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アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの −「タダマス11」レヴュー  Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble − Review for "TADA-MASU 11"

  1. 2013/10/31(木) 21:44:28|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 他の耳が切り開いた道筋をたどる。同じ道を歩みながら別の景色を見ている。だがそれでも、「ああ、彼らはこれを見ていたのか。この光景に打たれ揺すぶられたのか」と思わずにはいられない瞬間がある。耳と耳が切り結び、視線がぴたりと寸分の狂いなく重なり合う一瞬。その場で語られた言葉が身体へと入り込み、身体の奥底から湧き上がる言葉と互いに映し合う。思考が巡り、イメージが羽ばたく。その時、「聴取」は知らず知らずのうちに、ひとりではたどり着けぬほど沖合までさまよい出ている。振り返ると浜辺が遠く揺らぎ、足下の水がしんと冷たくなって、不安で心臓が締め付けられる。

 益子博之と多田雅範がホストを務める「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も11回目を迎えた。生の演奏ではなく音盤のプレイバックだが、そこにホストの2人やゲスト、あるいは聴衆の生な反応や言葉が絡むことにより、私にとって耳を開かされることの多い貴重な「ライヴ」の場である。特に今回はプログラムの途中で道筋を見失いかけながら、最後には彼らが見て打たれたであろう光景を、いま私も目撃しているという「一致の感覚」に不意に襲われ、驚かされることとなった。
 以下にレヴューを試みるが、例によって自分が触発された部分を中心にしているため、プログラム全体のバランスのとれた紹介とはなり得ないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては下記URLを参照。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 また、ホストのひとりである多田によるリポートもぜひ参照していただきたい。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131027
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131030


 「タダマス」に先立ってオーディオ・イヴェントが行われたため、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記のこの日の装置は、いつものヴィンテージ・オーディオではなかった。写真の通り、ブルトンの詩句「窓で二つに切られた男」を連想させるスピーカーは、共振をダンプされた厚いガラス板に、フルレンジのユニットを平面バッフルの要領でマウントしたもの。音像型で暖かみに溢れ音楽的表現力に優れたいつものアルテックに対し、こちらは極端に音場型で空間表現に秀でており、誤解を恐れずに言えば、その高い透明度/解像度により音楽から「音」を解き放って聴かせる傾向がある。

中央の四角錐ではなく、壁状
のガラス板にマウントされて
いるのが当日鳴らされたSP


 最初に掛けられたAya Nishinoの作曲による女性ヴォイスの多重録音作品は、こうした装置の再生特性に見事にはまっていた。身体の重さをまったく感じさせない声の、うっすらとした雲のような広がりは、互いに重なり合いながら滲むことも溶け合うこともなく、能う限り触覚から遠ざかっていく。益子はこの作品が「記憶」を刺激することを指摘し、BjorkやCocteau Twins、菅野よう子らの名前を挙げていたが、私が反射的に思い浮かべたのもBjork『Vespertine』と「反例」としてのEnyaである。Aya Nishinoの生成させる響きは、何重にも音を重ねながら決してEnya的なふうわりと煙る厚みへと至ることなく、常に必要な隙間をはらみ、透明な見通しを失わない。むしろBjork『Vespertine』に似て、敷き重ねられるほどにますます薄層化し、ぼろぼろの穴だらけであることを際立たせていく空間の手触りがそこにはある。
 以降、「記憶」をひとつのキーワードとして、トラックが連ねられていく。多田雅範による「ECMは演奏者の記憶を引き出してきたレーベルだ」という名言を差しはさみながらも、その流れが私にはどうもしっくりとこなかった。

 たとえば以前にこのブログで採りあげた益子によるクロス・レヴューの対象作品Derrick Hodge『Live Today』の明らかにMiles Davis『In A Silent Way』を下敷きにした、質量をいっさい感じさせない構築の、サウンドの出入りの完璧さに驚きながらも、それは果たして「記憶」の関数なのだろうかと訝っていた。このサウンドの出入りの完璧さは、明らかにDJたちのスクラッチによる構築の探求を受け継いでいる。しかし、彼らがその名人芸でもってつくりあげた、あえてデコボコと接合面を際立たせたつぎはぎだらけの、編集の産物であることを明らかにした挑発的な構築は、ここでジャズならではの技量を駆使した、極端に隙のない、完璧に磨き上げられたリアルタイムの構築に取って代わられている。もちろん事後的な編集も施されているのだろうが、それでもすっすっとまったく遅れも摩擦もストレスも感じさせずに空間に入り込み隙間へとはまり込む、絶妙なタイミングとイントネーション/アーティキュレーションは、編集だけでは生み出せまい。本作品を語るのに、益子や多田が一見似ても似つかない菊地雅章によるアンサンブル・インプロヴィゼーションを持ち出すのはよくわかる気がする。菊地が一音一音の不確定性から演奏を組み上げていくにあたり、アンサンブル・インプロヴィゼーションを全面適用しているのに対し、Derrick Hodgeたちはフレーズやリズムはプリセットしておいて、出入りのタイミングを精密に測り、空けられた隙間に正確にはまり込むピースをつくりあげるためにイントネーション/アーティキュレーションを研ぎ澄ますことにだけ、アンサンブル・インプロヴィゼーションを局所限定的に適用しているのだ。

 だが、後半になって、いきなり転機が訪れる。Mary Halvorson Septet『Illusionary Sea』におけるMary Halvorsonのギターの足がもつれて階段を踏み外していく身振りに、コンポジションとしてはジャズ・ロック風のポップさを香らせながら、やはり複雑にもつれていく四管の絡みや演奏に推進力を供給し続けるドラムのズレをはらんだ煽りに、レイヤー的な構築性が垣間見えた気がしたのだ。ここで「レイヤー的」とは、精密な敷き重ねよりも、むしろ各レイヤーを切り離し、勝手気ままに走らせてしまうことを指す。それらが必然的にズレをはらむことは、当然あらかじめ計算済みだ。本来の意味でのアンサンブルはいったん破綻し解体されるが、そこで生じるズレに対し、改めてジャズ・プレイヤーならではのリアルタイムの演奏構築感覚が発動することにより、アンサンブルはより拡張された次元で再構築される。このことはその直前に掛けられたMark Dresser Quintet『Nourishments』との対比でより明らかとなる。Mark Dresserたちの演奏は、枠組みとなるコンポジション/アンサンブルを言わば折り畳んで複雑化することを目指しており、枠内の分割は施されるものの枠そのものは決して揺らぐことがないのだ。Mary Halvorsonたちのやり方は、例えばRadioheadがエレクトロニカ的な視点を採り入れ、アンサンブルによるグルーヴを解体し、深みへと踏み外していったのと共通性を有しているように思う。

 一度、そうした気づきを手に入れると、続く3枚の描く軌跡が連続した線として浮かび上がってくるように思われた。Dave King Trucking Companyの急にギアを切り替えたようなテンポの変化等、まるでPCによるポスト・プロダクションを最初から生アンサンブルでトレースした感覚の演奏。The Claudia Quintet『September』のヴァイブとアコーディオンのミニマルなリフを基軸とした構築に、各レイヤーの加速/減速や、持続音を狭い音域に押し込めて倍音領域に至るまでサウンドを衝突させモジュレーションを起こさせる等、エレクトロニカ的な操作を施す仕方。そしてMatt Mitchel『Fiction』でピアノとドラムのミニマルな繰り返しが、右手と左手のアンサンブルをレイヤーの重ね合わせと見立て、複数の速度と加速度感を操り、時に疾走による逸脱へと至りつつズレを堆積させていく様。あるいはピアノとヴァイブの明滅の星座的な重ね合わせにおいて‥‥。

 後半4作品の畳み掛けるような怒濤の押しは、それらを聴き終えた地点から振り返って見れば、Aya Nishinoによる声の雲や、Derrick Hodgeたちによるサウンドのすれ違いの完璧なマネジメントとまっすぐにつながっているように感じられた。

 今回クローズ・アップされたレイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーションによって達成すること、これによりアンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。そう考える時、対極的なモデルとして、音の顕微鏡的なまでにミクロな局面へと沈潜し、コーダを延々と引き延ばし、時間感覚を拡大して、もはやコントロール不能な確率的揺らぎへと触覚的感覚を研ぎ澄ましていく仕方が挙げられるだろう。

 先走った物言いになるが、益子や多田がこの間ずっと追いかけているのは、新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体の姿ではないかという気がする。ビバップはモダン・ジャズ共同体のとびきりのアスリートたちが、極限的な演奏の加速と複雑化に向けて、命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲームだった。晩年のコルトレーンが繰り広げたのも、精神共同体を背景とした、極限的な加速と飛躍と充満と溶解に向けたゲームだったと言えるだろう。だから清水俊彦が指摘したように、コルトレーンの死は、熱病に浮かされたフリー・ジャズ共同体に冷水を浴びせかけることとなった。失われたルーツとしてのフォークロアと宗教性を常に探し求め、霊的共同体を志向したアルバート・アイラーの破滅は、そうしたゲームがもはや成立し得なくなったことを示しているだろう。崩壊した即興共同体から析出した個人によるパースナルな演奏語法の探求を、これまでのように象徴的な次元ではなく、まさに明示的かつ即物的なゲームの平面で編集しようとしたジョン・ゾーンによる「ゲーム・ピース」やローレンス・"ブッチ"・モリスが継続した「コンダクション」の試みは、こうした系譜の最後に位置している。

 NYダウンタウンで展開されつつある新たなゲームは、アンサンブルの解体/再構築の果てにどこに向かおうとしているのか。それはポップへの接近/達成を当面の目標としているように見えながら、おそらくはそれを突き抜けていくだろう。これまでのように仲間内で賭け金をレイズし続けることが、いつしか限界を超えて生命を蝕み、なし崩しの自死を呼び込んでしまうのだろうか。EC諸国のシーンで見られる音響的インプロヴィゼーション(それはデレク・ベイリー的な内省の徹底と、ジャン・デュビュッフェからミッシェル・ドネダに至る野生と外部による侵食の相関の二つの起源を宿しているように思う)との部分的共振は、今後どのように作用していくのだろうか。

 以前にも述べたように、そこに生み出される新たな音楽/演奏のかたちは、たとえどんなにこれまでの「ジャズ」と似ていなくとも、「ジャズ・ミュージシャン」にしか生み出し得ない演奏であることによって、それこそが新たなジャズの姿にほかならない。それを見出すには複数の耳の間の化学作用が必要なのだ。


  

 

耳を開き続けること  To Keep Your Ears Open

  1. 2013/10/29(火) 22:36:01|
  2. 批評/レヴューについて|
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 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com

 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html

 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。

 インターネットの発達によってディスコグラフィをたどるのは容易になったし、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの人脈もすぐにたどれる。だが、「響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋」は耳によって切り開かれるよりない。「セレクト・ショップ」的な性格を有するpastel recordsが、「オシャレ」とか「流行の先端」とか「サブカル」とかに自閉してしまわなかったのは、寺田がこうした耳の冒険を欠かすことがなかったからにほかなるまい。



 インターネットの発展により世界にはアクセス可能な情報が溢れており、もはや個人が選択できる範囲をはるかに超えている。それを個人に代わってやってくれるのが、amazon等でおなじみの「パーソナライゼーション」の仕組みであり、これまでの購入履歴からおすすめの本を紹介してくれる。このサービスに対し、自分の内面に知らず知らずのうちに深く入り込まれてしまうことに違和感を表明する者もいたが、他の大多数には便利な顧客サービスと受け止められた。だが、実際には「パーソナライゼーション」は、「購入履歴に基づいておすすめの商品を案内する」といったわかりやすく限定された範囲を超えて、どのリンクをクリックしたかをカウントし、その傾向を検索エンジンの表示順位に反映することにまで及んでいる。インターネット検索が世界を映し出す「鏡」だとすれば、その「鏡」は知らぬうちに歪まされ、あるいは切り取られて、偏った世界を映し出すように変えられている。
 様々な事故や事件を通じて社会不安が高まり、政府や企業、あるいはマスコミは情報を操作し、我々を欺いているとの「陰謀史観」が広まっている。そこでは善悪二元論的な単純化された構図にみんなが飛びつく。いや、というより、そうした単純な構図に世界を押し込めようとする時に、「陰謀」のようなそれを可能とする「物語」が必要とされるのだ。実際に「陰謀」が存在するか否かはここでは問題しない。ただ私が指摘しておきたいのは、先に見たように「パーソナライゼーション」によって強大な権力の意図に基づかずとも、それよりもはるかに匿名的かつ個別的な洗練された仕方で、情報は操作され得るということだ。ここで情報操作が個々人の「消費」(情報消費を含む)動向に基づいて為されていることに注意しよう。「パーソナライゼーション」は「あなたに代わって」選択・提案しているのであって、「あなたに向かって」ではない。私たちは自分の鏡像を果てしなく増殖させる「鏡の檻」に閉じ込められてしまうことになる。
 このシステムが巧妙であるのは、私たちがクリックにより選択行動を起こすたびに、システムがそれを学習してシミュレーションの精度を高めていくことにある。私たちは情報を操作されていることも、他者と共有すべき事実を侵食されていることも気づかぬまま、一人ひとり切り離され、「お気に入り」や「いいね!」だけに埋め尽くされたオーダー・メイドの繭世界に閉じこもる(自らを閉じ込める)ことになるのだ。
 そこには葛藤も軋轢も対立も混乱もない。発見もなければ衝撃もない。すべては「既視感」という安心毛布にゆったりとくるまれ、「飽き」を防止するためほんのわずかな差異が、新たな流行や個人の趣味がつくりだすオプションとして用意される。

 自分が信頼していたCDショップの閉店を、デジタル・サウンド・ファイルとアナログ・ヴァイナルの間で、情報的機能性もオブジェ/アート物件としての魅力にも欠けるCDというメディアの性格に結びつけて了解してしまうような(CDの終焉?)社会学的/マーケティング的見方を、私は到底することができない。
 むしろそこで生じているのは聴き手の自閉/自己完結にほかならない。それは未知のものに対する好奇心の減退と言い換えてもいいし、「雑誌」的な場の機能不全という事態でもある。かねてからインターネットについて言われていた「隣接性」の喪失、すなわち検索がそのものずばりを指し示すことにより、それと隣接する異なるもの、たとえば雑誌でお目当ての記事の隣のページに載っている別の記事にアクセスする機会がぐっと減ってしまうという変化は、先に見たパーソナライゼーションによりさらに深刻な症状を来す。

 MoveOn.orgのイーライ・パリサーは『閉じこもるインターネット』(早川書房)で、「フィルターバブル」(パーソナライズのためのフィルターに閉ざされ包み込まれてしまうこと)の危うさについて、次のように述べている(ちなみに私は例によって図書館で借りて読んだので、帯に東浩紀と津田大介が書いているとは今の今まで知りませんでした)。
 「フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。そう作られていると言ってもいい。我々がとらえている世界に合った情報は簡単に吸収できるし楽しい。一方、新しい考え方をしなければならなかったり過程を見直さなければならなかったりする情報は、処理が苦痛だし難しい。(中略)だから、クリック信号を基準に情報環境を構築すると、すでに持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。」(p.109)
 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築することだ。スポーツのトリビアや政治関連のちょっとしたことなど、自分のスキーマが根底から揺さぶられることはないが、ただ、新しいものだと感じる情報だけで環境を構築することだ。パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の回答を探すには便利だが、視野にはいってもいない疑問や課題を提示してはくれない。(中略)フィルタリングがかんぜんにおこなわれた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。このほかにもうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的パランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。」(p.112〜113)

 インターネット上の情報がコピペの嵐であって、特に音楽の場合、制作者/販売者側の情報ばかりがソースとなりやすいことを思えば、あるいはニコニコ動画の時報機能に「同期性」を感じる心性(あるいは「同期性」を読み込むような思考)が蔓延していることを思えば、事態はより深刻と言えるだろう。もちろんコトはインターネットだけの問題ではない。道路や鉄道駅、電車の車内といった公共空間で、イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマホやゲーム機に釘付けにして外界を遮断している者たちは、まさにパブリック・スペースを「パーソナライズ」しているのにほかならないのだから。



 pastel records寺田さん、まずはお疲れさまでした(と言ってもお仕事はまだまだ続くわけですが)。でも、少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。



画像はすべてpastel recordsのページから転載。ヴィジュアル・デザインもとても優れたお店でした。

別の空間へ − リアストゥライニ ライヴ・レヴュー  Into Another Space − Live Review for LYOSTRAINI

  1. 2013/10/26(土) 18:10:48|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 例によってひとしきり道に迷ってからたどり着いた会場は、すでに暗くなった街角にひっそりと佇んでいた。そとから全体を仰ぎ見る間もなく入口の灯りに吸い込まれ、受付を済ませて演奏の行われるスペースに立ち入って、柔らかくあたたかな証明に浮かび上がる空間の変わりように驚かされる。まるで別の空間がワープして、ふっと現れたようだ。そこは使い込まれた木の長椅子が並ぶ教会の礼拝堂で、正面の壁のアーチ状の窪みに十字架が掲げられている。裕に3階分はある高いヴォールト天井、木と漆喰の壁、高い位置に設けられたステンドグラスも外が暗いため色彩を放つことなく身を潜めている。
 80年前の建築当時からそのままで、現在も礼拝時に使われているという長椅子は固くがたがたで、そこに座っていると身体が空間に次第にはまりこんでいく感じがする。離れたところの話し声が妙に近く感じられるのは長い残響のせいだろう。平面としてはさして広くない会場は、結局、ほぼ満席となった。

 この日の演奏について語るべきことはそう多くない。先に結論を言えば、この日の演奏への称賛も多く聞こえてくるなかで(※)、私は見事にすれ違ってしまったのだ。あるいは1週刊前に「1982」のライヴを聴いた記憶を生々しく留めたままこの空間に入り込んで、ああ、ここで彼らを聴けたならどんなにいいだろうと、あらぬ夢想を膨らませてしまったせいかもしれない。聴くべき何かを見出せないうちに、この日の演奏は終わってしまった。
 大きな期待とともに演奏が始まった瞬間、速いパッセージを繰り出すコントラバスの、パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色に驚かされた。立ち騒ぐ疑問符は5秒で失望に、10秒で落胆へと変わり、その後、一度も浮かび上がれないまま演奏は終わりを迎えることになる(アンコールを含め)。その間、私は一度も拍手することができなかった。
※たとえば次を参照
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131023
 http://homepage3.nifty.com/TAKEDA/live2013/20131022-1.html

 私にとってほとんど唯一の聴きどころは、Lena Willemark自身の説明によれば「牛やヤギを呼ぶ声」だという、あの空気を切り裂き、風を渡り、まっすぐに空間を射通して、聴き手を縛り上げる声を彼女が放った30秒間だった。その時、彼女は口元をマイクロフォンから外していた。ならば、もともとマイクロフォンは無くてよかった。歌の旋律を舞いながら声を閃かせる仕方に、凡百の歌い手とは異なる際立った技量を予感させながら、彼女の声は何重にも仕切られた向こう側にあるようで、むしろ生来の声の力をマイクロフォンに合わせてセーヴすることに力を注いでいるようにすら感じられた。そこにCD作品で聴き親しんだ、大地からあるいは古代から湧き上がる生々しい力を、いまここに解き放つ鮮やかな直接性はなく、言い訳を重ねるような持って回ったもどかしさを覚えることとなった。もしかするとそれは、声が踏みしめ、あるいは蹴立てて飛翔すべきコントラバスの地平が、先に述べたような「液状化」を来して成立していなかったことによるのかもしれない。

 そうした影響は箏を奏する中川果林にも及んでいたかもしれない。トリオにおいて旋律を歌いながらリズムを彫り刻み、さらには荒々しいグリッサンドや弦へのアタックにより、触覚的な要素を一手に引き受けていた彼女の負担はかなり大きかったと思う。それゆえ肩に力が入ったのか、もっとすっと筆を入れてすらりとまっすぐな線を描くべきところを、徒に流れを滞らせ、軌跡をうねらせていたように思う。それは旋律の歌わせ方に関してはルバートの多用、フレーズの提示についてはヴィブラートの不適切な適用として現れて洗われていた。これらの選択、というより箏の慣用的な語法の無頓着な名残は、演奏を重くして軽やかさを奪い、インタープレイにおける反応を遅らせる。それは箏がエキゾティックなスパイスの役割を超えて、インプロヴィゼーションの領野に身を投じていく際に再検討されるべき重要なポイントだと思う。沢井一恵は彼女のインプロヴィゼーション初体験となったフレッド・フリスとの無惨な共演(私はその「9×9」と題されたコンサートの聴衆だった)を踏みしめて、その後、鮮やかに羽ばたいた。
 さらに前述のグリッサンドをはじめとするノイジーで触覚的なサウンドを奏でる部分では、ドライヴ感を重視するあまり、音が垂直に立ち上がらず斜めによれてしまっている。ちょうどフィギア・スケートのジャンプで回転軸が傾いている感じか。だがこれも結局、沢井一恵の演奏と無意識に比較してしまっているわけで、あまりにも基準が厳し過ぎるかもしれない。先に述べたように彼女は多くの役割を献身的にこなし、見事な力演を見せたのだから。

 コントラバスのAnders Jorminについては前述の「パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色」への違和感に尽きる。運指の素早さは流石だが、出てくる音がこれでは評価のしようがない。アルコ音も上滑りで実体感に乏しく、どこを採ってもアーティキュレーションが不明瞭なものだから、アンサンブルは合わない入れ歯のようにフガフガしたものに成り果ててしまう。Bobo Stensonの共同作業者なのだから、これが本領とも思えないが、コントラバスのリアルなボディ感を消去して弦の振動だけをイコライザーやリヴァーブで加工したような「エアー・ベース」的音色設定は、PAエンジニアの責任ではあるまい。彼自身が今回の使用楽器(ライヴ・ツアー用のレンタルかもしれない)のサウンド戦略を確立できていないのではないか。今回の演奏空間の豊かなアコースティックを思えば、輪郭が固めのゴリッとしたピチカートや、切り裂くようなアルコ、深々とした胴鳴りや倍音領域へのアタック等が非常に効果的なものとなったことが明らかであるだけに、返す返すも残念でならない。


2013年10月22日(火) 世田谷区 富士見ヶ丘教会
LYOSTRAINI (リアストゥライニ)
 Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
 Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
 Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏




ああ、まだ虫が鳴いていますね 外は雨が降っているのに  Ah, Crickets Are Still Chirping, Though It's Raining Outside

  1. 2013/10/24(木) 23:40:59|
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 津田貴司から案内されたライヴの2日目は、Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント。プログラムは出演順に三富栄治によるエレクトリック・ギターのソロ、津田貴司と笹島裕樹のデュオStilllife、あおやままさしによるエレクトリック・ギターのソロ、大人数によるDaisuke Miyatani Ensembleの演奏の4部構成。

1.デュオ
 「ああ、まだ虫が鳴いていますね。雨が降っているのに‥」演奏を始める矢先、津田がぼそりとつぶやく。
 デュオ演奏の準備として、スペースの中央が空けられ、そこに2枚のラグが敷かれ、音具というよりも様々な魅力的なオブジェが、まるでアンティーク・ショップの店先のように並べられる。素焼きの管、小石、陶器のかけら、水の入ったガラス壜、巻貝の貝殻(やはり水が入っている)、水とガラスの粒を入れたフラスコ、試験管、木の枝、藁の束、小型のチター‥‥。二人は靴を脱ぎ向かい合って座り、キャンドルを灯し、照明がすべて落とされ、空調も停められる。暗がりの中にぼうっと陽炎のように虫の音と雨音がうっすら浮かび上がる。
 腿に打ち付けた音叉の根元を木の床に押し当てマッチの閃きのような響きを立てる。素焼きの管を三本、掌で転がし感触を楽しむ。藁の束をまさぐり、感触を空間に投影する。竹の筒の切り口に息を当てる。吊るされて揺れる木の枝の触れ合い。竹の筒に吹き込まれる細い息の流れが、もつれながら引き伸ばされ紡がれていく。
 暗がりの中で耳が目覚めていく感覚。いつの間にか虫の声はさらに大きくはっきりと聞こえるようになっている。オブジェの奏でるか細い響きは、離れたあちらにありながら耳元で聞こえ、やがて耳の視界の大半を占めるに至り、くっきりと手触りを伝える。耳がそば立てられ対象に集中すればするほど、閉じていくはずの感覚は逆に開かれ、周囲の空間がますますくっきりと浮かび上がり、虫の音や足音、床の軋みが大きく聞こえるようになる。だが、それらは「対象」をマスクすることはない。手前から向こう側までピントの合ったディープ・フォーカスの空間が現れ、さらに視界は透明度を増していく。
 小石を転がし、石を打合せて口の中に響かせる。陶器のかけらをこすり合わせ、水とガラスの粒の入ったフラスコをゆっくりと振り混ぜる。チター弦の微かな震えがガラス壜に閉じ込められた水の揺らぎと重ね合わされる。
 アクションの連鎖(モンタージュ)ではなく、何物かの表面に触れている指先への集中と、それを距離を置いて冷ややかに眺める耳の眼差しの拮抗。意識が思い浮かべたものを指先でつくりだすのではなく、両者を切断し、触覚と聴覚をそれぞれ別の仕方でオブジェに横断させること。そこに新たな発見/遭遇が生じる。「沈黙」という白紙のキャンヴァスに物音を配置していく観念的な抽象性はここにはない。オブジェに焦点を絞り込み集中する感覚は感度と解像度をいや増し、空間も時間もすでに染みや汚れ、折り目や破れだらけであることにとっくに気がついている。
 この日の30分程度の演奏は、彼らにとってほんのイントロダクションに過ぎまい。聞けば夜中に出かけて山道をさまよい、谷の奥で録音した音源を作品化すべく現在作業中であるという(この日、「先行シングル」だというCD−Rが販売されていた)。アフターアワーズに暗い山道は危なくないかと訊くと、視覚が閉ざされる分、他の身体感覚が鋭くなるので、意外とこわくないとのこと(むしろシカやイノシシに出くわしてしまうのがこわいらしい)。そうした道行きに同道して、夜更けの谷間が白々と明けてくるまで彼らの演奏に包まれてみたいものだ(そうだな5時間くらい)。夜の森はしんと静まり返るどころか耳を聾する喧噪に満ちている。彼らの演奏に耳で触れ肌を傾けることにより、オブジェへの聴覚と触覚の集中を通じて、風の唸りに、森のざわめきに、水のせせらぎに耳を澄ますこと。


2.ソロ
 三富栄治もまた今年9月に新譜『ひかりのたび』をリリースしたばかり。そちらはフルートやチェロを配したジェントルな肌触りの室内楽だが、この日のソロでも同じく、いやそれ以上に陽だまり的な温もりを感じさせた。抱えたギターを赤子を寝かしつけるようにゆっくりと揺らし、フレーズを音色を同様にくゆらせる。香るようにたちのぼり、そのまま空間に溶けていく音楽。とりとめのない夢想は、一切の言い訳なしにそのまま提示されることにより聴き手を武装解除し、ゆったりと手足を伸ばして響きに浸ることを可能にしている。ただし眼の前で演奏されるべき音楽、あるいは他人といっしょに聴きたい音楽かといえば、私には違うように感じられた。彼はますますギターの上に身を屈め(ほとんど折り重なるように)、赤子のように言葉を解しないギターに密やかに語りかける。フィンガー・ピッキングの柔らかな指さばきは、決して音を周囲に飛び散らせることがない。浮かんでは消えながら「音もなく」通り過ぎていく情景。くっきりとした輪郭/陰影を持たず、夢うつつの間接的な距離を生きる音色は、ギター・アンプから漏れ広がるバックグラウンド・ノイズをスクリーン/フレームとして、8mm映画のようにありえない懐かしさとともにぼうっと浮かび上がる。音に沈み込むうちに世界の手触りはいよいよ遠ざかり、物語など気にならなくなる。時折告げられる曲名は、「暖かい夜」、「天国の月」と両極を結びながら対比を際立たせず、緩い勾配で結ぶともなく結んでいる彼の音世界をさりげなく言い当てている。
 同じくフィンガー・ピッキングによりながら、あおやままさしのギターは三富と対照的なあり方を示す。素早い指さばきが繰り出す音は砕け散るまぶしさをはらんでおり、空間になじむことなく響き渡る。高速アルペジオの繰り返しはモアレ効果の印象を与えながら、実際にはもつれることなく、重層化もせず、広がりやにじみも持たない。ただそこできらきらと輝く音の宝物。一言も発さずにただ黙々と演奏を続け、演奏中に何度も曲間でチューニングを改める偏執狂的な身振りは、響きの指紋ひとつない輝きと通底している。きれいな色ガラスのかけらや、鱗粉が金属質の光沢を帯びたモルフォ蝶の標本、曇り一つなく磨かれたコインを収集する潔癖性の少年。熱を持たない響きの蛍光灯的な輝き。だが私には運指が減速し、音に間が空いて、その消え様を明らかにする場面の方が、よりリリカルなように思われた。

3.アンサンブル
 再び客席の模様替え。中央にラグが敷き詰められ、周囲をギター奏者の座る椅子がぐるりと取り囲む。聴衆は13台のギターに包囲される。リーダーのDaisuke Miyataniがそのうちの一人に「コードはG。一音弾いたら3秒は間を空けてもらって‥」とルールを説明している。演奏が始まり、周囲でぽつりぽつりとギターが鳴り響いていく。音源の位置を移ろわせながら、軒先から滴る雫が庭先の石を打つように五月雨式に音がこぼれていく。ギターごとの音色の、そして発音の特性が際立つため、中世音楽の技法「ホケット」のように、振り撒かれた音がメロディを紡いでいく感覚はない。Stilllifeの演奏が深くたたえていた耳を目覚めさせる力もない。本来は多様にして豊かであるはずの音と音の出会いは、「アンビエント」な響きの広がりの安逸さに身を委ね、明度や彩度を引き下げ、自らを単色に染め上げて、聴き手の感覚を眠り込ませようとする。だが、小賢しい「表現」を離れ、自らの贅肉を削ぎ落とし、あるいは移ろい漂わせて、「無心に」(たとえ一人ひとりの演奏者がそうした無我の境地に至っていなくとも、コンポジションによる限定/抑制の仕掛けが「私」を濾過し希釈化する)「雨垂れ」と化す様に身を委ねるのが心地よいのは確かだ。虚ろな希薄化に向かって引き延ばされていく永遠のコーダ。
 だが愚か者はどこにでもいる。私のほど近くに位置した奏者は、どうやらじっとしていられない「お子ちゃま」のようで、演奏の終盤には自分を抑えきれなくなり、盛んに弦を擦ったり、ボディを撫でたりと悪戯を繰り返している。すぐそばのDaisuke Miyataniの様子を何とはなしに伺い、微かな音での逸脱/挑発にとどめているあたりが、何ともはや情けない。タイマー代わりに仕掛けられたと思しきカセット・テープレコーダーがカチャンと停止し、演奏者たちが自信なさげに顔を見合わせ、さらに疎らになった音が床の軋みやため息に呑み込まれていくエンディングを経て、お礼の挨拶をしているDaisuke Miyataniの傍らで、何を思ったのか彼はギターを弾き始める。BGMのつもりなのだろうか。一部の知り合いが笑みを浮かべ、仲間内の弛緩し澱んだ腐臭がたちこめ始める。彼の「演奏」は、自分の抱えているのが他ならぬギターであり、それを自分は多少なりとも弾けることを懸命にアピールしているようにしか見えなかった。そんなものは友人の誕生パーティの余興でやってくれ。いわゆる「空気を読む」とは、仲間内でのだらけた馴れ合いに身を染める貧しい体験でしかなく、即興的感性や本来の意味でのアンビエントな感覚とはまったく無縁であることを、いまさら実演で紹介する必要などないのだ。

2013年10月19日(土) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
三富栄治、Stilllife、あおやままさし、Daisuke Miyatani Ensemble

   

  

1+2+3 / 1982 Live Review for Gallery Septima 16/10/2013

  1. 2013/10/20(日) 23:42:07|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 ほとんど真四角な白い部屋。古い木の床にあれこれ種類がバラバラな椅子が並べられている。無垢の木の丸いテーブル。壁際に置かれた白いソファ。反対側の壁際には木のベンチ。ぽっかりと開いた大きな窓と壁に作り付けの木製の棚がギャラリーらしいだろうか。
 音具とエフェクターが床に散らばり、左手奥に斜めに置かれたアップライト・ピアノ(上半分は手前の板が外されて弦が剥き出しにされている)の手前のテーブルにも、ガラクタ・オモチャな音具が山積みになっている。右手奥には簡素なドラム・セット。正面奥のテーブルにはヴァイオリンが2台。

1.ソロ
プログラムの幕開けは津田貴司のエレクトリック・ギターによるソロ。高域の張り詰めた音がディレイにより引き延ばされ、左右にパンで振られる。木の床の軋みと寄り添う「水琴窟」ギター。そうしたきらめきの波紋が広がる向こうにハーモニクスのうっすらとした影が揺らぎ、サンプル&ホールドされてさらに音が重ね描きされていく。口を尖らせた舌先でくるっと丸まってしまう響き。床の軋みや足音と親しく混じり合うのは、津田の耳の志向ゆえだろうか。
 素早い遷移のうちにある高音の繰り返し、ゆっくりと背筋を伸ばしていく低音、弦のさわり、分厚いドローンとか細いアルペジオ‥‥寝た子を起こすことのないよう細心の注意を払って取り扱われるギターから引き出される様々な響きは、それぞれに固有の速度と時間をはらんでいる。それは一方で「グリッチ以降」のエレクトロニカ美学の帰結だが、むしろ津田にとってはサウンドスケープに耳を傾け、ひとつの時間/空間のうちにあれこれの響きがマッピングされているわけではないことを、発見したのが大きいのではないだろうか。

2.デュオ
 minamoは結成当時からのコアである安永哲郎と杉本桂一によるデュオ編成で、音具を中心とするインプロヴィゼーションを繰り広げた。杉本がギターを、あるいは安永がピアノを弾いたり、二人がハーモニウム(?)に手を伸ばしたりする場面もあったが、それらはすべてゆったりと靄がたなびくようなエレクトロ・アコースティックなサウンドの一部を構成するに過ぎない。
 電子ノイズのひそやかなつぶやきがギター弦の弓弾きの倍音に水没し、金属質の打撃音の長い尾の揺らめきが遠い国からやってくる短波放送にも似た高周波の混信や変調に溶けていく傍らでは、アコースティック・ギターの爪弾きもあらかじめ散布された電磁波に逃れ難く汚染されており、すべての響きは空間を包み込む微かな波動の網の目にかかり、それを震わせてしまう。彼らはそうしてかたちづくられたサウンドの希薄でこわれやすいプラトーを、リアルタイムの音の加工を含め、崩してしまうことなくゆるゆるとくゆらせていく技術に長けている。

3.トリオ
 彼ら「1982」は、はるばるノルウェーからやってきたヴァイオリンとピアノとドラムのトリオ。東京でのライヴはここだけだという。すべてのマイクやアンプは取り払われ、演奏はすべてアコースティックで行われた。
 まるで音を高く放り上げ、あるいは遠くへと飛ばすように、一音を一弓で弾き切っていくヴァイオリン。冷ややかな音色が弧を描き、指で弦をミュートしたピアノのトレモロやドラムの打面や縁を擦って生み出される音の切れ端等のマイクロサウンドを見下ろしている。やがてヴァイオリンが掻き鳴らすようなピチカートに転じ、ピアノのミュートされたトレモロやブラシに擦られるドラムと、繊細なさざめきの重層をつくりだしていく。
 三人の真ん中に立つヴァイオリンは、演奏によって弓を取り替えて臨む。冒頭の冷気がたちのぼる鋭敏さは円弧型の弓によるもので、より希薄で透明な音色が生み出される。これに対し通常の弓はより輪郭が明確で中身が詰まった厚みのあるサウンドを提供する。
 ドラムが脚で鈴を鳴らし続け、ピアノがノイジーに掻き回されるざわめきの中で、なめらかに滑りゆく弓の推移がつくりだす音が、列車の車窓から眺める電信柱のように通り過ぎる。大きな空間を占有するヴァイオリンに対し、ピアノとドラムは緊密な連携で対応する。ピアノの左手が弾き出すむしろベース・ソロ的なつまづくリズムに、ドラムがアタックの強弱で拮抗し、この緊密なリズムのやりとりにヴァイオリンは胸に迫る叙情を覆いかぶせ、ピアノがミュートせずにトレモロを解き放ったことをきっかけとしたフリー風の盛り上がりには、極端に落差をつけた沈鬱な響きで均衡をかたちづくる。

 彼らはまた10歳ずつ年齢が違うのではないかと思われる「齢の差トリオ」でもあるのだが(vn > pf > dr)、演奏が進むにつれ、最初のうちに見せたトリオ内の役割分担を含め、そうした階層性を侵食し、自在に組み替えていく動きが見られた。
 ピアノの弦がガムテープでミュートされ、荒々しいグリッサンドが繰り出されるかと思えば、テープを剥がす際のノイズが際立たせられ、ドラムはと言えば打面の張りを緩め、輪郭の歪んだ不定形の響きを床に這わせ、ハイハットの下の皿に様々な音具(独楽の類?)を放り込んで音を立てる。アルバート・アイラーを思わせるカリプソ風のメロディをピアノが弾き散らかすフリーな盛り上がりを「苦々しげに」眺めていたヴァイオリンが割って入れば、懸命に美音を奏でる彼をよそに、ドラムは席を立ってピアノのところに密談に行き、ピアノの位置をずらし、少し向きを変えたかと思うと、天板の上で、靴下をはめた手をパペット代わりに陳腐なショウを繰り広げ、"Money,Money"とクッキー・モンスターみたいにパクパクする口の中に、ピアニストが小銭を押し込む。ピアニストがピアニカで「ハーレクイン・ロマンス」的な甘ったるいメロディを奏でれば、お高く留まっていたかに見えたヴァイオリンも辻楽士的な泣きの旋律で加わり、靴下パベットの熱き抱擁を引き立てる。いささかダダ的なヒューモアの破壊性が、奇妙に歪み始めたサウンドの化学変化を推し進め、「ノリ」を加速し、北欧的な昏い混沌へと突き落としていく(ここで私はInternatinal HarvesterやTrad Gras Och Stenar等の土臭くサイケデリックなスープを思い浮かべている。これらはスウェーデン産だけど)。ピアノ弦から剥がしたガムテープをつるつるの光頭に巻き付けるといったハン・ベニンク的なパフォーマンスもその一部に過ぎず(だからまったく「浮いて」しまうことなく演奏の血肉化される)、規制の窮屈な枠組みの底を荒々しく踏み抜いて、すべてをつなげてしまうことが目指される。足踏みしながらのダンス・チューンの演奏も、ミニ・ハーモニカのロング・トーンへの音響的な重ね描きも、ここではもっともらしいコンセプトの説明や編集意図を超えて、分ち難くひとつになっている。

 希薄さと透明さを突き詰めてどこまでも高く昇りつめていく響き。ライヴを予約した時点で思い浮かべていたのは、そうした冷ややかさだったが、そうした予想/期待は心地よく裏切られた。彼らの演奏は天井の高さがなく、それほど広くもない会場のルーム・アコースティックも踏まえた対応であったろう。確かな技量に支えられた自由闊達な演奏は、とびきり豊かな時間をもたらしてくれた。会場で買い求めた彼らの録音作品群がまた素晴らしかった。いずれ改めて紹介することとしたい。

2013年10月16日(水) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
「逆回りの音楽 vol.7」
津田貴司、minamo(安永哲郎+杉本桂一)、1982(Nils Okland, Sigblorn Apeland, Oyvind Skarbo)


   

  

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