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ディスク・レヴュー 2013年6〜10月 その1  Disk Review June - October 2013 vol.1

  1. 2013/11/16(土) 16:43:50|
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 すみません。長らくお待たせいたしました。新譜ディスク・レヴュー再開第1回は、器楽的インプロヴィゼーションからの7枚。もっとも「器楽的」と言いながら、ほとんどの作品がエレクトロ・アコースティックな領域へと大胆に踏み込んでいて、その「侵犯の力学」ゆえに、より深みへと達している観もあります。いずれにせよ、前回同様5か月分からの選りに選った7枚なので、作品のレヴェルの高さは保証します。それではどうぞ。

【重要なお知らせ】
 DTIのブログ事業からの撤退により、12月17日以降、このブログ「耳の枠はずし」は消滅してしまいます。現在、過去記事を含めた引っ越しを検討中です。移転先が決まり次第、このブログ上にてご連絡を差し上げるようにいたします。よろしくお願いします。



John Butcher, Thomas Lehn, John Tilbury / Exta
Fataka Fataka 7
John Butcher(saxophones), Thomas Lehn(synthesizers), John Tilbury(piano)
試聴:https://soundcloud.com/fataka/exta
 さまざまな様相で現れる「間」を生きること。一目でサキソフォン、あるいはピアノとわかる楽器音。痛いほどに手触りを触発して止まない物音。空間が凝るように析出しまた空間へと溶解していく電子音の持続。思わずそばだてられる耳に、ざらざら/ぶつぶつと顕微鏡的に拡大された肌理をさらし、視界いっぱいに投影される亀裂や断層に満ちた音の表面。希薄にたちのぼってあたりを満たし、揺すぶられて濃淡の波紋を描く倍音。沈黙に沁み込みながらクロマトグラフィックに色合いを変え、交錯し混じり合う響き。プリペアドや特殊タンギングによって楽器音の領域を踏み外し、深淵へとこぼれ落ちていく音の群れ。合わせ鏡のように、それらの間に走る無数の線が、それらを区分けすることの無意味さを明らかにしている。ほとんどシュルレアリスティックな仕方で眼前と彼方が結びつけられ、遠近はまるで霜降り肉のように複雑に入り組み、パースペクティヴ性はその機能の停止を余儀なくされる。「図」と「地」の区分は消滅し、空間と響きがひとつになって、「音響」としか呼びようのないものが生々しく露呈する。「ここ」と「あそこ」としか名指しようのない地点で起こる「出来事」の間に、緊密な照応の線が走り、それらが蜘蛛の巣のように縦横に張り巡らされていることに気づいてしまえば、世界の生成/運動の原理があからさまに剥き出しにされている感覚に、ひとり恐れおののくよりほかにない。ここで演奏は、カヴァーに掲げられる臓物写真のように、ぎらつく脂肪のぬめりや鼻をつく粘膜の臭気を、薄暗いモノクロームな静寂の底に沈ませ、耳の視線から覆い隠している。本作の一望を拒み要約に抗う「掴みにくさ/言い表し難さ」が、ディスク・レヴュー執筆を長期に渡り停滞させていたことを白状しよう。傑作。


Lol Coxhill & Michel Doneda / Sitting on Your Stairs
Emanem 5028
Lol Coxhill(soprano saxophone), Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://subradar.no/album/lol-coxhill-michel-doneda/sitting-your-stairs
 2012年7月10日に死去したLol Coxhill(※)の生前最後の録音(2012年2月3日)は、Les Instants ChaviresにおけるMichel Donedaとのソプラノ・デュオとなった。基本となる音域をはじめ、楽器が同じであるがゆえに、互いの奏法の選択やヴォイスそれ自体の差異が際立つ。いささか癖のあるにょろにょろとした筆跡で、紙面にすらすらとペンを走らせるCoxhillに対し、Donedaは紙の表面を穿ち、繊維の間へと音の身体を滲ませる。その結果として、このデュオにおける二人の立ち位置は、Coxhillが前面に出てソロを取り、Donedaが先達に敬意を表して一歩退き、バッキングに回ってこれを支えているように見えるかもしれない。だがそれは見かけ上のことに過ぎない。Donedaは一見「地」と見える部分を泡立たせ揺り動かし押し流して、演奏の拠って立つ基盤自体に熱く息を吹き込み、そこから地霊のようにたちのぼり、噴出する。そうしたDonedaの肩先越しにCoxhillを眺めれば、ちょうどプールの底から水面でもがく足先を見上げるように、一見飄々と我が道を歩むCoxhillが、この地平の揺らぎ/液状化を鋭敏に察知して、これに懸命の応戦を図る様が看て取れるだろう。実際、演奏が進むにつれ、両者の位相は次第に接近し、ついにはほとんど重なり合い、コンパクトに圧縮された領域で、より緊密かつ流動的にプレーが進められるようになっていく。
※以下の追悼記事を参照。http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-177.html


Mary Lattimore / The Withdrawing Room
Desire Path Recordings PATHWAY006
Mary Lattimore(harp,looper), Jeff Zeigler(korg mono/poly only on tr.1)
試聴:http://www.desirepathrecordings.com/releases/mary-lattimore-the-withdrawing-room/
 本作のジャケットを飾る窓からの眺めは、いかにも素人臭い素朴派風の筆触にもかかわらず、静物画とも風景画ともつかず、窓辺に並べられた不可思議なオブジェ群を眺めるうちに、線がはらはらと散り落ち、色彩が風に吹かれて剥がれ、次第に何物ともつかぬ茫漠たる広がりへと変貌を遂げていく。
 典雅なハープの爪弾きの足下でとぐろを巻き腐敗していく獣のうなりや反復する機械の動作音。鬱蒼と暗く深い森に潜み、うごめき、鳴き交わすものたち(それらの響きには窓の外から聞こえてくるような違和感がある)。やがて視界は闇に沈み、ハープの音色は微かな瞬きへと遠のいて、流動質の不定形な広がりに覆われていく。だが、月が傾き、それらの暗い雲が薄らぐと、オルゴールにも似たつぶやきがぼんやりと浮かび上がり、前景と後景がゆっくりと交替していく。
 あるいは立ち上がる端から水にふやけたセロファンのように、揺らめき、輪郭を震わせ、空間に滲んでいく響き。繰り返しは決して律儀に積み重なることなく、しつけ糸を解かれたごとく形を失い、はらりはらりと散り溶けていく。後には響きだけが残り、文字通り「残響」のたゆたいだけがいつまでも耳の浜辺を洗い続け、やがてきりもみするような空間の蠕動へと至る。
 触覚的な音響の粘土細工と器楽的な展開の間、あるいは素材の提示に続く音響操作と構築のための一連の動作である演奏の間、両者の中間にゆらゆらと漂い、どちらにもたどり着くことのない強靭な意志の在りよう。


Ilia Belorukov / Tomsk,2012 04 20[Live]
Intonema INT005 / Akt-Produkt AP10
Ilia Belorukov(alto saxophon,preparations,recording,mixing,mastering)
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fahALuhgB0Y
 管を鳴らさぬ「息音」と微かな軋みだけによる演奏は昨今の流行というべきものだが、単に流行に乗って繰り広げられるだけの演奏は、奏法の選択の時点で、もうすでにして自分は何事かを達成し得たと思い込んでしまうためか、ただそれだけに終始しがちである。そこにのんべんだらりと横たわっているのは、このところマスコミを賑わしている「食材虚偽表示」と共通する「素材主義」にほかなるまい。そこでは一皿の料理はせいぜい素材と産地の足し算に過ぎない。1987年生まれというから、すでに開発済みの語法として「息音」を学んだであろう彼は、そうした「選択」の段階にとどまってはいない。彼は風景が色彩を失ってモノクロームに凍り付くほどに疾走する速度を追求し、響きは音色も音階も脱ぎ捨てて吹きさらしの「息音」へと至る。あるいはLucio Capeceの如く管を弓弾きする工作機械音にも似た反復に、細く張り詰めた息をしみこませる。時に息は管が張り裂けんばかりに吹き込まれ、けたたましく鳴り響き、迸り駆け巡る。その姿は私に1973年の阿部薫の音を思い出させた。ここには決して手の届かぬ遠い彼方への憧れはなく、代わりに冷ややかに突き放した熱中があるのだが。


河崎純 / biologia
Kamekichi Records kame6-701w
河崎純(contrabass)
試聴:http://www.e-onkyo.com/music/album/kam0034/
 何と充実した響きであることか。甘くしなやかな中低域の弦の震え。糸を引く高音のフラジオ。暗い深淵へと沈み込み、船底をかいくぐって、再び浮かび上がる最低音のアルコ。弦を灼き切り責め苛む激しい繰り返し。ソロ・インプロヴィゼーション特有の、瞬間瞬間に目映く輝き、その都度その都度燃え尽きながら、強度の尾根を伝ううちに運動/速度へと自らを研ぎ澄まし純化していくあり方とはきっぱりと異なり、彼は息を長く保ち、誰よりも遠くまで視線を放ちながら、「作曲的」としか言いようのない射程の長さで音の軌跡をとらえようとする。深くえぐるような弾き込み具合、駒の高さによる豊かな倍音とさわり、プリペアドによるノイジーな散乱、「無伴奏」を掲げながら無造作に導入される呼び子や韓国打楽器‥‥ここには彼の師である斎藤徹との共通点を幾つも指摘することができる。どこか内にこもったつぶやきは独白めいた自らへの語りかけであり、安定した息遣いは「バッハ的」ともいうべき、叙情性を豊かにたたえながらも垂直に切り立った響きを可能としている。そうした響きをごく自然な佇まいのうちにとらえた録音も素晴らしい。


Razen + Razen featuring Andrew Lies / Rope House Temper
Kraak K0079
Brecht Ameel(santur,bombos,bouzouki,keys,bass,lamellophone,bass drum,voice), Kim Delcour(bagpipes,shawm,recorders,voice), Pieter Lenaerts(double bass), Suchet Malhotra(tabla,percussion), Paul Garriau(hurdy gurdy), Andrew Lies(extra instrumentation,mix&edits)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=11939
http://www.art-into-life.com/product/3032
 甲高い笛の音と駆け抜けるタブラによるエスニックなアンサンブルをよそに、低域の律動はぐにゃぐにゃに歪み、背景には電子の影がちらつく。以降も民族音楽基調のアコースティック・アンサンブルと暴力的に歪みぼろぼろに腐食したエレクトロニクスが分ち難く結びつけられ、空間を異様な色合いと不穏にざわめいた手触りに染め上げ、足元をぐらつかせる。本来は広大な空間へと解き放たれ、拡散/希薄化を通じて、波動的な秩序をかたちづくっていくはずの豊穣な倍音が、ここではエレクトロニクスにより強迫的に圧縮/変形され、サウンドの本体を切り刻み変容させるものとなっている。それゆえハーディ・ガーディの喉を掻きむしるような持続音は、その倍音を自らへとフィードバックされ、空間を息苦しく閉ざすとともに、パイプ・オルガンにも似た崇高な響きへと変貌させられている。フィールドレコーディングによる環境音/バックグラウンド・ノイズを用いることなく、楽器と音響操作だけで、これほどまでに空間を埋め尽くし、隅々まで閉塞をみなぎらせた偏執狂ぶりには脱帽せざるを得ない。一見、器楽的な演奏を前面に押し立てながら、彼らの本領はシュルレアリスム的というにはあまりに禍々しく錯綜した、鬱血や糜爛、潰瘍にも似た病理学的結合にある。Andrew Liesの参加ゆえに、それをNWW的と呼べばいいのだろうか。


Bill Orcutt / A History of Every One
Editions Mego eMEGO 173
Bill Orcutt(guitar)
試聴:https://soundcloud.com/editionsmego/bill-orcutt-zip-a-dee-doo-dah
   http://www.youtube.com/watch?v=zgeGyhGUZ-k
 激烈なアタックが弦を急襲する。響きは一瞬のうちに砕け散り弾け飛んで、破片が空間に思い思いの軌跡を描く。その軌跡を辿り、余韻をたどり直して、そこに「ブルース」の色濃い面影を発見することは確かに可能だ。だが、このギター・ホールに鼻先を突っ込むような、極端な近接地点からの聴取による、にわかには全貌をとらえようもない「事故」を、苦労して後から再構成し、結局は「ブルース」の棚にしまい込まねばならぬいわれはない。それよりもむしろ、事件の現場により深く立ち入って、歪んだ弦の震えや引き攣った胴鳴り、思い切りクラッシュした響きの爆発に耳をなぶらせ、身体を刺し貫かれるままにしておこう。その時、Bill Orcuttの姿は、たとえばDerek BaileyとJohn Faheyの間にふと浮上してくることになる。演奏中、ほぼ途切れることなく漏らされ続けるうなり声も、感極まってというより、ふやけたうわ言のように響く。ブチッと無造作に断ち切られる録音もまたここにはふさわしい。

1982 / 奥行きの戦略  1982 / Strategy of Depth

  1. 2013/11/03(日) 22:31:20|
  2. ディスク・レヴュー|
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  4. コメント:0
 先日、立川セプチマにおいて素晴らしいライヴを聴かせてくれた、ノルウェーから来日のトリオ「1982」について、ディスク・レヴューをお届けする。当日、会場で買い求めた中には、ECMからリリースされたNils Oklandのソロ作『Monograph』や彼とSigbjorn Apelandのデュオによる『Hommage A Ole Bull』、あるいはやはりNils Oklandが参加したノルウェー伝承曲集『Abel En Norveg』等もあるのだが、美しさの果てに昇り詰めるようなNils Oklandによるヴァイオリンの響き(あるいはこれに添えられるSigbjorn Apelandの奏でるピアノの滑らかなきらめき)の素晴らしさを認めながらも、三人三様の仕方でクロマトグラフィックに空間に浸透し、空間そのものとなって震え揺らめきながら、同時にカタカタと眼前を横切って空間の奥行きをつくりだす「1982」の確信犯的手口に深く魅了されてしまう。
 というわけで、「1982」の全作品3枚をまとめて紹介したい。



1982 + BJ Cole / 1982 + BJ Cole
Hubro CD2522
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), BJ Cole(pedal steel), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/hubro/01-09-03
   http://www.amazon.com/1982-BJ-Cole/dp/B009LUE93E
 耳の視界を何か茫漠とした影のようなものが覆い横切って、しばらくするうちにそれがBJ Coleの奏でるペダル・スティールの揺らめきだと気づく。ハルモニウムがカタカタと古めかしいメカニズムを軋ませ、ヴァイオリンがゆっくりと旋律を口ずさみ始めると、ペダル・スティールはますますうっすらと希薄化し、エーテルのようにさざめく。山裾を取り巻いていた霧がゆるゆると湧き上がり斜面を昇っていく大きな流れ/揺らめきと、カチカチコトコトと細密な象眼を施すようなミクロな響きが共存し、「図」と「地」が常に緩やかに交替していくのが彼らのサウンドの真骨頂だ。寄せては返し重なり合い移り行く響きの流れと、その手前を横切るちっぽけな物音。それは必ずしも楽器ごとに配分されているわけではない。ヴァイオリンの香り立つ豊かな倍音の広がりとネック上の微かなスクラッチ。空間へと沁み込み空気自体が震えているようにしか感じられないハルモニウムの持続音と鍵盤やペダルのメカニカルなノイズ。ドラムの緩めた打面の響きの深さとブラシに擦られたざわめき。眼の中に音もなく広がる暗がりから次第に熱気を増して、ブルージーなロック・サウンドでうなりを上げるペダル・スティール。2011年録音の現在のところ最新作。


1982 / Pintura
Hubro CD2510
Nils Okland(hardinger fiddle,violin), Sigbjorn Apeland(harmonium,wuritzer), Oyvind Skarbo(drums)
試聴:https://soundcloud.com/experimedia/1982-pintura-album-preview-mp3
 ゆっくりと明るさが増していくにつれ、モノクロームな静寂が次第にざわめき始め、ゆるやかに暖色に染まっていく。少し離れた舞台の奥の方で、天窓からの明かりに照らし出されたヴァイオリンが、弦の豊かな響きをたちのぼらせている。その手前でハーモニウムの響きが、陽炎のように揺らぎながらヴァイオリンのきらめきにうっすらと紗をかける。さらにその手前でカタカタと乾いた物音が転がり、眼前を横切る。彼らのアンサンブルは常にこうした空間構成の奥行きと共にある。据えっぱなしのキャメラに映し出される揺らめく雲の流れ、強さを増しやがて陰っていく陽射し、濃さを変じながら一度短くなり再び長く伸びていく影の移ろい。ヴァイオリンのゆるやかな繰り返しを「図」としながら、「地」をかたちづくるハーモニウムとパーカッションは、微妙に配合を変えながら、足下をさらさらと掘り崩していく。2010年録音のトリオ2作目。


Sigbjorn Apeland, Oyvind Skarbo, Nils Okland / 1982
NORCD NORLP0985
Sigbjorn Apeland(harmonium), Oyvind Skarbo(drums), Nils Okland(hardinger fiddle,violin)
試聴:http://www.amazon.co.uk/Øyvind-Skarbø-Økland-Sigbjørn-Apeland/dp/B0028GFYW8
 トリオとしての記念すべき第1作(2008年録音)。ここではまだ「1982」はタイトルに過ぎず、アーティスト名は3者の連名となっている。次作ですでに確立される独特の空間構成の整合性はまだなく、一聴、即興演奏性が強く感じられるが、肌理や手触りを感じさせる艶消しのくぐもった音色を時間をかけて空気に沁み込ませていくハルモニウム、ブラシやミュートを多用し定型のビートを叩かず時間を細分化しながらやはり触覚に訴えるドラムス、少し離れたところで冷ややかな倍音をゆったりと巡らせるヴァイオリン‥‥といった個性はすでに出来上がっている。LPのB面を占める長尺の曲における、厚いカーテン越しに射し込む淡い月の光の下で繰り広げられる、もう長く済む人もない部屋で埃除けの布カヴァーをかぶせられた家具たちのつぶやきにも似た、密やかな交感が素晴らしい。


 「1982」のスター・プレイヤーというかフロント・マンは明らかにNils Oklandなのだが、にもかかわらず彼らの「奥行きの戦略」の核心を担っているのはSigbjorn Apelandにほかならない。彼は「1982」での主要楽器であるハルモニウムに子ども時代から親しみながら、その後、ピアノとチャーチ・オルガンを学び、演奏者としてのキャリアを積んでいく。改めてハルモニウムの可能性を見出したのは、最近になってからだという。
 ハルモニウムを音響発生装置として再発見し、持続音がせめぎ合うドローンをかたちづくりながら、楽器各部の共振/共鳴の不均衡やそれにより生じる軋み等を介して、音響に豊かな「傷跡」をはらませていくやり方を、たとえば以前にディスク・レヴュー(*)で採りあげたFavrice Favriou『Phases』(Creative Sources)に見ることができる。
*http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-197.html
 それは例えばRohdri Daviesがハープの弦を爪弾きながら、即興的にこれをプリペアドし、弦に挿入された素材のみならず、ハープという複雑な音響構造体の不均質な細部に眼を凝らし、さらにはそうした各部に直接e-bowを押し当て、振動とこれに付随する各部の共振の干渉状態をつくりだしていくことと比較できるかもしれない。
 だが、Sigbjorn Apelandの、あるいは「1982」の戦略はまた異なる。Favrice Favriou やRohdri Daviesがまるで検査技師のように細部の反応を確かめ、せめぎ合う諸力がかたちづくる束の間の平衡を切り替え結びつけていく点で「モンタージュ型」とするならば、奥に揺らめく広がりを必ず手前で物音が横切っていくSigbjorn Apelandや「1982」は「ディープ・フォーカス型」と言えよう。
 ここで注意しておかなければならないのは、インプロヴィゼーションのみならず、通常、音楽の提示される空間はライヴの演奏空間を前提としてイメージされ、また、受容されていることだ。アクースマティック・ミュージック作品の上演において、マルチ・チャンネル・スピーカーを駆使して様々な音場操作を行ったとしても、コンサート・ホール自体の空間の連続性/一様性が変化する訳ではない。こうした遠近法的構図に基づき構築された三次元音場は、もとより奥行きの次元を有しており、オーケストラのホルンはヴァイオリンの奥から聴こえてくる。だから、奥行きを持つ三次元空間は言わば当然のことと見なされがちだ。しかし、「1982」が用いる奥行きは、むしろ「重なり」によってもたらされる。
 響きが提示され、それに覆い隠されながらもその向こうにぼうっとした曖昧な揺らぎが浮かび上がる。持続する最初の響きに、流れる雲のように影を落としながら別の響きがと通り過ぎる。さらにそのずっと手前、眼前をちっぽけな物音たちが逆方向から足早に横切る。小津安次郎はトレードマークのロー・アングルにより畳の目を消し去り(ピエロ・デラ・フランチェスカからフェルメールに至るまで、床面の市松模様の推移は遠近法の要だった)、代わって開けられた襖や障子の縁と鴨居や欄間のかたちづくるフレームの重ね合わせにより奥行きをつくりだしていた。それと同じ「順序構造」としての奥行きを彼らは取り扱う。
 そうした空間構成がジャズやフリー・インプロヴィゼーションにおいて用いられることはほとんどないように思う。自らのランゲージの確立/検証過程でパンニングやフレーム・イン、フレーム・アウトを多用していた1970年代半ばのDerek Baileyも、奥行き方向に対しては積極的に取り組んでいない。例外としてArt Ensemble ChicagoやAnthony BraxtonのBYGレーベルへのパリ録音(たとえば『Jackson in Your House』や『Anthony Braxton Trio』)、Steve Lacy『Lapis』(Saravah)等が思い浮かぶ。そこにBrigitte Fontaineの初期作品(Saravah)を媒介項として加えれば、レコーディング・エンジニアDaniel Vallancienの名がまるであぶり出しのように浮かび上がってくる。
  



Sigbjorn Apeland / Glossolalia
Hubro CD2503
Sigbjorn Apeland(harmonium)
試聴:http://www.amazon.com/Glossolalia-Sigbjorn-Apeland/dp/B004Q1DFLK
 ソロのためか、引き伸ばされた一音の中でもつれあう息の震えに耳を澄ます感じが薄れ、複数の音を敷き重ね、ON/OFFしてみせるようなレイヤー操作が前面に出てきてしまうのだが、それでも遠近を意識しながら音を重ね、さらに鍵盤やペダルの軋み、胴のうなり、おはじきを振り撒くような、あるいはネズミが走り回るようなミクロな物音を手前に配し、その隔たりの間にさらに音を浮かび上がらせるなど、彼ならではの「奥行きの戦略」を存分に看て取ることができる。動きを抑え息の深い3曲目、さらに平坦さを志向し、深みを覗き込む視線を水面に移ろう波紋が掠める4曲目、親密な思い出の淵にゆっくりと沈み込みながら、物音を遠く見詰める5曲目と後半が素晴らしい。


文化横断的変異「民俗音楽」探求 その3 北アフリカ(補足)  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.3 Northern Africa(Supplement)

  1. 2013/08/18(日) 00:35:44|
  2. ディスク・レヴュー|
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  4. コメント:0
 前回紹介した「マグレブ」とはアラビア語で「日の沈むところ」を原義とし、「西方」を指す。その基準点になっているのがエジプトにほかならない。というわけで今回は北アフリカ補足編としてエジプトとシリアを採りあげたい。
 こうした位置づけはたぶんあまり一般的ではない。ヨーロピアン・トラッドの一環として環地中海世界を採りあげるとすれば、アル・アンダルース音楽はスペインに含めてしまい、北アフリカは遠く対岸のスペインあるいはイタリアから望めばよいだろう。反対に北アフリカをアラブ世界(トルコやペルシャを含む)の中に位置づけるのであれば、むしろエジプトが中心となり、マグレブは辺境へと押しやられる。特に地域研究やカルチュラル・スタディーズでは、歴史的正統性と現時点における社会性(つまりは広く受け入れられている、売れているということだが)の二つの軸を基準にとらえるので、膨大な作品数のアラブ映画を制作し、国民的歌手ウム・クルスームを擁するエジプトが最も重要で、次いでライの流行を生み出したアルジェリアに注目することになるだろう。
 だが、この連載ではあえてそうした姿勢を採らない。それがどのような視点に基づくかについては、いずれ「幕間」としてまとめて書いてみたい。3回の執筆で自分なりに思うところがはっきりしてきたので。



Abed Azrie / Le Chant Nouveau Des Poetes Arabes
Le Chant Du Monde LDX 74452
試聴:http://www.amazon.co.jp/légende-loiseau-feat-Youval-Micenmacher/dp/B006T8F6BK
 『アラブの新しい詩人たちの歌』との表題通り、A面では「パレスチナでの抵抗の詩」が、そしてB面では「アラブの新しい詩」がシリア出身のシンガーAbed Azrieの作編曲により歌われる。哀しみをたたえた声のしめやかな深さは、おどけた曲調では複数の役柄を声音を使い分けて演じる柔軟さを見せる。2本のアコースティック・ギターの余白を活かした絡みを基調に、深く打ち込まれるコントラバスときらめきを闇に沈めたクラヴサンが劇的な高揚をもたらすアレンジメントも見事だ。クラヴサンの響きは、時にA-Musikで竹田賢一の奏でる大正琴を思わせる。憑かれたような語りによる終曲では、コントラバスの弓弾きが不気味にうねり、ピアノの破片が振り撒かれる緊張感溢れる現代音楽的な音使いも聴かれる。19721年制作の第1作。なお、彼は現在も活動を続けており、これは大里俊晴『マイナー音楽のために』の指摘で気づかされたのだが、Tony Coe『Les Voix D'Itxassou』(Nato)に本作の冒頭曲が、やはりAbed Azrieのヴォーカルで、Youval Micenmancherのパーカッションをフィーチャーし、カーヌーンやネイを加えたより鮮やかな速度をたたえたアレンジメントで収録されている。ちなみに試聴トラックとして掲げているのは、こちらのヴァージョンである(本作からのトラックは見つからなかった)。大里は同書の中で北アフリカ音楽についても多くの興味深い指摘を残しているのだが、これについては稿を改めて採りあげることとしたい。


Francois Rabbath / Les Uns Par Les Autres
Moshe Naim MN-12002 or 12005
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=17766247
 前掲のAbed Azrie同様、最近になってDisk Unionで入手したのだが、この盤のことを知ったのは例によってSHE Ye,Ye Records & Booksのおかげ。そちらでは『Multi-Basse』との作品名で紹介されているが、私の入手したのは国内盤の見本盤(ちなみにジャケットは見開きではない)なので詳しいことはわからない。このシリア第2の都市である古都アレッポ出身のベースの哲人について詳しいことは前述のSHE Ye,Yeのページをたどってもらうとして、ここでは本作に限定して述べるとしたい。Jean-Pierre Drouet,Bernard Lubat,Michel Delaporteらそうそうたる面子の打楽器奏者陣を迎えた、Rabbath自身の多重録音によるベース・アンサンブルというのが本作の基本構造なのだが、アルコの可能性を存分に引き出したくっきりと彫りの深い、底知れぬ奥深さをたたえた響きがまず素晴らしい(ピチカートの使用の方がむしろ限定的である)。ゆるやかなアルコが重ね合わされて深々としたドローンをかたちづくり、あるいは切迫した繰り返しの上で伸びやかなソロを展開し、弓を震わせてネイにも似た甲高い音色を奏でたかと思えば、弦を焼き切り自らを切り刻むような激しさへと至る。そこには遊牧民的ないきいきとしたリズムとどこまでも伸びていく線の勢いがある。北アフリカの民族楽器を思わせる打楽器の硬く張り詰め乾ききった音色が、ベースの流動性を際立たせ加速する。


Soliman Gamil / Ankh
Touch TO:14
試聴:http://www.youtube.com/playlist?list=PLKtI6DyKnYmMjuizuh8prkWCvYvDQZq9w
 もともとはアラブ音楽を専門とする音楽学者にしてカーヌーン奏者であった彼は、映画や演劇の音楽を担当する中で自身の作風を変貌させていく。前作『The Egyptian Music』(1987年)がオーケストラを導入しながら、民族音楽から採集した素材を端正な古典的手つきで取り扱っており、そこにたちのぼるエキゾティシズムが節度あるいささか古風なものにとどまっている(その点で戦前から1950年代くらいまでの日本映画の音楽を思わせるところがある)のに対し、続く本作では民族音楽色をさらに高めながら、サウンドが濃密さを増すあまり伝統の枠組みを明らかに逸脱し、地球上のどこにもあり得ないようなユートピックな音楽に成り果てている。オーケストラは輪郭を溶解させ音色の斑紋と化し、サウンドはエキゾティックを超越して極端にアナクロニスティックなのものへと変貌させられる。前作がTouchのリリースにおいてStrafe Fur RebellionやThe Hafler Trioと並んでいることを思えば、レーベルはこうした音響工作者としての彼の力量を最初から見抜いていたのだろう(ちなみに本作はZ'evとEtant Donnesの間)。瞑想的あるいは神秘主義的というより、まさに霊的な1枚。所謂エジプト十字架をモチーフとしたジャケットのデザインも素晴らしい。


Gilles Aubry & Stephane Montavon / Les Ecoutis Le Caire
Gruenrekorder Gruen 061
試聴:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
 「ぴーっ」、「ごおーっ」という渦巻く持続音の混沌の中から、揺らめくように自動車のクラクションが姿を現し、朗誦されるアラビア語の歌謡や人の話し声、街路の雑踏が天井まで満ちていく。手触れるほど、いや物音が肌を打ちこちらに襲いかかってくるほどリアルな空間がそこにありながら、少しも音像を結ばない。それは壁を隔てた室内で録音された素材の構築による「間接的聴取」の賜物と思っていたが、多田雅範に夜更けのビルの非常階段に煙草を吸いに出て、戯れに耳を覆ってから手を離すと、恐ろしいほどの音の波に全身を揺さぶられた、あれはまさにGilles Aubryの音のようだったと聞かされて、はっと虚を突かれる。カエルの眼は動くものしかとらえない。人間の視覚においても不変項は次第に知覚されなくなって認知からこぼれ落ちていく(だからこそ眼球を小刻みに震わせて、懸命に再スキャンしているわけだが)。そのようにして我々は世界の生々しい流動を去勢し、背景と対象、構造と運動へと図式化してとらえている。というより、そのように「弱毒化」しなければ、我々は世界の貫く力の流動を視覚としてとらえることができない。だがそうした「惰性」はしばらく耳を塞ぐだけで崩壊する(もちろん束の間ではあるが)。そのような崩壊がもたらす亀裂を凝視し続けたのが本作にほかならない。混沌による玩弄に疲れ果てた耳は聞き慣れた車のクラクションに救いの光明を見出すが、それもすぐに別のぐらぐらした何物かへと変貌を遂げていく。フォーク・ミュージックを聴くとは、まさにこうした「異境/異郷」に耳をさらすことにより、類似性ではなく差異を、連続性ではなく切断を、いや持続や同一性を揺さぶる「亀裂」を見出す体験ではないのか。

文化横断的変異「民俗音楽」探求 その3 北アフリカ  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.3 Northern Africa

  1. 2013/08/10(土) 18:37:33|
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 TMFMR第3回はスペインのアル・アンダルース音楽を持ち越して、対岸の北アフリカへと足を伸ばす。普通なら次はフランスを片付けてめでたく終了なのだろうが、そこは「音楽の辺境探求」を看板に掲げる以上、もう少し深く掘り下げたリサーチをお届けしたいと思う。
 さて、レコンキスタ以前のイスラムの影響を強く受けたアル・アンダルース文化が、グラナダのアルハンブラ宮殿を含め、まさにスペイン文化の華であることを承知の上で、アル・アンダルース音楽を北アフリカに含めて採りあげる理由は、手元にある音源を聴く限り、そちらの方がより魅力的だからということに尽きる。Aman Amanの結成によりセファルディ音楽をあれほど見事に演じたL'Ham De Foc勢も、Al Andalus Projectでは3枚を費やしながらその水準に達していないし(生硬さや性急さが目立つ)、Paniaguaたちの挑戦も同様に感じられる。そこにはOmar Metiouiのきらびやかな空間の広がりやAmina Aloaouiのしなやかな身のこなしといった「遅さ」のエロティシズムが充分に熟成されていないのだ。メロディやリズムよりも僅かなニュアンスや抑揚、節回しの違いに重きを置く姿勢とでも言うべきだろうか。後者の演奏を聴いていると、それらが「本質」に付け加えられた余計な「装飾」などではないことがひしひしと伝わってくる。
 「多数多様なヨーロッパ」あるいは「環地中海文化圏」などと言いながらも、やはりそこにヨーロッパの限界を見るべきなのだろうか‥‥と結論めいた感慨に飛びつく前に、個々の作品に耳を傾けるとしよう。今回は北アフリカのうちから、マグレブと称されるモロッコ、チェニジア、アルジェリア等を取り扱い、エジプト、シリアについては次回に譲ることとしたい。



Omar Metioui / Al Ala Al-Andalusiyya
Pneuma PN-150
試聴:http://www.artistdirect.com/nad/store/artist/album/0,,1144613,00.html
 弦の刻みが、弓のうねりが、笛のひらめきが、まるで何重にもディレイをかけたように、響きのさざ波を生み出していく。時間と空間が溶け合い、入り組んで襞を成した混淆状態に基調となるリズムが導入されると、とたんに壮麗なオーケストラ的構造がすっくと姿を現す。そのアンサンブルの繊細さは、細部にまで複雑な文様を巡らしたイスラム建築を思わせるが、あれらの建築物が細部と全体を見事な幾何学によって統一しているように、この演奏もまためくるめくフレーズやリズムを繰り出しながら、余韻や倍音に至るまで鮮やかな整序ぶりを見せる。Al Alaとはモロッコにおける古典音楽の呼び名だが、まさに「古典」の名にふさわしい明朗で端正な佇まいと宮廷音楽的な豪奢さを見せてくれる。リフレインの特徴的な音型のせいだろうか、なぜか井福部昭のことを思い出した。なお、大編成ゆえに次に掲げるAmina Alaouiのような陰影には乏しい。


Amina Alaoui / Gharnati - En Concert
Saphrane S62606
試聴:http://www.amazon.com/Gharnati-En-Concert-Amina-Alaoui/dp/B00260YMBA
 弦の上を滑るようなヴァイオリンの指さばきも、弦の震えを指先から手放そうとしないウードの響きも、Aminaのエロティックな艶やかさをたたえた声と同様、立ち上る香の薫りのようにゆったりと息をくゆらし、風に舞い散る花びらの如く響きをひらめかせる。小編成ゆえに各演奏者にはたっぷりとスペースが与えられるのだが(アンサンブルを厚くすることもない)、彼らはそこを所狭しと駆け回り塗りつぶすようなことはしない。音楽は先を急がず、いまここを慈しむように手探りゆるやかに眺め渡す。きめ細やかな象眼細工のきらめきを思わせるウードの素早い刻みも、決して時を加速し空間を押し立てることはない。もつれた糸を解くようなヴァイオリンの調べが空間を縁取って声の身体のしなやかな動きを導き、声の響きの甘やかなふくよかさを支え、その舞いをさらに香り高いものとする。ECMでの録音よりやはりこちらの方が豊かな深煎りのアロマに満ちている。グラナダに花開いたアンダルース音楽が東方すなわちギリシャ、ペルシャ、ビザンチンからの影響の下、アラビアとベルベルのリズムの混淆を経て、バクダッドからコルドバに赴いた音楽家ズィルヤーブによって始められたこと、そしてレコンキスタ以降のモロッコ、アルジェリア、チェニジアへの移民による伝播について、モロッコ出身でスペインで活動するAminaはライナーノーツに記している。ちなみにGarnatiはもっぱらアルジェリア古典音楽を指す語である。


Moroccan Trance Music
Sub Rosa CD 013-36
試聴:http://www.al-fann.net/path/Morocco/Gnawa/Jilala/Gnaoua/
 儀式音楽であるJilalaとGnaouaの現地録音を収録。モロッコのタンジールには、ブライオン・ガイシンやウィリアム・バロウズたちが惹き付けられていくわけだが、彼らに先んじてそこへ移り住み案内役を務めたのが小説家/音楽家ポール・ボウルズだった。このCDは彼が録音した1970年代の音源も含んでいる。高熱に浮かされたように甲高く裏返る声とざらざらした太鼓の皮の響き、かさかさに乾いた金属音と息の震え/むらそのものと化した笛の音色が、乾燥した空気に吸い込まれていく。そこにはイメージや物語を紡ぐのに必要な湿り気や響きが決定的に欠けており、演奏は繰り返し訪れる悪夢にも似た果てしのない反復へと陥っていく。ここでトランスとは祝祭的な高揚状態ではなく、徹底的に即物的な無感動/無共感により精神が空っぽになっていくことではないか。どこまでも青い空に魂を抜き取られてしまうように。


Maroc Hadra Des Gnaoua D'Essaouira
Ocora C 560006
試聴:http://musique.fnac.com/a538949/Musique-marocaine-Hadra-des-gnaoua-d-Essaouira-CD-album
 民族弦楽器「ゲンブリ」のベース音が少し跳ねながら、それでもすっすっと足を運び、男声のコーラスが歓声となって弾け、ゆるやかに虹の弧を描く。その虹のきらめくべき高音の空間を塗りつぶすように、あらかじめアルミの食器を打ち合わせるような「カルカベ」(金属カスタネット)の「カチャカチャ」と乾いた音色が鳴り続けていることが、聴き手に不思議な感触をもたらす。トランスを誘う仕掛けと言えばそれまでなのかもしれないが、視界の一部にうっすらとヴェールをかけ、現実世界の手触りを少しだけ遠ざけるようなサウンド・マジックがここにはある。チベット密教の仏具にも似た轟音を放つ太鼓も、それだけを切り離して聴けばおそらくはやはり仏具に似ている、打ち合わされる響かないシンバルの音色も、すべては手前に広がる「カチャカチャ」に編み込まれ、音色のアンサンブルというよりも、額縁にはめられた、リアリティを隔離する1枚のすりガラスをつくりだすに至る。なお、エッサウィラはマラケシュの西方に位置する大西洋沿岸の避暑地で、1997年以来、毎年グナワ・フェスティヴァルが開催される。ちなみにHadraとはイスラムの神秘的儀式とのこと。


Brian Jones Presents the Pipes of Pan at Joujouka
Rolling Stones Records COC49100
東芝EMI ESS-63009
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=waSvVHYSyGA
 ローリング・ストーンズを追われた元リーダーが、ブライオン・ガイシンの案内で訪れた山間の村で耳にした音楽を1968年に録音し、米国のソウル・バンドの演奏を重ねようとして頓挫した素材が、彼の死後の1971年になってローリング・ストーンズ自身の自主レーベルからリリースされた。ジャジューカ音楽を世界が知ったのは、まさにこの謎めいた1枚によってと言っていいだろう。テープの逆回転や電子音の付加をはじめ、ブライアンがスタジオで散々いじくり回したように紹介されることが多いが、実際には乾燥のあまり、そのままではイメージを結ぶことなく気化蒸発してしまいそうな音像に、必要な湿度を与えるべくエコー処理を施したと言ってよい。よく知られる甲高い笛の音による倍音の沸騰や疲れを知らぬパーカッションの連打に加え、平らかなヴォーカル/ヴォイスがたびたび聴かれ、やや引き気味に全体をとらえた視角と相俟って、淡々と静かな印象を与える。そこに遠くで鳴っていたものがすぐ耳元で響いたり、音像が陽炎のように虚ろに揺らいだり、複数の情景が同時に立ち騒ぐような幻惑的操作が施され、サイケデリックな効果を生んでいる。だが先に述べたように、それはマニピュレーションの産物ではなく、もともとこの音楽に備わっている本質の露呈にほかならない。


Ornette Coleman / Dancing in Your Head
Horizon 21 / A&M SP-722
試聴:http://www.allmusic.com/album/dancing-in-your-head-mw0000652685
 ここに収められたオーネット・コールマンとジャジューカ音楽の共演「Midnight Sunrise」は、オーネットが1973年1月、ジャジューカ村を訪れることにより実現した。後に『Skies of America』に再臨するオーネットの代名詞とも言えるテーマ・メロディによる「Theme from a Symphony」の録音が1976年だから、彼の提唱するハーモロディクスの実践は、その後と言うことになる。「Midnight Sunrise」における両者の共演が、巷間囁かれるほど見事なものだとは私は思わないが、ジャジューカ音楽における個々がつくりだすグルーヴが、ピッチ等の西洋音楽的枠組みを持たないにも関わらず、なお齟齬による機能不全に陥ることなく、いくらでも自由に羽ばたきインプロヴィゼーションを続けることができるという体験が、彼に非常に大きなインパクトを与えたことは確かだろう。Prime Timeの片時もじっとしていることなく跳ね回り続ける演奏は、互いにぶつかることなく一斉に向きを変えるイワシの群れや、沸騰する湯の中で踊り続ける鰹節のイメージを介して、ジャジューカ音楽の本質にたやすく結びつく。


Chants Sacres Des Femmes De Fez
Al Sur CDAL 243
試聴:http://www.amazon.com/Chants-sacrés-femmes-Fès-Maroc/dp/B001VF7YE8
 モロッコ内陸の迷宮都市フェズ(フェス)から届けられた、いずれも女性ばかりの3グループの競演。声は語りに先導される合唱で、コブシを回しまくるようなアラブ的濃厚さは感じられず、むしろ汎アフリカ的な合唱の積み重ならずに推移していく感じが強い。淡々とリズムを刻む打楽器がレイヤーとして敷き重ねられ、延々と続く繰り返しが静かなトランスを生む。ここで採りあげた他の作品に比べ、サウンドの倍音成分や金属質の音色が少ない(強調されない)ことが、演奏が密度を増しても、なおトランスを「煽る」感じを与えない理由のひとつ。だが、果てしなく寄せては返しながら蜃気楼のように次第に希薄化していく声の広がりと、複雑なパターンの重ね合わせがモアレを生み出すリズムが、さらに層としてずれを来たし、空間をゆるやかに変容させていく様は、ブライアン・ジョーンズが幻視したジャジューカ音楽の本質と通底していよう。


Various Artists / Ossiach Live
BASF 4921119-3/1-3
試聴:
 フリードリヒ・グルダの肝いりによりオーストリアのオシアッハで1971年に開催された伝説的音楽祭の3LP実況録音盤。タンジェリン・ドリームやウェザー・リポート、ピンク・フロイド(LPには未収)等の参加で知られるが、その本領は「音楽 − 世界共通言語」を掲げて、東欧ブカレストから招いた合唱団によるビザンチン聖歌に、チュニスから来たグループの演奏するチェニジア宗教音楽を接続し、さらにはGeorg Gruntz率いるビッグバンドに民族楽器を加え「マグレブ組曲」を演奏させてしまう過激さにある。しめやかな合唱がしっとりと降ろす霧の帳を切り裂くようにして、うなり声と打楽器が炸裂する。声はコール&レスポンスを重ねながら高揚し、波状攻撃を繰り返す打楽器群とともに、野蛮にして優雅な高貴さへと昇り詰めていく。一方、GruntzのビッグバンドはJohn Surmanのうねうねとしたソプラノ・サックスで始まり、Jean Luc Pontyの寸断された急速調のソロでクラライマックスを迎える。演奏はなかなか見事なものだが、いささか引っかかりがなく、「フォーク」の相互浸透による変容には至っていない。ここに挙げた演奏の試聴用音源が見つからなかった。申し訳ない。Pink Floyd,Weather Report,The Dave Pike Set,The Trio,Georges Sziffra等はあるのだが。


Houria Aichi & L'Hijaz'Car / Cavaliers De L'Aures
Accords Croises AC126
試聴:http://elsurrecords.com/2013/05/03/houria-aichi-lhijazcar-cavaliers-de-laures-『オーレスの騎兵』/
 アルジェリア出身のベルベル人系女性歌手Houria Aichiの雌豹の如くしなやかにして切れ味鋭く強靭な声は『Hawa』(Audivis)で知られていようが、掠れた笛と畳み掛ける打楽器が煽るアコースティックな編成と深々とした電子音がたゆたうエレクトロニックな環境という、いかにも「パリ発ワールドミュージック」的な定型が気になり、ストラスブール出身の器楽アンサンブルと組んだこちらを選ぶことにした。L'Hijaz'Carは自分たちの「フォークロア」を創造すべく音楽学校で結成されたグループで(この心意気は本企画にふさわしい)、ウード等の民族音楽系撥弦楽器/打楽器の編成にバス・クラリネットが加わっているのが興味深い。実際、バス・クラリネットの粘りある低音のリフレインが、音色的に上ずりがちなアンサンブルの重心を引き下げ、全体の音色の稠密さを高めており、このことが打楽器やウードの低音の強調によるトランス効果の増強を違和感のないものとしている。しかし何よりもやはり彼女の声。漂わず舞い上がらず地にしっかりと足を着けた、みっちりと中身の詰まった押し出しのよい声の力は、聴き手の心をまっすぐに射抜くもので、瞽女等にも連なる放浪性(ノマドの声?)を感じさせる。


Idassane Wallet Mohamed / Issawat
Sahelsounds SS-015 / Mississippi Records MRP-039
試聴:http://sahelsounds.bandcamp.com/album/issawat
 今回の目玉。今年リリースされたばかりの新譜(録音は2008年)。彼女の出身地であるマリ共和国は地理的に西アフリカに属するが、彼女はベルベル人系のトゥアレグ族を出自とするのでここで取り扱うことにした。手拍子や僅かなパーカッションと複数の男声による単調な繰り返しが織りなすドローン様の広がりをキャンヴァスとして、彼女の鼻にかかった、しかし伸びやかな声が、ジャクソン・ポロックのポーリングを、あるいはサイ・トゥオンブリのドローイングを思わせる自由な線の「遊び」を尽きることなく繰り広げていく。そこにヴォイス・インプロヴィゼーションが陥りやすい罠、すなわち自由の刑に課されるがゆえに、時間/空間の茫漠たる広がりに絶えきれず、特定のヴォーカル・テクニック(超絶技巧などとも呼ばれたりするそれ)や金切り声によるスクリーミング等に閉じこもってしまうこと、はまったく影を落としていない。彼女は鼻歌と言葉を軽やかに往還し、一瞬たりとも声の身体をこわばらせることなく、優雅な身のこなしでほんのわずか身体を傾げながら、ゆるやかに舞い続ける。彼女の声と打楽器や手拍子、あるいは重なり合う男声とは多様な関係を取り持つが、前述のように後者を「キャンヴァス」たる平面ととらえるならば、それに近づいたり遠ざかったりする皮膚感覚的な「呼吸」は、『チャパカ組曲』におけるオーネット・コールマンのソロを思わせるところがある。簡素な構成の音楽がはらみ得る限りない豊かさに、改めて驚かされる1枚。傑作。

文化横断的変異「民俗音楽」探求 その2 スペイン(補足)  Transcultural Mutated "Folk Music" Research Vol.2 Spain(supplement)

  1. 2013/07/31(水) 23:04:22|
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 さて前回に続くTMFMRスペイン篇はよりポップなアプローチからセファルディを経て、さらにその先まで。



Luar Na Lubre / Hai Un Paraiso
Warner Music Spain 5046728862
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=r42ULPgXHW8
 ガリシア出身の彼らはマイク・オールドフィールドに見出されて世界へと羽ばたいた。スペイン発ケルト・ミュージックというイメージ戦略にふさわしく、ヴィデオ・クリップでも奥深い森が映し出される(グループ名もガリシア語で「ドルイドの魔法の森の月の光」の意とのこと)。ここで彼らを採りあげたのは、もちろん高速ユニゾンと音色配合のマジックを巧みに織り上げた楽曲/サウンドの完成度の高さもさることながら、これまで本企画で採りあげてきた作品群と「ケルト・ミュージック」における変容のあり方の違いに触れておきたいからだ。後者においては起源から現在に至る文化形成力の交錯を意識に上らせることなく、そこにアナクロニックな(直線的な時間の流れをかき乱すという意味で「時代錯誤」的な)想像力を働かせる余地もなく、ケルト文化の確立されたアイデンティティに基づく様々な物語(そこでは移民や巡礼といった「移動」が特権視され、文化の変容/形成というよりは伝播/浸透と見なされる)が引用され、特徴的な音色構築とダンサブルなドライヴ感を前面に押し立てながら、決してそれを脅かすことのない範囲内で、他の音楽の要素との自在な「異種交配」が図られる。こう書き記しながら私はChieftainsを思い浮かべているのだが、これは続く『Saudade』でスペインから南米への移民を採りあげ、彼の地の有名ミュージシャンを多数ゲストに迎えることになるLuar Na Lubreにもそのまま当てはまるだろう。あるいはサウンド的にも制作時期的にも共通点の多いKila『Luna Park』(2002年)あたりを想起していただいた方がいいかもしれない。いずれにしてもそこには、自己探求の道筋が決して自己解体には至らないよう、しっかりと安全装置が仕掛けられている。様々な変容は(マーケティングへの志向を含め)常に意図した結果であり、意識や記憶を掘り下げていったら、あるいは集団作業による試行錯誤を繰り返していったら、とんでもないところへ出てしまったという驚きはない。そこには言わば「無意識」が存在しないのだ。2004年作品。
 ちなみに今回音盤をチェックしていて気づいたのだが、前掲の試聴トラック(本作品の冒頭を飾る表題曲)は作曲クレジットがされているが、歌メロ部分はNa Lua『A Estrela De Maio』(1987年)の冒頭曲「Maio」(「Tradicional」とクレジットされている)と同一と思われる。下記の試聴トラックで各自お確かめいただきたい。こちらの鄙びたアレンジに対し、Luar Na Lubreヴァージョンのセールス・ポイントは新たに付け加えられた甲高いケルト音色を活かした高速ユニゾン部分にあるわけだから、それをパクリなどと言うつもりはないが。
http://www.youtube.com/watch?v=0doA0iU2bUs


Mercedes Peon / Siha
Discmedi DM4325
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=o3-MmM2nvTg
 ポップなアプローチから選んだもう1枚は、爆発的に強靭な声の使い手Mercedes Peonの3作目。ソングを歌うことを超えた声の表現領域の拡大というとCathy Berberian, Joan La Barbara, Meredith Monkといった系譜が浮かぶが、声のフィジカルを隙なく鍛え上げ、ありとあらゆるタブーを葬り去って、均質な領土を拡大していく彼女たちに対し、Christoph AndersやArto Lindsayのようなむしろ声の身体の不自由さを剥き出しにしながらオブジェ化し、電子操作にも進んで身を委ねるポスト・パンクな者たちがいる。Mercedes Peonは明らかに後者に属する。彼女は伝統音楽を歌う声が様式化(そこには比類なき強度も超絶技巧もまた含まれる)により身に纏う鎧を脱ぎ捨て、声の裸身をさらすことから演奏を始める。プログラミングされた電子ノイズや先を争い加速するアンサンブルが声を襲い、その肌を容赦なく傷つける。鮮血を滴らせながら彼女はその場に立ち尽くし続ける。自らの身体を依代として儀式を成就させるために。張り上げられた声の突き刺すような強度が素晴らしい。2007年作品。


Aurora Moreno / Aynadamar
Saga MSD-4002
試聴:http://www.amazon.com/Aynadamar-La-Fuente-Las-Lágrimas/dp/B00B7KZE76
 スペイン産セファルディ音楽(地中海ユダヤ音楽)からはまずこれを。Rosa ZaragozaやLena Rothenstein等、同じジャンルにはかなりコブシの回る濃厚な歌唱も見られる中で、彼女の歌い回しはエキゾティシズムを存分に香らせながらもポップな洗練に至っており、前回言及したLuis Delgadoの参加による空間的なサウンド構築と見事に調和している。言わばNWが煮詰まったロックのサウンドを再構築して見通しよく整理したように、ここでも民俗音楽のサウンドがエレクトリック化を含め、巧みに再構築され、冷ややかな透明性を確保している。DelgadoにとってはFinis Africaeの活動とも並行する時期であることを指摘しておこう。1988年作品。


Aman Aman / Musica I Cants Sefardis D'Orient I Occident
Galileo GMC017
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=762
   http://elsurrecords.com/2013/05/05/aman-aman-musica-i-cants-sefardis-dorient-i-occident/
 L'Ham De Focの核であるEfren LopezとMara Arandaによるセファルディ音楽プロジェクト。コブシやうねりといった情熱系の濃密さよりも、緻密に構築されたアンサンブルが卓越するのはL'Ham De Focと同様。特に電化されたセファルディが演歌的な「ノリ」一色に染め上げられてしまいがちなのに対し、彼らは徹底してアコースティックにこだわり、古楽にも目配りしながら、細密な響きのタピストリーを織り上げていく。ウードによるしなやかな刻み、ケマンチェの弦のたわみ、打楽器の皮の震えと細やかな切れ込み、カヴァルの息のかすれ、カーヌーンやサントゥールの金属弦のきらめきが四方八方へと走り抜け、あるいはもつれながら高い天井に向けて倍音をたちのぼらせていく様は、ため息が出るほどに素晴らしい。Maraの声もまた幾分か飛翔を抑え、敏捷にステップを踏むようにして、この曲がりくねった回廊を鮮やかに、また軽やかに駆け抜けていく。その高潔さを「学究的」な硬直と勘違いする者がいるが、それは単に耳が腐っているのだ。2006年作品。


L'Ham De Foc / Cor De Porc
Galileo GMC010
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=496
   http://elsurrecords.com/2013/04/21/lham-de-foc-cor-de-porc/
 『豚の心』と題された彼らの3作目。Efren LopezとMara Arandaを中心としてスペイン東岸ヴァレンシアで結成された彼らは、カタルーニャからフランス、イタリアへ至る地中海沿岸西欧文化、ギリシャからトルコに至る東欧あるいはビザンチン文化、北アフリカからアラビア半島に至るアラブ文化の3つの文化的源泉からの影響の混合体として自らをとらえていると言う。彼らが針の穴を通すような高度な演奏技術を駆使して、金糸銀糸をふんだんに織り込んで描き上げた細密にして絢爛たる音絵巻は、緻密さがそのまま強度として開花するという希有な水準に至っている。通常、ヨーロッパ対北アフリカ、あるいはヨーロッパ対アラブと二項対立でとらえられがちな地中海文化を、先に掲げた三項の相互作用としてとらえることが、生成のプロセスへの立体的な複眼視をもたらしているのではないか。Efren Lopez のギリシャでの研鑽とギリシャ人ミュージシャンのゲスト参加が豊かな実りをもたらしている。2005年作品。


Mara Aranda & Solatge / Deria
Galileo GMC033
試聴:http://www.galileo-mc.de/galileo-mc/cd.php?formatid=1395
   http://elsurrecords.com/2013/05/05/mara-aranda-solatge-deris/
 Mara Arandaの参加した前述のL'Ham De FocやAman Amanと本作の違いは、単にEfren Lopezの不在というだけでなく、前者が精緻なアンサンブルを重視し、針の穴を通すような完璧な技巧で眼にも絢な響きのタペストリーを編み上げていくのに対し、こちらは各演奏者/楽器に思い切り自由なスペースを与え、縦横無尽にプレーさせることにある。求心的・集中的な前者に対し、拡散的・放射的な後者。あるいはスペインの組織的サッカーに対する南米の個人技。それにしてもこれはスゴイ。破綻するギリギリまで弾き込み溢れ出す倍音の暴れを乗りこなすコントラバスと拮抗し、いつになく表情豊かに朗々と響き渡るヴォイスに、ヴィエル・ア・ルーのかきむしるような持続音とケルティック・ハープの線刻が重ねられ、打楽器の一撃をきっかけに堰を切って滔々と流れ出す。充分なスペースを与えられた音たちは、大海原に漕ぎ出すように自在に空間を渡り、滲み広がり、重なり溶け合って、眩いばかりの多様な色彩の交響をつくりだす。2009年作品。


Francisco Curto / La Guerra Civil Espanola (y sus origenes)
Le Chant De Monde LDX 74546
試聴:http://www.youtube.com/watch?v=fTOXRN9WIZ0
 今回の最後を締めくくるのは、Le Chant De Mondeの「世界の新しい歌手たち」(Le Nouveau Chansonnier International)からの1枚。スペインからの亡命を余儀なくされたLluis Llachの活躍の舞台となったのもこのシリーズ。そして私がLluis LlachやColette Magny、Francisco Curtoらの名と声を知ったのは、Vladimir Vissotsukiの名前に惹かれて手に入れた、このシリーズからの日本抜粋編集盤『帰らぬ兵士の夢』だった。本作はスペイン内線のさなか、人民戦線側で平和への願いを込めて歌われた曲をFrancisco Curto自身が構成したもの。反戦フォークというとギターを掻き鳴らしてがなるだけといった悪しきイメージが浮かぶかもしれないが、本作には孤高ともいうべき叙情が溢れている。簡潔に切り立ったギターの調べとどこまでも深く澄み切った哀しみをたたえた歌声、そして落ち着いた語りの背後でチェロがゆるやかに奏でるJ.S.バッハ。ジャケットを飾るアントニオ・ガルヴェスの写真も素晴らしい。1974年作品。

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