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フランシスコ・ロペス賛江◆Homage to Francisco Lopez

  1. 2011/08/17(水) 23:00:33|
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 2010年5月15日に代々木20202で行われた「アンビエント・リサーチ」第2回については、以前にブログでもリポートした(2010年5月19日の記事 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-32.html)。

 そこで金子智太郎が自ら執筆した「聴覚的パノプティコン:フランシスコ・ロペスの『絶対具体音楽』」に沿って、あるいは自ら訳したフランシスコ・ロペス「エンバラメンタル・サウンド・マター」(もともとは「ラ・セルヴァ」のライナーノーツ)に触れながら解説し、ロペスの作品や関連作品を聴いていく中から浮かび上がってきた世界は、まさに自分が「耳の枠はずし」で「不定形の聴取」として考えていたことと驚くほどシンクロしていた。


 ロペスは自身による「ラ・セルヴァ」を、一般の生物音響学的な録音、すなわち様々な種類の動物が発する音をとらえることに焦点を合わせ、主に発音身体の同定を目指す聴取と対比させる。「ラ・セルヴァ」の録音・編集プロセスは、どの動物にも焦点は合わせていないと。

 「前景/背景に意図的でアプリオリな区別はなく、耳と同じようにマイクの位置にもとづく音の不可避の出現だけがある。私は客観主義をとるのではなく、注意の『焦点』が音環境全体にあると考える。」(上記「エンバラメンタル・サウンド・マター」より)

 その時、音風景は多数の焦点を持つ、あるいはまったく焦点を持たないオール・オーヴァーな広がりとして現れてくるだろう。いま「音風景」と言ったが、人間が風景を認識する際に頼りにする記憶に根差した象徴的な「相貌」の現われを、この「風景」は持たないだろう。それは輪郭のない、まさに不定形な圧倒的広がりとして立ち現れてくる。そのことは音/響きが不鮮明であることを意味しない。むしろ広がり/奥行きのあらゆる点にピントが合っているかのような、極端な鮮明さと情報量の多さで聴き手に襲い掛かってくるだろう。背景を成す「地」の前に、対象を「図」として浮かび上がらせ、ババ抜きのババよろしく、「これを聴け」と指し示してくるのではなく、リスニング・フィールド上にびっしりと敷き詰められた音色の明滅だけがある。
 空間のあらゆる点にピントの合ったパン・フォーカス/ディープ・フォーカスの画面が、映画の場合、その奥行きを活用して、ひとつながりの空間内で繰り広げられるアクションの連鎖を提示することにより、まさに「見るべきもの」を指し示し、その「見るべきもの」を通じて空間を体験させるのと比べてみること。


 彼はまた空間の響きについても言及している。

 「音環境は音を発する構成要素すべての結果だけではなく、音を伝導する要素、音を変化させる要素の影響も加わっている。森で聞こえる鳥の声は、鳥だけでなく木や森の床の音でもある。実際に聴き取ることができれば、地形や大気の湿度、地表の材質の種類も、特定の空間にすむ動物と同じくらい本質的で明確な要素だ。(中略)環境の典型的な構成要素とされる生物、または非生物要素を軽視するわけではない。これらの要素に還元できない他の−音響的−要素を評価しているのだ。カエルの鳴声が空中にひろがると、もうカエルのものではなくなっている。」(同じく「エンバラメンタル・サウンド・マター」より)

 密林の樹々の交錯する枝を、折り重なる葉を、もつれあう蔓を、雨粒が激しく打つ音が集合化し、さらにそれらの音同士がぶつかりあい、厚い響きとなってたちこめる時、もとのひとつひとつの音は、もはや問題とならない。我々は空間を、環境を聴くことになるのだ。天蓋の崩落した廃墟で、剥き出しのまま横たわるピアノの弦を胴を雨粒が打つ時、同じことが起こるだろう。あるいは演奏者が鍵盤を指で押したとして、何が違うだろう。音は空間に浸出し、空間に浸食され、輪郭を希薄にして響きと化すほかはないのだ。


 もうひとつ、私がロペスの主張に深く同意せざるを得ないのは、彼が録音を表象のための(記録)手法ではなく、サウンド・マターを産出する方法ととらえている点だ。彼はドキュメンタリー的パースペクティヴに基づく録音作品が、その記録対象については幾らでも言葉を費やすにもかかわらず、録音されたサウンド・マターについては触れようとしないことを指摘する。

 「これは逆説的な屈折であって、録音を特定の空間に着いての記録や言及という役割に格下げしがちだ。(中略)録音の本質とは音よりも豊かで重要な世界の記録や表象ではなく、音の内的世界に焦点を合わせ、接近する方法である。表象的/関係的レベルが強調されると音は限られた意味や目的を帯び、音の内的世界は消費されてしまう。」(同上)

 聴覚がもともと接近する大型肉食獣など、身体/生命に対する危険を警戒するために発達した感覚であるなら、「それが何の音か、何をしている音か」に耳がそばだてられ、発音体の所在や種類が判明してしまえば注意の集中が途切れてしまうことには、何の不思議もあるまい。だが、まさにそうした本来的な聴取が終わったところから、「音楽」が開ける。

 「聴取がプラグマティックな表象という「用途」から切り離されたとき、音楽があらわれる。私はこの権利と自由さを主張する。(中略)私にとって、音楽的状態への到達には深い聴取が、サウンド・マターの内部に侵入することが必要だ。」(同上)


 音を何物かの表象として、サインとして、意図の具現化として‥‥いずれにせよ、何か別の本体/本源へと遡行するために聴くのではなく、サウンド・マターとして、そのマテリアルとしての圧倒的な顕現、豊かさのもとに聴くこと。我々はまだ、そうした聴取世界の入口に立ったばかりだ。



フランシスコ・ロペスの愛聴盤から。

Mnemonists / Horde


Werkbund / Skagerrak


Eraserhead Original Soundtrack


彼が次のような作品群(私の愛聴盤でもある)
を好んでいると、この時のレクチャーで教えられたことも、
彼を身近に感じるようになった理由のひとつにほかならない。

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