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クラリネットの匿名的な響きとピアノの〈短詩型文学〉−「タダマス5」レヴュー  Anonymous Sounds of Clarinete and "Short Form of Poetry" for Piano − Review for "TADA-MASU 5"

  1. 2012/04/25(水) 21:28:55|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 4月22日(日)の四谷音盤茶会第5回(=「タダマス5」)は、クラリネットの復権を巡って、後半は菊地雅章のECMからのリリースをひとつの核として、アンサンブルの在り様について興味深い議論が交わされていた。当日の詳しいプレイリストは下記URL(※)を参照していただくとして、個人的に触発された部分を中心に振り返ってみたい。
 ※http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=953824
 なお、この日の様子については、すでにホストの一人である多田によるリポートがある(*)。
 *http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120422


1.クラリネットの匿名的な響き

 「クラリネットの復権」については、益子博之が以前の四谷音盤茶会で「最近のNYジャズ・シーンではクラリネットが復権してきている」と語ったことに触発されて、私自身も感じていたクラリネットの活躍について、その正弦波にも似たするりとした響きならではの世界の魅力を、あくまでも私自身の耳の個人史に即してであるが、本ブログで論じたことがある(「クラリネット・ルネッサンス−クラリネットを巡る耳の個人史から」2012年2月1日)。今回は、益子自身が「自分で『クラリネットの復権』と言いながら、実はかつてとはクラリネットの使われ方が違うので、『復権』じゃないんですよね」と話しながら、かつてかけた「The Clarinetes」等とは重複しない選盤により小特集してみせた。
 そこで明らかにされたクラリネットの響きの性格を最も象徴的に表していたのは、後半でかけられたTim Berne『Snakeoil』 (ECM)における二管の関係性だろう。そこではBerneのアルト・サックスにOscar Noriega(The Clarinetesにも参加)のクラリネットが「影のように付き添って」(益子博之)いた。フレーズを選び、確かな筆致でラインを描いていくアルトに対し、クラリネットはそうした軌跡の輪郭を明らかにしないまま、影の中に身を沈めてしまう。「匿名的な響き」(同)。
 やはりThe Clarinetes のメンバーであるAnthony Burr『Anthony Burr』 (Skirl)においても、自動車のエンジンのうなりや走行音と重ね合わされたクラリネットは、やはりいっしょに用いられた正弦波と見分け難いすらりとした音で、ノイズの揺らぎの中に浮き沈みし、一方バス・クラリネットは水平にたなびきながら、背景へと沈み込んでしまう。その様子は昔の8mmフィルムをサイレントで映写しながら、その前でそれぞれ薄いグレーと濃いグレーのコスチュームを身にまとったダンサーが、ゆるやかに動いているようだった。二人は自らの輪郭を際立たせることなく、背景からふと浮かび上がり、あるいはすっと沈み込みながら、ゆっくりと空間を横切っていく。

 
  Tim Berne『Snakeoil』    Anthony Burr『Anthony Burr』

 こうしたクラリネットの〈生態は、確かにスウィング・ジャズの花形楽器だった「黄金時代」とは全く異なるものだろう。そこはもはやジャズはないのだろうか。この点については、Travis Laplante『Heart Protector』 (Skirl)で聴かれた重音を駆使したソロに対して、「今の演奏を胸を打つバラードと聞いた」という多田の一言に尽きる気がする。奏法やサウンドは一見確かにいわゆる「現代音楽」的ではあるが、そこに眼を凝らすならば、息がにじみ/にごりにフォーカスしながら、ケント紙ではなくパステル用画用紙のざらつき(ミクロな凹凸)をサウンド・テクスチャー化していることに気付くだろう。そして、そうした息の手触りは、前後に揺れながら、むしろため息/吐息の軌跡を描いていく。フレーズやコード進行の次元でも、トーンの次元でもなく、息の生々しい手触りとタイミングのずらしによる〈体感〉レベル(それはふわりと浮き立つ浮遊感であり、確固たる地面を踏みしめることのできない足元の心もとなさである)の次元で、紛れもない〈ジャズ〉である音楽。
 このことは「リズムの訛り」と紹介されたSteve Lehman Trio『Dialect Fluorescent』 (PiRecordings)にも共通している。Lehmanの無伴奏ソロは、彼の師であるAnthony Braxtonの『Saxophone Improvisations Series F』のやはり正弦波と見分け難い滑らかな音色、ゆるやかに引き延ばされた起伏、冷気のように広がる静謐さをそのまま描き出しながら、そこに微分リズム的な不均衡を持ち込む。演奏がトリオになると、微分リズムはリズム・セクションに転移し、Lehmanは明るい開放的な音色でモールス信号のようにシンコペートされたソロを重ねる(その演奏はは私になぜかアルバート・アイラーを思い起こさせた)。ここでも、〈ジャズ〉は体感的な揺らぎの中にこそ息づいている。
  
    Travis Laplante         Steve Lehman Trio        Anthony Braxton
    『Heart Protector』      『Dialect Fluorescent』   『Saxophone Improvisations Series F』


2.ピアノの〈短詩型文学〉

 後半のハイライトは、やはりようやく先頃ECMからリリースされた菊地雅章トリオ『Sunrise』だろうか。ジャズ・サイトcom-postにおけるクロス・レヴューでも「わからない」発言が出ていたが、私も当日かかった2曲を聴いて、最初いささかもどかしい感触が残った。響きの美しいところだけを見事に切り取った菊地のピアノ、Thomas Morgan(bass)の鮮やかにツボに鍼を打つ神業、そしてトントントンと3回叩くだけで寝違えを直すPaul Motian(drum)の相変わらずの名人整体師ぶり。達人揃いのトリオということはすぐに響いたが、景色が全体として像を結ばない。
 「リズムにしろ、ハーモニーにしろ、サウンドにしろ、インプロヴィゼーションなのに恐ろしいほど同期している」(益子)、「Thomas Morganは菊地のヴォイシングのひとつ先を的確に見詰めて弾いている」(佐藤浩一:今回のゲスト)、「ピアノ・トリオでこれだけベースの音が大きいミキシングはまずない。これはThomas Morganに軸を置いた演奏」(益子)というやりとりを聴いて、耳に残る響きのピースが組みあがってきた。
 これは、菊地が次々に詠みあげていく和歌の連なりなのだろう。例の菊地のうめき声は「〇〇にて詠める」という題辞にも似たものであり、そこで示された視点から一瞬垣間見えた景色の閃きに向けて、ピアノが鋭く切り込み、語/音を積み上げ、響き/イメージを掘り進み、ドラムが呼吸を伸縮させ、ゆるやかな弧を連ねて、ベースが点景を指し示し、句読点を打つ。決して弾きすぎることのない菊地のピアノは淀むこと/立ち止まることを知らず、するすると流麗に流れ続けるが、実は至るところで切断され、先端/断面を宙に泳がせている。和歌を綴る筆の軌跡、墨の跡が、そこかしこで余白に遊ぶように。そこに浮かぶ情景もまた。
 冒頭の2曲を一度聴いただけで何かわかった気になるのも噴飯ものだが、益子・多田・佐藤のやりとりに立ち会わなかったら、こうしたひらめきは生まれ得なかったろう。「複数の耳の間」にこそ生じるものに感謝したい。


  Masabumi Kikuchi Trio
      『Sunrise』


Eivind Opsvik『Overseas 検
     (Loyal Label)
本文中では触れられなかったけど、
これも変てこで面白かったなー。
ハープシコード多用のシェークス
ピア劇音楽風北欧サイケみたいな。

〈風景〉と〈建築〉に関するノート − 正弦波が描き出してしまう〈風景〉【補足】  Notes on "Landscape" and "Architecture" − Sinewaves End Up Drawing "Soundscapes"[supplement]

  1. 2012/04/24(火) 21:46:40|
  2. ディスク・レヴュー|
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  4. コメント:0
 多田雅範の問題提起を受けて前回掲載した「正弦波が描き出してしまう〈風景〉」について、早速、彼が自身のブログで反応を返してくれた(*1)。その中で、採りあげたLucio Capece / zero plus zero (Potlatch)について、allaboutjazzにディスク・レヴューが掲載されていること(*2)やyoutubeにCapeceの演奏動画があること(「3.見ることと聴くこと」参照)も教えてくれた。今回はそれらに聴取/思考を触発されて、聴き思い巡らしたことを少し書いてみたい。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html
*2 http://www.allaboutjazz.com/php/article.php?id=41879


1.humanity

 Capece自身のブログには、ウェブ上に掲載された『zero plus zero』のディスク・レヴューのURLが3件紹介されているが、そのうち英語で読めるのは前記のallaboutjazzのものだけである。これについてまず見てみよう。
 レヴュー執筆者はJohn Eyles(*3)でFree Improv / Avant-Gardeの担当。最近ではちょうどPotlatchからの前作Keith Rowe & John Tilbury / E.E.Tension and Circumsance(RoweのAMM脱退後、しばらくぶりの2人の共演とあって話題を読んだが、私の印象では出来は今ひとつだった)等について書いている。
*3 彼のプロフィールについては次を参照。
http://www.allaboutjazz.com/php/contrib.php?id=112

 彼は『zero plus zero』におけるCapeceの使用楽器/音源について説明しながら、Capeceがソプラノ・サックスとバス・クラリネットの演奏にますますプリパレーションを加えるようになり、さらにシュルティ・ボックスによるドローンを採用することとなった変化を指摘し、本作の各トラックで中心になっているのは、管楽器ではなくシュルティ・ボックスとエレクトロニクスのサウンドであるとする。そしてさらにシュルティ・ボックスの演奏(特に微妙な音色の変化)が人間性(humanity)と創造性を要すること、Capeceの演奏が管楽器から離れ、様々な音素材を扱いながら「音風景の異なる要素をひとつに織り成す」ことで、その音楽性の高さを証し立てているとしている。
 ここで「人間性(humanity)」という語は注釈が必要だろう。おそらくここでEylesはラップトップPCによるエレクトロニクス(即興)演奏(あらかじめ設定された正弦波音やグリッチ・ノイズだけを用いたり、あるいは何らかのソフトを走らせて演奏を「自動生成」させることも多い)を思い浮かべながら、そうした〈機械〉による演奏に〈人間〉を対比させ、〈人間=演奏者〉が楽器/音源の音を出し変化させるプロセスに直接関わり、微妙で多様な、そしてもちろん変化に富んだ豊かな結果をそこから引き出すことを、この語に込めているものと思われる。そうしたことは、本作でhumanityの要素が一番薄い、正弦波だけを用いた「Spectrum of One」について、彼が組曲「Inside the outside」の中に置かれた「口直し」だと軽く片付けていることにもうかがわれよう。

 前回批判の対象とした「演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない『演奏』」が、ラップトップPCを用いた即興演奏に(場面として)よく見られることを思えば、「人間の関与が足りない」という主張はよくわかる。レディ・メイドの音素材を用いるのではなく、演奏者が探求を通じて音をつくりあげていく姿勢を彼はCapeceに見て取り、それが管楽器のプリパレーションと同様、シュルティ・ボックスやエレクトロニクスの「演奏」にも及んでいることを高く評価しているのだろう。このことには同意できる。しかし、こうした見方では、Capeceの演奏においてプリパレーションやドローンが、音の不確定性を高め、より顕微鏡的な微細な変化に焦点を当てることを目指して採用されていることをとらえそこなってしまうのではないだろうか。操作性を高め、楽器/音源を意のままにコントロールすることよりも、音が演奏者の手を逃れ、指の間から溢れ出てしまうことが、むしろそこでは求められているのだ(もちろん、それは偶然に頼ることとは異なる)。
演奏が演奏者の手によってつくりだされることを認めた上で、そこで生み出された音を、空間を、時間を、すべて「演奏者の手」に送り返してしまうのではなくとらえることが必要なのではないか。そうした演奏/聴取を成り立たせるものとして、前回、〈風景〉というキーワードを、今更のように持ち出したところだ。

 ここで〈風景〉と言う時、その対概念が何であるがが問われるだろう。これまでこのブログでは繰り返し〈風景〉をテーマにしてきた。そこでは、フリードリヒの絵画やフランシスコ・ロペスのフィールドレコーディングを参照しながら、「人間の姿のない崇高な風景」について多くを語ってきたように思う。それでは〈風景〉とは〈人間〉に対するものなのだろうか。
多田雅範は前掲のブログ記事で、森本恭正「西洋音楽論・クラシックに狂気を聴け」(光文社新書)の記述を思い浮かべながら、彼一流の直感に従って「日本の音楽は風景なのだ、自我ではないのだ。」と書きとめている。それもひとつの答だろうと思う。
このことについては、これからも引き続き考えていかなければいけない。しかし、ここは多田の直感に触発されて(突き動かされて)、私もとりあえず頭に浮かんだ語を「えいやっ」とばかりに思い切って書き付けて、自らに宿題を課してしまうとしよう。それは〈建築〉の一語である。なにゆえ〈風景〉と二項対立をかたちづくるべきものとして、〈建築〉が召喚されねばならないかについて、とりあえず頭に浮かんだこと、いま考えていることを、以下で走り書き風に述べてみたいと思う(「ノート」とする所以である)。





2.〈風景〉と〈建築〉
(1)〈建築〉とは

 最初に断っておけば、ここで〈建築〉とは、語を囲む〈 〉が示すように、具体的な建築物(建物等)を指すものではない。あえて定義を試みるならば、それは次のa〜cの3点により画定されるような対象である。
a ひとまとまりの理念/原理に基づいていること
b 限りのあること、輪郭のはっきりしていること
c 体系的であること、寄せ集めでないこと

 ウィトルウィウスの建築論が「用強美」の理念のもとに各部位の配置と比例寸法を確定し、建築の輪郭を明らかにし、さらにアルベルティが建築を基礎づける要素として円柱のオーダーに着目し、この比例配置によりそのシンタックスを確定・遂行していったとすれば、この3点はそもそもの建築の原理に適うもののはずである。そして、近代建築の機能主義が、必要な機能を個別かつアドホックに付加し寄せ集めていくのではなく、それらの関係性を整理し、適正な配置/空間を配分していくことである以上、たとえことさらに各歴史様式のコラージュやグリッドに対するデコンストラクションが強調される現代の「ポスト・モダン」建築であっても、建築である以上、常にそうしたものであり続けていると考えることができる。そのことが建築を主体的な営為の産物としているのだし、建築家という存在を成り立たせているのだとも言えよう。
ここで話を整理するために、建築物、あるいは見かけ上「建築的なもの」でありながら、上記の定義に当てはまらない例を挙げて考えてみよう。たとえば郵便配達人フェルディナン・シュヴァルが黙々とつくり続けた理想宮や、クルト・シュヴィッタースがやはりつくり続けたメルツ建築(メルツバウ)等について。
 シュヴァルがつくり続けた奇怪な建物(写真1・2)は、確かに建築物=建物であることは疑いない。だが、しかし、それが基づいているのが、たとえ彼の妄想/強迫観念という「ひとまとまりのもの」であろうと、その際限のなさ、限りない増殖による絶え間ない輪郭の描きなおしによって(それはドゥルーズ/ガタリ「アンチ・オイディプス」の冒頭に引用されたいつまでも制作し続けられ、もはや机ではなくなっていく「分裂症患者の机」のエピソードを思い出させる)、そして何よりもその体系の不在により、やはりここで言う〈建築〉には当てはまらない。また、シュヴィッタースのメルツ建築(写真3)は、むしろ大きさとしてはオブジェやモニュメントと呼ぶべきものであるが、その各部分の寄せ集めぶり、特に彼が拾い集めたクズや友人知人から集めたオブジェ類(吸殻やペンや尿!)を収めた各スペースの立体コラージュ的構成から、その名称にもかかわらず、やはり〈建築〉とは呼べないものとなっている。

【写真1】              【写真2】              【写真3】
  

(2)〈風景〉とは

 そうした〈建築〉との対比でとらえるならば、〈風景〉とは、あるひとつの「相貌」を浮かべることにより、見る者に語りかけながら、単一ではない複数の原理によりかたちづくられており、本来的に寄せ集め、出会いにより構成されたものと考えることができる。
 d ひとつの「相貌」を持ち、見る者に語りかけること
 e 単一ではない複数の原理によりかたちづくられること
 f 体系を成しておらず、各部分が出会ったことによる寄せ集めであること

 別に「風景デザイン」を否定しているわけではない。たとえばアラン・レネの映画作品「去年、マリエンバートで」に登場する左右対称な整形庭園(写真4)は、風景の中で最も建築的なものであるだろう。だが、そうしたフランス式整形庭園の代表と言うべきヴェルサイユ宮殿の庭園は、かつて管理のための予算が底を突き、樹木は勝手に伸びあるいは枯れて荒れ果てていた時期があるが、そうして数学的な対称/均衡が崩れたからといって、庭園が風景であることを止めるわけではない。むしろ廃墟化することによって、風景としての魅力をいや増すことになるだろう。しばらく前にこのブログで採りあけたピラネージ(図版1)やユベール・ロベール(図版2)、あるいは何度も触れてきたカスパー・ダーフィト・フリードリヒ(図版3)らが、建築物の廃墟を魅惑的な風景画に仕立てていたことを思い出そう。〈建築〉と言うひとつの原理に基づく確かな輪郭/体系が、他の原理(腐食、浸食、崩壊、植物の繁茂等)によって不可逆な変化を遂げ「廃墟化」することにより、そこに魅惑的な〈風景〉が現れてきたのではなかったか。
 通常「環境音楽/アンビエント・ミュージック」の語が用いられる場合、そこでの風景は聴き手/視点との関係付けをあらかじめ色濃く含んでいる。それは言わば「風景に棲みつく」ことを前提にしている。「廃墟化」はそうした親密な関係性、安心して憩える「ライナスの毛布」を剥ぎ取り、見慣れぬ〈風景〉を現出させる(以前に「アンビエント」のディストピア化として示した理路である)。
 もちろん、「廃墟化」だけが〈建築〉を〈風景〉にするわけではない。視野を広げて、周囲の環境を取り込んでいくだけでよいだろう。森の深さが、土地の起伏が、空/雲の表情が、天候の変化が、それを〈風景〉にする。それらが〈建築〉の単一性/体系性を崩し、複数化/ブリコラージュ化するならば。それは〈建築〉のある一部分をクローズ・アップし、他から切り離すことによつても可能だ。

【写真4】


【図版1】              【図版2】              【図版3】
  

(3)〈風景〉をかたちづくる〈空間〉

 前述の〈建築〉の定義a〜cと〈風景〉の定義e,fの対比について、「廃墟化」による多元化、輪郭の崩壊に即して述べてみた。残るdは「相貌」を持つことが風景の成立する当然の前提であるというだけでなく、サウンドスケープとしての〈風景〉の成立を意識している。
 ある音の集まりをサウンドスケープと呼ぶには、ただ複数の異なる音が〈真空〉中に切り離されて点在しているだけではなく、それらの関係性としての〈あいだ〉、響きとしての〈空間〉、奥行きとしてのパースペクティヴの存在が求められる。実際、フィールドレコーディング作品を聴いている時、私たちはそこで発せられる音だけでなく、発せられた音がたなびき、重なり合い、溶け合いながら希薄化し、沈黙へと還っていく〈空間〉をいっしょに聴いている。と言うより、音の周辺に広がるそうした〈空間〉の感触こそが、それが〈風景〉であることを保証し、サウンドスケープを成立せしめているのように思われる。もちろん、これまで何度も述べてきたように、ここで〈空間〉とは遠近法的均質空間ではない。むしろ、音/響きがそれぞれにかたちづくる固有の空間(それぞれ質の異なる)のモザイクであり、ヘテロトピックなものであるだろう。
 これは聴き方/とらえ方の問題ともなってくる。4人のミュージシャンによる演奏を、同一の空間を共有した(実際には空間はほとんど意識されないことになるが)4つの音と見るか、あるいは多様な空間のモザイクを奥行きとして持つ、ひとつの響きの〈風景〉ととらえるか。Derek Bailey, Michel Doneda, Le Quan Ninh, John Butcher, Rohdri Davies,Jonas Kocherらによるフリー・インプロヴィゼーションを、Francisco LopesやGilles Aubryによるフィールドレコーディング作品と同じく、後者の視点から聴き取ることができるだろう。
 先に述べた多様な質の〈空間〉の存在は、決してサウンドスケープだけに当てはまるものではなく、ピラネージについてみたように〈空間〉を描いた絵画作品にも(一部の風景画はもちろん、ジャクソン・ポロックにも)、そして、おそらくは実際の風景の眺めにも当てはまるように思う。たとえばヴァルター・ベンヤミンが「アウラとは何か」について、「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである」とし、夏の午後の静かな憩いの中の「地平に連なる山なみ」と「憩っている者の上に影を投げかけている木の枝」について語りだす時(「複製技術自時代の芸術作品」)、彼はそこに均質ではない、多様な質/手触りを持った空間を見ていたのではないだろうか。

(4)〈風景〉と〈建築〉二題

 ここでサウンドスケープに関する〈風景〉についてさらに明らかにするために、具体的な作品を2点採りあげてみたいと思う。共に最近聴いたCDだが、言わば1点目が「〈建築〉の〈風景〉化」、対して2点目が「〈風景〉の〈建築〉化」と対比的にとらえられるように思う。


taus - tim blechmann & klaus filip / pinna
another timbre at49
tim blechmann(laptop computer),klaus filip(laptop computer),
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=xObHq_di1w4&feature=related
参考:http://www.anothertimbre.com/page131.html
 奥行きを見通すことができない厚みのある手触り。暗闇に眼を凝らす時に現れるちらつきや波打つような震え。数多くの色の糸くずがひとつになってつくりだす暖かく毛羽立ったグレー。陽が傾いて影が伸び、急にものの輪郭が薄闇に溶け出すなかで何者かがうごめき、ざらざらした紙になすられた木炭のかすれ/肌理の中から、不可思議な形態が浮かび上がり動き出す‥‥。本作に耳を傾ける時、最初に惹きつけられるのは、そうした生々しい空間の息づき/ざわめきである。最初、それは当然フィールドレコーディングされた環境音の加工/演奏によるものと想像した。しかし、上記「参考」ページに掲載されたtim blechmannへのインタヴューによれば、彼らはフィールドレコーディング素材は一切用いておらず、それどころかfilipは正弦波のみ、blechmannはノイズ・テクスチャーとパチパチ音(crackle sounds)だけしか演奏していないと言う。そう言われて再度耳を傾けると、幾何学的形態にすら至らない、直交座標と点のプロットだけのような還元し尽くされた構築がほの見える。しかし、それは空間に広がる厚く混濁した闇に、にじみとにごりに、数知れないざわめきに解体/分解され、〈風景〉の中に紛れ込んでおり、魚の小骨ほどにも触らない。
再びインタヴューによれば、本作は教会で行われたデュオ・コンサートのライヴ録音で(写真5・6)、5〜6台のスピーカーから空間に放出された音をマイクロフォンで収録したものであり、私が聴いていたのは、彼らの発した音だけではなく、客席を6割ほど埋めた聴衆の発する気配、屋外からしみこんでくる小鳥のさえずりやトラフィック・ノイズ等が、天井の高い石造りの空間が立てる物音(対流ノイズや軋み等)と混じりあい、さらに広大な空間に響きあうことを繰り返して織り上げた響きの総体(長い残響時間は、響きの織物をその織り目が判別できなくなるほど幾重にも敷き重ね、さらに薄闇に溶かしていく)にほかならなかった。ぎりぎりまで削ぎ落とした音響の構築がつくりあげるはずの〈建築〉は、〈空間〉の曖昧な豊かさに消化吸収されてかたちを失い、〈風景〉の一部となる。ただし、それは「演奏者の意に反して」ということではない。blechmannはこの録音をCDリリースの対象とした理由を「コンサートの雰囲気を本当にとらえていることにすごく驚いたから」と語っている。ゼロから始め、真っ白なキャンヴァスの上に何かを描き出すのではなく、すでにある響きに耳を傾け、そこに一筆を付け加え、あるいは差し引くことにより、注意を促す演奏。
【写真5】          【写真6】
 


Emmanuel Mieville / Four Wonderings in Tropical Lands
baskaru karu19
試聴:http://www.baskaru.com/karu19.htm
 川の流れ、犬の吠声、人の話し声、遠く離れた自動車の通過音、通過するサイレン、頭上を通り過ぎる飛行機、ニワトリの鳴き声、そしてその手前で繰り広げられるせわしなく金属片をかきまぜ、木製の筒を転がすアクションの生み出すランダムな音のしぶき。あるいは環境音にヴェールのようにかぶせられるエレクトロニクス。手前での「演奏」がそれ以外の音を背景に退けていく。背景に眼を凝らせば、それが空間的にも時間的にも、あまりにも「等間隔」でわざらしく配置されていることにすぐさま気付くだろう。過不足なく視界を埋め、間断なく生じる様々な響き。そこに時折クローズ・アップの効果が加わる。クレジットによれば、おそらくは金属製や木製の音響彫刻を叩いているらしい「演奏」は、独自の空間性を帯びてはいる(間近で聞こえたり、少し離れて距離を震わせたり)が、背景音のクローズ・アップの操作とよく似た軌跡を描くことで、その空間の独自性は薄められる。いや、それは話が逆で、演奏の構築性と同じ原理により、背景音を組み立てているのだ。水の流れ、彼方の交通騒音、雨音、小鳥のさえずり、カエルの合唱、蝉時雨といった持続音が地=遠景となって空間を塗りつぶし、通り過ぎるサイレン、犬やニワトリの鳴き声、人の話し声、観光客のあげる歓声、あるいは先の持続音からの部分的なクローズ・アップ等が、図=近景としての「演奏」と地=遠景の間を埋める緩衝地帯=中景となる。さらに一部で聞こえる中国語やマレー語による語りもMievilleにとっての「異国語」であり、動物の鳴き声同様、意味を伴わぬサウンドとして取り扱われていることに注意しよう(印象的に流れるコーランもまた)。すべては均等にサウンドで埋め尽くされる。ここに〈空間〉はない。近景/中景/遠景はひとつの枠の中にわかりやすく納まり、ひとつの平面をかたちづくっている。「演奏」の、そして中景の音の出入りのせわしなさは、むしろ彼の「空間恐怖」をすら感じさせる。ここに示されているのは、タイトル通りエキゾティシズムのふんだんに香る「塗り絵」にほかならない。風景は再構成され、紛れもない〈建築〉へと仕立てられる。なお、本作はコスタリカ、ペルー、香港、マレーシアで録音されている。


3.見ることと聴くこと

 最後にLucio Capeceの演奏動画について簡単に触れておきたい。
冒頭に記したallaboutjazzのディスク・レヴューでは、彼がカーヴド・ソプラノ・サックスに様々なプリパレーションを施しながら演奏する様をとらえたyoutube掲載の動画(*4)を参考に掲げている。それは2006年の演奏の第2部で、youtubeを検索すると同じ演奏の第1部(*5)や、同じく2006年に別の場所でやはりカーヴド・ソプラノ・サックスを用いたフィードバック演奏(*6)の動画を見ることができる。
*4 http://www.youtube.com/watch?v=ZNXweQX1gnQ&feature=relmfu
*5 http://www.youtube.com/watch?v=DrRNLQCr7BY
*6 http://www.youtube.com/watch?v=YG3k6emxrxQ&feature=relmfu

 そこで行われている演奏では循環呼吸により音を出し続けながら、キーの操作を左手のみで行い、空いた右手で次のA〜Cのようなプリパレーションを行っている。少し前の動画なので、その後に開発されたテクニックもあるだろう。たとえば『zero plus zero』では行っているボール紙製の管の使用はまだ見られない(たまたましていないだけかもしれないが)。
A サックス本体(リード部分を含む)を弓で弾く
B サックスのベルに音具(※)を挿入する、あるいはベルにふたをかぶせる(ON/OFF)
※プラスチックのカップ、金属の筒、プラスチックのふた、ピンポン玉、バイブレーター等
 C マウスピースを外し、直接、あるいは別のチュープをはめて吹く

 最初に動画を見た時、まるで台所のテーブルで小学生が夏休みの工作や実験をしているような、そのあまりにローテクなDIYぶりに驚かされた。動画では音がきちんと拾えていないため充分な確認は出来ないが、『zero plus zero』でも同様の手つきで演奏を行っているのは確かだろう。少なくともこれらの動画では、各プリパレーションがいかにもなサウンドを引き出しており、そこに意外性は少ない。逆に言うと、彼のアクションを見ていると妙に納得してしまい、響きの不思議さに惹きつけられる度合いが薄くなるような気がする(トリックの種明かしで興味が半減すると言うことではない)。
 彼の演奏する姿を見ずにCDに耳を傾けている時には、とらえ難い不定形の響きを追ってそばだてられ、懸命に手探りしていた耳が、動画を見ている間は、彼の身体の動きをとらえる眼の後を、うなずきながらおとなしく付き従っていく。もちろん、実際に眼の前で繰り広げられているライヴ演奏であれば、視線を分散させ、耳を眼の束縛から解き放つこともできるのだが、画面サイズが小さく、サウンドの貧弱な動画では、映像を追いかけることに注意が集中して、耳が置き忘れられてしまうように思う。
一方ではさんざん恩恵にあずかっているのだが、youtube動画で演奏を見ることの危うさを感じずにはいられなかった。

正弦波が描き出してしまう〈風景〉−Lucio Capece『zero plus zero』を聴く  Sinewaves End Up Drawing "Soundscapes" - Listening to Lucio Capece / zero plus zero

  1. 2012/04/18(水) 21:45:17|
  2. ディスク・レヴュー|
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【前口上】
 Lucio Capece / zero plus zeroについては少しじっくり考えてみようと思い、ディスク・レヴューの7枚から外して、別枠でレヴューを掲載することにした。こうした話題に関連して、ちょうど触れたかった作品が他にもあったし。
 Lucio Capeceに関しては、『Berlin Buenos Aires Quintet』(l'innomable)やRadu Malfattiとのデュオによる『Berlinerstrasse 20』(b-boim)等で聴いていた。前者では気息音の使用や倍音の重視など、微細な音色に着目したエレクトロ・アコースティック志向の演奏を見せ、後者では長い沈黙を挿みながら、Malfattiの息音(ほとんど「息漏れ」の印象)と重ね合わされ対比されるべき純音(正弦波)的な音色をバス・クラリネットから引き出す演奏を行っていた。共に最近の即興演奏周辺ではよく見られる方向性であって、それゆえ彼に対してこれまで特別な印象も評価も持っていなかった。しかし、今回の『zero plus zero』(Potlatch)は、そうしたこれまでの方向性をさらに純化させながら、演奏楽器等のアプローチを拡張しつつ、ターゲットは理詰めに絞り込んだ意欲作にして注目作と言えるだろう。Potlatchレーベルの厳選したリリースと鋭い問題提起ぶりも評価したい。
 本作について考えてみるきっかけを与えてくれた多田雅範(※)に感謝したい。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120413 参照。



Lucio Capece / zero plus zero
Potlatch P112
Lucio Capece(sruti box,soprano saxophone with applied objects used as preparations, double plugged equalizer,ring modulator,bass clarinet neck,cassete walkman,minidisc walkman,tuned backyard recorded through cardboard tubes of differing dimensions,sine waves,bass clarinet with and without cardboard tubes)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=15976

【楽曲/演奏楽器解説】

 彼の演奏している楽曲/楽器・音源について若干の解説を付しておく。なお、本項の執筆にあたってはLucio Capece自身によるテクスト(*)を参照した。
*http://www.luciocapece.blogspot.jp/

 まず、彼によれば、「zero plus zero」は次の4部構成の演奏によるソロ・ピースである。
  .轡絅襯謄・ボックス
  ▲愁廛薀痢Ε汽ソフォン及びプリパレーション
  アナログ・エレクトロニクス
  ぅ丱后Εラリネット及びプリパレーション
 シュルティ・ボックスは鍵盤のないハーモニウム様で、リードのある空気穴を開閉することで音程/倍音を操作できるインド楽器。ソプラノ・サキソフォンはカーヴのあるものを用いており、プリパレーションとしてベルの中にオブジェを挿入するほか、各部に振動するものを取り付けているようだ。これはバス・クラリネットのプリパレーションも同様である。DPイコライザーは別の箇所で「入力無しのイコライザー」との表記があるので、中村としまるが演奏している「入力無しのミキサー」と同様の原理で音を出すものと考えられる。cardboard tubesは下に掲載した演奏風景の写真から、文字通り「硬いボール紙製の筒」と判断される。様々な口径/長さの筒を介することにより、録音の際に固有の共鳴が加わって、特定の音域が強調されたり、マスキングされたり、エコーが付されることになるだろう。そのことを踏まえれば、tuned backyard recorded through...はこのようにして録音された周囲の音(背景となる環境ノイズ)と考えてよいだろう。


cardboard tubeを操るLucio Capece


■zero plus zero=0+0

 本作で採りあげられている主な音源は、正弦波それ自体とシュルティ・ボックス、アナログ・エレクトロニクス、ボール紙の管等によりプリペアされたソプラノ・サキソフォンやバス・クラリネットであり、そこから生ずるサウンドは最初から正弦波に近い響きと微細で多様な付随音(倍音を含む)に限定されている。表題の『zero plus zero』とはこのことの「絵解き」ではあるまいか。ただし、本作はそうした音素材の限定の段階で完了してしまっている(演奏は付け足しの余禄に過ぎないような)出オチ一発ネタのコンセプチュアル・アートではなく、まさに音に耳を傾けること求めている。


■5. Spectrum of One / 6. Inside the outside

 正弦波だけで構成された「初めて宇宙から撮影した地球の写真50周年記念」と副題された5曲目「Spectrum of One」(ここで「one」は「oneness」あるいは「unity」等の含みを暗示していよう)が本作の「零度」に位置する(この曲は最初の楽曲解説に記した「zero plus zero」のもともとの構成に含まれていない)。すなわち〈zero plus zero〉の第1項である。そうした構成上の必要性から置かれたトラックということもあって、他のトラックのような魅惑的細部を持たない(それゆえ5分程度で早々と終了してしまう)。様々な音程の正弦波音が空っぽの空間に去来するだけの真空的な時間は、確かに「宇宙から見た地球」、すなわち空気のないところで眺められた風景の滲みのないきっぱりとした輪郭と、その孤独な寄る辺無さを感じさせるところがある。しかし、これは響きに対する大雑把な、それゆえ叙情的な印象に過ぎない。ここで鳴っている音に改めて耳を傾けるならば、本来なら一切の倍音を持たないはずの正弦波が、実際の空間においては、発音/空間への放射/録音・再生の各プロセスで、ルーム・アコースティックや電子回路の影響を受け、様々な付随音を伴うことにより、あえかな風景を描き出してしまっていることに気付くだろう。このトラックでは各音10秒程度と持続が短いことあり、とりわけ低い音域の正弦波がそれだけ倍音を生じてしまいやすく、バス・クラリネットに似た音色を示している。その結果、このトラックの終了後、ほとんど間を置かずに次の「Inside the outside 掘廚始まり、冒頭のバス・クラリネットの音色が鳴り響くと、正弦波にごうごうと風が唸るような「鳴り」を加わっていることが驚くほど鮮やかに(ほとんど手触れるほどに)浮かび上がる仕掛けになっている。ここで2項目の〈zero〉が確かに値を有しているのだ。
 バス・クラリネットのごうごうとした響きは、チューブによる効果だろう、幾つかの突出する部分音を持つように感じられる。最低域のウワンウワンとしたうなり、上層に浮かぶ息のかすれ、真ん中の音域のウェストを絞り込んだようなぼうっとした間歇的な広がりと、その少し下の音域の腹に響く動物的な力強さ。〈zero plus zero〉を聴き取るべく、そこに焦点を合わせた耳は、本来ひとつのヴォイスであるべき楽器の響きを解体してしまう。もちろんそれが彼の狙いなのだろう。ここで風景はそうした解体された各部分の関係性/対比の中に現れてくる。
 通常の音楽アンサンブルは複数の楽器の音を溶け合わせることを主眼とする。ここで働いているのは、それとは反対方向のモーメントだ。音が音楽/楽曲というより、空間に振り撒かれた点景の集積、あるいはそれらが編み上げる移りゆく風景として、立ち現れるのはそうした理由によるだろう。強調された部分音/互いに切り離された点景が、多くの場合異なる周期で巡りながら、おぼろに重ねあわされる。耳はそこに様々なリズムで作動する機械仕掛けの寄り集まりを聴き取り、町工場を覗いた時や、あるいは(飛躍に聞こえるかもしれないが)自分の身体の内部に耳を澄ました時の響きを思い浮かべる。
 揺ぎ無い構築に向け組織されるのではなく、ゆっくりとほぐれ、はらはらと崩れ落ちながら、ゆるやかに編み上げられる焦点のおぼろな風景。多田雅範が本作に鋭敏に感じ取った「心地よさ」(そこに私はどうしても「懐かしさ」を読み取ってしまう)の源泉は、こうしたところにあるだろう。


■1. Some more upward uncertainly / 2. Zero plus zero / 3. Inside the outside

 冒頭の「Some more upward uncertainly」におけるシュルティ・ボックスのアコーディオンや足踏みオルガン、そしてもちろん重ねあわされた正弦波に似た音色とそれぞれの音域でウワンウワンと反響しながら伸び縮みする響き。リードの不安定な揺らぎがもたらす風のうなり。様々な音程がぶつかりあう際のざらざらとした軋み。〈zero plus zero〉を聴き取らぬ耳には、単に瞑想的な単一のドローンと聞こえてしまうかもしれないミクロな風景の生成。
 続く「Zero plus zero」と「Inside the outside 機廚楼貭阿靴涜深鐶人佑焚燦擦砲茲辰胴柔されていることがわかるだろう。
 前者では緩やかな金属質の回転音の揺らめきに、時折それより速いピッチのより輪郭のはっきりしたやはり金属質の摩擦音や震えが重なり、ソプラノ・サキソフォンのぼーっとした管の鳴りとそこに付随する墨の滲みのような複数の層から成る共鳴、息音(シューという滑らかな音からブツブツザワザワと粒だったざわめきまで)、さらには息音を様々な比率で含むリード音等と混じりあい、互いに干渉しあう。
 後者はシュルティ・ボックスの重ね合わせで始まるが、間合いを置いて音が発せられるために、ずらしながら重ねられた冒頭曲とは異なり、立ち上がりの不揃いさ(音が立ち上がる瞬間の様々なパラメーターの素早い推移による音の揺らぎ)や、他の音が止んで残された響きのゆっくりとしたコマの軸のようなブレ(あるいはダイナモのうなり)が印象に残る。そこにさらにぬるぬるとウナギのようにとらえどころがなく、変化し続ける不安定な音色の管の吹奏音(クレジットによればバス・クラリネットのネックか?)が重ねられることにより、墨の滲みに似た、質感が連続して濃淡の分布だけが異なる不定形の広がりが現れ、その度に形を変えていく。
 これらの曲で共通に浮かび上がってくるのは、触覚的要素を伴ったミクロな風景であり、それは同一の発音原理/動作から分岐して異なった音域/周期/音色を持つサウンドの切れ端/点景の集積が、さらに複数重ねあわされることによって構成されている。


■4. Inside the outside

 アナログ・エレクトロニクスが前面に押し出された演奏であり、ブザー音のように強烈で不透明な粘性を持った電子音が視界を塞ぐ。小刻みに震え、モジュレートされてのったりとうねり、あるいは希薄に引き延ばされ、溶けたゴムのように流れ落ち、かきまぜられてゆっくりと螺旋を描くゼリーのような手触り。だが、そうしたなかにも、表面の「照り」が分離したような持続する高域成分や、奥の方で作動する機械音、さらには後から加えられる蝉時雨のようなノイズ(さらにそこから鈴虫の鳴き声のような高音が分離するように聞こえる)が風景を編み上げずにはおかない。
 そうした電子音がふと止むと、ボール紙の筒を通して録音された環境音が現れる(一瞬、それを隠していた覆いが取り除かれたように感じる)。だが、それは奇妙に歪んでいる。鍵穴から覗いたような視界の暗さと焦点の合わなさ、ぼけた輪郭、視界の明度を落とすぼーっとした「鳴り」。そこには同じボール紙の筒でプリペアされたバス・クラリネットの、あの「ごーっ」とした鳴りが微かにこだましている。
 そして、暗く輪郭の不確かな世界が映画のアイリスのように閉じると、何もない中空にふと現れ、何事もなかったように消えてしまう正弦波音が短い間を置いて提示される(5. Spectrum of One)。そこには、先ほどまでのもやもやとしたざわめき/ゆらめきが映っているようにふと感じられる。


■ノイズの中のピッチ/ピッチの中のノイズ

 「ここ何年かの音に関する経験から、ノイズの中に隠れたピッチを、ピッチのある音にたまたま伴ってしまうノイズを発見することを楽しむようになった」とLucio Capeceは書いている。それは共演者を見つける時のことの隠喩にもなっていると。「深く共通性のある(deep common)アイデアに基づいていながら、人とは異なった風景の中にある。ことなるやり方で、でも同じく本質的な側面を取り扱っている。」そして、注意深く耳を傾けるなら、必ず二つの要素(ピッチとノイズ)を互いの中に聴き取ることができる、それがこの作品の原理であると。その意味では〈zero plus zero〉の各項はピッチとノイズであると言うこともできよう。
 だが、私たちがこうした音を聴く場合、響きに耳を傾け、物音に注意を払う時、ピッチとノイズの二分法に従っているわけではない。むしろ触覚的なものを含んだ音色のマチエールによって描き出された風景を見ているのではないか。ある特定の音色/響きにより、一定の(不定形の)広がりや微小面の集積を伴ったマッスが提示され、あるいは輪郭や境界等を描き出す手触りのある線が浮かび上がる。
 私たちの耳は何よりも「警戒」のためにあり、聴覚は発音体の所在(方角と距離)を定位し、それが何であるか(自らに危険を及ぼすものか)を判別することに努める。そうした感覚にもともと備わっている向性を抑制して音楽に耳を傾ける時でも、楽器や演奏者の判別/特定に注意が向かいがちである。そのことが演奏者(作曲者)の意図を探る聴き方と結びつく。音をそれ自体として聴くことは難しい。厳密には不可能なのだろう。けれども、そこに〈風景〉(あるいは響き/アンビエンス)という媒介項を設けることにより、個別の要素の特定とそれらの意図に基づいた体系的構築という「耳の枠」(それは「耳の宿命的な病」と言ってもよいかもしれない)から、少しだけ自由になれるのではないだろうか。


■参考作品

 本作との関連で、最近耳にした中から類似した景色(まあ「正弦波」的な電子音とその周辺というか)の広がるLINEレーベルの作品を3点挙げておこう。もちろん関連や類似は私の個人的な感覚に基づく判断であり、各プロジェクト自体につながりがあるわけではない。

Seth Cluett / Objects of Memory
LINE LINE_048
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_048/
 笙の音色をさらに引き延ばして平坦な響きだけを残し、楽器音の断片が、蒸らしている最中の紅茶の茶葉のように、ゆっくりと浮き沈みする。胸のうちでゆっくり膨らんでいく不安にも似た電子音のたゆたい。震える持続音(冷蔵庫のコンプレッサーのような)の重ね合わせ(次第に空間に染みこんでひとつになる)、鉱物標本を打ち合わせているようなカチカチという乾いた物音、僅かにひゅうひゅうと鳴る空気の動き。昼前の空に取り残されたおぼろな月のようにぼんやりと宙に浮かぶ正弦波、どこかでいつも響いている隙間風、微かに耳に触れるハウリングの気配、視界にうっすらとかかるしろい靄。ここには、どこから聞こえてくるとも知れず、ふと気がつくと鳴って/止んでいる夢うつつの響きが吹き寄せられている。Seth Cluettは静止のイリュージョンを目指したと語っている。

Richard Chartier / Transparency (Performance)
LINE LINE_049
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_049/
物理学者ルドルフ・ケーニヒの制作による692個の音叉を並べ4オクターブ以上に及ぶ音域を持つ「グランド・トノメーター」(米国歴史博物館所蔵)と金属や木製の共鳴体等を用いた作品。叩かれた音叉の響きが長い長い尾を引いて空間に消えていく(高音はまるで口笛のように響く)。柔らかく打たれ続けた音叉は平らかな水面を、同心円を描きながら広げていく。セットされた共鳴体の種類により、様々な色/かたちの響きが浮かびあがり、鏡のように滑らかな面を僅かに乱す。耳ではなく指先で感じ取るべき、暗闇に沈んだ不可視の水面の舞踏。



Steve Roden / Proximities
LINE LINE_052
試聴:http://www.lineimprint.com/editions/cd/line_052/
 陸軍の兵舎を転用/改装したドナルド・ジャッドによるミニマルな金属彫刻(箱を模したミニマルなコンストラクション)の収蔵庫での録音。がらんとした空間に簡素なシンセサイザー(Paia OZ)の音が放たれ、録音される。広大な空間ヴォリュームを満たすほどに音はゆるやかに引き延ばされ、並べられた多くのジャッド作品をわずかに震わせながら、次の音へと受け継がれる(彼自身によるハミングや以前の演奏の再生音もまた空中へと放たれ、先の音やバックグラウンド・ノイズと混じりあう)。陽が射すにつれ、ジャッドの作品をかたちづくる金属板は膨張し、それぞれ歪み、振動して、そこに別の響きを付け加える。ゆらゆらとたちのぼる陽炎の響き。



【補論】正弦波音に押し付けられる象徴的意味合い(oneness / unity)について

 正弦波音が即興的な演奏に用いられることが、近年多くなっている。だがその多くは、正弦波音の持つ象徴的な意味合い(「すべての根源」であるというような)に寄りかかり、あるいはウルトラ・ミニマムであることをそのまま存在理由(レゾン・デートル)としているように思われる(演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない「演奏」)。「すべての根源」といったイメージは、フーリエ解析によりあらゆる波形が正弦波の重ね合わせによって表現できることに対する「誤った理解」と言っていいだろう。フーリエ解析は振動波の時間的推移をとらえられない。それは豊かな変化を持つ音を、音程の重ね合わせとしか見なさない。アフォーダンスを提唱したJ.J.ギブソンは『生態学的知覚システム』(東京大学出版会)で純音について次のように述べている(p.100)。

「純音は、推移を無視し、普通、事項的な刺激が与えられたときにのみ経験できる。それは、一定の周波数と振幅に設定された音波発振器を耳から一定の距離に設置し、一定の時間作動することで可能となる。その結果得られるのは、その周波数に対応する音程、その振幅に対応する音量、ある一定の持続時間をもった無意味な感覚作用である。一方、意味のある音は、単に音程や音量、持続時間だけではなく、遥かに精緻に変化する。意味のある音は、単純な持続時間に代わり、始まりと終わりの突然さ、反復、速度、速度の規則性、リズム、その他の微妙な点で変化する。意味のある音は、単純な音程に代わり、音色もしくは音質、音質の組み合わせ、母音の質、ノイズからの距離、ノイズの質のすべてが時間で変化する。意味のある音は、単純な音量ではなく、音量の変化の方向、音量の変化の割合、また、音量の変化の「変化」の割合で変化する。意味のある音は、これらの変数が結びつき、目も眩むほど複雑な高次の変数をもたらす。」

 一方、ミニマル・テクノや音響派的即興演奏における正弦波の使用に注目し、これを顕彰した佐々木敦は『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)で、フーリエ解析の「基本単位」である正弦波の有する特別な「oneness」あるいは「unity」についてシュトックハウゼンの指摘を引用しつつ、次のように述べている(p.64)。

 「シュトックハウゼン(や、ケルン電子音楽スタジオに集った複数の音楽家たち)によって、「作曲=音楽」は「正弦波音」から成るスペクトルの合成」、すなわち「音色」の完全操作にまで還元された。ここには、われわれの論議において、極めて重要な意味が顕れている。先のテクストにおいて、シュトックハウゼンは、ピエール・ブーレーズのピアノ作品に触れつつ、次のように述べている。

 それは一つの音がもつ(電子音楽以前には決して存在したことのない)意義と、個々の音を集合的な音群へ、そして音楽的なかたちへと統合する上位の形式理念のあいだの奇妙な弁証法である。(中略)たったひとつの倍音、あるいはスペクトルからたったひとつの部分音を抜き取ったり付け加えるだけで、全体のサウンドが変容するのである。

 「一つの音」が持つ意義、そしてそれが「電子音楽」の発生以前には決して存在したことがない、ということを、ここでは強調しておこう。」

 ここで佐々木によって引用されたシュトクックハウゼンの文章の原文(「シュトックハウゼン音楽論集」(現代思潮社)p.42)に当たればすぐにわかるのだが,シュトックハウゼンはここで正弦波音に対して「一つの音」という語を用いているのではない。単にブーレーズ作曲による二台のピアノのための「構造」の統計的な形式基準が揺ぎ無いものであることを指摘するために、多くの音の中のどの一つの音も‥という意味で「一つの音」という言葉を用いているに過ぎない。それは正弦波を指し示しもしなければ、「oneness」や「unity」といった特殊な含みも持たない。だいたい、シュトックハウゼンは正弦波音を単独では評価したり、そこに象徴的な意味合いを見出したりはしておらず、同じ著作の中で次のように素っ気なく語っている(p.50)。正弦波音に「oneness」や「unity」を見出すシュトックハウゼン師の有難いご託宣は存在しない。

 「正弦波音は周波数ジェネレーターによって任意の音高、持続、強度において生成できる。単一の正弦波音はだいたいフルートの音のように響く。そういえばフルートの音は楽器のなかでも最も倍音の乏しい音である。」

 にもかかわらず、佐々木は次のように正弦波音の使用/聴取を特権化する(p.70)。

 「ありとあらゆる「音楽」と「音響」の根底を成す「最小単位」を、そのままの形で切り出して、現実に聴くことが出来るようになったばかりでなく、それを可塑的な物質のエレメントのようなものとして、具体的に扱い、あまつさえ加工することさえも可能になった、という事実は、もっと驚くべきことなのではないか?・・・・
 つまるところそれは、「一つの音」を可能足らしめる「正弦波音」というもの、それ自体を、紛れもない「音楽」として聴取するということのラジカリズムである。そして、そのラジカリズムが、思いも寄らぬ形で息を吹き返したのが、他ならぬ「ミニマル・テクノ」と更にそれ「以後」の展開だと言えはしまいか?」

 こうした根拠付けを、先に指摘した「演奏の素材として正弦波を選択した時点で終わってしまっている、演奏の名に値しない『演奏』」を擁護する理屈の典型ととらえることができよう。


         
        佐々木敦      カールハインツ・シュトックハウゼン
  「テクノイズ・マテリアリズム」  「シュトックハウゼン音楽論集」
         青土社              現代思潮社

「タダマス」の五輪の書  The Book of Five Rings for “TADA-MASU”

  1. 2012/04/13(金) 22:14:49|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 4月22日(日)に綜合藝術茶房喫茶茶会記において、益子博之・多田雅範による恒例の「四谷音盤茶会」第5回が開催される。前回4回目でちょうど1年を締めくくることとなり、そのまとめとして選出した2011年の10枚が、NYダウンタウンで活躍するクリエイティヴなミュージシャンたちの見ている風景と彼らの評価が見事に合致しているのを、誰の眼にも明らかにしてくれた。そんな彼らが新たな1年の最初、第1四半期をどう踏み出したのかぜひ見てみたいと思う。
 以下に、masuko/tada yotsuya tea party vol. 05: informationページ(※)からの情報を転載する。
 ※詳しくは次のURLをご覧ください。
  http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
  http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html


益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 05


2012年4月22日(日) open 18:00/start 18:30/end 21:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:佐藤浩一(ピアニスト/作曲家)
参加費:1,200 (1ドリンク付き)

今回は、2012年第1 四半期(1〜3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン〜ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDのご紹介です。2011年分として拾いきれなかったものも一部カヴァーしております。注目ポイントとしては、近年のECMのNYシーンに対する眼差しと、「クラリネットの復権」を実証するいくつかの作品といったところでしょうか。
 ゲストは、ピアニストの佐藤浩一さんをお迎えすることになりました。2011年はリーダー作や参加グループ作のリリースが続き、ちょうど注目度が高まっているところでしょう。リリカルで控えめなスタイルと思われがちですが、自身のグループのライヴではその攻撃性や変態性を顕わにしてくれます。ECMから初リーダー作を出した菊地雅章や、同じくECMでのティム・バーンの初リーダー作で紹介されたマット・ミッチェルなど、気になるピアニストにどんなコメントをしてくれるでしょうか。お楽しみに。(益子博之)



※クリックすると拡大されます。

ディスク・レヴュー 2012年1〜3月  Disk Review Jan. - Mar. 2012 Part 1

  1. 2012/04/13(金) 22:10:37|
  2. ディスク・レヴュー|
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【前口上】
 2012年第1四半期(1〜3月)のディスク・レヴュー第一弾をお届けしたい。まずは、ポップス、トラッド、ジャズ等、音の実体的な手触り(その向こうには演奏者の身体の確かな輪郭がある)を感じられる領域からの7枚。第二段はより音響的なエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションやフィールドレコーディング等のアンビエントな広がり(そこでは演奏者の身体や行為を前提とすること自体が不確かとなってくる)の感じられる領域からの7枚をお届けしたい。こうしたグループ分けは多分に恣意的なものであるが、私が音楽を聴く上での実感に沿ったものであるのも確かだ(もちろん境界は曖昧に滲んでおり、そこには入り組んだボーダーランズが広がっている)。
 年度初めの時期なので、前年(2011年)制作の作品がどうしても混じってくることになるが、さらにこの領域は対象範囲が広すぎてこちらのリサーチが行き届かないこともあり、一応、「新譜ディスク・レヴュー」という一応の位置づけにもかかわらず、前年よりさらに以前の作品が「今年度になって初めて出会った作品」として含まれ得ることをお断りしておきたい。もちろん、すでに広く知られているだろう作品については、仮に採りあげるにしても別枠ということになるだろうが。



Amina Alaoui / Arco Iris
ECM ECM 2180
Amina Alaoui(vocals,daf),Saifallah Ben Abderrazak(violin),Sofiane Negra(oud),Jose Luis Monton(flamenco guitar),Eduardo Miranda(mandolin),Idriss Agnel(percussion)
試聴:http://player.ecmrecords.com/alaoui
 ECMにおけるAmina Alaouiと言えば、アル・アンダルース文化におけるヨーロッパとアラビア文化の混成をテーマとしたJon Balkeとの連名による『Siwan』(ECM2042)がすぐに思い出される。あそこでAminaはバロック・アンサンブルとの対比においてアラブ/北アフリカ的なものを代表しており、彼女自身のソロ・ライヴでの声の身体のくねらせ具合からすればずいぶん上品におとなしかったのだが、今回もやはり、モロッコ的な情熱を期待するといささかはぐらかされてしまう。ここで彼女はアル・アンダルースへのノスタルジアは自分の望むところではないとし、ファドやフラメンコを採りあげながら、イベリア半島の文化を汎地中海的な方向に押し開いている。各方面に素材だけを渉猟し、それらを自分色に染め上げてしまうのではなく、本来の声の揺らぎを抑えて張りを優先させたフラメンコのカンテや、さざなみのようなファドの哀歓に寄り添った彼女の歌唱は、まさに自分の足で半島を経巡る旅路を生きている。この果敢な挑戦を評価したい(と同時にECMならではの視点の設置の仕方、汎ヨーロッパ的な何者かに向かうそれ、を感じずにはいられない)。


Peter Szalai, Szabolecs Szoke, Evelin Toth / Rubai
Hunnia Records HRCD 901
Peter Szalai(tabla,tablatarang,chanda,marimbula,vibration,mbira,angklung,framedrum,konnakol), Szabolecs Szoke(gadulka,sarangi,sansula,basskalimba,aquaohone,angklung,oceandrum,springdrum), Evelin Toth (vocals,sansa,marimbla,vibration)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/hrcd901.html
 東欧系擦弦楽器特有のざらざらした肌理と倍音の鮮やかさを持った切れ味鋭い音色が、空間を薄く、透き通るほど薄く削いでいく。弓と弦の、響きと空間の触れ合う一点が顕微鏡的に拡大され、毛羽立った微細な起毛が薄闇に浮かぶ金糸銀糸の輝きを見せる。こうして切り傷だらけとなった空間に声の揺らめきが、タブラの張り詰めたひびきがしみこみ、暗がりに沈んで、赤い闇の重さと、寝ている犬のゆっくりと上下する腹を思わせるゆったりとした呼吸だけが残る。一音一音の彫琢の驚くばかりの精緻さ/豊かさ。たとえリズムが激しく刻まれる時であっても、ハンガリーらしい血/陰影の濃さ(私はここでやはりかつてのKolindaを思い浮かべている)はいささかも揺ぎ無い。


Mercedes Peon / Sos
fol musica 10002048
Mercedes Peon(vocals,piano,keyboard,sampler,guitar,bass,clarinete,gaita,percussion),Nacho Munos(keyboard,sampler),Fernando Abreu(clarinete),Manuel Cebrian(guitar),Manuel Alonso(electric bass),Fernando Martinez(accordion)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/10002048.html
 スペインはガリシア地方の女性トラッド・シンガーのおそらく4作目。その異形ぶりはスキン・ヘッドでパンク顔負けの絶叫を放つだけでなく、自身で伝承曲のフィールドワークを重ねながら、エレクトロニックなビートの導入を積極的に進める極端さにうかがえた。本作ではこれまで試みてきた多様なリズムのスイッチングのレヴェルをはるかに超えて、声音を切り替え(高低/硬軟/遠近/表情をはじめ各パラメータを多重人格的に操作)、テンポから密度に至るまで(ほとんどレコードをかけかえるように)サウンドを差し替えて(クラリネットの滑らかな広がりから浮かんでくる人々の話し声、あるいは赤ん坊の喃語とその頭上で回転するメリーの音)、鮮やかなミュージック・サーフィンぶりを見せる。こうした跳躍がデスクトップの編集(あるいはよくあるDJのスクラッチ)と聞こえず、これだけの強度を持ち得るのは、やはり何よりも彼女の声の鋼のような勁さとしなやかな柔軟性(変身能力?)があればこそだろう。


The Gurdjieff Folk Instruments Ensemble, Levon Eskenian / Music of Georges I. Gurdjieff
ECM ECM 2236
Levon Eskenian(director), The Gurdjieff Folk Instruments Ensemble(duduk, blul,kamancha,oud,kanon,santur,tar,dap,dhol,saz,tombak,dam duduk)
試聴:http://player.ecmrecords.com/gurdjieff
 グルジェフによる作曲作品とは基本的にトマス・ド・ハルトマンによるピアノへのトランスクリプションであり、それゆえ、通常ピアノ等の西洋楽器によって演奏されているのだが、ここではそれをグルジェフの生まれ故郷であるアルメニアの音楽伝統(とはギリシャやアラビア、クルドやコーカサス等の周辺地域/民族文化の混交にほかならない)のもとへと差し戻している。アンサンブル名通り民族楽器による今回の演奏は、しめやかなモノクロームに沈み、遠く霧に煙るようで、かつて仏Ocora盤で聴いたアルメニアのトゥルバドールの哀しみをたたえながらも喉を張った朗々たる詠唱や、ピーター・ブルックが監督した映画「注目すべき人々との出会い」(グルジェフ原作)のサウンドトラック(ハルトマン作曲のオーケストラ)の連なる山並みを見渡すような壮大さ、弾けるような舞曲調のリズムと随分異なっている。より耳を澄ますような、優美で繊細な洗練があると言うべきか。ある地域/民族のフォークロアに対象を託しながらも、そこに汎ヨーロッパ的な共通の「ルーツ」を透かし見ずにいられないECMの業の深さを感じる。


紫絃会 / 舞楽 春鶯囀一具
日本伝統文化振興財団 VZCG-761
紫絃会(鞨鼓、太鼓、鉦鼓、笙、篳篥、龍笛)
試聴:http://www.hmv.co.jp/product/detail/4932604
参考:http://search.japo-net.or.jp/item.php?id=VZCG-761
   http://d.hatena.ne.jp/japojp/20120222/1329906981
 雅楽の大曲の貴重な録音(1973年)の復刻。付属の解説によれば、本来みんな1セット揃っているはずの舞楽だが、資料の散逸や大編成ゆえの演奏の困難さもあって、このように全曲が演奏される機会は極めて稀なのだそうだ。サウンドはずばり雅楽のそれだが、前掲のThe Gurdjieff Folk Instruments Ensembleのように「民族楽器のアンサンブル」とは耳が受け取らない。むしろMichel Donedaの気息音によるインプロヴィゼーションやフィールドレコーディングがとらえる空気の揺らめきを聴く時と同じスイッチが入る感覚。【前口上】で言うところの「ボーダーランズ」の音楽となろうか。笙、篳篥、龍笛といった倍音の多い管楽器が複数で同時に奏されることにより、「墨流し」の渦(今回の聴取では、これこそが私にとってのサウンドのキー・イメージとなった)を思わせる音色の溶け広がり/滲みが生じ、それがわずかな起伏をゆっくりとたどりながらゆるやかに引き延ばされ、たゆたいの中でひとつになるかと思えば、また同時に幾つかの回転する層に分かれていく。鞨鼓の速い刻みや太鼓の深々とした一打はリズムと言うよりも、ある特徴的な音色のレイヤーと聞こえ、それが他の層と敷き重ねられ干渉しあって、別の模様をつくりだしていく。


うつくしきひかり / うつくしきひかり
compare ntes CN 0031
Risa Nakagawa(vocals,piano), MC.sirafu(steelpan)
試聴:http://www.myspace.com/utsukusikihikarii
   http://www.youtube.com/watch?v=qwPOeqmnXMk
 かじかんだ手にほっと息を吹きかけるような温かみをたたえた、ちょっととぼけたNHK「みんなのうた」的女性ヴォーカルも、控えめな環境音の導入(小公園の陽だまりや放課後のがらんとした校舎等)もいいが、それよりも何よりもピアノとスティールパンの組合せがすばらしい。ピアノの音色のくっきりとした輪郭と透明な余韻が、スティールパンのにじみやぼけを伴って曖昧なまろみのある響きと重ねあわされる時、昔の少し歪みのある厚ぼったいガラス戸を通して外を眺めたように、景色がよりくっきりと澄み渡り、世界がいきいきと息づいて、とてもいとおしく見えるように感じられる。よく出来た紙飛行機のようにすうーっと切ない軌跡を描くメロディもまた素敵だ。


Satomimagae / awa
無番号(http://satomimagae.under.jp)
Satomimagae(vocals,guitar,etc), Tomohiro Sakurai(guitar,backing vocal on 10 & 11), Yasushi Ishikawa(trumpet on14)
試聴:http://www.pastelrecords.com/SHOP/satomimagae_pl-803.html
   http://soundcloud.com/magae/
 女性SSWによる不思議な味わいの作品。荒削りでほとんど不器用ですらあるのに、それすらが新鮮な魅力となっている。基本的にはアコースティック・ギター弾き語りのフォークなのだが、効果音ともまた違った形で様々な楽器音や環境音、物音が加えられており、それが弾き語りの背景に並ぶのではなく、声とギターの間にしみこんで、すべてを薄暮のうちに渾然一体と溶かしていくように感じられる。ポータブル・カセット・テープ・レコーダーの内蔵マイクで録音した音を聴き返して、互いの話し声が周囲の物音に沈み、見分け難くひとつになってしまっているのに気付いたときのあの驚き(もちろん本作のこの手触りは録音だけによるものではない)。時に突き放したようにぶっきらぼうに放たれもする声が、そうしたサウンドに侵食されながら、強風に抗ってたどたどしくもしっかりと歩みを進めていく。70年代英国マイナー・フォークのようなマジックを感じる。

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