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記憶の復讐−韓国映画「母なる証明」レヴュー  Revenge of Memories − A Review for Korean Movie “Mother”

  1. 2011/10/25(火) 23:30:19|
  2. 映画・TV|
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 昨日、BSで観たので、頭に浮かんだことをちょっとメモしておきます。最初にお断りしておけば、TVで観ただけで書いているので、本格的な映画評になどなるはずもありません(時間短縮のためにカットもされているだろうし)。それとネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。



 原題は『母』、邦題は『母なる証明』と、全編に渡って描き出される「母性の暴走」を強調しているが、これはむしろ「記憶」の映画と言うべきだろう。障害を持つトジュンがこめかみに指を当ててぐるぐると回す「呪われたこめかみ」のポーズをするたびに、過去が脈絡無くフラッシュバックする。
 作品の展開において重要なのは、このうち彼が母に殺されかけた(農薬を飲まされ無理心中させられるところだった)場面を思い出すシーンと、ラスト近く、母がトジュンによる殺人現場の唯一の目撃者である老人を殺害し(彼の目撃が見間違いでないことが「呪われたこめかみ」のポーズにより証し立てられる)、放火した焼け跡で見つけた母の鍼箱を、慰安旅行に出発するバスの待合室で渡すシーンの2つ。ここでトジュンは、あたかも母の罪を告発しているように見える。しかし、それは説話論的な役割=機械仕掛けとしてそうなのであって、彼に告発の意志などあるはずもない。彼は自分自身が少女を殺害したことすら自覚していないのだから(「真犯人」の発見により釈放されて、死体がわざわざ屋上に放置されていた理由を推理してみせるトジュン)。

 先の2つのシーンでトジュンは「童形をした神」のように現れている。どこまでも純真で罪無く、無垢であるがゆえに、かつかつと日々を生きる人間の小さな罪を告発してやまない存在として。
 ここで私は萩尾望都『訪問者』のことを思い浮かべている。新雑誌「プチフラワー」の創刊号に掲載された作品は、やはり彼女による作品『トーマの心臓』の登場人物オスカーの「前日譚」とでも言うべきもので、『トーマ』の舞台となるシュロッターベッツ・ギムナジウムへの転校以前、父親と過ごした子ども時代を描いていた。気弱な芸術家である父は、母を殺害し、一人息子オスカーを連れてあてのない旅に出る。早熟なオスカーは、それ以前から険悪な夫婦仲に責任を感じ、居場所の無さ(自分は「家の中の子ども」ではない)を感じていた。そしてついに、父親の眼に自らが罪の告発者として映っていることを知る。無垢な子どもの姿をして家々を訪れる神=「訪問者」として(やはり「家の中の子ども」ではなく)。結局、父は知り合いの寄宿学校校長(彼こそはシュロッターベッツの主であり、オスカーの実の父親だった)に彼を引き渡し、帰らない旅に出てしまう。
 『訪問者』においては、「ちっとも神ではない」オスカーの内面が描かれることで、「童形をした神」は言わば物語上の機能として登場するに過ぎない。しかし『母なる証明』においては、トジュンの内面が描かれず、理解/共感不能な不気味さをたたえていることから、そうした「神性」がより生々しく立ち現れてくることになる。それは「記憶」の寓意にほかならない。抑圧しても、忘却しようとしても、また別のかたちでよみがえり、自らを責め苛む「記憶」が人の形をして現れたもの(ウォンビンの底の知れない眼差しや生臭さを感じさせない肢体は、見事にその役割を果たしている)。
 通常のストーリー・テリングなら、例えば復讐者の悪意や突然のアクシデントにより明らかにされていく忌まわしい「記憶」が、ここではトジュンの「障害」を介することにより、意図でも偶然でもない、あるズレをはらんだタイミングにより暴かれていくことに注意しよう(一方、前半の2件の交通事故に見られるように、この作品では「アクシデント」は本当に唐突に偶然の結果として、サイコロの出目のように起こる。殺人事件すらも)。言わば何者かによって与えられた「運命」として。
 そうした酷薄な「運命」への、ちっぽけな、だが精一杯の抵抗として、母の「イヤなことを忘れるツボ」に鍼を打つ行為を位置づけることができよう。それはこれまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくのだ。

 だから、私にはこの作品が「母のどこまでも深く、狂気に満ちた愛を描こう」とつくり始められたようには思えない。障害により、シャッフルされ、あるズレを持った、並べ替えられたかたちでしか記憶がよみがえらない‥というアイデアがまずあり、そこに「忌まわしい記憶を消す」魔法という仕掛けが加わり、母と子と殺人といった要素は、それらをプロット化するために後から要請された要素なのではないだろうか。本作品の脚本における伏線の張り方はとても見事なものだが、「母の異常な愛情」という線で組み立てたと考えるよりも、先のように見立てた方が、すうっとひとつの見通しが浮かんでくる気がする(もちろんこれは後知恵に過ぎないが)。

 俳優陣の演技もまた素晴らしい。おそらくは確信犯的にブサイクな顔ばかりを選んでいたりするので、消化不良を起こす方もいるだろうが。
 ネット上にアップされた感想を見ると、「母の愛情の異常さ」に胃もたれを起こした方も多いようだが、もし、この作品からそうした異常さしか感じ取れないとすれば、それは身の回りの親子の愛情の異常さから眼を逸らしているか、その方自身が偏狭で異常な愛情の中にあってそのことに気がついていないかのどちらかだろう(もちろん、映画には慰撫的な心地よさ以外を一切求めない向きもあるだろう。それも立派な「異常」ではある)。
 本作品は、むしろ異常というか「切断」の少ない映画だ。同じポン・ジュノによる「殺人の追憶」が田舎町の中に突如として現れる大規模な土木工事現場のシーン(人寂しい暗がりから一瞬のうちに転じて、煌々とライトに照らされ大勢が行き来する、本当に眼の眩むような異空間が出現する)を持っていたのに対し、本作品はひとつの街の同質性の中に封じ込められたまま進む。風景の手触りの切断は基本的に無い。それゆえ、死体の放置された屋上からの均質化した街の眺めが効いてくる(簡単に一望できる、まるで水滴のように閉ざされた、ちっぽけな世界)。
 唯一の切断は、風景の中の母の姿によってもたらされる。例えば母がジンテの家、あるいは廃品回収業者のところに向って田舎道を歩くのを超ロングでとらえたショット。母の姿は本当にちっぽけで、広がりのある景色の中では映像のシミのようですらあるが、それまでの姿が投影されることにより、景色と拮抗し得る存在となる。映像の力の溢れる場面だ。そのことは枯れ草が風にたなびく草原を母が歩くショットでも現れる。それらの源泉に位置しているのが、やはり冒頭に置かれた奥行き深い景色の中で母が舞うショット(タイトルバック)だろう(途中、母の見詰める山裾に立つ一本の樹木を、同じようにカメラが回り込みながらとらえるショットがあり、この辺は確信犯的なうまさではある)。なお、誤解の無いように付言すれば、これは決して「閉塞」に対する「開放」ではない。先に挙げた各場面において、期待されるような開放感/解放感を得ることはできない。風景のホリゾントは高く掲げられ、視線を解き放つことはかなわない。むしろ眼は景色と母とが拮抗する「つばぜり合い」を見詰め続けること、そうした強度の圧迫に耐え続けることを強いられる。それは「見たいものだけを見る」ことが映画を観ることだと考えている観客には無縁の体験である。たとえば廃品回収業者の居所に近づき、ショットが切り替わると、足元がぬかるんでいる。ここでの触覚性の急浮上を味わうことができるのは、先の緊張に耐え続けた者だけの特権であるだろう。
 この点で撮影の素晴らしさを了解しながら、その画面の強度を、様々な生成の線を自在に結び合わせ、注意深い瞳をとらえて放さない編集/構成の見事さを賞したい。派手なシーンやあからさまな切断がないだけに目立ちにくいのだが。音楽もまた、楽曲の出来以上に、抑制された効果的な使い方を評価することとしたい。





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