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ディスク・ユニオンの宝箱の回帰  Return of Treasure Chest at "disk union"

  1. 2013/06/23(日) 13:11:02|
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 ディスク・ユニオンの棚やエサ箱が「宝箱」に感じられた時代があった。
 80年代前半、まだ音楽を聴き始めたばかりの頃、雑誌『フールズ・メイト』で仕入れた知識だけを携えて、プログレ・コーナーを中心にレコード店をチェックしていた頃、次第にフリー・インプロヴィゼーションやフリー・ジャズにも興味が広がり出し、清水俊彦や植草甚一の文章、あるいはフィリップ・カルルとジャン=ルイ・コモリによる『ジャズ・フリー』巻末の人名辞典等を頼りに、ディスク・ユニオンの「フリー・ジャズ」コーナーを漁るようになっていった。当時を知らない方には信じられないかもしれないが、その頃のディスク・ユニオンにはIncus,Ogun,FMP,ICP,BVhaast,Bead,Hat ART等はもちろんのこと、Metalangage,Parachute,Trans Museq,Music Gallery Editions,Quartz,HORO等の新譜が入荷していた。これはほんの一例に過ぎないが、当時の私は次のような作品をプレミアの付いた中古盤ではなく、新譜で(時にはバーゲン価格で)入手している。

 Francois Tusques / Piano Prepare (La Chant Du Monde)
 Sonde / En Concert (Music Gallery Editions)
 Tamia / Tamia (T Records)
 Tamia / Senza Tempo (T Records)
 LaDonna Smith,Davey Williams,Theodre Bowen / Folk Music (Trans Museq)
 LaDonna Smith,Davey Williams,Anne LeBaron / Jewels (Trans Museq)
 Musica Elettronica Viva / United Patchwork (HORO)
 Bennink,Megelberg,Rutherford,Schiano / A European Proposal (HORO)

 
   

  


 どれも最近はレアになっているようだが、新譜で入手した当時の私にはそうした有り難みがわかろうはずもなく(現在と違って情報もなかったし)、今となっては甚だ後悔しているのだが、よくわからないままに手放してしまったものも少なくない。
 逆に言うと、そうして手放してしまったものが今度は中古盤となって還流してくるわけで、特に「フリー・ジャズ中古」のコーナーはとんでもない「無法地帯」と化していた。おそらくはノイズ・ミュージック以降に確立される「ノイズ・アヴァンギャルド」という札付け(が適切かどうかはもちろん別として)がまだなかった当時は、60〜70年代の残滓である「訳のわからないもの」はみんな「フリー・ジャズ中古」へと不法投棄されていたのである。だからセシル・テイラーやアルバート・アイラーといった由緒正しきフリー・ジャズに混じって、所謂フリー・インプロヴィゼーションはもちろん、新ウィーン楽派やストラヴィンスキー以外の現代音楽のほか、音響彫刻、環境音、演劇、あるいはどこにも紹介されていないヨーロッパのマイナーなグループ等が並んでいた。
 そうした中から私はカールハインツ・シュットックハウゼン、ルチアーノ・ベリオ、ヴィンコ・グロボカール、Nova Musichaシリーズ(Cramps)等を集め、ラモンテ・ヤングを入手し、鈴木昭男を知り、Living TheaterやWelfare Stateの音を耳にし、シンセサイザーを演奏するPaul Bleyに驚かされた。そのほかにも見知らぬ音盤をジャケットにクレジット楽器編成等を頼りに(要はピアノ・トリオやワン・ホーン・クワルテットとは異なる、ストレート・アヘッドではあり得ない怪しげな編成)掘り起こしていった。
 未知の作品をいろいろ教えてもらったという点では池袋アール・ヴィヴァンの存在も大きいのだが、スタッフに相談したり試聴もできる代わりに中古盤は扱っていなかったアール・ヴィヴァンに対し、ディスク・ユニオンの中古盤コーナーには、自分の勘だけを頼りに勝負するスリリングな楽しみがあった。プレミアなど付こうはずもなかったので(何しろ店員もそれが何かわからずに、単に「規格外」と判断してそこに放り込んでいるわけだから)、値段も安かったことがそうしたギャンブルを可能にしてくれていた。

 そうした中から自分なりに「発掘」した代表格として、ここでは二つのグループを簡単に紹介しておこう。
 まずはBBFC (Bovard,Bourquin,Francioli,Clerc)。このスイス出身のトロンボーンとサックスの2管クワルテットは、何より骨太な構築を得意としている。弓弾きを自在に駆使して空間を切り裂きまた綴じ合わせるLeon Francioliの荒々しい雄弁さとOlivier Clercの野太い打撃が切り結び、Jean-Francois BovardとDaniel Bourquinの重心を低く構えた重量感溢れる咆哮がのしかかる。

 


 次いではReform Art Unit及びThree Motions。ウィーンを活動拠点とする不定形のユニットである彼らの核はFritz Novotny(reeds,perc)とMuhammad Malli(dr,perc)の二人。19701年代初めに録音した『Vienna Jazz Avangarde』はもともとESPレーベルからリリースされる予定だったというから、彼の地のフリーの草分けと言っていいだろう。掲げたジャケットのイメージ通りの硬い鉛筆による繊細極まりない細い線の、腺病質で神経症的な震えが寄り集まり編み合わされて、精緻な起伏と明暗の移り変わりを生み出していく。

 


 新譜レヴューは定期的に掲載するが、旧譜についてはあまり採りあげないのは、よくある「廃盤自慢」に陥りたくないからだ。それに妙に好事家の物欲を刺激すると、自分が入手しにくくなるだけだし(笑)。にもかかわらず、こんな話を始めたのは、最近久しくお目にかかることのなかった、この二つのグループの盤をディスク・ユニオンの中古盤コーナーで見かけたからだ。特にBBFC関係については『Montreux 18 julillet 1987』、『Live』、『Cherchez L'Erreur』、『Musique』など未入手の盤も多数あり、早速購入させていただいた。かつてと違い、インターネットでいくらでも情報が入手できるわけだが、プレミアなしの良心的価格だったことを付け加えておこう。
 私が覗いたのは新宿とお茶の水だが、最近、新譜売り場では縮小を続け冷遇されてきたフリー関係が、こと中古盤に関しては盛り上がりを見せているように感じる。CDについてUS買付盤が大量に入荷しているが、アナログがさらに充実している。お茶の水Jazz TokyoではHorace Tapscott with the Pan-African Peoples Arkestra『Live at I.U.C.C.』を、新宿中古センターでは、John Cage「Variation �鵺」収録の米コロンビア盤やPhilip Corner『Piano Work』を、新宿ジャズ館のフリー・ジャズ中古盤セールでは、残り物の中に何と奇才/鬼才Jerome Savary率いるカーニヴァル劇団Le Grand Magic Circus『Les Derniers Jours De Solitude De Robinson Crusoe』を発見。新宿本店6階のオルタナティヴ売り場では、Le Bal De La Contemporaine(Sylvain Kassap,Francois Mechali,Gerard Siracusa,Pablo Cueco等参加の街頭練り歩き的ラテン・バンド)こそいささか値が張ったものの、Harry Partch『Harry Partch』(有名ブートレグ)や『Feldman・Brown』(Mainstream)を割安で入手。さらにはChantal Grimm『Variations En Femmes Majeures』、Les Soeurs Goadec『A Bobino』(La Chant Du Monde)、Chichomeia『Rogaton De Bleu』(Revolm)等の未知の盤を勘に頼って選び出した。ジャケットの説明からLes Soeurs Goadecはブルターニュ、Chichomeiaはオクシタンのそれぞれトラッド演奏であることは知れたが、むしろレーベルの耳を信じての買い物。こうした「掘り出し物」を見つける冒険ができるのは久しぶり。ここまでのラインナップから明らかなように、フリーはフリー、現代音楽は現代音楽ときちんと分割/区分されてしまうのではなく、開けてみるまでは何が潜んでいるかわからない、国境無視の治外法権状態が戻りつつある。最近は「ネットの情報」に必ず先回りされているわけで、「担当者も中身を知らないくせに、こんな高値付けやがって」(失礼)的な失望が多かっただけにうれしい限り。「ユニオンの宝箱が戻ってきた!」とばかりに感激。今後もこうした勇気あるチャレンジを続けてくれることを期待かつ要望したい。

   

  

  

  


 最後の最後でようやく今回のタイトルにたどり着くことができました。前置きの思い出話が長過ぎたかな。ちなみに後で調べたら、Chantal Grimmは大里俊晴が『マイナー音楽のために』で、相変わらずのぼやき口調ながらしっかり言及していました。さすがですね。脱帽。
 ちなみに、いま日本語でこの辺に詳しいサイトとして、新潟にある日本の至宝と言うべきレコード店「SHE Ye,Ye」のページ(※)があります。大里俊晴のレコード棚が引っ越して、彼亡き後も自ら増殖を続けているかのような品揃えは、お店というよりもう立派な文化アルシーヴであります。基本的に1枚ずつの入荷なのですぐ売り切れちゃうんだけど、試聴ファイルはそのまま残されているので、数々のお宝盤に触れることができて、ものすご〜く勉強になります。いや〜耳福耳福。
※http://www.sheyeye.com

ケヴィン・エアーズ(1944〜2013)追悼  Kevin Ayers(1944−2013) RIP

  1. 2013/03/10(日) 17:15:47|
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 2月18日にケヴィン・エアーズが亡くなったことを遅ればせながら知った。68歳だった。ここでは彼の作品に関する思い出を語ることで哀悼の意を表したい。


 私は彼のよい聴き手ではなかった。最後の作品となった『Unfairground』も聴いていないし。それでも初期の作品やBBC等のライヴ音源には何度となく耳を傾けた覚えがある。

 彼独特のノンシャランな洒脱さとノンセンスなヒューモア感覚は極めて英国的なものだが、だからといって英国に彼のようなミュージシャンが何人もいるわけではない。「オリジナル」ソフト・マシーンの盟友であるデヴィッド・アレンやロバート・ワイアットも、幾つも共通する資質を持ちながら、ケヴィンに似ているとは到底言えない。さっさとイビサ島に隠遁を決め込んだり、『スウィート・デシーヴァー』を制作してキング・クリムゾン「グレート・デシーヴァー」をやんわりと(だが核心をとらえて)揶揄したり、バナナで作った駒で大真面目にチェスを指したりする「優雅なだらしなさ」と言うべきエピキュリアンぶりは、おそらく誰にも真似できない。そのしどけなく長椅子に横たわるような脱力した歌い方も、そしてぞくっとするようなセクシャルな深みをたたえた声音も。

 彼の音楽を初めて聴いたのは、たぶん80年代初めに池袋西武アール・ヴィヴァンで購入した『ジョイ・オヴ・ア・トイ』と『シューティング・アット・ザ・ムーン』を併せて収めた2枚組LP(ジャケットを差し替えての再発盤)だったと思う。スズの兵隊やテディ・ベアのぬいぐるみが渾然一体行進しているような幕開けから一気に引き込まれた。にもかかわらず、その後すぐに彼の作品の収集に走らなかったのは、当時手に入りにくかったという理由からだけではなく、キング・クリムゾンやヘンリー・カウ、シェーンベルクやヴェーベルン、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカーらの張り詰めたテンションの高さに耳の焦点を合わせていた当時、彼の底抜けに明るい楽天性に耳を浸すことに何となく後ろめたさを感じていたからかもしれない。

 それから随分たって彼の作品のCD再発が進んでからは、以前に本ブログに追悼記事を掲載したロル・コックスヒルの参加に着目して、ライヴの音源を幾つか手に入れたりした。ステージ上でコミカルな寸劇が繰り広げられたりして、なかなか一筋縄では行かない、凝った、そして「モンティ・パイソン」的に何でもありの脱線だらけの構成となっている。ロル・コックスヒル、デヴィッド・ベッドフォード、マイク・オールドフィールドが顔を揃えた「ホール・ワールド」は、ロックとかジャズとかポップスといった既成の枠組みにとらわれることなく音楽を溢れ出させる、本当にクリエイティヴなすごいバンドだったんだなと改めて思わずにはいられない。

 そんなわけで私が選ぶ彼の代表作5枚は、結局のところ初期作品+ライヴということになってしまい、すでに彼を知っているファンには何ら目新しい点のない、まったく代わり映えのしないものなのだが、それでも一応挙げておこう。ジャケット・デザインの不思議ぶりを見ているだけでも楽しい。
  
     Joy of a Toy         Shooting at the Moon     Whatevershebringswesing

  
The Confession of Dr.Dream BBC Radio 1 Live in Concert 最初に手に入れた再発盤
and Other Stories  


コンダクションという秘儀 − ローレンス・D・"ブッチ"・モリス追悼  Conduction As Esoteric Ceremony − Lawrence D. "Butch" Morris RIP

  1. 2013/02/10(日) 21:49:30|
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 2013年1月29日、ローレンス・D・"ブッチ"・モリスが亡くなった。彼はコルネット奏者としてそのキャリアをスタートしたが、やがて「指揮」により即興演奏をリアルタイムで生成/編集する「コンダクション」を編み出し、世界各地で様々なミュージシャンを相手に実践に取り組んだ。
 ここでは1991年に彼が来日した際の「コンダクション」ライヴのレヴューを再録することにより、心から哀悼の意を表したい。


機.灰鵐瀬ションという秘儀 − ブッチ・モリスの「コンダクション」を巡って【「ジャズ批評」84号】

1.コンダクションとは何か

 「コンダクション」すなわち指揮された即興という考え方は、即興演奏家たちの国際的な音楽交流の機会が増えるに従って発展した。その目的は、集団即興演奏に自然発生的な形式と焦点を与え、またコミュニケーションを拡大することである。「コンダクション」はアンサンブルと指揮者が作曲を進めていくプロセスにおいて同じ役割を果すことを可能にし、また聴衆はこのプロセスを直接観ることができる。(ローレンス・D・“ブッチ”・モリス)
 「コンダクション」とは「指揮者」ブッチ・モリス(以下BM)を焦点として作動するシステムであり、紙の上では(ジョン・ゾーンの『コブラ』がそうであるように)様々に定義付けされた一連のサインの集積である。タクトの振り下ろしにより始められた即興演奏(全員または指名演奏者のみ)を素材にコンダクションによる編集・加工が施される。BMによれば、全部で約20個あるサインのうち、今回は7〜8個を使用しているという。こちらで把握したものを次に掲げる。

。ustain及びSustain Another
 サウンドの持続をタクトの振り下ろしにより、別のサウンドへと一変させる。 
音量・音高の上げ下げ、テンポの加減速、リズミックな強調・平坦化
8帖垢離廛譽ぅ筺爾紡个垢覬藾媚臆叩臣羯瀝彑
ぃepeat及びDevelop:パターンの反復演奏指定。パターンの長短や内容は自由。DevelopはRepeat指定のもとで、両掌の指し示す幅により定型反復への収斂(狭い)と、そこからの即興的な展開(広い)とをコントロールする。
ィelodic:(何でもいいから)メロディを演奏せよ。
Γraphic(Panningを含む):タクトの動きに沿って、ギサギザや渦巻きをはじめ様々な曲線をまるで図形楽譜のようにトレースさせる。Panningはタクトが自分の前を通過する際にON/OFFを一瞬交替させるもので、刷毛で塗るようにタクトを左右に大きくパンさせることから。
Вmitate:指名された演奏者のフレーズ/サウンドを模倣せよ
┘瓮皀蝓爾療佻拭Ω峠

2.リハーサル(3月3日)

 演奏者たちはP3の長辺側ほぼいっぱいに並ぶ(配置はBMの指定による)。各演奏者の位置関係を聴覚上明らかにするため(時にBMは目をつぶったままサウンドに耳を傾け、演奏者を指し示す)、生音あるいはアンプ直出しでPAはない(本番ではヴォイスや小音量楽器の補助として部分的に用いられていたが)。
 タクトを持ったBMが位置につくと、ピリピリとした緊張がオーケストラ全体に走る。集団即興により生み出されたサウンドが、様々なオペレーションにより、掻き回され、切り刻まれ、容赦なく切り捨てられていく。BMは全くの暴君として振る舞っているように見える。彼は指揮者への視線の集中を常に要求する。これが琴やターンテーブルにはつらい。「見ていない」と何度も注意される者がいる。サインの不明瞭さへの不満がそこここで漏らされる。指揮者の専制とサインの曖昧さの間で演奏者が疲弊し、ナーバスになっていくのがわかる。BMの説明。「サインは確定的ではなく、解釈の幅を本来的に持つ。プレイヤーは自分なりの解釈で音を出し、それを継続させるか止めさせるかは私が改めて判断する。」リハーサルは本番さながらの演奏に、時折サインの説明を折り込みながら、3時間近く続けられた。「習うのは終わった。明日は演奏しにきて欲しい」とBM。

3.トーク・ショー(3月3日)

BM:コンダクションを行うには、演奏される楽器の特性のみならず、参加者ひとりひとりの個性まで知る必要がある。コンダクションは演奏者ひとりひとりに語りかける方法、「〜して欲しい」というのではなく、店で買い物をするように聞き尋ねるやり方だ。ここで作曲とは読書のようなものだ。(線的展開としての)ストーリーをたどるのではなく、行きつ戻りつ前後しながら、その書物の提示する世界像を読んでいくという意味で。だからサインだけを特化するのではなく、表情や仕草を含めた全体から、指示内容を読み取って欲しい。メモリーだって、そのまま再現できなくてもかまわない。わからなくなって、あれこれ探すのが面白いんだ。そこには不可避的に演奏者の個人史と解釈が含まれてくる。
大友:実際のところ、サインは判断要素のひとつに過ぎない。他のプレイヤーの演奏は否応無く聞こえてるんだし。ただ積極的なアバウトさがないと難しいかも。BMも「状況を判断し、自分で考えて音楽にしてくれ」ってよく言っていた。

 BMはいつも茶色のノートを手放さず、会場からの質問に対しても思いつきをすぐに書き留める。会話や議論の中でなら、それをすぐさま反映させて、発言者が司会者として振る舞うこともできよう(言語はメタ化して異なるゲームを渡り歩く)。しかし即興演奏の現場なら..。これこそが「即興演奏者によるリアルタイムの作曲」が即興演奏者の身体から独立した機能/役割として分化/析出した契機ではなかろうか。集団即興演奏の全体をまるごと一度に操ろうという欲望。 

4.コンダクション49&50(3月4日・5日)

 書いては消し、加えては削り、推敲を重ねてはあてもなく(あるいははたと思いついて)本を開き、書き写し、書き直して、破り捨て、また書き始め、最初から読み返す....ミクロに見ていけば試行錯誤の連続でありながら、マクロに眺めるならダイナミックな情景の変転に溢れ、意外なほどメロディアスですらある。これは演奏者の個性差、楽器間の音色の違い、リズミック/メロディック、アタック/持続・反復、ソロ〜トリオ中心の器楽的展開とGraphicによる流動等、様々な対比を基軸としながら、さらに初日冒頭のセット(1セットは約30〜40分)ではオーケストラの分割操作により、マス・ムーヴメントをダンス・カンパニーの振付師のようにダイナミックに取り扱い、続くセットではうって変わってvn,b×2を指名して弱音ソロから始め、細部の積み上げによりこわれやすい繊細さを彫琢してみせ、また2日目最初のセットはキー・パーソンをフィーチャーした大きな場面の交替、続くセットはステレオフォニックな照応を活かしたサウンドの転写によるなど、構成に用いるレトリックが自在かつ多彩であるためだろう。 しかし、そうであればあるほど「このサウンドの巧みな融合は演奏者が相互にコミュニケートした結果なのだろうか」と訝らずにはいられない。むしろ音は演奏者の手元から奪い去られ、彼らの手の届かない彼方(BMの手元)で混ぜ合わされて、盛られた皿の上で初めてひとつとなっているのではないか..と。

5.「コンダクション」というメディア

 共に即興演奏者のネットワークを目指すメディアながら、コンダクション(cn)とジョン・ゾーンの『コブラ』(cb)は次の2点において決定的に異なる。
.灰鵐瀬ターがあらゆるサインを集中的に発する(cn)に対し、サインはプレイ ヤー間で取り交わされ、プロンプターはあくまでその通り道に過ぎない(cb)。◆癖篏的な手振りや目配せを伴うものの)各種サインがボード化できるまでに 記号化されている(cb)に対し、身振りと未分化なまま指示内容にも演奏者によ る解釈の余地(文脈依存性)を残している(cn)。
 『コブラ』が交通を徹底的に外化することによって加速を図るのに対し、コンダクションは音の運動と身振りの一体化を通じて、(表情を読み取るように)全容の一挙了解を目指す。オーケストラが激しく沸騰し、リズムを弾きとばして、次から次へと新たな音が吹き上がり、鍋から吹きこぼれる直前、BMは(瞑想するように眼を閉じ、満面に恍惚とした笑みを浮かべて)音のひだやサウンドの泡立ちまで触知しながら、身体を大きく揺らがされ、それはそのまま身振りとなって、タクトを通じて溢れ出し、サウンドを大きく波打たせうねらせる。この瞬間コンダクションは透明なメディアと化し、全演奏者はBMの視点を共有することになる。しかし、これはBMの身振りの表出力とアンサンブルの感応力の相互作用の極限として束の間現れるのであって、システムの約束された結果では決してない。むしろそれは苛烈な集中を要求する割りにはなかなか報われぬ、投資効率の悪いシステムである。BMはこの「秘儀」により祭儀的なコミュニオン/共同体の生成に関わる大文字の「音楽」の再創出を目指しているように思えてならない。1996年、アトランタ・東京・イスタンブールを衛星回線で結んで、オリンピックの一週間前に行われるという『サテライト・コンダクション』は、マクルーハンによるグローバル・ヴィレッジのヴィジョンの具現化そのものではないか。

【3月3日:公開リハーサル&トークショー 3月4日・5日コンダクション/P3art&environment/ブッチ・モリスconduction、大倉正之助;太鼓、佐藤通弘;三味線、田中悠美子;義太夫・三味線、一曾幸弘;能管(5日不参加)、沢井比河流;琴、金大煥;perc、高橋鮎生;中国琴、大友良英tt、溝入敬三cb、三宅榛名p、吉沢元治el-b、金子飛鳥vn、足立智美vo・electronics
※トークショー参加者/BM・吉沢・大友・平沢(通訳)】

Butch Morris『Current Trends in Racism In Modern America (A Work in Progress)』
Sound Aspects SAS4010 (LP)
Frank Lowe(ts),John Zorn(as,game calls),Brandon Ross(g),Zeena Parkins(harp),Tom Cora(vc),Christian Marclay(turntables),Eli Fountain(vib),Curtis Clark(p),Thurman Barker(marimba,snare drum,tambourin),Yasunao Tone(voice),Butch Morris(conduction)
 ノイジーな喧騒が大きく揺らぎながら移り変わって、刀根の謡曲ヴォイスにマークレイのディスコ・サウンドが襲いかかる。ソロの交代と重ね合わせに多くを負っているものの、紛れもないオーケストラ・サウンドが達成されている。



Butch Morris『Dust to Dust』
New World Records 80408-2 (CD)
Vicky Bodner(English horn),Jean-Paul Bourelly(g),Brian Carrott(vib),Andrew Cyrille(ds),J.A.Dean(tb,electronics),Marty Ehrlich(cl),Janet Grice(bassoon),Wayne Horvitz(key,electronics),Jason Hwang(vn),Myra Melford(p),Zeena Parkins(harp),John Purcell(oboe),Lawrence D.Butch Morris(conductor)
 楽器構成もあって、本作は前作と打って変わって映画音楽にも似たメロディアスなたおやかさとエキゾティシズムに溢れ、オーケストレーションもまた気品ある厚みを増している。6曲目ではグラフィックやパンニングの効果がよく聴き取れる。




供(簑

 ひとつ補足として、ある誤解を解消しておきたい。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」を事例に挙げた大澤真幸「合理化の反転像」【初出「MUSIC TODAY」21号。後に「合理化の反転像としての現代音楽」として『美はなぜ乱調にあるのか』に収録】についてである。
 即興演奏の歴史において、あるいはそれを超えたより広い文脈においても、「コンダクション」は再検討を要する重要な取り組みである。にもかかわらず「コンダクション」について日本語で読める文献は少ない。だからこそ、その数少ない論稿に記述されている「コンダクション」に関する致命的な誤解は指摘しておかなければならない。"ブッチ"・モリスによる「コンダクション」の実践を体験することができなくなった以上、今後、この国で「コンダクション」について思考する者が同じ過ちに陥らないように。

 この論稿で大澤は、「コンダクション」における指揮者を、彼お得意の第三者の審級、ここでは超越的な第三者の核心部に露呈する〈他者〉として位置づける。彼によれば西洋音楽における指揮者とは表現の可能性を支持する超越性を経験の内在性の水準から切り離し純化した存在であり、指揮者への従属を通じて、散乱する多様な演奏や歌が統一的な作品として現れることができる。続けて彼は「コンダクション」についてこう指摘する。「ところがコンダクションにおいては指揮者はこのような積極的な役割を何も演じない。(中略)演奏者にとって指揮者の意味は、それが演じる何か積極的に(ママ)行為の内にあるのではなく、ただその場に顕現しているということの内にある。ただ〈他者〉として直面しているという事実が、作品の統一的な構造を指定する超越性を、自然に生成してしまうのである。」

 この立論は「『コンダクション』において指揮者は、西洋古典音楽の指揮者以上に演奏に対して関りを持たない」という明らかな誤解に基づいている。今回再録したレヴューが示しているように、モリスは「コンダクション」に参加した演奏者たちに指示し、サウンドを切り替え、徐々に変化させ、コピー&ペーストし、一瞬のうちに塗り替える等、即興演奏そのものをリアルタイムで編集するという極めて積極的な役割を果たしている。時には暴君にも近いやり方で。むしろ「コンダクション」における指揮者は、大澤の理解とは真逆に、西洋古典音楽の指揮者以上の権能を有しているのだ。それゆえ大澤の分析は「コンダクション」にまったく当てはまらない。

 作曲作品=楽譜という発する音をあらかじめ規定しているテクスト/エクリチュールが存在するがゆえに「作曲者の意図の代行者」として現れてしまう西洋古典音楽の指揮者に対し、そうした先行規定の存在しない即興演奏に着目したのだろうが、ここで大澤は「コンダクション」を、そして即興演奏を、あまりに自らの立論にとって都合の良いモデルとしてとらえ過ぎている。


    

ロル・コックスヒル追悼  Lol Coxhill RIP

  1. 2012/07/14(土) 21:46:18|
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 ロル・コックスヒルが2012年7月9日に亡くなったことを、Richard PinnellのブログThe Watchful Earの追悼記事で知った。1932年9月19日生まれだから79歳。謹んで冥福を祈りたい。
  


 彼のことについては、これまで何度か書いてきた。「ジャズ批評」誌のテナー・サックス特集、惜しまれつつ廃刊した「スタジオボイス」誌の1頁コラム「異端音楽人列伝」(当時、同誌の編集担当だった松山晋也氏に原稿依頼を受けて、同誌に初めて執筆した思い出の記事)、そしてアルカンジェロが国内発売したCD『コックスヒル・オン・オガン』のライナー・ノーツ。今回は追悼の意を込めて、彼について最初に書いた「ジャズ批評」誌掲載の原稿を再録しておきたい。

 その前に思い出話を少し。生前の彼には会ったこともなければ、ライヴ演奏を見たことすらないのだが、彼の演奏は好きでディスクは結構集めていた。ソプラノ・サックス奏者としてはスティーヴ・レイシー以上に好きかもしれない。
 もうだいぶ前のことになるが、とある日本のソプラノ/ソプラニーノ・サックス奏者から「レイシーの凄さ」について聞かされたことがある。彼によれば、そもそもソプラノ・サックスというのはレイシーが吹いているように飛び飛びの音程をすぱっすぱっと切れ味よく出せる楽器ではないのだとのこと。「即興がどうのという以前に、レイシーはまずそこが凄い」と言われた。確かに鉱物のかけらを思わせる硬質な輪郭をたたえたレイシーの音色に比べると、コックスヒルのサウンドは何というか口ごもるようにくちゃくちゃとしている。レイシーの描線が鋭く彫り込まれた銅版のエングレーヴィングだとすれば、コックスヒルの軌跡はドライポイントの版面をぐりぐりと引っ掻き回したように見える。あるいは筆触だけを頼りに、暗闇でペンを走らせたようなサイ・トゥオンブリのドローイングを思い浮かべてもよいかもしれない。けれど、そうした「解像度の低さ」が固有の語り口へと高められているのが、コックスヒルの味わいだと思う。古今亭志ん生の語りには「ふら」があると称されたが、そんな感じ。そこがまた禿げ頭のいなせな職人を思わせる彼の風貌ともよく似合っている(レイシーの哲学者/求道者的佇まいとの鮮やかな対比)。

 ライナーを執筆した『コックスヒル・オン・オガン』はフリー・インプロヴィゼーション系の作品なのだが、彼の音楽世界の全体(もちろん私の知る範囲においてだが)をぐるりと眺め渡した時に、そこが彼の特質が一番発揮された領域だとは必ずしも思わない。50年代の英国ジャズ草創期から、ビバップはもちろん、ラテン・ジャズ、ソウル、ファンク、ブルース等を自在に吹きまくり、クラブをはしごして仕事していた彼は、ラジオから流れるポップスや道端のパブで奏される軽音楽が本当に好きだったんだろうと思う。デヴィッド・トゥープ、スティーヴ・ベレスフォードら、はるか年下のフリー・ミュージック界の「アンファン・テリブル」たちと摩訶不思議なパーティ・バンド〈ザ・プロムネーダーズ〉を組んで、童謡からロックまでポップス・メドレーを演奏してみせた(全編、彼がリードを取って吹きっ放し)のは、決して実験や諧謔のためではなかったろう。ちなみに、なぜかこのバンドは全員が変名で参加していて、彼はロクスホーン・ロンドーと名乗っている(フランス貴族かって)。

 「飄々とした」というのは、おそらく彼の演奏/音楽性を形容するキーワードになる語だと思うのだが、ここでひとつ注意しておきたいのは、「飄々」性が本来的に有している一定の距離を置いた醒めた傍観者性のままに枯淡の境地に至ってしまうことは、彼の場合、決してなかったということである(彼の「枯れ具合」を高く評価する向きもあるだろうが)。彼の演奏/音楽性の切っ先は、いつだって音楽が熱く息づき溢れ出す核心に届いていた。
 その一例として挙げたいのは、英国キャロライン・レーベルからリリースされた彼のソロ名義の作品『ウェルフェア・ステート』である(Lol Coxhill『Welfare State』(Caroline Records C1514))。もともと「ウェルフェア・ステート」とは英国の劇団の名前で(かつて利賀演劇祭で来日したこともある)、コックスヒルがその音楽監督を務めたことから、この作品が制作された。表及び裏ジャケット、さらには付属のポスターには劇団の公演の様子をとらえたスナップショットが散りばめられており、それを見るとフェイス・ペインティングをしたブラス・バンドが街頭を練り歩き、巨大な藁人形が野外で燃やされるといった、民衆文化の基層から汲み上げた豊かな想像力をサーカス的な身体を通じて解き放つパフォーマンスが実に楽しそうだ。
 アルバムの冒頭、いかにも英国の片田舎という田園風景を背景に、コックスヒルのソプラノがまるで鼻歌のような気楽さで滑り出す。むしろクラリネットのようなオールドタイミーな温もりとふくらみのある豊かな抑揚をたたえたラインが、ふと急流に差し掛かって舌がもつれるようにサウンドが泡立ち、そこを抜けると視界がすっと晴れ渡って管のアンサンブルが姿を現す。突然、人数が増えたように感じられ、演奏が熱く息づき踊り出す。思わず「いま音楽が生まれた」と言いたくなる瞬間だ。ディキシーランド・ジャズがニューオリンズの紅灯街ではなく、英国の片田舎の田園地帯、ひなびた水車小屋のある小川のほとりに生れ落ちたという風情。ブラスの咆哮に木管の声音が、重々しい足取りに軽快なギャロップが、ぶかぶかしたチューバの低音にテニス・ボールのように弾むチェロの中低域が取って代わる。サイズこそエコノミックに縮小しながら、そこに秘められた熱さにはぴりりと胡椒が効いている。「指人形のスペクタクル」とでも言おうか。

 ついでに彼の作品からお気に入りを5枚選ぶとしよう。まずはやはり彼のソロ名義の初作『イアー・オヴ・ビホルダー』。彼のすべてがオモチャの缶詰のようにぎっしりと詰まっている。次いで先に挙げた『ウェルフェア・ステート』。ライナーを再録した『コックスヒル・オン・オガン』もインプロヴィゼーション系と敬遠されそうだが、ノン・イディオマティックな点描主義や互いの手の内の探りあいに陥ることなく吹きまくりながら、どこまでも果てしなくズレていく彼を聴くことができる。80年代後半から90年代前半を過ごした仏ナトー・レーベルからは、あえて(それなりに)有名なメロディ・フォー系ではなく『カフェ・ド・ラ・プラス』を。アコーディオンとの洒脱な辛みが楽しい。最後はモーガン・フィッシャーと組んだ『スロー・ミュージック』。コックスヒルはエコー・マシーンを用いたソロを初期から行っているのだが、ここまでアンビエントに徹したものはない(ただし主導権はフィッシャーにある)。この作品の素晴らしさはかえって現在の方がわかるのではないか。薄暗く落ち着いた涼しさと滑らかさは、上等な吉野葛を用いた和菓子のようだ。

    
    『Ear of Beholder』        『Welfare State』         『Coxill on Ogun』       『Cafe De La Place』        『Slow music』

 最後にオマケを1枚。ディヴ・ホランド(pf)、コリン・ウッド(vc)と組んだジョニー・ロンド・トリオのシングル盤。ホランドのデュオはFMPからLPリリースされているだが、ここではあのようにフリーに流れず、パブ向け軽音楽一直線。こうした音楽はホール・ワールドの同僚デヴィッド・ベッドフォード(pf)と『イアー・オヴ・ビホルダー』でも演っているし、同じくベッドフォードいっしょに、ケヴィン・エアーズのライヴ・ショー『バナナ・フォリーズ』でも披露している。いずれにしても英国下町系。


    Jonny Rond Trio



 14歳の時、パーカー、ガレスピー、サラ・ヴォーンによる「ラヴァー・マン」を聴いてジャズに目覚めたというコックスヒルは、1940年代後半から幾つものクラブ・バンドを渡り歩いてジャズ、アフロ・キューバン、ソウル、ファンク、ブルース等、様々な種類の音楽を演奏してきた。68年に「デリヴァリー」に加入。プログレ人脈カンタベリー・ツリーに関わりを持つようになる。その後、ケヴィン・エアーズのグループ「ホール・ワールド」に参加。そこでの同僚デヴィッド・ベッドフォードらの助けを借りて初ソロ作『イアー・オヴ・ビホルダー』を録音。この時点ですでに50年代から手を染めていたというソロ・インプロヴィゼーションをはじめ、環境音を背景とした野外録音、ピアノ伴奏付きの陳腐な俗謡、エコー・マシーンを用いた一人多重的演奏、自身による語り、ブラジル音楽、子どもたちの歌‥‥と、後の彼の活動の原型がすべて出揃っていることは注目に値する。彼のパブ・ミューザックと古き佳き時代のマイナー・ジャズへの偏愛は、常に彼の音楽にどこかノスタルジックでユーモラスな調子を与えているが、彼の演奏がそれゆえに追憶の中に自閉してしまうことがないのは、先に見たように彼のつくりだす音が多様な「夾雑物」に対して開かれ、「異物」によって侵されるヴァルネラブルな存在であるからだ。そこに働いているのは一種生理的な〈OFF〉感覚とでも言うべきものだ。
 微かにかすれ空間的な隙間をはらんだ牧歌的な音色〈OFF〉。その音色の佇まいそのままにゆったりと中空を旋回し続け、決して高みを目指すことなく、むしろその都度ピッチを踏み外していくようなフレージング〈OFF〉。彼の語り口は、鋭いエッジによって空間を切り開き、急速に昇り詰めるレイシー〈ON〉の対極にある。あるいはデレク・ベイリーによる「カンパニー」〈ON〉に参加し、またデヴィッド・トゥープ、スティーヴ・ベレスフォードといった過激な偶像破壊者〈ON〉と活動を共にしながら、どこか一歩外れて傍らにポツンと一人ぼっちで立っている〈OFF〉‥。こうした〈OFF〉感覚こそが、彼の活動の夢見るような多様さを支える強靭な「偏心軸」なのだ。
※「ジャズ」批評71号(1991年)から再録。


最後に画像のオマケ。
Lol Coxhill『Toverbal Sweet』

クラリネット・ルネッサンス−クラリネットを巡る耳の個人史から  Clarinet Renaissance−From Personal Ear History around Clarinet

  1. 2012/02/01(水) 23:45:00|
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 綜合藝術茶房喫茶茶会記での四谷音盤茶会の時だったと思うが、益子博之から「NYダウンタウン・ジャズ・シーンにおいてクラリネットが復権してきている」と聞かされて、私の脳裏にはすぐさま、昨年のベスト30に選んだクラリネット・デュオThe International Nothingのことが浮かんだ。まるで暗い水の中を泳ぎ回る黒い魚のように、暗がりからすらりと立ち上がり、輪郭をおぼろにしたまま、滑らかな肌をすり合わせる息遣いのアンサンブル。それからしばらくして、やはり四谷音盤茶会で益子が聴かせてくれたThe Clarinetsの演奏には、それと共通する今にもほどけてしまいそうな、あえかな手触りがあった。それは共演者の身体のアクションにアクションをもって応え、生み出されるサウンドはそうした反復強迫的なアクションの連鎖(マス・ヒステリー的な集合身体)の結果でしかないような「即興演奏」には望み得ない世界だ。そのとき私は、ここへと至るクラリネットの足取りを、私の耳の記憶を通じて改めてたどり直してみようと思った。


1.前史〜Eric Dolphy

 とは言え、所詮は私の耳の記憶だから、それほど遠い過去まで溯るわけにはいかない。かつて、ジャズ・エイジの初期、Benny GoodmanやSidney Bechetが花形スターだったクラリネットの黄金時代については、知識としてしか知らないことを白状しよう。
 やがて音量/音圧に優るサキソフォンの誕生とビバップによる小編成化の浸透が、クラリネットをまばゆいフットライトから遠ざける。そうした中で、まるで古代生物のようにでかい図体をして、不器用にのそのそと這い回るバス・クラリネットが、マルチ・リードの一環としてEric Dolphyにより見出される。これ以降、この扱いにくい楽器が、まさに扱いにくいがゆえの潜在的可能性の豊かさによって、たとえば先鋭的なジャズやフリー・インプロヴィゼーションのシーンで注目を集めていくことになるわけだが、後で詳しく見るように、そうした後の探求とDolphyの演奏には根本的な違いがあることに注意しよう。ひとことで言えば、後の探求がメカニックな奏法の開発による表現領域拡大であり、そうした奏法/サウンドのモジュールの獲得であったのに対し、Dolphyのそれはそうした水平的な拡大ではなく、〈別人格〉としての新たなヴォイスの獲得/憑依だったのではないだろうか。彼にとって、アルト・サックス、フルート、バス・クラリネットは、それぞれ異なる仕方で世界と〈交信〉する〈交信機〉にほかならない。〈交信機〉が変われば、そこに現れる〈世界〉も様相を一変し、これに対する主体の在りようも変わってくる。だから『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candid)に収められた「What Love」におけるMingusのベースとDolphyのバス・クラリネットによる不可思議なデュオが、「宇宙生物同士の会話」にたとえられるのはまったく正しい。ここでのDolphyの演奏は楽器の機能の新たな拡大に向かう代わりに、むしろジャズ的な語法の洗練(それはいかに振舞えばカッコイイかという膨大な決まりごとの集積である)を脱ぎ捨て、ジャズ・コミュニティで承認されているコミュニケーションのコードを放り投げた、サウンドのざらざらした(あるいはのっぺりした)生地を無様に露呈させるものとなっている。

  
『Mingus Presents Mingus』  Eric Dolphy on bass clarinet
                     後ろはMisha Mengerbergか


2.NYダウンタウン・シーン

 後の探求の例として、ここでは80〜90年代にNYダウンタウン・シーンで進められたNed RothenbergやElliott Sharpによる実践に触れておこう。彼らはバス・クラリネットの豊穣な倍音や同様に豊かな楽器本体の共鳴/共振(これらは様々な表現可能性を開くト同時に、それだけ制御しにくく、音色を不安定にしやすい)に果敢にアクトし、特殊タンギングによる分厚い鉈を振り下ろすような破裂音や重音、尺八を思わせる極端な音の跳躍と鋭く甲高い響き、ノンブレス・マルチフォニックスによる濃厚な倍音の渦等を次々に獲得していった。これらの特殊奏法の獲得が、単に楽器の機能/表現領域の拡大にとどまらなかったことに注意を促しておきたい。すなわちRothenbergにおいて、それは広がりのあるサウンドスケープの中に高域/中〜低域/破裂音やキーによる打撃音の対比と重音を含む構成を持ち込むための回路として機能したのだし、また、Sharpにおいてはオールオーヴァーな音響構築に打/弦楽器のみならず、管楽器による金属質の肌理を導きいれるための水路となっている。
 ここでひとつおさらいをしておきたい。彼らは(即興)演奏者であると同時に作曲家でもある「コンポーザー/パフォーマー」としてシーンに登場した。その背景には当時のNYダウンタウン・シーンが、従来の即興共同体が崩壊した後に演奏者間の交感をどのように成立させるかを模索していたことがある。互い異なる音楽的出自を持ち、それぞれにユニークな語法を個々に探求してきた演奏者たちを、「ゲーム・ピース」(John Zorn)や「コンダクション」(Butch Morris)といった規則によって構造化されたメディア空間において出会わせることが、とりあえずの解決としてもたらされた。シーンのメンバーたちは、即興共同体が崩壊し、これまで積み上げられてきた前述の決まりごと(イディオムもまたそのひとつである)が灰燼に帰した時に、楽器/サウンドをDIY的に解体/再構築すること(John Zornのゲーム・コールズ、Elliott Sharpの自作楽器、David Mossのジャンク打楽器、Christian Marclayのターンテーブル等)を彼らなりの再出発点とした。こうした解体によるサウンドの断片化と新たな文脈による再構築(コラージュ/ブリコラージュ)という方向性は、言わば演奏/サウンドの量子化=情報化の側面を有しており、もともとメディア空間と親和性が高い(さらにはその後のサイバー・スペースとも)。これによりシーンは「情報戦争」的な様相を呈し、ほとんど自滅的な消費の加速へとのめりこんでいくことになる。だが、少なくともその初期においては、この解体/再構築のパンクなDIY性が、情報消費の加速に対する一種の抵抗拠点たり得ていたように思う。すなわち、映像を早送りで眺めるような、距離を置いた一方的な対象化の眼差しの下での視覚的情報消費に対し、いちいち皮膚に触れ、指先にひっかかるような、距離を欠いて相互的な触覚による読み取り/書き込みとして。
 さて話を元に戻そう。バス・クラリネットの〈発展的開発〉の一方で、John Zornが「ラディカル・ジューイッシュ・カルチャー」と呼んだ界隈では、クラリネットは依然としてクレズマー・バンドの花形楽器だった。例えばThe KlezmaticsにおけるDavid Krakauerがそうした代表として挙げられるだろう。そこにはディアスポラにより様々な場所で生活することを余儀なくされたために、ユダヤ文化にしみこんだ多様な民族文化(主に東欧ということになるのだろうが)や大道芸、マーチング・バンドや結婚式や葬式の賑わいの遠い記憶が鳴り響いているように思う。こうしたクラリネットへと流れ込んだ過去の記憶の堆積については、また後で触れることになるだろう。
 実は当時、初期のChris Speedのクラリネット演奏も耳にしているのだが、Tiny Bell Trio等の東欧系マイクロ・ミュージック(硬い鉛筆で描かれたデッサンの感触)の一種として、こうした過去の記憶を投影しつつ、また読み取りながら聴いていたことを白状しておかねばなるまい。

      
  Ned Rothenberg   Ned Rothenberg『Trespass』   Elliott Sharp『(T)HERE』


  
   David Krakauer   David Krakauer's Klezmer Madness
                        『Klezmer,NY』


3.Luis Sclavis〜Trio de Clarinettes

 実を言うと(告白ばかりだな‥)、私の「クラリネット初体験」はアンサンブル・タッシによるオリヴィエ・メシアン「世の終わりのための四重奏曲」である。もちろん、それ以前にクラリネットを聴いたことがないわけではない。幼稚園で「クラリネットをこわしちゃった」を歌い、小学校で「ラプソディ・イン・ブルー」を聴かされ、テレビでクラリネットをくわえた北村英治の姿だって見ているのだから。
 それでも、クラリネットという楽器が私の耳に改めて刻み込まれたのは、この作品を通してだろう。冒頭曲、クラリネットは輪郭を淡くして、薄闇に溶け込むように鳴り響き、遠くでカリヨンのようにおぼろにたなびくピアノの和音と、手前で時の流れに端正な刻み目をつける弦との間の空間を曖昧に満たす。およそ抵抗というものを感じさせず、空間ににじみ広がるように自在にかたちや容積を変え、時の流れを伸び縮みさせる音色。対して2曲目では、眼前で炸裂するピアノに続き、とてつもない危機を告げるかのように鋭く鳴り響くクラリネットは、谷を渡る角笛に、天使のトランペットに、弦アンサンブルの一員に見事になりすましてみせる。自分自身の個性/輪郭を浮き立たせず、背景に溶け込んだまま、何にでも姿かたちを変えてみせるトリックスター的な万能の語り手‥。私は久しぶりに出会ったクラリネットに対して、勝手にそんなイメージを持ったのだった。
 そうしたイメージが一瞬よみがえったのは、Louis Sclavisを初めて聴いた時だった。曲は「Duguesclin」(『Chine』(IDA)の冒頭曲)ではなかったろうか。乾いた風が運んでくる異国の気配。曲がりくねったフレーズが紡いでいく濃密なエキゾティシズム。さしずめアーラーブに当たりそうな前奏部分のゆったりした息遣いが、テーマ部分ではがらりと声音を変えて端正な口調となり、さらに続く急速調の即興部分では、音色は輝きと鋭さをいや増して、自らを切り刻みながら疾走し、振り返れば砂漠の逃げ水にも似たおぼろな像を結んでいる。次々と移り変わる場面転換に合わせて、鮮やかに生成変化を遂げながら、魅惑的な物語を紡ぎ続けるシェヘラザードの如き不可思議な語り手。あるいはソロ第1作『Ad Augusta Per Angustia』(Nato)のやはり冒頭に収められたライヴからのひとこま(「La Signification des Choix Musicax」)で、息つく暇もない早口の繰り返しを、そのまま続けてバス・クラリネットで「声態模写」し、満場の笑いを取るトリックスターぶり。
 当時でもSclavisの主楽器はむしろバス・クラリネットだったが、先に見たNYダウンタウン・シーンの演奏者とは異なり、それは確かにクラリネットと地続きの土地だった。トルコからバルカンを抜ける横軸とイタリアから北アフリカに至る縦軸を自在に組み合わせて仮想の「汎地中海音楽」をつくりあげていた彼にとって、クラリネットという硬い鉛筆や面相筆に似た「筆記具」はきっと使い勝手が良かったのだろう。ここで彼は、クラリネットに流れ込んでいる過去の記憶を想起しているのではなく、あくまでそうした過去の記憶を素材の一部として新たな物語を書き進めているのだ。
 Sclavis絡みでもうひとつ特筆すべきものに、クラリネット・アンサンブルの活動がある。まずはJacques Di Donato、Armand AngsterとのTrio de Clarinettes。90年のトータル・ミュージック・ミーティングのライヴ録音がFMPからリリースされている。現代音楽畑でも活躍する2人(この盤でもピエール・ブーレーズ「ドメーヌ」をデュオで演奏している)を引き込んで、クラリネットからバス・クラリネットはもちろん、コントラバス・クラリネットまで持ち出して演じる名人芸の数々は、もう「ごめんなさい」と平伏するしかないほど素晴らしい。
 同種楽器のアンサンブルという点では、すでにThe World Saxophone QuartetとRova Saxophone Quartetが70年代末から活動を始めており、Julius Henphil, Oliver Lake, Hamiet Bluiett, David Murrayとそれぞれ単独で活動する奏者が集ったソロ中心の前者と、グループでの活動がメインで構造的なアンサンブル演奏に基本を置く後者という二大類型
示されていたのだが、このTrio de Clarinettesはそのどちらにも当たらない。鮮やかな超絶技巧と卓抜なヒューモア、思いがけないひらめきに溢れた彼らの演奏は、楽器の同質性を基盤としながら、むしろそれゆえに明らかになる僅かな抑揚の差異や声音の違い、息のかすれや響きのにじみが、各人の〈声〉を交感不可能なものとしてしまうような地平を前提としている。これにより可能となる身体性を刻印された〈語り〉の卓越こそが、3人が共にクラリネットを携えて点描的なフレーズを投げ交わす中から、楽器を投げ捨ててヴォイスの応酬となる場面や、他の2人の寝息の上でか細く紡がれるオーヴァートーンといったパフォーマティヴな演奏を支えているのだ。
 興味深いのは、SclavisがTrio de Clarinettesとほぼ同時期にSilexレーベルの第1作Quintet Clarinettes『Music Tetue』にゲスト参加していることだ。汎地中海的なトラッド・ミュージックの先鋭的な探求を進めたSilexレーベルの偉業については、私のトラッド体験を披露した時に多少触れたが、あの程度ではとても語り尽くせるものではない。ここでもそれはさておいて、ブルターニュ・トラッドの演奏者5人で編成されたQuintet Clarinettesについてだけ述べておこう。彼らはトラッド曲を素材に演奏を繰り広げるが、メンバーにはErik Marchandのようにむしろ歌手が本職の者も含まれており、複雑な編曲や超絶技巧を駆使するわけではない。むしろ彼らの特色は、トラッドならでは特徴ある節回しや息遣い、あるいは痙攣するような素早いリフや甲高い音域での重ね合わせ等により、クラリネットという楽器の特質を変貌させ、クラリネットによるアンサンブルを様々な民族楽器を映し出すための〈鏡〉として用いていることだ(ただし、一部でtreujenn-goalなる民族楽器を使用している。これがどのようなタイプの楽器かは調べがつかなかった)。ここにはラディカル・ジューイッシュ・カルチャーの箇所で述べた「クラリネットに流れ込んだ過去の記憶の堆積」と響きあうものがある。ちょうど封印されたDNAが近親交配によってよみがえり、系統樹をさかのぼる「先祖帰り」を来すように、近代化以前の音風景がパノラマのように現れては消えていく。

  
   オリヴィエ・メシアン       Louis Sclavis『Chine』       Louis Sclavis
『世の終わりのための四重奏曲』                   『Ad Augusta Per Argustia』

  
  
  Trio de Clarinettes         Quintet Clarinettes


4.クラリネット・ルネッサンス

 部屋の隅の暗がりから漂う何者かの気配、暗い水の底から浮かび上がる巨大な影、輪郭の不確かな茫漠とした広がり、後頭部にのしかかる得体の知れない重さ、距離感のない曇り空、いつの間にか耳を塞いでいる空気の厚み‥。メシアン「世の終わりのための四重奏曲」でクラリネットに魅惑された私にとって、クラリネットの特質とは、ジャズ・エイジ初期に人々を熱狂させたピロピロと軽快に跳ね回るリード・ラインの明快さよりも、こうした薄暗く不確かな希薄さにあるようだ。そしてまさに、The International NothingやThe Clarinetsの演奏も、こうした領域に照準を合わせているように感じられる。
 Anthony Burr, Oscar Noriega, Chris Speedの3人により結成されたThe Clarinetsは2006年に第1作を発表している。BurrとNoriegaの2人はバス・クラリネットも奏するが、その演奏はバス・クラリネットがクラリネットに対して有する「過剰さ」に焦点を当てたものではなく、聴き取りにくいつぶやきにも似た低音のうごめきであったり、暗い水の流れを思わせるドローンであったりする。クラリネットにおいても、音色の希薄さが多用されており、たとえ素早いパッセージがあったとしても、それがスウィング・ジャズのように明確に独立したラインを奏でることは極めて稀であって、小鳥の羽ばたきが瞬間の痕跡を残す‥というような点描的な演奏が大部分を占めている。複数のクラリネットが素早く交差する場面でも、それぞれのライン、各人のヴォイスが際立つことはない。むしろそれらは多方向から同時進行で組み上げられた幾何学模様の印象を残す。編み上げられた組み紐や精緻なアラベスク模様が網膜に刻む鮮やかな残像。
 暗がり/沈黙になじみ、そこから少ない光量/息の量で素早く立ち上がり、また空間に溶けるように還っていく演奏は、閉管構造ゆえに偶数次倍音を持たず、波形上は矩形波になるというこの楽器について、明らかに特定の側面を戦略的に選び取っている。それがこの輪郭/距離感が曖昧で、背景に溶け込み、空間に溶け広がる甘味/苦味を感じさせる音色である。この選択はChris Speedにとって首尾一貫したものではないだろうか。彼のサックス演奏の特質として多田雅範が指摘する「不機嫌なトーン」、「棒読み」を私は次のように解釈している。ジャズにおいては、いかに振舞えばカッコイイかという細部の決まりごとの膨大な集積としてジャズ語法が、書道でいう「永字八法」のように定められており、あのフリー・ジャズの破壊的経験ですら、これを拡張こそすれ、廃棄することはなかった。
 これに対し、それらの細部に抗い、「一」の字の入筆から終筆に至る力と速度の配分、「はらい」の力の抜き方、「はね」の角度と長さ等々を組み替えてつくりあげたオルタナティヴがSpeedの「棒読み」ではないか。それは「フレーズからトーンへの転換」(益子博之)の一環を成すと同時に、「フォルムからマチエールへの転換」に相当している。クラリネットからイディオム的なフレーズを排し、トーンすなわちサウンドのマチエールの探求を進めた結果が、水彩絵の具の滲んだ広がりのようなThe Clarinetsの音世界ではないだろうか。The Clarinetsの演奏には、互いの響きの肌をすり合わせる、ただそれだけで成り立っている(触覚による反応の軌跡がミクロなフレーズをかたちづくる)と思われる場面が数多くあるが、サウンドのマチエールの露呈が触覚を招き寄せるとすれば、何の不思議も無い。
 こう考えていくと、John Zornがクール・ジャズやハード・バップを熱愛し、前述のジャズ語法をむしろスタイリッシュに強調したかたちでモジュール化し、自らの演奏に取り込んでいることとの対比には興味深いものがある。それはやはり伝統の中にいると自覚している者(Chris Speed)と伝統に憧れながらその外にいる者(John Zorn)の違いなのだろうか。

 NYジャズ・シーンでのクラリネット復権に対応するヨーロッパの動きとしては、Xavier Charles , Kai Fagashinski, Michael Thiekeらの活躍が挙げられるだろう。
 Xavier CharlesはJohn Butcher, Axel DornerとのトリオThe Contest of Pleasuresにより、個々の演奏者が対話を交わすと言うより、響きを溶け合わせ(各演奏者の輪郭はそれだけ曖昧になる)、その溶け合わせた響きを流動変化させる音響的なフリー・インプロヴィゼーションに先鞭をつけた。彼の近作『Invisible』では、気息音による演奏が管の内壁を舌で這い進むような鋭敏さをたたえながら、通常よくあるようなドローンへと至らず、素早く差し替えられ、キーの打撃音やタンギングの爆発、管の各部の共鳴と交錯しながら、細密なミュジーク・コンクレートをつくりあげている。そのスウィッチングの速度は C.A.Sehnaoui 以上と言えるが、彼女のような超高性能サンプラー演奏的な感触はなく、むしろ管の内部に渦巻く息のミクロな乱流に眼を凝らし、微細な変化をピックアップし続ける流体力学の研究者を思わせる。環境音に薄いレイヤーを敷き重ねる2トラック目の演奏は、対象空間を管の内部から部屋の内部へと拡大したものととらえられよう。ここではサウンドのマチエールの露呈が、痛々しくも鋭敏な粘膜/センサーの露出に結びつき、空間に震えるような神経網を張り巡らすに至っている。
 Kai FagashinskiとMichael Thiekeの2人はクラリネット・デュオThe International Nothingを結成し、暗闇に息づくような演奏を進めている。Ftarriからリリースされた作品を見てみよう。息を精妙にコントロールされたクラリネットは表面のざらつきを全く持たず、それゆえ輪郭の定かでない、ウナギのようにぬらりとしたとらえどころのないサウンドに至る。ここで2本のクラリネットは、暗い水の中を泳ぐ黒い深海魚のように(ジャケットに描かれた一見音楽と不似合いな図案は、このことの寓意なのだろうか)、その輪郭/所在を明らかにしないまま、ぬらぬらと絡みあい、するりとすり抜けながら、そのおぼろげな軌跡によって、解きほぐし難い空間的文様を編み上げていく。
 もうひとつ紹介したいのが、The International Nothingの2人がメンバーとなっているThe Magic I.D.である。The Magic I.D.はChristof Kurzmann(vo,computer)とMargareth Kammerer(vo,guitar)の男女ヴォーカルによるソング・ピースを演奏するグループで、神経質で気難しいエレクトロニクス奏者とばかり思っていたKurzmannが、案の定生真面目な声で歌うのも興味深いが(Kammererの情熱的でソウルフルな声と鮮やかな対比を成している)、さらに注目すべきはThe International Nothingの2人がデュオの演奏を、そのままソング・ピースに持ち込んでいることだ。もちろんオブリガードやリフレインを提供する場面もあるのだが、茫洋としたハーモニクスで空間を染め上げ、声にうっすらとヴェールをかけ、あるいは木漏れ日にも似たちらつく照明を当てるあたりは、これまでのソング・ピースの演奏にはなかなか見られなかった、声と楽器の関係性のあり方と言えよう。誰かかArt Bearsを例に引いていたが、確かにDagmar Krauseの凍てついた声にFred FrithとChris Cutlerがつくりだすざらざらしたノイズがかぶさっていく際の衝撃の余韻が、ここには鳴り響いているのかもしれない。

         
The Clarinets『The Clarinets』      The Clarinets
                     『Keep On Going Like This』

  
The Contest of Pleasures    Xavier Charles『Invisible』

  
The International Nothing         The Magic I.D.           The Magic I.D.
                     『Till My Breath Gives Out』  『I'm So Awake / Sleeples I Feel』

5.クラリネットの〈本質〉

 ここまで私個人の耳の歴史に沿って、クラリネット復権までを跡付けてきたが、こうしてたどり直してみて、仮初めに「クラリネット・ルネッサンス」と名づけてみた今回のクラリネットへの注目が、これまでの行われてきたバス・クラリネットの過剰さや過去の記憶の堆積といった、クラリネットの+α部分ではなく、そうしたものを削ぎ落としたクラリネットの〈本質〉へと向かうものであることが、改めて明らかになったように思う。その点でクラリネットへの注目は一過性の〈流行〉で終わることなく、底流に沈みながらも、ずっと継続していくことだろう。
 今回のたどり直しの中で用いた分析枠組みはまだまだ鍛錬が足りず、たとえば昨年6〜9月分のディスク・レヴュー(※下記URL参照)で採りあげたJoe McPheeをフィーチャーしたクラリネット・クインテットIrchaによる『Lark Uprising』の魅力には、その刃が届かないところがある。そこで演奏者たちは、たとえばバス・クラリネットの軋轢に満ちた音色を最大限に活用し、あるいはクラリネットの上澄みを溶けあわせ、ため息やつぶやきにも似たちっぽけな響きを、そこかしこに配置して音楽を息づかせていくのだが(つまりは今回の分析はあちこちかすってはいるのだが)、同時に機関車のようなリフレインを多用した役割分担も駆使しているのであって、ここで音楽に豊かさをもたらしている魔法のような何かをひとことで名指し解明することなど、とてもできそうにない。少しだけ思うところを述べて、残りは今後の宿題としたい。
 ひとつありうるのは、クラリネットがサックスに対して本質的に持つサウンドの等質性/無名性の効果である。サックスが演奏の場に姿を現す際に、すでに演奏者の名を刻印された個性豊かな〈個人名のヴォイス〉を獲得しているのに対し、クラリネット演奏にはそうした差異は少ない。ましてや、フレージングを排したマチエール中心の演奏となれば、なおさらヴォイスは個人の署名を欠いた無名なものとなる。このことがクラリネット・アンサンブルが集合的なヴォイスを獲得するために役立っているのではないだろうか。
 ここで各クラリネットのヴォイスは、切り離された各個人としてソロに精出すわけでもなければ、無名性の中に完全に埋没してしまうわけでもない。声音の微妙な違いがアンサンブルに厚みをもたらし、無名性に軸足を置いていることがホケットにも似た一音ずつの投げ交わしによるフレージングを可能とし、屋外の開けた空間とあいまって、我彼の区別の無い祝祭的な空気を運んでくる。これは同種楽器による即興アンサンブルに特有の現象かもしれない(先に見たようにサックス・クワルテットには機能分化した先例がすでにあるわけだが)。同じ回のディスク・レヴューの中で、やはりポーランドのFoton Quartetの演奏について「彼らは、互いに命を預けあって十数年を共に過ごした炭鉱夫仲間のように、視線すら交わさず仕事にかかる。それでも信頼に裏付けられた阿吽の呼吸が、途切れることのない息の長いアンサンブルを生み出していく」と評したが、そうした文化の固有性も無視できないところである。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-133.html


  Ircha 『Lark Uprising』

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