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楽器としての世界−機械による知覚との共同作業(補足)  The World as Instrument−Collaboration with Perception by Machines (Supplement)

  1. 2011/09/19(月) 22:12:30|
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 前回の補足として、稿を改めて論じるとした、聴くことが〈発見〉を忘れ、〈想起〉へと埋没してしまう傾向について書くことにしたい。


              【〈発見〉を妨げる〈想起〉のモード】

1.機械の知覚による録音がもたらす聴き方
(1)細部への耳の眼差し

 私たちの聴取の中には、録音されたものを聴くことによってかたちづくられたモードがすでに様々なかたちで入り込んでいる。ひとつには繰り返し聴くことができるという録音の特性が、細部に注目し、音や響きを微視的にとらえる聴き方をもたらしたと言うことができる。これは録音技術の発達による解像度の向上とも並行関係にあり、特にクラシック音楽(オーケストラ演奏)において、カラヤンやブーレーズの指揮者としての活躍は、細部の構築/彫琢に耳を凝らす、こうした微視的な聴き方の普及なくしては考えられなかったろう。さらには、70年代からセオンやアストレ、オワリゾール等の新興レーベルが主導した古楽ブームもまた、技術の発達による高域(倍音領域)の録音・再生能力の向上の賜物ということができる。それまでの黴臭い学術研究的な古楽のイメージ(かつてのアルヒーフやノンサッチにはそうしたイメージがどうしても付きまとっていたように思う)から、空間いっぱいに広がる軽やかで鮮度の高い響きの聴取へ。
 ジャズの発展形としてのフリー・ジャズからフリー・インプロヴィゼーションへの転進においてもまた、録音の果たした役割は大きい。それは決してジョセフ・ホルブルック時代のデレク・ベイリーたちが、フリー・ジャズやアメリカ実験音楽の取り組みを、現場から離れた英国でレコードを通じて研究していたことだけを指すものではない。ベイリーたちが特定の音楽伝統/即興コミュニティに自閉してしまうことのないよう、イディオムを離れた非イディオム的なインプロヴィゼーションを推し進めるにあたり、イディオムは充分廃棄されているか、文脈はできかける都度、切断されているか、各自の手持ちのランゲージはうまく機能しているか(強迫反復等の袋小路に陥っていないか)等について、セッションの録音を通じて確認していたであろうことがひとつ。さらに、聴衆にとっても、彼らの演奏の実質を、「破壊的前衛」といった粗雑なラベリングで済まさず的確にとらえるためには、ソロやコール&レスポンスの跡を追いかけ、ノイジーな爆発にのけぞるだけでなく、音の軌跡の遷移/交錯/衝突に眼を凝らし、音色の対比や音の空間配置を含めた細部の構造を聴き取ることが求められ、これはまさに録音された演奏を繰り返し聴くことにより育まれる聴き方にほかならない。

(2)録音された即興演奏を巡って

 「繰り返しの効かない一回性に基づく」とされる即興演奏が、録音が可能とした「繰り返し聴くこと」により育まれた聴取を前提としているとは、何とも皮肉なことだ(ほとんど詐欺である)と思われるかもしれない。だが、私たちの耳がそのように「経験を積んだ(exprienced)」耳になってしまっていることは、否定しようもない事実である。その時に、録音された即興演奏を聴くことを拒絶したり、あるいは1回だけ聴きはするが「すべてを聴いて、すべてを捨て去る」などと浪花節的に宣言してみたりすることは、あまり生産的とは言えまい。こうした態度はあまりにも素朴に、あらかじめ準備しないこと、繰り返しの効かない一回限りのものであること、無意識の反応であること、瞬時の判断の連なりであり事前の見通しや意図はないこと‥といった〈即興演奏の無垢性=イノセンス〉を信じきってしまっている。また、なお悪いことには、そうした〈無垢性=イノセンス〉が即興演奏の絶対的な前提であり、即興演奏の価値を決定するとすら考えてしまいがちである。
 様々な条件付けを取り除いていきさえすれば、原初の無垢や自由が手に入るというのは幻想に過ぎない。私たちの身体は、すでに数限りない条件に縛られている。私たちは一定の波長範囲の音しか聴くことができず、一定の音量範囲の音しか聴くことができない。耳の解像度は限られているし、百時間続けて聴くこともできない。逆に言えば、あらかじめ決められた日時・場所に、決められたメンバーが集まって、ステージ上等の限定されたスペースで聴衆から見えるように配慮しながら、たいていは「楽器」と見なされるものを用いて、一定の時間の範囲内でほぼ同時に始まり同時に終わる「演奏」なるものを繰り広げることが、あらかじめの条件付けでないとしたら、いったい何なのだろうか。
 何のことはない。様々な条件付けを取り除いていくと、取り除けない初期条件の制約が裸で出てくるだけなのだ。むしろ私たちが目指すべきは、選び抜いた条件を新たに付け加えることにより、初期条件の制約をつくりかえ、そこからは自動的には出現しない状態をつくりだすことにほかなるまい。


2.発見と想起−聴取の2つのモード
(1)〈想起〉のモードのドミナント化

 録音された音を繰り返し聴くことを通じて、耳の眼差しが音の細部へと向けられるようになり、すでに聴いた音の中にも新たな発見が生まれるようになった。その一方で、反復的聴取は別の作用をもたらしもする。
 聴覚が「それは何の音か。自らに危険をもたらすものか」を判断するために発達したことを考えれば、〈聴くこと〉の中に必然的に〈想起〉のモードが含まれてくることは理解できよう。私たちは眼の前の音だけでなく、想起した音もいっしょに「聴いて」いるのだ。
 こうしてもともと〈聴くこと〉の中に含まれている〈想起〉のモードが、録音の反復聴取により強化され、より前景化してきているのではないだろうか。すなわち、繰り返し聴くことのなかで本来達成されるはずの〈発見〉が排除され、同じものの寸分違わぬ反復であることが疑いなく信じ込まれることにより、〈聴くこと〉が〈想起〉のスイッチを入れるトリガー/インデックスに堕落してしまっているのではないか。
 
 ひとつ例を挙げて考えてみたい。悪評高いMP3の音質についてである。登場直後から、その音質の悪さが指摘され、「私の曲をMP3で聴かないでほしい」と公言するミュージシャンも現れた。その一方で、ディスク・ライブラリーをMP3プレーヤーに放り込んでシャッフル・モードで再生する快楽について熱心に語るミュージシャンもいる。この齟齬はどのようにして生じているのだろう。
 せっかく制作したサウンド・ファイルを送付用にMP3に変換すると、その全く別物になったような音質の低下にがっかりする‥というアマチュア宅録ミュージシャンも多い。その後の改良があったとは言え、MP3の音質が高く評価できるものではないことは事実だろう。それは単にミュージシャンのプライドや自意識の問題ではない。特にMP3変換前のオリジナル音源との比較により、そのことは痛いほど明らかになってしまう。
 それではなぜ、MP3プレーヤーでの聴取では、それは問題にならないのだろう。ひとつの回答は、最近のリスナーはもともとMP3の劣化した音質、あるいはチープなイヤフォンやノートPC付属のオモチャのようなスピーカーでの再生音に慣れてしまっている(すでに馴致されている)というものだ。恐ろしいことではあるが、確かにこれはある程度当たっているのだろう。しかし、この説明だけでは、先に登場したシャッフル・モード愛好のミュージシャンや、さらにはMP3登場以前からの音楽愛好家たちが、MP3プレーヤーの音質に特に不満を感じていないことを説明できない。
 私なりの説明は「両者では聴取のモードが異なる」というものだ。聴取において〈発見〉のモードがちゃんと機能していれば、MP3の音質の悪さに当然気付くことになる。オリジナル音源とMP3音源を比較する場合は、言わば意識的に〈発見〉のモードを作動させていることになる。対してMP3プレーヤーを聞き流している時は、ほとんど〈想起〉のモードだけが作動しているのではないか。ライブラリーの聴き返しの場合は、冒頭で「ああ、あの曲か」と判定された時点で、実際に聞こえている音ではなく、想起された音が脳内ではプレイバックされる。ここで、実際に聞こえてくる音は、先に述べたように、〈想起〉のスイッチを入れるためのトリガー/インデックスに過ぎない。この〈想起〉のモードが支配的になることにより、初めて聴く音源に対しても、それが何だかわかった時点で自動的に同じ回路が働いてしまう。だが、初めて聴く音源に対し「何だかわかってしまう」とはどういうことか。それは、ぶっちゃけて言えば「ああ、○○風ね」ということだ。実際には「○○風」の代わりに、細分化されたジャンルや様式名が入ったり、あるいは「中期ビートルズ+叙情派エレクトロニカ+陽だまりフィールドレコーディング」みたいなサウンドのづくりの「レシピ」が入ることの方が多いかもしれない。いずれにしても、そこで聴かれた音は、〈発見〉の眼差しで眺められることも、驚きをもって受け止められることもなく、先行する知識、曖昧なイメージの網に力なく絡めとられ、既存の何物かと〈確認〉されて、セピア色の記憶の中のどこかに閉じ込められてしまう。後には「消費した」との実績だけが残る。

(2)機械による知覚とのインタラクションの必要性

 聴覚は本来「それが何の音が確かめる」ための感覚であり、だから、それが何であるか判明次第、聴くことをやめてしまう。それでも聴き続けるのは、〈聴くこと〉への欲望によるのだが、そうした欲望がソフトに去勢されているのではないかと最近感じることが多い。
 先ほど述べた〈想起〉のモードのドミナント化は、「さっさとわかって、さっさとおさらばしたい」という、聴き手の欲望の変質、端的に言えば「早漏化」によるだろう。その場で快楽を深めることができず、浅い消費を早いサイクルで繰り返すモードだ(それは象徴的消費の擦り切れたかたちかもしれない)。実際、量産されるポップ・ミュージックは最近こうしたモードを商品戦略として突き詰めてきているように感じられるし、たとえばyoutubeによる音楽聴取、特に新人アーティストや新曲のチェックは、ほとんどこのモードを絵に描いたようなものとならざるを得ない。音楽の生産と消費が互いに強迫観念を煽りたてながら、レミングの集団自殺のように、先を争って自滅していく光景自体は、私のようなマイナー音楽愛好者にとってはどーでもいい話なのだが、ひとつ注意しなければいけないのは、こうしたモードがいったんドミナント化してしまえば、そうした最初から高速消費用につくられたクズ音楽以外に対しても、聴取の際にやはり自動的にその回路が作動してしまうことだ。私たちは〈想起〉に妨げられた〈発見〉を取り戻さなくてはならない。

 機械による認知・思考なき知覚は、何だかわからないものをそのまま馬鹿正直にとらえ提示してくる。聴き手がそれを受容・消化・消費できるかを一切考えることなしに。だからこそ、そこに驚きが生まれ、発見が生じ、出会いがかたちづくられる。これに対し、youtubeをはじめとするウェブ上のアーキテクチャ群は、利用者がそれを受容・消化・消費できることを第一に考えて設計され、それが本来的に機械であることを利用者に意識させない、快適なユーザ・インターフェースを誇る。だからこそ、それは真の出会いを、驚きを、発見をもたらさない。
 ウェブへのアクセスは、もはや私たちの日常の欠かせない一部となっているだろう。だからこそ、録音を単なる現実の不完全なコピーとみなすのではなく、人間による知覚とは異なる「機械による知覚」の産物ととらえ、認知・思考なき知覚がもたらす〈外部〉にこそ発見を求める必要がある。録音された音をよく聴かない者は、結局、生であろうと録音されたものであろうと、音自体をよく聴かない者なのだ。


 次回は9月10日のフランシスコ・ロペスによるライヴ・パフォーマンス体験を手がかりにして、彼の音世界の構築について論じることとしたい。





ディスク・ユニオン○○中古センターのブログで、当店にはフランシスコ・ロペスの作品がこんなに揃っています‥という写真を発見。
中古盤が溢れているもの哀しさもありつつ、ちょっと面白いかな‥と掲載してみました。
実はロペスに限らず作品を集めるのに、すごくお世話になっています。感謝。

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