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コンダクションという秘儀 − ローレンス・D・"ブッチ"・モリス追悼  Conduction As Esoteric Ceremony − Lawrence D. "Butch" Morris RIP

  1. 2013/02/10(日) 21:49:30|
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 2013年1月29日、ローレンス・D・"ブッチ"・モリスが亡くなった。彼はコルネット奏者としてそのキャリアをスタートしたが、やがて「指揮」により即興演奏をリアルタイムで生成/編集する「コンダクション」を編み出し、世界各地で様々なミュージシャンを相手に実践に取り組んだ。
 ここでは1991年に彼が来日した際の「コンダクション」ライヴのレヴューを再録することにより、心から哀悼の意を表したい。


機.灰鵐瀬ションという秘儀 − ブッチ・モリスの「コンダクション」を巡って【「ジャズ批評」84号】

1.コンダクションとは何か

 「コンダクション」すなわち指揮された即興という考え方は、即興演奏家たちの国際的な音楽交流の機会が増えるに従って発展した。その目的は、集団即興演奏に自然発生的な形式と焦点を与え、またコミュニケーションを拡大することである。「コンダクション」はアンサンブルと指揮者が作曲を進めていくプロセスにおいて同じ役割を果すことを可能にし、また聴衆はこのプロセスを直接観ることができる。(ローレンス・D・“ブッチ”・モリス)
 「コンダクション」とは「指揮者」ブッチ・モリス(以下BM)を焦点として作動するシステムであり、紙の上では(ジョン・ゾーンの『コブラ』がそうであるように)様々に定義付けされた一連のサインの集積である。タクトの振り下ろしにより始められた即興演奏(全員または指名演奏者のみ)を素材にコンダクションによる編集・加工が施される。BMによれば、全部で約20個あるサインのうち、今回は7〜8個を使用しているという。こちらで把握したものを次に掲げる。

。ustain及びSustain Another
 サウンドの持続をタクトの振り下ろしにより、別のサウンドへと一変させる。 
音量・音高の上げ下げ、テンポの加減速、リズミックな強調・平坦化
8帖垢離廛譽ぅ筺爾紡个垢覬藾媚臆叩臣羯瀝彑
ぃepeat及びDevelop:パターンの反復演奏指定。パターンの長短や内容は自由。DevelopはRepeat指定のもとで、両掌の指し示す幅により定型反復への収斂(狭い)と、そこからの即興的な展開(広い)とをコントロールする。
ィelodic:(何でもいいから)メロディを演奏せよ。
Γraphic(Panningを含む):タクトの動きに沿って、ギサギザや渦巻きをはじめ様々な曲線をまるで図形楽譜のようにトレースさせる。Panningはタクトが自分の前を通過する際にON/OFFを一瞬交替させるもので、刷毛で塗るようにタクトを左右に大きくパンさせることから。
Вmitate:指名された演奏者のフレーズ/サウンドを模倣せよ
┘瓮皀蝓爾療佻拭Ω峠

2.リハーサル(3月3日)

 演奏者たちはP3の長辺側ほぼいっぱいに並ぶ(配置はBMの指定による)。各演奏者の位置関係を聴覚上明らかにするため(時にBMは目をつぶったままサウンドに耳を傾け、演奏者を指し示す)、生音あるいはアンプ直出しでPAはない(本番ではヴォイスや小音量楽器の補助として部分的に用いられていたが)。
 タクトを持ったBMが位置につくと、ピリピリとした緊張がオーケストラ全体に走る。集団即興により生み出されたサウンドが、様々なオペレーションにより、掻き回され、切り刻まれ、容赦なく切り捨てられていく。BMは全くの暴君として振る舞っているように見える。彼は指揮者への視線の集中を常に要求する。これが琴やターンテーブルにはつらい。「見ていない」と何度も注意される者がいる。サインの不明瞭さへの不満がそこここで漏らされる。指揮者の専制とサインの曖昧さの間で演奏者が疲弊し、ナーバスになっていくのがわかる。BMの説明。「サインは確定的ではなく、解釈の幅を本来的に持つ。プレイヤーは自分なりの解釈で音を出し、それを継続させるか止めさせるかは私が改めて判断する。」リハーサルは本番さながらの演奏に、時折サインの説明を折り込みながら、3時間近く続けられた。「習うのは終わった。明日は演奏しにきて欲しい」とBM。

3.トーク・ショー(3月3日)

BM:コンダクションを行うには、演奏される楽器の特性のみならず、参加者ひとりひとりの個性まで知る必要がある。コンダクションは演奏者ひとりひとりに語りかける方法、「〜して欲しい」というのではなく、店で買い物をするように聞き尋ねるやり方だ。ここで作曲とは読書のようなものだ。(線的展開としての)ストーリーをたどるのではなく、行きつ戻りつ前後しながら、その書物の提示する世界像を読んでいくという意味で。だからサインだけを特化するのではなく、表情や仕草を含めた全体から、指示内容を読み取って欲しい。メモリーだって、そのまま再現できなくてもかまわない。わからなくなって、あれこれ探すのが面白いんだ。そこには不可避的に演奏者の個人史と解釈が含まれてくる。
大友:実際のところ、サインは判断要素のひとつに過ぎない。他のプレイヤーの演奏は否応無く聞こえてるんだし。ただ積極的なアバウトさがないと難しいかも。BMも「状況を判断し、自分で考えて音楽にしてくれ」ってよく言っていた。

 BMはいつも茶色のノートを手放さず、会場からの質問に対しても思いつきをすぐに書き留める。会話や議論の中でなら、それをすぐさま反映させて、発言者が司会者として振る舞うこともできよう(言語はメタ化して異なるゲームを渡り歩く)。しかし即興演奏の現場なら..。これこそが「即興演奏者によるリアルタイムの作曲」が即興演奏者の身体から独立した機能/役割として分化/析出した契機ではなかろうか。集団即興演奏の全体をまるごと一度に操ろうという欲望。 

4.コンダクション49&50(3月4日・5日)

 書いては消し、加えては削り、推敲を重ねてはあてもなく(あるいははたと思いついて)本を開き、書き写し、書き直して、破り捨て、また書き始め、最初から読み返す....ミクロに見ていけば試行錯誤の連続でありながら、マクロに眺めるならダイナミックな情景の変転に溢れ、意外なほどメロディアスですらある。これは演奏者の個性差、楽器間の音色の違い、リズミック/メロディック、アタック/持続・反復、ソロ〜トリオ中心の器楽的展開とGraphicによる流動等、様々な対比を基軸としながら、さらに初日冒頭のセット(1セットは約30〜40分)ではオーケストラの分割操作により、マス・ムーヴメントをダンス・カンパニーの振付師のようにダイナミックに取り扱い、続くセットではうって変わってvn,b×2を指名して弱音ソロから始め、細部の積み上げによりこわれやすい繊細さを彫琢してみせ、また2日目最初のセットはキー・パーソンをフィーチャーした大きな場面の交替、続くセットはステレオフォニックな照応を活かしたサウンドの転写によるなど、構成に用いるレトリックが自在かつ多彩であるためだろう。 しかし、そうであればあるほど「このサウンドの巧みな融合は演奏者が相互にコミュニケートした結果なのだろうか」と訝らずにはいられない。むしろ音は演奏者の手元から奪い去られ、彼らの手の届かない彼方(BMの手元)で混ぜ合わされて、盛られた皿の上で初めてひとつとなっているのではないか..と。

5.「コンダクション」というメディア

 共に即興演奏者のネットワークを目指すメディアながら、コンダクション(cn)とジョン・ゾーンの『コブラ』(cb)は次の2点において決定的に異なる。
.灰鵐瀬ターがあらゆるサインを集中的に発する(cn)に対し、サインはプレイ ヤー間で取り交わされ、プロンプターはあくまでその通り道に過ぎない(cb)。◆癖篏的な手振りや目配せを伴うものの)各種サインがボード化できるまでに 記号化されている(cb)に対し、身振りと未分化なまま指示内容にも演奏者によ る解釈の余地(文脈依存性)を残している(cn)。
 『コブラ』が交通を徹底的に外化することによって加速を図るのに対し、コンダクションは音の運動と身振りの一体化を通じて、(表情を読み取るように)全容の一挙了解を目指す。オーケストラが激しく沸騰し、リズムを弾きとばして、次から次へと新たな音が吹き上がり、鍋から吹きこぼれる直前、BMは(瞑想するように眼を閉じ、満面に恍惚とした笑みを浮かべて)音のひだやサウンドの泡立ちまで触知しながら、身体を大きく揺らがされ、それはそのまま身振りとなって、タクトを通じて溢れ出し、サウンドを大きく波打たせうねらせる。この瞬間コンダクションは透明なメディアと化し、全演奏者はBMの視点を共有することになる。しかし、これはBMの身振りの表出力とアンサンブルの感応力の相互作用の極限として束の間現れるのであって、システムの約束された結果では決してない。むしろそれは苛烈な集中を要求する割りにはなかなか報われぬ、投資効率の悪いシステムである。BMはこの「秘儀」により祭儀的なコミュニオン/共同体の生成に関わる大文字の「音楽」の再創出を目指しているように思えてならない。1996年、アトランタ・東京・イスタンブールを衛星回線で結んで、オリンピックの一週間前に行われるという『サテライト・コンダクション』は、マクルーハンによるグローバル・ヴィレッジのヴィジョンの具現化そのものではないか。

【3月3日:公開リハーサル&トークショー 3月4日・5日コンダクション/P3art&environment/ブッチ・モリスconduction、大倉正之助;太鼓、佐藤通弘;三味線、田中悠美子;義太夫・三味線、一曾幸弘;能管(5日不参加)、沢井比河流;琴、金大煥;perc、高橋鮎生;中国琴、大友良英tt、溝入敬三cb、三宅榛名p、吉沢元治el-b、金子飛鳥vn、足立智美vo・electronics
※トークショー参加者/BM・吉沢・大友・平沢(通訳)】

Butch Morris『Current Trends in Racism In Modern America (A Work in Progress)』
Sound Aspects SAS4010 (LP)
Frank Lowe(ts),John Zorn(as,game calls),Brandon Ross(g),Zeena Parkins(harp),Tom Cora(vc),Christian Marclay(turntables),Eli Fountain(vib),Curtis Clark(p),Thurman Barker(marimba,snare drum,tambourin),Yasunao Tone(voice),Butch Morris(conduction)
 ノイジーな喧騒が大きく揺らぎながら移り変わって、刀根の謡曲ヴォイスにマークレイのディスコ・サウンドが襲いかかる。ソロの交代と重ね合わせに多くを負っているものの、紛れもないオーケストラ・サウンドが達成されている。



Butch Morris『Dust to Dust』
New World Records 80408-2 (CD)
Vicky Bodner(English horn),Jean-Paul Bourelly(g),Brian Carrott(vib),Andrew Cyrille(ds),J.A.Dean(tb,electronics),Marty Ehrlich(cl),Janet Grice(bassoon),Wayne Horvitz(key,electronics),Jason Hwang(vn),Myra Melford(p),Zeena Parkins(harp),John Purcell(oboe),Lawrence D.Butch Morris(conductor)
 楽器構成もあって、本作は前作と打って変わって映画音楽にも似たメロディアスなたおやかさとエキゾティシズムに溢れ、オーケストレーションもまた気品ある厚みを増している。6曲目ではグラフィックやパンニングの効果がよく聴き取れる。




供(簑

 ひとつ補足として、ある誤解を解消しておきたい。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」を事例に挙げた大澤真幸「合理化の反転像」【初出「MUSIC TODAY」21号。後に「合理化の反転像としての現代音楽」として『美はなぜ乱調にあるのか』に収録】についてである。
 即興演奏の歴史において、あるいはそれを超えたより広い文脈においても、「コンダクション」は再検討を要する重要な取り組みである。にもかかわらず「コンダクション」について日本語で読める文献は少ない。だからこそ、その数少ない論稿に記述されている「コンダクション」に関する致命的な誤解は指摘しておかなければならない。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」の実践を体験することができなくなった以上、今後、この国で「コンダクション」について思考する者が同じ過ちに陥らないように。

 この論稿で大澤は、「コンダクション」における指揮者を、彼お得意の第三者の審級、ここでは超越的な第三者の核心部に露呈する〈他者〉として位置づける。彼によれば西洋音楽における指揮者とは表現の可能性を支持する超越性を経験の内在性の水準から切り離し純化した存在であり、指揮者への従属を通じて、散乱する多様な演奏や歌が統一的な作品として現れることができる。続けて彼は「コンダクション」についてこう指摘する。「ところがコンダクションにおいては指揮者はこのような積極的な役割を何も演じない。(中略)演奏者にとって指揮者の意味は、それが演じる何か積極的に(ママ)行為の内にあるのではなく、ただその場に顕現しているということの内にある。ただ〈他者〉として直面しているという事実が、作品の統一的な構造を指定する超越性を、自然に生成してしまうのである。」

 この立論は「『コンダクション』において指揮者は、西洋古典音楽の指揮者以上に演奏に対して関りを持たない」という明らかな誤解に基づいている。今回再録したレヴューが示しているように、モリスは「コンダクション」に参加した演奏者たちに指示し、サウンドを切り替え、徐々に変化させ、コピー&ペーストし、一瞬のうちに塗り替える等、即興演奏そのものをリアルタイムで編集するという極めて積極的な役割を果たしている。時には暴君にも近いやり方で。むしろ「コンダクション」における指揮者は、大澤の理解とは真逆に、西洋古典音楽の指揮者以上の権能を有しているのだ。それゆえ大澤の分析は「コンダクション」にまったく当てはまらない。

 作曲作品=楽譜という発する音をあらかじめ規定しているテクスト/エクリチュールが存在するがゆえに「作曲者の意図の代行者」として現れてしまう西洋古典音楽の指揮者に対し、そうした先行規定の存在しない即興演奏に着目したのだろうが、ここで大澤は「コンダクション」を、そして即興演奏を、あまりに自らの立論にとって都合の良いモデルとしてとらえ過ぎている。


    

余白の重ね合わせ − 「タダマス8」レヴュー(補足2)  Layer of Blanks − Review for “TADA-MASU 8” (supplement 2)

  1. 2013/02/06(水) 21:05:02|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 前々回の「タダマス8」レヴューの補足の補足ということで、レイヤー指向に基づく「余白の重ね合わせ」等について少し述べておきたい。


1.余白の重ね合わせ

 通常のオブジェクト指向によるサウンド・コラージュでは、楽器音であれ、ヴォイスであれ、物音であれ、そこで対象としてとらえられている音が貼り合わされる。対称に付随している音や背景に潜んでいる音は無視されるか、あるいはできるだけ消去される。すなわち可能な限りそうした「対象の輪郭をはみ出した音」の存在しないシークェンスを採用するか、あるいはイコライザー処理等により余分な音を消去/希薄化する。これはグラフィックなコラージュにおいて、目的の図像を輪郭に沿って切り抜いたり、他の図像や背景を塗りつぶしたり(マックス・エルンスト「主の寝室」参照)することに等しい。コラージュの台紙は、別途、平坦で一様な白紙や背景の切抜きが用いられる。サウンド・コラージュでは沈黙か、あらかじめ用意したBGMや環境音等がこの役割を果たすことになる。

 レイヤー指向の重ね合わせにおいては、対象となる音の「図像」部分だけでなく、「余白」に含まれる付随音や背景音もまた注目される。「タダマス8」の席上でホストのひとりである多田雅範が「最近こんなものを聴いている」と言って、鉄道路線の実況録音CDをかけた。多くの録音は列車の車内/車外で聴かれる走行音や駅のアナウンス、沿線の音風景等であるようだが、ここで多田が選んだのは到着予定駅や次の駅への到着を告げる車内アナウンスを編集したトラックだった。アナウンスを担当しているのは同じ車掌なのだろうが、背景となる列車の走行音の違いにより幾分声音が変化して聴こえる。また、周囲の環境音や乗客の話し声がふと通り過ぎる。車内アナウンスだけに着目して抜粋編集していることが、かえって音背景の唐突な切り替わりや予想だにしない音の侵入/通過をもたらし、その結果、おそらくは制作者の意図とは別に、思いがけず秀逸なサウンド・コラージュ足りえていた。

 いま触れたのは意図しない「余白の重ね合わせ」の結果だが、そうしたレイヤー指向の空間構築を意図的に展開しているアーティストの代表がフランシスコ・ロペスである。彼は「何もない」空間にマイクロフォンを向ける。そばだてられた機械の耳が照らし出すがらんとした空っぽの部屋。壁に遮られてほとんど聴こえない外部の物音。建物の微かな軋み。平行な壁面の間に生じる定在波や滞留音。温度の不均衡がもたらす対流ノイズ。あるいは付近を走る地下鉄の連れてくる輪郭の不確かなもやもやとした超低域の揺らぎ。これら暗騒音=バックグラウンド・ノイズとひとくくりに呼ばれるざわめきは、いま見たように雑多な成分を含んだ本来的に複数的/多元的なものである。マイクロフォンの感度を限界まで高めれば、沈黙を満たすざわめきはざらついた金属質の輝きへと姿を変え、不穏さで耳を傷つけることだろう。
 こうした録音を再生すると、そこには何の対象も存在しないにもかかわらず、広がりや深さが触知され、パースペクティヴが浮かび上がり、空っぽな空間それ自体が姿を現す。月のない暗い夜道で彼方にぽつんと灯りが見えるように、「ああ、あそこには空間がある」という確かな手触りが感じられる。それは前方に小さく浮かぶこともあれば、身体を包み込むように立ち上がることもある。いずれにしても録音が再生されている現実の空間(聴き手の身体が存在している空間)とは別のパースベクティヴを有し(フレームは必然的に多重化される)、時には現実空間に存在する壁面を取り払ったように広大なイメージを結ぶことすらある。
 そこに作動する巨大な機械が眼前を圧して現れる。放たれる轟音は虚空へと吸い込まれ、周囲の空間は天窓から射し込む光に沿ってはるか上方に焦点を結ぶ。空間/パースペクティヴは多重化され、時に入れ子状となり、時に垂直に交わり、時に同じ軸線上に重ねあわされて強迫性を極限まで高める。

 ガスター・デル・ソルで活動し、ファウスト『リエン』のミックスを担当した頃のジム・オルークもまた、そうした空間編集マイスターのひとりだった。
 彼の場合には、形象はみな脆くて移ろいやすく、その輪郭はさらさらと崩れかたちを変えていく銀色の砂粒の集まりや、どろりとした粘性をたたえたゲル状の原形質がたまたま凍りついた束の間のものに過ぎない。一方、空間は、砂粒や原形質の絶え間ない流動として常に変形を繰り返し、揺らぎたゆたい続ける。それは自身パースペクティヴを持たない茫漠とした広がりであり、尽きることなく滾々と湧き出す混じりけのない持続である。彼が多くの作品で「水」をイメージしていたことは、このことと無関係ではあるまい。そこで耳は水没し、溶け広がり、響き/振動と一体となる。
 それゆえ音の眺めはずっと同じようでいて、ふと気がつくと変わっている。媒質のゆるやかなメタモルフォーゼに耳が溶け、流動にゆっくりと運ばれて、そこから切り離され目覚めた瞬間に風景が構成される。移り変わる夢の継ぎ目は曖昧でよくわからない。

  
マックス・エルンスト「主の寝室」 左掲作品の素材となった図像集

 
2.Nurse with Wound 関係参照先

 前回の補足として音源等の参照先を掲げておく。前回掲げた6作品のうち、第1作〜第5作はbandcampで試聴・購入できる。

Chance Meeting on a Dissecting Table of a Sewing Machine and an Umbrella
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/chance-meeting-on-a-dissecting-table-of-a-sewing-machine-and-an-umbrella

To the Quiet Men from a Tiny Girl
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/to-the-quiet-men-from-a-tiny-girl

Merzbild Schwet
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/merzbild-schwet

Insect and Individual Silence
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/insect-and-individual-silence

Homotopie to Marie
http://nursewithwound1.bandcamp.com/album/homotopy-to-marie

The Sylvie and Babs Hi-Fi Companionについては以下を参照していただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=pbVr8ievW-0
http://www.youtube.com/watch?v=N2254QQS9Ho

Nurse with Wound Listについては以下を参照していただきたい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nurse_with_Wound_list



写真:多田雅範
Niseko-Rossy Pi-Pikoe Reviewより転載

ポップ再構築への視点(補足)− Nurse with wound ノイズ・ミュージックのサンプルとしてではなく  A View Point for Reconstruction of Pop Music(Supplement) − Nurse with Wound;Not As a Sample of Noise Music

  1. 2013/02/03(日) 21:43:58|
  2. ディスク・レヴュー|
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1 初期NWWの可能性 ノイズ・ミュージックのサンプルとしてではなく
 当時(あるいは今でも)、Nurse with Woundはノイズ・ミュージックの周縁としてとらえられているようだ。このことは『銀星倶楽部』ノイズ特集号に彼らが紹介されていることからも知られよう。
 現在まで続くノイズ・ミュージックの流れにおいて、そのコアと目される部分は「絶叫とハーシュ・ノイズの過剰な放出」というヘビメタ並みの陳腐極まりない様式音楽へと退落しているが、初期の彼らはまったく違っていた。彼らは様式性に走らず、またThrobbing Giristle(後のPsychic TV)やSPKのように社会学的/文化人類学的な儀式性にも傾くことなく、偏執的な音響構築に耽溺し続けた。その背後には、彼らがそれまで聴き込んできた異端/変態音楽の膨大な集積がある(その一部は「NWWリスト」として知られている)。この点で彼らの実践をリスナーシップの優越を超えた、そのほとんど病状的な肥大と位置づけることができるだろう。
また、彼らの音楽はハードディスク録音普及以前としては信じられないほど整地な音響編集の産物である。そこでは音自体だけではなく、残響や音像の加工、アナログな歪みやフィードバックによる曖昧化、腐食処理等が何重にも施され、不定形にただれ溶解した音響が浮き沈みする余白/沈黙部分を、ぞっとするほど暗く、また底が知れないほど深いものとしている。そこに彼らが標榜するシュルレアリスムの末裔としての姿(父祖の偉大さを遠く離れ、精神分析の闇に迷い込んでしまっているが)を見出すことも可能かもしれない。いずれにしてもそこではポスト・プロダクションの過程が腫瘍のように増殖し、音楽産出に関するすべてを呑み込んでしまっている(ほぼ同時期に活動を開始したThis Heatが即興演奏のプロセスを練り込み、ポスト・プロダクションからプリ・プロダクションに至るループを構築したのと比べてみること)
 初期の彼らの周辺にはCoilやCurrent 93がいたし、音響構築におけるサウンドの類縁性は初期Nocturnal EmissionsやLaughing Hands、Hafler Trio、P16.D4(及び前身のP.D.)、Strafe Fur Ribellion、後のHirsche Nicht Aufs Sofa、Mirror等にも見出せるかもしれない。だがその精密極まりない音響加工がどこまでもビザールでフェティッシュな精神の闇に捧げられ、バタイユ的な不定形性へと向かい続ける点で、初期の彼らは後の彼ら(あるいはStapleton)自身にも届かない孤高の存在のように思われてならない。


2 初期NWWの音響構築

 Steve Stapletonは録音の機会を手に入れ、彼と同様にジャーマン・ロックを愛好していた友人を誘ってスタジオ入りする。この時点では彼らはまだバンドの形態をしており(といっても通常のリズム・セクションを有していないが)、作品の内容について何の構想も持っていなかった。その結果、第1作に収められた音は、掻きむしられ、ささくれ引きつり、あるいはうねうねと尾をくねらせる金属質の神経症的ギターの重ね合わせを基本としており、それがやがてスペーシーに変貌していくあたりに、後の彼らの姿が認められる。タイトル『Chance Meeting on a Dissecting Table of a Sewing Machine and an Umbrella』は言わずと知れたロートレアモン『マルドロールの唄』からの引用だが、彼らとシュルレアリスムのつながりを示すというより、むしろジャケットにおいてStapletonによるSM的なグラフィック・イメージがすでに確立されていることとの落差においてとらえたい。

 1979年に第1作を500枚限定で自身が設立した自主レーベルUnited Dairiesからリリースした彼らは、2作目の制作に取りかかる。『To the Quiet Men from the Tiny Girl』と題されたこの作品では、前作でサウンドの基軸を成していたエレクトリック・ギターの交錯は、ひとつの場面あるいはエピソードを構成するに過ぎなくなり、金属を擦り合わせ打ち合わせる音が空間を開き、突如として数人の話し声が流れ出し、耳障りな高周波が響き、チープな電子音やテープ加工されたヴォイス(まるで嘔吐するような怪物化された呻き声)やフリーキーなサックスのブロウイングといったアナクロなサウンド・イメージが前景化してくる。
 特にJac Berrocalを迎えたB面「Ostranenie」(ロシア語で「異化」を意味する)では、テープ・ミュージック的手法が全面化される。Berrocalのくぐもったトランペットが低空をたなびく中、チベット密教的な金属打楽器等の音の層が水平に重ねられ、音像が移動し、ピッチが揺らぎ、サウンドが寸断され、多種多様なヴォイス素材が貼り合わされる。ギターの余韻が本体から切り離して配置され、キリキリしたねじ巻き音と共に張りつめたオルゴールの音色がクローズアップされ、それに加工された笑い声がかぶさるあたりは、これまでかろうじて前提となってきたスタジオ・セッション的なライヴ空間がすでに消失してしまっていることを明らかにしている。

 2作目と同時に1980年にリリースされることになる3作目『Merzbild Schwet』の片面全部を占める「Dada X」では、酩酊したテナーと引きずるようなビートに高速振動するギターや腺病質のオルガンが配合され、こうして出来上がったどろどろのアマルガムにさらに日本の歌謡曲(!?)の恨み節(台詞や笑い声を含む)が何重にも重ねられる。これに続く胆汁質のどす黒い電子音や、フリーなピアノ演奏とブザーのような音色の組合せ等、この後ますます明らかになる彼らの(というよりはStapletonの)ビザール趣味が見事に確立されている。
 一方、反対面を占める「Futurismo」では、サックスの遠吠え、ピアノの余韻、シンバルの高鳴り等がレイヤー状に操作/構築される。あえてここで初めて「レイヤー」の語を用いるのは、これらのサウンドが間を空けて配置され、その間の余白/沈黙と目される部分がうっすらとさざめくように蠕動し、表情を変えながらひたひたと満ちてくるからである。明らかにここでは、前回指摘した、音自体ではなく、それが響く空間の重ね合わせ、オブジェクト指向ではなくレイヤー指向の音響操作が行われている。そのことは挿入されるトーキング・ヴォイスの断片が偏執狂的に異なるエコー処理を施されていることからも看て取れる。彼らはどこまでも白く平坦な台紙の上にサウンドをコラージュしていくのではなく、基層自体を切り刻んで、その音が響き広がり滲む多種多様な質の空間をモザイク状に構築する視点をすでに手に入れているのだ。

 この後、Nurse with WoundはStapletonの単身プロジェクトであることを明確にし、4作目『Insect & Individual Silence』(1981年)、5作目『Homotopie to Marie』(1982年)とその歩みを進めていく。前者は連打されるエスニックなパーカッションやブラシによるドラム演奏に、様々な既成音楽やトーキング・ヴォイス、接触不良ノイズ等の断片が空間恐怖的にせわしなくコラージュされる電子音楽的展開。ソロ・プロジェクトとなり演奏の次元をあからさまに欠いたことで、フェティッシュの対象がサウンドそれ自体よりも切り刻み貼り合わせる手つき、すなわち彼にとっての演奏であるテープ編集のマニエリスムへと移行しているのが感じられる。一方、後者ではケチャや韓国巫楽らしき断片が聴かれ、それに瞑想的な金属打楽器や映画から採られたとおぼしきヴォイスの断片が重ねられる。音響操作は静謐を極め、切り刻み、あるいは歪め変形させるよりも、深淵を覗き込みながら化学的な変容や浸透の成果をじっと待ち続ける。たとえば虫の音を思わせるざらついた電子音に真夜中のブランコのような軋みが加えられ、虚ろなコーラスをゆっくりと溶かしていく場面。

 これ以降の作品でもうひとつ触れておかねばならないのが、ダブル・ジャケットの豪華な装釘で1985年にリリースされた『The Sylvie and Babs Hi-Fi Companion』である。モノクロの時代がかったジャケットを開くと、フランク・ザッパの作品で知られるカル・シェンケルを思わせる毒々しい極彩色のコラージュ・ワークが姿を現す。甘く儚いポップスの断片だけで構築された本作は、前述の4作目・5作目で民族音楽、中世音楽、電子音楽等による硬質な構築を試みたStapletonが、3作目の「Dada X」で見られたような卑俗な猥雑さを決して手放していないことを如実に物語っている。と同時に彼のコラージュ・ワークの基礎にあるのが、職人的なマニエリスムと束の間の快楽をむさぼる貪欲な耳の緊張関係であることがわかる。強靭な二つの力に引き裂かれて音は熱にうかされた悪夢の軌跡を描く。彼のビザールな美学とシュルレアリスムが関係を持つとしたら、むしろシュルレアリスム映画が追求したこの領域においてではないか。音の手触りや味覚が暗示するイマジナリーな線に沿って、空間が接合されサウンドを切断し、響きは変容を繰り返しながら、甘美な毒を滴るほどに分泌して止まない。

  
 『Chance Meeting on ‥』    『To the Quiet Men ‥』      『Merzbild Schwet』

  
『Insect & Individual Silence』   『Homotopie to Marie』    『The Sylvie and Babs ‥』

ポップ・ミュージック再構築への視点 − 「タダマス8」レヴュー  A View Point for Reconstruction of Pop Music − Review for "TADA-MASU 8"

  1. 2013/02/02(土) 22:31:12|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 1月27日(日)、四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記において、第8回四谷音盤茶会(通称「タダマス8」)が開催された。今回のゲストは橋爪亮督グループ等で活躍するベーシスト織原良次。本日の予定は2012年第四四半期の10枚と年間ベスト10の発表。
 ここではいつもの通り、私が触発された部分を中心にレヴューしたい。そのため当日の模様を偏りなく伝えるリポートではないことをあらかじめお断りしておく。なお、当日プレイされた音源については、*1を参照していただきたい。また、当日の模様についてはホストのひとりである多田がすでに自身のブログに振り返りを掲載している(*2)。こちらもぜひ参照していただきたい。
*1 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767
*2 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130130


1 第四四半期の10枚

 珍しく女性ヴォーカル作品で幕を開けた前半は、耳に優しく楽しく心地よいが、何かひっかかりのないまま進んでしまった。しかし、その分、「第四四半期の10枚」後半は聴きどころ満載。その5枚を順に見ていこう。

 まずはJeremy Udden『Folk Art』。益子が「Paul Desmond的」と紹介したUddenのアルト・サックスはなるほど息を多く含んで空間に滲みを広げていくサウンド。これを「バンジョー界のスティーヴ・ヴァイ」ことBrandon Seabrookの弓弾きバンジョーが斜めに横切っていく。ゲストの織原がコメントを求められて、各演奏者が「面で進んでいく」そのグループ・アンサンブルの技量の高さを賞賛していたが、確かにアルトにしても、バンジョーにしても、空間に浸透して空気に濃度/粘度を与えながら広がりをつくりだしていくサウンドは、互いの間に高い摩擦/軋轢を生み出し、アンサンブルはこの触れ合いを通じて進められているように感じられた。






 続いてはキューバ出身のDavid Virelles『Continuum』。Andrew Cyrille(dr)とRoman Diaz(perc)が生み出す散発/拡散的な暗くゆったりとした広がりのうちに、Virellesのピアノが深く深く沈み込み、時折オルガンによるドローンが月に照らされたように青白く浮かび上がる。2曲目にかけられた短い「Unssen Mother」の次第に音の間を空けながら踏み外すように沈んでいく仕方は、どこかPaul Bleyを思わせるところがある。そのPaul Bleyトリオのメンバーを長く務めたCYrilleについて益子が「最近、NYシーンで非常に評価が高く、引っ張りだこになっている」と語っていたのが興味深かった。






 その次にかけられたGiovanni di Domenico/Arve Henriksen/Tatsuhisa Yamamoto『Distare Sonanti』も同質の夢幻的な空間の重さを有しているように感じられた。散らかすような金属音が冷たく響き渡り、満たされた暗く重い水をHenriksenのチベット的なトランペットがゆっくりと押していくと、どこからか水音が聴こえてくる。di Domenicoのクレジットにelectronicsに加えeditingと記されているように、音色/響きを重視したかつてのNurse with Wound的なサウンド・コラージュに聴こえる。その点で「(遊園地の)アトラクションに乗せられたような感じがする」という多田の指摘は相変わらず鋭い。「ジャズ」が通常基本としているライヴなセッションを通じてつくりあげるプロダクション感覚とは明らかに異なる、ポスト・プロダクション感覚に満ちた作品と言えるだろう。






 その点で、益子、多田、織原が激賞し、アフターアワーズでも好評だったというRafiq Bhatia『Yes It Will』にはいささか疑問を感じた。ビートを中心にいじりまくり直列で唐突に切り替わっていくリズム・トラックと粘っこく引きずるギター&ベースの対比に、突如としてストリングスがカットアップされる構成は確かに見事なものなのだが、ここまで来ると最初からコラージュを志していた者たち(たとえば前述のNurse with Woundsがその代表であるだろう)
にどうしても一日の長があるように思うのだ。






 「第四四半期の10枚」の最後はMarc Ducre『Tower,Vol.4』。この盤は以前に月光茶房でさわりを聴かせてもらったことがある。多田や益子も同席していたその場では、頭上高くに設置されたスピーカーからの音だったが、今回、スピーカーと向かい合って聴き、Ducreの演奏の凄さに改めて息を呑んだ。おそらくはスライド・ギター奏法を拡張的に用いて、音程をスリップさせた音が空間を斜めに横切りながら鋭く切り裂いていく。だがそこに過剰なテンションはない。アコースティック・ギターはそれが生得の音色であるかのように力むことなく響き渡り、彼方に聴こえる小鳥の声にまったく違和感なく溶けていく。金属質の濡れたような潤いをたたえた音は典雅ですらあり、東南アジアの見知らぬ宮廷民族楽器(ヴェトナムの一弦琴ダン・バウを多弦化したような)
を聴いているような気分になる。







2 ポップ・ミュージックの再構築

 この日発表された益子・多田選定による2012年度ベスト10は次の通り。
 1.Henry Thredgill Zooid『Tomorrow Sunny/The Revelry,Spp』
 2.Rafiq Bahtia『Yes It Will』
 3.橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』
 4.Jeremy Udden『Folk Art』
 5.Eivind Opsvik『Overseas IV』
 6.Thomas Fujiwara & The Hook Up『The Air Is Different』
 7.Tim Berne『Snakeoil』
 8.Masabumi Kikuchi Trio『Sunrise』
 9.Colin Stetson『New History Warfare Vol.2』
 10.Becca Stevens Band『Weightless』

 この選定結果について何より興味深かったのは、2〜6位のラインナップを指して、益子が「ポップの再構築という感じがする」と発言し、これを受けて織原が「ひとりで音楽を作れるようになって、音楽のとらえ方が変わってきている」と応じたやりとりである。多田が「スレッギルの1位で我々の矜持を示し、ECMからのティム・バーン、菊地雅章という間違いのないところをあえて7・8位に置いて、その間に注目させるようにした」
と補足していたことからも、この2〜6位が今回の肝であることがわかる。

 ここで指摘されている傾向は、画像加工ソフトであるPhotoshopの操作等で用いられる「レイヤー」という語に象徴される感性のあり方ではないだろうか。他のポップ・ミュージックではもはや当たり前のことであり、エレクトロニカ等ではそもそもジャンル発生の前提ですらあるこうした感性が、なぜいまジャズの先端で問題になるかといえば、やはりジャズが演奏のライヴな現場に軸足を置いた集団創造の音楽であることが理由として挙げられるだろう。いま/ここ=演奏の場でつくりあげられる音楽。ここには即興性の問題も当然関わってくる。即興演奏が他の演奏者との相互触発や場との関係によって生成される一回限りのものであるとすれば、録音にできるのはせいぜいそれをあるがままに記録することであり、その一部を切り取り、あるいは貼り合わせることはできない。そんなことをすれば即興性が不純なものになってしまうからだ(だからこそマイルス・デイヴィス『イン・ア・サイレント・ウェイ』の編集は革命的だった)。
 一方で本来的に編集/加工の音楽であるヒップホップが、既存の音源を切り貼りするというポスト・プロダクションとしかいいようのない操作をしていながら、それでもライヴな場でリアルタイムのターンテーブル演奏にこだわるのは、それがジャズ同様「場の音楽」であるからだろう。

 もちろんここで言いたいのは「ジャズもようやくミックスに目覚めた」というようなことではない。ポスト・プロダクションが一般化し、サンプリング機能を含めた編集ソフトが普及して、織原の指摘するように「ひとりで音楽をつくれるようになって」、明らかに音に対する感性に変化が生じていることである。それはポスト・プロダクション的視点がプロダクション(演奏やサウンド制作、あるいはサンプリング等)やプリ・プロダクション(作曲や構成・編成、作品コンセプト等)へと滲みだしていく過程として、あるいはサウンドのとらえ方の楽器(群)単位のオブジェクト指向からレイヤー指向への変化として、さらにミュージシャンシップ優位からリスナーシップ優位への転換としてとらえることができるのではないだろうか。
 たとえば3位に選ばれた橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』(以前に本ブログでもレヴューした)を見てみよう。本作品では響きの広がる空間を重視し、アンサンブル主体の演奏でありながら余白を効果的に活かした演奏/アレンジメントが特徴として挙げられるが、これは弾き過ぎを抑制し響きを触知する耳の感性(リスナーシップ)の優先、音自体にとどまらず、響きの広がる空間、音の滲む余白を重ね合わせるレイヤー指向が生み出したものと言える。
 橋爪の作品はよく「ECM的」と形容されるが、実は益子・多田による四谷音盤茶会でかかる作品には、ECM的な空間の現出を感じることが多い。これはECMレーベルが先ら指摘した変化を先取りしていたためにほかなるまい。マンフレート・アイヒャーは他のポップ・ミュージックに比べ卓越したミュージシャンシップが当然とされていたジャズの世界に研ぎすまされたリスナーシップを持ち込み、響きを溶け合わせて楽器と楽器の間の空間に風景を描き出し、空間構築をこれに先立つと考えられていた作曲やミュージシャンの組合せへと波及させた。

 エレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーションも、フィールドレコーディングが織り成すサウンドスケープも、先に挙げた変化の先に開けた世界だ。これらの音楽と益子や多田が聴き進めるNYの先端ジャズは、言わば同じところに向けて様々な方向から穴を掘り進んでいるととらえることができよう。
 その先行者はもちろんECMだけではない。アート・アンサンブル・オヴ・シカゴやアンソニー・ブラクストンによる一連のパリ録音、スティーヴ・レイシー『ラピス』等の名前を直ちに付け加えることができる。むしろこれら60年代末から70年代初めにかけての「ポスト・フリー」と呼ぶべき断層期の多様な実践の一環として初期ECMの諸作品を位置づけられることは、慧眼にもすでに清水俊彦が指摘していることだ(「ポスト・フリーのパラダイムをきりひらく二人の先導者」 青土社『ジャズ・アヴァンギャルド』所収)。

 次回は今回の補足として、「ポスト・フリー」期と同様に多様な実践が交錯し、数多くの実験がそのまま振り返られることもなく打ち捨てられたままとなっている70年代末から80年代初めにかけて走る断層から、Nurse with Woundの作品を採りあげることとしたい。


2012年ベスト1に選ばれた
Henry Thredgill Zooid
『Tomorrow Sunny/The Revelry,Spp』
これは文句なく素晴らしい!

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