容量2GB!アクセス解析&動画ファイルも可能な無料ブログ。アフィリエイト完全対応。
  最新画像一覧   /    おもしろブログが満載! シャッフル ブログ  /     無料登録  

「ジョン・ケージ・ショック」その後  "John Cage Shock" and After

  1. 2013/01/30(水) 22:17:15|
  2. ディスク・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 昨年はジョン・ケージ生誕100年ということで、これを祝うイヴェントが数多く開催された。そのうち私自身が実際に見聞きできたものはごく一部に限られ、CD等の復刻/発掘録音物や雑誌の特集記事等のテクストのみなのだが、そこに感じたある種の「違和感」について書いてみたい。


1 好々爺ケージ?

 『ユリイカ』2012年10月号「特集ジョン・ケージ 鳴り続ける〈音〉」の表紙写真は、「破顔哄笑するケージのよく知られた写真をプリントしたTシャツ」を着たケージ‥という重層的なものとなっている。彼は静かな微笑みをたたえており、そんな大笑いをさらした過去も、そうした写真を大きくプリントしたTシャツを制作するあざとい企画も、さらにそのTシャツをケージ本人に着せて写真を撮ろうといういささかブラックなヒューモアも、すべて心広く受け入れているように見える。ここに収められた各論稿も、この「微笑みに満ちたケージ」のイメージを覆すものではない。森に遊びキノコを採集したケージ、易経にすべてを委ねコインを投げ続けたケージ、試みの結果を常に許容したケージ‥‥。わずかに小野洋子の作品が掲げる簡素なインストラクションとの対比でケージと伝統とのつながり(彼の吹っ切れなさ)を指摘する論があるくらいだ。それも混乱するパフォーマンスの中心に人々が見出すケージの「ビッグ・スマイル」(高橋アキ)や献辞の「ケージ」の綴りを間違えてもそれを受け入れたケージ(坂本龍一)といったなごやかな思い出に埋もれてしまう。彼/彼女らはみな静かな笑みをたたえすべてを許し受け入れる寛大な「祖父」であるケージに甘える孫たちのようだ。そこに「父」との関係がはらむ緊張や対立を見出すことはできない。どこまでもぬくぬくと暖かい回想だけがある。

 調性の重力を逃れた軽やかな音たちを、息もできないほど雁字搦めの十二音技法やトータル・セリエルの網に捕えるのではなく、にこにこと微笑みさざめく遊戯へと解き放つこと。朝の光に祝福された小鳥たちの羽ばたき。河原で拾った様々な形をしたきれいな小石のコレクション。丸みを帯びたヒューモアに彩られたキノコの音楽。
 だが、そうした争いや暴力と無縁な音の「静か」な佇まいは、ケージのほんの一側面に限定した見方ではないのか。

 プリペアド・ピアノから湧き出すそれぞれに異なる風変わりな形の音たちは、響きが互いに衝突しあう苛烈な戦争状態の産物であり、いわばピアノの「音の身体」の引きちぎられた断片にほかならない。美しく彩色された図形楽譜は初演者デヴィッド・チュードアに厳密な測定と規則づくりを要求し、ブラックマウンテンにおける同時多発的なパフォーマンスや「4分33秒」初演会場を満たしたざわめきは、そこに居合わせた者たちを激しく揺さぶり、当惑で刺し貫いたのではなかったか。

  『ユリイカ』ケージ特集号


2 『ジョン・ケージ・ショック vol.1〜3』

 今回「オメガポイント」からリリースされたジョン・ケージとデヴィッド・チュードアの初来日公演(1962年)を収めた3枚のCDを聴いてみよう。1枚目冒頭に収められているのは高橋悠治とチュードアのピアノ・デュオによる武満徹「ピアニストのためのコロナ」。このキーボードのための図形楽譜作品については、ロジャー・ウッドワードやジム・オルークの一人多重録音による演奏を聴くことができるが、それらが持っている空間を遍く満たす広がり(前者においては敷き重ねられたピアノが、後者においてはオルガンのドローンが担う)は、ここにはない。鍵盤を力強く蹴立てるアタック。射抜くような鋭い立ち上がり。引き絞られる弦のうなり/軋み。沈黙はぴりぴりと励起され、人を寄せ付けぬ張りつめた気配を発し、音は前後を鋭く断ち切られて、いまこの瞬間に即物的強度をもって屹立する。グループ化された音群のちらつきさえもが、砕け散る鍵盤の軌跡に沿ってまちまちの方向に散乱する。ここにあるのは曲題「コロナ」が暗示する希薄な広がりではなく、むしろ持続を欠いて凶暴に噴き上がり渦巻く「フレア」や「プロミネンス」にほかなるまい。それは私たちが通常「武満」の名から思い浮かべる響きとは程遠く、彼の処女作「二つのレント」を山根銀二が評した「音楽以前」の不気味さをさらけ出しているように思われる。

 そのことはチュードアによるピアノの響きが、次に収録されたクリスチャン・ウォルフ「ピアニストとヴァイオリニストのためのデュオ」に違和感なく連続していくことによっても証し立てられている。「一方の演奏者は田野演奏者から次の音を聞き取るまで音を出し続けること」等、幾つかのルールによって構造化された演奏は、唐突に断ち切られ、あるいは限界まで引き延ばされる張りつめた音を通じて、遊戯の残酷極まりない一側面を引き出してみせる。マイクロフォンの冷徹な視線が、空間に黒々とわだかまる超低域の暗騒音の影を浮かび上がらせていることも見逃すべきではない。
 一方、2枚目冒頭からいきなり音が全速力で駆け巡るカールハインツ・シュトックハウゼン「クラヴィアシュトゥック(ピアノ曲)X」は明らかに異なる音の様相を呈している。「できる限り速く」等の演奏指示はトータル・セリエルな建築性よりも、様々な音の流動状態の立体交差的なコンバインをもたらす。次から次へと押し寄せ、聴き手に襲いかかる音の波浪/激流は、だが垂直に切り立った打撃による痛いほどの粒立ち(硬質な輪郭を備えた粒子性)を片時も失わない。この日が世界初演であったというこの曲は、ケージやウォルフの作品とはまた別の角度から、聴衆の耳を打ちのめし圧倒したことだろう。

 こうした流れは1枚目の後半を占める「ヴァリエーションズII」でひとつの頂点を極める。ケージとチュードアの二人がグランド・ピアノから容赦なく引き出す様々な軋みは極端にアンプリファイされ、壁を揺るがすエレクトロニックな轟音へと姿を変える。ねじ切られた金属の断面を思わせるギザギザとささくれた輝き。響板をばりばりと引き剥がし、鍵盤を打ち壊し、鋼線を切断しあるいは引きちぎる‥‥。端的にピアノを破壊しているとしか思えない壮絶な悲鳴が間歇的に響き渡る。と同時に繰り返し轟音に断ち切られる沈黙が、極限まで感度を高められたマイクロフォンの前に、超高電圧に励磁された灼けるような臭いと一触即発の不穏さをたたえ、ざらざらと触知し得るマテリアルな存在として姿を現していることに注意しよう。聴き手はこの迫真性に満ちた無言の圧力に終始脅かされ続けることになる。

 沈黙は、3枚目の冒頭に収められたケージ自身の「演奏」による「0分00秒」でまた別の角度から焦点を当てられる。「日常的な動作を可能な限りアンプリファイせよ」という簡潔な指示のみで成り立っているこの作品は、ふだん意識することのない日常の一部分、意図せざる音に満ち満ちた余白部分を顕微鏡的にクローズアップすることにより、聴衆をそれと向き合わせる点で「4分33秒」の続編と目されるものだ。
 極端に電気増幅され耳に痛い打撃音や摩擦音は常に間歇的で、音を生み出しているケージによる日常動作が至極淡々と進められているためだろう、音が積み重ならず、高揚したカタストロフに至ることがまったくない。それゆえ「聴き慣れる」こともできない。その後に現れた、これよりもはるかにやかましい超大音量のハーシュ・ノイズを放出する一群が、過剰な情念をはらみ、ショー・アップされたクライマックスを含むことで、たやすく消費に回収されてしまう(耳に心地よい「快感ノイズ」として)こととの残酷な対比。
 「0分00秒」は「聴け」というインストラクションにより聴き手の主体的な能動性を引き出すのではなく、客席に縛り付けられた聴衆に襲いかかり、有無を言わさず耳をなぶり蹂躙する。聴衆が舞台上で繰り広げられる得体の知れない(しかし日常的には見慣れた)パフォーマンスと、それとは明らかに断絶/隔絶した聞き覚えのない異様な音(の組合せ)に圧倒されていたことは、客席から2回ほど起こる笑いの様相に看て取れる。聴衆が個々で改めて注目を余儀なくされた生活の細部を、一定の距離を確保して対象化し、「余裕」を持って見る/聴くことができたならば、そこに洗われる日常と非日常の喜劇的な乖離に、終始くすくす笑いを漏らしていても構わないはずだ。しかしそうはならない。聴衆たちは互いに顔を見合わせる余裕すらないのだろう。笑いは付和雷同的に力なく起こり、ほっと一息ついただけですぐに静まってしまう。
 おそらくは各事物の表面に装着されたコンタクト・マイクロフォンで音を拾っているためだろう、増幅された物音の背後に広がる空間のざわめきは、「ヴァリエーションズII」の方がはるかにギラギラと強迫的である。沈黙の一部を選択的に前景化することと、サウンドに不可分にまとわりつく沈黙がいっしょに前景化してしまうことの違いが、ここには横たわっている。
  
  『John Cage Shock vol.1』  『John Cage Shock vol.2』   『John Cage Shock vol.3』

※各作品内容については、オメガポイントのHPをご参照ください。
http://omega-point.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=1339467&csid=0&sort=n


3 忘却過程

 ここに収められた音は有無を言わさず聴く者に襲いかかる。対象化のために必要な距離の確保を許さず、冷ややかに空間を切り裂き、見たことのない高さにまでそそり立ち、鋼鉄とガラスの響きで時間の流れを縛り上げる。多くの初演作品を含むプログラムが日本の聴衆に与えたのは、西欧現代音楽最前衛の響きというより、いきなり横面を張り飛ばされ、鳩尾に蹴りを入れられて眼が眩み、吐き気がこみ上げる「当惑」にほかならなかったのではあるまいか。
 これらの音がここ日本で放たれてから50年が経過していることに、改めて驚かされる。これだけ強靭な音の残響が、冒頭で触れた『ユリイカ』ジョン・ケージ特集号に、いや他の紙面やあるいはネット上で遭遇する他のケージを巡る言説にまったく聴き取れないことに、眩暈にも似た感慨を覚えずにはいられない。この50年は「ショック」によって切り裂かれた傷口を癒し、忌まわしい記憶を忘却するための年月ではなかったかと。

 ジョン・ケージ、クリスチャン・ウォルフ、アール・ブラウン、モートン・フェルドマン。「ニューヨーク四人組」と大雑把にくくられる中で、いま最も時代に愛されているのはフェルドマンではないだろうか。一般的な知名度や言及の回数ならケージに軍配が上がるだろうが、ケージへの賛辞にはいつも先の残酷な忘却が前提としてつきまとっている。
 エレクトロ・アコースティックなフリー・インプロヴィゼーション、フィールドレコーディングによるサウンドスケープ等を聴いていると、時折、フェルドマン的な美学にあまりに傾きすぎてはいないかと感じることがある(そういえば評文で「フェルドマネスク」なる形容詞を見かけたことがある)。空気をかき混ぜてしまわないよう、その揺らぎを凝視しながらゆったりと間を空けて並べられる弱音の響き。それらの音は線で結ぶことができず、はらはらと糸が解けこぼれ落ち、ばらばらに沈黙に溶けていく。不純物を含まず、どこまでも透明で、沈黙を満たす微かなざわめきすら静まり返らせる音。

 フェルドマンはジャクソン・ポロックの記録フィルムのための音楽を書いており、そのフィルムをジャクソン・ポロック展会場で観たことがある。水平に置かれた板ガラスの裏側から見上げるキャメラに対し、大胆にポーリングの絵筆を振るうポロック。あるいはせわしなくタバコをふかしながら、アトリエの床に敷き広げたキャンヴァスの縁を経巡りつつ踊るようにポーリングを施すポロック。ハイキーで輪郭が白く飛んだ画面は、鼻をつく塗料の臭いも、傷だらけの床の埃っぽさも、彼の足音や息遣いも、作品制作中に大音量で鳴らしていたというジャズの騒々しさも伝えることなく、フェルドマンのつくりだす透明で冷ややかな響きの浮き沈みとともに、ポロックの動きを抽象的な光の流れ/明滅へと変貌させていった。

 引き延ばされた長大な時間の中で、ゆるゆると結び目を解かれ、次第に透き通り昇華していく音。芯まで燃え尽き、すべて灰となる響き。フェルドマンの沈黙は手触ることができない。彼のつくりだす響きに耳を浸していると、耳の輪郭が蜃気楼のように薄らいで空間に溶けてしまいそうになる。
 Nyダウンタウンで活動するスキンヘッドの多楽器奏者エリオット・シャープは学生時代にフェルドマンの生徒だった。街頭の喧噪を録音したテープとソプラノ・サックスやギターのインプロヴィゼーションを重ね合わせた作品を提出したところ、「社会学的すぎる」と評されたという。
  
    フェルドマンの音をまとって描くポロック      フェルドマンの盟友たちによる2000年の演奏


4 聴くことの多元性

 常に聴くことは多元的である。この多元性はケージが「ロワラトリオ」の制作でジェームズ・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」に登場する様々に種類の物音や世界各地の響きを収集したような、起源の多元性に回収されるものではない(それらの音は混ぜ合わせればたやすく一様な広がりへと姿を変えてしまうだろう。音は常に沈黙のざわめきに汚染され、響きの輪郭は空間に滲みださずにはいない。「沈黙は存在しない」とのケージの宣告を裏返せば、私たちは音だけを聴くことはできない。音は常にいつも、私たちが聴くことを意識し身構える前に耳に届いてしまう。耳は常に不意打ちされるよりない器官なのだ。それゆえ私たちはケージの耳を忘却してはならない。


名古屋スキヴィアス − 『写真亡命論』:虹釜太郎のワンダーランドへのイントロダクションとして  Scivias in Nagoya vol.3 − “Photgraph Asylum Theory” As an Introduction to Taro Nijikama's Wonderland

  1. 2013/01/25(金) 23:54:50|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 だがそれにしても『写真亡命論』とは何と魅力的な、想像力を喚起する表題であることか。それだけで様々なイメージがふくらみ、思考が走り出す。ピレネーの山道を急ぐヴァルター・ベンヤミンの黒いカバンの底には幾葉の写真が収められていたのか。彼の自死後、それらの写真はどうなったのか。国境を越え、後も振り返らずに遠く異郷へと旅立つ時、携えた写真は切り取られた一瞬の現実から、よみがえる記憶の一場面へと生まれかわり、逃れがたいトラウマは甘やかな思い出へと変容し、すりきれてセピア色に褪色してもなお(いやそれゆえにこそ)胸を焦がすノスタルジアの源泉となって、時に人の運命すら左右する。写真が暖かく安らいだ家庭のアルバムに収められている限りは起こらないことだ。ロラン・バルトは晩年の著作『明るい部屋』で、幼き日の母親の写真に「かつてあった」というかけがえのない真実を見出す。そこで彼は、かつて様々な文化/テクストを相手に鋭利なメスを振るった記号論者とは明らかに異なる姿で現れ、いまここから押し留めようもなく逃れだす時間に、あられもなく耽溺している。それはまさに年老いた「亡命者」の視点ではないか。

 虹釜は次のように語り始める。

 《フェイ・リチャーズの写真アーカイヴ》と《トニー・シュワルツのサウンド・アーカイヴ》を同時に参照することで、どんな発見があるか。
 〈移民と写真〉(スーザン・マイセラス)と〈移民と録音〉(トニー・シュワルツ)。

                          【虹釜太郎『写真亡命論』】

 これらの言葉は小野洋子のパフォーマンス・アート作品に示される簡潔なインストラクションのように響く。実際、それらは読み手への呼びかけ、更なる思考へと誘う課題の投げかけなのだ。だが、彼は自らその問いに答えようとはせず、次なる問いへと歩みを進める。

 1 偶然に遭遇する聴き方
 2 断片について触れる聴き方
 3 ある抽象的な概念をみる聴き方
 4 ただ生成と時間をそこに感じる聴き方
 5 断片的で断片化された全体性の生成を感じる聴き方
 6 搾取してきたものを聴く
 7 ある一転に音を配置してあるその全体を聴く
 8 麻痺していくのを前提とする聴き方
 9 無音を聴く
 10 沈黙に向うのだがそこで静かに抽出されるものを静かに観察する聴き方

                                    【同前】

 さらに彼は自ら案出した魅惑的な音楽/音響概念「ディストピアアンビエント」(私もたちまちのうちにそのイマジネーション豊かな可能性に深く魅了された)について語り始める。

 もういまや誰もがディストピアアンビエントを聴かない。
 (中略)それは聴けば聴くほどわかりにくく拡散していく意識化に堆積するアンダーグラウンドリスニングのひとつだ。そこには当然、人間の耳では聴けない世界の音の数々や、人間の目では見ることのできないある微細な生命の代謝の際の光や、かつて地上には存在しなかった元素の予測できない変異を、聴くことは物理的にできなくても聴こうとしてしまう無意識の聴取がある。その無意識に堆積する音をとらえなおす前に、ディストピアアンビエント のリスニングにおいてなぜは人間はいまだに消滅していないのかを考えねばならない。
 (中略)「写真という現実そのものを、私自身の思考と感情で覆う」ということとディストピアアンビエントのリスニングの関係において、一連のPhonography(フォノグラフィー)ムーヴメントの可能性と限界を再確認すること。
 (中略)我々はなぜ現在ここまでも急激にそして激しく「距離」を「横着」し「省略」しようとしているのだろうか。(中略)そして激しく「距離」を「横着」し「省略」しようとしている写真とはいままでどのようなものとしてあり、そのことの「危機」を写真家たちはどのように乗り超えてきたか。

                                    【同前】

 やがて彼は写真と録音との間に自由に線を引きながら思索を遊歩させ、その指差す先には思考のかけらが互いに互いを照らし出すアフォリズムの空間が開かれていく。特に印象深いものを幾つか引用し、それらが描き出す思考の「星座」に耳を澄ますことにしたい。

 野蛮な伐採の御柵のような森林の写真と焼け跡の音楽。一年間同じ場所を撮影し続けることと一年間同じ場所を録音し続けること。雨あがりの路上だけを撮影し続ける行為と雨あがりの音の録音から聴こえる気配。

 移民についての膨大な写真から発見することと移民についての録音群から発見できること。

 情緒不安定な自分を部屋で撮影し続けることと情緒不安定な自分を録音し続けることにおける録音のはじめと終わりの無さ。家族スナップの背後に隠された意味を探ってしまう我々の本能と家族スナップ的なサウンドスケープにあまりに無抵抗な我々。

 悲しみ、中毒、病気にフォーカスした写真の歴史と後悔音楽の歴史。パートナーがかつて生きた痕跡を撮り続けることとパートナーがかつて生きた痕跡を新たに録音するということ。

 排除・根絶・抹消をテーマにした写真研究と排除・根絶・抹消をテーマにした音楽研究。

 どんな場所にも必ず見つかる絵画的性質を長期間にわたってとらえる撮影行為とどんな場所にも必ず見つかる逸話的瞬間をみつけるためにテープレコーダーを長期間にわたって待機させること。

 写真に付随するキャプションと音楽に付随するキャプション。読むということが何かの情報を手に入れることではなく自らの精神と肉体を作り変えることそのものであることについての試行である写真とそれについての「キャプション」と読むということが自らの精神と肉体を作り変えることそのものとしてあるような語りの音楽。

 撮った写真を四角い縁にはめて展示することと作った音の再生場所をある生活空間のある場所に限定すること。

 所持品からわかる移民労働者たちのアイデンティティと記憶と録音された声からわかる移民労働者たちのアイデンティティと実情。

 行方不明者捜索委員会が虐殺された遺体を掘り起こした後の骸骨の背後にひろがる生活観の漂うカーペットの写真と骸骨の背後にひろがる”美しい”風景についての録音。

 破壊された無線設備の写真と破壊されつつある無線設備が出していたはずの音を復元する行為。

 音における「人間以外のコミュニケーション」への注目と「人間以外のコミュニケーション」に注目した写真。バイオロギング・フォトとバイオロギング・レコーディング。

 日常生活の痕跡が人間関係の本質を表すという認識のもとに撮影される写真と街頭録音のモチベーションのバリエーションをさまざまに洗い出し直すこと。
                                   
【同前】

 ひとつひとつが興味をそそり立てる書物の表題や章立てのようであり、終わることのないシンポジウムのテーマ一覧のようであり、何よりも魅惑的な問いの投げかけであり、とりわけ精神と身体の運動を触発する掛け声である。
 これらがある着想/視点の敷衍であり、種子となる思考を芽吹かせ、根を張らせ、枝葉を繁らせたものであることはわかる。だが、このように地面に降り立つことなく思考を浮遊/駆動させ続け、高度を保ちながら推移させ続けることは難しい。仮に5個、10個はできたとしても、20個ともなればそれまでの19個を何度となく読み返し、未踏の領域をあれこれ手探りして、ようやくのことで一歩が踏み出せるかどうかだろう。しかし、虹釜は何十個というアフォリズムを、読み返しが困難な携帯電話だけで書き進めているのだ。何を食べればこういうことができるようになるのか、まったく見当もつかない。

 そういえば虹釜は、以前に食に関するイヴェントも多数企画しており、現在も個人的な探求を続けている。それは薬草酒カクテルの配合(出張「薬草バーテン」として)、世界各地の日常食やソウルフードの研究、食材の掛け合わせ/食べ合わせ実験(特にカレーや丼)を超えて、料理や食材、食事環境等に関するSF/ファンタジー/妄想の執筆に及ぶ。そこで繰り広げられているのは貴族的な美味の探求などではなく、ジョン・ケージによる実験音楽の定義「結果の予知できない行為」に沿った、まさに食の実験であり、あるいはレーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』を思わせるアルス・コンビナトリア(結合術)的な味覚の綺想にほかなるまい。

 そういえば虹釜は、SFをはじめとする幻想文学や文学的思考実験に詳しく、翻訳不可能と目されたサミュエル・R・ディレイニー『ダールグレン』の出版にいちはやく快哉を叫び、少数民族の国家的虐殺を糾弾するオラシオ・カステジャーノス・モヤ『無分別』をすぐさまブログで採りあげる。そこには文章実験、思考実験をはじめ、人間を人間たらしめている様々な暗黙の前提条件(言語、国家、文化、宗教、身体能力水準等)をたちまちのうちに無効にしてしまう事件環境や各種テクノロジーへの深い関心が共通して感じられる。

 そういえば虹釜は、医学、認知科学、生体工学、エレクトロニクス等、多様な領域にまたがる先端テクノロジーの動向について、国際シンポジウムに出かけるなど丹念なリサーチを続けており、その一端を彼のブログに掲載されるリポートで知ることができる。それは昆虫のたてる音を素材とする作曲家デヴィッド・ダンのような生体/生態アート、テクノロジー・アートへの彼の注目と相互に照らしあっているように思われる。
 だが、それにしても一体どのように歩みを進めていけば、このように相互に大きく隔たった領域を媒介することが可能なのか、そのステップの踏み方をまるで想像できない。もし水面下に隠された潜在的関係性の大陸が浮上すれば、それらはあるいは地続きなのかもしれないが。いずれにしても虹釜のリサーチ範囲の広大さ、多様さには驚くよりない。それはスタニスワフ・レムの傑作『ソラリス』に登場する、人間の理解をはるかに超えた不可解な現象の数々を、数多くの分野の専門家たちがそれぞれの視点から記述/分析し、分類/思考し続ける(そして永遠にそれを続けていくよりほかにない)「ソラリス学」の世界を思わせるところがある。

 そういえば虹釜は、人間以外の存在にとっての世界について、たびたび想像を巡らす。ネコの首にトラヴェローグ記録/送信装置を装着すれば、どのような生活世界がそこに現れるのか。ネコの五感にとらえられた世界像、ネコの交通空間・行動様式・運動感覚、ネコ集会等のネコの社会・文化活動‥。あるいは知覚、思考能力、運動能力、寿命や耐性等が大幅に増強されたネオヒューマンにとっての世界、歴史、記憶、感情等が、現在の人間といかにかけ離れたものとなりうるか。人間が今のままの姿であることを暗黙の前提(といいながら絶対不変の基準)とする思考が、いかに想像力を狭く閉じたものとするか。彼は聴くべき主体のいない世界に響く音すら視野に入れて思考を組み立てようとする。大災害により壊滅した都市に響く音。人類絶滅後に鳴り渡る音。端的に人間のいない音。あるいはソラリスの「海」にとっての音楽。

 このようにして見ていくと、「虹釜太郎」という存在を、元レコード店店長とか、自主レーベル経営者とか、あるいは映画音楽家、アンビエントDJ、音楽ゼミ講師といった「音楽」の枠組みに押し込んで理解しようということが明らかに無理なのがわかる。彼はむしろ夢想的な発明家の系譜に連なるように私には思われる。イルカのコミュニケーションを研究史アイソレーション・タンクを発案したジョン・C・リリー、フラー・ドームを考案しシナージェティクスを提唱したバックミンスター・フラー、「直流」派エジソンに対抗してテスラ・コイルを発明したニコラ・テスラのような。

 ヤニス・クセナキスによれば、応えはすでに問いの中にあらかじめ含まれている。とすれば大事なのは適切な問いを発することにほかならない。虹釜太郎は私たちの時代に生きる傑出した問いの発出者であり、不思議の国に遊ぶ類まれな預言者である。

   


虹釜太郎『写真亡命論』
コピー誌 A4×13ページ CD-R付属 頒価900円(送料込み)
問合せ先:icerice108@gmail.com メール件名「写真亡命」

服部レコンキス太+虹釜太郎『半分太 vol.1 ダイアローグ 音について』
コピー誌 3万字超 CD-R付属 頒価700円(送料込み)
問合せ先:icerice108@gmail.com
※『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』の補足的内容
http://d.hatena.ne.jp/toxicdragon/20121228の紹介文参照

虹釜太郎ブログ「パリペキンレコーズ」:http://d.hatena.ne.jp/toxicdragon/
※他にも多くの冊子、音源、イヴェント等の案内がある。

 なお、音楽&薬草バー「スキヴィアス」ではオープニング記念として虹釜太郎をゲストに迎えたイヴェントを連続開催する。特に虹釜も参加した中原昌也の対談集『12枚のアルバム』等をサブテクストに、貴重な音の数々を彼の解説付きで聴いていく「パリペキン・サウンドラリー」は、今後も同店で隔月開催予定とのこと。彼の思考に直接振れられるだけでなく、伝説の音盤店「パリペキンレコーズ」秘蔵音源も聴くことができる絶好の機会である。お見逃しなく。詳細は以下を参照。
音楽&薬草バー「スキヴィアス」ブログ:http://otyto.hatenablog.com/


名古屋スキヴィアス − 服部レコンキス太『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』  Scivias in Nagoya vol.2 − Reconquista Hattori “On Sound vol.1−Narrative Music Fieldrecording−”

  1. 2013/01/24(木) 22:21:18|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 前回に続いて名古屋に新規開設されるスペース/音楽&薬草バー「スキヴィアス」について。今回は前回少し触れた店主である服部の近刊『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』を採りあげることにしたい。


1.音と向かい合うこと

 ここで服部は12ページ足らずの限られた紙幅の中で、29の音源(下記リスト参照)について聴きながら順に語っていく構成を採っている。彼の耳はそこに現れるサウンドスケープをさまよい、襞に入り込み、あるいは遠くから眺望し、時に逡巡したり、眼を凝らしたりしながら、メロディ/リズム/ハーモニーといった通常の「音楽」の構成要素を離れたサウンドに対し、随所で遭遇する当惑を隠すことなく、移ろうままに書き付けていく。それゆえ論旨は積み上がらず、読者は結論へと手短に導かれることなく迂回/彷徨し続けることになる。要領の良いまとめ(そんなものはネット上に幾らでも転がっている)を求めれば失望してしまうかもしれない。だが、この文章の価値はこの記述にこそある。彼は『音について』との表題に愚直なまでに忠実に、音をして語らしめようとしているのだ。

 音そのものと向かい合うことを回避し、聴くことをミュージシャンの略歴や要約されたインタヴューや既存の評価に従属させ(それらに適合した部分のみを都合よく切り取る)、果ては置き換えてしまおうとする音楽批評ばかりが生産される中で、こうした彼の姿勢は果敢かつ貴重なものと評価できる。経歴や作品目録は何も語らない。語るのは「音」であり、それを聴くのは「耳」である。彼はこの当たり前の事実を改めて確認するように、音にまず耳を浸し、しばらくは距離を置いて全体を静かに眺め、その後、耳の視界をゆっくりと広角にパンさせていく。それを書き付ける言葉もまた、そうした耳のゆるやかな運動を共有している。ゆっくりと深い呼吸の下、起伏や濃度の変化を抑えた平らかな記述が、ゆるゆると続いていく。そこにはこうしたゆるやかな持続のうちに開かれた耳だけが聴きつけられる音の姿/手触りが刻まれている。

 このようにして音と向かい合い、それを記述することで、発酵を促すように思索を深めていくやり方は、彼が音楽ミニコミ誌『TOHU BOHU』に掲載した『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン ある女性と音楽』においても試みられている。以前に本ブログに掲載したレヴューから以下に引用したい。

 本稿の特徴として、記録映画のナレーションを思わせる、文体の一貫して落ち着いた声音を挙げることができるだろう。ヒルデガルトの歩みを、その時代背景を、彼女の音楽の特質を、そこから連想される主に現代の作曲家とその作曲作品を語りながら、その声音は少しも調子を変えることがない。「地」と「図」の違いを際立たせることもなく、つねに適切な距離を保ちながら、一定の速度で歩み続け、どこにも行き着くことがない。服部はヒルデガルトの音楽を彼女の人生にも、時代背景にも、あるいはその幻視者としての能力や宗教性にも還元しようとしないし、また、その帰結/完成を現代の作品に求めて、彼女を始祖として崇めたてることもしない。自ら設立した修道院の生活、権力者との駆け引き、メシアンやスクリャービン、宗教音楽と音楽劇、グバイドゥーリナやシュニトケ、ペルト、教会音楽と世俗音楽の交錯、チェルノヴィン、多重構造による空間、サティやフェルドマン‥‥優美なカードのようにゆるやかに繰り出されるそれぞれの風景は、決して論旨を積み重ねることなく、物語的な連想の線に頼ることなく、色合いや匂い、味わいや肌触りの類似を手がかりに並べられ、互いの響きあい/映しあいを通じてホログラムのように淡く彼女の姿を浮かび上がらせる。
 「彼女の音楽で印象的なのは、ドローンとリリースの長い楽器群および声がレイヤーされた、独特の音響効果である」というように、音楽史的な用語ではなく、録音や編集を当然の前提とした現代の用語を用いて、耳元に届く音を対象化したのも適切な方法だったろう。それゆえにこそ、次のような微妙な色合いをとらえた「共感覚」的な描写分析が、神秘化・内面化に落ち込むことなく、説得力を持ちうるのである。「合唱されるパターンが教会特有の深い残響で色付けされる。複数の声で歌われる旋律は、個々の声質の差で微細に揺らめく。(中略)フレーズごとの休符では残響が淡く変化し、高揚する箇所ではフレーズごとの休符がつめられ、旋律は万華鏡のように変化していく。ドローンの微細な動きと旋律の変化が干渉して混ざりあい、色彩的な変化に深みを増している。」
 いま「共感覚」と書いたが、それはヒルデガルトの中に起こっていることであって、服部が「共感覚」の持ち主であることを必ずしも意味しない(もちろん別にそうであっても一向に構わないのだが)。音を思考の対象とする場合、中立・客観的な描写がまずあって、次に分析が発動するといった手順にはならない。常に分析を含んだ(先取りした)描写にしかなりえないのだ。その時に聴覚の描写に視覚をはじめ、他の感覚の次元を持ち込むことは非常に有用である。本稿における服部の描写分析は、耳の〈視線〉や皮膚の〈味覚〉を十二分に駆使したものとなっている。そうした描写分析の感覚的強度が、ここでの一見坦々とした叙述を支え、「複数の耳を結ぶ」力の源となっていることを評価したい。
 フェルドマンの音世界に対して、彼は一方に、静謐な弱音がゆったりと広がり(マクロな空間)、永遠に続くかのような緩やかな時間の流れを聴きとり、もう一方で顕微鏡的に拡大された(ミクロな空間)音の刻々と変化する運動の細かく複雑な運動がもたらす速い時間の流れをとらえるが、この対比はそれだけで取り出されることなく、ヒルデガルトの音の世界に、あるいは他の言及された作曲家たちの作曲作品の時空間に響いていくことによって、遥かに豊かなイメージ/感覚の広がりを生んでいる。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-81.html


2.途切れることのない言葉の流れ

 「冒頭ジャン=フィリップとの会話に、騒がしい街の雑踏、タブラとエキゾチックな音楽がレイヤーされる。それぞれの音が、ある時は前景、ある時は後景と、映画のカット割りのように別アングルとなり、各素材のポジションが入れ替わる。シーンが切り替わり、ジャン=フィリップの詩の朗読に、華やかなサンバの隊列の音響が、通り過ぎるかのようにフェードアウトしていく。次いで落ち着いた路地裏のような音場が現れ、タブラがリズムを刻むその上にラテン風のメロディーが流れる。しばらくすると、暗転するかのようにモノクロームな印象のウィンドチャイムのような音が静かに鳴り、そこへタブラと、朗読する男の声、ラテンの音楽、ハミングのような歌声、賑わしい街の雑踏が、色彩を取り戻すかのように浮かび上がり終わりを迎える」(服部レコンキス太『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』より)
 
 途切れることのない言葉の流れは、風景を経巡るようにイメージを連ね、いわば残像のうちに異なるイメージを結びつけ、敷き重ね、溶け合わせていく。それはフィールドレコーディングによる音風景の移り変わりを耳の視線がスキャンしていく時と同じ振る舞いと言えるだろう。服部は「フィールドレコーディング作品を聴く」ことをなぞり深め、ある意味擬態することにより批評を展開している。
 ここでは「語りの音楽」もまた表題に掲げられ、同様に聴取/探求の対象とされている。「語り」といっても構造分析の対象とされるナラティヴではなく、ロバート・アシュリーによる「テクスト・サウンド」が採りあげられていることに改めて注意を喚起したい。
 「テクスト・サウンド」の呪文ともつぶやきともつかぬ、息継ぎを欠いたままどこまでも途切れることのない言葉の流れは、次第に語の輪郭を失って音節の連鎖の中に溶解し、後にはアクセントのある母音や特徴的な子音のパルスに伴われた、口腔の響きのドローンだけが残ることになる。すなわち、ここで「テクスト・サウンド」にそばだてられる耳は、フィールドレコーディングに視線を走らせる耳と同じものをとらえているのであり、やはりそれは服部のテクスト戦略である擬態の対象なのだ。
 ここでは採りあげられていないが、「私は部屋の中に座っている」という男のつぶやきを録音し、再生した音をまた録音することを繰り返すうち、部屋の残響とひとつになって語の輪郭はもちろん声の手触りすら消え失せ、最後には玉を転がすような鈴鳴りだけが響くに至るプロセス・ミュージック「アイ・アム・シッティング・イン・ア・ルーム」(アルヴィン・ルシエ)は、さらに適した例と言えるだろう。
 

服部レコンキス太『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』
主要参照音源リスト

1 ロバート・アシュリー『サラ、メンケン、キリスト、そしてベートーヴェン、そこには男と女がいた』
2 アルヴィン・ルシエ『ザ・デューク・オブ・ヨーク』
3 リュック・フェラーリ『ほとんど何もない』
4 リュック・フェラーリ『異型接合体』
5 ピエール・シェフェール『Le Triendre fertule』
6 ミッシェル・シオン『LE Tentation de saint Antoine』
7 鈴木治行『語りもの』
8 ジャン・クロード・エロワ『楽の道』
9 ジャチント・シェルシ『natura renovatur』
10 ジャチント・シェルシ『tre pezzi』
11 イアンク・ドゥミトレスク『Le Silence D'Or(Israel Version)』
12 チン・ウンスク『Xi』
13 ゲダリア・タザルテス『皆既日食』
14 AMEPHONE『RETROSPECTIVE』
15 ジャン=リュック・ゴダール『映画史』
16 Akos Garai『BARGES&FLOWS』
17 Mathieu Ruhlmann&Banks Bailey『Anaadiih』
18 Frederic Norgay『BUITI BINAFIN』
19 John Grzinich『Madal Oo(Shallow Night)』
20 Jez riley French『instamatic snowdonia』
21 Jez riley French&Barry Chabala『Trammels』
22 Five Elements Music『Vridavan』
23 Simon Wetham『Mall Muzak』
24 Simon Wetham『Connection』
25 フランシスコ・ロペス『La Selva』
26 Xavier Charles『JAUNE』
27 田んBoy
28 すずえり&Mark Sadgrove『10thSep2011@enban』
29 Xavier Charles, Michel Doneda, Jea-Leon Pallandre『Gaycre [2]』
※他にごく短く言及される音源もある。
  


服部レコンキス太『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』
コピー誌 A4×12ページ CD-R×2枚付属 頒価(送料込み)
問合せ先:Reconquista.tori@gmail.com

服部レコンキス太+虹釜太郎『半分太 vol.1 ダイアローグ 音について』
コピー誌 3万字超 CD-R付属 頒価700円(送料込み)
問合せ先:icerice108@gmail.com
※『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』の補足的内容
http://d.hatena.ne.jp/toxicdragon/20121228の紹介文参照

なお、スキヴィアスでは『音について その1−語りの音楽 フィールドレコーディング−』を題材としタイヴェントも2月3日(日)に開催される。何と冊子『音について その1』+1ドリンクで1000円とのこと!
詳細は音楽&薬草バー「スキヴィアス」ブログ:http://otyto.hatenablog.com/ を参照。



名古屋スキヴィアス − ヒルデガルト・フォン・ビンゲンにちなんで名付けられた音楽&薬草バー  Scivias in Nagoya vol.1 − Music and Heb Bar Named After Hidegard von Bingen

  1. 2013/01/23(水) 19:25:49|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 来る2月2日(土)、名古屋に興味深いスペースが誕生する。その名は「スキヴィアス(Scivias)」。おそらくは植物学、薬学、医学、文学、音楽等、多くの分野に才能を発揮した12世紀の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが自らの神秘体験を記した著作『Scivias(道を知れ)』から採られている。「音楽&薬草バー」と銘打って、様々な音楽と薬草酒(リキュール)やハーブ・ティーに力を入れているのは、いかにも彼女にふさわしい。

 店長を務めるのは服部規宏。以前に本ブログ゛て紹介した音楽ミニコミ誌『TOHU BOHU』に「服部レコンキス太」の筆名で、現代の音楽やテクノロジーとも結びつけた注目すべきヒルデガルト・フォン・ビンゲン論を執筆し、その後、最近になってコピー誌の体裁で『音について その1 − 語りの音楽フィールドレコーディング』を発行した人物である。それゆえ、このスペースに流れる音もまた、彼の幅広く柔軟な耳に選びぬかれた極めて上質の(また愛すべき風変わりな)他ではなかなか聴けないものとなるだろう。

 さらに彼の企画により、充実したイヴェントが繰り広げられることがすでに決まっている。オープニングの3日間(2月2日〜4日)に渡り、4回のイヴェントが虹釜太郎の協力によりシリーズとして展開される。内容の詳細は別記するが、虹釜がかつて店長を務めた伝説の音盤店「パリペキンレコーズ」秘蔵音源等もプレイされるという。名古屋近郊の方は何を置いてもぜひ駆けつけるようお勧めしたい。

 そうしたイヴェントの賑わいを離れた時間には、店は本来の落ち着きを取り戻し、マジカルな癒しに満ちた音空間で来訪者を迎えてくれるはずだ。とまれ、注目のスペースである。なお、次回は「名古屋スキヴィアス◆廚箸靴董◆慍擦砲弔い その1 − 語りの音楽フィールドレコーディング』のレヴューを試みたい。



【イヴェント情報】

2/2(土)@Scivias 19時スタート 
[buffalomckee「Box!」リリースイベント!]
入場無料(要1ドリンクオーダー)
浪速のLAFMS!?青春エクスペリメンタル!?先頃10枚組CD「Box!」をリリースされ、虹釜太郎によるBox!研究書「月刊NEU」も発刊されたbuffalomckeeのリリースイベント! ゲストに360°recordsの虹釜太郎、そしてICE RICEから「Tape Days」をリリースしたbonnounomukuroもLive決定!

2/3(日)@Scivias 14時スタート 
[ハーブティー試飲会 ]
参加費¥800
薬草酒バーテンでもある虹釜太郎をゲストに迎えハーブティー試飲会!色々なハーブティー、そしてハーブエキスとハーブティー、ジュースとハーブティー、薬草酒とハーブティー、各種ハーブティー&ハーブドリンクをご用意してお待ちしております。

2/3(日) @Scivias 19時スタート 
[音について 語りの音楽 フィールドレコーディングについて]
冊子「音について」+1ドリンクで¥1000です!
店主・服部レコンキス太が先頃に発刊したフィールドレコーディングに関する冊子「音について」のトークイベントを服部レコンキス太・虹釜太郎で開催!逸話的音楽家リュック・フェラーリ、鈴木治之から近年活発なリリースを行なうハンガリーの3LeavesベルギーのUnfathomlessなどフィールドレコーディング音源など冊子で紹介した音源を聴きながら解説していきます。今後発刊予定の「月刊フィールドレコーディング」のイントロダクションのイベントです。

2/4(月) @Scivias 19時スタート 
[パリペキンサウンドラリー]
入場無料(要1ドリンクオーダー)
かつて渋谷に存在したパリペキンレコーズの殿堂入音源をひたすら聴いていくサウンドラリー。『12枚のアルバム』(中原昌也☆音楽対談集)や『Paris Peking Archive』を切り口に謎音楽たち、現在でも行き場のないオールジャンルの音楽をじっくり薬草酒やオリジナルハーブドリンクを飲みながら聴いていきます。東京でもやったことのない試みをSciviasで!


Scivias(スキヴィアス)
名古屋市中区錦1−15−10萬新ビル2階
080-5129-2795
http://otyto.hatenablog.com/







ヒルデガルト・フォン・ビンゲン関連画像

冬のソウルのうまいもの−韓国伝統餅菓子「秘苑餅家」  Delicious Foods In Winter Seoul − Korean Traditional Rice Cakes “Biwon”

  1. 2013/01/11(金) 23:17:30|
  2. 韓国|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1
 昨年12月は「S.O.S」への出演があったため、恒例のクリスマス・イン・ソウルは果たせず、12月初めのソウル行きとなった。出発前には本や雑誌、インターネットなどで情報収集に努め、うまいものの新規開拓に励むのだが、今回紹介するのは飛び込みで開拓したお店。とある美術館からの帰り道、バス停から仁茶洞(インサドン)に向けて歩いていると、小さな店が‥。 何気なくをのぞきこんで、そこに貼られたポスターに写る美しい餅菓子の姿形にハートがキュン! 気がつかずに先を行く妻を呼び止めて店に入ると、ショーケースに並べられた菓子たちの美しいこと。その場で気に入ったものを2種類買い込み、歩きながら食べてみる。肉桂(シナモン)入りの黄粉の付いた花びら餅型の菓子の味わい深いこと。

 餡は胡桃、柚子、棗、栗、松の実、小豆(あっさりした風味はササゲだろうか)等が混ぜ合わされていて、口の中で様々な舌触りと歯触りがゆるやかに弾け、重層的な、それでいて気品高く軽やかに溶け合った味と香りがふうわりとたちのぼる。むっちりと柔らかい餅は微妙に塩気を含み、表面の黄粉や中に包まれた餡の甘みと絶妙なバランスを見せる。
 もともと柚子の皮に胡桃や餅米を詰めて蒸した古来の製法による柚餅子に憧れていて、金沢で見つけて喜んだら中身が白餡で大失望したことがあるのだが、これはそんな私の元に天が遣わされたのではなかろうか‥と思いたくなるくらい私の好みにぴったりだった。
 今回の滞在の最終日には、改めて店を訪れ、その時店頭に出ていた10個を買い占めてしまった。それらは帰宅してすぐに冷凍し、後は解凍して少し温めてから食べている。もったいなくて一度に二人でひとつしか食べられない。ああ‥。(T_T)

 調べると、この菓子はトゥトゥプトクといって、表面に付いているのは皮を剥いた小豆の粉のようだ。王様しか食べられない高級菓子との説明も見られる。もちろん今では広く普及していて、直方体型につくり、赤や青、緑に色づけしてしまうことも多いようだ。
 同じく後で調べてわかったのだが、この店「秘苑餅家(ピウォントッチッ)」は創業60年以上の老舗で、知る人ぞ知る名家のようだ。韓流ドラマでも身分の差を示すためにヒロインが場末の食堂で働いていたりするのでご存知の方も多いと思うが、「儒教の国」韓国では学者や官僚が身分が高い職で、実業、中でも飲食店関係は身分の低い職とされる。このため飲食店が繁盛すると、子どもには跡を継がせず学者や勤め人にしてしまうので、韓国には老舗飲食店が少ない。鐘路タワーのすぐ近くにある陸門(イムン)ソルロンタンが80年以上続いているのが、ソウルでは老舗中の老舗である(ここは昔はスープが濃厚で流石の味だったが、最近は人気チェーン店の神仙ソルロンタンをコピーしたような薄っぺらい味に凋落してしまった)。粽で有名な京都の川端道喜みたいに500年続いている店なんてないのだ。

 ぜひ「秘苑餅家」のホームページ(www.Biwon.net)を訪ねてみてほしい。何種類もの気品ある美しい餅菓子の眼を見張るほど素晴らしい写真(保存できないのが難点)の数々を眺めることができる。通りかかって思わず店に誘い込まれてしまった理由もご理解いただけることだろう。
※餅菓子の写真ページはこちら
 http://biwon.net/front/php/category.php?cate_no=27



「秘苑餅家」の店構え。見過ごしてしまいそうなさりげない佇まい。


ショーケースのディスプレイも品がある。



これがトゥトゥプトク。断面で餡の様子がわかる。

DTIブログって?

次のページ