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楽器としての世界−空間のヘテロトピックな構築  The World as Instrument−Heterotopic Construction of Various Spaces

  1. 2011/09/28(水) 00:49:16|
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 今回はフランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」の締めくくりとして、9月10日に彼自身によって行われたライヴ・パフォーマンスを手がかりとして考えたこと、考えさせられたこと、未曾有のサウンド体験によって凝結した思考の線を巡って書いてみることとしたい。
 これらは実はレクチャー「耳の枠はずし」から、その後の様々な機会を通じて考えてきたこととも深く関連している。聴取、風景、空間、アンフォルム/アンフォルメル、知覚、触覚等について、だらしなく伸びきった戦線にため息をつきながら、あれこれと考えを巡らし、いよいよ考えあぐねていたところへ今回のワークショップ開催の知らせがあって、何か踏ん切りのための刺激・きっかけになればと申し込むことになった。
 ロペスのレクチャーや受講者との議論は、幾つかの点で私の思考に確かな輪郭を与えてくれたが、それは受けた恩恵のほんの一部に過ぎない。様々な魅力的な触発により、ともかくも一歩を踏み出し、走り出すことへの勇気を与えてくれたことの方がはるかに大きいだろう。もちろん、そうした勇気とは蛮勇にほかならず、繰り広げられる思考もまた、走り出した勢いでともかくも駆け抜けるだけの粗雑なものでしかないのだが、しかし、たとえそうであっても、こうした線が思考の堂々巡りの閉域から走り出たことを、まずは喜びたい。そして、豊かな触発により、この思考の凝結を可能としてくれたフランシスコ・ロペスと、主催スタッフ(城一裕・金子智太郎)、そして共に学んだワークショップの受講者に、今回の一連の論考を捧げることにしたい。


1.空間の可能性【イントロダクション】

 ライヴ会場のある東京藝術大学千住校地の建物は、前面に広めの空地を確保しており、その分通りからだいぶセットバックして、暗がりの中にひっそりと佇んでいた。北千住駅から斜めに商店街・飲み屋街を抜けてきたのだが、色とりどりの光と音に溢れたそちらの小路とは対照的に、千住警察と並んだこちらの通りは、街路灯のモノトーンな明かりだけが、ガード下の暗がりへと続いていた。
 3階のホールは長方形で、高い木張りの天井が長辺に沿って放物線を描いている。その始点の側が通常のステージなのだろう(ただし段差はない)、湾曲した反射板が設置されており、白漆喰塗りの壁面には、腰壁部分を含め吸音/分散のためのスリットや桟が取り付けられ、響きがコントロールされている様子がうかがわれた。天井同様木張りの床の中央よりややステージ側寄りに、直径1.5m程度だろうか、予想よりこぢんまりとしたフランシスコ・ロペスの演奏/操作スペースが設けられ、その周囲を同心円状に3列の椅子が外向きに並べられ、壁の手前にはもう1列がこちらは内向きに並べられていた(ステージの反対側には、余ったスペースにさらに2列の椅子が追加されていた)。スピーカーは大きなPA用のものが4基、それぞれホールの四隅に置かれている。
 床や壁を叩くとコツコツと目の詰まった音で、椅子の音が不自然に響くことはない。壁表面の吸音/分散処理と天井の高さもあってか、ざわめきが尾を引いて、空中にわだかまることもない。席に着いて試みに眼を瞑ってみると、壁に近い3列目の位置なので、ざわめきは後ろから聞こえる。「音に包まれる」という感覚はない。ライヴの「儀式」的な性格ゆえか(あるいはそれに対する緊張のためだろうか)、社交辞令の挨拶があちこちで繰り返されることはなく、大声で話す者もいない。この場にはゆっくりと沈黙が舞い降りつつあった。

 主催者である城一裕によるライヴ・パフォーマンスの趣旨の説明とロペスの簡単な紹介に続き、ロペス自身がやはり趣旨を説明する。現実の音を用いて、別の現実(世界)をつくりだすこと、目隠しについては着ける/着けないは各自の判断であり、強制はしない旨が述べられていた。照明が落とされる前に目隠しを着けたので(黒布を眼に当ててそのまま結ぶと、耳を一部覆ってしまうため微調整が必要だった)、暗転の様子や実際にホール内がどの程度暗くなったのかはわからない。

 静かになった会場に、椅子の軋みや紙の擦れる音がしばし残り、そのうちそれもしなくなる。やがて、遠くにぽっかりと空間が浮かび上がる。真っ暗な中て、そこだけ街路灯に照らされ明るくなっている‥とでもいうような。ここで感じられる空間/場所の気配の実質とは、ふだん意識していない暗騒音、特に静かな場所で聞こえる対流ノイズ等なのだろうか、だがそれは音/響きの手触り以前に「空間の浮かび上がり」として感じられてしまう。クラシック音楽の録音で、マイクロフォンがONになり、フェーダーが上げられ、演奏が始まる前に訪れる耳が開ける感じ。まさに空間がそこにあり、これから音を迎え入れようとしている予感。
 さらに手前に別の空間が開ける。視界を塞ぐ圧迫感がある。空間が震え、ぴりぴりと励起し、バチバチと放電火花が散る‥‥と、このように次々と現れる音を書き出していっても、実は何も伝えたことにはならない。機械の作動音が複数組み合わされて眼前を圧したり、吹きすさぶ風が広大な空間を照らし出したり、地鳴りにも似た超低音の揺れと耳をつんざく甲高い高周波との間で空間が引き裂かれたりと、様々な魅力的なシークェンスが次々と現れたのだが、ロペスの〈演奏〉は決して物語的な展開を駆動力としているわけではなく、また、シークェンス同士のモンタージュを主な推進力としているのでもない(基本的にモンタージュは先行するイメージに次のイメージをぶつけていくことによって成立するが、彼はむしろ先行するイメージを利用せず、それが消えるに任せる)。彼の〈演奏〉をそうしたシークェンス(それは直ちに〈風景〉を連想させる)を単位として、それらの連なりととらえてしまっては、その可能性の核心に迫ることはできない。むしろ、その手前にとどまり、彼の演奏の特徴を明らかにしながら、ここでサウンドによるシークェンスがいかに構成されているか(あるいはなぜ聴き手がそのように構成して聴いてしまうか)の秘密を解き明かしてみたいと思う。

中央の〈演奏〉スペースと椅子  ホールの四隅に配置された
の配置(終演後の様子)      スピーカー
  



2.〈空間〉の浮かび上がり
(1)〈図〉としての音  

 ロペスの〈演奏〉の大きな特徴として、通常のサウンド・コラージュの手法を用いないことが挙げられる。通常のサウンド・コラージュの手法は、次の2点を枠組みとしている。 
 卉蓮咾箸覆覿兌繕間に〈図〉としての音素材を貼り付ける。
音素材は、「それが何の音であるか」を積極的に利用する場合(イコン的な用法)と、そうした特徴を消去し、ある質感を有する〈オブジェクト〉として利用する場合(非イコン的な用法)がある。
 まず,ら見ていこう。もともとコラージュという手法は、元の文脈から切り離された既存の断片同士を出会わせることにより、本来なら出会うはずのないものの衝突/共存を目指すものである。ここで有名な「手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」を例に採れば、「手術台」が〈場〉として先にあるわけではなく、実際には〈白紙〉の上で、3つの異質のもの同士が出会いを果たすことになる。サウンド・コラージュの場合も、例えば波の音等により〈場〉が提示されることはあるが、これも先ほどの「手術台」同様、素材のひとつに過ぎず、実際にはステレオ効果により提示される均質な(ニュートラルな)3次元空間(音の場合当然不可欠となる時間の次元は、便宜上ここでは捨象して論を進める)が、断片の出会いの〈場〉、貼り合わせのための〈台紙〉となる。
 そこに置かれる音素材は、平面コラージュの素材が図像の輪郭線に沿って切り抜かれるのと同様、もともと属していた空間から切り取られ、新たな空間に貼り付けられる。ここで重要なのは「輪郭線に沿って切り抜かれる」という部分だ。平面コラージュの場合、輪郭線に沿って切り抜くことで、その図像がもともと属していた平面/空間の痕跡を削ぎ落とすことができる。もちろん、それぞれの図像自体がある視点からとらえられたパースペクティヴ(による特有の歪み)や色彩や質感の表現の違いを有している可能性もあるわけだが、たとえばマックス・エルンストのコラージュ作品(「百頭女」等)を参照するならば、単色の銅版画や木版画、特に図案集等に素材を求めることにより、少なくとも図像の肌理に関しては統一感/整合性のある画面をつくりだしている。サウンド・コラージュの場合も、ある音像が「輪郭線に沿って切り抜かれる」ことにより、他の音/響きから切り離され、単一の音素材となる。水滴の落ちる音、せせらぎ、子どもたちの遊ぶ声、寄せては返す波の音、鳥の鳴き声‥。
 これはコラージュのための音素材としての取り扱い以前に、私たちが音を「何かの音」として、ふだんから発音体(の特定)とセットでとらえていることの反映にほかなるまい。それが「何かの音」である以上、別の「何かの音」とは区別・分離され、「輪郭線に沿って切り抜かれ」ていなければならない。ちょうど図鑑に載っている標本の写真やイラストレーションのように。
 これに関してロペスのワークショップ中で出会った「事実」を紹介しておきたい。彼が熱帯雨林の録音をした時の様子を説明する中で、マイクロフォン付のハンディ・レコーダーを樹木の幹に設置している写真があり、そのレコーダーはごく一般的なもので安価で入手できる旨の説明があった。実際、受講者の中に持っている者がいて、グーグルで検索したら1〜2万円程度で買えそうな代物だった。その時に検索で引っかかった中に「野外録音をしたいがどのような機材を揃えたらよいか」との質問があった。これに対して寄せられた回答は「目的によるが、たとえばバード・ウォッチングなら、目的の鳥の鳴き声だけを収録するために超高指向性のガン・マイクが必要になるから、マイクだけで15万円くらいする」というものだった。「森の中で鳥の声を聴く」とは、「○○という鳥の声を他から区別して、まるで図鑑を見るように聴く」ことにほかならないのだ。

(2)音の〈内部空間〉

 これに対しフランシスコ・ロペスは、音を最初から空間をはらんだもの、周囲の空間と不可分のもの、「輪郭線に沿って切り抜く」ことのできないものと見なす。彼が取り扱う音素材は、むしろ発音体から切り離されて、それが響く空間と結びつけられる傾向がある(「カエルの鳴声が空中にひろがると、もうカエルのものではなくなっている」)。音素材の加工にあたっても、彼は特定の「何かの音」を抽出しようとはしない。彼がイコライザーを操作するのは、特定の音像を「輪郭線に沿って切り抜く」ためではなく、隠れた〈ハーモニー〉を発見するためである。ここで〈ハーモニー〉とは、「協和音」といった狭い意味ではなく、強弱や粗密の変化曲線や周期をはじめ、様々な同期や照応関係を含めて幅広くとらえるべきだろう。ワークショップ受講者のひとりである原田正夫氏は、この操作と写真素材のレイヤーをフォトショップで重ね合わせていく作業の類似性を指摘し、やはり隠れた関係性を引き出すために、写真素材の色を消しモノクロにしてみることがあると語っていた。
 もちろん、通常のサウンド・コラージュにおいても、音が空間を伴って現れることはある。たとえば、がらんとした部屋に響くピアノ、コンクリートの空間に響き渡る靴音、気の床の軋みを伴う足踏みオルガン‥。しかし、それらは空間ではなく〈風景〉(むしろ情景と言うべきか)の提示にとどまる。空間のヴォリュームや温度・湿度、手触りではなく、意味ありげなシチュエーションの方を指し示す。
 ロペスの場合には、今回のライヴの冒頭でぽっかりと浮かび上がったちっぽけな空間に象徴されるように、むしろ、音=発音体よりも、音=空間の提示が第一義的なものとなっている。暗騒音に満たされた、発音体の特定できない、従って意図的な音もない、その意味では「沈黙している空間」の提示はあっても、空間を伴わない音の提示はない。なお、ここで暗騒音が、アフォーダンスの提唱者J.J.ギブソンの言う「包囲光(ambient light)」(空間を満たす光に周囲の環境の情報が映り込んでいる)のようなものとして現れていることに注意しよう。また、彼は「音の内部空間」という表現をよく用いるが、ここで〈内部空間〉とは、「何の音か」という詮索を離れて触知すべき、音自体の肌理や手触り、襞や窪み、重みや粘性、温度感等を指す一方で、音/響きに映り込んだ空間の在り様、刻印された空間の痕跡、生々しい侵食の傷跡等をも指し示しているだろう。
このようにして、音のはらむ空間、音によって照らし出された空間が前景化することにより、均質空間への音素材の配置という通常のサウンド・コラージュの枠組みは、様々な異なる性格を持つ空間のヘテロトピックな構築に取って代わられることになる。


3.禁じられた〈風景〉
(1)〈風景〉の生成

 通常のサウンド・コラージュの枠組みを用いないことと並んで、もうひとつ、ロペスの〈演奏〉の特徴と言えるのが、〈風景〉を構成しないことだ。
 一般に〈風景〉の成立は、風景画の歴史とパラレルに語られることが多い。生活者にとって単なる自分を取り巻く環境でしかなかったものが、ある時、別の眼差し(たとえば旅行者による美的な注視)によって〈風景〉として発見されるという物語。そうした切断により、たとえばアルプスの山々は、そこを行き交う者たちにとっての単なる障害物から、崇高な自然へと格上げされる。その背景には、エドマンド・バークが整理してみせた崇高の美学(カントへと受け継がれる)があり、さらにはそれをお茶の間化したピクチャレスクの美学がある。そのような荒々しく壮大な自然への眼差しの変化と並行して、失われてつつある美しい自然へのノスタルジックな憧憬、アルカディアとしての理想化もまた現れる。サルバトール・ローザが前者の、クロード・ロランが後者の、それぞれ代表格だろうか。オランダ(フランドル)の管理された田園風景が称揚される一方で、ヨーロッパと異なり手着かずの野性のままの自然が残るアメリカにおいて(「全世界は、初めはアメリカのような状態にあった」ジョン・ロック)、その人跡未踏の深い森の静寂が宗教的な恐れをもたらす(トクヴィル)ものとして賞賛される。
 もちろん、〈風景〉の成立は、そうした発見/気づきのみによるものではない。山水画の定型的表現、あるいはルネサンス以前の絵画における象徴的表現に見られるように、それ以前には先験的にとらえられていたものが、注視/描写の対象となり、空間/構図の中に位置づけられる。それゆえ遠近法的な認識もまた、〈風景〉成立の要件であり、さらに言えば、それまで誰しもが眼にしていながら見てはいなかったものを出現させる点で、それは柄谷行人が主張するような「転倒」(内面への潜行により外が見出された/創出されざるを得なかった)であることも確かだろう。

(2)成立しえぬ〈風景〉

 「風景の発見」により、いったん新たな認識論的な布置が作動を始めてしまえば、ひとは至るところに〈風景〉を見出す、いや見出さざるを得ない。そうした枠組みの下に見ることが強制されるがために。それゆえ、いまや美的判断は〈風景〉成立の要件とはならない。以前なら〈風景〉と呼ばれなかったであろうものも、今では美しくない〈風景〉として指差されるだけである。国内書籍の表題で「風景」という語を含むもののあまりの多さ(ジャンルも多岐に渡る)には驚かざるを得ないが、それも「誰かが語る価値を見出したところには、必ず〈風景〉が成立している」というトートロジカルな状況を踏まえれば、不思議でも何でもないだろう。
 さて、議論の前提としての〈風景〉に関する一般論はここまでとし、長くなりすぎた戦線を立て直すために、〈風景〉が成立し得ない局面へと論点を移行しよう。
 〈風景〉の成立にあたっては、依然として次のことが要件となっているように思われる。
|粒个砲箸蕕┐蕕譴振間内に配置されている事物が輪郭を明らかにし、全体としてある種の〈相貌〉をたたえていること。
空間の見通しが効き、全体像の把握が可能であること。空間の奥行き/深さ方向を含め、一定の構図/空間構成のうちにとらえられること。
 いわゆる「風景らしい風景」は、この2点を伝統的な文化定型として備えているものととらえることができる。俗に「絵のような風景」と言われるものだ。こうした要件を満たさない例として、明確な輪郭を持たない不定形な形象が充満し、見通しの効かない空間を挙げることができる。森をその外に広がるあるいは内部に開けた空き地からとらえるのであれば、それは先の要件を満たすことができるが、森の内部に入り込み、頭上を見上げ、あちこちから伸びて重なり合う枝々、鬱蒼と繁って輪郭を明らかにしない葉々の厚いマッス、さらにその間を縫って絡まりあう蔓や寄生植物の群れを視覚にとらえたとして、それはいつまでたっても著しい細部の集積、あるいは混沌としたオール・オーヴァーな広がりでしかなく、一向に〈風景〉として立ち上がる気配を見せはしまい。
 18世紀末から19世紀前半にかけて南米を調査し、「新大陸赤道地帯調査紀行」や「コスモス」を著したアレクサンダー・フォン・フンボルトは、西洋人が初めて見る南米の熱帯の自然の姿を、「生の充満」として、生命に満ちた無限に多様な現象の相互関連の全体性ととらえ、これを(特に植物相の)〈相貌〉のもとに観察・叙述しようとした。それは当時流行していたラファーターの相貌学を踏まえ、南米の熱帯の自然をまさに〈風景〉として描き出すことだったわけだが、実際には彼のあらゆる細部を省略しない列挙と書き尽くしにより、一幅の〈風景〉には到底収まりえない、混沌とした豊かさ(むしろパノラマ/スペクタクル的なもの)へと至ってしまっている。
こうした濃密な混沌により〈風景〉として成立していない風景画作品(この言い方は明らかに矛盾しているが)の例としてアルブレヒト・アルトドルファー「聖ゲオルギウスと龍」(1510年)を挙げよう。彼の作品に共通する植物化傾向が、ここでは堰を切ったように溢れ、視界は一面繁茂する木々に占領され、明確な輪郭や区分を持たないオール・オーヴァーな広がりを呈している。下端に申し訳のように描き入れられた白馬の騎士の図像がなければ、私たちはこれを〈風景〉として認識することはないだろう。
 同様に極端な希薄化により、視覚が注目すべき対象を見出せないような空間、遠近法上の消失点を持たない茫漠たるオール・オーヴァーな広がりもまた、私たちは〈風景〉ととらえることができない。こちらの風景画作品例としては、やはりカスパー・ダーフィト・フリードリヒ「海辺の修道士」(1809年頃)を挙げないわけにはいくまい−言わばその極限として。下絵段階では描かれていたという舟の形象も消去され、画面には、観る者の主観投影対象であると同時に、視界の広大さを際立たせるため、能う限り小さく描かれた後ろ向きの修道士の姿を除けば、互いを侵食しあう空と海、風と雲、気体と液体のどこまでも希薄な濃度が広がるばかりである。当時、観る者に「真空恐怖」を抱かせたというモノクロームに凍てついた空間は、北の海の彼方の昏い無限を眼差しているかのようだ。

アルブレヒト・アルトドルファー
「聖ゲオルギウスと龍」(1510年)


C.D.フリードリヒ
「海辺の修道士」(1809年頃)



(3)〈あいだ〉としての〈風景〉

 中井久夫による「風景構成法」を手がかりとして、〈風景〉成立の要件を別の角度から探ってみたい。ちなみに「風景構成法」とは、言わば箱庭療法を分裂病者向けに2次元平面化したもので、患者の前で枠を書き込んだ画用紙に、川、山、田、道、家、木、人‥といったアイテムを患者に順次描き込ませて「風景」を構成させるものである(詳しくは「風景構成法」中井久夫著作集・別巻1 岩崎美術出版社を参照)。
 ここでまず重要なのは「わたし(主体・人間)」と「まわり(客体・自然)」との間に成立してきた「あいだがら(間柄・間・関連)」として、「風景」がとらえられている点である。「風景」をこのように精神史的にとらえることにより、ふだん意識にのぼることはないが、継続して私たちの生を支えている「風景」のあり方が浮かんでくる。精神分裂病とは「人と人との間」(木村敏)に生起する事象であるとすれば、それは「わたし」と「まわり」との「あいだがら」、「つながり」と「へだたり」に関わる。そうした「あいだ」が病むことにより、空間認識や「風景」のとらえ方も変容してくることになる。たとえば、エルヴィン・シュトラウスによれば、健康者は感情的把握の場としての「風景的空間」の諸印象を絶えず知覚的認識の場としての「地誌的空間」の中に定位し、「地誌的空間」の中の諸標識を常に「風景的空間」の情感の中に包含している。それが分裂病のもたらす「風景」の崩壊により、物が平面的に羅列され、描き込まれた事物間の相互のつながりが失われ、また、奥行きが消失して、間合いの変質した裸の空間、「地誌的空間」の露出といった事態が引き起こされると言う。
 その美的価値に気づく・気づかない以前に、私たちは私たちを取り巻く環境と相互作用しており、〈風景〉を読み取ると同時につくりだしているのだ。見知らぬ風景に対し、部分部分は視界に飛び込んできても、すぐには全体像を把握することができない。徒に細部が増殖するばかりで、まるで見分けがつかない。そうするうちに、雑多なものが交錯し、あるいは希薄に溶け合って、輪郭を見定め難い混沌/充満の中から、相貌性の相を通じて(とは共示が明示に優先するということだが)、何かしらのかたちが浮かび上がり(空間への投影)、これに基づいて関係性が仕分けられ、空間が切り分けられて(空間の構成)、〈風景〉が浮かび上がる‥‥。あるいはこの逆の手順を踏むかもしれないし、より複雑な往還を繰り返すかもしれない。だが、いずれにしろ、〈風景〉は最初から出来上がってそこにあるものではなく、〈投影〉と〈構成〉というギヴ&テイクを通じて、日々の営みの中で私たちが自ら見出し、つくりだすものにほかならないのだ。


4.ロペスの戦略
(1)空間に充満する〈沈黙〉

 ロペスの〈演奏〉には「無音」というものがない。いつも何か音が鳴っている。今回のライヴ・パフォーマンスでも、彼に演奏終了を告げられて目隠しを取り、すでに明るくなったホールを眺め回した時、室内には微かに虫の音が響いていた(その音は、彼の終了宣言以前から聴こえていた。眼を瞑ることはできても耳を閉ざすことはできない)。彼の代表作のひとつ「Warszawa Restaurant」で聴くことができるように、一見無音と思われるところにも、意識下のつぶやきのような音が極小音量で入っている。「沈黙とは無音のことではなく、意図された音がない状態である」というジョン・ケージのテーゼを一歩進めて、彼は「すべての空間には、すでに固有の〈沈黙〉が鳴り響いている」と言っているかのようだ。実際、彼は暗騒音を巧みに操作して〈沈黙〉の充満した空間をつくりだしてみせる。空っぽの空間にアトムとしての音が去来する(ニュートン的モデル)のではなく、この空間にぎっしりと詰まった〈沈黙〉の変容が音を生み出す(フンボルト的モデル。光と違って直進せず、媒体中を伝播して回り込む音には、もともとニュートン的モデルはふさわしくなかろう)。量子力学における真空が素粒子を生み出すように。それゆえ「沈黙の空間」は可能性に満ち、何とも魅力的に見える。
 彼の〈演奏〉において、シークェンスが切り替わる時、私たちは常にこの「沈黙の空間」を潜り抜けることになる。音が消えるのではなく、何も手がかり/手応えのない薄明の中に放り出されたような、何とも心細い感じに襲われる。具体的な響きで言えば、静かになった飛行機の客席で聞こえる、あの厚い真綿にも似たノイズが一番近いかもしれない。飛行音、エンジン音、空調のノイズ、どこかの席のイヤホンからの音漏れ、気圧の変化による耳の不調等が互いに入り混じり干渉しあってつくりだす、何とも形容し難い響きに。ロペスの〈演奏〉にあっては、この響きの感触、「沈黙の空間」こそが、あらゆる空間(音を伴うものも伴わないものも)の基底に位置する音響の零度と言うべきものなのだ(Anywhereの基底としてのNowhere)。

(2)「別の現実」としてのヘテロトピア

 こうして私たちはロペスの〈演奏〉の間、様々な空間を体験することになる。眼前を圧する巨大な機械がけたたましい音を立ててピストンを往復させ、超高速でシリンダーを回転させながら、1台、2台、3台と数を増していく時、それらは同じ空間の中で重なり合うことにより、視覚的なパースペクティヴに変換され得ず、私たちの思い描く3次元空間をはみ出してしまう。現実音ならではの複雑で魅惑的な細部を備えた音響は、互いに互いをスーパーインポーズしながら重なり合い、細部の明晰さを保ったままオール・オーヴァーな広がりへと展開し、〈風景〉へと編み上げられることがない。吹きすさぶ風が広大な空間を照らし出したり、遠くで氷山が崩壊し、巨大な氷塊が海面を切り裂いても、やはりそれらは〈風景〉をはみ出していく。巨大機械の作動音に蝉時雨が重ねられ、床下を這う地鳴りと中空を漂う軽やかなざわめきといったあり得ない組合せや、入り組んだヘテロトピックな空間構成が、そもそも適切な距離の確保や対象化の視線、それらを着地させるべき文脈の確保を許そうとしない。採取された現実音が、自然物ならではの造形/構造の複雑さ(グレゴリー・ベイトソン)と自らのはらむ空間を魅惑的に露呈し、空間の読み取りを〈風景〉の形成を熱烈に誘いかけるにもかかわらず、私たちはそれを果たせず、宙吊りの状態に留め置かれる。彼の〈演奏〉のひりひりとした魅力は、この〈風景〉が成立し得ない不安にあるのかもしれない。
 イコン的でも非イコン的でもない、現実音ならではの空間喚起力を最大限に活かした音素材の使用は、それぞれが独自の空間をはらむことにより、結果としてヘテロトピックな空間構築をもたらす。モザイク状に入り組んだ空間は耳による探索を豊かなものとするだけでなく、〈地〉と〈図〉の曖昧化/融合化をもたらし、その都度、世界を組み替え、変容させていくことになる。それゆえ、そこでは〈反復〉が毎回異なる様相で立ち現れる。
彼の言う「別の現実」とは、私たちにとって「いま・ここ」であるホールの空間において、その空間に放出される音響により、まるで「音による映画」のように、それとは異なる空間を表象することではないだろう。彼は表象する代わりに、「いま・ここ」を解体し、再構成し、さらには変容しようとする。私たちのホールの空間に対する〈棲み込み〉に揺さぶりをかけ、ホールに設置されたスピーカーの音を聴こうとする私たちの聴覚自体を組み替え、〈演奏〉を通じてロペスの意図をとらえ、〈聴くこと〉をそこに還元しようとする私たちの聴取/理解を踏みにじる。世界は単一化/総合化の外皮を剥がされ、日常が本来有しているヘテロトピックな豊かさを露わにする。私たちは空間の数だけ〈沈黙〉を聴き分けることができるだろう。

 フランシスコ・ロペスによる今回のライヴ・パフォーマンスを経験して、私は聴覚による世界把握に関し、不可逆な変容を被った気がしてならない。まるでインプラント手術でも施されたような。私はこの1時間に起こったこと、聴いたことをほとんど思い出すことができない。だが、それでもなお(いや、それだからこそ)、この1時間のことは決して忘れないだろう。

楽器としての世界−機械による知覚との共同作業(補足)  The World as Instrument−Collaboration with Perception by Machines (Supplement)

  1. 2011/09/19(月) 22:12:30|
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 前回の補足として、稿を改めて論じるとした、聴くことが〈発見〉を忘れ、〈想起〉へと埋没してしまう傾向について書くことにしたい。


              【〈発見〉を妨げる〈想起〉のモード】

1.機械の知覚による録音がもたらす聴き方
(1)細部への耳の眼差し

 私たちの聴取の中には、録音されたものを聴くことによってかたちづくられたモードがすでに様々なかたちで入り込んでいる。ひとつには繰り返し聴くことができるという録音の特性が、細部に注目し、音や響きを微視的にとらえる聴き方をもたらしたと言うことができる。これは録音技術の発達による解像度の向上とも並行関係にあり、特にクラシック音楽(オーケストラ演奏)において、カラヤンやブーレーズの指揮者としての活躍は、細部の構築/彫琢に耳を凝らす、こうした微視的な聴き方の普及なくしては考えられなかったろう。さらには、70年代からセオンやアストレ、オワリゾール等の新興レーベルが主導した古楽ブームもまた、技術の発達による高域(倍音領域)の録音・再生能力の向上の賜物ということができる。それまでの黴臭い学術研究的な古楽のイメージ(かつてのアルヒーフやノンサッチにはそうしたイメージがどうしても付きまとっていたように思う)から、空間いっぱいに広がる軽やかで鮮度の高い響きの聴取へ。
 ジャズの発展形としてのフリー・ジャズからフリー・インプロヴィゼーションへの転進においてもまた、録音の果たした役割は大きい。それは決してジョセフ・ホルブルック時代のデレク・ベイリーたちが、フリー・ジャズやアメリカ実験音楽の取り組みを、現場から離れた英国でレコードを通じて研究していたことだけを指すものではない。ベイリーたちが特定の音楽伝統/即興コミュニティに自閉してしまうことのないよう、イディオムを離れた非イディオム的なインプロヴィゼーションを推し進めるにあたり、イディオムは充分廃棄されているか、文脈はできかける都度、切断されているか、各自の手持ちのランゲージはうまく機能しているか(強迫反復等の袋小路に陥っていないか)等について、セッションの録音を通じて確認していたであろうことがひとつ。さらに、聴衆にとっても、彼らの演奏の実質を、「破壊的前衛」といった粗雑なラベリングで済まさず的確にとらえるためには、ソロやコール&レスポンスの跡を追いかけ、ノイジーな爆発にのけぞるだけでなく、音の軌跡の遷移/交錯/衝突に眼を凝らし、音色の対比や音の空間配置を含めた細部の構造を聴き取ることが求められ、これはまさに録音された演奏を繰り返し聴くことにより育まれる聴き方にほかならない。

(2)録音された即興演奏を巡って

 「繰り返しの効かない一回性に基づく」とされる即興演奏が、録音が可能とした「繰り返し聴くこと」により育まれた聴取を前提としているとは、何とも皮肉なことだ(ほとんど詐欺である)と思われるかもしれない。だが、私たちの耳がそのように「経験を積んだ(exprienced)」耳になってしまっていることは、否定しようもない事実である。その時に、録音された即興演奏を聴くことを拒絶したり、あるいは1回だけ聴きはするが「すべてを聴いて、すべてを捨て去る」などと浪花節的に宣言してみたりすることは、あまり生産的とは言えまい。こうした態度はあまりにも素朴に、あらかじめ準備しないこと、繰り返しの効かない一回限りのものであること、無意識の反応であること、瞬時の判断の連なりであり事前の見通しや意図はないこと‥といった〈即興演奏の無垢性=イノセンス〉を信じきってしまっている。また、なお悪いことには、そうした〈無垢性=イノセンス〉が即興演奏の絶対的な前提であり、即興演奏の価値を決定するとすら考えてしまいがちである。
 様々な条件付けを取り除いていきさえすれば、原初の無垢や自由が手に入るというのは幻想に過ぎない。私たちの身体は、すでに数限りない条件に縛られている。私たちは一定の波長範囲の音しか聴くことができず、一定の音量範囲の音しか聴くことができない。耳の解像度は限られているし、百時間続けて聴くこともできない。逆に言えば、あらかじめ決められた日時・場所に、決められたメンバーが集まって、ステージ上等の限定されたスペースで聴衆から見えるように配慮しながら、たいていは「楽器」と見なされるものを用いて、一定の時間の範囲内でほぼ同時に始まり同時に終わる「演奏」なるものを繰り広げることが、あらかじめの条件付けでないとしたら、いったい何なのだろうか。
 何のことはない。様々な条件付けを取り除いていくと、取り除けない初期条件の制約が裸で出てくるだけなのだ。むしろ私たちが目指すべきは、選び抜いた条件を新たに付け加えることにより、初期条件の制約をつくりかえ、そこからは自動的には出現しない状態をつくりだすことにほかなるまい。


2.発見と想起−聴取の2つのモード
(1)〈想起〉のモードのドミナント化

 録音された音を繰り返し聴くことを通じて、耳の眼差しが音の細部へと向けられるようになり、すでに聴いた音の中にも新たな発見が生まれるようになった。その一方で、反復的聴取は別の作用をもたらしもする。
 聴覚が「それは何の音か。自らに危険をもたらすものか」を判断するために発達したことを考えれば、〈聴くこと〉の中に必然的に〈想起〉のモードが含まれてくることは理解できよう。私たちは眼の前の音だけでなく、想起した音もいっしょに「聴いて」いるのだ。
 こうしてもともと〈聴くこと〉の中に含まれている〈想起〉のモードが、録音の反復聴取により強化され、より前景化してきているのではないだろうか。すなわち、繰り返し聴くことのなかで本来達成されるはずの〈発見〉が排除され、同じものの寸分違わぬ反復であることが疑いなく信じ込まれることにより、〈聴くこと〉が〈想起〉のスイッチを入れるトリガー/インデックスに堕落してしまっているのではないか。
 
 ひとつ例を挙げて考えてみたい。悪評高いMP3の音質についてである。登場直後から、その音質の悪さが指摘され、「私の曲をMP3で聴かないでほしい」と公言するミュージシャンも現れた。その一方で、ディスク・ライブラリーをMP3プレーヤーに放り込んでシャッフル・モードで再生する快楽について熱心に語るミュージシャンもいる。この齟齬はどのようにして生じているのだろう。
 せっかく制作したサウンド・ファイルを送付用にMP3に変換すると、その全く別物になったような音質の低下にがっかりする‥というアマチュア宅録ミュージシャンも多い。その後の改良があったとは言え、MP3の音質が高く評価できるものではないことは事実だろう。それは単にミュージシャンのプライドや自意識の問題ではない。特にMP3変換前のオリジナル音源との比較により、そのことは痛いほど明らかになってしまう。
 それではなぜ、MP3プレーヤーでの聴取では、それは問題にならないのだろう。ひとつの回答は、最近のリスナーはもともとMP3の劣化した音質、あるいはチープなイヤフォンやノートPC付属のオモチャのようなスピーカーでの再生音に慣れてしまっている(すでに馴致されている)というものだ。恐ろしいことではあるが、確かにこれはある程度当たっているのだろう。しかし、この説明だけでは、先に登場したシャッフル・モード愛好のミュージシャンや、さらにはMP3登場以前からの音楽愛好家たちが、MP3プレーヤーの音質に特に不満を感じていないことを説明できない。
 私なりの説明は「両者では聴取のモードが異なる」というものだ。聴取において〈発見〉のモードがちゃんと機能していれば、MP3の音質の悪さに当然気付くことになる。オリジナル音源とMP3音源を比較する場合は、言わば意識的に〈発見〉のモードを作動させていることになる。対してMP3プレーヤーを聞き流している時は、ほとんど〈想起〉のモードだけが作動しているのではないか。ライブラリーの聴き返しの場合は、冒頭で「ああ、あの曲か」と判定された時点で、実際に聞こえている音ではなく、想起された音が脳内ではプレイバックされる。ここで、実際に聞こえてくる音は、先に述べたように、〈想起〉のスイッチを入れるためのトリガー/インデックスに過ぎない。この〈想起〉のモードが支配的になることにより、初めて聴く音源に対しても、それが何だかわかった時点で自動的に同じ回路が働いてしまう。だが、初めて聴く音源に対し「何だかわかってしまう」とはどういうことか。それは、ぶっちゃけて言えば「ああ、○○風ね」ということだ。実際には「○○風」の代わりに、細分化されたジャンルや様式名が入ったり、あるいは「中期ビートルズ+叙情派エレクトロニカ+陽だまりフィールドレコーディング」みたいなサウンドのづくりの「レシピ」が入ることの方が多いかもしれない。いずれにしても、そこで聴かれた音は、〈発見〉の眼差しで眺められることも、驚きをもって受け止められることもなく、先行する知識、曖昧なイメージの網に力なく絡めとられ、既存の何物かと〈確認〉されて、セピア色の記憶の中のどこかに閉じ込められてしまう。後には「消費した」との実績だけが残る。

(2)機械による知覚とのインタラクションの必要性

 聴覚は本来「それが何の音が確かめる」ための感覚であり、だから、それが何であるか判明次第、聴くことをやめてしまう。それでも聴き続けるのは、〈聴くこと〉への欲望によるのだが、そうした欲望がソフトに去勢されているのではないかと最近感じることが多い。
 先ほど述べた〈想起〉のモードのドミナント化は、「さっさとわかって、さっさとおさらばしたい」という、聴き手の欲望の変質、端的に言えば「早漏化」によるだろう。その場で快楽を深めることができず、浅い消費を早いサイクルで繰り返すモードだ(それは象徴的消費の擦り切れたかたちかもしれない)。実際、量産されるポップ・ミュージックは最近こうしたモードを商品戦略として突き詰めてきているように感じられるし、たとえばyoutubeによる音楽聴取、特に新人アーティストや新曲のチェックは、ほとんどこのモードを絵に描いたようなものとならざるを得ない。音楽の生産と消費が互いに強迫観念を煽りたてながら、レミングの集団自殺のように、先を争って自滅していく光景自体は、私のようなマイナー音楽愛好者にとってはどーでもいい話なのだが、ひとつ注意しなければいけないのは、こうしたモードがいったんドミナント化してしまえば、そうした最初から高速消費用につくられたクズ音楽以外に対しても、聴取の際にやはり自動的にその回路が作動してしまうことだ。私たちは〈想起〉に妨げられた〈発見〉を取り戻さなくてはならない。

 機械による認知・思考なき知覚は、何だかわからないものをそのまま馬鹿正直にとらえ提示してくる。聴き手がそれを受容・消化・消費できるかを一切考えることなしに。だからこそ、そこに驚きが生まれ、発見が生じ、出会いがかたちづくられる。これに対し、youtubeをはじめとするウェブ上のアーキテクチャ群は、利用者がそれを受容・消化・消費できることを第一に考えて設計され、それが本来的に機械であることを利用者に意識させない、快適なユーザ・インターフェースを誇る。だからこそ、それは真の出会いを、驚きを、発見をもたらさない。
 ウェブへのアクセスは、もはや私たちの日常の欠かせない一部となっているだろう。だからこそ、録音を単なる現実の不完全なコピーとみなすのではなく、人間による知覚とは異なる「機械による知覚」の産物ととらえ、認知・思考なき知覚がもたらす〈外部〉にこそ発見を求める必要がある。録音された音をよく聴かない者は、結局、生であろうと録音されたものであろうと、音自体をよく聴かない者なのだ。


 次回は9月10日のフランシスコ・ロペスによるライヴ・パフォーマンス体験を手がかりにして、彼の音世界の構築について論じることとしたい。





ディスク・ユニオン○○中古センターのブログで、当店にはフランシスコ・ロペスの作品がこんなに揃っています‥という写真を発見。
中古盤が溢れているもの哀しさもありつつ、ちょっと面白いかな‥と掲載してみました。
実はロペスに限らず作品を集めるのに、すごくお世話になっています。感謝。

楽器としての世界−機械による知覚との共同作業  The World as Instrument−Collaboration with Perception by Machines

  1. 2011/09/19(月) 00:33:31|
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 前回の予告通り、今回は「機械による知覚との共同作業」をテーマに採りあげることとしたい。ついては、フランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」(@東京藝術大学)の最終日(5日目)に、私自身が行ったプレゼンテーションの内容を紹介することから始めるとしよう。


1.プレゼンテーション「音の内部世界の聴取について」

 ワークショップで提示された問題系に沿って、機械による知覚、空間による音の侵食、ヘテロトピア等をテーマとしたプレゼンテーションを行うこととし、レクチャー「耳の枠はずし」や「アンビエント・リサーチ vol.3」でもプレイした3つの音源を聴いてもらいながら話をすることを当初は計画した。しかし、与えられた時間は10分間しかなく、これではとても足りない。また、講師であるロペスのために通訳を介するとなると、さらに話せる時間削られてしまうことになる。そこで苦肉の策として、話すのは最初と最後だけにとどめ、途中は切れ目なく音源をプレイし、説明(日本語及び英語の二か国語表記)や資料映像(CD等のジャケット)はすべてPowerpointで表示することとした。ここに採録するのは、その日本語説明部分である。


導 入  これから3つの音源を使って、
     音の内部世界を聴くことを試してみたいと思います。

     時間節約のため、コメントは画面に表示します。
     音源プレイ中も画面をご覧いただくようお願いします。

     それではまず、最初の音源をお聴きください。

音源1  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはデレク・ベイリー(ギター)と田中泯(ダンス)による
     1980年のパリ・コンサートのライヴ録音です。

     このコンサートは古いもう使われていない鉄工所で行われました。
     最初のところで、交通騒音が聞こえたことと思います。

     演奏の最中に雨が降り始め、鉄工所はガラス屋根だったために、
     雨がものすごい音を立てることになりました。

     交通騒音や雨の爆音に変容させられたギターの音を聴いてください。

     ギター演奏によって変容した雨の音や田中泯の気配を聴いてください。

     他の音を聴かずに、ギターの音だけを聴かないでください。
     サウンド・マターをそのまま受け止めてください。

     ここでのサウンド・マターは、ギター、雨、屋根、風、交通、ダンス、
     聴衆、場所の音響等の混合物になっています。

     「カエルの鳴き声が空中に広がると、もうそれはカエルのものでは
     なくなっている」 フランシスコ・ロペス

     それでは2番目の音源をお聴きください。

音源2  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはミッシェル・ドネダ(ソプラノ・サキソフォン)と
     ル・カン・ニン(パーカッション)が2人の録音技師と共に
     野山に分け入った録音です。

     楽器、樹木、草、落ち葉、風、虫の声等から成る
     サウンド・マターを聴いてください。

     演奏者間の対話だけに耳を傾けるのではなく、
     彼らを含む山の環境の生成する様を聞き取ってください。

     フレーズやリズムによるコミュニケーションだけでなく、
     それらを含む濃度や強度の絶え間ない不定形の変化を
     聞き取ってください。

     しかし…
     もしあなたが幸運にも彼らといっしょに山に入れたとして、
     あなたはこうした音を聴くことができたでしょうか。

     おそらく…
     あなたは他の様々なノイズは無視して、
     彼らの演奏を聴くことに集中してしまったでしょう。

     録音を通してすべてを体験することはできない
     というのはもちろん本当です。
     しかし、録音を通してしか知覚できないことがあるのも、
     また事実です。

     それでは3番目の音源をお聴きください。

音源3  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはビザンチン時代からギリシャ正教の聖地である
     アトス山におけるイースター前夜祭の実況録音です。

     このサウンド・マターは鈴の音、聖なる歌唱、話し声、不揃いの合唱、
     鐘、ウッドブロック、豊かで複雑なアコースティック、倍音、咳、
     足音等で構成される魔術的な混合物となっています。

     宗教儀式であって音楽の演奏ではないために、
     それぞれの音の層は均質ではなく、異なった方向からやってきます。
     そのため全体はヘテロトピア的なものになっています。

     「ヘテロトピア」とはひと目で概観することのできない、
     複雑に混りあった場所あるいは状態のことです。

     それは何も表象せず、すべてを表象することができます。
     全く焦点を持たず、多くの焦点を持つことができます。
     暗騒音は典型的なヘテロトピア的なものだと
     私は考えています。

     今回の試みのように、「録音された意図的でない音を聴く方法」を、
     録音された意図的な音と意図的でない音の混成体に
     適用することができます。

まとめ  音と空間を「いっしょに」聴くことが重要です。
     今回の3つの例では、空間が音を変容し、侵食していました。

     「本来の」あるいは「無垢な」音ではなく、
     空間によって変容され、汚染され、不純物を含まされ、
     「経験を積んだ」音を聴くこと。

     この目的のためには、世界を、録音を通して聴くことが役立ちます。
     機械による意図しない知覚の利点を活用できるので。

     音の内部世界を聴くことは、自分たちの無意識を聴く(探索する)
     ことでもあります。

     音の内部世界を深く聴くためのCDとして、
     フランシスコ・ロペス(当然!)の作品と
     ジル・オーブリーの作品をお薦めします。

     ご静聴ありがとうございました。


音源1;Derek Bailey, Min Tanaka「Music and Dance」 (Revenant)
    track 1 0:00〜1:00 track 2 3:00〜4:30
音源2;Michel Doneda,Le Quan Ninh,Laurent Sassi,Marc Pichelin
    「Motagne Noire」 (Ouie Dire)
    track 1 0:00〜1:00 6:30〜8:00
音源3;「Easter on Mount Athos vol.1」 (Archiv)
    track 1 0:00〜2:15 track 2 0:00〜1:55


「Music and Dance」


「Motagne Noire」


「Easter on Mount Athos vol.1」




2.機械による知覚の特異性
(1)世界を聴くこと

 録音の持つ様々な特徴、そしてその可能性の中心は、それが機械による知覚を用いていることにある。私たちの知覚は、基本的に生存のため、行動のためのものであり、世界をそのままとらえているわけではない。視覚を例にとれば、私たちが見ることのできる光の波長の範囲が太陽光のそれと一致していること、動くものに反応し、動かないものについては次第に見えなくなってしまうこと等が、そのことを示している。機械による知覚はそうした目的を持たない。それは「非中枢的な知覚」(前田英樹)であり、「認知・思考を伴わない知覚」(フランシスコ・ロペス)なのだ。
聴覚の場合、まずは音をとらえることにより、それが何か身の危険をもたらすものであるかどうかを判断することを重要な役割として発達してきたと言えるだろう。それゆえ、生物の生存の仕方によって環世界(フォン・ユクスキュルによる)が異なるように、聴覚が世界から拾ってくる要素も種によって異なるだろう。それは単に感覚機能の問題ではない。「アヴェロンの野生児」の実話に基づいて制作されたフランソワ・トリュフォー「野生の少年」において、狼に育てられたとおぼしき少年は、誰もが驚き飛び上がるような大音響には眉ひとつ動かさず、そのまま黙々と床に置かれた皿から食べ続け、代わりに微かな物音、たとえば部屋に忍び入ろうと音を立てずに開けたドアのわずかな軋みに、耳をそばだたせ、全身を硬直させ総毛立たせて、注意深く振り返ろうとした。私たちも、たとえば初めての宿に泊まった時に、夜半、得体の知れぬ物音(?)に気付き、ふとんの中で冷や汗をかくことがある。
 「外の世界から微かな音を拾う」ことに焦点を当ててしまうと、あらぬ誤解を惹き起こしかねない。むしろ私たちはベルクソンが言うように、与えられる情報から膨大な部分を差し引くことにより、世界を知覚しているのだから。「視ることは、視ないものを作り出すことと同じだと言ってもいい。すべてを視ることは、ただ白色光線に眼が満たされることであって、何も視ないことに等しい」(前田英樹)。
 ケージは「完全な沈黙」を体験しようとして無響室に入り、自分の循環器がたてる血流の音と神経系がつくりだす甲高い音を聴かされることになった。「完全な沈黙」などどこにも存在しない。世界は音で満たされている。けれど、私たちはふだんそのような音を聞いていない。無意識のうちに抑圧しているのだ(あるいは「健康な身体の働きとして」と言うべきか。そうした音が漏れ聞こえてしまうことが幻聴の原因となることがあるという)。あるいは、私たちは周辺の物音を、環境音を、特に「暗騒音」と呼ばれる、様々なノイズの入り混じった輪郭の定かでないざわめきを聴こうとしない。それは常に私たちの周りにある。しかも、かなりの音量で。

 両耳を両掌で覆う。周囲が厚いガラスの向こうへすっと遠ざかる。眼を瞑り、しばらくそのままにして、掌をぱっと離す。波が砕け、渦巻いて、濁流が身体を揺さぶるような感覚がその一瞬に弾ける。何が起こったかわからない。ふと自分がさっきまでと同じく、教室の隅や駅のホームのベンチに腰掛けていることに気付く。世界は何事もなかったように動き続け、音は人や物の動きと律儀なまでに一致している。先ほどの奔流や渦巻きが音だったとして(もちろん、それこそがふだん聴かないでいる「暗騒音」にほかならないのだが)、それはいったいどこへ消えてしまったのか。
 無論、それはそこにある。そのままあり続けている。だが、私たちはふだんそれに気付くことがない。フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーの作品を聴くと、音の聞こえ方が変わるという人がいる。カーテンの衣ずれや部屋の軋み、自分の息遣いなど、これまで聞こえなかった音が明瞭に浮かび上がると言う。また、別の友人は、夜勤の合間の休憩時間にタバコを吸いに出た際に、雑居ビルの9階、外付けの非常階段の踊り場で聞こえた響きがジル・オーブリーの作品に似ている気がして、ふと私の話を思い出し、耳を掌で覆ってみたと言う。耳から掌を離した途端、襲い掛かってきた響きの強烈さに、彼は危うく階段から転げ落ちそうになった。

(2)機械による知覚の特性

 機械による知覚である録音は、そうした私たちがふだん「聞こえているのに聴いていない」音の在り様を教えてくれる。同じく機械による知覚である写真においては、そのことは早くから気付かれていた。「その時には気づかなかったものが写っている」というかたちで。草創期の写真を論じたベンヤミン「写真小論」にすでにそうした指摘が見られる。録音の場合も、マイクロフォンによる録音をしたことがあれば、「こんな音が聞こえていたっけ」という経験を必ずしているはずだ。喫茶店でのインタヴュー・テープを起こすのに、周囲の雑音の大きさにいらいらさせられるなど。そうしたことが写真や映画ほど論じられないことには、幾つかの理由が考えられる。たとえば、もともと写真や映画に比べ、開発当時の録音の精度が低く、録音/再生時のノイズにかき消されて、対象である声や演奏以外の音が埋もれてしまっていたこと、映画のように、本来なら野外での録音が必要な場合も、俳優のセリフをうまく録音できない、周囲の音がそれらしく聞こえない等の理由から、セリフや別途作成した効果音を後から録音してかぶせる「アフレコ」の方向に進んだこと、あるいはロペスが指摘するように、そもそも録音の精度が上がるとともに、機器の量産化が進み、カセット・テープが開発されて、テープ・レコーダーが各家庭に爆発的に普及してからは、むしろライン録音で音楽をコピーすることが主な使用方法となっていったことなどが挙げられるだろう。

 いずれにしても、このようにして、聴覚に関して、機械による知覚の特性の認知は進まなかった。それゆえ、「録音というテクノロジーの特性は、テープのヒス・ノイズや転写によるゴースト、あるいはアナログ・ディスク再生時の針音のように、不可避的に付随してしまうノイズにある」という転倒した理解も生じてくることになる。「不可避的に付随してしまうノイズ」以外の部分を、そのまま〈世界の複製=私たちの聴いている音〉ととらえてしまう点において、それは(これまで見てきたように)見事に機械による知覚の核心/可能性の中心をつかまえ損ねている。それはデジタル技術によって消去されていくノイズやこれと緊密に結びついた手触り感に対する、一種のノスタルジーに過ぎない。様々な録音内容に、フェティッシュとしての〈針音〉を付け加え、一見、「録音されたもの」(物体としてのアナログ・ディスク)として対象化するように見せながら、実のところ思い出の中にノスタルジックに溶かしこみ、内面化してしまうやり方に、そのことは明白に示されている。
 誤解の生じないよう、ここで確認しておけば、「機械による知覚は正確で、人間による知覚は不正確である」と主張したいわけではない。もともと生物にとって、生存にも行動にも結びつかない世界の姿など、何の意味も持たないのだから、それを〈正確さ〉などと言ってみても始まるまい。そうではなく、世界が本来的に持っている過剰さ(それは豊かさでもあれば恐ろしさでもあるだろう)を、機械による知覚が図らずもとらえ、提示してしまうことの重要性について語ろうとしているのだ。


3.機械による知覚との共同作業の必要性
(1)世界の過剰さ

 人間によって放たれた音は、それがたとえ意図された人間の声であろうと、発話者の意図を超えた過剰をはらんでしまう。音は鳴り響いた瞬間に演奏者/発話者の手元を離れて〈外〉へと旅立つ。それゆえ、私たち聴くがことのできる音は、常に空間と(ということは響きとも)共にあり、常に変容の過程のうちにある。それゆえ、プレゼンテーションで示したように、「本来」の「無垢」な音を私たちが聴くことはできない(それは仮想に過ぎない)。話者の現前する発話においては、その話者の現前の重み(いま・ここ性)により抑え込んでいた揺らぎや決定不能性が、たとえばピタゴラスによるアクースマティックの局面(身体の視覚像を欠いた声)において、あるいはエクリチュールを通じてテクストに姿を変えた途端、一挙に噴出する。ましてや、録音により、たとえ姿は見えなくてもそこにあるはずの身体の存在や、エクリチュールが確定する語/意味を決定的に欠くのであれば、なおのこと、そうであるだろう。それは脆さ/不安定さであると同時に、ある種の豊かさ/可能性でもある。
 当然のことながら、エクリチュールのシステムに比べれば、ヴィジュアル(映像)やオーディオ(音響)は、はるかに揺らぎをはらんだ不安定なシステムである。それを様式、ジャンル、ナラティヴ、フレーム、作者(の意図)、時代背景や文化圏、さらには様々な慣習的な〈読み〉を当てはめることにより、発散を抑え込み、何とか収束させているというのが実情だろう。様式の変遷を枠組みとする美術史に裏付けられた、絵画作品に対する様々なイコニックな読み、記号的な読解は、そうした努力の一例と言えよう。その一方で、フラ・アンジェリコによる不定形な色彩のきらめきや、ピエロ・デッラ・フランチェスカによる空間構成とル・コルビュジエのそれとの類似性が、そうした枠組からずれたところで議論されたりもするわけだが。

(2)機械による知覚がとらえる世界の過剰さと出会うこと

 生存や行動のために不要な情報として、気付かぬうちに通り過ぎているにせよ、対象の発散を防ぐために注意を向けながらも、知らず知らずのうちに選択的に排除しているにせよ、私たちが聞こえているのに聴いていない、聴こうとしていない音の存在を、機械による知覚である録音は気付かせてくれることがある。そして、そのことを通じて、音は私たちの外にあり、私たちの自由になるものではなく、ましてや私たちの意図の乗り物などではないことを教えてくれる。
 楽器の演奏のような「意図された音」にあっても、意図を超えた過剰さを必然的に音がはらんでしまうことを、それが演奏者によるコントロールの不足や単なる偶然性の介入ではなく、グレゴリー・ベイトソンが「人工物との違い」として強調するような自然物の有する本来的な豊かさ/複雑さであることを、機械による知覚である録音は気付かせてくれることがある。
印象や記憶を確定するために録音を利用するのではない。機械による知覚が正しくて、人間による知覚はそれに習うべきだなどと言っているわけではない。むしろその逆で、作曲者/演奏者の意図(解釈を含む)を超えた過剰さがそこにはらまれ、数え切れない断層や亀裂が生じており、とても首尾一貫した単線的な受容には収まりきらないことを突きつけられるためにこそ活用するのだ。聴くことが〈発見〉を忘れ、すでに知っていることの確認や、コミュニケーションの閉域におけるあらかじめ想定される意図のなぞりや、想起のためのきっかけ(記憶を反復再生するためのトリガー/インデックスとして。しかし、この仕組みはそれこそ「録音的」ではないか。このことについては稿を改めて論じることとしたい)に堕してしまわないように。

楽器としての世界−音の現実との相互作用 The World as Instrument−Interaction with Sonic Reality

  1. 2011/09/13(火) 23:46:15|
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 9月5日から9月9日にかけて東京藝術大学で行われたフランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」についてレポートしたい。なお、最初にお断りしておくが、このレポートはワークショップの全貌を再現することを目指すものではない。ワークショップの内容は多岐に渡り、ここに記すのはあくまで私の問題関心からとらえたひとつの「像」に過ぎない。その焦点は、あくまで、自分の問題関心や認識・理解・思考がワークショップ参加体験を通じてどのように深まったか、また、フランシスコ・ロペスの思考や作品に対する認識や評価がどのように変化したか(修正されたか)、に絞り込まれている。他の参加者のレポートとは違ったものとなるだろうし、現在準備中というロペスの著書が刊行されれば、また別の側面が明らかになることだろう。


1.イントロダクション

 9月5日(月)朝、ワークショップ会場である東京藝術大学にたどり着くと、前日まで行われていた大学際の後片付けでぐちゃぐちゃ。妙に気合の入った屋台群(DIY製でしっかりした造り)を横目に、教室に指定された芸術情報センター演習室へと向かう。しっかりしたモニター・スピーカーがあるのに一安心。
 開始予定時刻の午前9時30分、フランシスコ・ロペスは姿を現した。黒のTシャツにアーミー・グリーンのキャップ。彼のサイトに掲げられた写真では常時着用のようにも見えるサングラスはかけていない。あいさつ時にキャップを取るとスキンヘッドが姿を現す。だが、いかついあるいは強迫的な印象は与えない。
 主催者である城一裕による簡単な紹介に続き、彼自身がワークショップのねらいについて説明を始める。日本を訪れるのは10年ぶりであること。レクチャーだけでなく議論や批評を中心にワークショップを進めたいこと。技術的な話ではなく、HOWよりもWHYを重視したいこと。録音を社会的・歴史的な影響関係の中でとらえ、音の現実(sonic reality)との関わりあいを見ていきたいこと‥等。
 続いて参加者による自己紹介。「いま何をしているか(何に取り組んでいるか)」、「このワークショップに何を期待しているか」の2点について話すよう求められた。もともと私が思い浮かべていた参加者像は、音楽あるいは美学を学ぶ藝大等の院生あるいは研究者の卵か、やたら事情通のリスナーというものだったが、その予想は見事に外れていることを知る。参加者の多くは(それで生計を立てているかどうかは別として)アーティストとして創作活動を行っているか、それを目指している者であり、その対象範囲も絵画、写真、建築、デザイン等と、決して音楽に限定されてはいなかった。


2.ワークショップを振り返って

 ここでレクチャーの内容に立ち入る前に、ワークショップ全体に対する感想を述べておきたい。と言うのも、今回のワークショップの(可能性の)核心は、レクチャーで採りあげられた各項目やその編成よりも、講師を務めたロペスと参加者双方の姿勢が生み出したインタラクションにあるからだ。
 まず、ロペスについてだが、世界各国でワークショップを開催し、大学でも教えているとの情報は得ていたものの、正直言って、ここまで真摯に取り組んでくれるとは思っていなかった。後述するように、彼は様々なテーマについて、単に「一般にこう言われている」とか「これが定説になっている」というような知識伝授・情報伝達のレヴェルを超えて、自らのアーティストとしての制作信条・信念と常に密接に関わらせ、態度を明らかにしながら説明を進めた。と同時に、そうした態度表明は決して党派的なものでも、単に理論上の完成された立場(※)からのものでもなく、ある種のバランス感覚に溢れたものだった。彼は参加者が様々なバックグラウンドを有していることを心から歓迎し、それゆえに分散しがちな参加者の関心・問題意識に、丁寧に対応を続けた。それこそ「ググれ!」で済みそうな質問にも自分なりの言葉で説明し、興味深いトピックについては(事前に配布した参考文献リストとは別に)参考書目を掲げた。また、議論の共有を図るため、質疑の中で登場した注目すべき用語や固有名詞については、自らネットを検索し、ウィキペディア(日本語版)のページをスクリーンに映し出した。
※日本の論壇でも往々にして見られることだが、ある理屈を突き詰めた「彼岸」的なポジションを、実際には自らが行動・選択の規範としないにもかかわらず、論戦を有利に進めるために主張している輩は数多い。そうした一点突破的な戦術は「戦線」が絞り込まれているため、攻めに素早く、守るに堅いからである。

 「その質問は多くの検討すべき論点を含んでいる」といったかたちで参加者の質問を丁寧に受け止め、そこからできるだけポジティヴな可能性を引き出そうという努力は、ある意味教育者として当然のことと言えるかもしれない。だがしかし、それでは実際にどれだけの教育者がそれを実践しているだろうか。異国の地に赴いて行う、参加者も様々な短期間のワークショップであることを考えあわせれば、やはり、このロペスの姿勢は特筆すべき素晴らしいものと言うべきだろう。この場で感謝の意を表明しておきたい。ありがとう、フランシスコ・ロペス。

 参加者もまた素晴らしかった。アーティスト系参加者の場合、やはり自分の創作に役立つ何かをつかみたいということで、手っ取り早いマニュアルや具体的に活用可能なテクニック、テクノロジー等に関心が集中しやすい(もちろん、これは相対的なものであって、反対側から見れば、「批評や研究系の奴らは‥」ということになるのはわかっている)。その結果、議論は問題系に沿って展開すると言うより、あちらこちらから好き勝手に食いつく感じになり、どうしても論点は分散する。だが、先に述べたロペスによる議論の共有を目指した丁寧な対応もあって、それらは多角的な視点からの検討、多面的な議論へと導かれていたと思う。ロペスという実作にも理論にも秀でた大物相手ということもあってか、どこかから読みかじってきた出来合いの理屈を偉そうに披瀝する参加者がいなかったのも幸いした(「おたく」リスナーばかりだとそうなりやすい)。
 そして何より素晴らしかったのは、参加者が主体的な積極性に溢れていたことである。日本人の国民性なのかどうかは定かではないが、こうしたワークショップ等において発言を促されても、参加者同士、顔を見合わせるばかりで、結局みんな黙っていることも多い。これは後からわかったことだが、主催者側でもかなりそれは心配していて、各自の質問や意見をアンケート風に紙に書かせて提出させることも考えたと言う。だが、そうした心配は杞憂に終わった。参加者は単に追加の説明や情報を求めるためだけでなく、自らの問題関心や創作上のテーマ等に絡めて、議論の延長上に新たな問題を提起したり、新たな議論の可能性を開く質問を行っていた。ここで先に述べたバックグラウンドの多様性が活きてくることになる。さらに、他の参加者の質問や問題意識に関連付けて質問することにより、議論がロペスと質問者の間で完結してしまうのではなく、他の参加者に向けて開かれたものとなっていったように思う。その結果、いろいろと触発されることがあったし、また、自分の考えに対する他の参加者の反応もうかがい知ることができた。これは私にとって、とても大きな収穫である。やはり、この場で感謝の意を表明しておきたい。参加者の皆さん、ありがとう。


3.ロペスによるレクチャー
(1)テクノロジーと音の現実への関わり

 ロペスによるレクチャーの内容は、要約すれば、テクノロジーの発達・変容に対応する音の現実(sonic reality)への人間の関わり方がどう変容していったかを枠組みづけたものと言ってよいだろう。ただし彼は常に「社会的側面」と歴史の「複線性・重層性」を強調するのを忘れない。前者は、たとえばテクノロジーの発達・変容を「何が可能となったか」(技術的側面)においてとらえるだけでなく、それが「社会にどのように受容されたのか」、「どのような活動を引き起こしたのか」、「どのようにイメージを変化させたのか」といった受容・活用・影響等の「社会的側面」においてとらえていくことである。また、後者はたとえばあるテクノロジーが万人にとってアクセス可能なものとなることにより、無名の個人による当初は思っても見なかった可能性を開く試みが、草の根的に伝播し、広く共有され、また新たな可能性を引き出す‥といったかたちで、言わばリゾーム状に発展・増殖・変容していくことであり、技術の開発者等のオリジネイター/パイオニアがまず始点にいて、次に変革者が受け継ぎ‥というような一本の歴史の線に沿って記述される公的な歴史の「単線性」に異を唱えたものである。さらに、そのようにして変容された意識も、社会全体としてあるモードから他のモードへと全面的にきっぱりと移り変わっていくものではなく、それまでのモードを存続させたまま、新たなモードが次々に上にかぶさっていくものと理解している。
 断っておけば、これらは決して全く新しい歴史の見方、ロペスの独創物というわけではない。たとえばテクノロジーから歴史を見る見方は多いし、技術の「社会的側面」の強調についても、たとえば現代から振り返って、グーテンベルクによる印刷術の発明自体に思考や意識の大きな変化/切断/飛躍を見るのは、社会的側面を無視した議論であって、実際にはフランス革命前の大量の政治パンフレット類の流布(ルソー等の思想の普及は著書自体よりも、むしろこれらによる)、その後の石版による印刷機や輪転印刷機の発明による大量印刷の可能化等に、つまりは社会への普及・浸透状況を見なければならないという議論がある。歴史の「複線性・重層性」の強調についても、同様に先行例がある。

(2)カセット・カルチャー

 むしろ、評価すべきは、先に触れておいたように、彼がこうしたことを自らの創作に係る信条・信念、あるいは哲学と深く関連付けて主張していることだ。彼は参加者の自己紹介を受けて、自分が音楽に関し、専門的な理論や技術の習得なしに創作を始めたと語り始め、家にたまたまあったテープ・レコーダーでいろいろ試してみる中から、それが芽生えてきたとして、1980年に制作した作品のサウンド・ファイルを聴かせてくれた。それはエアコンのコンプレッサーのうなりにも似た暗騒音的なドローンに時折スイッチング・ノイズが切り込みを入れるもので、プレ「フランシスコ・ロペス」とも言うべき手触りをたたえていた。
 彼は続けて、カセット・テープの普及が、テープ・レコーダーというテクノロジーを安価でアクセスしやすいものとし、さらにポータビリティ(録音機の、また録音した記録の、さらにはその再生環境の)を飛躍的に向上させたと語った。それは多くの人にとってレコードやラジオから音楽を録音・編集し、反復的に聴取するためのテクノロジー/機材であったが、これを創作に活用する人々もいた。彼らにより様々なサウンドのトランスフォームがカセット同士のピンポン録音を通じて実験された。これは一般的な使用法から逸脱し、それをねじ曲げることであり、テクノロジーに対する一種のハッキング(転用/乗っ取り)と言える。しかも、それらがたいてい「子どもの頃、家にテープ・レコーダーがあって‥」というように、音楽的な知識や専攻する事例を知らずに、自然発生的な試行錯誤の中から生まれてきて、さらにそこから生まれた実践/作品が、郵便によるカセットの送付や交換というかたちで、前もって組織されたのではないネットワークを通じてなされていく。この交換自体が新たなネットワークを広げていくと言ってもいいだろう。これにより離れた場所の間でのコラボレーションが可能となり、一種の「カセット・カルチャー」が形成されていった。カセットは小部数を簡単に複製することができるので、自分の作品を発表するのに音楽業界を経由する必要がなくなった。カセットというテクノロジーにより音楽業界を迂回する方法を発明したとも言える。これにより音楽業界が備えている基準とかフィルターも同時に迂回できるという点が重要だ。4トラックのカセット・レコーダーが個人所有のスタジオとなり、音を加工する様々な方法が試され、それまではせいぜい売り込みのためのデモ・テープを制作するぐらいだったのが、インディペンデントなカセット・レーベルがたくさん生まれ、カセットによる作品が独自の回路で流通していった。
 これらにより、直接会わなくても共同作業を遂行できるというように、コミュニケーションのあり方が変化したし、伝統的な判断基準によらなくても実践可能だ、何でも自分たちでできるというが育まれた。この流れはインターネット以前のものだが、その後のPCによる作品制作やCD−Rレーベルの成立等へとつながっている。PCとインターネットの普及により、さらに多くの人たちがテクノロジーにアクセス可能となり、それらはいまや至るところに遍在し、空気のように透明となってきている。また、創作のためのツールの開発が作品制作のハードルを低くしている。私たちは創造を通じて学ぶのであり、その点で創造は社会的な権利であると言うことができる。


4.ワークショップを振り返って
(1)「パンク以降」のバランス感覚

 レクチャーの冒頭に置かれたカセット・カルチャーを巡る議論において、すでにロペスの信条・信念は明白と言えるだろう。明らかに彼は、突出した才能の連鎖や楽派の交替が音楽の歴史をつくるとは考えていない。テクノロジーが万人に開かれたところに生じる集合的実践が様々な、そして数多くのテクノロジーの〈ハッキング〉(誤用/転用/乗っ取り)を生み出し、それが自己組織的なネットワークを増殖させながら伝播し、新た実践を生み出していくというインディペンデントなイメージ。「パンク以降」と言うべき、こうしたイメージを基本としながら、しかし、彼は作品の質を厳しく問う。音楽的実践の社会的側面を強調し、音の実質(substance)に耳を傾けるべきことを主張しながら、自らの作品からはメッセージ性を排除する。ピエール・シェフェールを手放しで賞賛しながら、ミュジーク・コンクレートの実践よりも、サウンド・オブジェクトという概念の持つ可能性を評価する。「特別なプラグイン等は使っていない。マイクやレコーダーもどこにでもあるものだ」と言いながら、実際にプロ・トゥールズのイコライザーで音源を加工する様子を実演してみせ、まず、最初に魅力的な音素材を準備することの重要性について熱く語るロペス‥。それは矛盾や不徹底というより、バランス感覚やプラグマティズムとして理解すべきものだろう。実際、彼は参加者の質問やプレゼンテーションにおける作品発表に対し、かなり実践的な視点からコメントを加えていた。

(2)創作過程から判断基準へのフィードバック

 もうひとつ、ロペスのバランス感覚を表す点として、創作モードの変化をテクノロジーの発展の一元論で語らないことが挙げられる。技術や機器の更新が創作を推し進めるのではなく、視点や美学の更新が重要なのだと彼は語る。あるいは、私たちはイノヴェーションについて過剰な要求をしがちなのではないかと注意を促す。変化するテクノロジーとのインタラクションだけを契機とするのではなく、彼の外部にある素材との新たな発見等の機会に満ちたインタラクション(※)を通じて、あるいは他のアーティストとのコラボレーションにより、「それまでの自分を超える」ことの重要性を彼は説いている。
 ※彼は創作過程における「すぐに決定/決断せず、オープンなままにしておく自由」、あるいは「あらかじめ期待してはいなかったものを新たに発見する」ことの重要性について語った。創作の際の判断基準を問われて「音自体に基づく判断」と答えていたが、一見トートロジーのように見える回答も、こうした指摘と考え合わせると、その厚みが見えてくるように思う。


5.ロペスによるレクチャー
(1)音の現実との関わり1 録音=機械による知覚

 【コスタリカの熱帯雨林におけるフィールドレコーディングのサウンド・サンプル】
 熱帯雨林とは「音に支配された世界」の典型である。虫や鳥、様々な獣の鳴き声が凄まじい密度で聴こえてくるが、その姿は見えない。人間に見えないだけでなく、動物同士でも互いの姿を見ることはできない。動物はそれぞれ固有の〈ニッチ〉を有しており、その結果、これらの音は周波数帯を棲み分け、自然とレイヤーをつくりだしている。自然の音は信じられないほど多様で複雑で豊かであり、その音の実在感/豊かさが、音とのインタラクションを通じて創作を行うカギとなっている。

【フィールドレコーディング素材を重ね合わせた作品のサウンド・サンプル】
 実在の音の断片を組み合わせて、実在しない音環境をつくりあげる試み。その背景には現実を複製したいという欲望が潜んでいるが、録音とは現実を複製するだけのものではない。そもそも録音は現実の厳密に正確な複製とはなり得ない一方で、録音の中で聞こえてくるものやその質感は、現実世界と比べなくても楽しむことができる。また、人間は音を認知することなしに知覚できないが、機械であるマイクロフォンやレコーダーは考えることなしに知覚できる。これは機械に対する人間の不利な点と言えるだろう。そもそも人間は環境のすべてを認知できない。人間は必要があって聴いているのであって、すべてを聴く必要はないのだから。それでは私たちは音を聴いている時、いったい何を聴いているのだろうか。「自分たちの関心のある音を、何かを象徴するものとして、あるいは何かを表すイコン的なものとして聴いている」ということができるだろう。

(2)音楽コンサートという制度、空間の分割/配置

 ステージ上に演(奏)者がいて、それと向かい合う客席に聴衆が陣取る。やがてPAが導入され、ステージから客席へサウンドを放射するようになるが、演(奏)者は自らその音を聴くことができない(その場で起こっていることに瞬時に反応するためには、必要不可欠であるにもかかわらず)。仕方なく、その重要な役目を客席後方の第三者(ミキサー)に委ね、自らはステージ上のモニターからのサウンドを聴くことになる。この〈分裂状態〉をどのように解消すればよいだろうか。
 ロペスは自らが中央に位置し、サウンドを操作する。その周囲を同心円状に客席が取り囲むが、聴衆は彼に背を向けて、外側を向いて席に着くようにセッティングされている。さらにその周囲に4〜8個(あるいはもっと多くの)スピーカーが置かれ、聴衆は空間を満たす音に浸され包み込まれる。この場合、演奏者であるロペスの姿を聴衆は見ることができないが、実は演(奏)者の視覚イメージは重要ではない。むしろ、聴くことに集中するためには、視覚は邪魔ですらある。ロペスは自らのライヴ・パフォーマンスにおいて、会場をできるだけ暗くし、さらに聴衆に目隠しを配布する。

(3)音の現実との関わり2 自然音を使った創作の歴史

 ロペスは自然音を使った創作の歴史を、次の4種類のモードにより説明した。これらのモードは重層化しており、,呂呂襪昔から現在まで続いており、19世紀から20世紀の変わり目に△これに重なる。は1950年代から、い1970年代から、さらにそれに重なってきている。こうした動きは決してある仮想のゴールを目指しての単線的な進化/発展ではなく、その都度、欲望に突き動かされてきた結果と言えるだろう。
 The World as Inspiration
 The World Captured
 The World Recofigured
 The World Transformed

 The World as Inspiration

 動物の鳴き声など、自然の音を象徴的に模倣し、音楽に採りいれるやり方は、どこの民族文化にも見られる。イヌイット、トゥヴァ、ピグミー、カウリ等の例が紹介された。また、西欧近代からは、ヨハネス・ケプラーによる「宇宙の調和」、標題音楽としてのドビュッシー「海」、ルイジ・ルッソロによるイトルナルモーリ(機械のノイズ)、ラス・ガルシア「ファンタスティカ」のSF的サウンド等が紹介された。

 The World Captured

 録音機械の登場により、音の現実が保有されるようになる。それ以前には鳥の声等を楽譜化して保有しようとした例がある。
 録音機械の開発は、聴覚障害に対応するための耳の解剖学的研究に端を発している。もともとそれは、音を視覚化するものとして開発された(Leon S. Martinvilleによるphonautograph)。それがエディソンによるフォノグラフの発明に結びついていく。初期の録音(実験)を見ると、録音されているのは人間の声か歌ばかりである。すなわち、録音には「音を保存する」、「音を身体(発音体)から切り離す」という2つの働きがあった。それに続き、すぐに音楽(演奏)もまた録音の対象となっていく。人間の声や音楽以外のものが録音の対象となっていくにあたっては、映画の関わりが大きい。
 フォノグラフは電気を用いない純粋にメカニカルな機構なので、どこへでも持っていくことができた。当時から世界の様々な場所の声や歌、音楽が録音されるようになっていく。これにより、録音された音源を並べることにより、世界を再創造しようという取り組みが現れる(例としてWalter Ruttmann「Weekend」(1928)、アメリカ自然史博物館における熱帯雨林の音による再現(1951)など)。

 The World Recofigured
 「captured」のゴールが現実の音を複製して、そのポートレートを作成することにあるのに対し、「reconfigured」は音の現実をいったん解体し、それを新たに組み合わせ、新たな音の現実を再創造することを目指す。ピエール・シェフェールによる「サウンド・オブジェクト(オブジェ・ソノール)」の発想は非常に重要だ(ミュジーク・コンクレートの実践以上に)。音をその原因から切り離して聴く「還元的聴取」は、現象学の影響の下に生まれている。
 これにより、音を楽譜による記述へと抽象化し、それに基づいて演奏者が改めて解釈を施し演奏するというプロセスが、録音による具体化へと変化する(例として即興セッションが録音され、組み合わされることにより具体的な作品となったマイルス・デイヴィス「カインド・オヴ・ブルー」)。他にサンプルとして、Vivenza, Graem Revell, Alan Lamb, David Dunn等の音源を紹介。

 The World Transformed
 この段階においては、音を加工するテクノロジーの発展により、元の録音が、元の現実が消えてしまうほど根本的に創りかえられ、現実をリファレンスとすることから離れてしまう。このモードに関しては解説よりもリスニング・セッションに重点が置かれ、サンプルとしてSlavek Kwi, Roel Meelkop, Asmus Tietchens, Joe Colley等の音源が紹介された。


6.ワークショップを振り返って
(1)なぜ録音機械はもっと早くにつくられなかったのか

 レクチャーの中で、ロペスが次のような興味深い問いを発した。「フォノグラフは電気を用いていない純粋な機械仕掛けだ。ということは、もっと以前に発明されていてもよかったのではないか」と。これについて少し考えてみた。
 初期の録音の対象(ということは人々の関心の対象)が人間の声に限られていることに注目したい。もともと声は「話すこと」を通じて意味を伝えるものであり、この意味については書字(=エクリチュール)という記録/保存システムがすでにあることから、録音が必要とされなかったのではないだろうか。
もちろん、書字は声自体を記録/保存するわけではなく、声音や抑揚を書き取ることはできない。しかし、話者の現前を前提とし、話者の指し示す〈いま・ここ〉性がその意味内容を保証すると考えるならば、録音による声の記録は、話者の身体の現前から切り離されることにより、そうした意味内容の保証を失ってしまうことになる(アクースマティックの原義である、ピタゴラスがカーテンの向こうに姿を隠して弟子たちに話をした逸話は、同様の効果を持ち、発話を書字に近づけることになる)。一方、書字は、本来の話者(=文章の語り手)の現前を欠いて文脈が浮遊してしまう代わりに、語自体は媒体の上に確固として刻み付けられる。
 すなわち、録音は話者の現前による意味内容の保証も、語自体の確定も欠いて、声=音という空中に消えてしまうものだけを記録/保存するという〈亡霊〉のようなものにほかならない。こうして身体から声を切り離すことは、一種のタブーだったのではないかとすら思われる。
 ならば、なぜ、フォノグラフは発明されたのか。タブーはどのように乗り越えられたのだろうか。ここでフォノグラフの開発に耳の解剖学的研究が一役買っていたことを思い出そう。解剖学は耳で音を聴く仕組みを、振動の精妙な伝播として分析する。そこでは人間の声は他の音と区別することはできない。すべては振動に還元される。単にある振動は人間の声であり、他の振動は牛の鳴き声であるというだけだ。この還元がタブーをも還元し、消失せしめたのではないだろうか。
 ちなみに、レクチャーではフォノグラフの発明前に、自動人形(オートマタ)が一種の流行を迎えており、なぜ、その時にフォノグラフが発明されなかったのかとの疑問も投げかけられていた。これについてはこう考える。エドガー・アラン・ポーが「メルツェルの将棋指し」で分析推理しているように、精妙なオートマタはどこかに(たとえば人形の内部に)人間が隠れていて操作しているものと考えられていた。とすれば、声/発話に関しては、オートマタとピタゴラス的アクースマティックは同様のものとなる。ここから録音へと飛躍するには、やはり例のタブーが障害になることだろう。

(2)機械による知覚とのインタラクションの必要性

 このことは、今回のワークショップでもとりわけ重要な問題系(プロブレマティーク)であると考える。これは「なぜ録音を聴くのか」という問いを巡る思考でもある。この件については、ワークショップ最終日に行われた参加者によるプレゼンテーションの中で、私自身のプレゼンテーションのテーマとして採りあげたので、その紹介ともども、稿を改めて取り扱うこととしたい。


7.終わりに

 初日こそ4時間程度だったが、その後の4日間は概ね6時間だから、合計30時間近い時間を費やしての、かなりヘヴィなプログラムだったが、ここまで述べてきたように内容は充実しており、得るところは極めて大きかった。個人的には、レクチャー「耳の枠はずし」の準備段階からずっと考えてきた〈不定形の聴取〉が、このワークショップやフランシスコ・ロペスの創作活動の問題系と地続きであると確認できたこと、また、そうした問題系が他の参加者の関心を呼んだことに大いに力づけられた。
 フランシスコ・ロペスの招聘を実現し、レクチャー内容のみならず、質疑や議論の双方向通訳という困難なタスクをやり遂げ、ワークショップを見事に運営した城一裕、金子智太郎のお二人には本当に感謝している。末尾ながらお礼したい。どうもありがとうございました。お世話になりました。
 
それでは次回は、私自身のプレゼンテーションの内容を紹介しながら、「機械による知覚とのインタラクションの必要性」について論じることとしたい。
 また、9月10日(土)には、5日間のワークショップの締めくくりとして、ワークショップ受講者以外の参加も得て、フランシスコ・ロペスによるライヴ・パフォーマンスが行われた。これについては、さらにその次の回にレヴューしたい。



フランシスコ・ロペスと
9月10日 ライヴ・パフォーマンスの後で

フランシスコ・ロペス賛江 Homage to Francisco Lopez

  1. 2011/09/05(月) 00:37:45|
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 フランシスコ・ロペスによる東京藝術大学公開講座ワークショップ「The World As Instrument」を明日からに控え、今回は、受講前の時点での自分なりのロペス観を述べておきたい。問題意識を整理すると同時に、受講前/後で、それがどう変わったかを見るためでもある。その意味で、本格的なロペス論にはなり得ないことを最初にお断りしておきたい。また、ここでは主要な4作品を中心に論評しているが、彼の「Untitled」作品を収録した「Nowhere(Short Pieces 1983 to 2003」(10CD)、「Untitled(2006-2007)」(2CD)等を聴く限り、これ以外の作品でも基本的な傾向/特質は変わらないのではないだろうか。

1.La Selva(1997)

 フランシスコ・ロペス作品との出会いとなった(それが不幸なすれ違いとなったことは前に述べた)「La Selva」を改めて聴き返してみると、やはりその音響の圧倒的な現前にたじろがざるを得ない。切れ目なく襲いかかる音響の弾幕に撃ち抜かれ、穴だらけになった耳は途方に暮れるしかない。自然音/環境音をとらえた、いわゆるフィールドレコーディングを素材あるいは手法として用いた作品は数多いが、「音の絵ハガキ」的なものも多く、そうした中でロペスの作品は屹立している。ここでは、そのサウンドの様態を明らかにするために、Chris Watson及びRichard Tintiの作品との比較を試みるとしよう。

 フィールドレコーディングでよく用いられる、安らぎ/郷愁をもたらす親密な風景(せせらぎ、鳥の声、あるいは遠くで遊ぶ子どもたちの声)とは異なり、厳しく切り立った音景(荒れ狂う波しぶき、吹きすさぶ突風、何千という渡り鳥の群れ等)をとらえる点で、Chris Watsonはロペスにより近い作家と考えられる。いや、これは話が逆で、Watsonが切り開いた領野の追随者として、ロペスはとらえられていることだろう。叩きつける突風を、身じろぎどころか瞬きすらせず凝視するような録音の強度は、アンチ・ヒューマニスティックな冷ややかさをたたえていると言えよう。そのサウンドは臨場感に溢れ、人間のスケールをはるかに超えた大自然の力の流動が、まさに眼前で繰り広げられているように感じられる。まるでサウンドの巨大スクリーンと向かい合っているかのように。彼が英国BBCとの共同作業を手がけているのもよくわかる。彼のつくりだす音世界は、とても〈視覚的〉なのだ。

 ここで〈視覚的〉とは何であるのかを詳しく見ておこう。まずWatsonがつくりだすサウンド・イメージは、明確な輪郭によって、鮮明な像を結び、くっきりと浮かび上がる。言わば、視点と構図がはっきりしている。そしてその視点と構図は、対象となる事象の魅力を余すところなく、しかもコンパクトにとらえることを狙いとして設定されているように思われる。それらの音景は、Chris Watson「Stepping into the Dark」(Touch)のリーフレットに収録された各録音地点のロケーションを示す写真によく似ている。空間のヴォリュームがマッスとして感じられ、それがある深さ/奥行きを持つ。この遠近法的構図に基づく3次元の透明な空間に、硬質の輪郭を持った事物が配置されている。それらは〈地〉となる空間から、〈図〉としてくっきりと浮かび上がり、一定の〈相貌〉を持つに至る。つまりは〈風景〉として。それが〈風景〉として立ち上がるためには、それを〈相貌〉としてとらえる〈見る者〉が必要だと言うのはその通りだろう。むろん、Watsonが先に触れたような「音の絵ハガキ」のハードコア版をつくっているなどと言うつもりはない。しかし、そのようなくっきりとした〈風景〉が、崇高さを帯びて立ち上がるところには、「ピクチャレスク」の美学が機能し、それにふさわしいフレームが現出する。と言うより、それまでは単に交通上の障害でしかなかったアルプスの山々を、ある所定のフレーム(額縁)を通して切り取ることによって、そこにサルヴァトーレ・ローザ描くところの野趣溢れる風景画を見出す「ピクチャレスク美学」こそが「見るに値する風景」をつくりだしたのだ。
 すなわち、Watsonの作品は映画作品のような視覚映像の「聴覚版」としてつくられていると言えるだろう。

 これに対し、ロペスによる「La Selva」の録音は、Watsonの作品のような明確な輪郭、視点と構図、認知/鑑賞のためのフレームを持たない。それゆえ音景ははるかに曖昧で茫漠としたものに感じられる。どういうことだろうか。冒頭、「弾幕」と形容したように個々のサウンドは鮮明なのだが、鮮明すぎて厚みのある像を結ばない。視点の対象物が浮かんでこないのだ。それゆえ耳の焦点も結ばない。個々の音響の明滅があるだけ。しかも、それらの音響(の音源=発音体)を位置づけるべき空間が浮かんでこない。一部事物に遮られていたとしても、奥まで続く透明な空間の存在が認められてこそ、まずはそうした奥行きを持つ3次元的な空間が共通基盤として存在することとなり、そこに発音体をプロットすることもできる。「La Selva」ではそうした見通しが利かない。眼の前に幕が下ろされ、そこで響きが色斑となって明滅している感じか。響きの広がりがにじみとなり、おぼろに染み広がって、〈地〉と〈図〉をひとつながりのものとしている。それゆえ、眼の前の幕は「空間に開いた窓」としてのスクリーンとは感じられず、フレームも現れない。音は録音を再生する空間に遍く散布され、聴く者を包囲するように感じられる。そこでは〈風景〉は出現することなく、ただ、濃度の起伏が延々と、だがむせ返るほどの圧倒的な存在感を持って続くばかりだ。
 
 Richard Tintiの場合、録音がAriel Kalmaの電子音楽作品「Osmose」のための素材として用いられることが最初からわかっていたためかもしれないが、Watsonほど〈視覚的〉ではなく、包み込まれる感触、タイトル通り(Osmose=浸透)の染み込んでいく感じがある。しかし、マイクロフォンの近くを飛び回るハエの羽音が、音景色をくっきりと切り分ける。羽音のアンビエントが周囲の空間を照らし出し、設置されたマイクロフォンの周辺の開けた空間(そこはおそらくスタッフがテントを設営し、キャンプした場所だろう)と、その向こうに広がる熱帯雨林の対比を明らかにする。木々の隙間から陽光の射し込む場所と、下生えが鬱蒼と茂り、樹木には蔓草や寄生植物が巻きついて絡み合い、人間の立ち入りを拒む密林の違いを。ここで録音は、向こう側に広がる奥深い空間を遠近法的構図のもとにとらえる代わりに、手前の空間と向こうの空間の差異を明らかにし、その配置をイラストレート(図解)する。それは同時に〈人間のいる世界/文化〉と〈人間のいない世界/自然〉を物語的に対比することにもなる。





2.Warszawa Restaurant(1995)

 「ほとんど聴こえない」ロウワーケース作品の代表作と目される「Warszawa Restaurant」だが、確かに窓を開け放って聴けば、何が再生音かほとんどわからないだろうが、窓を閉めて静かな環境で耳を傾けさえすれば、通常の音量設定で聴きとれる場面も実は結構多い。コンセプチャルな「無音作品」ととらえるのは、明らかに間違いであることがわかる。
 そのことを前提として本作品に耳を傾けた時に浮かんでくるのは、やはり「La Selva」に通ずる焦点の絞れない曖昧/茫漠とした広がりである。音量や濃度の違いゆえ、ここでは「弾幕」の印象は一切ないが、遠くで何かたなびいているような音、地鳴りを思わせる超低音、地上で聞く地下鉄の通過音に似通った振動など、輪郭を欠いた不定形な響きが、虚ろなもの哀しさ、鬱陶しい重苦しさ/不穏さとともに、うっすらと滲み広がってくる。やはり通常の再生とは異なり、音は向こう側に奥行きを持って定位するわけではない。そうして像を結ぶ代わりに、部屋に広がる〈静寂〉を汚染し、混濁させるとでも言った方がいいだろう。差し引き、こちらの部屋の音がどこかに漏れ出ているようにすら感じられる。トラックごとにサウンドの音量や音色は異なるのだが、舌に残る感じは変わらない。希薄だが不透明な重苦しさ、包囲される感覚、見通しの利かなさがもたらすある種の閉塞感を加味すれば、「飛行中のジェット機の機内音」という形容が、それらに共通する音の性格をわかりやすく伝えるように思う。最も的確に説明するのではないだろうか。

 両耳を掌で覆い、音を聴こえなくしておいて、しばらくしてからぱっと離す。とたんに厚いガラスの向こうに退いていた世界が、熱と色と匂いと味とともに一気になだれ込んできて、世界のあまりに過剰な豊かさに頭がくらくらになる。中高生の頃、授業の合間の休み時間に、そんなことをよくやっていた。掌を離した瞬間に流れ込んでくるのは、何物ともわからないごった煮のノイズだが、すぐにそれらは視覚と調和し、眼に見える世界のそこかしこの〈定位置〉に散らばって事物に貼りつき、何事もなかったかのように整然と、それぞれのニッチにはまりこむ。高いビルの上、たとえば非常階段の踊り場でこれをやるのは、危険なのでやめた方がいい。掌を離した瞬間に流れ込んでくる土石流紛いのノイズの膨大さに打ちのめされるだけでなく、それらが配備/帰属すべき〈定位置〉がいつまでも明らかにならないために、反対に視覚の方が揺さぶられ、視線を当てもなく彷徨わせてしまうからだ。結局、後には、ふらつく足取りとともに、我々はふだんこんなにも多くの音を聴きながら、それを無視/抑圧し、「なかったこと」にして生きているのか‥という、恐れにも似た驚きが残ることになる。ふだんはバックグラウンドに身を潜めている暗騒音が一瞬眼前を圧して立ち上がり、風景を千々にかき乱し、水底の泥を巻き上げて、視界を濁らせる。

 「Warszawa Restaurant」に仕込まれているのは、こうした暗騒音にほかならないのではないだろうか。微小な音量に耳を研ぎ澄まし、暗騒音を選り分けて、ようやく探り当てたのが「不純物としての暗騒音」だった。だが、それは決してコンセプチャルな円環(自らの尻尾を呑み込んだウロボロスの竜のような)ではないだろう。我々は、そのようにしてしか暗騒音と直接向き合うことはできず、その組成の変化に耳を傾けることはできないのではないか。また、ロペスの用いる音(素材)に特有の不穏さ(不安を掻き立てる特質)は、かつてノイズ・ミュージックによる、それ自体がストレス性を持つ神経系のノイズの多用とは異なっており、むしろ、こうした暗騒音に代表される「(発音体が)何だかわからない音」、「(原因や意図へと)還元できない音」の使用によるものと考えられる。聴覚が警戒のために発達した感覚であることを考えれば、それらこそが強い不安を惹き起こすのは当然と言えば当然なのだが。





3.Buildings[New York](2001), Wind[Patagonia](2005)

 ビルの不可視の内部をとらえた「Buildings[New York]」は、「La Selva」よりもはかにはっきりとした輪郭をもって視覚を喚起する。その一方で、3次元的な空間性、特に奥行きはやはり不明瞭だ。むしろ、展開された図面がそのまま平面状で作動している印象。向こうが見通せないオール・オーヴァーな広がりは基本的に変わらない。「La Selva」と大きく異なる点として、空間/視覚的距離を渡ってくる音以外に、金属やコンクリートの内部や、あるいは細長いダクトやシャフトなど特殊な形状の空間を経由して伝播してくる音が比率を高めていることが挙げられる。それらが別の種類の曖昧さや多層性を持ち込むことにより、ここで音の内部組織はさらに複雑なものとなっている。Gilles Aubryが探求/展開している「間接的聴取」の世界は、この延長上に開けているだろう。

 「Wind[Patagonia]」における奥行きのなさ、視点と構図のなさ、オール・オーヴァーな均質性、包囲される感覚、見通しの利かなさ、風景の不成立等は、「どこまでも平坦で荒涼とした平原に吹き渡り、時に荒れ狂う暴風」という〈対象〉と見分け難くひとつのものとなっている。それゆえ本作品だけを聴いたのでは、ここで何が起きているのかわかりにくいのではないだろうか。ただし、それでも次の点に注目することができる。
 眼前を圧して暴風が荒れ狂う状態から、潮が引くように風(音)が弱まり、音量が下がっても、やはり空間の見通しの利かなさ、オール・オーヴァーな不透明性は変わらないこと。
 通常、風を録音する場合によくある、マイクロフォンの「吹かれ」をクローズアップし、触覚に働きかけながら、他の風音との対比を強調する手法を一切採用していないこと。すなわち、機械による知覚に特徴的なエラーから、人間的な知覚を照らし出し、そこに寄り添おうとはしていないこと。

 「Nowhere(Short Pieces 1983 to 2003」及び「Untitled(2006-2007)」に収録された多数の「Untitled」作品を聴くと、サウンドや空間の感触、あるいは使用されている音素材自体が、これらの作品と驚くほど似通っている(あるいは共通である)ことに驚かされる。その点では、それらの作品についても、ここで施した分析は一定程度有効と考える。しかし、それらの作品については、聴取面からだけではなく、構造面からとらえ返す必要が出てくるだろう。実は私は、これらの作品におけるフランシスコ・ロペスのあり方に最も類似性があるのは、最近の中平卓馬ではないかと考えているのだが、彼の作品についても、視覚面と構造面の2つの方向からとらえる必要があるだろう。彼において前者に当たるのが、一見、野良猫だの、寝ているホームレスのおやじだの、誰にでも明確に判別/特定できる対象を被写体に採りあげながら(ここが眼のつけどころで勝負する森山大道との大きな違い)、その実、ホリゾントを駆逐し、画面を壁のように立ち上げ、輪郭と言うより、事物の存在自体を色斑の明滅のうちに溶かしてしまう、オール・オーヴァーな構成ならざる〈構成〉であり、後者が見開き左右に融通無碍に一見無関係な写真を配しながら、やはりその実、濃度の勾配/分布や色調の連続/不連続等、「一見誰の眼にも明らかな対象/形象」がこれまた「一見誰の眼にも明らかに図として」前面に配置されているがゆえに、見えなくなってしまっている(=人が見ようとしない)パターンを、構造的に編集/配置していることにほかならない。


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