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来年もよろしくお願いします

  1. 2011/12/31(土) 15:21:33|
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 今年も「耳の枠はずし」をご覧いただきありがとうございます。
更新が滞っておりまして申し訳ありません。
いろいろと不調が重なりまして‥。
来月からは再開したいと思いますのでよろしくお願いします。




 今年を振り返りますと、1〜3月は割と順調で4〜5月に一度スランプがあり、何とかそこを脱して、9月のフランシスコ・ロペスによるワークショップ参加をジャンピング・ボードにして、一挙に加速したのですが、そこで力尽きた感があります。「書くこと」の密度・強度を高めるのはやりがいもあっていいのですが、もともと集中力はあっても持続力に欠ける性質だし、また、そうした密度・強度を引き出してくれる〈誘惑〉に満ちた題材がごろごろ転がっているわけでもないので、その辺はうまくコントロールしていかないといけないですね。反省しています。
 念のため、誤解のないように付け加えておけば、もちろん魅力的な題材は多々あるけれども、いろいろと準備が必要だったりして、おいそれと手が出ないというこちらの力不足が大きな要因です。あくまでも「手頃な」題材をうまく用意できなかった‥という言い訳とご理解ください。

 「不調」の方も、恒例の韓国ソウル行きでだいぶ解消されました。いろいろ思いがけないサプライズ(*)もあって(思いがけたらサプライズにならないですが)、行きつけの店を巡り、友人と会い、ギャラリーをのぞいたり、新しい店を開拓したりするなかで、体内にたまった〈毒素〉をずいぶん排出できた気がします。これでようやく更新を再開できる気が‥。
 それでは来年もよろしくお願いします。

*1 行きの飛行機で「扇風機おばさん」と遭遇。
*2 行きつけのカムジャタン屋でKBSテレビの取材を受ける。
*3 帰りの飛行機のエンジンに鳥が飛び込み、離陸後に空港へ引き返す。  などなど



ふらりと入ったギャラリーで展示されていた新作青磁。チャーミング!


常宿のすぐそばなのに行ってなかった宗廟にあった屏風。


これが元祖カムジャタン(カムジャクッ)。やはりここが一番おいしい。


ホンデのカフェ405 Kitchenのメニュー。ここはおいしいですよ。ヴォリュームもたっぷり。


よく行くホンデのショコラティエの新メニュー。ピュアなカカオの香り。


アックジョンからカロスギルに向う途中でのぞいたミュージアム。凝った意匠の建築。
収蔵品の陶磁器もなかなかの高レヴェル。


建築といえばこれも。ホンデにあるファッション・ビル。


ソウル在住の友人(オーストラリア人)から教えてもらったホンデのハンバーガー屋。
肉質が良くておいしかったですよ。ポテトもカリカリ。


これは帰国後につくったフォー・ボーです。器は韓国で買ってきたもの。


「カフェの空間」の潜在的可能性 potentiality of “cafe” spaces

  1. 2011/03/21(月) 22:16:08|
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 綜合藝術茶房喫茶茶会記におけるライヴ・シリーズ「Tactile Sounds」の企画意図について、企画者のひとりである益子博之はこう書いている。


 「tactile sounds」とは、「触知できる音」「触覚で感じる響き」......触れられるような距離で音とその空間の響きを聴くこと、感じること。耳で聴いてはいても、視覚的に音楽を捉えるような習慣を一旦止めて、皮膚感覚、肌の触覚を通じて捉えるような音楽の聴き方をしてみること。音楽家同士の、音楽家と聴き手の、聴き手同士の、異なる感覚が出逢い、触れ合い、響き合うことで、互いの肌を通じて届くような音楽を生み出す場所と時間となること。「tactile sounds」という言葉には、そんな私たちのささやかな願いが込められています。


 実際にライヴ演奏が行われる空間を、そしてその場における演奏を体験して、改めて思い当たるのは、この中の「触れられるような距離で」というフレーズだ。ライヴ・レヴューで述べたように、演奏空間は広めのリヴィング・ルーム程度のもので、聴衆は生活感覚を携えたまま音楽と出会うことができる。「演奏者たちが聴き手の居場所を訪ねてくる」感覚がそこにはある。客電が落とされず、演奏者と聴き手が明暗で分断されないことも重要だ。聴き手は暗闇の中に潜むのではなく、身体像をさらしながら音と触れ合う。窃視者のように眼と耳だけの存在と化してしまうのではない。また、演奏空間と聴取の空間がひとつながりであることにより、演奏は手の届かない向こう側にある「像」として対象化されることがない。それは単に親密さを生むだけでなく、ともすれば意識しないうちに視覚に譲り渡されてしまいがちな「聴くこと」を、空間の手触りや響きの肌触りとともに、しっかりと身体に引きつけてとらえることができる。ライヴに行くことを、よく「○○を見に行く」というが、それは今回の体験にふさわしくない表現だ。まさに「演奏に触れに行く」と言うべきだろう。

 「ライヴハウス」という制度がいつ頃、どのように成立したのかは知らない。しかし、劇場モデルが先にあったことは想像に難くない。日常世界から切り離された「ハレ」の時間のための異空間として、それはつくられていったのだろう。「ライヴハウス」が「小屋」とか「ハコ」と呼ばれるのは、そうした日常からの切断を前提とした完結した空間であることを物語っていよう。もちろん、ドラムの導入や電気増幅により音量が増大したことも、ライヴ演奏がそうした孤立した空間に封じ込められることになった社会学的な(?)要因ではあるだろう。

 最近またライヴ演奏を聴くようになって驚くのは、聴衆における関係者比率の高さだ。企画者あるいは出演者の友人知人か、ライヴハウス(あるいはクラブ)自体の常連か、いずれにしてもそうでないのは私だけではないかと感じたのも一度や二度ではない。おそらくはクラブ・ミュージックの習慣が、ジャンルとしては異なる種類の音楽へとあふれ出しているのだろう。明らかに「演奏を聴く」より前に「友達に会いに行く」感覚がそこにはあり、そのための理由として音楽があるという印象。だから、自分の出番でない出演者が、他の出演者の演奏中、仲間とずっと私語しているのも当然なんだろう。だって音楽は付け足しの理由に過ぎないのだから。これがギャラリーでの個展なら、壁に掛けられた作品を前にして、それとは何の関係もない業界のゴシップを延々と垂れ流していても誰も困らない。むしろそれがパーティの流儀ですらあるかもしれない。しかし、ライヴハウスに、場違いにも演奏を聴きに出かけた部外者(私のことだが)は困ることになる。

 ミシェル・フーコーは具体的なエテロトピー(混在郷=ヘテロトピア)空間のひとつとして、劇場を挙げている。権力による制度的な分割を超えて、異質なもの同士が出会う場所として。そうした劇場の流れを汲むはずのライヴハウスは、いま果たして、そうした異質なもの同士が出会う場となり得ているだろうか。

 より日常的な「カフェの空間」に可能性を感じるのは、そうした異種混交性においてである。文化的亡命者たちが集ったロマーニッシェス・カフェやキャバレー・ヴォルテールを引き合いに出すまでもなく、カフェは都市空間におけるアジールを形成するが、それは必ずしも「悪場所」的な周縁的空間とは限らない。むしろ、日常の生活空間のすぐ隣に、その延長として開けている異空間なのだ。そこにこそ出会いの、あるいは「誤配」の可能性は開けている。
 インターネット空間の検索が、何でも即座に調べられるようでいて、雑誌の拾い読み等と異なり、「目当てのものしか取ってこない」ことにより、広がりを欠くことがようやく問題とされるようになってきている。カフェの空間でたまたま異質のものと出会う、隣り合わせる体験は、これからますます重要なものとなっていくだろう。



在りし日のRomanisches Cafe

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