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複数の耳のあわいに−「タダマス2」レヴュー Between Plural Ears − A Review for “TADA-MASU 2”

  1. 2011/07/30(土) 18:48:23|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 7月24日に行われた四谷ティー・パーティ第2回(タダマス2)のリポートをしたい。今回は益子による選盤に加え、多田によるセレクションも披露され、さらに市野氏の演奏者ならではの指摘もあり、それに聴衆からの意見が加わることによって、前回以上に多角的な聴取の場となった。集客が少ないのは相変わらず課題だが、これについては、ある種の社会的「症状」も影響しているように思う(これについては後述)。

 当日のプレイ・リスト(簡略版)は次の通り(このうち9〜11が多田による選盤)。益子による選盤は前回の続きで、今年第2四半期のNYダウンタウン・シーンからの10枚となっている(およそ50枚の新譜からの選りすぐりだという)。なお、レーベル、規格番号、曲名、パースネル等は、元リスト(http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767)を参照のこと。

1.Ambrose Akinmusire / When The Heart Emerges Glistening
2. Okkyung Lee / Noisy Love Songs (for George Dyer)
3. Michael Dessen Trio / Forget The Pixel
4. Ingebrigt Håker Flaten,Håkon Kornstad,Jon Christensen / Mitt hjerte altid vanker - I
5. Nicolai Munch-Hansen / Chronicles
6. Ben Allison / Action-Refraction
7.Jeremy Udden’s Plainville / If The Past Seems So Bright
8. Craig Taborn / Avenging Angel
9.Bojan Z / Xenophonia
10.Paul Motian / The Windmills of Your Mind
11.Lee Konitz,Brad Mehldau,Charlie Haden,Paul Motian / Live at Birdland
12.Travis Reuter / Rotational Templates
13. Berne, Black & Cline / The Veil
14. Farmers by Nature / Out of This World's Distortions


 前回同様、多くのことを触発されたが、ここでは次の3点に絞って論じたい。

(1)思いがけない叙情
 2からは冒頭の「百歳の雨」がかけられた。ぱらぱらと空を打つ雨音(を模したサウンド)に導かれて、もやがけぶるように弦の響きが浮かび、緩やかな息遣いを編み上げていく。そこにOkkyung Lee自身の奏でるチェロが、平らかでうつむき加減の、だが意志の強さを感じさせる流れを付け加える。情景喚起力豊かなサウンドトラックを思わせる音の運び。倍音領域を小鳥のように移ろう弦のフラジオと、遠くでカンカンと鳴るピアノの透明水彩画風の対比は、キム・ギドク「春夏秋冬そして春」の幽玄な景色(人を寄せ付けぬ凛とした厳しさと奇妙な人懐っこさを併せもった)によく似合うことだろう。
 バス・サックスによる太古の祭儀を思わせる深々とした響きで幕を開けた4は、持ち替えられたテナーがノルウェーの伝承聖歌をピュアに響かせていく。そのどこかカリプソに似た軽やかで喜悦に満ちた旋律の動きは、私にアルバート・アイラー「ゴースト」のテーマを連想させた。このことは、彼の類稀なる才能を発見したのが、楽旅で訪れた北欧であったことと関連しているのだろうか。
 いずれも「NYダウンタウン」の既成イメージ(ブランド・イメージと言うべきだろうか)から遠く隔たった、瑞々しく透き通った叙情が、演奏のただなかから、滾々と尽きることなく湧きだしていた。

(2)建築へのゆるぎない意志
 前回、Gerald Cleaver(dr)と共に大活躍だったCraig Taborn(pf)は、今回も注目すべき演奏を聴かせてくれた。ECMからのソロ・アルバム8では、音が放たれるたびに、響きが光となって天高くたちのぼり、一本ずつ柱を建立していく。前回、彼のエレクトリック・ピアノ演奏を「グリッドのオン/オフだけでできている」ととらえ、楽器としてのピアノの本質を研ぎ澄ます仕方に注意を促しておいた。これを受けて、今回、彼のライヴ演奏を聴いている益子から、彼の演奏が弱音から強音まで、ダイナミクスの変化に関わらず音色が一定であることを指摘する発言があり、また、益子・多田とも彼の演奏を「音が積み上がる」と表現していた。サウンドが平準化されたエレクトリック・ピアノに比べ、はるかにコントロールの難しい(それゆえ多彩な音色を奏でられる)アコースティック・ピアノにおいても、こうしたモノクロームの美学を厳しく探求する、彼の突き詰めた眼差しを感じずにはいられない。
 ここで興味深かったのは、(おそらくはポスト・プロダクションにより)加えられたリヴァーブの過剰さを指摘し、このCDで聴ける音は、演奏時にテイボーンが耳にしていたものとずいぶん異なっているだろうとした市野氏の発言である。彼は単にリヴァーブの有無を問うているのではなく、ピアノの音の減衰をリヴァーブが引き延ばしてしまうため、演奏の間合いが変わってしまっているであろうことを問題にしていた。もちろん、録音作品である以上、録音現場でどう聞こえたかはさして重要ではない(完成した映画作品が、セットの脇で見ていたのと違うと言ってもしょうがない)。しかし、この演奏が響きを探りながらのインプロヴィゼーションであることを思えば、市野氏の批評は核心を突いている。私が聴いたところでも、右手と左手で残響のたちのぼり方が異なるなど、リヴァーブ操作にはかなり作為的なものが感じられた。その一方で、この演奏が「ECMピアノ・ソロの典型」からずれていることも指摘しておきたい。キース・ジャレット「ケルン・コンサート」の記憶によるのだろうか、この「典型」のポイントは「アイヒャー・エコーによる美音づくり」にあると見なされがちだが、実際には「美フレーズ」の方がはるかに重要であり、そうした「美フレーズ」を最大限効果的に演出するために、音数が絞り込まれ、音の動きが切り詰められ、「間」が重要視され、響きが精緻に磨き上げられる。「沈黙の次に美しい音」をキャッチ・フレーズに掲げながら、ECMにおける「沈黙」はうっすらとした響きの残り香、美フレーズの残像にすでに満たされている。対して、ここでのテイボーンの演奏においては、フレーズを織り成すことなく放り出され、柱として屹立しながら自らを照らし出す音が随所に見られる。より深く沈黙に身を浸し、その強度を肌で受け止めていると言うべきか。そうした演奏の手触りから判断して、先に触れた市野氏の指摘は正鵠を射ていると考える。「ここはすでに弾かれた音が鳴り止み、沈黙に呑み込まれて、響きがリセットされた後に、新たな音が弾かれるべきところだろう」と感じる時に、リヴァーブによる響きが依然として中空を漂っていて、後から弾かれた音が、その響きに(つまりは直前の音に)連なってしまう場面が何度も見られたからだ。
 前回聴くことのできたエレクトリック・ピアノによる演奏では、音の均質化/平準化のための操作もあって、前述のようにグリッドのオン/オフによる構成が見えやすかった。しかし、今回はアコースティック・ピアノの響きの多彩さとタイム感覚の自由度の高さゆえに、そこにマンハッタンの市街のように縦横に張り巡らされたグリッドを見て取ることは難しい。にもかかわらず、そこには確実にオン/オフへの感覚が働いている。ちょうど池の水面に小石を投げ込み、波紋の広がりを見詰めながら、次の小石を投じるタイミングを測るように。弾かれた音が減衰し、次第におぼろに透き通っていく。そこへ新たな響きが折り重ねられる。フレーズを奏でるのではなく、音の柱を打ち建て、響きの層を折り重ねながら、空間を息づかせていくテイボーンの姿は、「建築するピアニスト」と呼ぶにふさわしかろう。
 そのことがより明確に示されたのが、William Parker(b), Gerald Cleaver(dr)とのトリオ編成による14にほかならない。浮き上がるようなピアノの和音の連なりに、ベースの弓弾きが切り込んでいく冒頭部分からして、打ちのめされるような感覚を覚えた。 これはモノが違う。この日のハイライトであるのは明らかだった。いま「和音の連なりに切り込んでいく」と書いたが、実際の響きのコントロールはより精妙で、壁のようなものに切りかかるのではなく、中国の故事に言う包丁の名人のように、骨と肉の間にある隙間に、厚みのない刃を差し込んでいく趣がある。と言いながら、ベースの響きは決して一様に滑らかではない。押し当てられた弓の圧力を、石を彫り進めるノミの跡のようにとどめ、幾重にも折りたたまれた響きの襞をたたえた、手触れるものとなっている。こうして空間に薄絹を垂らしていくピアノと、沈黙自体を掘り進むベースによる「舞い」を前面に押し立てながら、舞台袖の暗がりに身を潜めたドラムスが、画面の外からかそけき響きを振りまく。長谷川等伯「松林図」を思わせるジャケットの印象そのままに、「幽玄」とすら形容したくなる響きの味わいは、昨年6月に亡くなったフレッド・アンダーソンに手向けた鎮魂歌ゆえだろうか。いずれにしても、この盤は入手して聴き込まなければなるまい。

(3)複数の耳の間で
 テイボーンの演奏に対して、人は自分の出遭った未曾有の事態に打ちのめされながら、耳に残る確かな手触りを手がかりに、何とかしてそれを語ろうとする。だが、そうした事態ゆえ、なかなか言葉を紡ぐことができない。巷に溢れた借り物の言葉で、ぺらぺらと饒舌に(社交的に/世間話的に)語ることを、辻褄合わせにより曖昧に体験を収拾することを固く禁じる厳しさが、彼の演奏にはある。それでも語らずにはいられない魅力と、人を寡黙にさせる演奏の屹立した力。辛うじて吐き出し得た言葉が、各人の「聴くこと」の違いを明らかにし、対象の姿をぼんやりと照らし出す。ホストを務めた益子・多田、ゲストの市野氏、そしてこの日集った聴衆が、ぽつりぽつりと語り合った時間こそが、この日の真のハイライトだったのではないだろうか。この貴重な試みが、今後も継続されることを望んで止まない。


Okkyung Lee /
Noisy Love Songs(For George Dyer)
(Tzadik) 


I.H.Flaten,H.Kornstad, J.Christensen /
Mitt Hjerte Altid Vanker-1
(Compunctio)


Craig Taborn / Avenging Angel(ECM)
「これは歴史的な盤だろう。ピアノ・ソロの革命を、
またECMが、というのに近い。」 多田雅範


Farmers by Nature /
Out of This World's Distortions
(AUM Fidelity)


長谷川等伯「松林図屏風」
(東京国立博物館蔵)
上段:右隻 下段:左隻 幽玄の極み。



Telje Rypdal / Waves(ECM)
これも似てますね。
どこか遠くへと誘われる風景。

「タダマス」の二丁拳銃  ”TADA-MASU” with Two Handguns

  1. 2011/07/22(金) 23:49:15|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 多田雅範と益子博之による批評ユニット「タダマス」(勝手に命名)が、再び音盤コンサートを開催する。通産10回目のNYジャズ・シーン定点観測から先月帰国したばかりの益子のホットなリポートを絡めた新譜紹介に、ポール・モチアンにヘンリー・スレッギル、あるいは「少女時代」からジル・オーブリーまで、「すげー演奏にはいち早くすげーと反応する」同時代音楽のガイガー・カウンター多田が鋭く切り込むという、ラディカルにしてランダム、予測不能な可能性満開の一夜がいまここに。


masuko/tada yotsuya tea party vol. 02: information
益子博之=多田雅範 四谷音盤茶会 vol. 02

四谷喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F) tel:3351-7904
※最寄り駅は四谷三丁目
2011年7月24日(日) 
open 18:00/start 18:30/end 21:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:市野元彦(ギタリスト/作曲家)


益子博之によるリポートはこちらのコラム欄を参照。
http://com-post.jp/

多田雅範によるNYジャズのアイコン選はこちらを参照。
http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-21.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20110715

月光茶房店主原田大人もご自身のブログで今回の催しを紹介されています。
「NYを観てきた男 vs NYが認めた男」という惹句はいいなあ。
http://timbre-and-tache.blogspot.com/ (7月22日の記事「タダマス2」)


 今後も継続して、「タダマス」の海底探検とか、「タダマス」と魔法の壷とか、「タダマス」の若大将とか、不思議の国の「タダマス」とか、いろいろ頑張ってほしいものです



 「近づく嵐の予感」

  撮影:多田雅範

生成音楽ワークショップのサイト完成! Generative Music Workshop Has Come !

  1. 2011/07/22(金) 22:47:40|
  2. 音楽情報|
  3. トラックバック:0|
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 「アンビエント・リサーチ」を虹釜太郎さんと共に主催する金子智太郎さんが、ある環境や仕掛けを設定することによって、それが自動的に音楽を生み出す「生成音楽」のシステムを、実際に作成し作動させ体験してみる「生成音楽ワークショップ」を開催してきていることは、以前にブログでお知らせしました(2010年6月27日「Music on Long Thin Wire」)。何とこのたび、その「生成音楽ワークショップ」のサイトができました。
http://generativemusicworkshop.wordpress.com/


 「生成音楽ワークショップ」の説明や今後の活動のお知らせのほか、アーカイヴでこれまでの活動の記録を見ることができます。 フランシスコ・ロペスのワークショップ@東京芸大はホントはぜひ参加したいんだけどなー‥。(T_T)うぅ


 【コンセプト】
 「生成音楽」は装置やルールを使う自動作曲の音楽です。
 生成音楽ワークショップは 過去の生成音楽の名作を「再演」します。
 城一裕と金子智太郎により2010年から活動しています。

 【これまでの活動】
 第1回 スティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」
 第2回 アルヴィン・ルシエ「細長いワイアーの音楽」
 第3回 リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン」

 【今後の活動予定】
 第4回 聴く装置としてのエオリアン・ハープ(黄金町バザール2011に参加)
     フランシスコ・ロペス ワークショップ「The World as Instrument」



第1回 スティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」



第2回 アルヴィン・ルシエ「細長いワイアーの音楽」



第3回 リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン」

トラッドとの出会い〜奈落への転落(続き) Encounter with Trad Music − Downfall to the Depth (continued)

  1. 2011/07/17(日) 20:17:41|
  2. ディスク・レヴュー|
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 前回言及した月光茶房店主原田さんのブログが更新されて、ブラックホークのお話の続きが掲載されている(7月17日分。前回言及したのは7月13日分)。「ブラックホーク後期」と題された記事を読んで驚いたのは、そこで話題となっている「ブラックホーク・ニュース」の発行日が1980年7月20日で、私が前回ブログで書いたトラッドの出会いとほとんど同時期(私の方は1980年6月から)であることだ。さらには、私が前回「マリコルヌ・ショック」の端緒として採りあげたMalicorne / Almanachが、そのニュースに掲載されており、ブラックホークが従来方針から踏み出した象徴となっている。私たち一人ひとりはそれぞれに異なる人生を歩んでいて、時折、いろいろな出会いがあったりするわけだが、同じ世界に生きている以上、様々な社会条件の変化に同時にさらされていくことになる。たとえ出会わずとも、そこには一種の同期が存在している。たいいていの場合、それは大きな社会現象であって、オリンピックのようなイヴェントであったり、何かの流行であったり、社会制度の変更であったりするのだが、ここでは、それから30年後に出会うことになる2人が、それぞれに東京の片隅で同じ1枚のレコードに出会い、そこにこれまでとは異なる風景を感じ取るということが起こっている。当時、そうした事態に遭遇した人なんで幾らもいないだろうから、本当にマイナーでミクロな次元の話だけれども。まるで映画のマルチ・スレッドの語りのようで面白いな‥と。

 さて、と言うわけで前回の続きを。
「マリコルヌ・ショック」にときめいた私だが、その後、トラッド探求は一時減速してしまう。ブラックホークのような「礼拝所」を持たなかった私にとっては、雑誌記事等が唯一の情報源だったわけだが、当時、トラッドを積極的に紹介しているものなどなかったし、トラッド系に強い専門レコード店も知らなかった。なので、前回紹介した広川氏のレヴューで名前の挙がっていたClannadのフィリップスからの第1作を入手し、その硬質で躍動感のある演奏にしびれたりしたものの(当時の彼らは本当に素晴らしかった※)、当のマリコルヌは「Le Bestiaire」をリリースして行くところまで行ってしまい(その「中世暗黒マグマ」というべきヘヴィさは怖ろしいほど)、続く「Balancoire en Feu」では、中途半端なNW色に失望することになる。
※70年代後半のClannadは本当に輝いていた。 後のニュー・エイジ色はまだなく、インプロヴィゼーションによる演奏の拡大、立体的なコーラス、鮮やかな場面転換は、ペンタングルとマリコルヌの「いいとこ取り」をした感がある。特に第1作冒頭に収められたA Nil Se Ina Ia」には彼らの魅力が詰まっている。この曲は彼らの代表作であり、後に発表されるライヴ・アルバム「Clannad in Concert」では倍以上に拡大されるのだが、この熱演がまたすごい。
 
 それに自宅からほど近かった池袋西武アール・ヴィヴァンに通うようになり、店頭でスタッフにあれこれ教えていただきながら、現代音楽やフリー・ミュージックを聴きはじめ、さらには「フールズ・メイト」直営のレコード・ショップであるイースタン・ワークスが代々木に開店し、もともと廃盤中心の中古盤店だった下北沢エディソンが新譜ショップであるUKエディソン(当初は神保町、後に西新宿)を開いたことにより、プログレ中心だった興味関心の範囲が、所謂「アヴァンギャルド」方面へと大きく展開してしまい、日々拡大して手が着けられなくなってきたこともある。インターネットなどなく、雑誌も「フールズ・メイト」や「マーキー・ムーン」しかなかった時代に、これらのお店のスタッフからいろいろ教えていただいたことは、その後音楽を聴き続けていくうえで大きな財産となっている。この場を借りて、芦川さん、田島さん、山谷さん(以上、アール・ヴィヴァン)、明石さん(イースタン・ワークス)、佐藤さん、森さん(UKエディソン)に感謝したい。どうもありがとうございました。

 そうして停滞したトラッド熱に再び火がついたのは、1984年も秋になって、雑誌「包(パオ)」の発行が始まってからではなかったろうか。アジアン・ポップス、ラテン・ミュージック、米国SSW等といっしょの取り扱いではあったが、英国を含むヨーロッパのトラッドやOcoraやAudivis、Nonsuch等から出ているようなエスニック・ミュージック(「エスノ・ポップ」ではない)を主たる対象に見据えたこの雑誌は、貴重な情報を与えてくれた。編集スタッフに「トラッド/SSWの専門店」である通販レコード店タムボリン店主の船津潔氏が参加していたことが大きい。それまで、まったく通販を利用したことのなかった私は、早速タムボリンにアクセスし、またまた奈落への新たな扉を開けてしまうことになる。
 現在でこそ、米国SSWと英国トラッドに対象をやや絞り込んだ感のあるタムボリンだが、当時はヨーロッパの未知の音源を次から次へと紹介してくれていた。そこで出会ったのが、南仏オクシタンのRosina de Peira e Martinaであり、スペインはバスクのOskorriであり、ハンガリーのMakam Es Kolindaであり、イタリアのNCCPであり、あるいは英国のJune Tabor等である。

 Rosina de Peira e Martina / Trobadors (Revolum)は私にとって何重にも衝撃的な1枚であると同時に、「その後」を準備してくれた貴重な出会いでもある。まずはヴィエル・ア・ルーをはじめとする中世・民族楽器とエレクトロニクスが生み出す過剰な倍音のうねりと、ぶつかりあう2人のしなやかにして強靭な声。「こりゃあMalicorne / Le Bestiaireよりスゴイかも」とクレジットを見ると、そこには同作品に参加して多大な貢献を果たしながら、すぐにマリコルヌを脱退してしまったDominique Regefの名前が記されていた。彼はここでもヴィオールやチェロ、レベック等を奏するとともに、ロジーナ、マルティナの2人と共にアレンジメントを担当しており、さしずめ音楽監督役と言えよう。彼の脱領域的な活動は、この後、Michel Doneda, Ninh Le Quanとのトリオや、ヴィエル・アー・ルーによるエレクトロ・アコースティックなソロ作品へと結実していくことになるのだが、この時点では久しぶりの再開を喜ぶにとどまった。
 マリコルヌのリーダーは、もちろんAlain Stivellの下でギタリストを務めたGabriel Yacoubなのだが、前期においては編曲に秀でたHughes de Coursonがいたし、後期には中世音楽を見事にプログレ化したGryphonからBrian Gullandが参加し、さらにはDominique Regefがいて‥と、才能あるメンバーに恵まれたグループであったことを痛感する。特にマリコルヌ脱退後、しばらくプロデューサー活動に専念したHughes de Coursonは、Makam Es Kolindaの前身であるKolindaを世界に紹介したことで、長く記憶されるべきだろう。Kolindaの音楽は変拍子を駆使した切迫したリズム・ワーク、遠近のある立体的なアレンジメントと劇的な場面転換、むせかえるほど濃密にたちこめる倍音とエキゾティシズム、切れば血の吹き出すような異常なまでのテンション等を特徴とし、マリコルヌを知らなければ間違いなく腰を抜かして立ち上がれなかっただろう、ものすごい代物だった。メンバーが多数交替した(Makamのメンバーと入れ替わった)Makam Es Kolindaは、熟成して角が丸くなり、上質のなめし皮のような艶すらたたえているが、それでもたぎるような血の熱さ/濃さはやはり争えない。

  Rosina de Peira e Martinaから受けた恩恵の2つ目は、オクシタンという「交通の場」にして、「国家に抗する地域」の視界への浮上である。原田さんはマウロ・パガーニの作品に対する私のレヴューにブログで引用してくださっているが、私とて当初から「古来から交通の網の目であり、様々な文化の交錯する地中海の姿をいきいきと活写した歴史的名盤。(中略)彼らはさらに深く掘り進み、複数の文化的源流が絶え間なく交錯/衝突/変容する力動の場へとたどり着いている。」との認識を持っていたわけではない。Rosina de Peira e Martinaの活動を知り、オクシタンについて調べ、地中海に開けていたことにより、現在のフランスにあたるエリアの中では文化先進地域だったオック語圏が、カタリ派信仰を理由にアルビジョワ十字軍の派遣により徹底弾圧されたことを知った。同時にアラン・トゥレーヌやピエール・クラストルの著作に触れ、「国家に抗する地域」について考えたりもした。こうした経験がなければ、90年代になってから出会う仏Silexの作品群に敏感に反応することはできなかったろう。特にカタリ派弾圧を題材としたValentin Clastrier / Heresieのしめやかな強度と魔術的な奥深さに。

 すでにLluis Liachを聴いていて、カタロニアやバスクの地域闘争について聞き知ってはいたのだが(そのは話はまた別の機会に)、そうした「プロテスト・ソング」的な音楽(一刀両断切り捨てているつもりはなく、その中にはもちろん素晴らしい音楽も含まれていることは承知している。念のため)とは異なる文化的なスタンスがそこには確かにあった。もちろんそれは一面ではワールド・ミュージック商法とも関係しており、フランスの国家戦略の一部でもあるのだか。
 先のマウロ・パガーニ作品への評価は、パガーニとファブリツィオ・デ・アンドレによる地中海音楽探求、アレアによる「インターナショナル・ポップ・ミュージック」のための素材渉猟、ブルターニュ/ケルトにこだわったアラン・スティーヴェルから汎フランスへ歩みだしたマリコルヌ、NCCPがあぶりだした地中海音楽におけるアラビア的要素(サラセン人の文化)の重要性、Louis SclavisやMichel Donedaによるトラッドへの先鋭的アプローチ(ドネダの作品にはバスクのトラッド歌手Benat Achiaryが参加しているが、他方、Achiaryの作品にはDonedaとともにDominique Regefが参加している)、Silexの多面的な作品展開等々を知って、ようやく立ち至ったものである。なお、こうした視点からの地中海音楽論を、言わば「裏イタリア」に焦点を合わせたかたちで、今は亡き音楽雑誌「アウトゼア」に執筆したことがある(「長靴の中の小石」)。


 「いやー実はコレがいいんだよね」と、「ディスク・レヴュー」なんだから、おすすめトラッド作品を個別に紹介していくこともできたはずなのだが、トラッドとの邂逅を一期一会のものとして受け止め、いまの自分の音楽の聴き方への影響を考え始めたら、このようなものとなってしまった。おすすめディスクのリストはまた今度ということでご勘弁をいただきたい。ごめんなさい。
自分としては、マリコルヌとの出会いの影響の大きさ、そこから枝分かれしながら伸びていった探求の線の多さに、今更ながらに驚いているところ。ちなみに、マリコルヌは先頃、再結成ライヴを行っており、CD等も発売されている。その様子はyoutube等でも見ることができるが、ここでは再結成に合わせてつくられたと思しき「マリコルヌ 音楽の伝説」なる非公式サイト(http://malicorne.legende.chez.com/)を紹介しておこう。ヴィジュアルが美しいので一見の価値あり。メンバー紹介が再結成参加者だけなのが少し悲しい。ライヴもちょっと「同窓会」的だし。再結成ライヴだけで彼らを評価しないようにご注意ください。



Clannad / Clannad(左)とClannad / In Concert(右)
ゲール・リン時代の味わいも捨てがたいが。
  


Malicorne / Le Bestiaire (Ballon Noir)
泣いても許してくれないくらいヘヴィでハードです。



Rosina de Peira e Martina / Trobadors (Revolum)とDominique Regef / Tourneries
サウンドがうねり倒し、内圧を天井知らずに高め、果てはプラズマ発光に至る。
  


Makam Es Kolinda / Makam Es Kolinda (Stoof)とKolinda / 1514 (Hexagone)
KolindaはHexagoneに3枚あるが、みんなジャケットがちょっとアブナイ。
  


Valentin Clastrier / Heresie (Silex)
もうどうしようもないくらい名盤。



Quintet ClarinettesとAndre Ricros,Louis Sclavis / Le Partage des Eaux
Silexの最初期(1番と3番)のルイ・スクラヴィス参加作品。
六本木WAVEでこのオシャレな装丁に引っかかったからこそ、今がある。
おかげでARFIを知らないのに、トラッド方面からスクラヴィスをとらえられたし。
後から考えると、これって奇跡的な大正解。
  


Michel Doneda / Terra (Nato)
上掲のSilex作品を正しくとらえられたのは、本作が先にあったからかも。

トラッドとの出会い〜奈落への転落 Encounter with Trad Music − Downfall to the Depth

  1. 2011/07/16(土) 14:53:09|
  2. ディスク・レヴュー|
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 月光茶房店主の原田さんが、渋谷にあった伝説的なロック喫茶「ブラックホーク」におけるトラッドとの出会いを、ご自身のブログで書かれている。貴重な資料も掲載されたリポートを読みながら、「ブラックホークでトラッドと初めて出会った自分」を想像してみたりするが、私自身は実のところブラックホークの名を知るのみで、一度も行ったことがない。そうした「人生の曲がり角」をみんな幾つか持っていて、曲がったり通り過ぎたり、すれ違ったり行き止まったりしながら、いまここに至っているのだろう。

 というわけで、今回は私のトラッド遍歴、特にその入口部分についてお話ししてみたい。


 LPを買い始めた頃は、簡単な記録をつけていたので、初めて手に入れたトラッドのレコードが何だったか調べがつく。ノートをひっくり返すと、1980年6月にペンタングル「クルーエル・シスター」(日本コロンビア)を大学の生協で買ったのが最初らしい。ディスク・レヴュー論の中で、「フールズ・メイト」を初めて読んだのが12号のファンタジー特集だったと書いたが、「ロック・アポカリプス」特集と題して、RIOやディス・ヒートを採りあげた続く13号には、英国トランスアトランティック・レーベルの紹介記事も掲載されていた。ペンタングルの存在を知ったのは、おそらく山岸伸一氏が執筆した(氏は「クルーエル・シスター」のライナーも書いている)、この記事でではないだろうか。この辺の幅広さが雑誌のありがたいところだ。さらに編集長北村昌士は同号の国内盤レヴューの1枚としてペンタングル「クルーエル・シスター」を採りあげ、「イギリスのトラディショナルを題材とした最高の音楽を演奏するこのグループの魅力の全てが、この作品の中に収められている」と記している。「そーかあ。これは聴くっきゃないかー」とトラッド初心者は思ったわけです。

 次に購入したのがOssian / Ossian,Ossian / St. Kilda's Weddingの2枚(6月24日・新宿レコード)。気品豊かなスコティッシュ・トラッドを奏するオシアンを知る方は、ペンタングルからの飛躍(マイナー度の極端なアップ)に驚かれることだろう。ロック・ダイヴィング・マガジン編「ラビリンス/英国フォーク・ロックの迷宮」で言えば、ラビリンス2からラビリンス7への三段(五段か?)跳び。種を明かせば、バック・ナンバーで手に入れた「フールズ・メイト」10号のディスク・レヴューで、広川裕氏が前者を次のように絶賛されていたからにほかならない。
 「1977年に発表された、オシアンのデヴュー作にあたるこの作品集は本当に素晴しい。とにかく、トラッドに少しでも興味を抱いている人、もしくはトラッドを聞き始めて間がなく、まだこのバンドを知らずにいる人達、さらに望むべくは、音楽を愛する良識ある人達、全てに聞いていただきたいアルバムだ。アルバム全体に溢れている、その深みのある暖かな歌と演奏は、音楽が本質的に持つ感動そのものの表現に他ならない。」
 どーです。こりゃあ聴くしかない!って気になるでしょ。それと私の場合、由良君美先生のウィリアム・ブレイク講義で、英国ロマン派の源泉たる「オシアン」(ジェームズ・マクファーソンがスコットランド・ゲール語による古資料から英語に訳したと称した詩集)について聞いていたことも大きかったかもしれない。まさにこの記事は自分に向けて書かれたような気がしたものだ。ちなみに同レヴューの最後の部分には、「この新進バンドや、同じく最近頭角を表してきた「クレナド=Clannad」など、個性的で魅力的なバンドが続いて現れ‥」と書かれており、私の記憶にはOssianと並んでClannadの名が刷り込まれたのだった。

 しかし、現時点から冷静に振り返ると、大学生協のペンタングルから「ユーロ・ロックの人外魔境」新宿レコードのオシアンへというのは、やはり飛躍がすごい、すごすぎる。三段跳びどころか、いきなり崖の上から滝壷にダイヴするくらいの落差がある。それにしても誰か止めるヤツはいなかったのか。

 これに続くのが、マリコルヌ・ショック。Malicorne / Almanachを下北沢エジソンで6月27日に購入している(中古)。見開きジャケットにリーフレットが挿み込まれた豪華な装丁に魅せられたことも大きかったろう。彼らの作品の中では、むしろ鄙びた感じを与える1枚だが、それでも甲高く鼻にかかった独特の硬質な発声、中世音楽の薫り高い立体的なコーラス・ワーク、倍音をぶつけあわせるような切り立ったアンサンブルには、ガツンと頭を殴られるような衝撃を受けた。このショックは9月にディスク・ユニオン御茶ノ水3号店 で手に入れた簡素なジャケットのライヴ盤 Malicorne / En Publicでさらに増幅される。エレクトリック・ベースのヘヴィなうねりに、ヴィエル・ア・ルーの倍音が渦を巻き、つるはしで掘り出したばかりの岩塩のように荒々しく尖った演奏と鋭利に張り詰めた声がぶつかりあう。
 この頃には、小学生の頃から通っていた文京区立小石川図書館所蔵のレコード・コレクションにももう手を着けていたはずだが、これと似た音は、これまでどこでも聴いたことはなかった。まさに異世界のサウンド。そうしたこともあって、7月に手に入れたフェアポート・コンヴェンションの代表作2枚、「フル・ハウス」と「リージ&リーフ」(共に英国盤。後者は中古)にはあまりピンと来ず、その後すぐ手放してしまうことになる。

 その背景には幾つかのことがあるように思う。冒頭にご紹介したブログ記事で原田さんは、トラッドが好きになった理由をフォーク・ダンスの思い出に結び付けているが、同じことは私の場合にもあったかもしれない。しかし正反対のかたちで。
 私がフォーク・ダンスを踊らされたのは小学生の頃だったが、嫌いだったことしか覚えていない(ちなみに中高は男子校のためフォーク・ダンスなし)。どうやら、この「忌まわしい記憶」は、「アコーディオンが刻むダンス・チューンが嫌い」という症状に姿を変えて現在に至っており、ジグとかリールとかはどうも好きになれない(なのでアルビオン・カントリー・バンドとかぜんぜん駄目。ボシー・バンドぐらいまで行くとまた話は別なのだが)。オシアンの奏でる叙情馥郁たるスロー・エアーに魅せられる由縁である。
 もうひとつは中世音楽への好みがあるだろう。もともとポリフォニーは好きだったのだが、それに加えて前述の小石川図書館から借り出して聴いた「スペイン古楽集成」シリーズ(原盤は西イスパヴォックス)の、簡素にして滋味豊かな味わいと、遠くで小鳥の声が聞こえる不思議な響きに魅惑されてしまったのだ。特に第1集のアルフォンソ賢王によるカンティガは繰り返し聴いたように思う。ここで聴くことのできる旋律は、その後に中世音楽やそれを題材としたトラッド・フォーク系の作品を渉猟する中で何度も懐かしく出会うこととなり、まるでデジャヴのように私を導いてくれた。と同時に、世俗音楽としての古楽へと道を開いてくれることにもなった。ゴシック聖堂に響き渡る荘厳な合唱ではなく、鼻が詰まったようなクルムホルンやノイジーなさわりを豊かに含んだ打楽器類が鳴り渡るけたたましいドンチャン騒ぎの魅力。The Boston Camerata / A Medieval Christmas (Nonsuch) とか、長岡鉄男が優秀録音として紹介したJoculatores Upsaliensesなど。当時は中世音楽のLPを買うのに、クルムホルンが入っているかどうかで判断していた記憶がある。さらには、これはまあ今から思えばだが、構造計算を駆使した建築物にも似たバッハ的な構築(それはきっぱりとした自己完結性を有している)とは明らかに異なる、響きやにじみにより輪郭を曖昧にした空間親和的な組み立て(それはまた空間に溶け出したり、侵食されたりすることでもあるのだが)に触れ、それを楽しんでいたということでもあるのだろう。



Pentangle / Cruel Sister


ペンタングルの演奏風景
この写真はいいですね。youtube等で動画もどうぞ。



Ossian / Ossian
気品あるたおやかさ、典雅さが際立つ1枚。



Malicorne / Almanach (Hexagone)


Malicorne / En Public (Hexagone)
これはCDのジャケット。
LPは右下隅がめくれているのだが、
写真が見つからず残念。



スペイン古楽集成第1集
アルフォンソ賢王のカンティガ



Boston Camerata / A Medieval Christmas



Joculatores Upsalienses /
Skogen, Flickan och Flaskan (BIS)
森、女、酒というすごいタイトル。

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