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絶景ポイントとしてのカフェの空間  Cafe Space As the Point of Superb View

  1. 2011/10/28(金) 23:28:40|
  2. 批評/レヴューについて|
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  4. コメント:0
 前回レヴューしたNYジャズ最先端定点観測イヴェント「四谷ティー・パーティ」に会場を提供してくださっている「綜合藝術茶房 喫茶茶会記」店主福地さんから、ブログに次のようなコメントをいただきました。


 益子さんと多田さん、周辺各位から「シンクロニシティ」というキーワードから得られるような瑞々しいなにか(抽象的すぎますね 笑)を得られるようです。それはお仕着せのものではなくて、自分だけで思案して一人旅をして、まったく偶然に絶景ポイントで出会った人たちとの共感のようなものだと思います。それぞれ孤高なのですが、それ故に先天的な美意識の共有が得やすい。そんな旅をする者の関所。それがタダマスですね。


 う〜ん。うまいことをおっしゃいますね。自分だけが発見したとの喜びとともに、絶景に思わず見とれていると、他にも同じ景色を見詰めているものがいるのに気づく。最初から徒党を組んだり、同じ情報源にアクセスして「ネタ」が共通であることを確認しあったりするのではなく、別々の方角から歩いてきて、またいずれ別々の方向に散っていくのだが、いまたまたま同じ景色を見ている。だからこそ、いまこの瞬間も、見ているこの景色もかけがえのないものと感じる‥‥そんなところでしょうか。

 ちなみに「タダマス3」については、すでに月光茶房店主・原田さんのレヴューがブログに掲載されています。私みたいに自分のことばっかし書いてるんじゃなくて、ちゃんと出演者の発言をフォローした大人(たいじん)の風格溢れるリポートになっています。

http://timbre-and-tache.blogspot.com/2011/10/blog-post_25.html#!/2011/10/blog-post_25.html


 さらにホストのお二人による振り返りもまた、すでにそれぞれのブログに掲載されています。益子さんのものは最近通ったライヴ・レヴューも併せて読むことができます。

多田さん http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20111025
       http://www.enpitu.ne.jp/usr/7590/diary.html

益子さん http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43768


 同じ時間、さして広くも無い同じ空間にいて、同じ音を聴きながら、みんな違うことを感じ、異なる風景を思い浮かべているんだなー‥と。この辺が「まず一体感ありき」みたいな「ハコ」と違って、カフェのいいところだと思います。そこに集う者をひとつに束ねてしまわず、思い思いに夢想する余地を残しておく「寛容さ」。それこそは、いま私たちのまわりに一番欠けているものではないでしょうか。

 喫茶茶会記店主の福地さんは、ご自身のブログで「藝術喫茶を営んでいると選りすぐりのメンバーが集まるので高尚な店と思われる節があるが、私が高尚でないのでバランスが取れている」と謙遜していらっしゃいますが、確かに様々な活動の交差点/プラットフォームとしてのカフェは、「目利きの店主が厳選した‥」ではダメかもしれません。セレクト・ショップではないのだから。それぞれの活動の交流/発展はもっと自然発生的なプロセスであり、店主にはそれを見守る「寛容さ」こそが求められるのでしょう。


喫茶茶会記アクセスマップ
四谷三丁目駅からほど近い。


こんなものも展示されていたり‥。
知らないオトナの世界の魅力。

photo:Masao Harada



ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性−「タダマス3」レヴュー  Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" − Review for "TADA-MASU 3"

  1. 2011/10/25(火) 23:44:53|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1
 第3回四谷ティー・パーティが無事終了し、今回も当日プレイされた演奏から、あるいはコメントから、様々な触発を受けることができた。今回特筆すべきは、ゲストの池長一美(dr)が請われるままに、かなり柔軟に、また縦横にコメントされていたことだろう。日本のミュージシャンの中には、同時代の音楽を全然聴いていなかったり(あるいは聴いていないふりをしたり)、あるいはコメントを求められても「他人は他人、自分は自分」みたいな話になってしまう人も多いのだが、その点、池長はそのようにガードを固めることなく、率直に感想を述べていた。ミュージシャンが演奏している時には、当然、様々な感覚が入り込んでいるし、多種多様なイメージが脳裏を去来しているはずなのだが(「空っぽになって磨き上げたスキルだけが動いている」などというのはフィクションに過ぎない)、それを言葉にしてしまうと嘘臭くなるからか、人脈とか奏法とかについては語っても、音楽から受ける印象やイメージについて語りたがらない人もいる。今回かかったThe Clarinetsの演奏に対し、「雲の隙間から光が射すような‥」と彼が印象を語ったのは、だからとても新鮮だった。ミュージシャンがもちろんミュージシャンならではの聴き方をしつつ、聴き手と同じことを聴いてもいるという「当たり前のこと」を改めて確認できたことも、今回の大きな収穫だったと言えるだろう。この場を借りて感謝したい。池長さん、どうもありがとうございました。

さて、以降は当日プレイされた10音源(実際には参考としてかけられたものもあるので10+α)から、特に印象に残ったものをピックアップしてコメントしていくこととしたい。なお当日の詳しいプレイリスト(パースネル入り)は次を参照のこと。
■http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767



Steve Coleman and Five Elements / The Mancy of Sound
Pi Recordings PI 38
track 3:Fire-Ogbe[Odu Ifa suite] 5:21
 前作では自ら集めた俊英たちに遅れを取ったが、本作品では明るくポップ化したことにより見事に復活した‥との紹介通り、実に軽やかでポップに弾けている(微炭酸)。Seve Colemanといえば、M-Baseでの変拍子の導入等によるサウンドの複雑化/重層化で知られるが、ここでは従来のジャズ・アンサンブルを前提とした複雑化というより、ハード・ディスク・レコーディングによるレイヤーの敷き重ねをモデルとしたつくりこみのように思われる。変拍子とシンコペーションだらけのリズム・アンサンブルも、むしろギクシャクとしたトンガリ具合よりも、滑らかさの中の味覚変化を目指しており、それがMPBの香り高いヴォーカル・ラインともよくマッチしている。だから全体の印象は、奇妙なことにステレオラブ「ミルキー・ウェイ」のジョン・マッケンタイアがプロデュースしたトラック(たとえば冒頭曲)に近い。だがここで重要なのは、もともと編集で生み出された動きが生の演奏する身体を通過することにより、動きをそして身体を組み替えていくことの可能性だ。黒人によるストリート・ダンスの世界でも、明らかに早送りやスロー再生、ループといった動画編集からサンプリングした動きがモンタージュされるようになってきているが(Les Twins, Marquese Scottなど)、そうしたこととの同時代性も感じられる。


Tyshawn Sorey / Oblique-I
Pi Recordings PI 40
track 1:Twenty 7:24
 上記作品でも叩いていたTyshawn Sorey のソロ作品。前作まではやたら音数が少なくて現代音楽みたいだったが、本作では叩きまくりと紹介された通り、実に見事な演奏を聴かせてくれた。Tyshawn Sorey自身が影響の源としてシェーンベルク等を挙げているだけあって、アルト・サックスのラインなど無調っぽく動く。そこへ「食って入って、後へも残す」式の不均衡をバシバシと叩き込む音数の多いドラミング。しかし体温は低いままで、決して熱くはならない。そこに突き放した対象化の視線の強度が感じられる(この2人に比べるとピアノとギターはやや弱いが)。このドラムとアンサンブルの在りようは、私にクリス・カトラーのいたヘンリー・カウを思い出させた。さらには70年代末のアンソニー・デイヴィスのアンサンブルに、竹田賢一がやはりヘンリー・カウとの同質性を見ていたことを思い出した。


The Clarinets / Keep on Going Like This
Skirl Records SKIRL 013
track 6:Drop Off 4:55
 開演前にかかっていた彼らの前作に耳が立った。クラリネット(またはバス・クラリネット)3本による演奏は、フレーズの幾何学的な断片を投げ交わすのではなく、空間に精確にちりばめ、象嵌していくクールな緻密さをたたえていた。対してこの演奏では、各演奏者はひたすらに息を磨き上げ、音になるかならぬかの危うい均衡の中で水平なたなびきに徹している。磨き上げられた息の積み重なりは笙にも似た響きを生むが、ここで演奏者たちはそうした響きの輪郭を整えるよりも、水平に広がる響きの肌をすりあわせることから演奏を織り成しているように感じられる。それゆえ、時に生々しい息音が混じり、あるいはモジュレーションによる音響の変化が生じる。冒頭に記したようにゲストのドラム奏者池長一美が、「雲の隙間から光が射すような‥」と印象を述べた後、「自分ではもうコントロールできないところへ行って、ただ音を見詰めている」、「演奏の中で、たとえば終わる直前にほんの一瞬だけ起こるようなことを、意識して引き延ばしてやっている」と語っていたのが興味深かった。私も同様のことを感じていたからだ。もちろん楽器/サウンドはコントロールされている。だが、それは演奏者の意図を反映するためのコントロールではもはやない。自転車の速度をどんどん遅くしていって、もはや到底まっすぐは走れないが倒れない‥という中で重心の移ろいを、ペダルに置かれた足の裏の感触とギアの遊びを、タイヤの摩擦とハンドルの軋みをまっすぐに見詰め、肌で感じているような。この盤の中でも最も極端なトラックとのことだが、昨年のベスト30にも選んだクラリネット・デュオThe International Nothingと共通の手触りも感じられる。益子の指摘するクラリネット復権をまざまざと感じさせる1枚。前作ともども入手してぜひ聴き込みたい。


Tony Malaby's Novela / Novela:Arrangements by Kris Davis
Clean Fead CF 232
track 2:Floral and Herbaceus 7:44
 「即興演奏のための素材に近い」と益子が評するTony Malabyの作曲を、9人編成のアンサンブル(ベースレスでチューバが入る7管)に編曲するというかなり無理筋の1枚。細かくパタパタと鳴るドラムスをはじめ、寸断された、あるいは薄くのめされた響きが次第に積み重なり、ゆっくりと香りがひろがるように、あるいは植物が繁るように(これは曲題通りのイメージ)、底の方から空間を満たしていく。ここでKris Davisは指揮に専念してピアノを弾いていないので、ドラムス以外はすべて管楽器なのだが、むしろ西洋のハーブの中に、東洋の香木が混じるような、異質なものを潜在させた濃密さを志向しているように感じられた。とはいえ、中間のばらけた部分など、いかにも「ソロ取ってください」と言わんばかりだし、そうして演奏されるソロもいささか窮屈となれば、編曲の意義はどこにあるのかともなりかねない。しかし、ラストの解き放たれた「鳴りっぱなし感」はとても面白いし、ある可能性を感じさせる。アンサンブルにソロ(のための空間)をスーパーインポーズするのではなく、前半のような制御の中で、各演奏者が自ら動き回れる空間を見つけ出していくような工夫が求められよう。


The Claudia Quintet + 1 / What Is the Beautiful ?
Cuneiform Records RUNE 327
track 1: Showtime/23rd Street Runs into Heaven 9:11
 ケネス・パッチェンの詩に曲を付けたとの説明を聞いて「へー」と驚いた。いまどき、そんな酔狂なことをなんでまた‥と(調べたら生誕100年を記念した作品なんですね)。朗読による話言葉の抑揚/リズムを作曲化するやり方は以前からあるが、ここでは前半部分がその応用から成っている。ベースが、ヴィブラフォンが、テナー・サックスが、ナレーションに寄り添い絡みついて、ひとしきり踊った後、それを踏まえたソロを取る。体幹のしっかりしたベースが生み出すリズムの小気味よいこと。対して後半では朗読に寄り添わず、むしろ響きのかけらが斜めに空間を横切りながら、色合いを切り替えていく。この対比はなかなかに鮮やかだ。ビートニクの流れを汲み、ポエトリー・リーディングでジャズの即興演奏ともしばしば共演したパッチェンならではの演出というべきだろう。John Hollenbeckの知能犯ぶりがうかがえる。



 今回はドラマーがリーダーだったり、作曲したりの作品が多かったのだが、かつてのように「ドラマーが作曲」=「パーカッション・ソロ」とか、=「変拍子ばりばり。ただしメロディはペンタトニック一発」といったことはもはやない。ジャズにおいても自らのソロではなく、サウンドを、音世界をプロデュースする時代なのだ。
 そうした中で、益子が録音された作品においても、完成品を求めず、むしろ試行錯誤的な実験性を打ち出すものが多くなってきていることを指摘し、そもそも彼らは作品を完結させることを重要視していないのではないか‥と投げかけると、池長もこれに同意していたのが興味深かった。

 日々のライヴが日常であり、ひとりの演奏者が数多くのグループやユニットに属しているジャズの現場があるのに、改めて録音でも実験性が打ち出されるのはなぜだろうか。それを考えるためには、いま日本で「実験音楽」などと言われる時の「実験」との違いを明らかにしておく必要があるだろう。後者の「実験」が俗流ケージ主義に基づく、語の一番悪い意味での「パフォーマンス」、すなわち健忘症が可能にしたコンセプトだけの「ネタ」に過ぎないのに対し、前者は決してそうした新奇さを求めることのない、まさに自らの身体が新たに通り抜けるための環境設定である。先日の記事で少し触れたウィリアム・バロウズ風に言うならば「新たなヤクを試してみる」ということだ。その「ヤク」自体は以前からある。効果も文献には載っている。けれど自分の身体に使ってみてどうかはわからない。そこで実験が必要となる。結果はうまく行ったり、行かなかったり。それは「ヤク」の精製純度や、その時の自身の体調や精神状態、周囲の環境等によっても異なる。しかし、身体は確実に学んでいき、経験は積み重なる(後者の場合は「ネタ」が古くなるだけだ)。

 これからもジャズの世界では、様々な実験が、再検証と再創造が繰り広げられていくことだろう。それはジャズの定型や通念が厳しく問われていることにほかならない。もし「ジャズのふり」をしているだけならば、それが「ジャズに似ていない」ことは致命的な欠陥である。だが、ジャズそのものは「ジャズにちっとも似ていない」ことを、何ら恐れる必要はない。だとすれば、「ジャズにちっとも似ていない」ジャズが世界で一番出現しやすい場所はニューヨークなのかもしれない。



【追記】新たなヴィンテージ
 四谷ティー・パーティの会場である「綜合藝術茶房 喫茶茶会記」は四谷三丁目駅からほど近いにもかかわらず、(大人になりきれない)大人の隠れ家的雰囲気が絶妙な空間だが、最近、喫茶/バー・スペースのスピーカーが入れ替えられた。以前のB&W805の後には、某氏のお手製というエンクロージャにマウントされたヴィンテージ・ユニット。うかがったところによるとグルンディッヒとジーメンスだという。おおっ、独逸の銘機ではないか。音はむしろ北欧系のように響く。中域をやや抑えた気品あるドンシャリ・バランス。そんなに帯域が伸びているはずはないのだが、繊細で甘さをたたえながら透明感を失わない高域と、ベースの輪郭を格調高い雰囲気とともに描き出す低域の質感は見事なものだ。ゆったりとした余裕はエンクロージャの大きさが効いているのだろうか(底面にロードのかかったポートのある長岡式バスレフとのこと)。音の伝え方/描き方に優れていると言うべきだろう。記憶を頼りに比べると、以前のB&Wがずいぶん素っ気無く感じられる。途中かかったデヴィッド・シルヴィアンのヴォイスから判断するに、あの鬱陶しい色気がややあっさりしていたから、中低域も量的には多くないはず。だが、ピアノ・トリオや女性ヴォーカルはお手の物だろう。いずれにしても、この場に似つかわしい造りに感心した。原田氏撮影の写真でも、もう何年も前からここにいたような顔をしている。
 ■綜合藝術茶房 喫茶茶会記  http://sakaiki.modalbeats.com/



撮影:原田正夫
楕円形がグルンディッヒ製のウーハー。
何だか手塚治虫の描いたロボットみたいなかたちがカワイイ。

記憶の復讐−韓国映画「母なる証明」レヴュー  Revenge of Memories − A Review for Korean Movie “Mother”

  1. 2011/10/25(火) 23:30:19|
  2. 映画・TV|
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 昨日、BSで観たので、頭に浮かんだことをちょっとメモしておきます。最初にお断りしておけば、TVで観ただけで書いているので、本格的な映画評になどなるはずもありません(時間短縮のためにカットもされているだろうし)。それとネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。



 原題は『母』、邦題は『母なる証明』と、全編に渡って描き出される「母性の暴走」を強調しているが、これはむしろ「記憶」の映画と言うべきだろう。障害を持つトジュンがこめかみに指を当ててぐるぐると回す「呪われたこめかみ」のポーズをするたびに、過去が脈絡無くフラッシュバックする。
 作品の展開において重要なのは、このうち彼が母に殺されかけた(農薬を飲まされ無理心中させられるところだった)場面を思い出すシーンと、ラスト近く、母がトジュンによる殺人現場の唯一の目撃者である老人を殺害し(彼の目撃が見間違いでないことが「呪われたこめかみ」のポーズにより証し立てられる)、放火した焼け跡で見つけた母の鍼箱を、慰安旅行に出発するバスの待合室で渡すシーンの2つ。ここでトジュンは、あたかも母の罪を告発しているように見える。しかし、それは説話論的な役割=機械仕掛けとしてそうなのであって、彼に告発の意志などあるはずもない。彼は自分自身が少女を殺害したことすら自覚していないのだから(「真犯人」の発見により釈放されて、死体がわざわざ屋上に放置されていた理由を推理してみせるトジュン)。

 先の2つのシーンでトジュンは「童形をした神」のように現れている。どこまでも純真で罪無く、無垢であるがゆえに、かつかつと日々を生きる人間の小さな罪を告発してやまない存在として。
 ここで私は萩尾望都『訪問者』のことを思い浮かべている。新雑誌「プチフラワー」の創刊号に掲載された作品は、やはり彼女による作品『トーマの心臓』の登場人物オスカーの「前日譚」とでも言うべきもので、『トーマ』の舞台となるシュロッターベッツ・ギムナジウムへの転校以前、父親と過ごした子ども時代を描いていた。気弱な芸術家である父は、母を殺害し、一人息子オスカーを連れてあてのない旅に出る。早熟なオスカーは、それ以前から険悪な夫婦仲に責任を感じ、居場所の無さ(自分は「家の中の子ども」ではない)を感じていた。そしてついに、父親の眼に自らが罪の告発者として映っていることを知る。無垢な子どもの姿をして家々を訪れる神=「訪問者」として(やはり「家の中の子ども」ではなく)。結局、父は知り合いの寄宿学校校長(彼こそはシュロッターベッツの主であり、オスカーの実の父親だった)に彼を引き渡し、帰らない旅に出てしまう。
 『訪問者』においては、「ちっとも神ではない」オスカーの内面が描かれることで、「童形をした神」は言わば物語上の機能として登場するに過ぎない。しかし『母なる証明』においては、トジュンの内面が描かれず、理解/共感不能な不気味さをたたえていることから、そうした「神性」がより生々しく立ち現れてくることになる。それは「記憶」の寓意にほかならない。抑圧しても、忘却しようとしても、また別のかたちでよみがえり、自らを責め苛む「記憶」が人の形をして現れたもの(ウォンビンの底の知れない眼差しや生臭さを感じさせない肢体は、見事にその役割を果たしている)。
 通常のストーリー・テリングなら、例えば復讐者の悪意や突然のアクシデントにより明らかにされていく忌まわしい「記憶」が、ここではトジュンの「障害」を介することにより、意図でも偶然でもない、あるズレをはらんだタイミングにより暴かれていくことに注意しよう(一方、前半の2件の交通事故に見られるように、この作品では「アクシデント」は本当に唐突に偶然の結果として、サイコロの出目のように起こる。殺人事件すらも)。言わば何者かによって与えられた「運命」として。
 そうした酷薄な「運命」への、ちっぽけな、だが精一杯の抵抗として、母の「イヤなことを忘れるツボ」に鍼を打つ行為を位置づけることができよう。それはこれまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくのだ。

 だから、私にはこの作品が「母のどこまでも深く、狂気に満ちた愛を描こう」とつくり始められたようには思えない。障害により、シャッフルされ、あるズレを持った、並べ替えられたかたちでしか記憶がよみがえらない‥というアイデアがまずあり、そこに「忌まわしい記憶を消す」魔法という仕掛けが加わり、母と子と殺人といった要素は、それらをプロット化するために後から要請された要素なのではないだろうか。本作品の脚本における伏線の張り方はとても見事なものだが、「母の異常な愛情」という線で組み立てたと考えるよりも、先のように見立てた方が、すうっとひとつの見通しが浮かんでくる気がする(もちろんこれは後知恵に過ぎないが)。

 俳優陣の演技もまた素晴らしい。おそらくは確信犯的にブサイクな顔ばかりを選んでいたりするので、消化不良を起こす方もいるだろうが。
 ネット上にアップされた感想を見ると、「母の愛情の異常さ」に胃もたれを起こした方も多いようだが、もし、この作品からそうした異常さしか感じ取れないとすれば、それは身の回りの親子の愛情の異常さから眼を逸らしているか、その方自身が偏狭で異常な愛情の中にあってそのことに気がついていないかのどちらかだろう(もちろん、映画には慰撫的な心地よさ以外を一切求めない向きもあるだろう。それも立派な「異常」ではある)。
 本作品は、むしろ異常というか「切断」の少ない映画だ。同じポン・ジュノによる「殺人の追憶」が田舎町の中に突如として現れる大規模な土木工事現場のシーン(人寂しい暗がりから一瞬のうちに転じて、煌々とライトに照らされ大勢が行き来する、本当に眼の眩むような異空間が出現する)を持っていたのに対し、本作品はひとつの街の同質性の中に封じ込められたまま進む。風景の手触りの切断は基本的に無い。それゆえ、死体の放置された屋上からの均質化した街の眺めが効いてくる(簡単に一望できる、まるで水滴のように閉ざされた、ちっぽけな世界)。
 唯一の切断は、風景の中の母の姿によってもたらされる。例えば母がジンテの家、あるいは廃品回収業者のところに向って田舎道を歩くのを超ロングでとらえたショット。母の姿は本当にちっぽけで、広がりのある景色の中では映像のシミのようですらあるが、それまでの姿が投影されることにより、景色と拮抗し得る存在となる。映像の力の溢れる場面だ。そのことは枯れ草が風にたなびく草原を母が歩くショットでも現れる。それらの源泉に位置しているのが、やはり冒頭に置かれた奥行き深い景色の中で母が舞うショット(タイトルバック)だろう(途中、母の見詰める山裾に立つ一本の樹木を、同じようにカメラが回り込みながらとらえるショットがあり、この辺は確信犯的なうまさではある)。なお、誤解の無いように付言すれば、これは決して「閉塞」に対する「開放」ではない。先に挙げた各場面において、期待されるような開放感/解放感を得ることはできない。風景のホリゾントは高く掲げられ、視線を解き放つことはかなわない。むしろ眼は景色と母とが拮抗する「つばぜり合い」を見詰め続けること、そうした強度の圧迫に耐え続けることを強いられる。それは「見たいものだけを見る」ことが映画を観ることだと考えている観客には無縁の体験である。たとえば廃品回収業者の居所に近づき、ショットが切り替わると、足元がぬかるんでいる。ここでの触覚性の急浮上を味わうことができるのは、先の緊張に耐え続けた者だけの特権であるだろう。
 この点で撮影の素晴らしさを了解しながら、その画面の強度を、様々な生成の線を自在に結び合わせ、注意深い瞳をとらえて放さない編集/構成の見事さを賞したい。派手なシーンやあからさまな切断がないだけに目立ちにくいのだが。音楽もまた、楽曲の出来以上に、抑制された効果的な使い方を評価することとしたい。





お知らせ:ディスク・レヴューに試聴用URLを追加しました  Information:Added URL for Listening to Disk Review

  1. 2011/10/23(日) 00:05:18|
  2. ディスク・レヴュー|
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  4. コメント:0
 ごめんなさい。先日掲載したディスク・レヴュー2011年6〜9月(第1部)に、試聴用URLが漏れていたので追加しました。改めてご覧いただければ幸いです。なお、第2部も現在鋭意執筆中ですので、もうしばらくお待ちください。

http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-133.html




10月23日(日)は「タダマス3」の日。

映像によるLAFMS(補足)  LAFMS on Video(supplement)

  1. 2011/10/22(土) 14:15:19|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
 前回「映像によるLAFMS」でご紹介いたしましたイヴェント「Slow Life Avant=Garde Tochigi」の模様が、主催されたArt into Lifeさんのブログに写真で掲載されています。以下のURLをご覧ください。
http://artil.exblog.jp/14796557/




 最初の写真は壁の鏡に写った会場であるカフェの店内。物販コーナーになっていて貴重なブツがずらり。ちらりと「Darker Scratcher」のLPが見えているのに、目ざとい方はお気づきのことでしょう。かかっているTシャツは、イヴェント終盤のインターミッション時にばんばん売れてました。

 その後は開場前の店内の様子、ごくごく秘密裏に小規模で‥という感じが伝わって来ます。スクリーンも白布を張っただけの即席のものですが、ご覧のように充分見やすいプレゼンテーションでした。ジョー・ポッツ個展のちらしとか、今となっては超貴重映像ですよね。こうした画廊・ギャラリー系からマイナー音楽が入ってくるということはままあって、ジャン・デュビュッフェの自主制作アナログ・ディスクなども、60年代当時にこの流れで日本に入ってきていたようです。

 上記ブログ掲載の写真をみていくと、いきなりエロい女性の顔のアップが出てきてびっくりしますが、自動販売機で売られていた伝説の雑誌「Jam」の表紙写真です。科補(科伏)=坂口さんがLAFMSや米国西海岸NW等の紹介記事を書かれていました。エロ雑誌の衣をまとった過激アングラ文化マガジンというところでしょうか。現在の衛生的な「サブカル」よりも、もっとヤバイ感じ。工作舎「遊」からの流れもあるし。この「Jam」の後身がガセネタ→タコの山崎春美編集による「Heaven」。「自販機 Jam Heaven」とかで検索すると、いっぱい情報が出てきます。70年代末から80年代にかけてですね。この辺の流れが「ピテカントロプス教養主義」みたいな形で浮上して、「Heaven」も「フールズ・メイト」に雑誌内雑誌の体裁で載ったりしてました。この辺の事情は自身、当事者の一人である(「Heaven」等に書いていた)香山リカ「ポケットは80年代がいっぱい」(バジリコ)が詳しいです。

 LAFMSに限らず、Art into Lifeの品揃えはスゴイですよ。ぜひのぞいてみてください。


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