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ディスク・レヴュー2012年4〜6月期 Disk Review Apr. - Jun. 2012 vol.3

  1. 2012/08/25(土) 19:37:18|
  2. ディスク・レヴュー|
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【前口上】
 4〜6月期のディスク・レヴュー第3弾として「ポップ・ミュージック篇」をお届けする。これまでジャズ等と同じ枠に組み込んだり、年間を通して別枠で紹介していたりしたが、今回は好盤が多かったこともあり、単独枠で規定の7枚を採りあげることとしたい。なお、今後も単独枠を維持できるかどうかは、作品の(入手)状況にも左右されるため未定です。御容赦ください。
 さて今回、単独枠で7枚を確保できた理由として、私には珍しくラテン・ミュージック(ペルーとキューバ)を採りあげていることが大きい。いずれも古典の復刻だが実に素晴らしい。往時の音楽の豊かさ(「音楽が豊かだった時代」と言うべきか)を存分に堪能することができる。今回はそれを含め旧作の再発が3枚ある一方で、サウンド・レイヤーの重ね合わせをはじめ、エレクトロニクスによるサウンド・プロセッシングを駆使した盤もあって、作品の幅はずいぶん広がっていると思う。それではどうぞお楽しみください。


Tia Blake and Her Folk-Group / Folksongs & Ballads
Water water241
Tia Blake(vo), Bernard Vandame(g,vo), Francois Brigot(g,vo), Michel Sada(g), Sydney Aufrere(fl), Gilbert Caranhac(dobro), Eric Kristy(g), Unknown(tanbbourin)
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/tia-blake_c-042.html
 C&W調の乾いた刻みとスチール・ギターの絡みにすら、しっとりとしたしなやかさが滲みこみ、翳りと憂い、虚ろさを含んだ低めの声に受け継がれる。弾むようなリズムがどこか夢うつつになって、ブリジット・セント・ジョン(Bredget St John)を思わせるしなやかで奥深いアルト・ヴォイスを浮かべ、運んでくる。パティ・ウォーターズ(Patty Waters)がESPレーベルに残した神経を過負荷で焼き切るような絶唱で知られる「Black Is the Color (of My True Love's Hair)」も、抑制的な語り口が、傍らに暗く口を開いた深淵に身を躍らせることなく、それでもしっかりと縁から底を覗き込んでいる。19歳のアメリカ娘がふとしたことからパリに渡り、そこでオーディションに合格して吹き込まれたレパートリーは英米のトラッド有名曲の数々。希薄なささやきを秘めた柔らかな襞に包まれながらもしんと冷たく静まり返った揺ぎ無い声の芯が、曲想の多様さを貫いて彼女の音楽世界の基底をかたちづくっている。人懐っこい甘さの中にもどこか突き放したクールネス。ここにはフィルム・ノワールにも似た「フランスから見たアメリカ」とも言うべきどこかスタイリッシュな〈距離〉の視線があるように思われてならない。ちなみに録音はサラヴァ等で活躍した名匠ダニエル・ヴァラシアン。この1971年にリリースされた彼女の唯一の作品は、すべての音楽ファンの宝物となるだろう。


Simone White / Silver Silver
Honest Jon's Records HJRCD66
Simone White, Samuel Bing, Julian Wass & vn,whistling,harmony vo,harmonium,bass,g,narration,key,glockenspiel,rhodes,synth
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=8256
 ハスキーな憂い(と僅かな不機嫌さ)を含んだ舌足らずのキュートな声は、直ちにスティーナ・ノルデンスタム(Stins Nordenstam)を思わせる。彼女と同じく重力を感じさせないふわふわとした声の足取り。でもとびきり高いヒールにもかかわらず、足元は意外にしっかりしている。一方、バックの演奏はひとり立ち尽くす声をよそに、それに寄り添うでも支えるでもなく、ゆったりと奥深い別の景色を描き上げていく。パーカッションのもたらす深い奥行きに象徴される構築的な音空間は、時に声の手触りを遠く離れて、ギザギザとした急峻な風景や紙やすりのように痛々しくざらついた倍音の層、不釣合いに壮大/雄大に広がる風景をすらかたちづくる。夢見るようなアコースティック・ギターの爪弾きやグロッケンシュピールのきらめきだけが声に寄り添い、こうした背景との乖離を決定的なものとしながら、彼女の声の傷つきやすい可憐さを極限まで引き出そうとする。Grouperのように自らドローンに溶け込んでしまうのではなく、夢を見ながら、それが夢であることに気づいているような不思議な解離感(それはカヴァーに散りばめられた古びた写真の、捏造された記憶のフラッシュバックのような脈絡のなさと強烈なデジャヴュ感によってさらに強められる)。最後に置かれた南国楽園的な響きの小曲が、夢の終わりが淡く溶けていくのを見詰めている。


Biota / Cape Flyaway
ReR BCD7
Kristianne Gle(vo,g), Gordon Whitlow(org,acc), Tom Katsimpalis(g,claviolin), Mark Piersel(g),David Zekman(vn,mandolin), Larry Wilson(per), Steve Scholbe(rubab,g), James Gardner(tp), Randy Yeates(key),Charles O'Meara(p), Randy Miotke(rhodes,acc),William Sharp(electronics,mix), Mnemonists(visuals)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=16350
 もともと多楽器による集団即興演奏と環境/工業ノイズや既成音楽断片のコンバインによるヴィジュアル表現を含めた雑色的構築を試みていたMnemonistsが、別プロジェクトとしてBiotaを発足させ、こちらはインダストリアル・オルゴールとも言うべき練磨/結晶化されたノイズのきらめきを経て、プロセッシングがつくりだすぐにゃぐにゃした不定形にして色鮮やかなサイケデリック空間に女性ヴォーカルを迎え入れるというよりポップな形態へと変化していった。本作ではサウンド担当がBiota、メンバーの重複するMnemonistsはヴィジュアル担当と役割分担が確立されている。今回の女性ヴォーカルは声質もメロディもいつになくトラッド的色合いが濃く、サウンドのプロセッシングも細やかさをいや増して、かつてのぐにゃりとした(それこそ諸星大二郎「生物都市」を思わせる)溶解/融合感覚を離れ、その音風景は万華鏡的と言うべき、より硬質な鉱物/結晶性のモザイク的構築が卓越し、ゆったりと変化しながら浮き沈みしていく(時に声を水没させてしまうほど、その水位は上昇する)。長尺(7分程度)のヴォーカル曲の間に挿み込まれるアコースティックな小曲が、撥弦のさわりや腺病質のオルガンの繊細なアラベスクの強調によるサイケデリアが、当てもなく漂う断片の浮遊感を通じて、ヴォーカルの凛とした古風な気品とそこに立ち込める寂寥感を際立てて止まない。添えられた大量のヴィジュアル・アートもいつになく多元的な風景の広がりを意識したものとなっている。彼らの新たな代表作となるのではないか。


Troy Schafer / Evening Song Awaken
Recital R003
Troy Schafer(vn,per,etc)
試聴:http://troyallenschafer.bandcamp.com/album/evening-song-awaken
http://soundcloud.com/experimedia/troy-schafer-evening-song
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=7795
 主として彼自身によるヴァイオリンの多重録音による作品が並ぶ。弦楽四重奏の有する安定したバランスを欠いて上方にシフトし、狭い音域の中に寄り集まりぶつかり合う音たちは、圧縮された軋みを響きへと昇華させて、ただただ高みを目指し、陽炎のようにたちのぼっていくしかない。バロック絵画の闇に沈んだ画面の中で、ただ左上から射し込んでくる一筋の光を仰ぎ見る潤んだ眼差し。次第に厳かさへと接近していく感情の揺らぎ。ジャンルとしては一種の(スピリチュアルな)ヒーリング・ミュージックに属するのかもしれないが、ここには心身をゆるやかに慰撫してくれる微温湯的な癒しはいささかもなく(音はみな触れればただちに皮膚が裂けるほど、ぴんと張り詰め険しく切り立っている)、一刻を争うほどはるかに厳しく切羽詰った救いへの希求があるように感じられる。終曲は弦以外を用いて、通常のヒーリング・ミュージックの定型により近づいているが、それでも熱帯雨林にも似た沸騰するような喧騒をたたえている。200枚限定の手書きナンバー入りCD−R。


Federico Durand / El Libro de los Arbales Magicos
Home Normal homen036
Federico Durand, Chihei Hatakeyama, Fuqugi, Ian Hawgood
試聴:http://soundcloud.com/homenormal/homen036-federico-durand-el
http://www.pastelrecords.com/SHOP/federico-durand_pl-849.html
 彼の前作『El Extasis de las Flores Pequenas』について、かつてブログでこう書いた(※)。「フィールドレコーディングされた環境音が多用されるが、それは〈外〉を手探るのではなく、ひたすらに〈内〉を見守り、その手触りを確かめるためだけに用いられる。浮かび上がる見たことのない風景。綿菓子のように溶けていく懐かしさ。思い出の糸をどこまでもさかのぼる音の魔法。聴き続けていたら現実感を喪失して、そのまま朽ち果ててしまいそうな、あまりにも危うい甘やかさ。現実逃避型フィールドレコーディング/セピア系アンビエントの極致。」
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-150.html
 その手触りはある意味変わりない。しかし、以前には3次元的な夢想空間に見通しよく点在していた響きの花々は、ここで真綿のような不可視の厚みへと取り込まれ、不透明なもやに包まれており、周縁部が薄闇に沈む中、中央にぼんやりと浮かび上がる環境音のフィールトレコーディングによるレイヤーの敷き重ねも、何物ともと判別し難い曖昧さを増しながら、発音体の輪郭(空間との境界)ぼんやりと溶かしていく。この輪郭を結びきれない、場面を完結しきれない希薄さ(止まりかけたオルゴールのような、ほどけてしまいそうなほどに切れ切れの旋律もまた)が、セピア色でありながらどこか映画的な鮮明さをたたえていた前作と本作を分かつものであるだろう。無意識の奥深くに沈み込み、何かの呪文(紅茶に浸したマドレーヌのような?)がなければ封印が解けない記憶のようなあえかな肌触り。


Jesus Vasquez / Con Guitarra de Oscar Aviles
Xendra Music XM-1039
Jesus Vasquez(vo), Oscar Aviles(g)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/XM1039.html
http://elsurrecords.com/archives/contents/newcd/s_america/jesus-oscar.html
 ペルー音楽の中でもカンシオン・クリオーヤと呼ばれるクレオール系歌曲とのこと。なるほど確かに発掘編集盤『The Rhythm of B lack Peru』で聴くことのできるプリミティヴな躍動性や、笹久保伸が奏でるフォルクローレ系ギターの、朝の木漏れ日の中を小鳥が飛び交うような素早く爽やかな叙情性はここにはない。むしろここで強く感じられるのはダンスホールやナイトクラブで奏される「夜の音楽」としての比類のない完成度の高さである(それがクレオール性とどのように関係しているのかいないのか私にはわからない)。1958年頃の録音というから30代後半のはずのヘスースの声はいまだ可憐さを失わず(声を張った時にも独特の涼やかさをたたえている)、それでいて自在な緩急や抑揚により艶やかさを振りまく。ダンディな洒脱さをたたえたオスカルのギターは、暗がりに半分身を沈めつつ、きらめくように流麗でありながら抑制とニュアンスの美学を片時も忘れることがない。爪の立て方ひとつで異なるだろう音の立ち上がりの閃き、弧の描き方を鮮やかにコントロールし、声のための余白を中央に存分に残しながら、縁取りを金糸銀糸の細密な刺繍で飾ってみせる。多くは三拍子系の優雅な楽曲(バルス?)が、幾分反らし気味に背を伸ばしたギターとドレスのすそをゆるやかに揺らす声によって、申し分のない気品とクールさで演じられる(全曲律儀に3分前後なのはSP時代の名残なのだろうか)。やはり音楽を愛するすべての人に。解説付き日本盤あり。


Guyun Y Su Grupo / Canta Elisa Portal
Disco Caramba CRACD-244
Guyun(g), Elisa Portal(vo)&p,per
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/CRACD244.html
http://shop.ameto.biz/?pid=41197050
 キューバのフィーリン音楽からの1枚。他の何枚かのフィーリン音楽(の名盤)のうちから本作を選んだ理由は、何よりもグユンのギターの涼やかさにある。リズムをせわしなく刻まず、音符を細かく弾きこむこともない。暑さとは無縁の軽やかな白い雲が流れるようなコードの提示。その浮遊感や淡い色彩感は都会的/リゾート的な洗練と倦怠/退廃へと通じているだろう。ジャズ的な楽理を採りいれながらも、スウィング感の元となるリズムの遅れ(もたれ/よどみ)を排することにより、ボサノヴァ的な清々しい軽みが漂う(それは彼の奏でる、決して弧を描かぬ張り詰めた硬質な響きのギターに関する限り、ほとんど潔癖さの域に達している)。微かにハスキーさを乗せたエリサの女声もまた、抑揚や緩急の強調によって色気や情感を振りまき過ぎることなく、選び取られた平坦さの中で、必要にして充分なさりげなさをたたえている。その点でこれはJesus Vasquezたちによる前掲作と異なり「夜の音楽」ではない。むしろ凪が止んで涼風が南国的芳香を運び始める夕暮れの音楽。柑橘類とハーブの香る軽く発泡したロング・カクテル。それも表面に浮かんだシャーベット状に砕けた氷のすっと溶ける舌触り。グユン唯一の録音(1960年代後半)。香り高き名品。

「FTARRI Opening 2 Days」リポート  Report for " FTARRI Opening 2 Days "

  1. 2012/08/21(火) 19:15:27|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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  4. コメント:0
 都営地下鉄三田線水道橋駅A1出口から出て、路地を曲がり一本裏通りに入ると、すぐに金刀比羅神社東京分社の鳥居が見える。FTARRIの実店舗はその向かいのビルのB1F(ちなみに1Fは武道の用具ショップ。この辺には多いようで表通りにもある)で、外に出ている案内はささやかなものだが、場所はわかりやすい。金刀比羅神社の向こうには香川県つながりということなのか、讃岐うどんブームの仕掛人「麺通団」のプロデュースしたうどん屋があるのが面白い(リトル香川といったところか)。ライヴ時の腹ごしらえにどうぞ。
 ビルの扉を開けて階下に降りると、防音仕様の二重ドアの向こうにFTARRIの空間が広がる。全体スペースはL字型と言うべきか。手前左にカウンターとキチネットがあり、奥の横長のスペースの左側が壁に設置された棚とその前に置かれた平台にCDが並ぶショップ・スペースであり、右側がPAスピーカー(BOSEのポール型)やアップライト・ピアノの設置されたライヴ・スペースとなっている。ステージの段差はなく、パイプが剥き出しの天井は比較的高い。客席はパイプ椅子やクッションを敷いての床座りだが、30人は入れるのではないか。
 壁は黒塗りのボード、他はコンクリートの打ち放しなのでほとんど飾り気はないが、CD棚は白木系のボードで、ところどころに桜皮細工の茶筒やら焼き物の壷やら、ちょっとCDショップには「場違い」なシックなオブジェが配置されているところが面白い。それと裏腹に壁際のワゴンには100円均一の文庫本が積まれ、露店風の雰囲気を醸し出している。

 実店舗の営業は2日間に渡るオープニング・ライヴの翌日8月6日(月)から始まっている。開店時間は午後4時から8時。ただしライヴがある場合は、その時間設定により変更がある。また、まだ定休日が確定していないようなので(基本的に週末は営業し、平日に週1〜2日程度休むとのこと)、来店の際には店舗のホームページ(※)をチェックしてから訪れることをお勧めしたい。あわせてライヴの予定も確認できる。
※http://www.ftarri.com/suidobashi/index.html


FTARRI水道橋店舗の入り口。
ここから地下へ階段を降りていく。


 8月4日(土)・5日(日)の2日間に渡るオープニング・ライヴには両日合わせて8組が出演し、そのうち6組を見ることができた(2日目は体調不良で途中退席したため)。そのうち最も興味深いパフォーマンスを見せてくれたActive Recovering Musicについてリポートしておきたい。
 1日目の最後に登場したActive Recovering Musicはスライドホイッスルの六重奏団で、ほとんどオモチャのような楽器を構えた6人がステージ中央にかなり近接して馬蹄形に並ぶ。楽器構成からして無邪気なトイ・ミュージックか、あるいはコンセプチュアルなパフォーミング・アーツと言うべきメタ・ミュージック的な演奏が予想されたが、実際に演奏されたのは、よりシリアスで確実なサウンドの手触りを持った作品だった
 作品はすべて大蔵雅彦の作曲によるものと思われる(各演奏者の前には譜面台が置かれていた)。演奏開始前にストップウォッチを合わせていたから、時間指定により音出しがコントロールされているのだろう。1曲目は楽器の機構を活かして音程が連続的に変化する下降音を反時計回りにリレーしていくかたちのもの。楽器の特性上、音量が乏しく音の立ち上がりも曖昧で音色も貧弱。さらに音程の変化に伴い音色が微妙に‥というより不安定に変化する。途中から1人ずつではなく2人一組の音出しとなり、こうした楽器の「弱さ」が、多方向から突き動かされ侵食される、より不定形で不安定な広がりを空間に描き出す「強み」へと転じていく。
 2曲目は時間指定をより細かく行っているのだろう。長短・高低様々な音がアンサンブルのあちこちから響いてくる。一音の中での音程の変化が少ない分、音色は先程より安定していて、やや古風なバレル・オルガンのように響く。メロディ主体のアンサンブルではなく、むしろ長短・高低のパターンの順列組合せを幾何学的にアンサンブルに配分した結果、思いがけぬフレーズの断片や和音の切れ端が幻のように浮かび上がる。児童演奏機械にも似たアンティークなメカニカルさが香る場面もあった。
 離散的だった2曲目に対し、3曲目では集合的な音群が操作され、その推移が示される。最後の4曲目は時間指定ではなく、各奏者が行うべきアクションが文章として指示されていたようだった。全員が一度に吹奏を開始し、ドローンと言うには甲高いうなりの中で、大蔵雅彦から順に反時計回りで隣の奏者に音程を移していく。両者は寄り添うように身体を傾け、先の奏者が鳴らしている音程に耳をそばだて聴き取りながらスライドを微調整する。そのようにして移した音程をしばらく奏した後、また右隣の奏者へと伝えていく(その間も他の奏者は変わらず音を出し続けている)。その後の推移を観察すると、おそらくは元の音程よりわずかに高く、それでいて全体と溶け合うポイントを探り、手渡しているように思われる。次第に音程は上ずり、スライドのポイントは上がっていって、何周かした後、もうそれ以上音程を上げられなくなると(スライドが目一杯上がってしまうと)、今度はわずかずつ音程を下げていく方向で、また音の手渡しが始まる。このようにして部分の音程を微妙に上下させながら、他の奏者は順番が回ってくるまで先の音程を保って演奏しているので、そこに音程の相互干渉によるモジュレーションが様々に生じてくる。特に音量が高まった時には、6本あるとはいえ、あんな貧弱なオモチャのような楽器から、こんなにも強靭で強烈な響きが引き出せるものかと眼を見張ることとなった。
 比較的天井が高く、広さはさほどなく、残響も多過ぎないFTARRIのライヴ・スペースは適度の充満/飽和をもたらす点で、このアンサンブルの演奏に適していたように思う(残響が多過ぎれば干渉による音色か鋭くなり過ぎたように思うし、スペースが広過ぎたなら、この密度感は得られなかっただろう)。簡素な仕掛けから豊穣な響きを引き出し、見事に構築して見せた工夫と手際を称えたい。各演奏者がすべきことを淡々とこなした演奏姿勢も、内容にふさわしかったと思う。


Active Recovering Music
(大蔵雅彦、川口貴大、神田聡、古池寿浩、しばてつ、徳永将豪)

響きに追いつき、音に書き込む  Catching up Sounds, Writing on Notes

  1. 2012/08/19(日) 10:33:48|
  2. 批評/レヴューについて|
  3. トラックバック:0|
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 演奏を聴いていて、意識がその場に参加し、次の音が視えることがある。激しいブロウの応酬になって「イケイケ」で盛り上がる時や、場面を転換する決定的なステートメントが発されて、次の情景がありありと眼前に浮かぶというような場面ももちろんあるが、そうではなくて、演奏者間の水面下の探り合いに引き込まれ、こちらの耳も水中に没し、水の動きを全身の皮膚で感じながら次の音が視えてくることがある。もちろんそれは一種のデジャヴュ現象かも知れず、すでに鳴ってしまった音に対して、あたかも自分が事前にそれをありありと思い浮かべていたかのような錯誤に陥っているだけなのかもしれないが。
 それでも前述のように演奏者の交感に耳が引き込まれ、演奏の場の深さ/奥行きに間違いなく耳が届いていると感じられる時がある。事前に何の取り決めもない即興演奏であるにもかかわらず、発せられる音がことごとくそれでしかあり得ない必然と感じられ、痛いほどに身体に突き刺さってくることがある。そうした意識のフォーカスがぴしりと合った瞬間は必ずしも長く続かない。意識と音がずれ始めるというより、先ほどまでの痛いような音の手応えが身体の奥に残っていることで、その瞬間の終わりにぼんやりと気づくことになる(そこまでは深く突き刺さらない音の手ごたえの薄さに)。あるいは周期的に焦点が合ったり外れたり、あるいは専ら一人の奏者にのみ意識が同期して、その肩越しに覗いたカメラ・アイのようないささか偏った音場が広がることもある。


 Msabumi Kikuchi Trio『Sunrise』(ECM)のディスク・レヴューで次のように書いた(*)。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-171.html


 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。

 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り替えすが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。


 この作品の冒頭部分の冷ややかに静謐で、空気をかき乱すことのないほどに緩やかでありながら、同時に揺るぎなく緻密に描き出された風景の提示と、その細部を巡る簡潔にして緊密な探り合いに思わず耳が引き込まれ、透き通った水に身を沈め、全身で響きを感じ取っている様、身体の表面/内部で交錯する様々な感覚の束を、拙いながらも何とか書き記そうとした部分だ。
 これに対し、原田正夫氏から次のようなコメントをいただいた。


 「そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。」という『サンライズ』に関するブログの一節にはどきりとします。『サンライズ』に最初に接した時はこのまさにピアノが「線を描かない」ことに戸惑いを覚えたのだと思います、自分。ベーシストのベースにも同様の戸惑いを覚えましたが、ベース音が前面に出ているので、ピアノ・トリオ盤の録音によくあるウッド・ベースの音の気持ちよさに助けられるところがあって、まだピアノほどの戸惑いは無かったかもしれません。
 「それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時の やり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えて くる。」
 このくだりはまさに、『サンライズ』の冒頭を集中して聴いている時の自分の心の動きを言い当てられたかのような気になります。
実際、自分も聴いていて、はっきりとした形に像を結ばないけれど、演奏にある眼差しが感じられて、その視線の先に自分が導かれていく感覚に陥ります。

 もうひとつ須川さんの文章(註:Jazz Tokyo掲載の菊地雅章TPTトリオのライヴのクロス・レヴュー※)で面白かったのが以下の部分。
 「あるいは、たった今放たれた音を同様に聴く。これが高次元で連続的に展開されてできあがってゆく音楽のうねりは、一つの現在進行形で制作されては消えてゆく芸術作品だけに、一聴するとかなり難しく聴こえるかもしれない。しかし、それと対面してジッと絵画を見つめるように集中して聴いていると、魂が揺さぶられる瞬間が訪れてその背後に音楽が成してゆく自然なフォースが見えてくる。こうなると、聴き手にもプレイヤーと似たような楽しみを与えてくれる。と私は思っているが、(後略)」
 わたしは『サンライズ』の一曲目を集中して聴いた時にそんな感覚に襲われました。福島さんが書かれていた「出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく」感覚で、自分も演奏の中に入って一音置いてみるような感覚です。こういう感覚、ライヴでは、ごくまれに訪れることがあります。聴いている音 (演奏) が自分の中で自由に動きだすような感覚、そしてその音の生成に自分も参加しているような感覚です。

※http://www.jazztokyo.com/live_report/report450.html
 なお多田雅範による次のレヴューも参照のこと。
 http://www.jazztokyo.com/live_report/report448.html


 1枚のディスクには様々な瞬間が詰まっている。『Sunrise』のレヴューでは特に冒頭2曲にスポットを当てたから対象は限られている。それでも、この描写が全編を通じた一般的な(言わば平均的にならした)ものではなく、冒頭部分の引き込まれ沈み込んでいく感じ、聴き手に音を置くことを求める感覚を指し示したものであることを直ちに看て取られたのには正直言って驚いた。もちろん文中に様々なヒントは散りばめられてはいるが、原田氏の「読み」は「これしかない」という力強い直感に支えられているように思う。あたかも二人が同じ眺めを共有しているかのように。
 このディスク・レヴューでは演奏者たちが寸分違わぬ同じ風景を見詰めていることが、この簡潔にして緊密極まりない演奏を成り立たせていると論じているが、それは聴き手にも感染してくるもののようだ。もちろん「寸分違わぬ」と言いながら、それはスクリーンに投影されるように現れるわけでは必ずしもなく、むしろ演奏者の「あいだ」に空気の流れや澱み、肌触り、温度感、色合い、匂いのように存在するものかもしれないし、聴き手が見ている風景と演奏者が感じ取っている風景はずいぶん異なっているかもしれない。しかし、にもかかわらず、そうした同期が生じることによって、危うく切り立った音楽のあり方が、そして演奏と聴取が、かろうじて可能となるのだ。


Masabumi Kikuchi Trio『Sunrise』


文中に登場するゴダール『気狂いピエロ』のオープニング・クレジット

  
原田正夫、多田雅範は菊地雅章TPTトリオの来日公演を聴いてコメントしてくれている。

   
ポール・セザンヌによる筆触の例。彼はこの色彩の小区画について、面(プラン)という語をよく用いた。

ケージ列車に乗ろう  Take the Cage Train

  1. 2012/08/18(土) 15:34:48|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 来る8月25日(土)・26日(日)に岐阜県樽見鉄道で、生成音楽ワークショップ第7回として、ジョン・ケージ「失われた沈黙を求めて(プリペアド・トレイン)」が実施される。本企画は実際に列車を走らせ、その走行音をマイクロフォンで増幅して車内に流しながら、同時に車内て数々のパフォーマンスを行いうとともに、車内に設置したモニターとカメラによる動画を、ネットで結んだ各会場に配信するという大掛かりなもの。たとえば26日に東京サントリー・ホールで開催される「ミュージサーカス」のプログラムには、この「失われた沈黙を求めて(プリペアド・トレイン)」の中継が含まれている。
 以下に「生成音楽ワークショップHP」から案内文の一部を転載する。


生成音楽ワークショップ第7回は、一般から募集する乗客と演奏者によって、実験音楽の巨匠ジョン・ケージの『失われた沈黙を求めて(プリペアド・トレイン)』を大垣−樽見間の特別列車で再現します。8/25、26に岐阜県大垣市で開催されるMake: Ogaki Meeing 2012 / IAMAS オープンハウスの特別イベント及び、サントリーサマーフェスティバル「即今―ケージ・ミュージサーカス・イン・東京」の一環(8/26のみ)として、鉄道の走行音をマイクで増幅して車内に響かせながら、車内でパフォーマンスを行います。
樽見鉄道の全面的なご協力のもとで開催する今回の生成音楽ワークショップでは、Make: Ogaki Meeing 2012 / IAMAS オープンハウスの来場者、地域の方、実験音楽の愛好家、鉄道好きな方の参加をお待ちしております! 大垣〜樽見間の樽見鉄道は片道約一時間、樽見に近づくにつれて根尾川峡谷の緑が深まります。使用する車両はハイモ295-516。日産12気筒ディーゼルエンジンの音を増幅して車内外に響かせます。
ジョン・ケージ、「失われた沈黙を求めて(プリペアド・トレイン)(1978/2012)
本作品は今年生誕100年・没後20年を迎えるジョン・ケージと、イタリアの実験音楽家たちによって1978年6月にイタリア・ボローニャ近郊で行われた、スピーカーとマイクロフォンを設置した(プリペアドした)列車を用いた音楽作品です。
生成音楽ワークショップによる今回の翻案では、Make: Ogaki Meeing 2012 / IAMAS オープンハウス及び、サントリーサマーフェスティバル「即今―ケージ・ミュージサーカス・イン・東京」(8/26のみ)の実施日時に合わせて、大垣駅から樽見駅まで約40Kmを運行している樽見鉄道を貸し切り、車両内外にスピーカとマイクロフォンを設置します。車内外数カ所に取り付けたマイクの音は、車内に設置されたスピーカから再生されます。あわせて、車内では通常の乗客に加え、募集した演奏者によるパフォーマンスを実施します。車内にはカメラとモニターを設置し、ウェブにて繋がれた各会場と相互に音と映像を共有します。



詳しくは以下を参照していただきたい。
■生成音楽ワークショップHP http://generativemusicworkshop.wordpress.com/
■ジョン・ケージ:ミュージサーカス公式サイト http://www.webdice.jp/suntory_musicircus/
  
イラストレーションはいずれも「生成音楽ワークショップHP」から。
楽しそうだなあ。夢がありますね。昔の都電みたいな路面電車でやるのもいいかも。

ディスク・レヴュー2012年4〜6月期◆Disk Review Apr. - Jun. 2012 vol.2

  1. 2012/08/18(土) 14:35:55|
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【前口上】
 エレクトロ・アコースティック系の即興演奏やフィールドレコーディング作品に続いて、そうではない分野からやはり即興性の高い音楽の注目盤を選んで、レヴューをお届けしたい。前回予告させていただいたように単独レヴューで採りあげたKikuchi Masabumi Trio『Sunrise』と橋爪亮督グループ『Acoustic Fluid』を除き、今回は対象を5枚とさせていたただいた。実は他にも最近届いた注目盤はあるのだが、それは次回7〜9月期に回すこととしたい。以降も必要があれば単独レヴューも織り交ぜながら、できるだけタイムリーな紹介を心がけていきたいと思う(自戒を込めて)。ご期待いただきたい。


Shelley Hirsch, Simon Ho / Where Were You Then ?
Tzadik TZ7638
Shelley Hirsch(vocals), Simon Ho(sequencer,p,acc,org,key) & vn,va,vc,b,dr,per,tuba
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15816
 小編成の弦楽アンサンブルあるいはピアノやエレクトロニクスによる演奏は、ヴォードヴィルやバーレスクの舞台よろしく、曲ごとに鮮やかに場面を転換する。そこに性急な(あるいは落ち着き払った)語りから、甲高く浮かれた、あるいは重々しく垂れ込めた詠唱を自在にこなすShelley Hirschが降り立つ。全体としては語りを中心とした一人オペレッタの様相(コーラスや掛け合いも彼女自身が声音を変えながら多重録音によりこなしている。「オー・ソレ・ミーオ」のような有名曲の断片が引用される場面も)。鼻にかかった甘えた声音のとろけるような甘美さと南国の花々の如く香るエキゾティシズム。「異郷の歌姫」をマルチで演じる彼女は、かつて『Haiku Lingo』でしてみせたように身体をスクリーンの一部としてサウンドを映し出し、変幻自在にそれに溶け込むかと思えば、自伝的作品『O Little Town of East New York』で試みたように多様な声音や抑揚の変化を通じて、身体の内なる記憶から表面に様々なキャラクターを投影し、次から次へ鮮やかな変貌を遂げてみせる。彼女のピグマリオン的な個性と様々な音楽的機械仕掛け(オルゴールを模した音色や遊園地に鳴り渡る世紀末風ワルツ)とがあいまったからくり仕掛けの人形舞台は、同時にミュンヘン・オリンピックの悲劇や9.11等のテロリズム同時代史を背景として、繊細なプロセッシングと多重な投影が複雑な像を浮かび上がらせる。


The New Trio / Melting Game
jazzwerkstatt 101
Gunter BABY Sommer(dr,per), Floros Floridis(as,cl,bcl),Akira Ando(b)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15919
 東独時代から独自の活動を続ける御大ギュンター・ゾマーの新グループはギリシャからフローロス・フローリディスを迎えたトリオとなった。流れる雲を眺めながらそぞろ歩くような冒頭曲から、街頭へと繰り出すドラムを吠え声が煽り、サックスが大道を千鳥足で練り歩くチンドン的(あるいは葬送祭礼的)アンサンブル。むしろ線の細い叙情派との印象が強かったフローリディスも、ここではニンニクと生のままのオリーヴ油の香る地中海エスニック風味の濃い演奏(そこには当然アラビアやビザンティンの影響もうかがえる)を存分に展開している。ベース(日本人奏者か)もまたリズム・セクションの基底を支えるというより、奔放に暴れつつ転がる石に巧妙に角を立て、表現の領野を押し広げている印象。総じてざっくりとした線の太さとそれを可能ならしめている軽妙な筆遣いが見事。トラッド特有の血の濃さ、血潮の熱さをも感じさせる。ジャズの太い根に基盤を置きながら、そこから別の幹を生やし、枝を伸ばし葉を繁らせた街頭徘徊型民族フリー。


Gareth Davis, Frances-Marie Uitti / Gramercy
Miasmah Recordings MIACD019
Gareth Davis(bcl), Frances-Marie Uitti(vc)
試聴:http://www.miasmah.com/recordings/miacd019.html
 チェロとバス・クラリネット。2つの低音楽器が自在に溶け合い、輪郭をあいまいにして重なり合いながらかたちづくるアンサンブルは、白夜の底を覗き込むようなぞっとする深さとどこまでも溢れていく闇にも似た得体の知れない広がりをつくりだす。薄暗がりの中に時折走る目映さと、その傍ら口を開ける漆黒の深淵。絃の軋みに縁取られた輪郭やクラリネットのソノリティが時折水面で身を翻し、その銀色の腹の一部を一瞬垣間見せたとしても、そのほとんどの部分は見通すことのできない水の中に身を沈めている。決して声を張り上げることなく、ゆるやかに闇の底をたゆたい、暗く冷たく思い水をゆっくりと押してくる演奏は、どこかしら黒いヴェールをまとった祈りに似ている。ひたすら水平にたなびき、圧縮された軋みが亀裂を走らせる長尺の5曲目(20分以上に及ぶ)は、彼方に連峰の霞む見渡す限り凍てついた氷原の趣き。両者は時に分かち難く一体となり溶け合って、互いに互いのかげを成すような動きへと近づくのだが、それでも音響のたゆたいやアンビエンスの広がり、多元的な風景の構成へと全てを譲り渡してしまうことなく、あくまでも向かい合う2人の演奏者の身体/サウンドの輪郭にこだわっているように見える。それゆえ音色的には限りなくエレクトロ・アコースティック的でありながら、こちらの枠組みに配した次第。


Reverie Duo / Stagioni
Slam SLAMCD534
Redi Hasa(vc), Valerio Daniele(ac-g)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15634
 彼らは単にメロディアスに音を紡ぐだけではなく、映画音楽的な仕方で常に情景を喚起しながら演奏を進める。ギター絃のさわりとウードにも似たエキゾティックな音色/奏法が交錯しながら艶やかな音の層を織り成し、チェロの闇夜に響く口笛のようにあえかなフラジオがほのかな香りを添え、あるいはヴィオラ・ダ・ガンバを思わせるくぐもった音色が魅惑的な奥行きを醸し出す。両者とも卓越した演奏技量を備えながら、決して演奏の郷土に任せて突き進むことなく、音色の配合への細やかな心遣いと自らをメロディック/エキゾティックな領域に留め置く柔らかな(だが揺ぎ無い)抑制が音に馨しいサイケデリアを与えている。ECMサウンドよりはより雪解けのゆるやかさへと、あるいはポップ・ミュージックのスウィートネスへと傾いていると言えようか。


Marc Ribot / Silent Movies
Pi Recordings P134
Marc Ribot(g,vib on tr.12), Keefus Ciancia(soundscapes on tr.1,3,7,11,13)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=13377
 マーク・リボーと言えば、自身やジョン・ゾーンのアンサンブルでどこかたどたどしくも70年代的な香り高く弾きまくる姿が浮かぶが、無伴奏ソロではより抑制され絞り込まれた音使いにより、一瞬への信じ難い集中を見せる。弾かれた弦が鳴り響き、唸りや軋みをあげる瞬間、マッチ売りの少女が灯したマッチのように、鮮やかなモノクロームの情景が浮かび上がる。かつてDIWからリリースされた『Don't Blame Me』もそうだった。だがここではその時に感じられた鼻を突く燐の臭いや鮮やかな閃光は影を潜め、幻燈のように浮かび上がる温もり豊かな情景を砂絵のようにゆるやかに崩しながら、切々と場面を移ろわせていく。情景の変容と溶暗が想起の中でつくりだす子ども時代の大事な思い出にも似た甘美な起伏。珠玉の短編集とも言うべき各情景のとびきりの叙情性が素晴らしい。むしろ黒鉛筆の様々な筆触を活かして描き込まれた絵本のページを繰る感覚か。本作品は2010年の作品ゆえ新譜とは言えないが、リリース自体最近知ったことからこの枠で紹介させていただくこととした。



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