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マティエールの感染−「マックス・エルンスト展」レヴュー−  Infection of Matiere−Review for "Exhibition of Max Ernst"−

  1. 2012/06/27(水) 21:53:08|
  2. アート|
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 横浜美術館で開催されている(6月24日まで)「マックス・エルンスト−フィギア×スケープ 時代を超える像景」を観てきた。今回はそのことについて書いてみたい。
 なお、今回の作品展示はコラージュ、フロッタージュ、挿絵原画、油彩等、多岐にわたるものであったが、そうした幅広さすらもエルンストの広大な作品世界の一端を明かすに過ぎず、かえって彼の多彩さ/多才さを印象づけるものとなった。それゆえ本稿では「エルンスト論」的な構えは採りようもなく、ただ気づいた点、印象に残った点等を幾つか記すにとどめたいと思う。
  
マックス・エルンスト展ちらし


1.精密さへの志向

 今回の展示でまず驚かされたのは、エルンストの精密さへの揺ぎない志向である。挿絵原画は思った以上に小さく(印刷の原寸大?)、ほとんどミニアチュールと言ってよいほどで、(部分によっては)実に細密に描き込まれている。また、コラージュ作品では、各断片を貼り合わせた跡がまったくと言ってよいほど見られない。紙の地の色そのものが違うので、「この部分が貼り付けられた断片である」ことはわかるのだが、その断片の切り抜かれた輪郭を看て取ることはできない。上から貼り重ねられた厚みも感じられない。そこから浮かび上がってくるのは、コラージュによってもたらされるシュルレアリスティックな画面の「あり得なさ」を、魔法のように浮かび上がらせたいという欲望もさることながら、むしろ精密に貼り合わせること自体に対するフェティッシュな志向のように思われる。

 さらに『マクシミリア(Maximilia)』への一連の挿画においては、滑らかなドローイングによるフィギアから〈絵文字〉、象形文字を経て、ばらばらに振り撒かれたアルファベットに至る段階的な形態変化の相の中で、端正に並べられた〈絵文字〉が平面構成の主役となっている。それぞれの〈絵文字〉は、隣接性の原理を絶妙なバランス感覚で適用され、見事に凹凸を組み合わせており、一様な密度のブロックを形成している。それによって現れる空白部分の配置の完璧さは、空間恐怖に突き動かされた「詰め込み」の息苦しさを一切感じさせることがない。エルンストにおいて、細密さは正確無比な精密さを経て、広々とした余白/空間の開放へと結びついているのだ。

 このことは今回展示された最初期の作品から、彼の印刷された文字や図版への嗜好とというかたちですでに現れている。また、彼のコラージュ作品に素材として、雑誌から採られた銅版によるモノクロの挿絵(特に科学実験の場面が多い)が多く用いられているのも、濃淡の度合いをつくりだすために刻まれた線の細密さ/精密さと、印刷されることによって得られる「揺ぎなさ」の感覚ゆえではないだろうか。
    
  「白鳥はとてもおだやか…」       「鏡の中の天使」
わずか8.3cm×12cmという細密さ  同様に12.3cm×11.5cm

        
  『マクシミリア』挿画から  ドローイング集「Fiat Modes」表紙
  絵文字による平面構成  印刷された図版と文字の揺るぎなさ


2.マティエールの感染

 エルンストの作品を画集等で見る時には、「コラージュ・ロマン」のような作品系列が存在することもあって、コラージュはコラージュ、フロッタージュはフロッタージュ、デカルコマニーは‥‥と技法によって作品を分類してしまいやすいように思う。少なくとも私はそうだった。今回の展示を観て改めて気づかされたのは、そうした各手法による効果が、個別の作品やシリーズの枠組み(前述の「コラージュ・ロマン」や一連の挿画等)を超えて、互いに流れ込みあっている点である。

 たとえば油彩作品の一部にもやもやとしたデカルコマニーのマティエールが現れ、それが背景に仕込まれた、パレットナイフによるキュビスム的な切子面と対比されつつ、さらに様々なフィギアがコラージュ的に配される。ドローイングはコラージュ素材の銅版画による線を模し、別の油彩はグラッタージュ(絵具を掻き取る技法)のタイル面にも似た滑らかで硬質な輝きをたたえている。また、ドローイングや油彩の別を問わず、至るところに全体構図とは異なる「別の遠近法的空間」(時にそれは極端に簡略化され、単なる矩形と斜線の組み合わせに至っているのだが)がコラージュ的に仕込まれる。

 こうした効果の「流入」(「導入」と言うほど意図的ではなく、むしろ「なってしまった」感が強い)は、前述のように作品の枠組みを超えて飛び火しており、事後的な「感染」の印象すら与える。すでに描きあげた作品が、後から病に冒されて、そのマティエールをそのように変質させてしまったとでも言うように。
    
       「風景」              「つかの間の静寂」          「三本の糸杉」
 デカルコマニーのもやもやとした肌理やグラッタージュの光沢   周縁部に仕込まれた別の空間


3.ドイツ・ロマン主義の流れ

 エルンストのコラージュは、必ずシンボリックな物語を連れてくる。これは「コラージュ・ロマン」の作品群に限ったことではない。そこに現れるフィギアは記号的な装飾や類似した部分の拡大/縮小された投影を通じて、夢に似た換喩的な範列をかたちづくり、時に有名な「ロプロプ」のような「キャラクター」すら生み出すに至る。彼(=ロプロプ)もまた作品の枠組みを超えて神出鬼没な活躍を繰り広げるだろう。

 そうしたシンボリックな物語への志向は、彼をドイツ・ロマン派的なものへと結びつける。また、彼が繰り返し描いた奥深い森は、シュヴァルツヴァルト(黒森)のひんやりと湿った空気を連れてくる。そこに途方に暮れたように佇むフィギアとともに。そうした作品を見ると、やはり彼をドイツ・ロマン派、とりわけカスパー・ダーフィト・フリードリヒ以来の流れに位置づけたくなる。
 今回の展示の中で、フリードリヒの代表作のひとつである『海辺の僧侶(修道士)』が巻き起こした騒動(「何て空虚で非人間的な絵だ!」等の轟々たる非難が巻き起こった)を題材とした(非難を揶揄した‥ということはフリードリヒを擁護した)著作に、エルンストが提供した挿画を見ることができた。やはり‥と、そこに通ずる血脈の濃さを思わずにはいられない。
    
      「石化した森」          「少女が見た湖の夢」        「自由の称賛」
    奥深くしめやかな森に潜む神秘的ロマンティシズム     そこに淋しげに佇むフィギア


【追記】

 特別展示であるマックス・エルンスト展を観た後、そのまま同じフロアで横浜美術館の収蔵品による展示を観て回ることができた。現代美術の有名作家の作品(ブランクーシ「空間の鳥」をはじめ立体作品も多い)が幾つも並んでいたが、特に印象に残ったのは写真のゼラチン・シルバー・プリントの展示だった。
 ひとつは「シュルレアリスムと写真」と題された展示であり、マン・レイ、アンドレ・ケルテス、ジャック=アンドレ・ボワファール、ブラッサイ、果てはハンス・ベルメール等による、それこそ教科書で見るような作品が並んでおり、改めてその静謐な喚起力を味わうことができた。特に惹かれたのは、初めて観るインドリッヒ・シュティルスキー(Jindrich Styrsky)の『この頃の針の先で(From On the Needle of These Days)』と題されたシリーズからの作品で、9.4cm×9.0cmという本当に小さな区画の中に、古い家の階段の踊り場に置き忘れられたような記憶が詰まっている。ジョセフ・コーネルの〈箱〉にも似た感慨を覚えた。

 もうひとつもやはり写真なのだが、中平卓馬の作品が彼の第一写真集『来たるべき言葉のために』の頃の作品から、倒れた後、活動再開後の『原点回帰−横浜』所収の作品まで、やはり大判のゼラチン・シルバー・プリント等で並べられていた。
 たとえば1971年にパリで行われた第7回青年ビエンナーレ展に、その場で撮影した写真(新聞の紙面やTV画面の映像等を含む)を即刻展示することで応じた『サーキュレーション−日付・場所・イベント』からの抜粋は、ゴダール『気狂いピエロ』を思わせるポップな速度と切断の美学(性急な切断が更なる加速を招き寄せ、破滅的な加速がさらに痙攣するような切断を呼び込む)が踊っている(今年4月に作品集として出版されていたことを後から知った)。
 『プロヴォーク』時代の「アレ・ブレ・ボケ」によっていまだに森山大道と並べて語られることの多い中平だが、彼が焼き付ける、こちらに向けて問答無用に立ち上がってくる危機的な光景は、森山が都市の片隅に見出す点景とは、ずいぶん距離感やこちらに切迫してくるモーメントが異なっているように思う。
 中平の写真を読み解くカギは、初期のモノクロームに荒々しく切り取られた光景であっても、活動再開後のカラーによる一見凡庸に何かをそのまま「写した」写真であっても(今回の展示にはおなじみの猫やベンチで寝ているオヤジの姿はなかったのだが)、背景や地面がこちらに垂直にせり上がってくるように撮られ、視線が画面上を揺らぎさまよわざるを得ない〈オールオーヴァネス〉にあるように思う。
 画面に写り込んでいるのが猫や寝ているオヤジの姿であるがゆえに、私たちはそれをよく見知ったものとして、ろくすっぽ見もしないでざっと画面をスキャンし、簡単に輪郭をトレースして図像を浮かび上がらせ、被写体として特定し、何か「写真を見た」気になってしまう。だが、彼の写真の特質は、そうした被写体特定のプロセスが発動してしまう手前にとどまることによって明らかになるだろう(図像/フォルムを浮かび上がらせにくくするものとしての色相、写真集見開きページのレイアウトにおける濃淡や形象のシンメトリカルな配置等)。
 視覚や風景について思考を進めていく上で、彼は非常に重要な(そして稀有な)作家ではないかと見当をつけているのだが、まだ、充分に考えることができないでいる。今後の宿題としたい。
  
 インドリッヒ・シュティルスキー『この頃の針の先で』より

    
  中平卓馬『サーキュレーション−日付・場所・イベント』より    『来たるべき言葉たちのために』より

「現在進行形のジャズ」を巡って  Around "The Shapeof Jazz Now Coming"

  1. 2012/06/22(金) 23:23:32|
  2. 批評/レヴューについて|
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 【前口上】
 音楽批評サイト「com-post」に先日掲載されたばかりのクロス・レヴューで、益子博之が「現在進行形のジャズ」という語を用いている(*)。私はジャズについてはおよそ語る資格がないが、自分の好んで聴いている音楽を、やはりどこかで「現在進行形」とみなしているところがあり、そうした自分の姿勢や考えを整理するためにも、この機会に「現在進行形」について考えてみるのも悪くない。というわけで、今回は「現在進行形」を巡って書いてみたい。
 *http://com-post.jp/index.php?itemid=630


1.「現在進行形」の魅惑

 「現在進行形」とは確かに魅惑的な語だ。そこには産み落とされたばかりのみずみずしさがあり、と同時にそれを見出す者の眼差しの強さを感じさせる。先ほど述べたように、私も自分が好んで聴いている音を、ある種の「現在進行形」ととらえているように思う。いま思わず「ある種の」と書いたが、それだけ「現在進行形」という語が指し示してしまう範囲が広いということだ。それゆえ混乱を避けるために、まずは「現在進行形」の諸相(と私が考えるもの)を概観しておこう。


2.「現在進行形」とは(1) 現況/現状としての「現在進行形」

 まずは「現在進行形」の語が「現況」とか「現状」という意味合いで、現在のあるシーンの全体的な布置を指し示すために用いられる場合がある。この種の「現在進行形」を語ることは、どうしても状況論になりやすく、大雑把な「標語づくり」に陥ってしまいがちであることを注意しておく必要があるだろう。「いま〇〇の時代って言われてるじゃない。で、オレが思うにはだね‥」と始まる話は、たいていこの陥穽にはまっている。音楽であるならば、作品や演奏の具体的な細部に触れることなしに、批評たり得ることは難しい。そして個別具体的な細部から状況までの距離の何て遠いことか。もちろん、細部から積み上げて状況を語るのではなく、その細部を有する作品や演奏を、時代状況を突き抜ける特権的なものとして語るという論法はあるのだが、それはそれで典型的な物語にはまりやすい。革新者/革命者の系譜としての音楽史。たとえばロックの「歴史」は、いったいどれだけ多くの革命の象徴を抱えているのだろう。


3.「現在進行形」とは(2) 最新モードとしての「現在進行形」

 続いて、今までのモードを書き換える最新モードを「現在進行形」と称する場合がある。ジャーナリズムが用いる「現在進行形」はたいていこれだ。この場合、「今までのモードとは何か」、「最新モードの〈新しさ〉とは何か」を論者が規定するところに、一種のトリックが生じ得る。「今までのモード」とは「これまでの流行」であったり、「業界標準」であったり、「とりあえず聞きなれた『いつものやつ』」だったり、何でもござれだ。同時に〈新しさ〉の定義も千差万別、多種多様、自由自在。すると当然のことながらある種の逆転が生じて、売り手側が勝手につけた「キャッチ・コピー」が〈新しさ〉を保証し、当の対象を「現在進行形」に祭り上げるということが起きる。「〈新しさ〉の捏造」とでも言うべきか。
 そもそもモードの移り変わりの中で評価されるのは、過去と地続きの延長線上に現れる「わかりやすい未来」でしかない。瞳を、耳を不意討ちするような存在は、そもそもモードたり得ない。印象派、ダダイズム、未来派、キュビスム、シュルレアリスム、構造主義等、かつてのようにわかりやすい宣言や党派が運動を主導する「イズムの時代」はもうとうに終わってしまった(それはアルフレッド・バーが作成した有名なフロー図として歴史化されている)。いまやモードはもっと消費中心の並列的な(横一線にずらりと並べられて、どれでもよりどりみどりの)何かだ。だが、たとえそうだとしても、では最新流行の、いま一番売れているものが「現在進行形」なのだろうか。「そうだ」と言うなら話は早い。ならばAKB48が「現在進行形」なのだ。彼女たちがジャズ・ナンバーを採りあげたなら(決してあり得ない話ではあるまい)、それが「ジャズの現在進行形」ということになる。だが、そんなにもわかりやすい話で果たしていいのだろうか。


4.「現在進行形」とは(3) 〈不意討ち〉するものとしての「現在進行形」

 そして三番目に、前二者と比べて、いかにも不安定な「現在進行形」がある。ふらふらとさまよいでて、あてもなくただよい、いまのところ位置づけも帰属先もよくわからない音の群れ。それが〈新しさ〉なのかどうかも未だ明らかではないが、それが聴き手の耳を不意討ちし、途方に暮れさせ、いまのはいったい何だったのか‥‥と、それについてまた聴きたい、語りたいという欲望を強く惹き起こす限りにおいて、それを「現在進行形」と呼んでしまおうというわけだ。それは潮流のぶつかりあいがたまたまつくりだした砂洲のようなもので、しばらくしたらかげもかたちも消え失せてしまうような、束の間の儚いものかもしれない。歴史の流れに痕跡すら残さないかもしれない。たとえそうであっても一向に構うまいというのが、ここで「現在進行形」の語に込められた潔さと解すべきだろう。
 先ほど「イズムの時代」の話をしたが、「前衛の時代」ももう過ぎ去って久しい(両者はほとんど同じものだった)。先の「現在進行形」が前衛として時代を革新し、やがて光栄舞台がこれに追いついて、前衛は古典となり、歴史化されるという物語はもう成立しようがない。「今日のチャーリー・パーカーは、昨日のパーカーとはまったく違う姿でこの地上のどこかで演奏しているだろう」(高橋悠治)。だが誰もそれに気づかない。逆に言えば、将来古典となる可能性が「現在進行形」を支えているわけではない(同様に「将来の値上がり可能性」もまた。音楽は株券ではない)。
 と言って、それはもちろん単なる「マイ・ブーム」とは異なる。それは「語りたい欲望」が紡ぎ出した思考をたどれば明らかになるだろう。耳を不意討ちしたのがいったい何物であるのか。思考はこれまでの体験や知見を懸命にスキャンしながら、この未曾有の事態をとらえ名指すべき言葉を探し求める闘いを展開する。それが思わず惹き込まれるように魅惑的なものであるならば、それは彼/彼女が見出したかけがえのない「現在進行形」なのだ。そしてその「現在進行形」の闘いに参加するならば、それはあなたにとっての「現在進行形」ともなり得るだろう。


5.「現在進行形のジャズ」

 益子博之の言う「現在進行形」を、私はこの最後の定義において受け止めている(今回のディスク・レヴューの「余白」に書き留められた言葉は、具体的な細部の描写分析に欠け、そのぶん状況論やモード論に傾いているが、それはしょうがない)。彼は、多田雅範とともに主催するイヴェント「四谷音盤茶会」で、彼の耳がとらえた「現在進行形のジャズ」を提示し続けている。そのセレクションを「偏りがある」と非難することは簡単だ。だが、シーンの方向性や将来像が共有され、誰の眼から見てもそれに合致する作品があるとしたら、先ほどの定義からすればそれは「現在進行形」ではあり得ない。
 それゆえ「現在進行形のジャズ」はジャズの将来をまったく保証しない。それは後になって、ジャズとは似ても似つかぬ異なる名前で呼ばれるかもしれない音楽である(もちろん後になって、「これこそがジャズだ」と言われる可能性だってある。それは否定しない)。フリー・ジャズが登場した頃には、単に「ニュー・シング」と呼ばれていたことを思い出そう(現在の「フリー・ジャズ」は古色蒼然たる伝統芸能としてのジャンルか、あるいは依然として歴史化されることのない「よくわからないもの」をとりあえず放り込んでおく「隔離室」の名称みたいになっているが)。
「現在進行形」として指差されているものが、ひとまとまりのまま推移して、後に名称が与えられる可能性は決して高くはない。それは空を流れる雲のようにすぐに形を変えてしまうし、だいたいが夜空に輝く星座みたいに、たまたま〈いま/ここ〉から見ているからあのようなかたちをしているだけかもしれないのだ。


6.「現在進行形」と批評的瞬間

 私が自分の好んで聴く音をとらえる場合の「現在進行形」の感覚も同様である。それは何よりも素早く変化/推移している。植物の根の先端の最も細胞分裂が盛んな「成長点」。それゆえ輪郭を明確にとらえ難いにもかかわらず、そこには共通の匂いや手触りがあって、ひとまとまりに論じたい欲望を掻き立てられる。いや、むしろひとまとまりにとらえることによって、かろうじて目鼻がついてくるような気がする‥‥と言った方が正確かもしれない。魅惑的な相貌をたたえた細部が、様々な予兆や暗号めいた符合、思わせぶりに交し合う目配せを通じて、探索を思考を誘っているように感じられる。それは端的に「魅力的な謎」と言ってもいいかもしれない。
 「そこに何かある」というのは、研ぎ澄まされた直感の帰結であるとともに、批評の到達点にして新たな始まりでもある。その点で批評とは「賭けること」にほかならない。

 耳を不意討ちされて立ちすくみ、思わず音のした方を見据える。眼が暗闇に慣れてくるにつれ、何か景色のようなものが浮かんでくる(これは言葉の世界でも同じだ。意識が深みへと降り立ち、視界が澄んでくるにつれ、新たな言葉のつながりが見えてくるようになる)。景色が明らかになるに従い、そこから逆に照らし出されるように、見詰めている私自身の身体が浮かび上がる。それとともに同じ方を見詰めている人影が他にもあるのに気づく。「ここには何かある」との確信をいよいよ深める瞬間がそこにある。


      
    私の耳のとらえた「現在進行形」の音盤からの5枚

同じ景色を見詰めること−菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー− Looking at the Same Scapes−Disk Review for Masabumi Kikuchi Trio "Sunrise"−

  1. 2012/06/09(土) 19:13:07|
  2. ディスク・レヴュー|
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1. 黙って行き違う音たち
 スラーで結ばれた下降する音階のように、演奏が進むにつれ、冒頭2曲の凍りつくような特異性は次第に緩み、まるで雪解け水がほとばしるようにピアノとドラムの音数が増し、フレーズが紡がれていく。それでもベースだけは、禁欲的なまでに音数を限り、寡黙さを貫き続ける。いやこれは誤解を招く言い方だ。Thomas Morganは自らフレーズを紡ぐことを禁じてなどいない。彼は然るべき地点で、然るべき音を放っているに過ぎない。それを禁欲性とか寡黙さと取り違えてはなるまい。それではこの悠然としたトリオ・インプロヴィゼーションにおいて、然るべき地点、然るべき音とは、どのようにもたらされているのだろうか。

 しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
 ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。

 ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。


2.寸分違わぬ同じ「景色」

 出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
 「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り替えすが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。

 最初に記したように、3曲目、4曲目と演奏が進むにつれ、次第に彼らは線を描き、フレーズを紡ぐごとに近づき始める。いや、それはそう意図してのことではないだろう(そこには冒頭2曲のきっぱりとした香りが依然として漂っている)。閉じたブロックを形成しない「開かれた強度」が弱まるにつれ、演奏は自らを宙吊りすることに耐えられなくなり、ついには足が地に触れてしまう、その結果、そうした地点に「着地」してしまうとでも言ったらよいだろうか。急速調の演奏だから、隙間が詰まり線がつながってしまうと言うわけではない。ゆったりとしたバラードであっても、フレーズを排する抽象的な強度は、演奏が進むにつれ、確実に弱まっていく。フレーズを紡ぎ出すことにより線を描き、指先を伸ばして、他の演奏者の線と交わる気配を触覚的に手探りしようとしている。そこには、ここぞという目にぴしりと石を打ち、正確無比にツボに鍼を置き、迷うことなく中心を射抜く冴えはない。

 だが、それは演奏の水準が高くないことを示すものではない。むしろ冒頭の2曲が「異常」なのだ。そこには空が白むまでまんじりともしないような、冴え冴えとした覚醒感がみなぎっている。かつてレヴューしたFarmers By Nature『Out of This World's Distortions』(*1)のやはり冒頭曲、録音の直前に逝った盟友に捧げた名演「For Fred Anderson」にも匹敵する強度がそこにはある。Gerald Creaver, William Parker, Craig Tabornの3人は息も凍るほどしんと張り詰めた空間の中、肌が触れ合う至近距離で交錯しながら(ここで彼らは決して音域で棲み分けることをしない)、「同じ時間を呼吸しない」ことを、唯一のルールとして共有している。彼らが「同期しないこと」の強度を極めていたとすれば、ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。
*1 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-119.html


3.「短詩型文学」との印象

 当初録音された演奏から2曲を除き、改めて配列し直したというPaul Motianが意図したのは、音楽批評サイト「com-post」のクロス・レヴューで益子博之が指摘していた通り(*2)、最初と中間と最後にバラードを配した「バラード中心の構成」と言うことで間違いないだろう。しかし、最初に述べたように冒頭2曲の特異性は次第に薄まっていくのだから、本作の魅力は10曲全体の配分(それはそれでもちろん見事なものなのだが)よりも、冒頭の2曲に集約されていると言ってよいのではなかろうか(いやいっそ「尽きている」と言うべきか)。益子も実はそのことに気付いていただろう。だからこそ4月22日の「第5回四谷音盤茶会」では、この2曲をかけたのに違いない。私が本作を初めて聴いたのがその時だった。
 そこでの鮮烈な印象はブログに記した通り(*3)だが、本作を手に入れて、自宅で全編通して聴いた印象はかなり違ったものとなった。いささか当惑して繰り返し聴くうちに、違和感はさらに明白なものとなっていった。ある意味、出会いの「原点」に立ち返って、冒頭の2曲を他と切り離し、むしろ残りの部分と対比させ、それらによって冒頭の2曲を逆照射するような聴き方に至るまで、ずいぶん時間がかかってしまったことを白状しておこう。
*2 http://com-post.jp/index.php?itemid=581&catid=5
*3 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-163.html

 「第5回四谷音盤茶会」での本作との出会いの際、そこで触れ得たのは益子の選んだ冒頭の2曲だけだったから、それだけ音はピンポイントに像を結び、鮮烈な印象を刻んだ。私はその一瞬に垣間見えたように思えた光景を、「短詩型文学」といういささか風変わりな謎めいた形容を用いてレヴューに書き留めた。そのことについて補足しておきたい。

 「これは、菊地が次々に詠みあげていく和歌の連なりなのだろう。例の菊地のうめき声は『〇〇にて詠める』という題辞にも似たものであり、そこで示された視点から一瞬垣間見えた景色の閃きに向けて、ピアノが鋭く切り込み、語/音を積み上げ、響き/イメージを掘り進み、ドラムが呼吸を伸縮させ、ゆるやかな弧を連ねて、ベースが点景を指し示し、句読点を打つ。決して弾きすぎることのない菊地のピアノは淀むこと/立ち止まることを知らず、するすると流麗に流れ続けるが、実は至るところで切断され、先端/断面を宙に泳がせている。和歌を綴る筆の軌跡、墨の跡が、そこかしこで余白に遊ぶように。そこに浮かぶ情景もまた。」

 「短詩型文学」という語で私がイメージしていたのは、(自由律を含む)俳句や短歌、特に俳句である。そこでは何よりも世界の切り取り方が重要視される。そして、そうしたきっぱりと切り取られた世界こそ、菊地たちが共に見詰めていた「寸分違わぬ景色」にほかならない。そうした景色に対し、「短詩型文学」は散文や長詩と異なり、語が連なって線を描きながら、ものの輪郭を写していくということがない。また、外から他が入り込めないような閉じた叙述のブロックをかたちづくることがない。
 「短詩型文学」は、きっぱりと切り取られた世界を、これ以上ない正確さで指し示しながら、それ自体を構成する各語や音の響きは、それぞれ別のところからやってくる。はるか遠い別々のところから吹き寄せられて、たまたまここで束の間〈星座〉を形成し、また別のところへと散り散りになっていく。語と語の間を波が通い、音の隙間を風が吹きぬける。切れ字や体言止めが、それに続く空白に余韻を響かせ、あるかたちを鮮明に浮かび上がらせる。あるいは連歌のプロセスを思い浮かべてもいいかもしれない。新たに付け加えられた語/句は、視点/文脈を切り替え、先行する語/句の意味合いをあっさりと塗り替えていく。

 もうひとつ念頭にあったのは、和歌に顕著な「詞書(ことばがき)」の働きだ。和歌本体の傍らに置かれる「〇〇にて詠める」等の規定は、各語が共通に眼差すべき空間をあらかじめ指し示す。それは先に述べた「寸分違わぬ景色」そのものではない。あくまでそれを暗示し、導き、浮かびあがせるだけだ。それゆえ「詞書」は決してかっちりと堅固な枠組みではない。むしろ、そこから遠ざかるためにだけ出発点に置かれる道標のようなものだ。私はこのトリオにおける菊地雅章作曲のテーマを、(もしそれがあるとして)そのようなものとしてとらえている。彼方を指差し、そこに向けて(自分を含め)メンバーを鼓舞しながら、あっさりと始まりに置き去られる何物か。一瞬の目配せ。

 よく非難の対象となる菊地の奇妙な「うなり声」もまた、私には「詞書」的な性格を持つものに思える。それは移ろう指先に先行するように見えて、実はそれを牽引していない。稲妻のように閃いたメロディのイメージが口の端からこぼれ落ち、演奏する身体が闇雲にそれ(脳内イメージ)を追いかける‥‥といった事態が起こっているわけでは決してない(そうした性急さはそこには感じられない)。もしそうだとしたら、あの「うなり声」は不鮮明な歪んだ像かもしれないが、それでも彼の演奏のインスピレーションを指先が実現するピアノ演奏以上に、より直接的に反映したものということになってしまう。そんなことはない。あくまでそれは演奏の傍らに置かれるものであり、そこから遠ざかるためにだけ始まりに置き去られる何物かなのだ。


   
  Masabumi Kikuchi Trio       Farmers By Nature
      『Sunrise』        『Out of This World's Distortions』



                           ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』

批評のチカラ−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景2−

  1. 2012/06/09(土) 13:28:25|
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 前回アップした「勢いあまって踏み外す−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景−」に対し、多田自身が早速「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」でレスポンスをくれた(*)。
*http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html

 彼は「パリ・ダカール・ラリー」のくだりを大層気に入ってくれたようだが(笑)、それはさておき、批評において飛躍や逸脱(たとえそれが束の間の誤りだとしても)、問題を外部へと開くことの重要性を、彼ならではの仕方で改めてとらえ、再度見詰め直している。

 今回の彼のレスポンスをぜひご一読いただきたい理由はそれだけではなく、私がごく簡略化して紹介した「石造りの地下のスタジオ」や「ノルウェー大使館のビヨルンスタ」のエピソードが原テクストへのリンクにより、多田によるオリジナルな語り口で読めることだ。いわば非常にコンパクトに圧縮された「多田雅範選集」とも言うべきこれらのテクストを、ぜひお読みいただきたい。

 そうすれば「批評のチカラ」がわかるだろう。批評とは決して作品の背景情報や出来の良し悪しだけを取り扱うものではなく、作品や演奏、さらには他の様々な出来事との不可避の出会いを通じて、生きることの喜びや悲しみの奥深くにまで、その眼差しを届かせることができる。それはひとりの人間の人生の狭く限定された範囲を軽々と越えて、共感や驚き、感動の波紋をどこまでも広げていく力を持っている。そのことが晦渋さとはまったく無縁な、とてもしなやかなわかりやすさで示されているのが、これらの文章で読める通り、多田の真骨頂にほかならない。


  
多田の耳はあきれ果てた長距離を走破する。悪路なぞものともせずに(笑)。

勢いあまって踏み外す−多田雅範の耳の旅路がとらえた風景−  Stepping Out by TOO Much Full Force−Soundscapes from Masanori TADA's Listening Travelogue−

  1. 2012/06/05(火) 22:13:19|
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 音楽批評サイト『Jazz Tokyo』連載の多田雅範(=Niseko-Rossy Pi-Pkoe)によるコラム「タガララジオ」が更新された。今回の「タガララジオ27」(*1)はKing Creosote&John Hopkins『Diamond Mine』のディスク・レヴューから始まる。
*1 http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-27.html

 「場所はきっとイギリスのどこか。ゆったりとした賛美歌の下降を漂わす木製ピアノの響き、食器が用意される音や若い労働者の話す声、給仕のおばさんの話し声、そして、郊外の空気の響き、空き缶に水が落ちる小さな音‥‥」

 一見、楽器編成やオーケストレーションの推移をなぞるようでいて、実は空気感やそこにたちこめる匂いや湿度を通じて、細やかに響きの佇まいを伝える。こうして音の鳴っている空間に身を置くようにして、一挙に全貌を把握する幻視力が彼の武器のひとつだ。何て言ったって、かつて耳にした音源にピンと閃いて「地下にある石造りのスタジオ」とつぶやき、メールを交わした当のミュージシャンに驚かれたというエピソードの持ち主なのだから。

 だが、そのような透徹した耳のあり方は、彼にとってスタート・ラインに過ぎない。「タガララジオ」の本領はもっと別のところにある。ECMから東大寺お水取りまで、NYダウンタウンの先鋭的なジャズから児童合唱団まで、エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションや凍てついたサウンドスケープからコンビニで流れるJ−POPまでという、圧倒的な(あきれ果てた?)耳の踏破距離がそれだ。こんなパリ・ダカール・ラリーみたいに長距離を(しかも「悪路」はかり)走り通す音楽コラムなんて見たことがない。
 今回もフォーキーなヴォーカルに添えられたアンビエント彫琢の繊細さから、プリペアドされたサクソフォン等によるフィードバックまで駆使したハードな音響インプロヴィゼーションを経て、NYジャズやJ−POP、英国フォークへと多田の耳は足を伸ばしていく。一篇のコラムの範囲内でこうした長距離の探索を可能としているのが、彼の語りのうちに開ける〈飛躍〉の素晴らしさである。群がるDFを一瞬で置き去りにするステップの切れの良さは、ジャッキー・チェン『酔拳』の足さばきを思わせもするが、単に躓いてよろけているだけかもしれず(笑)、簡単に先読みを許さない。

 いま思わず「(笑)」と書いたけれど、視点を変えれば、凡人がただなんとなく通り過ぎてしまうところに躓いて何物かを見出さずにはおかないことこそが、まさに才能なのだ。しかも普通の才人が躓いたら立ち止まって考え込むだけなのに対し、彼は思いっきり蹴躓いて、その勢いのまま立ち止まることなく一歩も二歩も大股に踏み出し、「予定のコース」を踏み外して彼方へとそれていく。「糸の切れた小惑星の軌跡」(多田雅範)。その自由奔放、変幻自在、向こう見ずな思い切りの良さに、何度眼を見張らされたことだろう。
 つい先日もLucio Capece『zero plus zero』(Potlatch)を耳にして、ここには何かあると思いながらもとらえあぐねていたところを、彼の高らかな関心表明(それはもはや「宣言」と言ってよいきっぱりとした確信に満ちていた)に触発され、何とか思考を先に進めることができた。この顛末は今回の「タガララジオ27」で一部触れられている。

 ある程度長い批評文(別に批評には限らないが)を書いたことのある方はご存知だろうが、批評は方程式を解いたり、幾何学の証明を書き下ろすのとは異なり、飛躍無しには論理を組み立てることができない(もし必要十分条件を満たしながら論を進めているとしたら、それは単にトートロジーに過ぎない)。言葉へと移行する段階で当然飛躍/不連続が入り込むことが誰にも明らかな音楽批評や美術批評はもとより、最初から言葉で書かれている作品を対象とする文芸批評であっても、このことは基本的に変わりがない。作品からある部分を引用するとして、その引用の際に、たとえ一字一句そのまま書き写したとしても、そこに飛躍が入り込む。なぜなら引用の際には作品全体の読みを踏まえてしかるべき箇所が切り出されるのであって、引用された箇所の〈読み〉は、引用されていない残りの膨大な部分に対する〈読み〉によって裏打ちされているのだから。それを事細かに文章で述べることは到底できるはずもない。
 このようにして、言葉は、文章は、至るところに口を開けたクレパスを飛び越えていかざるを得ない。そもそも思考が地続きの大地だけを安全に進めると思ったら大きな間違いだ。そのような本質的な不連続/飛躍を単線的にしか読みようのない(断章形式やアフォリズムは決して万全の解決策足りえない)文章のうちでどう展開していくかが問われているのだ。
 そうした時に連続性/一貫性に重心を置いた文章よりも、速度と飛躍に賭けた語りの方が魅力的に映るのは当然のことかもしれない。だが、ここで勘違いしてはいけないのは、単に情報量の圧縮(一例として固有名詞の羅列)や切断の強調(一例として先に挙げた断章形式)で技術的に解決できるほど、批評ってものは甘くないってことだ。

 以前に多田が紹介していた次のようなエピソード、ECMで活躍する作曲家/ピアノ奏者ケティル・ビヨルンスタがムンク研究者として来日し講演するのを知った彼は、すぐさまノルウェー大使館に電話してコンサートの開催を訴え、ついに実現された大使館でのミニ・ライヴをノルウェー大使とソファに並んで座って聴き、あまつさえ寄贈されたビヨルンスタの著書の貸し出しを大使に直訴して、居並ぶ大使館職員たちを青ざめさせる‥に明らかなように。多田の思考/語りの速度とは、ドミノ倒しのようにバタバタと連鎖して起こる出来事の速度にほかならない。それは彼のバスター・キートンばりの疾走によってもたらされる。笑いすら追いつかないほどの傑出した速度は、その代わりにどこかから悲しみを連れて来てしまう(キートンの無表情がかもしだす悲哀)。多田の語りもまた、読み手をそうした遠い悲しみの中へと連れていく。記述を幾度となく死の影が過ぎり、失われた時間が思い出の中で硬く凍りつく。

 だがそれにしても、「タガララジオ」にしろ、音楽批評サイトmusicircus掲載のブログ「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」(*2)にしろ、なんて多くの喪失の経験に満ち満ちているのだろう(村上春樹の初期作品のように)。聴くこととは指の間からこぼれていく音の手触りを感じ取ることだとでも言わんばかりに。それはたぶん多田が類稀なる「記憶の人」であり(彼と話していると、20年前に聴いた曲名が昨日のことのように出てくるのに驚かされる)、同時に「忘却の人」(すでに経験したはずの事態と何度でも新しく出会ってしまう才能)だからなのだろう。彼の文章を読む者は、いつどこともしれない風景の数限りない(しかも鮮明な)フラッシュバックに打ちのめされ、思わず涙ぐむことになる。
 切れ切れの風景のフラッシュバックがなぜそのような強い感情喚起力を持つのか、私にはよくわからない。youtubeに山崎まさよし「One More Time, One More Chance」MVの『秒速5センチメートル』版というのがアップされていて(*3)、同題のアニメーション作品からの抜粋編集画面が流れるのだが、いかにもアニメ調な登場人物に対し、背景は実に丁寧に愛情を込めて細部までリアルに描かれ、誰もいないがらんとした教室にカーテンが舞う様や、やはり人影のない長距離列車の車内に吹き込んだ雪や、アパートの集合郵便受けの下にたまったチラシの山がカメラ・アイの動きとともにとらえられ、次々にフラッシュバックされる。画面中に人物がいないだけでなく、登場人物の視線からとらえられたのでもないだろうそれらの視覚(小津安二郎の「枕ショット」を思わせる)の連鎖は、作品で物語として描かれているらしい幼馴染の別離とはまったく違ったところから悲しみを連れてくる。そうした距離を置いた視線の冷ややかに乾いた悲しみ(それはある種の「残酷さ」を静謐に見詰める眼差しと言ってもいいのかもしれない)は、多田の文章に通ずるところがあるように思う。
*2 http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/
*3 http://www.youtube.com/watch?v=aAUi1NuOnJ0

 「タガララジオ」の連載ではトリミングされてわかりにくくなってしまっているが、ブログ「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」では、彼の撮影による写真も楽しむことができる(下にほんの一部を抜粋してみた)。最近、スマートフォン付属のカメラによる風景撮影に目覚めたらしく、独特のけぶるような曖昧な広がりを観ることができる。景色は輪郭を溶かしながら空間に響きを広げ、いつまでも消えずに茫洋と漂いながら、夢見るような不安を呼び覚ます。
 これらの写真はレンズの性能や限られた画素数の割には明るく鮮明な画像を撮ることを目指した、「画像エンジンがレンズを従えている」(原田正夫)スマートフォン付属カメラの機能/目的を裏返しているような印象がある。本来なら画面中央に主たる被写体が位置し、それを中心に画像を構成するようプログラムされた画像エンジンは、中央が抜けて、対象が画面の縁へと退いた視覚に、思いっきり空振りさせられているのではないか。言わばここに示されているのは、そうした〈構築〉が崩壊した果ての廃墟としての〈風景〉になのだ。夢の甘い苦さが口中に広がると同時に、見たことのない懐かしさが湧き上がってくるのは、たぶんそのせいに違いあるまい。


        
「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review」から 撮影:多田雅範

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