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複数の視点から from multiple viewpoints

  1. 2011/03/22(火) 22:42:36|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 3月20日に綜合藝術茶房喫茶茶会記で行われた「Tactile Sounds vol.1」について私が書いたレヴューが、当日の記録として「Tactile Sounds」のブログに転載されることとなった。あわせて多田雅範によるレヴューも転載されているので、ぜひ次のURLでご覧いただきたい。企画者のひとりである益子博之撮影のライヴ・フォトも掲載されているので、私のブログで見るよりも、当日の様子がさらにわかりやすいと思う。

 http://com-post.jp/index.php?catid=2&subcatid=53

 こちらは転載されていないが、当日のライヴの様子については、喫茶茶会記店主による文言(http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=42168)もあれば、ウッドベーシストの「たけっち」さんによる感想(http://blog.livedoor.jp/bamboobass/archives/1576118.html)もある。読めば、それぞれがそれぞれに充実したひとときを過ごしたことがわかるが、その感じ方/とらえ方は、当然のことながら異なっている。「ブログに書く」となると、無意識のうちに読者の眼を意識してしまったりもするので、どうしてもある枠がはまってくるのだが、それでも自ずと視点の違いが浮かんでくる。 ましてや、その間に各人が実際に何を見て、何を聴き、何を思ったかは、さらに千差万別異なっていることだろう。

 そうした差異を都合よく抹消して、「同じ感動を分かち合った」などとは言いたくない。リヴィング・ルーム程度の部屋に居合わせても、それぞれ感じ方が違うことにむしろ意義を見出したい。それは個性とか、解釈とか、どちらが正しいとかいう問題ではなくて、そうした複数の視点からはじめて浮かび上がること、そうした複数の視点からしかとらえ得ないことがあると改めて確認したいだけなのだ。

 幸いにも、ここに採りあげた4人は、クラシック・コンサートの演奏会評によくあるように、演奏者の経歴(文化的出自を含む)とか、これまでの評価とかに、自らの評を着地させようとはしていない。それぞれが、そうした権威的な根拠を持たない自分なりの言葉で、充実したひとときを与えてくれた音/響き/空間に礼を返そうとしている。ここで連ねられた言葉の匂いや手触りには、それぞれが当日体験した音/響き/空間の色合いや温度、肌触りや香りが確かに映り込んでいる(もちろん一部に過ぎないのだが)。それを照らし合わせ、透かし見ることによって、そうした音/響き/空間が一体となった当日のあり様がホログラムのように浮かび上がりはしないだろうか。とりわけ、幸運にも当日そこに居合わせた者にとっては、これらの言葉と自分の記憶とが干渉しあい、より豊かな文様を多面的に描き出すことだろう。



ライヴ開始前のがらんとした空間。
しかし、もうそこには淡い響きがたゆたっている。

(C) hiroyuki masuko

「カフェの空間」の潜在的可能性 potentiality of “cafe” spaces

  1. 2011/03/21(月) 22:16:08|
  2. その他|
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 綜合藝術茶房喫茶茶会記におけるライヴ・シリーズ「Tactile Sounds」の企画意図について、企画者のひとりである益子博之はこう書いている。


 「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。


 実際にライヴ演奏が行われる空間を、そしてその場における演奏を体験して、改めて思い当たるのは、この中の「触れられるような距離で」というフレーズだ。ライヴ・レヴューで述べたように、演奏空間は広めのリヴィング・ルーム程度のもので、聴衆は生活感覚を携えたまま音楽と出会うことができる。「演奏者たちが聴き手の居場所を訪ねてくる」感覚がそこにはある。客電が落とされず、演奏者と聴き手が明暗で分断されないことも重要だ。聴き手は暗闇の中に潜むのではなく、身体像をさらしながら音と触れ合う。窃視者のように眼と耳だけの存在と化してしまうのではない。また、演奏空間と聴取の空間がひとつながりであることにより、演奏は手の届かない向こう側にある「像」として対象化されることがない。それは単に親密さを生むだけでなく、ともすれば意識しないうちに視覚に譲り渡されてしまいがちな「聴くこと」を、空間の手触りや響きの肌触りとともに、しっかりと身体に引きつけてとらえることができる。ライヴに行くことを、よく「○○を見に行く」というが、それは今回の体験にふさわしくない表現だ。まさに「演奏に触れに行く」と言うべきだろう。

 「ライヴハウス」という制度がいつ頃、どのように成立したのかは知らない。しかし、劇場モデルが先にあったことは想像に難くない。日常世界から切り離された「ハレ」の時間のための異空間として、それはつくられていったのだろう。「ライヴハウス」が「小屋」とか「ハコ」と呼ばれるのは、そうした日常からの切断を前提とした完結した空間であることを物語っていよう。もちろん、ドラムの導入や電気増幅により音量が増大したことも、ライヴ演奏がそうした孤立した空間に封じ込められることになった社会学的な(?)要因ではあるだろう。

 最近またライヴ演奏を聴くようになって驚くのは、聴衆における関係者比率の高さだ。企画者あるいは出演者の友人知人か、ライヴハウス(あるいはクラブ)自体の常連か、いずれにしてもそうでないのは私だけではないかと感じたのも一度や二度ではない。おそらくはクラブ・ミュージックの習慣が、ジャンルとしては異なる種類の音楽へとあふれ出しているのだろう。明らかに「演奏を聴く」より前に「友達に会いに行く」感覚がそこにはあり、そのための理由として音楽があるという印象。だから、自分の出番でない出演者が、他の出演者の演奏中、仲間とずっと私語しているのも当然なんだろう。だって音楽は付け足しの理由に過ぎないのだから。これがギャラリーでの個展なら、壁に掛けられた作品を前にして、それとは何の関係もない業界のゴシップを延々と垂れ流していても誰も困らない。むしろそれがパーティの流儀ですらあるかもしれない。しかし、ライヴハウスに、場違いにも演奏を聴きに出かけた部外者(私のことだが)は困ることになる。

 ミシェル・フーコーは具体的なエテロトピー(混在郷=ヘテロトピア)空間のひとつとして、劇場を挙げている。権力による制度的な分割を超えて、異質なもの同士が出会う場所として。そうした劇場の流れを汲むはずのライヴハウスは、いま果たして、そうした異質なもの同士が出会う場となり得ているだろうか。

 より日常的な「カフェの空間」に可能性を感じるのは、そうした異種混交性においてである。文化的亡命者たちが集ったロマーニッシェス・カフェやキャバレー・ヴォルテールを引き合いに出すまでもなく、カフェは都市空間におけるアジールを形成するが、それは必ずしも「悪場所」的な周縁的空間とは限らない。むしろ、日常の生活空間のすぐ隣に、その延長として開けている異空間なのだ。そこにこそ出会いの、あるいは「誤配」の可能性は開けている。
 インターネット空間の検索が、何でも即座に調べられるようでいて、雑誌の拾い読み等と異なり、「目当てのものしか取ってこない」ことにより、広がりを欠くことがようやく問題とされるようになってきている。カフェの空間でたまたま異質のものと出会う、隣り合わせる体験は、これからますます重要なものとなっていくだろう。



在りし日のRomanisches Cafe

聴取における「触覚」の次元について  sense of touch on listening

  1. 2011/03/21(月) 16:21:49|
  2. 音楽情報|
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 前稿でレヴューした橋爪たちの演奏は、コンポジションを採りあげたこともあって、作曲/曲想に対して「透明」であることを目指していた。個々の音の手触りや質感/温度感よりも、それらが紡ぎ出す旋律や、それらが絡み合いながら織り成す作品世界の成立の方が重要であり、聴き手に音や響きよりも「作品」を届ける演奏と言えるだろう。そこには過剰さやマテリアルの露出はない。実際、マテリアルな手触りが多少なりとも感じられたのは、コントラバスのアルコの軋みとテナー・サックスのざらつき成分くらいであり、特にギターは物質的な手触りを、極端なまでに響きから排除していた。彼はヴォリューム・ペダルを用いていたが、物質的な手触りが生じるほどサステインを効かせることはなかった(ビル・フリゼールがサステインの長い尾を揺らめかせて、当初「コンニャク・ギター」と呼ばれたのと比較してみること)。

 聴取において「触覚」が働く要因のひとつとして、こうした物質感の露呈があるだろう。たとえばページ上の文字が、文章の意味の運び手であることをやめて、黒々とした線の集積として独自の手触りや重さ、質感等を持ちはじめる様を想像してみること。しかし、通常の楽曲演奏では、それはノイズとして排除され、メディウムのあるべき「透明性」が保たれる。たとえばアコースティック・ギターの演奏における指板上の軋みや楽器各部の部分的な共鳴/共振がそうだ。だが、フリー・インプロヴィゼーションにおいては、デレク・ベイリーの演奏に顕著なように、むしろ音が帰属すべき文脈を切断することにより、個々の音を路頭に迷わせ、その手触りや質感、かたちや色、匂いや温度の違いにスポットを当てる。これにより個々の音は透明なメディウムであることをやめ、それぞれに異なる雑多なマテリアルの集積、つまりは「音響」として析出してくる。その時、「文脈」という頼るべき枠組みを失った聴覚は、自分だけでは「音響」を受け止めることができず、それがより下位の感覚である「触覚」の方へあふれ出していくのではないだろうか。

 もちろん、より端的に「触覚」を震わせる音がある。物の表面をこする音がそうだ。水滴の落ちる音から渓流のせせらぎ、波しぶきが砕け散る轟音に至るまでの水音のヴァリエーションも、この部類に属すると言えよう。そうした響きが、物の表面をこする/撫でる/触れるという動作をただちに連想させ、「触覚」を作動させるのだろう。しかし、その一方で、そうした音の生じる原因となる運動、たとえば物の表面を「演奏者」がこする動作や、水が滴り流れ落ちる様の視覚イメージが与えられたとたん、聴取に伴い「触覚」が揺さぶられる際の、何とも言い表し難い「ざわめき」が、すっと消えてしまうように感じられるのは、私だけだろうか。音の生じる原因が示されることで、因果関係の文脈が形成され、物音のマテリアルな過剰さは去勢され、音は「透明」なメディウムに立ち返る。

 何も「共通感覚」の基底に「触覚」を位置づけるという、アリストテレス〜スコラ哲学の蒸し返しをしたいわけではない。しかし、にもかかわらず、視覚や聴覚においてとらえきれない過剰さが、「触覚」へとあふれ出していることは疑い得ないように思われる。というより、それはたぶん手指において極度に発達したような狭義の触覚ではなく、むしろ「内臓感覚」とでも呼ぶべきものに近いのだろう。視覚や聴覚が知覚へと送り込めない過剰さ、ロウなマテリアル感覚が、身体において「触覚的なもの」と受け止められているのではないだろうか。「文脈」という「時間的なもの」の切断が「空間化」ととらえられるのも、これに似ている(ただし、ここで言う「空間化」は次節で触れるように、視覚的なパースペクティヴへの配置とはまったく異なることに注意)。

 ジル・オーブリー(Gilles Aubry)が彼の言う「間接的聴取」の哲学/方法論に基づいて作成した作品を聴くと、あえて室内で録音された交通騒音や雑踏のざわめきといった都市の環境音が、視覚的なパースペクティヴを結び得ず、輪郭を曖昧にし、互いに融合分離しながらもうもうと立ち込める様に圧倒される。2010年ベスト30のレヴューでも述べたが、視覚的対象と強く結びついた音から視覚的パースペクティヴ(とは強固な「文脈」にほかならない)を剥奪することが、こんなにも聴き手を無防備に音と向かい合わせることになるとは思わなかった。これらの音を耳にする時には、もうすでに身体はそれらの音に刺し貫かれ、浸され、ずぶずぶと澱みの底に沈められていってしまう。ふだん音を聴いている時に、当の聴き手はまったく意識することなく、いかに身体が聴くことに対する構えを敷いているか、改めて気づかされる。

 このように考えていくと、一聴した際の質感はまったく異なるのだが、文脈の剥奪によって音のマテリアルな強度をそのまま聴き手にぶつける点で、ジル・オーブリーとデレク・ベイリーを並べてみることが可能なのではないかと思う。昨年のレクチャー「耳の枠はずし」ではデレク・ベイリーから「音響」以降の即興演奏に至る線と、ミッシェル・ドネダたちが追い求める野性のカコフォニーの線を結び合わせ、その延長線上に(むしろ「原点に」というべきか)アトス山の典礼の録音に聴くことのできる音のヘテロトピアを位置づけてみせた。対して「アンビエント・リサーチ」第3回にゲスト参加した際には、フランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)や「ソラリス」に言及することにより、これをアンビエント・ミュージックやフィールドレコーディングの側からとらえ返してみせた。
 ジル・オーブリーやジェフ・ジャーマン(Jeph Jerman)の作品を手がかりに、実際の聴取を通じて、先のふたつの思考をさらに発展させられないだろうか。これは「耳の枠はずし」第2期のテーマとなるかもしれない。いずれにしても、今後の宿題とさせていただくとしよう。



Jeph Jermanの近作。
物音のマテリアルな粒立ちが肌に触れてくる。

音のうぶ毛、響きの肌触り Tactile Sounds vol.1@SAKAIKI, Yotsuya 20th Mar,2011

  1. 2011/03/21(月) 14:31:20|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 昨日ご案内したTactile Sounds vol.1を聴きに行った。ヴィンテージ・オーディオに飾られた隠れ家風という喫茶茶会記にも行ってみたかったし。
 結論から言えば、優れたコンポジションを優れた演奏により、居心地の良い空間で、響きに触れるように聴くことができた。その点で上出来のライヴと言ってよいだろう。特に橋爪によるコンポジションは、日本音階とか、オールディーズの引用といった記号操作に頼らずに、アドレッセントな叙情を鮮やかに(しかもすらりとさりげなく)描き出す点で、「日本のジャズ作品として優れている」という次元ではなく、普遍的な価値を有していると思う。NHK-BSあたりの質の高いドラマ作品のエンド・ロールで流れて、それを耳にし打たれた視聴者が音楽担当者のクレジットに注目すると、そこに彼の名前がある‥‥というようなことが、いますぐに起きても何の不思議もあるまい。
 今回の演奏に限って言えば、「触覚」というコンセプトをあまり重くとらえる必要はないのではないか。むしろそこに耳の焦点を当ててしまうと、かえっていま眼前で演奏されている音楽を取り逃がしてしまうように思う


 四谷三丁目の交差点から少し歩いて、児童遊園の角を曲がり、専門学校と敷地続きの、学生寮なのか、ちょっと不思議な構造をした白い建物を横目に見ながら通り過ぎると、私道の入り口に立てられた喫茶茶会記の小さな案内が眼に止まる。その奥に喫茶店やカフェらしき店は見当たらないが、恐る恐る進むとそれらしきドアがある。ドアを開けると、どこか遠く離れた別の場所につながっているように、カフェのカウンターを含むウッディな空間が姿を現す。なるほど「隠れ家」とはよく言ったものだ。確かにここなら通りがかりの客はまず入ってこないだろう。このラウンジ的なスペースには、Goodman Axiom150のアンティーク家具のような風合いの大きな箱とB&W805Signatureの近未来的な高精度のシルエットが並び、ドアの向こうのライヴ・スペースからは巨大なアルテックのヴィンテージ・スピーカーが、しっとりとしたジャズを陽だまりのような暖かい音で流している。

 長方形のライヴ・スペースは、木貼りの床の中央に大きなアンティーク・テーブルがあって、さながら広めのリヴィングのようだ。まぶしさのない抑え目の照明。演奏時も客電がすべて落とされることはない(少し光量が絞られるけれど)。あまり高くない天井や表面を丁寧に仕上げたコンクリートの壁も、15人程度の聴衆が音を吸うので、響きの上で気になることはない。以前に書いたロゴバのショールームとは広さも明るさも異なるけれど、ステージ上だけがライトアップされ、聴衆は窃視者のように暗闇に身を潜めるライヴハウスとは、明らかに異なる空間がここにはある。むしろ、こちらから出かけていくのではなくて、自分たちのいる空間に演奏者たちが訪ねてきてくれる‥‥そんな感じだ。

 演奏はゆったりと始められた。舌の上に落ちた粉雪のようにすぐに溶け、消えうせてしまうエレクトリック・ギターの単音。息の成分を多く含み、遠くを見つめているテナー・サックスの揺らめき(この日の前半、橋爪は椅子に腰掛けたまま楽器を操った)。コントラバスがアルコによる豊かな響きを、空間にしみこませながら、ゆっくりと波紋を広げていく。この場にある空気をかき乱すことなく、透明水彩のようににじみ広がりながら溶け合う響き。ゆったりとした呼吸/時間/眼差し。
 たとえリズミックな局面があっても、それは時間/空間を切り刻みはしない。かき混ぜるだけ。ちょうどムビラ(親指ピアノ)の繰り返しを楽しむように。

 「The Color of Silence」とECM風のタイトルを付けられた3曲目は、疑いなく、この日のハイライトのひとつだったろう。ギターが音をくゆらせる深々とした広がりの中に、テナーによるテーマがコントラバスのアルコを伴って現れ、緩やかに解けていく。すうっと溶けて消えうせてしまうギターの響き(あまりの口溶けのよさに、名残惜しくて、思わず耳が後を追いかけてしまう)とテナーの鳴りと息が擦れ合うミクロなざらつきの対比が、昼間の空にかかる月のように、淡くおぼろに崩れてしまいそうな音世界の輪郭を、かろうじてつなぎ留めている。

 橋爪が立って演奏した後半は、こうした薄明の移ろいやすさはやや退いて、響きはよりはっきりとした輪郭を持った実体感のあるものとなった。それでも弓弾きされたコントラバスがつくりだす水面を浮き沈みするギターや、サックスの引き延ばされたロング・トーンが生み出す水彩的な「にじみ感」は共通している。演奏は押し立てるような推進力を排し、漂うような、足元から満ちてくるようなあえかさを一貫して信条としていた。

 この日の彼らの演奏の「触覚的」な面を指摘するなら、楽器の音を部屋の空気にしみこませ溶け合わせる響きのあり方だろう。音は何もない真空を飛んでくるのではなく、クロマトグラフィのように、空気にしみこみながら耳元へと届けられる。ここで音はステージ上に焦点を持たない。それゆえ聴衆の耳がとらえた音は、演奏者の身体像や運動イメージに還元されない。同じことが、もしかすると演奏者にも起こっていたのではないだろうか。通常のライヴハウスにおける、「客席に向ってサウンドを放射する」音の出し方を離れ、互いの音が同心円状に広がり、部屋の空気にしみこみながら溶け合うのを見たならば、互いの演奏の関係は、触れ合う肌のうぶ毛を感じあうものとなるだろう。それはまた演奏者自身にとっても稀有なことなのではないか。リズムや「ノリ」で構築するアンサンブルでは、そうした「うぶ毛」は擦り切れてしまうだろうから。

 この日の彼らの演奏は素晴らしいものだったが、聴取における「触覚」の次元の茫漠とした広がりの、ほんの片隅を掠めただけであることも指摘しておきたい(これについては思ったより長くなりそうなので別稿で述べることとした)。
 もうひとつ触れておきたいのは、「ライヴハウス」というライヴ演奏聴取に特化した空間から、もっと聴き手の日常の方へ歩み寄っていくライヴ演奏のあり方についてなのだが、これも今回の企画意図に賛同する旨だけを述べて、別稿に譲ることとしよう。

 2011年3月20日(日) 15:00〜
 橋爪亮督(ts,ss) 市野元彦(el-g) 吉野弘志(b)
 於:綜合藝術茶房 喫茶茶会記



英国の老舗オーディオ・ブランド
Goodman のAxiom 150。
口径30cmのフルレンジ。
右端にちらりと見えるB&W805Signatureと
同時に駆動しているとのこと。

触覚の音   Tactile Sounds

  1. 2011/03/19(土) 21:40:05|
  2. ライヴ/イヴェント告知|
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 明日、3月20日(日)午後3時から、注目すべきライヴが行われる。サックス奏者/作曲家である橋爪亮督(はしづめ・りょうすけ)とNYダウンタウンの先鋭にスポットを当てて音楽批評を進める益子博之(ますこ・ひろゆき)の2人が企画する「Tactile Sounds」の第1回目である。



Tactile Sounds Vol. 01:3月20日(日)
Vol.01 :3月20日 (日) open 14:30/start 15:00

橋爪亮督 - tenor & soprano saxophones
市野元彦 - guitar
吉野弘志 - double bass

■会場
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
東京都新宿区大京町2-4 1F 〒160-0015
http://sakaiki.modalbeats.com/

■料金  ¥2,800(1ドリンク付き)

■予約・お問い合わせ
綜合藝術茶房 喫茶茶会記
mail:sakaiki@modalbeats.com(標題をtactile sounds vol.01としてください)
tel:03-3351-7904(15:00〜23:00)
※なお、会場の都合でご予約は先着30名様で締め切らせていただきます。



 以下はフライヤー裏面(左)に記載された益子博之による前口上のテキスト。


音は、空気の振動です。
本来、音楽は身体全体の肌で感じることができるものだったはずです。
ところが、iPod等のヘッドフォンを通じて聴く音楽は、 残念ながら小さな耳穴の中だけに閉じこめられてしまっているのです。
たった今、そこで生まれたばかりの生きている音を、肌で感じたい、感じて欲しい。

tactile sounds 〜触れ・逢う・響き〜

「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......
触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。

耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、 皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。
音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。
「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。



 橋爪亮督の演奏については、以前から彼に注目していた多田雅範のレヴューをJazz Tokyoに連載のコラム「タガララジオ」第17回から引用しよう(http://www.jazztokyo.com/column/tagara/tagara-17.html)。


Jugo-ya Moon on 15th Night (Ryosuke Hashizume) / Ryosuke Hashizume Quartet Live at Pit Inn on September 26th, 2010

記念すべき100曲目に偶然入手することができた橋爪亮督グループの9月26日新宿ピットインでのライブ音源の。

橋爪亮督 (ts,ss,loops)
市野元彦 (el-g, electronics)
吉野弘志 (b)
橋本学 (ds,per)

「十五夜」と題されたトラック。

ベースのつまびきに続いてカチャ、カチャと金属音、この打音の空間が支配するしじまの交感に彼らは揺れるトーンで漂い、じきに時間が静止する。
響きの断片だけが置かれる。そこでは梵鐘が鳴っているようだし、遠く山の向こうからの空気が振動してくるようだし。密教寺の儀式とも東大寺の修二会とも地続きだ。

14分38秒。

橋爪亮督のサックスが世界標準化したことは認知していた。トリスターノ学究を経てポスト・マーク・ターナーへ至る歴史的必然をまとった独特なトーンは、おれはそのままニューヨークに行ってターナーとツインでポール・モチアンとヴィレッジヴァンガードに立つものだと思っていたが、この現代ャズ不毛の日本において、これまた市野元彦というポスト・ビル・フリーゼルを世界標準でになう天才、天才は天才は知るのである、さっき荻窪ベルベットサンで市野元彦・渋谷毅・外山明トリオを聴いて激しく納得したが、と、橋爪はすごいグループ表現を拓いていた。

ニューヨークにしかないと思っていた現代ジャズが、日本人の歴史的な感性の現代化とのアダプトを果たせるなどと誰が想像できただろう。そう、まさに「侘び寂び」の世界だ。十数年前、橋爪はガルバレクが好きだと言っていた。おれはもうガルバレクの壮大な歩みは見届けたような気分でいるけど、それにしても橋爪亮督はすごいところまで来てしまったものだ。



 一方、 益子博之の耳と眼差しがどこに向けられているかについては、musicircusに掲載した「2010年に聴いた10枚」が雄弁に語ってくれることだろう。参考にリストを以下に転記しておく。http://homepage3.nifty.com/musicircus/main/2010_10/でジャケット写真とレヴューを見ることができる。

1.Chris Lightcap's Bigmouth : Deluxe
2.Gerald Cleaver Uncle June : Be It As I See It
3.Ches Smith and These Arches : Finally out of My Hands
4.Dan Weiss Trio : Timshel
5.Rob Garcia 4 : Perennial
6.Jacob Anderskov : Agnostic Revelations
7.Benoit Delbecq Trio : The Sixth Jump
8.Hugo Carvalhais : Nebulosa
9.Ben Monder / Bill McHenry : Bloom
10.Michael Pisaro : A Wave and Waves

 NYダウンタウンの趨勢にフォーカスしながら、Benoit Delbecqやエレクトロ・アコースティック系の演奏への目配りも欠かさず、Michael Pisaroもちゃんと押さえているあたり、彼の耳の幅広い指向性と柔軟さ、そして対象を射通す視線の強度を感じ取ることができる。彼が音に感じている「触覚」と私の言う「触覚」とは、おそらく異なっているのだが、そのこと自体が「触覚」の持つ原初的な茫漠とした厚みやとらえとせころのない幅広さ、多面性を表しているだろう。



 ライヴについて詳細は以下のURLをご参照いただきたい。演奏者のプロフィールなどのほか、今回の悪条件の下にライヴを敢行する彼らの想いを伝えるメッセージも読むことができる。
 http://tactilesounds.dtiblog.com/

 

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