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ゆらぎの諸作法−「タダマス6」レヴュー  Manners of Fluctuation−Review for “TADA-MASU 6”

  1. 2012/07/29(日) 19:21:17|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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【前口上】
 益子博之・多田雅範(私の言うところの批評ユニット「タダマス」)による「四谷音盤茶会」も今回(7月22日)で6回目を迎えた。企画の継続をまずは喜びたい。今回のゲストは先頃このブログでもレヴューした注目作『Acoustic Fluid』をリリースしたサックス奏者/作曲家の橋爪亮督。また、当日のプレイリストの詳細についてはyotsuya tea partyのページ(*1)を参照していただきたい。
 さて、遅ればせながらの私のレヴューはいつものことながら、必ずしも当日の展開を網羅したものではなく、私の視点/関心によって切り取られたものであることをお断りしておく。


1.サウンドスケープ化の諸形態

 今回の前半は、これまで何度かこの場で指摘されてきたNYダウンタウン・シーンに顕著な方向性を「サウンドスケープ化」(それは「触覚の浮上」をはじめ、多様な局面を指し示した、言わば総括的な呼称である)とくくりながら、そうした傾向のヴァリエーションを改めておさらいするかたちとなった。
 Colin Stetson『New History Warfare Vol.2 – Judges』に聴かれるバス・サックスの重層的な倍音とその向こうで翻る声、Mike Reed's People Places and Things『Clean on the Corner』で弓弾きベースのフラジオ音と溶け合う2管の吐息、Francois Houle 5+1『Genera』における純音志向のクラリネットのどこかぬるりとしたとらえどころのなさ、ヴァイオリンのかすれや倍音がエレクトロニクスの波に溶けていくHugo Carvalhais『Particula』等、フレーズ/フォルムを離れ、トーン/マティエールそのものと化した響きが浮遊する様には、確かに共通の手触りが感じられる。
 その一方で、それがごく限られた一側面だけにスポットを当てた聴取なのではないかと、疑問が浮かぶ瞬間も今回は少なくなかったそのことは。音盤紹介役の益子が「他の曲はストレート・アヘッドなジャズ演奏なのだが、この曲だけはこのような特異な演奏になっている」と何度と無く説明したことにも表れていよう。これらは「たまにはこんなのも演ってみよう」と選ばれた、ひとつの趣向に過ぎないのではないか。こうした「サウンドスケープ化」の彼方にジャズの将来を展望することは、全体の中にごくごく微量散りばめられた要素を、都合にあわせて拾い集めているだけではないのか‥と。
 もちろん、そうとばかりは言えまい。選ばれた細部の間の共通性に「徴候」を読み取る限りにおいては。すなわち多様な領域・分野に渡り(それこそNYジャズどころか、音楽の枠組みにすらとらわれないような)、細部の共通の輝きが星座をかたちづくり、それによって巨大な不可視の何かがゆっくりと照らし出されていくのであれば。そこでは「徴候」としてとらえられる共通の細部が「なぜ共通性があるように感じられるのか」ということ自体が、同時に鋭く問われてくることになる。
 そうした「徴候」の扱いを誤り、ある一見客観的な基準の機械的な当てはめによって「類似」を見出したり、人脈/影響関係、スタイルや地域性に還元し、「傾向」として実体化を急げば、先に述べた陥穽にはまってしまうことになるだろう。
 その点、益子や多田はこれまで「徴候」読みの姿勢を崩すことはなかったように思う。
今回、いささか危うさがあったとすれば、前半のプログラム(選盤・選曲)が橋爪亮督グループによる「十五夜」のライヴ演奏(アルバムに収められた演奏とは異なる)に向けた試行錯誤のアプローチのように聴こえてしまったことだろう。特に直前に置かれたFly(Mark Turner)『Year of the Snake』からの3つのインターリュード的演奏(ここでも「これらの演奏以外は、よりストレート・アヘッドなプレイなのだが‥」と説明が入る)など、まさに「十五夜」的なものの「前夜」のように感じられた。
 いったんこうした構図が描かれてしまうと、「十五夜」があるべきひとつの先端/突出点として「サウンドスケープ化」のスペクトルが描かれるように見えてしまいかねない。そこには西洋/東洋の文化の違いといった、いささか危うい対比軸も含まれてきていたように思う(※)。たしかにこの「十五夜」のライヴ演奏は、非常な深みに達した見事な演奏なのだが、彼らの演奏がこの曲を山頂としていて、『Acoustic Fluid』収録の他の曲は、これに対して裾野を形成しているというわけではない。当日のやりとりでも橋爪自身、この曲/演奏の特異性を強調していた。

※佐伯隆幸はフランス「太陽劇団」の演出家ムヌーシュキンの視点として、偉大なテクストの演劇である西洋演劇と、俳優の技芸としての東洋演劇という対比を紹介している(『記憶の劇場 劇場の記憶』れんが書房新社)。この対比図式自体に問題なしとはしないが、こうした大きな構図の問題系が提出され、なおかつそれが創作へと反映していくのであれば、とりあえず生産的と考えることができる。しかし、西洋/東洋(やさらに細かいエリアごとの)の文化の違いを実体化し、それをさらに他へ適用するとなると問題が多いように思う。益子・多田が時折触れる森本恭正『西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け』(光文社新書)も、角田忠信『日本人の脳−脳の働きと東西の文化』を引くなど、問題が多いように思う。今回の対話でも、「サウンドスケープ化」への志向が、自分たちの文化にはない要素を目指すエキゾティシズムの一種として解釈されるところがあったように思う。音楽はもともとエキゾティシズムを重要な要素/魅力として持っているわけで、そこに話を落としてしまうのでは面白くない。

  
     Colin Stetson         Mike Reed's PP&T       Francois Houle 5+1

  
    Hugo Carvalhais        Fly(Mark Turner)         橋爪亮督グループ


2.ゆらぎの諸作法

 後半はリズム/サウンドのゆらぎに着目した展開となった。こうした傾向も前出の「サウンドスケープ化」の一環ととらえられるのだろうが、それを実現する手法、取り組みの姿勢や目的意識に様々な違いが見られるとともに、最終的な完成形に非常に聴き応えがあり面白かった。
 アルゼンチン出身だというGuillermo Klein & Los Guachos『Carrera』がビートの支えを一片ずつ抜いてフラクタル状にスカスカにしていく、脱構築(デコンストラクション)的なゆらぎは、ラテンの哀愁漂うメロディとの取り合わせにより、どこかアルゼンチン・タンゴを思わせる行きつ戻りつ突っかえるリズムを織り成しているのが大層魅力的だった。また、Tomas Fujiwara & The Hook Up『The Air Is Different』は、「四谷音盤茶会」の常連と言うべきMary Halvorsonのギターのたどたどしい刻みや唸りが、風景を傾け、奥へと回り込むようにゆっくりと回転させていく。ルーズさゆえに踏み外し、縁からこぼれていく響きがとても印象的だ。精密に組み上げたグリッドをずらしていくとか、異なる拍子をぶつけ合わせるといったタイト系とは異なる「豊かさ」が感じられる。「Henry Threadgillがユルくなった感じ」という多田の指摘に同感。
 その御大によるHenry Threadgill Zooid『Tomorrow Sunny/The Revelry, Spp』は流石の出来。今回はドラムスを中心に、アコースティック・ベース・ギターとチューバ、チェロとギターを左右対称に並べた布陣で、シリンダー錠のように同心円状かつ放射状に色分けされた区画が、カチカチと回転して角度を切り替えながら明滅し、音の文様を鮮やかに組み替えていく。といいながら場面が一挙に変わるのではなく、編み上げられた毛糸の色合いや重ね方/交わり方が変化することにより、編み目がねじれていく感じ。Henry Threadgillのリードも、それを背景としてブロウするのではなく、編み込みの中に進入し、その一部となって文様を息づかせていく。寸断されたフラクタルな対位法。あるいは絡まりあうように群れて飛びながら、決してぶつかることのない蝶の集団の動き。益子はベースの武石務に直接聞いたとして「このアンサンブルには禁則がすごく多い」という話を紹介していた。とすれば、相互排除によるスペースの確保とそこへの出入りの作法のルール化ということなのだろうか。

       
Guillermo Klein & Los Guachos Tomas Fujiwara & The Hook Up  Henry Threadgill Zooid

オンラインCDショップ FTARRIが水道橋に実店舗を開店  Online CD Shop FTARRI Will Open a Real Shop in SUIDOBASHI

  1. 2012/07/24(火) 20:16:31|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 世界の自主レーベルからフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング、サウンド・アート等を中心に魅力的な品揃えを続け、私も愛用させていただいている(本当にお世話になっております)、Improvised Music from JapanによるオンラインCDショップFTARRI(※)が、来る8月6日(月)に実店舗を開店する。
※http://www.ftarri.com/cdshop/index.html

 このご時世に実店舗の開設はいろいろと苦労が耐えないところだろうが、そこはCDリリースやコンサート・プロデュース、ミニコミの制作等を行ってきたFTARRIのこと、交流や活動のための拠点スペースの確保といった意味合いもありそうだ。
 場所は水道橋の駅近く。詳しくはマップを参照。

113-0033 文京区本郷1-4-11 岡野ビル地下一階 (金刀比羅神社の向かいのビル)
JR水道橋駅徒歩5分、都営三田線水道橋駅徒歩3分、丸の内線 / 南北線後楽園駅・本郷三丁目駅徒歩8分



 ついてはオープニング記念イヴェントを、本格開店に先立ち8月4日(土)、5日(日)の2日間に渡り開催するという。両日とも4組ずつの出演。充実したプログラムで期待が膨らむところだ。店舗の方も部分的にはオープンしているようで、ライヴの合間に品揃えをチェックしてみるのもいいだろう。イヴェント・スペースの広さや定員がわからないが、そんなには大きくないだろうから、ぜひ事前に予約していらっしゃることをおすすめしたい。


【ライヴ情報】
2012年8月4日(土)/ 5日(日)
各日、開場:午後6時、開演:午後6時30分、午後9時30分頃終了予定

各日、予約:2,000円、当日:2,300円
飲食物の持込可、差し入れ歓迎
予約方法:件名を Ftarri Opening 2 Days とし、氏名、人数、希望日 (8/4 + 5、8/4、8/5) を明記の上、info@ftarri.com へ送信してください。予約締切は、8/4 が8月3日午後11時、8/5 が8月4日午後11時です。
問い合わせ:info@ftarri.com (FTARRI)


【店主 鈴木美幸氏からのコメント】
オンライン・ショップの FTARRI が 2012年8月6日(月)、東京、水道橋に実店舗をオープン!! オープンに先立ち、8月4日(土)と5日(日)にオープニング・イヴェントを開催します。出演陣は両日とも4組、なかなか一度には聴けない顔ぶれが揃いました。彼らの音楽を堪能する間の休憩時間や、開演前や終演後には、店の商品を覗いてみましょう。ひやかすもよし、実際に買ってみるもよし。記念すべき FTARRI の船出をお楽しみください。
お越しのお客さま全員に、粗品 (FTARRI の名前入りタオル) を進呈いたします。
飲食物の販売はありません。必要に応じて、各自ご用意のうえ、持参してください。
店内は常時禁煙です。


日常と伝説−『ドキュメント灰野敬二』レヴュー  Everyday Life and Legend−Review for "A Document Film of Keiji Haino"

  1. 2012/07/19(木) 18:01:32|
  2. 映画・TV|
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【前口上】
 友人たちの評判が良いので、7月7日からシアターN渋谷でモーニング/レイト・ショー上映されている『ドキュメント灰野敬二』を観に行ってきた。観る前にはそれでもいろいろ構えるところがあったのだが、観終わって至極素直に感動したので、今回はこの作品について語ることにしたい。


1.記憶と現実、日常と伝説

 灰野=「灰」の「野原」。
 「本名なんですか」と訊かれることもあるという自身の名前について、灰野はこう絵解きしてみせる。この導入部ではむしろ彼の特異性が暗示される。今の灰野敬二へとなるべくして至った何か宿命的なものが。
 しかし、そうした感覚は、その後たどられる幼年時代からの記憶の中で、いつしか崩れ去り沈んでいく。千葉県市川市に生まれた彼は、川越市に引っ越すまでの間、近くにあった動物園「谷津遊園」へ両親に何度も連れていってもらったと語る。その頃は動物園の園長さんになりたいと思っていたとも。私も母方の祖父母が池袋から市川市に転居した関係で、祖父母の家に遊びに行った際に「谷津遊園」に連れていってもらったことがある。どんなところだったかもう全然覚えていないけれど。灰野の軌跡とのほんの小さな重なり。

 自由にさせてくれた幼稚園、集団の枠にはめようとする小学校、共働きの両親の帰りを待つ親戚の家、バス停まで出迎えに来てくれる母親、おそらくは束の間の息抜きの場となり得たであろう近くの教会の日曜学校、高鳴る期待が残酷に裏切られた子ども会‥‥。
 どこにでもありそうな園舎や校舎の映像、アルバムの古びた写真、ガスタンクのある風景が灰野の語りと共にたどられる。それらはどこにでもありそうな、極めて日常的な(何の特権性も主張し得ない)光景に過ぎない。そこに自宅でインタヴューに応える灰野の姿や、民族楽器のコレクションをうれしそうに取り出す手つき、生演奏シーン(現在の不失者)等が挿入される。
 幼時から小学、中学、高校、ロスト・アラーフへの加入、不失者の結成、初ソロ作『わたしだけ?』の制作、フレッド・フリスとの出会いをきっかけとしたニューヨーク・ダウンタウン・シーンとの交流等まで、時系列に沿った「記憶」の語りと、先に述べた現時点でのインタヴュー、ライヴ映像、CDやDVD制作に向けた綿密なリハーサル等、「現在」のシーンが交錯するが、編集の確かさもあって決して展開が錯綜することはない。過去の記憶は現在としなやかに結びつきながら、しかるべき奥行きを自然とかたちづくっていく。まるで音もなく雪が降り積もるように。

 過去の記憶が、決して現在を説明するために持ち出されているのではないことに、改めて注意しよう。小学校で強い閉塞感を味わい、これに反発を覚え、やがてそれが無視に変わっていったことや、子ども会での悲しい体験が疎外感/孤独感を強めたことが、その後の灰野の形成に大きく関わっているのはもちろん確かだろう。だが、映画はそうやって彼を説明しようとはしない。むしろ記憶の中にある環境を現在の風景や地図でたどり、それらが何の変哲もない、ありふれた街の景色であることを確認する。カメラはちっぽけな現実の手触りを丹念に積み重ねていく。そのことによって灰野敬二という「伝説的存在」を神話化することなく、観客と地続きの日常の中に立たせることに成功している。これは大きな達成だ。


2.伝達の方法−「わたし」と「あなた」を結びつけるもの

 灰野を神話化せず、日常の中に立たせることによって、彼がナスノミツル、高橋幾郎と繰り広げるリハーサルのシーンが、説得力を持つものとなってくる。文字のかたちや大きさを変えた「大」・「中」・「小」にさらに様々な書き込みを加えた灰野自筆の「楽譜」は、神話化されないことによって、訳のわからない御託宣ではなく、彼のやりたいことを何とか伝えるために編み出された、とてもローテクながら真摯に考え抜かれた伝達方法であることが明らかとなる。もちろん灰野は「暴君としての作曲者」ではなく、実現の過程で失われてしまう(あるいは新たに見出される)可能性に極めて敏感な演奏者/共同作業者である。それゆえ実際に試してみる中で、できること/できないこと/改善すべきことが明らかにされ、実際にかたちになったイメージと向き合いながら細かな修正が加えられる。

 このリハーサルや、その後で灰野自身によって説明される、擬態語的(?)に用いられた大きさや形の異なるひらがなに、音の推移を示すと思われる曲線が付された別種の「楽譜」(どこかかつての具体詩というか前衛詩的ではある。私はなぜか村山知義のことを思い出した)、あるいは音の「立ち上がり」や「濁り」をパラメータ/符号化した、また別種の「楽譜」等を見ていくと、これは一種のグラフィック・スコアではないかとの考えが頭を過ぎる。もしそうであれば、パラメータの管理を工夫して、ダイアグラム的な表現や、あるいは電子音楽の楽譜のようなグラフィックの作成も可能なはずだが、おそらく灰野が意図しているのはそんなことではあるまい。彼は音楽を彼の頭の中だけにあるもの、そこだけで鳴っているものとは考えていまい。むしろ「わたし」と「あなた」を結びつけるものとしてとらえているのではないか(ここで「あなた」とは共演者であり、スタッフであり、聴き手でもある。要は広義の「共同作業者」にほかなるまい)。彼が手っ取り早く一人多重録音で作品をつくりあげようとしないのは、そのためではないだろうか(たとえ自分で演奏したものであっても、あらかじめ録音された、その場で変わらない/反応しないものに対し、重ねて演奏する彼自身が嫌になってしまうということもあるかもしれない)。

 Plan-Bにおけるパーカッション・ソロの演奏の映像収録において、彼は照明のオンオフや照度/絞りの変化、カメラのズームのタイミングや度合いを、先ほどの「大」・「中」・「小」を用いた「楽譜」に似たやり方で組み立てようとする(もちろん彼自身の身体の運動や打楽器からの出音、響きの広がり等を含め)。実際、それは不失者の演奏に近い(具体的にはやはり『光と名づけよう』か)。異なる周期で(間歇的にあるいは伸び縮みしながら)繰り返されるリズムが重ね合わされ、ずれ、衝突し、砕け散る。灰野は撮り終えたパーカッション・ソロの映像について「たとえ音が聴こえなくとも音楽を体験できる」と語っているが、まさにこれこそが目指したことだろう。しかも極めて灰野的な仕方で。ねらいを説明し、理解を共有した上で、実際の手順・やり方について提案し、実際に試してみながら、できること/できないこと/改善すべきことを明らかにし‥‥という進め方は、まさにナスノや高橋とのリハーサルと同じである。むしろPlan-Bの方が灰野の撮影や照明に関する知識・経験が少ないため、それだけ試行錯誤が多くなり、集団創造の比率が高まっているが。

 彼は「やりたいことがだんだんできるようになってきた」と語りながら、「もっとこうしたい‥ということを、以前よりちゃんと説明し伝えられるようになった」と付け加えるのを忘れない。彼は亡くなった盟友小沢靖のことを毎日思い出すというが、長年苦労を共にし、阿吽の呼吸で事を進められたであろう彼を失ったことが、灰野に意志伝達の手段について改めて考え抜くことを課したのではないかとも思う。いずれにしても、彼の演奏/音楽が閉ざされた秘術などではなく、こうした開かれた地平を踏みしめ、度重なる挑戦と試行錯誤に支えられていることを、とても丁寧にかつ自然体で示し得たのも、本作の大きな功績だろう。


3.芽生えたばかりの決意

 終盤、がらんとした野外音楽堂で、灰野が「ここ」をひとり弾き語る。声は柔らかな吐息をはらんで聴き手の肌にそっと触れてくる。と同時にその声/言葉は、初めて自分の2本の足で立ち上がったような、まっすぐで瑞々しい決意に満ちている。優しく聴き手を包み込む子守唄であると同時に、自我が芽生えたばかりの子どもの痛々しい決意のひたむきな表明でもあるうたは、観客の心の奥深くにすっと触れてきて、これまでスクリーンに映し出されてきた幼稚園入園以前からの各場面、様々な出来事の甘苦いフラッシュバックを呼び起こす。ぐるぐると巡る、「いま」でも「遠い昔」でもあり、「わたし」のものでも「あなた」のものでもある記憶の群れが立ち騒ぐ。にもかかわらず、映像がとらえるのは、がらんとしたステージの上にぽつんと立つ、たった一人のアーティストに過ぎない。音楽や映画の力の偉大さを感じる瞬間だ。

 映画では屋外の映像であるため意識されないが、サウンドトラックCDでこの部分を聴くと、最後のギターが鳴り止んだ後に続く長い沈黙で、小鳥の声が聞こえる。そして灰野が「終わります」とぼそりとつぶやく。響きの行く末を見定めながら、音楽は永遠に続くことなく、一回一回いつも終わってしまう(終わってしまわないわけにはいかない)という運命、厳正な事実と正面から向かい合うように。


4.終わりに

 本稿でこれまで何度か書き付けてきたように、灰野の伝説化/神話化に与することなく、観客と地続きの日常の中に彼を立たせている点で、本作品を高く評価したい。そして、にもかかわらず、音や映像の力を存分に引き出している点においても。
 むしろ本作品は灰野を聴いたことがなく、名前すら知らない人に観てもらいたいと思う。他の作品との併映や(ドキュメンタリー)映画祭/特集のプログラムに組み込まれる等により、思いがけず灰野の姿を眼にして、あるいは声や演奏を耳にしてしまう人が増えればと願わずにはいられない。



【上映情報】
上映会場:シアターN渋谷(http://www.theater-n.com/)
モーニンク゛・ショー 11:00〜
レイト・ショー 21:10〜

映画『ドキュメント灰野敬二』公式サイト
http://doc-haino.com/
予告編等も見ることができる

不意討ちされて立ちすくむ  Standing Paralized by Unexpected Attack

  1. 2012/07/15(日) 21:11:41|
  2. 批評/レヴューについて|
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【前口上】
 菊地雅章トリオ『サンライズ』には耳をそばだてさせられたが、それでもレヴューに記したように全編に渡ってではなかったし、いかんせん「ブルー・ノート東京」はジャズ・ファンでない者にとっては敷居が高すぎて(値段も)、菊地雅章TPTトリオの来日ライヴの情報を知ってはいたものの、会場に足を運ぶことはなかった(ピアノとギターの共演の難しさに関する先入観も影響したかもしれない)。
 その後、多田雅範や原田正夫がライヴの印象を書き留めているのを読んで、とびきりの演奏が繰り広げられたらしいことを知った。しかし両者とも「絶賛の嵐」というのとは違う。何か途轍もなく凄いもの、素晴らしいものが眼前を通り過ぎたことははっきりと知覚できているのに、どうしてもそれを言葉にできない‥‥と、そんな風なのだ。
 それはきっと思いもかけなかった響きに耳を不意討ちされ、立ちすくんだからにほかなるまい。今回はそのことについて考えを巡らしてみたい。


1.不意討ちされて立ちすくむ

 多田は菊地雅章TPTトリオの演奏の印象を「居合い抜きの連続、持続、能の集中した状態の微動する光速。破綻や緩みなど無く。言葉はもどかしいものだ。宇宙の一瞬に漂う、消失しそうな自我。忘我。」と書き散らしながら、その演奏の聴取/体験が極度の集中を要するものであることを強調している。2ステージを聴き通す演奏ではないと。そして評文の最後を次のように締めくくっている(*1)。
 「他の週のプログラム予告が流れる休憩時間。シュールに身体が冷えて硬くなってゆくのがわかる。だめだ、セカンドステージまで持たない。 」
 もともとステージごと入替制であり、そのため彼が聴いたのはそのうちファースト・ステージだったのだが、それだけのことならこうは書くまい。といって、このほとんど投げやりとも言える幕切れは、文章表現上の演出でもないだろう。聴いていて、身体が飽和してくる感覚というのはあるからだ。それは情報量が過多であるのとは違う。多田の言う通りむしろ集中の問題であり、同時に受容の問題である。音に不意討ちされることなく、耳にした音が次から次へと滞りなくそれなりの景色/構図に収まって、違和感なく消化されていくならば、たとえ飽きることはあっても飽和することはない。飽和を、そして持続し難い緊張をもたらすのは、不意討ちによる生(なま)な世界の露呈の連続である。それはまさに聴き手の生(せい)に揺さぶりをかけてくる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120624

 まだ耳にしたことのない響きに、音の光景に、したたかに耳を不意討ちされ、たじろぎ、打ちのめされ、未曾有の事態にただ呆然と立ちすくむ。その一方で思考は懸命に言葉を、表現を手探りしている。眼前で起こっていることを何とか名指すために。ここで名指すとは切り分けることであり、輪郭/境界を見定めることであり、空間的/時間的順序を整理することにほかならない。それは生きていくための自己防衛(生な世界の耐え難い露呈を言葉によって和らげる)であると同時に、せわしないパニック反応でもあるだろう。
 ただ、そうした反応は単に一時の、事態をやり過ごすためだけのものでは終わらない。この未曾有の事態に強く惹きつけられ、むしろその深奥へと道なき道をかき分け、そこにぱっくりと口を開けた亀裂へと測鉛を垂らし、深みへと降りていくための目印、手がかり、足がかりとして、何とか言葉やイメージを手繰り寄せるということがある。それは決して流暢な文章や鮮明な映像などではあり得ない。切れ切れのなけなしの言葉。ふと耳元で響いた(ような気がした)誰かのつぶやき。音のない不鮮明なモノクロ映像の緩慢な明滅あるいは動いているかいないかのスローモーション(いずれにしてもごく短い断片)。脈絡なく思い浮かんだ小説や映画の題名。夢で見たのかもしれない茫漠とした風景。

 都合よく言葉に置き換え忘れ去ってしまうのでなければ(だから言葉に詰まり絶句することは、実に正確にして正当な事態への、そして世界への対応なのだ)、未曾有の事態は言葉にならない耳の光景として脳裏に、というより身体に刻まれ残っている。それが先に述べた当てのない手探りの果てに、何かの体験や言葉、イメージが引鉄となって、一瞬のうちに思考の霧を晴らし、事態に明確なかたちを与えることがある。ユリイカ!!
 あるいは一瞬のうちに開くことはなくとも、ことあるごとに思い出され(その度に細部の鮮明さを高めていくことも、まったく違ったかたちをしていることもある)、世界の豊かさを増していくこともある。
 こうした不意討ちの豊かさに対し、その場で語り得る言葉の範囲内に体験を縮小(シュリンク)させてしまうことの何と貧しいことか。言葉によって余すことなく仕分けられ、仕立てられた光景(デジタルな再構成?)へと体験を洗浄してしまわないこと。そんなことをすれば、後に残るのはチキン・ナゲットみたいに無味乾燥でバサバサな言葉の集積でしかない。

  
写真は多田雅範のブログから
緊張のあまり遠のいていく意識のように遠ざかる風景



2.「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興」というマジック・ワード

 本来なら耳の不意討ちによって立ちすくむべき事態を凡庸に回避してしまうためのマジック・ワードとして用いられがちなのが「フリー」、「インプロヴィゼーション」、「即興(演奏)」等の語である。これらの語が何ら具体的な内実を伴わずに、言わば自分には縁のない「川向こう」を指し示すために用いられる時、耳の届かなさ、事態の不明さは語と共に運び去られ、便利に片付けられてしまう。
 これらの語は、未だに歴史の埒外に放っておかれたままの「番外地」としての影を引きずっている。それゆえに語の対照区画が厳密に測量されることなどなく、都合の良い「概念の違法投棄場」とされてしまっているのだ。
 逆に言えば、これらの語をご都合主義的にマジック・ワードとして用いる者たちは、これらの語により割り切れない過剰を外部へと一掃し(払われた厄は後ほど別の神殿に祀られることとなるのだが)、その結果として安全に掃き清められた内部は、これまでの歴史や言葉で一切が了解可能であり、割り切れ、語り尽くせると信じている。そんな馬鹿なことはない。実際にはそれらの過剰は、まさに演奏の、音楽の、音の核心部分に棲みついているのだ(これは別にこれらの語と関連性の深い「ジャズ」だけの話ではない)。先のマジック・ワードを弄する者たちの所業は必然的に足元から崩れ去るしかあるまい。

 別にこれは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれる演奏/音楽(たとえばデレク・ベイリー)を聴き知っていることの優位を主張するものではない。そんなことは優位でも何でもない。耳を不意討ちされた際に言葉に詰まり絶句することなく、内実の空疎なマジック・ワード(先の3つだけでなく、「前衛」とか「実験」とか)を安易に用いて何食わぬ顔でその場を切り抜け、事態をやり過ごし忘れ去ろうとするのであれば同じことだ。
 耳の感度(演奏の強度に対する)とは、耳が直面した事態をどれだけ効率よく流暢に言語化できるかではなく、どれだけ不意討ちされ、打ちのめされ、立ちすくむかによって決まる(このことは自戒を込めて書き付けておこう)。

 灰野敬二はオーレン・アンバーチ、スティーヴン・オマリーとの最近の共演(ideologic organからリリースされたばかり)において、トリオの命名を求められて『なぞらない』と名づけている。灰野自身は「〈即興〉じゃないってことだ」と説明しているが、これには補足が必要だろう。ここで「〈即興〉じゃない」とは、もちろんあらかじめ作曲されたとか、記譜されていることを意味しない。その一方で灰野は通常「即興」と呼ばれる演奏が、単に「あらかじめ作曲された(記譜された)もの」の裏返しに過ぎず、準備されていない、行き当たりばったりのものを容認することでしかない安易さを手厳しく批判している(「棺の蓋が覆われて初めて『奴はインプロヴァイザーだった』と言われるかどうかというくらい厳しいものだ」と彼は語っていた)。とすれば、「なぞらない」という語が、いかにも灰野流の絶妙な仕方で、即興演奏の在るべき姿を指し示していることがわかるだろう。彼もまた「即興」をマジック・ワードとしてしまうような仕方と闘っているのだ。


 『なぞらない Nazoranai』


 菊地雅章TPTトリオのライヴに関する原田正夫の文章(*2)では、トマス・モーガンの左手の指使いを巡っていささか唐突に平野威馬雄の自伝的エッセー『癊者の告白』(*3)の名が登場する。そこで原田は多くを語らないのだが、「混血児」という出自に悩み、ドラッグに溺れながら、語学の才を通じて同時に文学に打ち込み耽溺していくことで、人生を貫き通していったこの特異な文学者(その無頼さゆえに「ぶんがくしゃ」ではなく、「ぶんがくもの」と読みたいところだ)が、指先のフェティシズムにもまた浸っていたことを知れば、そこに多くのことが仮託されているのに気づくだろう。ネック上を滑らかに舞う指先の優雅で正確な動きにとどまらず、ここぞというツボを精密に探り当てる鋭敏さ、そして触れることと触れられることが相互に嵌入し甘美に溶け合う匂い立つエロティシズム‥‥。
 ここで思考は結論を急いでいない。当てのない連想を手繰り寄せ、また荷解きしながら、先に見たライヴの光景を見詰め続け、何度となく緩やかに反芻している。思わず顎が動き、じわりと唾が湧く。通り過ぎた美味の後姿を追うというより、後ろ髪を手放さぬまま、まだ飲み込んでしまうのが惜しいというように。
*2 http://timbre-and-tache.blogspot.jp/#!/2012/07/blog-post.html
*3 『癊者の告白』 話の特集社
   『陰者の告白』 ちくま文庫


写真は話の特集社版
カヴァーを取ると真っ黒な表紙に
小口3面も黒という凝った装丁

ロル・コックスヒル追悼  Lol Coxhill RIP

  1. 2012/07/14(土) 21:46:18|
  2. 音楽情報|
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 ロル・コックスヒルが2012年7月9日に亡くなったことを、Richard PinnellのブログThe Watchful Earの追悼記事で知った。1932年9月19日生まれだから79歳。謹んで冥福を祈りたい。
  


 彼のことについては、これまで何度か書いてきた。「ジャズ批評」誌のテナー・サックス特集、惜しまれつつ廃刊した「スタジオボイス」誌の1頁コラム「異端音楽人列伝」(当時、同誌の編集担当だった松山晋也氏に原稿依頼を受けて、同誌に初めて執筆した思い出の記事)、そしてアルカンジェロが国内発売したCD『コックスヒル・オン・オガン』のライナー・ノーツ。今回は追悼の意を込めて、彼について最初に書いた「ジャズ批評」誌掲載の原稿を再録しておきたい。

 その前に思い出話を少し。生前の彼には会ったこともなければ、ライヴ演奏を見たことすらないのだが、彼の演奏は好きでディスクは結構集めていた。ソプラノ・サックス奏者としてはスティーヴ・レイシー以上に好きかもしれない。
 もうだいぶ前のことになるが、とある日本のソプラノ/ソプラニーノ・サックス奏者から「レイシーの凄さ」について聞かされたことがある。彼によれば、そもそもソプラノ・サックスというのはレイシーが吹いているように飛び飛びの音程をすぱっすぱっと切れ味よく出せる楽器ではないのだとのこと。「即興がどうのという以前に、レイシーはまずそこが凄い」と言われた。確かに鉱物のかけらを思わせる硬質な輪郭をたたえたレイシーの音色に比べると、コックスヒルのサウンドは何というか口ごもるようにくちゃくちゃとしている。レイシーの描線が鋭く彫り込まれた銅版のエングレーヴィングだとすれば、コックスヒルの軌跡はドライポイントの版面をぐりぐりと引っ掻き回したように見える。あるいは筆触だけを頼りに、暗闇でペンを走らせたようなサイ・トゥオンブリのドローイングを思い浮かべてもよいかもしれない。けれど、そうした「解像度の低さ」が固有の語り口へと高められているのが、コックスヒルの味わいだと思う。古今亭志ん生の語りには「ふら」があると称されたが、そんな感じ。そこがまた禿げ頭のいなせな職人を思わせる彼の風貌ともよく似合っている(レイシーの哲学者/求道者的佇まいとの鮮やかな対比)。

 ライナーを執筆した『コックスヒル・オン・オガン』はフリー・インプロヴィゼーション系の作品なのだが、彼の音楽世界の全体(もちろん私の知る範囲においてだが)をぐるりと眺め渡した時に、そこが彼の特質が一番発揮された領域だとは必ずしも思わない。50年代の英国ジャズ草創期から、ビバップはもちろん、ラテン・ジャズ、ソウル、ファンク、ブルース等を自在に吹きまくり、クラブをはしごして仕事していた彼は、ラジオから流れるポップスや道端のパブで奏される軽音楽が本当に好きだったんだろうと思う。デヴィッド・トゥープ、スティーヴ・ベレスフォードら、はるか年下のフリー・ミュージック界の「アンファン・テリブル」たちと摩訶不思議なパーティ・バンド〈ザ・プロムネーダーズ〉を組んで、童謡からロックまでポップス・メドレーを演奏してみせた(全編、彼がリードを取って吹きっ放し)のは、決して実験や諧謔のためではなかったろう。ちなみに、なぜかこのバンドは全員が変名で参加していて、彼はロクスホーン・ロンドーと名乗っている(フランス貴族かって)。

 「飄々とした」というのは、おそらく彼の演奏/音楽性を形容するキーワードになる語だと思うのだが、ここでひとつ注意しておきたいのは、「飄々」性が本来的に有している一定の距離を置いた醒めた傍観者性のままに枯淡の境地に至ってしまうことは、彼の場合、決してなかったということである(彼の「枯れ具合」を高く評価する向きもあるだろうが)。彼の演奏/音楽性の切っ先は、いつだって音楽が熱く息づき溢れ出す核心に届いていた。
 その一例として挙げたいのは、英国キャロライン・レーベルからリリースされた彼のソロ名義の作品『ウェルフェア・ステート』である(Lol Coxhill『Welfare State』(Caroline Records C1514))。もともと「ウェルフェア・ステート」とは英国の劇団の名前で(かつて利賀演劇祭で来日したこともある)、コックスヒルがその音楽監督を務めたことから、この作品が制作された。表及び裏ジャケット、さらには付属のポスターには劇団の公演の様子をとらえたスナップショットが散りばめられており、それを見るとフェイス・ペインティングをしたブラス・バンドが街頭を練り歩き、巨大な藁人形が野外で燃やされるといった、民衆文化の基層から汲み上げた豊かな想像力をサーカス的な身体を通じて解き放つパフォーマンスが実に楽しそうだ。
 アルバムの冒頭、いかにも英国の片田舎という田園風景を背景に、コックスヒルのソプラノがまるで鼻歌のような気楽さで滑り出す。むしろクラリネットのようなオールドタイミーな温もりとふくらみのある豊かな抑揚をたたえたラインが、ふと急流に差し掛かって舌がもつれるようにサウンドが泡立ち、そこを抜けると視界がすっと晴れ渡って管のアンサンブルが姿を現す。突然、人数が増えたように感じられ、演奏が熱く息づき踊り出す。思わず「いま音楽が生まれた」と言いたくなる瞬間だ。ディキシーランド・ジャズがニューオリンズの紅灯街ではなく、英国の片田舎の田園地帯、ひなびた水車小屋のある小川のほとりに生れ落ちたという風情。ブラスの咆哮に木管の声音が、重々しい足取りに軽快なギャロップが、ぶかぶかしたチューバの低音にテニス・ボールのように弾むチェロの中低域が取って代わる。サイズこそエコノミックに縮小しながら、そこに秘められた熱さにはぴりりと胡椒が効いている。「指人形のスペクタクル」とでも言おうか。

 ついでに彼の作品からお気に入りを5枚選ぶとしよう。まずはやはり彼のソロ名義の初作『イアー・オヴ・ビホルダー』。彼のすべてがオモチャの缶詰のようにぎっしりと詰まっている。次いで先に挙げた『ウェルフェア・ステート』。ライナーを再録した『コックスヒル・オン・オガン』もインプロヴィゼーション系と敬遠されそうだが、ノン・イディオマティックな点描主義や互いの手の内の探りあいに陥ることなく吹きまくりながら、どこまでも果てしなくズレていく彼を聴くことができる。80年代後半から90年代前半を過ごした仏ナトー・レーベルからは、あえて(それなりに)有名なメロディ・フォー系ではなく『カフェ・ド・ラ・プラス』を。アコーディオンとの洒脱な辛みが楽しい。最後はモーガン・フィッシャーと組んだ『スロー・ミュージック』。コックスヒルはエコー・マシーンを用いたソロを初期から行っているのだが、ここまでアンビエントに徹したものはない(ただし主導権はフィッシャーにある)。この作品の素晴らしさはかえって現在の方がわかるのではないか。薄暗く落ち着いた涼しさと滑らかさは、上等な吉野葛を用いた和菓子のようだ。

    
    『Ear of Beholder』        『Welfare State』         『Coxill on Ogun』       『Cafe De La Place』        『Slow music』

 最後にオマケを1枚。ディヴ・ホランド(pf)、コリン・ウッド(vc)と組んだジョニー・ロンド・トリオのシングル盤。ホランドのデュオはFMPからLPリリースされているだが、ここではあのようにフリーに流れず、パブ向け軽音楽一直線。こうした音楽はホール・ワールドの同僚デヴィッド・ベッドフォード(pf)と『イアー・オヴ・ビホルダー』でも演っているし、同じくベッドフォードいっしょに、ケヴィン・エアーズのライヴ・ショー『バナナ・フォリーズ』でも披露している。いずれにしても英国下町系。


    Jonny Rond Trio



 14歳の時、パーカー、ガレスピー、サラ・ヴォーンによる「ラヴァー・マン」を聴いてジャズに目覚めたというコックスヒルは、1940年代後半から幾つものクラブ・バンドを渡り歩いてジャズ、アフロ・キューバン、ソウル、ファンク、ブルース等、様々な種類の音楽を演奏してきた。68年に「デリヴァリー」に加入。プログレ人脈カンタベリー・ツリーに関わりを持つようになる。その後、ケヴィン・エアーズのグループ「ホール・ワールド」に参加。そこでの同僚デヴィッド・ベッドフォードらの助けを借りて初ソロ作『イアー・オヴ・ビホルダー』を録音。この時点ですでに50年代から手を染めていたというソロ・インプロヴィゼーションをはじめ、環境音を背景とした野外録音、ピアノ伴奏付きの陳腐な俗謡、エコー・マシーンを用いた一人多重的演奏、自身による語り、ブラジル音楽、子どもたちの歌‥‥と、後の彼の活動の原型がすべて出揃っていることは注目に値する。彼のパブ・ミューザックと古き佳き時代のマイナー・ジャズへの偏愛は、常に彼の音楽にどこかノスタルジックでユーモラスな調子を与えているが、彼の演奏がそれゆえに追憶の中に自閉してしまうことがないのは、先に見たように彼のつくりだす音が多様な「夾雑物」に対して開かれ、「異物」によって侵されるヴァルネラブルな存在であるからだ。そこに働いているのは一種生理的な〈OFF〉感覚とでも言うべきものだ。
 微かにかすれ空間的な隙間をはらんだ牧歌的な音色〈OFF〉。その音色の佇まいそのままにゆったりと中空を旋回し続け、決して高みを目指すことなく、むしろその都度ピッチを踏み外していくようなフレージング〈OFF〉。彼の語り口は、鋭いエッジによって空間を切り開き、急速に昇り詰めるレイシー〈ON〉の対極にある。あるいはデレク・ベイリーによる「カンパニー」〈ON〉に参加し、またデヴィッド・トゥープ、スティーヴ・ベレスフォードといった過激な偶像破壊者〈ON〉と活動を共にしながら、どこか一歩外れて傍らにポツンと一人ぼっちで立っている〈OFF〉‥。こうした〈OFF〉感覚こそが、彼の活動の夢見るような多様さを支える強靭な「偏心軸」なのだ。
※「ジャズ」批評71号(1991年)から再録。


最後に画像のオマケ。
Lol Coxhill『Toverbal Sweet』

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