差異や声音の違い、息のかすれや響きのにじみが、各人の〈声〉を交感不可能なものとしてしまうような地平を前提としている。これにより可能となる身体性を刻印された〈語り〉の卓越こそが、3人が共にクラリネットを携えて点描的なフレーズを投げ交わす中から、楽器を投げ捨ててヴォイスの応酬となる場面や、他の2人の寝息の上でか細く紡がれるオーヴァートーンといったパフォーマティヴな演奏を支えているのだ。
 興味深いのは、SclavisがTrio de Clarinettesとほぼ同時期にSilexレーベルの第1作Quintet Clarinettes『Music Tetue』にゲスト参加していることだ。汎地中海的なトラッド・ミュージックの先鋭的な探求を進めたSilexレーベルの偉業については、私のトラッド体験を披露した時に多少触れたが、あの程度ではとても語り尽くせるものではない。ここでもそれはさておいて、ブルターニュ・トラッドの演奏者5人で編成されたQuintet Clarinettesについてだけ述べておこう。彼らはトラッド曲を素材に演奏を繰り広げるが、メンバーにはErik Marchandのようにむしろ歌手が本職の者も含まれており、複雑な編曲や超絶技巧を駆使するわけではない。むしろ彼らの特色は、トラッドならでは特徴ある節回しや息遣い、あるいは痙攣するような素早いリフや甲高い音域での重ね合わせ等により、クラリネットという楽器の特質を変貌させ、クラリネットによるアンサンブルを様々な民族楽器を映し出すための〈鏡〉として用いていることだ(ただし、一部でtreujenn-goalなる民族楽器を使用している。これがどのようなタイプの楽器かは調べがつかなかった)。ここにはラディカル・ジューイッシュ・カルチャーの箇所で述べた「クラリネットに流れ込んだ過去の記憶の堆積」と響きあうものがある。ちょうど封印されたDNAが近親交配によってよみがえり、系統樹をさかのぼる「先祖帰り」を来すように、近代化以前の音風景がパノラマのように現れては消えていく。

  
   オリヴィエ・メシアン       Louis Sclavis『Chine』       Louis Sclavis
『世の終わりのための四重奏曲』                   『Ad Augusta Per Argustia』

  
  
  Trio de Clarinettes         Quintet Clarinettes


4.クラリネット・ルネッサンス

 部屋の隅の暗がりから漂う何者かの気配、暗い水の底から浮かび上がる巨大な影、輪郭の不確かな茫漠とした広がり、後頭部にのしかかる得体の知れない重さ、距離感のない曇り空、いつの間にか耳を塞いでいる空気の厚み‥。メシアン「世の終わりのための四重奏曲」でクラリネットに魅惑された私にとって、クラリネットの特質とは、ジャズ・エイジ初期に人々を熱狂させたピロピロと軽快に跳ね回るリード・ラインの明快さよりも、こうした薄暗く不確かな希薄さにあるようだ。そしてまさに、The International NothingやThe Clarinetsの演奏も、こうした領域に照準を合わせているように感じられる。
 Anthony Burr, Oscar Noriega, Chris Speedの3人により結成されたThe Clarinetsは2006年に第1作を発表している。BurrとNoriegaの2人はバス・クラリネットも奏するが、その演奏はバス・クラリネットがクラリネットに対して有する「過剰さ」に焦点を当てたものではなく、聴き取りにくいつぶやきにも似た低音のうごめきであったり、暗い水の流れを思わせるドローンであったりする。クラリネットにおいても、音色の希薄さが多用されており、たとえ素早いパッセージがあったとしても、それがスウィング・ジャズのように明確に独立したラインを奏でることは極めて稀であって、小鳥の羽ばたきが瞬間の痕跡を残す‥というような点描的な演奏が大部分を占めている。複数のクラリネットが素早く交差する場面でも、それぞれのライン、各人のヴォイスが際立つことはない。むしろそれらは多方向から同時進行で組み上げられた幾何学模様の印象を残す。編み上げられた組み紐や精緻なアラベスク模様が網膜に刻む鮮やかな残像。
 暗がり/沈黙になじみ、そこから少ない光量/息の量で素早く立ち上がり、また空間に溶けるように還っていく演奏は、閉管構造ゆえに偶数次倍音を持たず、波形上は矩形波になるというこの楽器について、明らかに特定の側面を戦略的に選び取っている。それがこの輪郭/距離感が曖昧で、背景に溶け込み、空間に溶け広がる甘味/苦味を感じさせる音色である。この選択はChris Speedにとって首尾一貫したものではないだろうか。彼のサックス演奏の特質として多田雅範が指摘する「不機嫌なトーン」、「棒読み」を私は次のように解釈している。ジャズにおいては、いかに振舞えばカッコイイかという細部の決まりごとの膨大な集積としてジャズ語法が、書道でいう「永字八法」のように定められており、あのフリー・ジャズの破壊的経験ですら、これを拡張こそすれ、廃棄することはなかった。
 これに対し、それらの細部に抗い、「一」の字の入筆から終筆に至る力と速度の配分、「はらい」の力の抜き方、「はね」の角度と長さ等々を組み替えてつくりあげたオルタナティヴがSpeedの「棒読み」ではないか。それは「フレーズからトーンへの転換」(益子博之)の一環を成すと同時に、「フォルムからマチエールへの転換」に相当している。クラリネットからイディオム的なフレーズを排し、トーンすなわちサウンドのマチエールの探求を進めた結果が、水彩絵の具の滲んだ広がりのようなThe Clarinetsの音世界ではないだろうか。The Clarinetsの演奏には、互いの響きの肌をすり合わせる、ただそれだけで成り立っている(触覚による反応の軌跡がミクロなフレーズをかたちづくる)と思われる場面が数多くあるが、サウンドのマチエールの露呈が触覚を招き寄せるとすれば、何の不思議も無い。
 こう考えていくと、John Zornがクール・ジャズやハード・バップを熱愛し、前述のジャズ語法をむしろスタイリッシュに強調したかたちでモジュール化し、自らの演奏に取り込んでいることとの対比には興味深いものがある。それはやはり伝統の中にいると自覚している者(Chris Speed)と伝統に憧れながらその外にいる者(John Zorn)の違いなのだろうか。

 NYジャズ・シーンでのクラリネット復権に対応するヨーロッパの動きとしては、Xavier Charles , Kai Fagashinski, Michael Thiekeらの活躍が挙げられるだろう。
 Xavier CharlesはJohn Butcher, Axel DornerとのトリオThe Contest of Pleasuresにより、個々の演奏者が対話を交わすと言うより、響きを溶け合わせ(各演奏者の輪郭はそれだけ曖昧になる)、その溶け合わせた響きを流動変化させる音響的なフリー・インプロヴィゼーションに先鞭をつけた。彼の近作『Invisible』では、気息音による演奏が管の内壁を舌で這い進むような鋭敏さをたたえながら、通常よくあるようなドローンへと至らず、素早く差し替えられ、キーの打撃音やタンギングの爆発、管の各部の共鳴と交錯しながら、細密なミュジーク・コンクレートをつくりあげている。そのスウィッチングの速度は C.A.Sehnaoui 以上と言えるが、彼女のような超高性能サンプラー演奏的な感触はなく、むしろ管の内部に渦巻く息のミクロな乱流に眼を凝らし、微細な変化をピックアップし続ける流体力学の研究者を思わせる。環境音に薄いレイヤーを敷き重ねる2トラック目の演奏は、対象空間を管の内部から部屋の内部へと拡大したものととらえられよう。ここではサウンドのマチエールの露呈が、痛々しくも鋭敏な粘膜/センサーの露出に結びつき、空間に震えるような神経網を張り巡らすに至っている。
 Kai FagashinskiとMichael Thiekeの2人はクラリネット・デュオThe International Nothingを結成し、暗闇に息づくような演奏を進めている。Ftarriからリリースされた作品を見てみよう。息を精妙にコントロールされたクラリネットは表面のざらつきを全く持たず、それゆえ輪郭の定かでない、ウナギのようにぬらりとしたとらえどころのないサウンドに至る。ここで2本のクラリネットは、暗い水の中を泳ぐ黒い深海魚のように(ジャケットに描かれた一見音楽と不似合いな図案は、このことの寓意なのだろうか)、その輪郭/所在を明らかにしないまま、ぬらぬらと絡みあい、するりとすり抜けながら、そのおぼろげな軌跡によって、解きほぐし難い空間的文様を編み上げていく。
 もうひとつ紹介したいのが、The International Nothingの2人がメンバーとなっているThe Magic I.D.である。The Magic I.D.はChristof Kurzmann(vo,computer)とMargareth Kammerer(vo,guitar)の男女ヴォーカルによるソング・ピースを演奏するグループで、神経質で気難しいエレクトロニクス奏者とばかり思っていたKurzmannが、案の定生真面目な声で歌うのも興味深いが(Kammererの情熱的でソウルフルな声と鮮やかな対比を成している)、さらに注目すべきはThe International Nothingの2人がデュオの演奏を、そのままソング・ピースに持ち込んでいることだ。もちろんオブリガードやリフレインを提供する場面もあるのだが、茫洋としたハーモニクスで空間を染め上げ、声にうっすらとヴェールをかけ、あるいは木漏れ日にも似たちらつく照明を当てるあたりは、これまでのソング・ピースの演奏にはなかなか見られなかった、声と楽器の関係性のあり方と言えよう。誰かかArt Bearsを例に引いていたが、確かにDagmar Krauseの凍てついた声にFred FrithとChris Cutlerがつくりだすざらざらしたノイズがかぶさっていく際の衝撃の余韻が、ここには鳴り響いているのかもしれない。

         
The Clarinets『The Clarinets』      The Clarinets
                     『Keep On Going Like This』

  
The Contest of Pleasures    Xavier Charles『Invisible』

  
The International Nothing         The Magic I.D.           The Magic I.D.
                     『Till My Breath Gives Out』  『I'm So Awake / Sleeples I Feel』

5.クラリネットの〈本質〉

 ここまで私個人の耳の歴史に沿って、クラリネット復権までを跡付けてきたが、こうしてたどり直してみて、仮初めに「クラリネット・ルネッサンス」と名づけてみた今回のクラリネットへの注目が、これまでの行われてきたバス・クラリネットの過剰さや過去の記憶の堆積といった、クラリネットの+α部分ではなく、そうしたものを削ぎ落としたクラリネットの〈本質〉へと向かうものであることが、改めて明らかになったように思う。その点でクラリネットへの注目は一過性の〈流行〉で終わることなく、底流に沈みながらも、ずっと継続していくことだろう。
 今回のたどり直しの中で用いた分析枠組みはまだまだ鍛錬が足りず、たとえば昨年6〜9月分のディスク・レヴュー(※下記URL参照)で採りあげたJoe McPheeをフィーチャーしたクラリネット・クインテットIrchaによる『Lark Uprising』の魅力には、その刃が届かないところがある。そこで演奏者たちは、たとえばバス・クラリネットの軋轢に満ちた音色を最大限に活用し、あるいはクラリネットの上澄みを溶けあわせ、ため息やつぶやきにも似たちっぽけな響きを、そこかしこに配置して音楽を息づかせていくのだが(つまりは今回の分析はあちこちかすってはいるのだが)、同時に機関車のようなリフレインを多用した役割分担も駆使しているのであって、ここで音楽に豊かさをもたらしている魔法のような何かをひとことで名指し解明することなど、とてもできそうにない。少しだけ思うところを述べて、残りは今後の宿題としたい。
 ひとつありうるのは、クラリネットがサックスに対して本質的に持つサウンドの等質性/無名性の効果である。サックスが演奏の場に姿を現す際に、すでに演奏者の名を刻印された個性豊かな〈個人名のヴォイス〉を獲得しているのに対し、クラリネット演奏にはそうした差異は少ない。ましてや、フレージングを排したマチエール中心の演奏となれば、なおさらヴォイスは個人の署名を欠いた無名なものとなる。このことがクラリネット・アンサンブルが集合的なヴォイスを獲得するために役立っているのではないだろうか。
 ここで各クラリネットのヴォイスは、切り離された各個人としてソロに精出すわけでもなければ、無名性の中に完全に埋没してしまうわけでもない。声音の微妙な違いがアンサンブルに厚みをもたらし、無名性に軸足を置いていることがホケットにも似た一音ずつの投げ交わしによるフレージングを可能とし、屋外の開けた空間とあいまって、我彼の区別の無い祝祭的な空気を運んでくる。これは同種楽器による即興アンサンブルに特有の現象かもしれない(先に見たようにサックス・クワルテットには機能分化した先例がすでにあるわけだが)。同じ回のディスク・レヴューの中で、やはりポーランドのFoton Quartetの演奏について「彼らは、互いに命を預けあって十数年を共に過ごした炭鉱夫仲間のように、視線すら交わさず仕事にかかる。それでも信頼に裏付けられた阿吽の呼吸が、途切れることのない息の長いアンサンブルを生み出していく」と評したが、そうした文化の固有性も無視できないところである。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-133.html


  Ircha 『Lark Uprising』

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