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楽器としての世界−音の現実との相互作用 The World as Instrument−Interaction with Sonic Reality

  1. 2011/09/13(火) 23:46:15|
  2. 音楽情報|
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 9月5日から9月9日にかけて東京藝術大学で行われたフランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」についてレポートしたい。なお、最初にお断りしておくが、このレポートはワークショップの全貌を再現することを目指すものではない。ワークショップの内容は多岐に渡り、ここに記すのはあくまで私の問題関心からとらえたひとつの「像」に過ぎない。その焦点は、あくまで、自分の問題関心や認識・理解・思考がワークショップ参加体験を通じてどのように深まったか、また、フランシスコ・ロペスの思考や作品に対する認識や評価がどのように変化したか(修正されたか)、に絞り込まれている。他の参加者のレポートとは違ったものとなるだろうし、現在準備中というロペスの著書が刊行されれば、また別の側面が明らかになることだろう。


1.イントロダクション

 9月5日(月)朝、ワークショップ会場である東京藝術大学にたどり着くと、前日まで行われていた大学際の後片付けでぐちゃぐちゃ。妙に気合の入った屋台群(DIY製でしっかりした造り)を横目に、教室に指定された芸術情報センター演習室へと向かう。しっかりしたモニター・スピーカーがあるのに一安心。
 開始予定時刻の午前9時30分、フランシスコ・ロペスは姿を現した。黒のTシャツにアーミー・グリーンのキャップ。彼のサイトに掲げられた写真では常時着用のようにも見えるサングラスはかけていない。あいさつ時にキャップを取るとスキンヘッドが姿を現す。だが、いかついあるいは強迫的な印象は与えない。
 主催者である城一裕による簡単な紹介に続き、彼自身がワークショップのねらいについて説明を始める。日本を訪れるのは10年ぶりであること。レクチャーだけでなく議論や批評を中心にワークショップを進めたいこと。技術的な話ではなく、HOWよりもWHYを重視したいこと。録音を社会的・歴史的な影響関係の中でとらえ、音の現実(sonic reality)との関わりあいを見ていきたいこと‥等。
 続いて参加者による自己紹介。「いま何をしているか(何に取り組んでいるか)」、「このワークショップに何を期待しているか」の2点について話すよう求められた。もともと私が思い浮かべていた参加者像は、音楽あるいは美学を学ぶ藝大等の院生あるいは研究者の卵か、やたら事情通のリスナーというものだったが、その予想は見事に外れていることを知る。参加者の多くは(それで生計を立てているかどうかは別として)アーティストとして創作活動を行っているか、それを目指している者であり、その対象範囲も絵画、写真、建築、デザイン等と、決して音楽に限定されてはいなかった。


2.ワークショップを振り返って

 ここでレクチャーの内容に立ち入る前に、ワークショップ全体に対する感想を述べておきたい。と言うのも、今回のワークショップの(可能性の)核心は、レクチャーで採りあげられた各項目やその編成よりも、講師を務めたロペスと参加者双方の姿勢が生み出したインタラクションにあるからだ。
 まず、ロペスについてだが、世界各国でワークショップを開催し、大学でも教えているとの情報は得ていたものの、正直言って、ここまで真摯に取り組んでくれるとは思っていなかった。後述するように、彼は様々なテーマについて、単に「一般にこう言われている」とか「これが定説になっている」というような知識伝授・情報伝達のレヴェルを超えて、自らのアーティストとしての制作信条・信念と常に密接に関わらせ、態度を明らかにしながら説明を進めた。と同時に、そうした態度表明は決して党派的なものでも、単に理論上の完成された立場(※)からのものでもなく、ある種のバランス感覚に溢れたものだった。彼は参加者が様々なバックグラウンドを有していることを心から歓迎し、それゆえに分散しがちな参加者の関心・問題意識に、丁寧に対応を続けた。それこそ「ググれ!」で済みそうな質問にも自分なりの言葉で説明し、興味深いトピックについては(事前に配布した参考文献リストとは別に)参考書目を掲げた。また、議論の共有を図るため、質疑の中で登場した注目すべき用語や固有名詞については、自らネットを検索し、ウィキペディア(日本語版)のページをスクリーンに映し出した。
※日本の論壇でも往々にして見られることだが、ある理屈を突き詰めた「彼岸」的なポジションを、実際には自らが行動・選択の規範としないにもかかわらず、論戦を有利に進めるために主張している輩は数多い。そうした一点突破的な戦術は「戦線」が絞り込まれているため、攻めに素早く、守るに堅いからである。

 「その質問は多くの検討すべき論点を含んでいる」といったかたちで参加者の質問を丁寧に受け止め、そこからできるだけポジティヴな可能性を引き出そうという努力は、ある意味教育者として当然のことと言えるかもしれない。だがしかし、それでは実際にどれだけの教育者がそれを実践しているだろうか。異国の地に赴いて行う、参加者も様々な短期間のワークショップであることを考えあわせれば、やはり、このロペスの姿勢は特筆すべき素晴らしいものと言うべきだろう。この場で感謝の意を表明しておきたい。ありがとう、フランシスコ・ロペス。

 参加者もまた素晴らしかった。アーティスト系参加者の場合、やはり自分の創作に役立つ何かをつかみたいということで、手っ取り早いマニュアルや具体的に活用可能なテクニック、テクノロジー等に関心が集中しやすい(もちろん、これは相対的なものであって、反対側から見れば、「批評や研究系の奴らは‥」ということになるのはわかっている)。その結果、議論は問題系に沿って展開すると言うより、あちらこちらから好き勝手に食いつく感じになり、どうしても論点は分散する。だが、先に述べたロペスによる議論の共有を目指した丁寧な対応もあって、それらは多角的な視点からの検討、多面的な議論へと導かれていたと思う。ロペスという実作にも理論にも秀でた大物相手ということもあってか、どこかから読みかじってきた出来合いの理屈を偉そうに披瀝する参加者がいなかったのも幸いした(「おたく」リスナーばかりだとそうなりやすい)。
 そして何より素晴らしかったのは、参加者が主体的な積極性に溢れていたことである。日本人の国民性なのかどうかは定かではないが、こうしたワークショップ等において発言を促されても、参加者同士、顔を見合わせるばかりで、結局みんな黙っていることも多い。これは後からわかったことだが、主催者側でもかなりそれは心配していて、各自の質問や意見をアンケート風に紙に書かせて提出させることも考えたと言う。だが、そうした心配は杞憂に終わった。参加者は単に追加の説明や情報を求めるためだけでなく、自らの問題関心や創作上のテーマ等に絡めて、議論の延長上に新たな問題を提起したり、新たな議論の可能性を開く質問を行っていた。ここで先に述べたバックグラウンドの多様性が活きてくることになる。さらに、他の参加者の質問や問題意識に関連付けて質問することにより、議論がロペスと質問者の間で完結してしまうのではなく、他の参加者に向けて開かれたものとなっていったように思う。その結果、いろいろと触発されることがあったし、また、自分の考えに対する他の参加者の反応もうかがい知ることができた。これは私にとって、とても大きな収穫である。やはり、この場で感謝の意を表明しておきたい。参加者の皆さん、ありがとう。


3.ロペスによるレクチャー
(1)テクノロジーと音の現実への関わり

 ロペスによるレクチャーの内容は、要約すれば、テクノロジーの発達・変容に対応する音の現実(sonic reality)への人間の関わり方がどう変容していったかを枠組みづけたものと言ってよいだろう。ただし彼は常に「社会的側面」と歴史の「複線性・重層性」を強調するのを忘れない。前者は、たとえばテクノロジーの発達・変容を「何が可能となったか」(技術的側面)においてとらえるだけでなく、それが「社会にどのように受容されたのか」、「どのような活動を引き起こしたのか」、「どのようにイメージを変化させたのか」といった受容・活用・影響等の「社会的側面」においてとらえていくことである。また、後者はたとえばあるテクノロジーが万人にとってアクセス可能なものとなることにより、無名の個人による当初は思っても見なかった可能性を開く試みが、草の根的に伝播し、広く共有され、また新たな可能性を引き出す‥といったかたちで、言わばリゾーム状に発展・増殖・変容していくことであり、技術の開発者等のオリジネイター/パイオニアがまず始点にいて、次に変革者が受け継ぎ‥というような一本の歴史の線に沿って記述される公的な歴史の「単線性」に異を唱えたものである。さらに、そのようにして変容された意識も、社会全体としてあるモードから他のモードへと全面的にきっぱりと移り変わっていくものではなく、それまでのモードを存続させたまま、新たなモードが次々に上にかぶさっていくものと理解している。
 断っておけば、これらは決して全く新しい歴史の見方、ロペスの独創物というわけではない。たとえばテクノロジーから歴史を見る見方は多いし、技術の「社会的側面」の強調についても、たとえば現代から振り返って、グーテンベルクによる印刷術の発明自体に思考や意識の大きな変化/切断/飛躍を見るのは、社会的側面を無視した議論であって、実際にはフランス革命前の大量の政治パンフレット類の流布(ルソー等の思想の普及は著書自体よりも、むしろこれらによる)、その後の石版による印刷機や輪転印刷機の発明による大量印刷の可能化等に、つまりは社会への普及・浸透状況を見なければならないという議論がある。歴史の「複線性・重層性」の強調についても、同様に先行例がある。

(2)カセット・カルチャー

 むしろ、評価すべきは、先に触れておいたように、彼がこうしたことを自らの創作に係る信条・信念、あるいは哲学と深く関連付けて主張していることだ。彼は参加者の自己紹介を受けて、自分が音楽に関し、専門的な理論や技術の習得なしに創作を始めたと語り始め、家にたまたまあったテープ・レコーダーでいろいろ試してみる中から、それが芽生えてきたとして、1980年に制作した作品のサウンド・ファイルを聴かせてくれた。それはエアコンのコンプレッサーのうなりにも似た暗騒音的なドローンに時折スイッチング・ノイズが切り込みを入れるもので、プレ「フランシスコ・ロペス」とも言うべき手触りをたたえていた。
 彼は続けて、カセット・テープの普及が、テープ・レコーダーというテクノロジーを安価でアクセスしやすいものとし、さらにポータビリティ(録音機の、また録音した記録の、さらにはその再生環境の)を飛躍的に向上させたと語った。それは多くの人にとってレコードやラジオから音楽を録音・編集し、反復的に聴取するためのテクノロジー/機材であったが、これを創作に活用する人々もいた。彼らにより様々なサウンドのトランスフォームがカセット同士のピンポン録音を通じて実験された。これは一般的な使用法から逸脱し、それをねじ曲げることであり、テクノロジーに対する一種のハッキング(転用/乗っ取り)と言える。しかも、それらがたいてい「子どもの頃、家にテープ・レコーダーがあって‥」というように、音楽的な知識や専攻する事例を知らずに、自然発生的な試行錯誤の中から生まれてきて、さらにそこから生まれた実践/作品が、郵便によるカセットの送付や交換というかたちで、前もって組織されたのではないネットワークを通じてなされていく。この交換自体が新たなネットワークを広げていくと言ってもいいだろう。これにより離れた場所の間でのコラボレーションが可能となり、一種の「カセット・カルチャー」が形成されていった。カセットは小部数を簡単に複製することができるので、自分の作品を発表するのに音楽業界を経由する必要がなくなった。カセットというテクノロジーにより音楽業界を迂回する方法を発明したとも言える。これにより音楽業界が備えている基準とかフィルターも同時に迂回できるという点が重要だ。4トラックのカセット・レコーダーが個人所有のスタジオとなり、音を加工する様々な方法が試され、それまではせいぜい売り込みのためのデモ・テープを制作するぐらいだったのが、インディペンデントなカセット・レーベルがたくさん生まれ、カセットによる作品が独自の回路で流通していった。
 これらにより、直接会わなくても共同作業を遂行できるというように、コミュニケーションのあり方が変化したし、伝統的な判断基準によらなくても実践可能だ、何でも自分たちでできるというが育まれた。この流れはインターネット以前のものだが、その後のPCによる作品制作やCD−Rレーベルの成立等へとつながっている。PCとインターネットの普及により、さらに多くの人たちがテクノロジーにアクセス可能となり、それらはいまや至るところに遍在し、空気のように透明となってきている。また、創作のためのツールの開発が作品制作のハードルを低くしている。私たちは創造を通じて学ぶのであり、その点で創造は社会的な権利であると言うことができる。


4.ワークショップを振り返って
(1)「パンク以降」のバランス感覚

 レクチャーの冒頭に置かれたカセット・カルチャーを巡る議論において、すでにロペスの信条・信念は明白と言えるだろう。明らかに彼は、突出した才能の連鎖や楽派の交替が音楽の歴史をつくるとは考えていない。テクノロジーが万人に開かれたところに生じる集合的実践が様々な、そして数多くのテクノロジーの〈ハッキング〉(誤用/転用/乗っ取り)を生み出し、それが自己組織的なネットワークを増殖させながら伝播し、新た実践を生み出していくというインディペンデントなイメージ。「パンク以降」と言うべき、こうしたイメージを基本としながら、しかし、彼は作品の質を厳しく問う。音楽的実践の社会的側面を強調し、音の実質(substance)に耳を傾けるべきことを主張しながら、自らの作品からはメッセージ性を排除する。ピエール・シェフェールを手放しで賞賛しながら、ミュジーク・コンクレートの実践よりも、サウンド・オブジェクトという概念の持つ可能性を評価する。「特別なプラグイン等は使っていない。マイクやレコーダーもどこにでもあるものだ」と言いながら、実際にプロ・トゥールズのイコライザーで音源を加工する様子を実演してみせ、まず、最初に魅力的な音素材を準備することの重要性について熱く語るロペス‥。それは矛盾や不徹底というより、バランス感覚やプラグマティズムとして理解すべきものだろう。実際、彼は参加者の質問やプレゼンテーションにおける作品発表に対し、かなり実践的な視点からコメントを加えていた。

(2)創作過程から判断基準へのフィードバック

 もうひとつ、ロペスのバランス感覚を表す点として、創作モードの変化をテクノロジーの発展の一元論で語らないことが挙げられる。技術や機器の更新が創作を推し進めるのではなく、視点や美学の更新が重要なのだと彼は語る。あるいは、私たちはイノヴェーションについて過剰な要求をしがちなのではないかと注意を促す。変化するテクノロジーとのインタラクションだけを契機とするのではなく、彼の外部にある素材との新たな発見等の機会に満ちたインタラクション(※)を通じて、あるいは他のアーティストとのコラボレーションにより、「それまでの自分を超える」ことの重要性を彼は説いている。
 ※彼は創作過程における「すぐに決定/決断せず、オープンなままにしておく自由」、あるいは「あらかじめ期待してはいなかったものを新たに発見する」ことの重要性について語った。創作の際の判断基準を問われて「音自体に基づく判断」と答えていたが、一見トートロジーのように見える回答も、こうした指摘と考え合わせると、その厚みが見えてくるように思う。


5.ロペスによるレクチャー
(1)音の現実との関わり1 録音=機械による知覚

 【コスタリカの熱帯雨林におけるフィールドレコーディングのサウンド・サンプル】
 熱帯雨林とは「音に支配された世界」の典型である。虫や鳥、様々な獣の鳴き声が凄まじい密度で聴こえてくるが、その姿は見えない。人間に見えないだけでなく、動物同士でも互いの姿を見ることはできない。動物はそれぞれ固有の〈ニッチ〉を有しており、その結果、これらの音は周波数帯を棲み分け、自然とレイヤーをつくりだしている。自然の音は信じられないほど多様で複雑で豊かであり、その音の実在感/豊かさが、音とのインタラクションを通じて創作を行うカギとなっている。

【フィールドレコーディング素材を重ね合わせた作品のサウンド・サンプル】
 実在の音の断片を組み合わせて、実在しない音環境をつくりあげる試み。その背景には現実を複製したいという欲望が潜んでいるが、録音とは現実を複製するだけのものではない。そもそも録音は現実の厳密に正確な複製とはなり得ない一方で、録音の中で聞こえてくるものやその質感は、現実世界と比べなくても楽しむことができる。また、人間は音を認知することなしに知覚できないが、機械であるマイクロフォンやレコーダーは考えることなしに知覚できる。これは機械に対する人間の不利な点と言えるだろう。そもそも人間は環境のすべてを認知できない。人間は必要があって聴いているのであって、すべてを聴く必要はないのだから。それでは私たちは音を聴いている時、いったい何を聴いているのだろうか。「自分たちの関心のある音を、何かを象徴するものとして、あるいは何かを表すイコン的なものとして聴いている」ということができるだろう。

(2)音楽コンサートという制度、空間の分割/配置

 ステージ上に演(奏)者がいて、それと向かい合う客席に聴衆が陣取る。やがてPAが導入され、ステージから客席へサウンドを放射するようになるが、演(奏)者は自らその音を聴くことができない(その場で起こっていることに瞬時に反応するためには、必要不可欠であるにもかかわらず)。仕方なく、その重要な役目を客席後方の第三者(ミキサー)に委ね、自らはステージ上のモニターからのサウンドを聴くことになる。この〈分裂状態〉をどのように解消すればよいだろうか。
 ロペスは自らが中央に位置し、サウンドを操作する。その周囲を同心円状に客席が取り囲むが、聴衆は彼に背を向けて、外側を向いて席に着くようにセッティングされている。さらにその周囲に4〜8個(あるいはもっと多くの)スピーカーが置かれ、聴衆は空間を満たす音に浸され包み込まれる。この場合、演奏者であるロペスの姿を聴衆は見ることができないが、実は演(奏)者の視覚イメージは重要ではない。むしろ、聴くことに集中するためには、視覚は邪魔ですらある。ロペスは自らのライヴ・パフォーマンスにおいて、会場をできるだけ暗くし、さらに聴衆に目隠しを配布する。

(3)音の現実との関わり2 自然音を使った創作の歴史

 ロペスは自然音を使った創作の歴史を、次の4種類のモードにより説明した。これらのモードは重層化しており、,呂呂襪昔から現在まで続いており、19世紀から20世紀の変わり目に△これに重なる。は1950年代から、い1970年代から、さらにそれに重なってきている。こうした動きは決してある仮想のゴールを目指しての単線的な進化/発展ではなく、その都度、欲望に突き動かされてきた結果と言えるだろう。
 The World as Inspiration
 The World Captured
 The World Recofigured
 The World Transformed

 The World as Inspiration

 動物の鳴き声など、自然の音を象徴的に模倣し、音楽に採りいれるやり方は、どこの民族文化にも見られる。イヌイット、トゥヴァ、ピグミー、カウリ等の例が紹介された。また、西欧近代からは、ヨハネス・ケプラーによる「宇宙の調和」、標題音楽としてのドビュッシー「海」、ルイジ・ルッソロによるイトルナルモーリ(機械のノイズ)、ラス・ガルシア「ファンタスティカ」のSF的サウンド等が紹介された。

 The World Captured

 録音機械の登場により、音の現実が保有されるようになる。それ以前には鳥の声等を楽譜化して保有しようとした例がある。
 録音機械の開発は、聴覚障害に対応するための耳の解剖学的研究に端を発している。もともとそれは、音を視覚化するものとして開発された(Leon S. Martinvilleによるphonautograph)。それがエディソンによるフォノグラフの発明に結びついていく。初期の録音(実験)を見ると、録音されているのは人間の声か歌ばかりである。すなわち、録音には「音を保存する」、「音を身体(発音体)から切り離す」という2つの働きがあった。それに続き、すぐに音楽(演奏)もまた録音の対象となっていく。人間の声や音楽以外のものが録音の対象となっていくにあたっては、映画の関わりが大きい。
 フォノグラフは電気を用いない純粋にメカニカルな機構なので、どこへでも持っていくことができた。当時から世界の様々な場所の声や歌、音楽が録音されるようになっていく。これにより、録音された音源を並べることにより、世界を再創造しようという取り組みが現れる(例としてWalter Ruttmann「Weekend」(1928)、アメリカ自然史博物館における熱帯雨林の音による再現(1951)など)。

 The World Recofigured
 「captured」のゴールが現実の音を複製して、そのポートレートを作成することにあるのに対し、「reconfigured」は音の現実をいったん解体し、それを新たに組み合わせ、新たな音の現実を再創造することを目指す。ピエール・シェフェールによる「サウンド・オブジェクト(オブジェ・ソノール)」の発想は非常に重要だ(ミュジーク・コンクレートの実践以上に)。音をその原因から切り離して聴く「還元的聴取」は、現象学の影響の下に生まれている。
 これにより、音を楽譜による記述へと抽象化し、それに基づいて演奏者が改めて解釈を施し演奏するというプロセスが、録音による具体化へと変化する(例として即興セッションが録音され、組み合わされることにより具体的な作品となったマイルス・デイヴィス「カインド・オヴ・ブルー」)。他にサンプルとして、Vivenza, Graem Revell, Alan Lamb, David Dunn等の音源を紹介。

 The World Transformed
 この段階においては、音を加工するテクノロジーの発展により、元の録音が、元の現実が消えてしまうほど根本的に創りかえられ、現実をリファレンスとすることから離れてしまう。このモードに関しては解説よりもリスニング・セッションに重点が置かれ、サンプルとしてSlavek Kwi, Roel Meelkop, Asmus Tietchens, Joe Colley等の音源が紹介された。


6.ワークショップを振り返って
(1)なぜ録音機械はもっと早くにつくられなかったのか

 レクチャーの中で、ロペスが次のような興味深い問いを発した。「フォノグラフは電気を用いていない純粋な機械仕掛けだ。ということは、もっと以前に発明されていてもよかったのではないか」と。これについて少し考えてみた。
 初期の録音の対象(ということは人々の関心の対象)が人間の声に限られていることに注目したい。もともと声は「話すこと」を通じて意味を伝えるものであり、この意味については書字(=エクリチュール)という記録/保存システムがすでにあることから、録音が必要とされなかったのではないだろうか。
もちろん、書字は声自体を記録/保存するわけではなく、声音や抑揚を書き取ることはできない。しかし、話者の現前を前提とし、話者の指し示す〈いま・ここ〉性がその意味内容を保証すると考えるならば、録音による声の記録は、話者の身体の現前から切り離されることにより、そうした意味内容の保証を失ってしまうことになる(アクースマティックの原義である、ピタゴラスがカーテンの向こうに姿を隠して弟子たちに話をした逸話は、同様の効果を持ち、発話を書字に近づけることになる)。一方、書字は、本来の話者(=文章の語り手)の現前を欠いて文脈が浮遊してしまう代わりに、語自体は媒体の上に確固として刻み付けられる。
 すなわち、録音は話者の現前による意味内容の保証も、語自体の確定も欠いて、声=音という空中に消えてしまうものだけを記録/保存するという〈亡霊〉のようなものにほかならない。こうして身体から声を切り離すことは、一種のタブーだったのではないかとすら思われる。
 ならば、なぜ、フォノグラフは発明されたのか。タブーはどのように乗り越えられたのだろうか。ここでフォノグラフの開発に耳の解剖学的研究が一役買っていたことを思い出そう。解剖学は耳で音を聴く仕組みを、振動の精妙な伝播として分析する。そこでは人間の声は他の音と区別することはできない。すべては振動に還元される。単にある振動は人間の声であり、他の振動は牛の鳴き声であるというだけだ。この還元がタブーをも還元し、消失せしめたのではないだろうか。
 ちなみに、レクチャーではフォノグラフの発明前に、自動人形(オートマタ)が一種の流行を迎えており、なぜ、その時にフォノグラフが発明されなかったのかとの疑問も投げかけられていた。これについてはこう考える。エドガー・アラン・ポーが「メルツェルの将棋指し」で分析推理しているように、精妙なオートマタはどこかに(たとえば人形の内部に)人間が隠れていて操作しているものと考えられていた。とすれば、声/発話に関しては、オートマタとピタゴラス的アクースマティックは同様のものとなる。ここから録音へと飛躍するには、やはり例のタブーが障害になることだろう。

(2)機械による知覚とのインタラクションの必要性

 このことは、今回のワークショップでもとりわけ重要な問題系(プロブレマティーク)であると考える。これは「なぜ録音を聴くのか」という問いを巡る思考でもある。この件については、ワークショップ最終日に行われた参加者によるプレゼンテーションの中で、私自身のプレゼンテーションのテーマとして採りあげたので、その紹介ともども、稿を改めて取り扱うこととしたい。


7.終わりに

 初日こそ4時間程度だったが、その後の4日間は概ね6時間だから、合計30時間近い時間を費やしての、かなりヘヴィなプログラムだったが、ここまで述べてきたように内容は充実しており、得るところは極めて大きかった。個人的には、レクチャー「耳の枠はずし」の準備段階からずっと考えてきた〈不定形の聴取〉が、このワークショップやフランシスコ・ロペスの創作活動の問題系と地続きであると確認できたこと、また、そうした問題系が他の参加者の関心を呼んだことに大いに力づけられた。
 フランシスコ・ロペスの招聘を実現し、レクチャー内容のみならず、質疑や議論の双方向通訳という困難なタスクをやり遂げ、ワークショップを見事に運営した城一裕、金子智太郎のお二人には本当に感謝している。末尾ながらお礼したい。どうもありがとうございました。お世話になりました。
 
それでは次回は、私自身のプレゼンテーションの内容を紹介しながら、「機械による知覚とのインタラクションの必要性」について論じることとしたい。
 また、9月10日(土)には、5日間のワークショップの締めくくりとして、ワークショップ受講者以外の参加も得て、フランシスコ・ロペスによるライヴ・パフォーマンスが行われた。これについては、さらにその次の回にレヴューしたい。



フランシスコ・ロペスと
9月10日 ライヴ・パフォーマンスの後で

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