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パリペキンの夜は更けて  As the Night in Paris-Peking Wears on

  1. 2011/08/30(火) 21:41:51|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 久しぶりに虹釜太郎氏主宰の「パリペキン音楽ゼミ」に参加したので、その際に考えたことについて書いてみることにしたい。


1. パリペキン音楽ゼミの性格

 
 パリペキン音楽ゼミは、虹釜氏が運営するレーベル360recordsレーベルのリスナーや、彼がゲスト講師を務めていた「映画美学校」の音楽美学講座クリティック&ヒストリーコース高等科を修了した有志や、同じく彼が講師をしたBRAINZ)の講座「アンビエント渦」の卒業生たちが、彼を中心に継続的に勉強会を開催しているもので(その後、新規参加者もいて、メンバーは交代してきているが)、毎回、テーマを決め、音源(多くの貴重なものを含む)を聴きながら、レクチャーを受けたり、議論をしたりしてきている。「ゼミ」の名にふさわしく、必ずテーマに沿った課題レポート等(この課題の設定の仕方が、また他に例を見ないユニークなものである。この件については後述)を提出させるのは、「お客様」優遇のふりをして、その実、一方通行の情報の垂れ流ししかしない凡百のレクチャーとは、厳然と一線を画するところである。

 私もこれまでに2回参加させていただいているが、いずれも他の参加者同様、課題を提出している。このやり方は参加者にとって、単にトレーニングとなるだけでなく、課題に対する思考をアイドリングし、レクチャーからの問題把握力を高めるとともに、双方向の議論に参加しやすくする効果を生むことになる(実際、後半の議論の部分は、各自が提出したレポートを叩き台として進められることが多いようだ)。

 虹釜氏のゼミ運営は、彼自身の豊富な知識・経験をバックグラウンドとしながら(実際、彼と話していると、「何でこんなことを知っているのだろう」と驚かされることがしばしばある)、そうした情報の一方的な注入やひけらかしとなってしまうことを注意深く回避し、参加者の個性(それは性格、得意分野、問題関心、思考のスタイル、感受性の向きなど、様々な要素から成る)に個別に寄り添うもので、参加者の自発性をいかに引き出すかを重視していると言えるだろう。それはネットで検索すれば瞬時に一揃いの情報が手に入る時代では、おそろしく非効率的な方法に見えるかもしれない。だが、彼は独立した個人が、貴重な時間を割いて共に集うことの意味合い、重要性をまっすぐに見詰めている。これは彼がレコード店(その脱構築的な品揃えでいまだに伝説となっている渋谷のパリペキン・レコーズ。ゼミの名称もこれにちなむ)やレーベル経営を通じて、多くの人と関わりあう中から学んだものだろう。
 そのひとつの成果として、彼が担当した前述の「映画美学校」講座修了生たち(つまりはゼミの主要メンバーたち)によりミニコミ「TOHUBOHU」が発行されたことは、以前にこのブログでレヴューした通りである(2010年12月25日記事「『 TOHUBOHU 』と『雑誌』的な場」 URL http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-81.html)。そこで私は次のように書いている。

 「回答」に駆け寄るのではなく、むしろそれに至るプロセスを、小さな気づきや発見の連なりとして見せていくような。読み手の興味関心を、自分の興味関心だけに一方的に惹きつけるのではなく、代わりに順路図(「地図」の一望性は注意深く避けられている)を渡して、自由に散策してもらうような。
 彼/彼女たちは決して従来の「音楽雑誌」の似姿を求めてはいない。しかし、「雑誌」的な場、言葉が異なる音楽同士を、異なる耳の間を結び、音楽のまわりにコミュニケーション(それはすれ違いや、後からふと気づくというような微妙なものを含んでいる)をかたちづくるような空間を大事にしているのは間違いないだろう。

 こうした特質(「美徳」と言うべきか)は、彼らが虹釜氏から、知らず知らずのうちに学んだものかもしれない。




2.〈課題〉としての「ある島の可能性」


 今回のゼミのテーマは、「ある島の可能性 人間がいない世界のフィクションと音」というものだった。ここで「ある島の可能性」とは、ミシェル・ウエルベックによる小説作品であり、角川書房から翻訳が出版されている(中村佳子訳)。他にも3冊の著書が翻訳出版されているから、一定の読者を獲得しているのだろう。私は虹釜氏から以前に「注目すべき作品」ということで話を聞いてはいたが、実際に読むのは初めてのことになる。ストーリーの要約は、作品をどの視点からとらえるか、作品のどの部分に焦点を当てるかで、ずいぶん違ったものとなるだろう。Amazon等に掲載されているものでは、ほとんど意味不明なので、ここでは私が要約したものを掲載しておくが、先に述べたようにかなり要約者(=福島)によるバイアスがかかっているので、ご注意いただきたい。

【要約】
 舞台は現代と約2000年先の未来(地理的には主にフランスからスペインにかけて)。成功したコメディアンであるダニエル1とそのクローンであるダニエル24、ダニエル25の物語が交互に語られていく。一方にはコメディアンの皮肉/諧謔と中年の性欲に満ちた破滅的な生活があり、一方には改造により光合成にも似た仕組みで生きながらえることができ、
食事も排泄も生殖による子孫産出も不要となったため、感情も欲望も希薄化したネオ・ヒューマン(クローン人間)たちの、初代人間の個人史を読み返す静謐な時間がある。
 ダニエル1は2人の女性との別れを経て、とある教団に関わったことから、彼の自殺後、その教団の開発した技術でクローンがつくりだされることとなる(前代からの信号が途絶すると、新たなクローンが自動的に産出される)。約2000年先の未来では、カタストロフを経て、海が縮小するなど環境が大きく変化/荒廃しており、人類もネオ・ヒューマンのほかは、野人化したものが少数いるだけになっている。
 ダニエル25は連絡を取っていたネオ・ヒューマンの死をきっかけとして旅立ち、途中、ダニエル1の個人史の廃墟を訪れながら、海に至り、そこで朽ち果てることを望む。


 これに対し、今回そして参加者に与えられた課題は次のようなものだった。

【課題】
 A ウェルベック『ある島の可能性』書評(2000字前後)
 B 「人間がいない世界」を描いた小説について論じる(字数自由)。
   とりあげた小説のうち一部をコピーしたもの(A3サイズ)を当日持参。
 C 「人間がいない世界」を感じさせる音源を集めたコンピCD-Rをつくり、当日提出。
 D 「人間がいない世界」について考えた/イメージしたテキスト集=アンソロジーの目次をつくる。
当日、その素材となるテキストの一部をコピーして提出。
   例 『ストーカー』などのフィクションや人間のいない世界についての論考・批評、フィクションでクリティークでもないこれらについて考えさせるテキスト(ジャンルは一切問わない)
   を集めたアンソロジーを妄想して目次をつくってみる。余裕があればそのアンソロジーの序文か後書きも。


 私の提出した課題Aレポートを参考に掲載しておく。


 ■ある海のほとりの可能性−ミシェル・ウエルベック「ある島の可能性」書評

 「僕は人間の苦悩を知っているからこそ、他者と繋がりのない世界に参加している。僕は静寂への回帰を果たそうとしている。」【ダニエル24|5】

 ここで〈静寂〉とは何だろうか。一瞬たりとも止むことなく、人影の消えた浜辺を洗い続ける潮騒か。遮るもののない荒れ果てた地表を吹きすさぶ寒風/熱風か。深い闇夜の底に蠢くざわめきか。あるいは入力を失った聴覚野がたまらず生み出す神経パルスか。
 実際にはそのどれでもないだろう。彼はすでに音のない世界に棲んでいるように見える。「ここ」と「あそこ」をひとつながりにむすぶ、〈響き/にじみ〉の充満を欠き、くっきりと硬質な輪郭をもって対象を浮かび上がらせる、〈距離/分離〉の統治する世界に。音を欠いた世界は、たとえ近くにあっても〈向こう側〉へと遠ざかり、匂いや手触り(への連想/浸出)を決定的に欠いて(それは身体性を手放すことだ)、観念の世界に閉じこもる。ここて〈静寂〉とは、不純物の排除、ナチスの思い描いた〈純潔〉の観念化にほかならない。

 「僕は『門』だ。『門』であり、『門番』である。後継者は到来する。到来しなければならない。僕は、未来人の到来を可能にするために、存在し続けている。」
                          【ダニエル24|5】

 実のところ彼は、未来人など決して到来しないことを、すでに知っているに違いない。フランツ・カフカ『法の門前にて』のパロディ。

 ダニエル25は〈外〉へと旅立つが、やはりそこには音がない。虫もいない(ダニが1匹、長い時間をかけてピンセットで引きずり出さねばならないくらい貴重な存在として登場するけれども)。小動物たちの姿もない。あるいは微生物も。
 彼は野人の雌の発する悪臭にたじろくが(ウエルベックはレジス・メサックの流れを汲んでいるのだろうか)、彼女の体毛の中を這い回るダニやシラミを見ようとはしない。彼はモニタで野人の腹に蛆に食われた肉の裂け目を見出すが、むしろそれは象徴的な風景、イメージの産物だろう。
 これらの〈小さきもの〉を視界にとらえることなく、無機塩のカプセルだけを摂りながら、〈彼方〉に向って歩き続ける彼の姿は、〈浄化〉を希求する超越的な断食行者を思わせる。だが、〈小さきもの〉こそが担う腐敗や分解、つまりは変容/生成による万物の流転(マンガ版「風の谷のナウシカ」に見られるように、〈浄化〉とはそのうちの一部分に過ぎない)を見ない者にとって、それは観念的な自殺でしかないだろう。

 死とは〈静寂〉なものだろうか。水木しげるは血しぶきや汚物、はみ出た臓物に溢れ、喧騒にまみれた南方の野戦病院における騒々しい死を描いている。そして死体もまた、内臓が腐敗したガスがあちこちから噴きだしてぶつぶつと音を立て、赤や黄色の粘液を垂れ流し、最後には黒く干からびた組織から浸出した透明な蜜を土にしみこませる。まさにそれは極めて豊かな変容/生成の過程にほかならない。そうした音に耳を傾けない者に、死を見詰めることはできない。
 彼の目指す、海と空が溶け合う〈彼方〉(カヴァーのイメージを参照)もまた、所詮はーロッパの尽きるところ、西の果ての海でしかないのではないか。ドイツ・ロマン派の雄カスパー・ダーフィト・フリードリヒが眼差し続けた北の海の彼方の無限と比べてみること。そしてヨーロッパとは「すべての哲学がプラトンの脚注に過ぎない」とホワイトヘッドが喝破した文化圏にほかならないが、彼の主著と目される『過程と実在(Process and Reality)』を表題に掲げた作品集で、エヴァン・パーカーはサキソフォンの多重録音により、「演奏者の意図」といった枠組みを超えた、震えるような生成/流動の束をつくりだした。

 ダニエル1の罪として、繰り返し性欲が糾弾され、あるいは憐憫の対象となる。また、同様に笑いが奇妙な生理現象として、理解を拒まれる。生/生命が性欲によって媒介され伝染する病い(つまりは性病の一種)だとして、それでは性欲を欠けば(クローン技術がそれを代替する)、それは〈静寂〉へと〈浄化〉されるのだろうか。それは自意識の過剰と言うべきだろう。ラ・ロシュフーコー、シャンフォール、アンリ・ド・レニエらの一風気の利いた貧血気味の箴言を掲げる彼らには、ラブレーの過剰さ、下半身的な欲望と哄笑が決定的に欠けている。黒いヒューモアもまた(赤ん坊の頭を大口径ピストルで吹き飛ばす「社会保障制度の赤字額」は、1歳まで肥育した乳児を食用に売買するスウィフト「穏健なる提言:アイルランドの貧民の子どもたちが‥」の気の抜けたパロディに過ぎない)。

 代々のクローン再生による時間経過を〈SF的装置〉として還元してしまえば、本作品を自殺未遂を図って記憶を失った男が、日記を読み返して記憶をたどる旅に出る物語ととらえることができる。エステルのバースデイ・パーティが開かれたビルは、個人のための廃墟として、巡礼の重要な通過点となるだろう。

 そしてダニエル25は、わずかに残された海に、自らを供物として捧げる。彼の身体を構成する蛋白質や有機塩類は、その近傍の海水の成分に変化をもたらすことだろう。そこから、また新たな変化が、生成と流動が始まる。そこに育まれる色も匂いも手触りも温もりもある風景は、多種多様な音もまた生み出していくことだろう。彼からの信号の途絶をトリガーにして産出されたダニエル26が、昏い眼差しに映し出す輪郭だけの風景と、それは全く異なるものとなるだろう。


 さて、なくもがなの補足を。これが単独の書評なら、これほどまでに取り付く島なく切り捨ててることはしなかったろう。批判するにせよ、もっと「作者の意を汲む」ようにしたのではなかろうか。あくまで討論のための問題提起として書かれたテクストであり、討論に際し、「人間のいない世界」の基本イメージとして、本作品を採用してしまうことの問題点を指摘することに重点を置いたものであることに注意されたい。決して「ある島の可能性」を駄作だとか、読むに値しないと言っているわけではないので。念のため。




3.「ある島の可能性」を巡る議論


 当日のゼミは、虹釜氏によるイントロダクションの後、もともと本日のテーマを提案した参加者の1人の司会により各参加者の提出したレポートを叩き台に進められた。ここでは当日の議論を再現するのではなく、3つの論点に限って、議論を通じて私の考えたこと、席上発言したこと等を書き留めておくことにしたい。


(1)〈衰弱〉と機械

 まず、人間のいなくなった後も、綿を産出し続ける機械のイメージ(しかも機械も産出される綿も、緑色の苔に覆われているのだという)を提出した参加者(女性)があった。彼女のレポートでは、続いて(その動き続ける機械のイメージとすれ違うように)、心身ともに〈衰弱〉した人間の姿と、それがもたらす日常の〈世界〉とのずれが開く、新たな可能性について、(まるで土方巽「病める舞姫」のように、他人には見えないものが、ごくごく当たり前に見えてしまうような調子で)いささか唐突に語られる。

 「魂が半分抜けた状態で生活をしていると、散歩中の犬ににこっと微笑みかけられたり、足の踏み出す力が極端に弱くなって、自動ドアが開かなかったりする。別の世界に接続すること。そこにはある種の未知の可能性がある。」

 感情や欲望を希薄化し、消え入るように生きるネオ・ヒューマンの姿が、〈衰弱〉と重ねあわされ、人間の消滅後も、苔に覆われ自然の一部となって作動を続ける機械の永続性(そして生産されるふわふわとした綿は、本来の使い手を持たず、やはり苔に覆われ、虫や小動物の棲みかとなる)と残酷に対比される。
 〈衰弱〉から私が直ちに連想したのは、古井由吉の作品、特にどこからか聞こえてくる、何者かの声や正体の知れぬ物音だった。手術のために入院した病室で、加齢や疲労で伏した床で、あるいは深夜、書き物机に向いながら、穴だらけになった皮膜のどこかからしみこんでくるように、音が身体に入り込む。音は〈外部〉にありながら、その音に引き起こされた連想や記憶と見分けがたく溶け合って、〈ここ〉と〈あそこ〉を結びつける音/響きが、ここでは〈外部〉と〈内部〉の境界を曖昧にし、ひとつながりのものとしてしまう。気がつけば、考えが外に漏れているようで、ふとした自分のつぶやき気づいて驚かされる。〈浸食〉と〈浸出〉が主体の輪郭をおぼろに溶かしていく。病人や老人だけでなく、幼い子どももまた、こうした音に敏感であることだろう。主体の輪郭の揺らぎ/虚弱さが、風にそよぐ布のようにはためいて、音/声が通り抜ける。忙しさにかまけ、身体の内なる声に耳を傾けることなく、病に倒れていく〈頑健〉な者たちと比べてみること。
 ここで、外皮を自在にすり抜ける音/声は、ざわめき/沈黙と同義語であるだろう。そうした音の在り様に想いを馳せることなく、沈黙を単なる無音状態として抽象化する耳は、世界を変容/生成させる微かなざわめきを、選択的に無視しているに過ぎない。そうした意味で、抽象的な沈黙こそ聴き手がつくりだすものなのだ。

(2)メタ・フィクションとユーモア

 推理小説の愛好家であるという別の参加者(男性)は、ダニエル1と関係を持った2人の女性のうち、描写の分量の少ないイザベルとの関係が彼に多くの作品を生み出させたのに対し、描写の分量がはるかに多いエステルとの関係がほとんど作品を生み出さなかったことに着目し、それは決して彼の老いによる意欲や能力の減退のせいではないだろうと指摘する。あるいは彼の生み出す作品世界が、母体となる小説自体の作品世界ともっと関係しあえば、作品はよりメタ・フィクション的なものとなる可能性があったのではないかと。これは興味深い指摘だ。確かにそうかもしれない。もっとも、実際にそれが行われたとしたら、現在と2000年先の未来の対比という枠組みが不鮮明になってしまっただろうし、だいたい彼のつくりだすコメディはそれほど面白くない(笑えない)のも事実だろう。それらは所詮小説の道具立てであり、書割に過ぎないというのはその通りである。その一方で、そうした書割を破り捨てながら進むような破れかぶれさ加減が、ある種のスピードと推進力を生み、物語を駆動するとともに、ネオ・ヒューマンたちの生活との対比を生み出しているのも確かである。
 その参加者はもうひとつ、ユーモアとは人間関係に関わるものであり、人間関係が希薄になった2000年後の未来においては、ユーモアもまた蒸発してしまっていると指摘する。

 「個人の悲惨さをユーモアとして浄化するために他者が必要とされる。しかしこの連帯がその曖昧な外観にもかかわらず粘着的な拘束力を持つ社会として現れてくるとき、個人が引き受けねばならない滑稽さは耐え難いものとなり、ユーモアはますます特権的な視点として人々に共有されることになる。『ある島の可能性』の持つ独特の読後感の悪さというか違和感は、始めにあったユーモアの軽妙さが、いつしかその瑞々しさを奪われ剥き出しになった残骸として漂い出すところにあると思う」

 これも興味深い指摘だ。潤滑油として人間(社会)を浸しているユーモアが干上がり、水底が露出する‥というイメージは、「大乾燥」で海が干上がり縮小した2000年後の地球環境とも重なり合い、また、それぞれが切り離され、孤島に置き去りにされたようなネオ・ヒューマンたちの状況をも暗示する象徴的なものとなり得るだろう。

(3)環境設定への棲み込み

 今回は一参加者となった虹釜は、「自分はゲーム脳だから‥」と前置きして、作者による物語の展開を離れて、設定された環境世界に向けて、自由に(言わば勝手に)想像力を羽ばたかせてしまう自らの読みについて語った。それは「作品の」ではなく、「作品において設定された世界の」可能性を問うことであるだろう。
 もともと今回の課題テクストとして指定された「ある島の可能性」と、テーマとして設定された 「人間がいない世界のフィクションと音」を結びつけるのは、まさにそうした作者の意図(を詮索すること)にとらわれぬ生産的な読み/思考であるだろう。
 そこで重要になってくるのは読み手の〈倫理〉とでも呼ぶべきものではないだろうか。読みが抑制を欠けば、自堕落な我有化に陥るよりほかはない。コミケに蔓延する「二次創作」の多くは、まさにそうしたものなのだから。だが、彼は弱いもの、小さいもの、希薄なもの、かすかなもの、脆く壊れやすいもの、はかなく短命なもの、マージナルなもの、排除の対象となる(なりやすい)もの、絶滅/消失しようとしているものへの深い共感によって、自らを厳しく律する。彼はネオ・ヒューマンたちが皮膚の感度をわずかに鈍くしたことに着目する。ネオ・ヒューマン同士(たとえばダニエル24とマリー22)のうっすらとした交感に耳をそばだて、無為に引き延ばされた生(それは緩慢な自殺にほかならない)へのアンニュイな感覚に眼を凝らす。あるいはそれらの〈不純物〉が、彼らの希薄化した感情/欲望に引き起こすかすかな〈さざなみ〉に指先で触れようとする。私が「観念的」と斬って捨てたネオ・ヒューマンたちの行動に、彼は排除されようとするマージナルな存在を見出す。言わば不死を約束された者たちに、湖に滴下された一滴のインクの能う限り希薄なうすいうすい広がりにも似た生への不安と執着、ひりひりと疼くような痛みを感じとる。
 これはかつて彼が「TOHUBOHU」に執筆した『ソノヴァック』にも共通する視点/姿勢であり、おそらくはレーベル経営からゼミ運営までを貫く、彼の〈倫理〉の核にほかなるまい。

  


4.複数の視点から〜〈聴くこと〉の公共性の構築に向けて

 こうした作品受容への揺さぶり、それに触発された感覚の変容、連想や思考の広がり、そして、これらの相互作用がつくりだす複合的なヴィジョンは、複数の視点から見た風景をぶつけ合わせて初めて見えてくるものだ。「ひとり多重思考」ではなかなかこうは行かない。それなりの長さを持つテクストが対象なので、自ずとフォーカスするポイントがずれたことが、功を奏している部分もあるだろう。「群盲、象を撫でる」というが、〈象〉という実体/イメージが先に与えられているのでなければ、そのような断片の編集/重ね合わせの中から、〈像〉が浮かんでくるのを待つよりないのだ。

 逆に、〈テクスト〉という誰にとっても同一なものが、個々の〈読み〉の散乱/逸脱を可能にしているとも言えるかもしれない。ひるがえって音楽(音響)テクストの場合はどうか。以前から主張の繰り返しとなるが、そこでは〈聴くこと〉の共同性ばかりが強調されてはいないか。そうした共同性を支えるために、作曲者/演奏者の意図といった統一のための焦点が導入され、あるいは体験の同時性/同一性(特にライヴの場における同じ時間/空間の共有)が特権化されることになる。音楽(音響)テクストにおいては、文字テクストのように全貌が視覚化/対象化され得ないことが、ある種の不安/恐れを介して、〈聴くこと〉の自由な散乱/逸脱を踏みとどまらせているだけではないのか。

 確かに作曲者/演奏者(の意図)とか、ジャンルとか、年代と背景文化とかを前提にすることなく〈音/聴くこと〉について語り合うことは、さっきまで確からしく思われた〈音/聴くこと〉をばらばらに解体してしまうのではないか‥との思いがよぎることがある。「いったい私は何を聴いていたのか」と途方に暮れてしまうような。家路を遠く離れ、見知らぬ景色の只中で、陽がすでに傾いていることに気づいた時の不安。さっきまで硬質の輪郭をたたえ、空間と物体がきっぱりと分離し、透明な見通しを保っていた世界は、いまや自他未分の薄暗く曖昧な混濁のうちにある。

 そうした不安に打ち勝って、〈聴くこと〉を深めるためには、新たな公共性の構築が必要だというのが私の主張である。それゆえ、虹釜太郎によるパリペキン音楽ゼミや、タダマスの2人(多田雅範と益子博之)による四谷ティー・パーティは、そうした公共性につながる実践と私はとらえている。インターネットや無料のPR誌、フリー・ペーパー等により、「情報は無料でいくらでも手に入る」と考えてしまう風潮は、そうした取り組みに対し逆風となっていると思う。無論、「情報はタダ」という思い込みは単なる誤解に過ぎない。タダで手に入る情報は所詮それだけのものだし、たいていの場合、消費に向けたあるトレンドを推し進めるための撒き餌にほかならない。むしろ必要なのは、情報を読み解く技であり、感覚なのだ。〈聴くこと〉が深まるたびに、喜びが増すような。そのためには、豊かな耳の経験を持つ導師のもと、複数の耳がしのぎを削る場が必要なのだ。

  四谷ティー・パーティ
  

会場の喫茶茶会記(四谷三丁目)



■補足1 来期パリペキン音楽ゼミ参加者募集のお知らせ


 虹釜太郎氏から、来期パリペキン音楽ゼミの参加者新規募集のお知らせをいただいたので、転載します。〈聴くこと〉の新たな扉を開くために‥。


【パリペキンゼミ 新規募集】

 いままでに、
 ディストピアと音楽
 PTSDと音楽、戦争と音楽
 生成音楽
 ピアノはいつピアノになりいつピアノでなくなるのか
 音楽批評の意味と無意味
 世界DUB史
 食と音楽
 世界の大河ドラマと音楽
 ノスタルジーと音
 世界のアニメーションと音
 アウトサイダーと音楽
 ・・などについてとりくんできたパリペキンゼミですが、2011年9月10月期の新メンバーを募集します。

 パリペキンゼミは、360recordsの虹釜太郎主宰の音楽ゼミでのような自主勉強会で、少人数で毎回テーマを設定し、だれにでもできるかんたんな課題(難しくないのでご安心ください)にとりくみながら、音をめぐるいろんな問題やイメージについて参加メンバーですすめていくものです。
 いままでにBRAINZ(佐々木敦氏主宰)での講座や映画美学校の音楽美学講座や、大阪のNPOアーツアポリアでの音楽講座での講師、ゲスト講師やその他のレクチャーやイベント主催での経験で、一方通行ではまったくおもしろくないし、少人数での意見やイメージの交換でしかでてこないものが確実にあるということで、地味に続いてきています。いまだに講座のようなものという誤解がありますが、いわゆる講座とか講義ではありません。虹釜も講師ではなく、あくまで進行を務めているに過ぎません。テーマによってはゲストの講師にきていただいて特別講義を行ってもらう場合もあります。
 会場は都内の、浅草橋算数塾(駅から徒歩3分)で基本月2回開催(金曜、土曜)ですが、回によっては都内の別会場になることもあります。来期は4つのテーマに取り組みますが、そのうちのひとつは福島恵一さんによる特別授業です。

 今回若干名(1〜2名)、募集します。

 参加資格は特になく、音楽、音に詳しい必要はまったくないので、自由に参加ください。また来期は、初参加のメンバーもいるので安心してご参加ください。

来期のテーマ問い合わせ&申し込み:
360records@gmail.com
メール件名「パリペキン2011年9‐10月」


■補足2 次回パリペキン音楽ゼミ企画内容(予告)

 次回パリペキン音楽ゼミ(9月30日)は、私、福島がゲスト講師を務めさせていただきます。シリーズ「耳の個人史」の1回目として、個人的にも耳の大きな転換点となった「インプロヴィゼーションの構造化」をテーマに採りあげる予定です。内容は掲げたジャケット群からご推測ください。
 なお、当日の会場は表参道月光茶房店主原田様のご協力で、月光茶房隣のスペースビブリオテカ・ムタツミンダを使わせていただきます。


   

   


9/30会場のビブリオテカ・ムタツミンダ

フランシスコ・ロペス賛江◆Homage to Francisco Lopez

  1. 2011/08/17(水) 23:00:33|
  2. 音楽情報|
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 2010年5月15日に代々木20202で行われた「アンビエント・リサーチ」第2回については、以前にブログでもリポートした(2010年5月19日の記事 http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-32.html)。

 そこで金子智太郎が自ら執筆した「聴覚的パノプティコン:フランシスコ・ロペスの『絶対具体音楽』」に沿って、あるいは自ら訳したフランシスコ・ロペス「エンバラメンタル・サウンド・マター」(もともとは「ラ・セルヴァ」のライナーノーツ)に触れながら解説し、ロペスの作品や関連作品を聴いていく中から浮かび上がってきた世界は、まさに自分が「耳の枠はずし」で「不定形の聴取」として考えていたことと驚くほどシンクロしていた。


 ロペスは自身による「ラ・セルヴァ」を、一般の生物音響学的な録音、すなわち様々な種類の動物が発する音をとらえることに焦点を合わせ、主に発音身体の同定を目指す聴取と対比させる。「ラ・セルヴァ」の録音・編集プロセスは、どの動物にも焦点は合わせていないと。

 「前景/背景に意図的でアプリオリな区別はなく、耳と同じようにマイクの位置にもとづく音の不可避の出現だけがある。私は客観主義をとるのではなく、注意の『焦点』が音環境全体にあると考える。」(上記「エンバラメンタル・サウンド・マター」より)

 その時、音風景は多数の焦点を持つ、あるいはまったく焦点を持たないオール・オーヴァーな広がりとして現れてくるだろう。いま「音風景」と言ったが、人間が風景を認識する際に頼りにする記憶に根差した象徴的な「相貌」の現われを、この「風景」は持たないだろう。それは輪郭のない、まさに不定形な圧倒的広がりとして立ち現れてくる。そのことは音/響きが不鮮明であることを意味しない。むしろ広がり/奥行きのあらゆる点にピントが合っているかのような、極端な鮮明さと情報量の多さで聴き手に襲い掛かってくるだろう。背景を成す「地」の前に、対象を「図」として浮かび上がらせ、ババ抜きのババよろしく、「これを聴け」と指し示してくるのではなく、リスニング・フィールド上にびっしりと敷き詰められた音色の明滅だけがある。
 空間のあらゆる点にピントの合ったパン・フォーカス/ディープ・フォーカスの画面が、映画の場合、その奥行きを活用して、ひとつながりの空間内で繰り広げられるアクションの連鎖を提示することにより、まさに「見るべきもの」を指し示し、その「見るべきもの」を通じて空間を体験させるのと比べてみること。


 彼はまた空間の響きについても言及している。

 「音環境は音を発する構成要素すべての結果だけではなく、音を伝導する要素、音を変化させる要素の影響も加わっている。森で聞こえる鳥の声は、鳥だけでなく木や森の床の音でもある。実際に聴き取ることができれば、地形や大気の湿度、地表の材質の種類も、特定の空間にすむ動物と同じくらい本質的で明確な要素だ。(中略)環境の典型的な構成要素とされる生物、または非生物要素を軽視するわけではない。これらの要素に還元できない他の−音響的−要素を評価しているのだ。カエルの鳴声が空中にひろがると、もうカエルのものではなくなっている。」(同じく「エンバラメンタル・サウンド・マター」より)

 密林の樹々の交錯する枝を、折り重なる葉を、もつれあう蔓を、雨粒が激しく打つ音が集合化し、さらにそれらの音同士がぶつかりあい、厚い響きとなってたちこめる時、もとのひとつひとつの音は、もはや問題とならない。我々は空間を、環境を聴くことになるのだ。天蓋の崩落した廃墟で、剥き出しのまま横たわるピアノの弦を胴を雨粒が打つ時、同じことが起こるだろう。あるいは演奏者が鍵盤を指で押したとして、何が違うだろう。音は空間に浸出し、空間に浸食され、輪郭を希薄にして響きと化すほかはないのだ。


 もうひとつ、私がロペスの主張に深く同意せざるを得ないのは、彼が録音を表象のための(記録)手法ではなく、サウンド・マターを産出する方法ととらえている点だ。彼はドキュメンタリー的パースペクティヴに基づく録音作品が、その記録対象については幾らでも言葉を費やすにもかかわらず、録音されたサウンド・マターについては触れようとしないことを指摘する。

 「これは逆説的な屈折であって、録音を特定の空間に着いての記録や言及という役割に格下げしがちだ。(中略)録音の本質とは音よりも豊かで重要な世界の記録や表象ではなく、音の内的世界に焦点を合わせ、接近する方法である。表象的/関係的レベルが強調されると音は限られた意味や目的を帯び、音の内的世界は消費されてしまう。」(同上)

 聴覚がもともと接近する大型肉食獣など、身体/生命に対する危険を警戒するために発達した感覚であるなら、「それが何の音か、何をしている音か」に耳がそばだてられ、発音体の所在や種類が判明してしまえば注意の集中が途切れてしまうことには、何の不思議もあるまい。だが、まさにそうした本来的な聴取が終わったところから、「音楽」が開ける。

 「聴取がプラグマティックな表象という「用途」から切り離されたとき、音楽があらわれる。私はこの権利と自由さを主張する。(中略)私にとって、音楽的状態への到達には深い聴取が、サウンド・マターの内部に侵入することが必要だ。」(同上)


 音を何物かの表象として、サインとして、意図の具現化として‥‥いずれにせよ、何か別の本体/本源へと遡行するために聴くのではなく、サウンド・マターとして、そのマテリアルとしての圧倒的な顕現、豊かさのもとに聴くこと。我々はまだ、そうした聴取世界の入口に立ったばかりだ。



フランシスコ・ロペスの愛聴盤から。

Mnemonists / Horde


Werkbund / Skagerrak


Eraserhead Original Soundtrack


彼が次のような作品群(私の愛聴盤でもある)
を好んでいると、この時のレクチャーで教えられたことも、
彼を身近に感じるようになった理由のひとつにほかならない。

フランシスコ・ロペス賛江 Homage to Francisco Lopez

  1. 2011/08/10(水) 23:54:30|
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 7月22日の記事「生成音楽ワークショップのサイト完成!」で、「ホントはぜひ参加したいんだけどな‥(T_T)うぅ」と書いたフランシスコ・ロペスのワークショップ@東京芸大に受講者として参加することになりました。当初は「無理‥」とあきらめていたのだけれど、月光茶房店主の原田さんから「申し込みました」との知らせを受け、どうしてもあきらめきれずに申し込み期限の7月29日夜に東京芸大のページをのぞくと、何と期限が1週間延長されているではないですか。「これは神の思し召しに違いない」と信じ込んだ私は家族を説得し、何とか申し込みに漕ぎ着けたというわけです。


 ちなみに「The World as Instrument」と名づけられたロペスのワークショップの内容は次の通り。

 2011年9月5日から9日までの5日間にわたり、東京芸術大学公開講座としてサウンド・アーティスト、実験音楽家のフランシスコ・ロペスが主催するワークショップ「The World as Instrument(楽器としての世界)」を開催します。環境音を録音して鑑賞する、または音楽や美術制作に素材として使用する、「フィールド・レコーディング」の理論を学ぶワークショップです。この手法は写真のようにごく手軽に始められますが、その先に奥深い技術・知識・思想が広がっています。
 ロペスがすでに世界各国で開催してきたこのワークショップでは、膨大な音のサンプルとディスカッションを通じて、参加者をフィールド・レコーディングの世界に招待します。また締めくくりには暗闇のライブ・パフォーマンスでこの世界の深部を体験させてくれるでしょう。
以上 生成音楽ワークショップのサイト(http://generativemusicworkshop.wordpress.com/)から転載。


 平日5日間連続ということで、社会人にはハードルが高いだろうから、やはり学生の参加が多いのかな。とすると原田さんと私の50代コンビは最年長かも。いやいや、何しろ相手がフランシスコ・ロペスだから、百歳超えの「音響仙人」が山から降りてきたりとか、「戦前、ボルネオやスマトラのジャングルを、重いテープレコーダー背負って調査した」っていう大老とか参加してきたりして‥。んなわけないか。


 閑話休題。ここでフランシスコ・ロペスの来日を祝すとともに、ワークショップ参加記念ということで、今後、何回かに渡り(断続的になるかもしれないけど)、彼の紹介を試みたいと思います。本来なら、もっと早くから始めれば良かったんだけど、そこはそれ、注目度を高めてワークショップ申込者が増えて競争率が上がり、自分が参加できなくなったらどうしよう‥と心配したりして、踏ん切りがつきませんでした。小心者の私をどうかお許しください。
 ということで1回目です。


 もともと私がロペスの名前を知ったのは、おそらく「ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージック」(2001年)に収められた佐々木敦「『サイレンス』の解析−『小文字の音』を巡って」だったのではないだろうか。そこで佐々木はロウアーケース・ミュージック(弱音系音楽?)を、バーナード・ギュンターとフランシスコ・ロペスを嚆矢とするとして解説しており、ロペスの作品については「なかばドローンと化した空間的な音響が次第に音量を変化させつつ延々と続いていくというパターン」と「全編を通じてほとんどまったく何も聴き取れないというパターン」に大別し、後者についてはそれをジョン・ケージ「4分33秒」(出たよ‥)、アンビエント・ミュージック、エンヴァイロメンタル・ミュージック等を背景としたコンセプチュアルなものととらえている。そして、ロペスの作品のヘッドフォン聴取について「(作品の)大部分でリスナーが聴くことになるのはおそらく、単なる『無音』に限りなく近い状態であって、そこに何らかの観念的な意義でも見出さない限りは、鑑賞に値するとは言えない(もっともロペスが文字どおりの『無音=空虚』に没入する、という一種、倒錯的な行為を自らの作品の鑑賞の範疇として認めている可能性もないとは言えないのだが)。」と、「あ・あのな‥」と思わず突っ込みたくなるトンデモな説明に至る。まあ、音数が極端に少なかったり、音が極端に小さい演奏/作品に対し、ケージやら実験音楽やらを持ち出して、何やら象徴的な価値をそこに付与するという身振りは、いまや小島よしおの「そんなのカンケイねー」と同じくらいどーでもいい話なので、ここでは突っ込むことさえしないのだが、要はこうした不幸な「出会い」により、結局、当時の私はロペスの作品と出会い損ねてしまうことになる。どうした経緯だったか、ともかく「La Selva」を入手したのだが、そこから聴こえてきたのは熱帯雨林の自然音であって、観念的な「無音」などではなかった。あらかじめ植えつけられた先入観との食い違いにとまどいながらも、私の耳は、この不可思議な音の広がりに、どこかで惹きつけられていた。貴重な自然の記録(野性のアルバム!)という手つきとは異なり、「サウンドスケープ」と呼ばれたりもする「音の絵ハガキ」とも違い、ましてやエキゾティックな音の「芳香剤」などではありえない、何物ともつかぬ音の強度に。
 そうしてよくわからぬまま棚に仕舞い込んだCD(決して売り飛ばそうと思わなかったのは、やはり「ここには何かある」という気がしたからに違いあるまい)を、改めて取り出してしげしげと見詰め直したのは、金子智太郎・虹釜太郎による「アンビエント・リサーチ」の第2回がロペスを特集した時だった。



「The World as Instrument」のイメージ
世界をとらえる機械の知覚



フランシスコ・ロペス
彼のライヴでは、目隠しにより視覚を遮ることが求められる。



Francisco Lopez / La Selva
コスタリカの熱帯雨林のフィールドレコーディング

世界の歪みから生えるポプラの樹  Aspens Growing Out of This World's Distortions

  1. 2011/08/10(水) 00:12:38|
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 Farmers by Nature「Out of This World's Distortions」を早速手に入れ、自宅で聴き込んでみた。そこでの幾つかの発見についてレヴューしておきたい。

 「タダマス2」でもリポートした冒頭の「For Fred Anderson」。ピアノのけぶるような和音がそっと置き放たれるうちに、次第に気配を連ねてなだらかな丘の起伏をつくりだし、深々としたベースの弓弾きが、ふとあえかなフラジオに裏返って、はらはらとほぐれ落ち、また、どこからか清水が湧き出るように空間を満たしていく。両者の絡みはとても情景的だが、足元をひんやりとした水が浸し、遠い丘に雲が影を落とすように、見渡せる同じひとつの眺め/世界のうちにありながら、そこでは同じ時間が生きられてはいない。弦楽四重奏が鼻息でアンサンブルを合わせるような、同じ空気を呼吸する、測るような息遣いが感じられない。そのことは幕開けから2分を過ぎて、しゃらしゃらと暗がりに鳴り物がたなびくあたりから、いよいよ明らかとなる。ピアノの単音は、朝日に輝く山々の稜線のように、くっきりと硬質な輪郭を際立たせながら、目映いばかりの「音の柱」を打ち立てていく。「音の柱」はもはや先ほどのように気配を連ねることなどなく、ただただ凛と屹立する。その傍らをどこまでも水平にたなびくベースの弓弾きが、震えながら通り過ぎ、時間を自在に引き延ばしてみせる。一方、濾過されて響きだけとなったパーカッションが、闇のうちに沈みながら、かすかなきらめきで空間を照らし出し、その縁をなぞりながら、やはり暗がりに身を潜めた、かげろうのようにおぼろなピアノの左手とすれ違う。息も凍るほどしんと張り詰めた空間を共有し、肌が触れ合う至近距離で交錯しながら(ここで彼らは決して音域で棲み分けることをしない)、彼らは同じ時間を生きてはいない。と言うより、「同じ時間を呼吸しない」ことを、ここで彼らは唯一のルールとして共有しているかのように見える。それが同志フレッド・アンダーソンへの追悼にあたり尽くされた「礼」のかたちなのかどうかは知らない。しかし、この演奏に比類なき強度(全編で随一)を与えているのは、やはりこの決意であるだろう。

 この異形のアンサンブルに比べると、プレイヤー・ピアノにも似たランダムな打鍵で始まる「Tail's Traced Traits」における音数の多い「フリー・ジャズ」的な演奏では、サウンドが稠密となる分、それだけ平均化し、三人が「異なる時間を生きる」ことのスリリングさはいささか目減りするように思う。とは言え、「フリー・ジャズ」特有の自我の肥大=サウンドの飽和が演奏を停滞させてしまうことを回避するため、ピアノとドラムスがリズム・フィギュアを幾何学的に絞込み、常に明澄さ/明晰さを保つよう仕向けていることは見逃せない。クレイグ・テイボーンによるグリッド的な構築(ジャズ的なリズムのシンコペーションを用いず、グリッド上へのON/OFFの配分による)を、ジェラルド・クリーヴァーもまた採用しているのだろう。特に後半における両者の「多形倒錯」的な絡み(複雑な幾何学的モザイクを思わせる)は見事だ。こうした幾何学的アプローチは、「Cutting's Gait」における、ピアノの素早い上昇下降フレーズから音のかけらを振りまくような散乱/モザイク構築に至る進行、あるいは「Mud.Mapped」での三者が各々リフレインを執拗に繰り出し、互いに縒り合わせながら演奏をかたちづくり、ピアノ・ソロがそうしたリフレインを幾何学的に切り開き「展開」するなど、彼らの「フリー・ジャズ」的な、一見放埓にも見える演奏の随所に仕込まれている。

 「For Fred Anderson」により近いのは「Out of This World's Distortions Grow Aspens and Other Beautiful Things」の音世界だろうか。それは小杉武久が「惑星」と呼んだという(このことは多田雅範から教えられた)ウィリアム・パーカーの、確かに惑星の運行を思わせる、何物にも動じない力強さをたたえたベース・ソロで始まる。突然に骨太の歌が沸きあがり、突如としてリズミックなリフレインが踊りだす演奏の流れ(それはもともと豊富な倍音を持ち、打弦の強さにより倍音構成が不揃いになりやすいというコントラバスの生理を活かしたもので、テイボーンたちのグリッドによる構築の対極にあるわけだが)に、ピアノとドラムスが薄絹を垂らすように寄り添ううち、テイボーンが和旋法や全音音階のフレーズの響きを試し、パーカーが高域でつぶやく3分半過ぎあたりから、三人が別々の時間を生きる様が明確になり始める。彼らは互いに背を向け合い、各々の手元の作業に専念する。彼らは異なる時間意識で音を刻み、意識の焦点をそれぞれ異なる方向に向ける。異なる時間を呼吸しながらも至近距離で交錯しあった「For Fred Anderson」と違い、ここで彼らは層を棲み分けているように感じられる。隣接した層/空間が、ある「綴じ目」へと引き絞られて歪み、その「綴じ目」に生じた「綻び」によって辛うじて通底しているとでも言うような。その隔たりが独特の静謐な強度を生み出す。

 だが、それにしても、曲題「この世界の歪みからポプラの樹やほかの美しいものが生まれてくる」(冒頭部分はそのままCDのタイトルとなっている)とは、何とすばらしい直感/ヴィジョンなのだろうか。醒めた諦観に根差しながら、世界の根源的な力強さへのゆるぎない信頼と明日への確かな希望が、そこには確かにあるように思われる。

 末尾ながら、素晴らしい作品を紹介してくれた「タダマス」の二人、益子博之と多田雅範に感謝したい。



この幽玄な風景に長谷川等伯「松林図屏風」や
Telje Rypdal / Wavesを思い浮かべたのは、
何とも正しい直感だったと自画自賛。



Farmers by Natureのメンバーたち
  

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