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耳を開き続けること  To Keep Your Ears Open

  1. 2013/10/29(火) 22:36:01|
  2. 批評/レヴューについて|
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  4. コメント:0
 たびたびお世話になっていた奈良の通販CDショップpastel records(*)から、年内に閉店とのお知らせが届いた。これまで導いてくれた貴重な耳の道しるべが、またひとつなくなってしまうことになった。
*http://www.pastelrecords.com

 以前にpastel records紹介の記事(※)を書いたことがあるが、ただただ新譜を大量に仕入れて‥でもなく、「売り」のジャンルに照準を絞り込むのでもなく、ポップ・ミュージックの大海原に漕ぎ出して、その卓越した耳の力を頼りに、新譜・旧譜問わずこれはという獲物を採ってきてくれる点で、何よりも「聴き手」の存在を感じさせるお店だった。
 一応、取り扱いジャンルはエレクトロニカ、フォーク、ネオ・クラシカルあたりが中心ということになっていて、店名とあわせてほんわりと耳に優しく暖かな、それこそ「パステル」調のイメージが思い浮かぶが、決してそれだけにとどまらず、さらに広い範囲を深くまで見通していた。それは私が当店を通じて知ったアーティストの名前を挙げていけば明らかだろう。中には他所では名前を見かけなかったものもある。Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe, Satomimagae ....すぐには思い出せないだけで、まだまだたくさんあるだろう。
※http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-13.html

 すべての作品に試聴ファイルが設けられており、実際に聴いて選ぶことができるのも大きかったが、各作品に丁寧に付されたコメントが素晴らしく的確で、pastel recordsを支える確かな耳の存在が感じられた。音楽誌に掲載されるディスク・レヴューが加速度的に「リリース情報として公開されるプレス・シートの丸写し」となっていくのに対し、pastel recordsのこうした揺るぎない姿勢は、単にショップとしての「誠実さ」の範囲を超えて、聴き手としての誇りをたたえていた。「自分が聴きたいと思う作品を提供する」とはよく言われることだが、それを実際に貫くのは極めて難しい。
 大型店舗と異なり、仕入れられる作品数も限られていただろうに、Loren Mazzacane Conners(実は彼の作品を探していて、ここにたどり着いたのだった)やMorton Feldmanを並べていたことも評価したい。それは単に「マニアックな品揃え」を目指したものではない。店主である寺田は「サイケデリック」とか「インプロヴィゼーション」とか「現代音楽」とか、ポップ・ミュージックの聴き手にとっていかにも敷居が高そうなジャンルの壁を超えて、pastel recordsが店頭に並べるエレクトロニカやフォーク作品(先に掲げたリストを参照)と共通する、密やかな「ざわめき」や「さざめき」、あるいはふうわりと漂い香るようにたちこめる希薄さをそこに聴き取っていたのではないか。聴いてみなければわからない、響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋。

 インターネットの発達によってディスコグラフィをたどるのは容易になったし、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの人脈もすぐにたどれる。だが、「響きの手触りの類似性を手がかりとした横断的な道筋」は耳によって切り開かれるよりない。「セレクト・ショップ」的な性格を有するpastel recordsが、「オシャレ」とか「流行の先端」とか「サブカル」とかに自閉してしまわなかったのは、寺田がこうした耳の冒険を欠かすことがなかったからにほかなるまい。



 インターネットの発展により世界にはアクセス可能な情報が溢れており、もはや個人が選択できる範囲をはるかに超えている。それを個人に代わってやってくれるのが、amazon等でおなじみの「パーソナライゼーション」の仕組みであり、これまでの購入履歴からおすすめの本を紹介してくれる。このサービスに対し、自分の内面に知らず知らずのうちに深く入り込まれてしまうことに違和感を表明する者もいたが、他の大多数には便利な顧客サービスと受け止められた。だが、実際には「パーソナライゼーション」は、「購入履歴に基づいておすすめの商品を案内する」といったわかりやすく限定された範囲を超えて、どのリンクをクリックしたかをカウントし、その傾向を検索エンジンの表示順位に反映することにまで及んでいる。インターネット検索が世界を映し出す「鏡」だとすれば、その「鏡」は知らぬうちに歪まされ、あるいは切り取られて、偏った世界を映し出すように変えられている。
 様々な事故や事件を通じて社会不安が高まり、政府や企業、あるいはマスコミは情報を操作し、我々を欺いているとの「陰謀史観」が広まっている。そこでは善悪二元論的な単純化された構図にみんなが飛びつく。いや、というより、そうした単純な構図に世界を押し込めようとする時に、「陰謀」のようなそれを可能とする「物語」が必要とされるのだ。実際に「陰謀」が存在するか否かはここでは問題しない。ただ私が指摘しておきたいのは、先に見たように「パーソナライゼーション」によって強大な権力の意図に基づかずとも、それよりもはるかに匿名的かつ個別的な洗練された仕方で、情報は操作され得るということだ。ここで情報操作が個々人の「消費」(情報消費を含む)動向に基づいて為されていることに注意しよう。「パーソナライゼーション」は「あなたに代わって」選択・提案しているのであって、「あなたに向かって」ではない。私たちは自分の鏡像を果てしなく増殖させる「鏡の檻」に閉じ込められてしまうことになる。
 このシステムが巧妙であるのは、私たちがクリックにより選択行動を起こすたびに、システムがそれを学習してシミュレーションの精度を高めていくことにある。私たちは情報を操作されていることも、他者と共有すべき事実を侵食されていることも気づかぬまま、一人ひとり切り離され、「お気に入り」や「いいね!」だけに埋め尽くされたオーダー・メイドの繭世界に閉じこもる(自らを閉じ込める)ことになるのだ。
 そこには葛藤も軋轢も対立も混乱もない。発見もなければ衝撃もない。すべては「既視感」という安心毛布にゆったりとくるまれ、「飽き」を防止するためほんのわずかな差異が、新たな流行や個人の趣味がつくりだすオプションとして用意される。

 自分が信頼していたCDショップの閉店を、デジタル・サウンド・ファイルとアナログ・ヴァイナルの間で、情報的機能性もオブジェ/アート物件としての魅力にも欠けるCDというメディアの性格に結びつけて了解してしまうような(CDの終焉?)社会学的/マーケティング的見方を、私は到底することができない。
 むしろそこで生じているのは聴き手の自閉/自己完結にほかならない。それは未知のものに対する好奇心の減退と言い換えてもいいし、「雑誌」的な場の機能不全という事態でもある。かねてからインターネットについて言われていた「隣接性」の喪失、すなわち検索がそのものずばりを指し示すことにより、それと隣接する異なるもの、たとえば雑誌でお目当ての記事の隣のページに載っている別の記事にアクセスする機会がぐっと減ってしまうという変化は、先に見たパーソナライゼーションによりさらに深刻な症状を来す。

 MoveOn.orgのイーライ・パリサーは『閉じこもるインターネット』(早川書房)で、「フィルターバブル」(パーソナライズのためのフィルターに閉ざされ包み込まれてしまうこと)の危うさについて、次のように述べている(ちなみに私は例によって図書館で借りて読んだので、帯に東浩紀と津田大介が書いているとは今の今まで知りませんでした)。
 「フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。そう作られていると言ってもいい。我々がとらえている世界に合った情報は簡単に吸収できるし楽しい。一方、新しい考え方をしなければならなかったり過程を見直さなければならなかったりする情報は、処理が苦痛だし難しい。(中略)だから、クリック信号を基準に情報環境を構築すると、すでに持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。」(p.109)
 「パーソナライゼーションとは、既存の知識に近い未知だけで環境を構築することだ。スポーツのトリビアや政治関連のちょっとしたことなど、自分のスキーマが根底から揺さぶられることはないが、ただ、新しいものだと感じる情報だけで環境を構築することだ。パーソナライズされた環境は自分が抱いている疑問の回答を探すには便利だが、視野にはいってもいない疑問や課題を提示してはくれない。(中略)フィルタリングがかんぜんにおこなわれた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。このほかにもうひとつ、パーソナライゼーションでだめになる精神的パランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。」(p.112〜113)

 インターネット上の情報がコピペの嵐であって、特に音楽の場合、制作者/販売者側の情報ばかりがソースとなりやすいことを思えば、あるいはニコニコ動画の時報機能に「同期性」を感じる心性(あるいは「同期性」を読み込むような思考)が蔓延していることを思えば、事態はより深刻と言えるだろう。もちろんコトはインターネットだけの問題ではない。道路や鉄道駅、電車の車内といった公共空間で、イヤホンで耳を塞ぎ、視線をスマホやゲーム機に釘付けにして外界を遮断している者たちは、まさにパブリック・スペースを「パーソナライズ」しているのにほかならないのだから。



 pastel records寺田さん、まずはお疲れさまでした(と言ってもお仕事はまだまだ続くわけですが)。でも、少し休養したら、また好きな音楽、おすすめの音楽について、ぜひ語ってください。待ってます。



画像はすべてpastel recordsのページから転載。ヴィジュアル・デザインもとても優れたお店でした。

浸透的聴取  Osmotic Listening

  1. 2013/10/03(木) 23:19:00|
  2. 批評/レヴューについて|
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 前回更新からまた随分と間が空いてしまったことをお詫びしたい。身内の不幸等もあって公私とも多忙となったことに加え、ある意味「回顧」的な企画であるが故に、新譜レヴューほどは手間がかからないだろうと高をくくって始めたTMFMRの連載が、聴き進めるうちにいろいろと興味深い問題を掘り起こしてしまい、さらにはまるで磁石に引き寄せられるように新たに聴き込むべき魅惑的な音盤をたぐり寄せてしまった結果、こちらも改めて仕切り直し、考え直さないといけない状態になってしまった。(T_T)うぅ
 そうした事情もあって、新譜レヴューの素材は継続して仕込みつつ掲載には至らない状態が続いてしまったのだが、そんな中、ガツンと衝撃を覚えたのは多田雅範の指摘で参照した益子博之のディスク・レヴューである。クロス・レヴューであるのに、他の執筆者から随分遅れての掲載は、後に見るように彼の逡巡を示すものだろう。だが、そうした迷いは彼が他の聴き手よりはるかに深く掘り進めているからにほかならない。私なりの読み方で、そのことを明らかにしてみようと思う。


益子博之が音楽批評サイトcom-postにDerrick Hodge:『Live Today』のディスク・レヴューを執筆している(※)。
※http://com-post.jp/index.php?itemid=817
 やや長めの引用を含んでいることから推察されるように、いささか論旨が入り組んでいるのだが、簡略化すれば次の2つの主張が接合されていると言えるだろう。
 まず彼はこの作品をジャズ・ミュージシャンでなければ創造できない作品として評価している。そうした論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 この音楽はジャズ・ミュージシャンでなければ演奏できない、創造できない音楽であるという点で、21世紀のジャズなのだと言い切ってしまいたい。
 綿密に構成された作曲/編曲の中で個々のプレイヤーの演奏には大きな自由度が与えられている。
 更に、曲の進行の中でメンバー間の緻密なインタラクションがリアルタイムで展開される。これこそジャズ・ミュージシャンでなければできない演奏、音楽と言えるだろう。


 ‥‥とここまでの論旨はわかりやすい。彼と多田が開催しているリスニング・イヴェント「四谷音盤茶会」においても、NYジャズ・シーンの先端部分を定点観測しながら、そこで進行する「サウンドスケープ化」という事態の中に彼が見詰めていたのは、決して「サウンドスケープ化」という「モード」の転換ではなく、ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造が、より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容であることに改めて注意を促したい。彼の姿勢は極めて一貫している。
 いささか論旨が輻輳してくるのは、そこに彼が「個性の「濃さ」に纏わる議論」を絡めてくるためだ。彼は高橋健太郎による「ヘッドフォンで歌ものの音楽を聞くと、ヴォーカルは眼前から聞こえるとういよりは、頭蓋骨の中に定位してしまうことが多い。つまり、言葉とメロディーが頭の中で鳴る。あたかも、(**********)という内なる声のように。」との論を引用して、次のように語り始める。やはり論旨に沿って抜き書きしてみよう。

 これはヴォコーダーやオート・チューン、或いはボーカロイドを巡る議論であり、ジャズ・ミュージシャンについて論じたものではない。だが、スピーカーと対峙して音楽を聴くことで音楽家に向き合うような聴取の仕方と、何かをしながらヘッドフォンやイアフォンで行うような聴取の仕方とでは、聴き手が求める音楽の性格に大きな違いが生じることは同様だろう。
 頭蓋骨の中に定位している音楽と、その外側に定位するアンビエンス。前者が例え器楽演奏だったとしても、その演奏やサウンドがあまりに「個性的」であったら、それはあくまで外から聞こえる音であり、共感したり感情移入したり、更には自己投影したり自己同一化したりするには却って邪魔になってしまうことだろう。それに対して、スムーズに耳に入ってくると同時に、その音楽に浸っている自己を周りの他者から差別化できる程度には「個性的」な音楽と、現実の外界から自己を遮断する役割を果たすアンビエンスの組み合わせは、そうした耳にはこの上なく心地良く響くことだろう。


 ‥‥ということは、巷間囁かれる現代ジャズ・ミュージシャンの個性の薄さは、ヘッドフォンによる「内在的」聴取に向けたものだと言うのだろうか。昨今のポップ・ミュージックの大勢として進行する「微温湯化」については、確かにその通りだと思う。それは聴き手の感覚を慰撫し、これに抗うことがない。耳を不意撃ちすることのない、聴覚を眠り込ませるための音楽。「マインド・リゾート・ミュージック」あるいは「セピア・ミュージック」(共に虹釜太郎)。このことは「予定調和」という点において、たとえ見かけは暴力的であっても、その実、揺るぎなく様式化されたラウド・ロックやピュア・ノイズについてもそのまま当てはまる。発見を求めない、浸るためだけの音楽。「ああ、これこれ」と想起のスイッチが入りさえすれば実質終わってしまう、ほんの5秒あれば足りる音楽。だが、益子の耳の追い求める音楽はそうしたものではなかったはずだ。

 そう訝る読み手に「しかし、果たしてジャズが、そしてアートがここまで内向的に、閉鎖的になってしまって良いのだろうか」との転調が示される。ここからレヴューの論旨はさらにわかりにくくなる。と言うのも、レヴューは最終的に「一つ言えることは、デリック・ホッジの音楽はそんな私が聴いても非常に心地良く、強く共感できるものだということだ。」という対象作品への肯定により締めくくられるからだ。
 ここで益子は自身による全く別の作品に関するライナーノーツを引用してみせる。

 この音楽は、あくまで受動的な聴き手という立場に安穏としている限り、落ち着き所がわからないまま、恰も中吊りにされ、置いてけぼりを喰ったかのような感覚を覚えさせかねないものだ。だが、ひとたびプレイヤーの一人として参加し、音楽の行方を積極的に追いかけるような聴き方をするならば、ジェット・コースターや山間のワインディング・ロードを疾走するスポーツ・カーが与えてくれるようなスリルとは本質的に異質な、街中の交通の流れや信号の表示といった状況を的確に察知し、急加速・急減速をすることもなく、スムーズに一定の速度で走行し続けているときのような快感を得ることができる。

 そして、それに続けて次のように述べる。

 私には楽器演奏の経験があり、尚且つヘッドフォンによる音楽聴取をしていないという点で、現代の音楽リスナーとしては特殊な部類に入るだろう。だから、演奏者の一人としての自己を対象の音楽に投影できるのだと言うことは可能だ。とは言え、これは聴き手の態度の問題だと捉えることもできる。自己投影の仕方が受動的なのか、能動的なのか、その違いによって音楽が聴き手にとってどのような価値を持つのかが左右される、能動的に耳を働かせることによって他者に接して自己を開いていくことができるのだと…。

 後段の前半部分、すなわち「私には楽器演奏の経験があり‥‥と言うことは可能だ」の部分は、いささかエクスキューズが過ぎるのではないかと感じてしまう。わざわざ別作品のライナーノーツを引用したのは、明らかにこの主張のための準備作業なのだから、このことが彼の論旨展開の中で一定の重要性を帯びていることが推察される。また彼が演奏体験を特権化することにより、聴取の門戸を閉ざしてしまうのを警戒していることもよくわかる。しかし、彼が重視/注目する「ミュージシャン間のリアルタイムのインタラクションによる音楽の創造」は、決して楽器演奏やアンサンブルの体験がなければ理解できないものではない。むしろ反対に、「より微視的な領域へと戦線を移動させ、触覚を頼りに繰り広げられているという演奏の現場の変容」を捉えることができるのは、楽器演奏やアンサンブルの体験によってかたちづくられた〈音楽耳〉ではなく、初めて泊まる旅館でふと夜半に目覚め、部屋にくすぶる何物か判別し難い奇妙な軋みに、胸騒ぎを覚えながらそばだてられる〈音響耳〉ではないか。楽音の聴取が捨象してしまう音の表面の微かなざらつきや、響きに混じる僅かな匂いを探り当てる鋭敏な耳の「指先」。
 とすれば「能動的」な聴取もまた、音楽の流れを先読みし、アンサンブルの一体性を感じ取ることに限定されはしない。そうした演奏者の思考に聴き手の思考を重ね合わせ、同一化を図ることにより、そこから生み出される音の流れに棹さす「内在的」な聴取に対し、音が自らの外部にあることを当然の前提としながら、言わば聴覚を「ナノ化」して響きの隙間へと浸透させ、複数の表面に同時に触れながらその震えや温度、色彩や輝きを猫のヒゲのように感じ取る「媒介/媒体的」聴取。益子がこともあろうに菊地雅章による「Ensemble Improvisation」の試みに言及しているのは、そうした響きに沁み込むように身を沈める聴き方を念頭に置いているからにほかなるまい。

 「群盲象を撫でる」と言うが、視覚により一望の下に外形/輪郭をとらえるのではなく、その都度限られた範囲の手触りの推移から全体を編み上げること‥‥いやそうではない。触覚はそのように積分されて総体の構築へと至る代わりに、茫漠たる差異の広がりのうちに深みへと引きずり込まれ全景を見失う。不安に掻き立てられた皮膚は、ますますその感覚を鋭敏に研ぎ澄まし、ミクロな差異を際立たせ、不連続な断層に悩まされながら、藁をもすがるように言葉をまさぐり、仮初めに紡ごうと試みては果たせず、いらだちを募らせる。「能動的」聴取とはそのような心細い孤独な探求にほかならない。

 多田雅範が一瞬の耳のまたたきのうちに音を捉え、これと深々と切り結びながら、ぶっきらぼうな断言を繕うことなく放り出し、夢遊病者のようにふらふらと当てのない連想の糸をたどらざるを得ないのも、益子博之がますます深く遠くへと耳の眼差しを届かせながら、そうした聴取の体験をいささかも特権化しようとせず、それどころか音への扉を広く開いたままにし続けようとするのも、未知の響きに不意討ちされた衝撃への切実な、そして極めて倫理的な反応であるように私には思われる。それゆえ彼らの聴取の対象がたとえ未だ耳にしていない音源であっても、ふと漏らされたつぶやきに深く揺さぶられてしまうのだ。



ムタツミンダにかかる月 − 『ECM Selected Signs III – VIII』を超えて(承前)  The Moon over Mutatsminda − Beyond "ECM Selected Signs III - VIII"(continued)

  1. 2013/07/04(木) 23:44:13|
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 前回で多田雅範の耳の「業」の深さを指摘したら、本人から鋭いボレーが帰ってきた。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130704

 しかも「クレジットだけではわからないマギー・ニコルスが2トラックに潜んでいることを解説する福島さん、さすがです」とこちらの突っ込みを賞賛する余裕を見せながら、その微笑をたたえたままで「AMMのラジオ・アクテヴィティが配置されるとき、ほかのトラックまでがレイヤー構造によって受信する枠組みが与えられ、空間性を聴く構え、たとえばジャレットのピアノ音だけではなく、この録音固有のECMリバーブの存在を意識するというような。そうなるとAMMのトラックはかつてスティーブ・レイクがJapoで制作したという特異性はこのリストにとっての傷ではなくなる」と、こちらが身動きできない素早さで鋭利な刃が一閃する。

 彼はこれに先立ち、次のように書いていた。


 速度について。
 ビージーズの「メロディ・フェア」は異様なヒットソングである。
 イントロからして演奏のタイミングがズレてるような、そのズレに速度を見る。ヴォーカルが入ると合っているんだか合っていないんだか、感覚がかく乱されて宙に浮いた感覚に置かれる。
 イントロは右側アコギのアルペジオ、左手からベースの弓弾き、そして奏者の呼吸らしき擦過音、オケがかぶさって、の、おのおののテンポは合っているのに呼吸が孤立しているのだ。
 これはもうレイヤー構造をなしていると見てよい。ハンドクラッピングにはっとさせられるのは、耳が、レイヤー構造によって形成された空間を聴くからなのだ。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20130702


 この指摘は極めて重要だ。ここで一見アンサンブル・アレンジかレコーディングのミックス加減について語られているように思われる(だからこそすらすらと読み飛ばしてしまいがちな)この指摘が、実は音そのもの、音空間それ自体についての分析であったことが、今回のAMMの演奏を巡る叙述と突き合わせると浮かんでくるからだ。
 すなわちAMMの「音響」へと透き通っていくサウンドの重なり合いは、各演奏者の放つ各人の署名入りの固有の輪郭を持ち、誰と見分けられるヴォイスのあり方を離れ、それぞれが見分け難く溶け合いながら、かつ渾然一体団子状の音塊と成り果てるのではなく、不可思議なグラデーションを描きながら敷き重ねられた極薄の多層へと、ゆるやかに分離していく。そこに現れるのは、言わばそれぞれに濃度傾斜の飛躍を有する上澄み/沈殿である。
 ガスバーナーで熱せられているビーカー中の水に眼を凝らすと、温まった底の部分の水が表面へと上昇し、また下降する流れの揺らめきが観察されるが、そこで見えているのは化学組成としてはまったく同一の水の間に生じる界面にほかならない。同じようにキース・ジャレットのピアノの響きに多田が見出すピアノ音とECMリバーブにしても、前者がジャレット本来の「生」のピアノ音で、後者が付け加えられた人工物ということではなかろう。彼はむしろピアノの鳴り響きの中に、交錯する様々な力を、多様な速度の音の流れを、先に触れた界面の揺らめき、敷き重ねられたレイヤーの震えとして聴き取っているのではないだろうか。

 AMMの音世界に触発され、音を「レイヤー構造によって受信する枠組み」が与えられるならば、いや逃れ難く耳に刻印されてしまうのであれば、あらゆる音はその内奥に秘められた底知れぬ豊かさを明らかにするだろう。ECMの迷宮世界はそうした聴取の冥府魔道への誘いであり、AMMはそのわかりやすい一例に過ぎない。そうであればこそ、スティーヴ・レイクによるプロデュースのつながりで示唆されるのは、このJapoリリースの作品が決してECMの異端ではなく、むしろ深奥/震央に位置しているということなのだ。

 私の浅い理解に基づく誤解を、さらりと受け流しつつ、ぐさりと核心を突くその言葉の運びは、耳にタバコを挟んで店内を徘徊し、ステテコ姿で洗濯機に向いつつ発せられたものなのである。何ともカッコイイではないか。その文化不良中年の鑑と呼ぶべき志向とスタイルに快哉を叫びたい。


ムタツミンダにかかる月 − 『ECM Selected Signs III - VIII』を超えて  The Moon over Mutatsminda − Beyond "ECM Selected Signs III - VIII"

  1. 2013/07/03(水) 23:55:44|
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 多田雅範がまたやってくれた。Jazz Tokyo最新号の巻頭に掲載されたCD6枚組ボックスセット『ECM Selected Signs III - VIII』のディスク・レヴューで、作品の紹介に飽き足らず、自らECMの膨大な音源を脳内で超高速スキャンし、何とも趣向を凝らしたアンソロジーを編み上げて、来日間近なECMの総帥マンフレート・アイヒャーに叩き付けるという輝かしい暴挙を。

 選曲にはすべてyoutubeへのリンクが張られており、彼が自ら選び抜いた候補曲をひとつひとつウェブ検索し、音源がアップされていなければ、また次の候補曲の音源を探し求めるという気の遠くなるような作業を、その溢れるばかりの情熱(それは深い愛情であるとともに、きっと煮えくり返る憎悪でもあるのだろう。いずれにしろ彼のECMに対する「業」の深さを思い知らされる)を持って成し遂げたことがわかる。
 まずは実際にリストを眺め、音源を耳にしていただきたい。
http://www.jazztokyo.com/five/five1001.html

 ここにはリストだけを転記しておく。音源はやはり彼のディスク・レヴューを読みながら聴いてもらいたいから。


Alfred Harth: Transformate, Transcend Tones & Images

Paul Giger "Bombay II" foto de Fernando Figueroa Sánchez y Clara Ivanna Figueroa

Ketil Bjornstad The Sea Part II
Ulrich P. Lask - Unknown Realms (Shirli Sees)

Keith Jarrett Staircase Part 3

Hajo Weber & Ulrich Ingenbold - Karussell
Miroslav Vitous Group When Face Gets Pale

Egberto Gismonti Group - 7 Anéis

AMM III - Radio Activity
Ralph Towner - Oceanus
Jansug Kakhidze The Moon over Mtatsminda

*Themes from an Exhibition: ECM's Selected Signs Box



 ECMを聴き込んだ方なら、このリストがECMのパブリック・イメージに沿った凡庸なものではないばかりか、時代を画した数々の革命を刻んだ記念碑でも、あるいは個人的な嗜好や思い出を収納したタイム・カプセルでもないことに気づくだろう。リンク先の音源を順に聴いていけば、先に述べた彼の「業」の深さが身にしみてよくわかるはずだ。

 Maggie Nicolsの乾いた粘膜が震えこすれて血が滲み痛々しく傷ついていくヴォーカリゼーションは、Meredith Monkたちの引き締まった声の身体によるモダンな舞踏や、北欧トラッドの歌姫たちによる凍てつく冬の朝のようにぴんと張り詰め澄み切った朗唱とは、明らかに別世界に生息している。多田はいきなり冒頭から、決して再発されず封印されたままのAlfred Harthによる呪われた名盤を取り出してくる。Maggieは4曲目のLask盤でも前面に押し立てられ、曲のブレヒト/アイスラー的な硬質さを、さらにクリスタル・ガラスを水晶の角で引っ掻くような強度へと高めている。
 Paul Gigerによるヴァイオリンの繰り返しもまた、ここでは乳白色のまどろみをまとうことなく、弦の痛々しい軋みが空間を傷つけ切り裂くに任されている。
 Ketil Bjornstad『The Sea』では、出航に際して旅の行方を厳かに託宣するような「Part 1」ではなく、ゆるやかなうねりに身を任せつつ果てしなく高揚していく「Part 2」が選ばれていることに注目したい。前者のyoutube音源のURLを参考に掲載しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=ile35s101NM
 Egberto Gismontiはやはり隠れた名盤『Infancia』から。「Part 2」の高揚を反映しながら、北の海の重くたれ込めた空とは真逆の突き抜けた青さが、何とも言えない幸福さとして心地よく舌の上で弾ける。
 Japoからのリリースということもあって、ECMからの選曲でAMMの名前が挙がることは99%以上の確率であり得ないと言ってよい。にもかかわらず、ここではシンバルの弓弾きが醸し出す倍音の傷跡にギターのエレクトロニックな持続が浸透し、不明瞭な混信をはらんだラジオ放送がそこに投影されるという鋭利なまでに混濁した音響が、涼しい顔で並べられている。
 Ralph Towner「Oceanus」の開く底の見えない深淵は、彼方への通路である黒々とした深海海流を思わせる。この流れへと引き込まれどこまでも果てしなく運ばれていく者は、ぽっかりと暗く口を開けた死のクレパスを覗き込まないわけにはいかない。そうした非日常的な不吉さから、ゆるやかに時が流れ、大地は揺らぐことなく、陽が沈み、月が昇るおだやかな日常性へと、聴き手を送り届け、たどる家路を見守ってくれるのが、本来は指揮者であるJansug Kakhidzeの弱々しい、だが生のよろこびにあふれた声と、それを照らし出す聖なる山ムタツミンダにかかる月にほかならない。ECMに魅せられた耳の「業」の深さを知る多田ならではの日常回帰のための儀式手順である。



多田雅範の文章世界(補足)  Masanori Tada's Composition World (Supplement)

  1. 2012/09/30(日) 18:44:08|
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 前回の論稿「多田雅範の文章世界−疾走する眺めは人生の本質的なランダムネスを思い出させる」に対し、多田雅範が自身のブログで早速レスポンスを返してくれた(*1)。
 *1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20120930

 「音楽のことなのに日常生活の記述が入り込むスタイル」は、友人とカセット・テープの交換をしていた18歳の頃からのものだという。「キチンと音楽のことを書ききれないので雑談するのだ」と彼は書いている。確かに最初はそうだったのかもしれない。しかし、そうした記述が継続の中で練り上げられるにつれ、それはむしろ音楽を聴くことが日常生活の一部であり、「いま・ここ」を離れた記憶に結びついていることを見出すに至ったのではないか。

 私の場合、音楽/音について書くことは、単に目の前で起こっていることをとらえるだけでなく、それを言葉に置き換えるために、音/響きの綱を伝って、意識の深みへと潜行し、同質の感覚/体験を表す言葉や情景を探り、それをつかんで再び浮上し、それを文章として配置し直すプロセスを必ず含むものである。書くこととはすべてそうなのかもしれないが、身体の奥底深くに積もった記憶の層をくぐり抜けることを必要とする。多田の文章は、その「夢」的な記述を通じて、そうした記憶の層に深く強く結びついていることを明らかにしている。

 前回の論考の中で、自分(=福島)が書いたディスク・レヴューの一節が、多田に引用されることによって変容する旨を記した。それはたとえば言葉を抽象的なイメージの連なりから引き剥がし、具体的な体験の断片へと変えてしまう。「うつらうつらとした夢うつつのうちに気がつくともう遠く通り過ぎている夜汽車の踏み切り」は、列車の座席の固さや窓ガラスの冷たさを思い出させ、「鳴り終わってから気づく階下の大時計の打刻鳴鐘」は古い家屋の軋みや遠い風鳴りを伴い、「とうに灯明を消したはずの仏間から漂ってくる香の匂い」は湿った畳や古い座布団の匂いと混じりあって眼に見えるほどはっきりとした際立つ強い香りとなる。

 そうした感覚を、多田の許しを得てブログ掲載の家族写真を並べることにより、視覚の助けを借りて幾分かでも補足しようとしたのだが、あまりうまく行かなかった。多田は「この夏のお墓参りの集合写真、40年前の親族写真が、他人の読みと手によって、ぼくの目の前に現れるとき、この写真の人たち(この世にいない人も多数)が、ぼく(のテキスト)に会いに来てくれたような」感情を持ったと記しているが、それは私の論稿に対する過大評価で、私は単に、見かけ上は音盤を語る彼の文章の背後に「彼ら」が、「彼ら」と過ごした記憶が、深いドローンのように鳴り響いていることを指摘したに過ぎない。

 前回の論稿では私の力不足で、多田による夢の記述の素晴らしさを充分に描き出すことができなかった。幸いなことに、今回、多田は自身が以前に記した夢の記述の幾つかに、今回掲載の記事(前掲のURL参照)の最後でリンクを張ってくれている。ぜひ、彼によるオリジナルの、とりとめなくかたちを変えながら、足元から崩れ去っていくような記述を実際に読んでみていただきたい。



夢の記述と言えば思い出すのが内田百痢慳重咫
  

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