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知子ソヴァージュさんからのメッセージ Message from Tomoko Sauvage

  1. 2011/07/06(水) 00:46:14|
  2. 音楽情報|
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 レクチャー「耳の枠はずし」の冒頭で、参加していただいた皆さんの「耳の枠」をいったんリセットさせていただくためにかけたTomoko Sauvage「Ombrophilia」(either/OR)の知子さんご本人からブログにコメントをいただきました。私の耳をアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング等へと開いてくれた大恩人からのメッセージにびっくりするやら、うれしいやら、大人気なくおろおろしてしまいました。
 いただいた内容がとても興味深いものだったので、その後、改めてメールでいただいたメッセージを含め、ご本人のご了解を得て、再編集して皆様にお届けいたします。
 まず、レクチャー「耳の枠はずし」の告知として、コンセプトを説明した昨年3月22日のブログ記事を再録します。


1.「耳の枠はずしについて」(2010年3月22日)

 「ユリシーズ」3号のディスク・レヴューで採りあげるRichard Skelton「Landings」(Type)やTomoko Sauvage「Ombrophilia」を繰り返し聴いている。音から香りのように風景が立ちのぼり、くっきりとあるいはゆらゆらと像を結ぶ。それは自然が勝手に生成する人間のいない世界だ。もちろん、作品をつくったのは人間で、楽器を演奏したり、PCの前に座って編集に悪戦苦闘したり、あるいは床に座って、水の入った茶碗をスプーンでかき回していたりすることは知っている。Tomoko Sauvageの演奏なんてyoutubeでも簡単に見られるし。けれど出来上がった音響、再生装置を通して私の耳に届けられるサウンドは、決してそうした営みに還元、あるいは解消できるものではない。そこにはどうしようもなく他の何かが宿っている。本当はそう言いたくないけれど、仕方ない、それを「神秘」と呼んでもいいだろう。

 音は我々の外にある。音は決してコミュケーションの道具ではなく、相手の意図を運ぶ乗り物でもない。たとえある意図を込めて発信したとしても(たとえば言葉のように)、必ず他の何かが紛れ込み、憑依する。発信者の意図を推し量ることで、音をわかった気になるのはやめにしよう。それは「聴くこと」を貧しくすることにほかならない。だいたい「聴くこと」は、そんな風に人間の自由になんてならないのだ。

 Tomoko Sauvageの生み出した音の不可思議な手触り、揺れる息遣い、おぼろに移ろう色合いを、「水を張った茶碗をかき混ぜる」動作やそれをコンタクト・マイクで拾う仕掛けに還元してしまえば、それはひとつの「ネタ」へと矮小化され、見て、あるいは知ってさえいれば、「ああ、あれね」と片付けることもできる。それが情報消費のやり方だ。こうしたことを続けている限り、人は「聴くこと」の豊かさへたどり着くことはないだろう。たとえライヴに行ったとしても事情は変わらない。聴衆は音を聴く代わりに演奏者の像(身体の運動)をとらえ、あるいは意図を探り、体験をそこへ帰着させようとする(それゆえ「聴くこと」は貧しく限定される)。演奏者の意図を超えて、様々な亀裂や断層をはらんだ音は、誰にも聴き届けられることなく、むなしく空中に吸い込まれていく。過剰な残滓として。

 もともと我々はあらかじめ知っているものしか、あるいは当面必要とするものしか眼に入らないし、耳にも聞こえない。そこには何重にも枠がはめられている。しかし、我々はそのことをふだん意識しない。音楽を聴くような場合にさえ。不均等な符割のせいで、実際にはとてもそうは聞こえないJ−POPの歌詞を歌詞カードで読み取って話題にすることに、何の不思議も感じていない人々。J−POPなど型にはまった音楽だとして、より「前衛」的なサウンドに耳を傾ける人たちも、先に述べた「演奏者/作曲者への還元」の罠にはまっていないだろうか。

 音盤レクチャー「耳の枠はずし」で、私がフリー・ミュージックを題材に採りあげたいのは、決してデレク・ベイリー論やフリー・ミュージックの歴史ではなく、まさにこのことなのだ。


2.知子ソヴァージュさんからのメッセージ(1)

美しい批評に大変勇気づけられています。日本でこういう聴き方をしてもらえるのは本当に嬉しいです。「意図された」音でないもの、ということ、読んだ当時、とても共感し勇気づけられました。
 ウォーターボウルは楽器の性質上、uncontrollableな要素が多いのですが、偶然性と意図する方向との間をバランスをとりながら演奏する楽器だと感じています。
 「完璧なコントロール」が賞賛される向きのある「即興音楽」シーンがメインであるヨーロッパにおいて、その辺をなかなか受けて入れてもらえない部分があるかもしれません。より「サウンド・アート」シーンに近づいている理由です。「アンビエント/エレクトロニカ」シーンでは、私の作品はポップさに欠けるといったところでしょうか。もちろんレコーディング作品ではコントロールされる部分が強くなっていますが、その辺、日本でこういった批評を頂き、びっくり嬉しいところでした。

 最近、あたらしい手法をとりいれた作曲をやっています。これはハイドロフォンとスピーカーのフィードバックを利用したもので、純粋にエレクトロニックな現象であるフィードバックを、水波の揺れを通じてオーガニックに扱うもので、手法としては斬新なんじゃないかと自負しております。 


3.いま聴くことのできるTomoko Sauvage作品

 「Ombrophilia」(either/OR)がレーベル品切れのため、いま彼女の作品をCDで聴くことは難しくなっている(なお、彼女からの情報では「Ombrophilia」は現在フランスのレーベルから再発準備中とのこと)。彼女のつくりだす何とも夢幻的な音世界を体験していただくために、ここではウェブ上で聴くことのできる音源をご紹介しよう。
 まず、次の3曲をsoundcloudにアップされたサウンド・ファイルで聴くことができる。´△「Ombrophilia」からの抜粋であり、が2で彼女が触れている「あたらしい手法をとりいれた作曲」による作品。まずは,鯆阿い討い燭世い董◆崟こΔ風にそよぎ、足元が揺らぐ」感覚を味わっていただければと思う。

Amniotic Life (http://soundcloud.com/tomokosauvage/01-amniotic-life-1) 6:09
Making of a Rainbow (http://soundcloud.com/tomokosauvage/making-of-a-rainbow) 5:18
Nagi(calm)-rough mix (http://soundcloud.com/tomokosauvage/nagi-calm) 17:31

 一方、は前2曲とずいぶん音の景色が変わり、風が止み、水面が平らかになるなかで、実は一方向からの風に煽られていた時よりも、さらに複雑で豊かなさざなみの交錯が、一見平坦な起伏のうちに開けている「凪(なぎ)」のたゆたいの微妙な表情/手触りの移り変わりを細やかに映し出している。サウンドの領野は前2曲よりも、はるかに微細なレヴェルに移行しており、響きに耳を、身を浸す感覚が求められるだろう。calmという単語からは、何となく早朝のぴんと張り詰めた静けさを思い浮かべてしまうが、ここでは彼女が思い描いているのは、決して鏡のように磨き上げられた水面ではなく、一見動きがないように見えながら、ゆるゆると生成を続ける状態なのだろう。

 また、彼女のホームページ(http://www.o-o-o-o.org/o/)では、Gilles Aubryとの共同作業による作品「Apam Napat」(ぁ銑Α砲鯆阿ことができる(http://www.o-o-o-o.org/o/tomgil.html)。
Halftone Dots 8:13  Undercurrent 20:44   Apam Napat 11:23
 2007年6月ベルリンでの演奏だというから、こちらが「Ombrophilia」より前の作品ということになる。彼女によれば「ジルはNYのジャズスクール時代からの旧友で(私はピアノを弾き、彼はテナーを吹いていました)、彼の音楽性は唯一また共演したいと思うものなのですが、ベルリン在住で大忙しの彼となかなか会う機会がないのと、私も彼も5年前の音楽性からずいぶん変わり、何を一緒にできるか考え中です」とのこと。このところの私のアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング探求は、ひとことで言うと「Tomoko SauvageからGilles Aubryへ」という趣きがあるのだが、それが実は大きな円環をかたちづくっていたということなのだろうか。


4.知子ソヴァージュさんからのメッセージ(2)

 たゆたい・・・!なんて美しい言葉なのでしょう。まさに、です。こんな言葉が存在している日本の感覚が私の源泉なのだなと感じました。日本的な感覚の豊かさに触れてとても嬉しく感じております。この類いの音楽に関するこちらの評論でこういった深い洞察や豊かな感性をもったものを目にすることは稀です。コンテンポラリーアートとなるとまた違うのですが。

 「世界が風にそよぎ、足下が揺れている感覚」と表現していただきましたが、
演奏していると、まさに、私が海風になったような気分になるのです。凪のときにフィードバックは増幅し、風で波がおこされると揺らされて減衰する。沖縄の美しい海の水面で、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいたときに、この何とも言えない感覚を音楽で表現したいと思ったのですが、最近になって、そんなことはすっかり忘れていたのに実現してきたような気がしています。

 眼下に広がる珊瑚礁や生き物も波にゆらゆらと揺れていて、自分もそれに身を委ねて・・・。生物のそれぞれの意志はありながらも、波に風に揺らされながらのLife。思えば赤ん坊もそうやって生まれてくるんですね。羊水、揺りかご・・・。そんな単純なことを言っていては頭でっかちのヨーロッパ人には相手にしてもらえませんが、それでもいいんです。自分の思うことを徹底してできる超個人主義のフランス、その辺らくちんです。

 Ombrophiliaは色々な実験結果をまとめたデモンストレーション的な部分がありましたが、今度はアルバムトータルでまとまりのあるものを作りたいと思っています。


5.意識の網の目からこぼれ落ちていくもの

 「沖縄の美しい海の水面で、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいたときに、この何とも言えない感覚を音楽で表現したいと思ったのですが、最近になって、そんなことはすっかり忘れていたのに実現してきたような気がしています」と彼女は書いている。
 「かくあれかし」と強く意識し、意図の実現として達成しようとしていた時にはとても無理と思えたものも、後からふと振り返ると、身体の方は知らぬ間に勝手になじんでいる‥そうしたことではないだろうか。unconsciousnessを「無意識」と実体的にとらえるのではなく、意識にとらえられない感覚/身体の微細な動き/揺らぎ(まさに「たゆたい」とでも言うべきもの)、あるいは意識の網の目からこぼれ落ちていくものととらえれば、そうした感覚が近いのかもしれない。
  演奏者と聴取者の、互いの意図だけによる、それ以外を排除したコミュニケーションは決して豊かなものとはなりえないだろう。意図を超えた〈響き〉や〈にじみ〉に、思いがけなく触発されることこそが、コミュニケーションの豊かさを開くのではないだろうか。
 
  「耳の枠はずし」が主な対象としているインプロヴァイズド・ミュージックやアンビエント/ドローン/フィールドレコーディング等、あるいは一部の現代音楽やトラディショナル・ミュージックだけでなく、さらには先日リポートしたアンフォルメル等の絵画や、あるいは優れて問題提起的な写真や映画においても、これは共通しているように思われる。

 Tomoko Sauvageの今後の活動には引き続き注目していきたい。知子ソヴァージュさん、どうもありがとうございました。



Tomoko Sauvage
「Ombrophilia」(either/OR)


Tomoko Sauvage&Gilles Aubry
「Apam Napat」


waterbowlsの演奏風景
(photo:Tomoko Sauvage)


waterbowlsの演奏風景
(photo:Tomoko Sauvage)


"waterbowls under the sun"
(photo:Tomoko Sauvage)

「Ombrophilia」のジャケットの
「原画」ですね
彼女のHPの写真ページは
とても素晴らしいので
ぜひご覧ください

追記:彼女の演奏する姿は、youtube等で見ることができる。
次の動画はご本人から教えていただいたもので、
インスタレーションとの組合せが素晴らしい。
http://vimeo.com/7297060


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