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アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの −「タダマス11」レヴュー  Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble − Review for "TADA-MASU 11"

  1. 2013/10/31(木) 21:44:28|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 他の耳が切り開いた道筋をたどる。同じ道を歩みながら別の景色を見ている。だがそれでも、「ああ、彼らはこれを見ていたのか。この光景に打たれ揺すぶられたのか」と思わずにはいられない瞬間がある。耳と耳が切り結び、視線がぴたりと寸分の狂いなく重なり合う一瞬。その場で語られた言葉が身体へと入り込み、身体の奥底から湧き上がる言葉と互いに映し合う。思考が巡り、イメージが羽ばたく。その時、「聴取」は知らず知らずのうちに、ひとりではたどり着けぬほど沖合までさまよい出ている。振り返ると浜辺が遠く揺らぎ、足下の水がしんと冷たくなって、不安で心臓が締め付けられる。

 益子博之と多田雅範がホストを務める「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)も11回目を迎えた。生の演奏ではなく音盤のプレイバックだが、そこにホストの2人やゲスト、あるいは聴衆の生な反応や言葉が絡むことにより、私にとって耳を開かされることの多い貴重な「ライヴ」の場である。特に今回はプログラムの途中で道筋を見失いかけながら、最後には彼らが見て打たれたであろう光景を、いま私も目撃しているという「一致の感覚」に不意に襲われ、驚かされることとなった。
 以下にレヴューを試みるが、例によって自分が触発された部分を中心にしているため、プログラム全体のバランスのとれた紹介とはなり得ないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては下記URLを参照。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767

 また、ホストのひとりである多田によるリポートもぜひ参照していただきたい。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131027
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131030


 「タダマス」に先立ってオーディオ・イヴェントが行われたため、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記のこの日の装置は、いつものヴィンテージ・オーディオではなかった。写真の通り、ブルトンの詩句「窓で二つに切られた男」を連想させるスピーカーは、共振をダンプされた厚いガラス板に、フルレンジのユニットを平面バッフルの要領でマウントしたもの。音像型で暖かみに溢れ音楽的表現力に優れたいつものアルテックに対し、こちらは極端に音場型で空間表現に秀でており、誤解を恐れずに言えば、その高い透明度/解像度により音楽から「音」を解き放って聴かせる傾向がある。

中央の四角錐ではなく、壁状
のガラス板にマウントされて
いるのが当日鳴らされたSP


 最初に掛けられたAya Nishinoの作曲による女性ヴォイスの多重録音作品は、こうした装置の再生特性に見事にはまっていた。身体の重さをまったく感じさせない声の、うっすらとした雲のような広がりは、互いに重なり合いながら滲むことも溶け合うこともなく、能う限り触覚から遠ざかっていく。益子はこの作品が「記憶」を刺激することを指摘し、BjorkやCocteau Twins、菅野よう子らの名前を挙げていたが、私が反射的に思い浮かべたのもBjork『Vespertine』と「反例」としてのEnyaである。Aya Nishinoの生成させる響きは、何重にも音を重ねながら決してEnya的なふうわりと煙る厚みへと至ることなく、常に必要な隙間をはらみ、透明な見通しを失わない。むしろBjork『Vespertine』に似て、敷き重ねられるほどにますます薄層化し、ぼろぼろの穴だらけであることを際立たせていく空間の手触りがそこにはある。
 以降、「記憶」をひとつのキーワードとして、トラックが連ねられていく。多田雅範による「ECMは演奏者の記憶を引き出してきたレーベルだ」という名言を差しはさみながらも、その流れが私にはどうもしっくりとこなかった。

 たとえば以前にこのブログで採りあげた益子によるクロス・レヴューの対象作品Derrick Hodge『Live Today』の明らかにMiles Davis『In A Silent Way』を下敷きにした、質量をいっさい感じさせない構築の、サウンドの出入りの完璧さに驚きながらも、それは果たして「記憶」の関数なのだろうかと訝っていた。このサウンドの出入りの完璧さは、明らかにDJたちのスクラッチによる構築の探求を受け継いでいる。しかし、彼らがその名人芸でもってつくりあげた、あえてデコボコと接合面を際立たせたつぎはぎだらけの、編集の産物であることを明らかにした挑発的な構築は、ここでジャズならではの技量を駆使した、極端に隙のない、完璧に磨き上げられたリアルタイムの構築に取って代わられている。もちろん事後的な編集も施されているのだろうが、それでもすっすっとまったく遅れも摩擦もストレスも感じさせずに空間に入り込み隙間へとはまり込む、絶妙なタイミングとイントネーション/アーティキュレーションは、編集だけでは生み出せまい。本作品を語るのに、益子や多田が一見似ても似つかない菊地雅章によるアンサンブル・インプロヴィゼーションを持ち出すのはよくわかる気がする。菊地が一音一音の不確定性から演奏を組み上げていくにあたり、アンサンブル・インプロヴィゼーションを全面適用しているのに対し、Derrick Hodgeたちはフレーズやリズムはプリセットしておいて、出入りのタイミングを精密に測り、空けられた隙間に正確にはまり込むピースをつくりあげるためにイントネーション/アーティキュレーションを研ぎ澄ますことにだけ、アンサンブル・インプロヴィゼーションを局所限定的に適用しているのだ。

 だが、後半になって、いきなり転機が訪れる。Mary Halvorson Septet『Illusionary Sea』におけるMary Halvorsonのギターの足がもつれて階段を踏み外していく身振りに、コンポジションとしてはジャズ・ロック風のポップさを香らせながら、やはり複雑にもつれていく四管の絡みや演奏に推進力を供給し続けるドラムのズレをはらんだ煽りに、レイヤー的な構築性が垣間見えた気がしたのだ。ここで「レイヤー的」とは、精密な敷き重ねよりも、むしろ各レイヤーを切り離し、勝手気ままに走らせてしまうことを指す。それらが必然的にズレをはらむことは、当然あらかじめ計算済みだ。本来の意味でのアンサンブルはいったん破綻し解体されるが、そこで生じるズレに対し、改めてジャズ・プレイヤーならではのリアルタイムの演奏構築感覚が発動することにより、アンサンブルはより拡張された次元で再構築される。このことはその直前に掛けられたMark Dresser Quintet『Nourishments』との対比でより明らかとなる。Mark Dresserたちの演奏は、枠組みとなるコンポジション/アンサンブルを言わば折り畳んで複雑化することを目指しており、枠内の分割は施されるものの枠そのものは決して揺らぐことがないのだ。Mary Halvorsonたちのやり方は、例えばRadioheadがエレクトロニカ的な視点を採り入れ、アンサンブルによるグルーヴを解体し、深みへと踏み外していったのと共通性を有しているように思う。

 一度、そうした気づきを手に入れると、続く3枚の描く軌跡が連続した線として浮かび上がってくるように思われた。Dave King Trucking Companyの急にギアを切り替えたようなテンポの変化等、まるでPCによるポスト・プロダクションを最初から生アンサンブルでトレースした感覚の演奏。The Claudia Quintet『September』のヴァイブとアコーディオンのミニマルなリフを基軸とした構築に、各レイヤーの加速/減速や、持続音を狭い音域に押し込めて倍音領域に至るまでサウンドを衝突させモジュレーションを起こさせる等、エレクトロニカ的な操作を施す仕方。そしてMatt Mitchel『Fiction』でピアノとドラムのミニマルな繰り返しが、右手と左手のアンサンブルをレイヤーの重ね合わせと見立て、複数の速度と加速度感を操り、時に疾走による逸脱へと至りつつズレを堆積させていく様。あるいはピアノとヴァイブの明滅の星座的な重ね合わせにおいて‥‥。

 後半4作品の畳み掛けるような怒濤の押しは、それらを聴き終えた地点から振り返って見れば、Aya Nishinoによる声の雲や、Derrick Hodgeたちによるサウンドのすれ違いの完璧なマネジメントとまっすぐにつながっているように感じられた。

 今回クローズ・アップされたレイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーションによって達成すること、これによりアンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。そう考える時、対極的なモデルとして、音の顕微鏡的なまでにミクロな局面へと沈潜し、コーダを延々と引き延ばし、時間感覚を拡大して、もはやコントロール不能な確率的揺らぎへと触覚的感覚を研ぎ澄ましていく仕方が挙げられるだろう。

 先走った物言いになるが、益子や多田がこの間ずっと追いかけているのは、新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体の姿ではないかという気がする。ビバップはモダン・ジャズ共同体のとびきりのアスリートたちが、極限的な演奏の加速と複雑化に向けて、命をすり減らしながら賭け金を吊り上げていく、コカインより効く究極のゲームだった。晩年のコルトレーンが繰り広げたのも、精神共同体を背景とした、極限的な加速と飛躍と充満と溶解に向けたゲームだったと言えるだろう。だから清水俊彦が指摘したように、コルトレーンの死は、熱病に浮かされたフリー・ジャズ共同体に冷水を浴びせかけることとなった。失われたルーツとしてのフォークロアと宗教性を常に探し求め、霊的共同体を志向したアルバート・アイラーの破滅は、そうしたゲームがもはや成立し得なくなったことを示しているだろう。崩壊した即興共同体から析出した個人によるパースナルな演奏語法の探求を、これまでのように象徴的な次元ではなく、まさに明示的かつ即物的なゲームの平面で編集しようとしたジョン・ゾーンによる「ゲーム・ピース」やローレンス・"ブッチ"・モリスが継続した「コンダクション」の試みは、こうした系譜の最後に位置している。

 NYダウンタウンで展開されつつある新たなゲームは、アンサンブルの解体/再構築の果てにどこに向かおうとしているのか。それはポップへの接近/達成を当面の目標としているように見えながら、おそらくはそれを突き抜けていくだろう。これまでのように仲間内で賭け金をレイズし続けることが、いつしか限界を超えて生命を蝕み、なし崩しの自死を呼び込んでしまうのだろうか。EC諸国のシーンで見られる音響的インプロヴィゼーション(それはデレク・ベイリー的な内省の徹底と、ジャン・デュビュッフェからミッシェル・ドネダに至る野生と外部による侵食の相関の二つの起源を宿しているように思う)との部分的共振は、今後どのように作用していくのだろうか。

 以前にも述べたように、そこに生み出される新たな音楽/演奏のかたちは、たとえどんなにこれまでの「ジャズ」と似ていなくとも、「ジャズ・ミュージシャン」にしか生み出し得ない演奏であることによって、それこそが新たなジャズの姿にほかならない。それを見出すには複数の耳の間の化学作用が必要なのだ。


  

 

別の空間へ − リアストゥライニ ライヴ・レヴュー  Into Another Space − Live Review for LYOSTRAINI

  1. 2013/10/26(土) 18:10:48|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 例によってひとしきり道に迷ってからたどり着いた会場は、すでに暗くなった街角にひっそりと佇んでいた。そとから全体を仰ぎ見る間もなく入口の灯りに吸い込まれ、受付を済ませて演奏の行われるスペースに立ち入って、柔らかくあたたかな証明に浮かび上がる空間の変わりように驚かされる。まるで別の空間がワープして、ふっと現れたようだ。そこは使い込まれた木の長椅子が並ぶ教会の礼拝堂で、正面の壁のアーチ状の窪みに十字架が掲げられている。裕に3階分はある高いヴォールト天井、木と漆喰の壁、高い位置に設けられたステンドグラスも外が暗いため色彩を放つことなく身を潜めている。
 80年前の建築当時からそのままで、現在も礼拝時に使われているという長椅子は固くがたがたで、そこに座っていると身体が空間に次第にはまりこんでいく感じがする。離れたところの話し声が妙に近く感じられるのは長い残響のせいだろう。平面としてはさして広くない会場は、結局、ほぼ満席となった。

 この日の演奏について語るべきことはそう多くない。先に結論を言えば、この日の演奏への称賛も多く聞こえてくるなかで(※)、私は見事にすれ違ってしまったのだ。あるいは1週刊前に「1982」のライヴを聴いた記憶を生々しく留めたままこの空間に入り込んで、ああ、ここで彼らを聴けたならどんなにいいだろうと、あらぬ夢想を膨らませてしまったせいかもしれない。聴くべき何かを見出せないうちに、この日の演奏は終わってしまった。
 大きな期待とともに演奏が始まった瞬間、速いパッセージを繰り出すコントラバスの、パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色に驚かされた。立ち騒ぐ疑問符は5秒で失望に、10秒で落胆へと変わり、その後、一度も浮かび上がれないまま演奏は終わりを迎えることになる(アンコールを含め)。その間、私は一度も拍手することができなかった。
※たとえば次を参照
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20131023
 http://homepage3.nifty.com/TAKEDA/live2013/20131022-1.html

 私にとってほとんど唯一の聴きどころは、Lena Willemark自身の説明によれば「牛やヤギを呼ぶ声」だという、あの空気を切り裂き、風を渡り、まっすぐに空間を射通して、聴き手を縛り上げる声を彼女が放った30秒間だった。その時、彼女は口元をマイクロフォンから外していた。ならば、もともとマイクロフォンは無くてよかった。歌の旋律を舞いながら声を閃かせる仕方に、凡百の歌い手とは異なる際立った技量を予感させながら、彼女の声は何重にも仕切られた向こう側にあるようで、むしろ生来の声の力をマイクロフォンに合わせてセーヴすることに力を注いでいるようにすら感じられた。そこにCD作品で聴き親しんだ、大地からあるいは古代から湧き上がる生々しい力を、いまここに解き放つ鮮やかな直接性はなく、言い訳を重ねるような持って回ったもどかしさを覚えることとなった。もしかするとそれは、声が踏みしめ、あるいは蹴立てて飛翔すべきコントラバスの地平が、先に述べたような「液状化」を来して成立していなかったことによるのかもしれない。

 そうした影響は箏を奏する中川果林にも及んでいたかもしれない。トリオにおいて旋律を歌いながらリズムを彫り刻み、さらには荒々しいグリッサンドや弦へのアタックにより、触覚的な要素を一手に引き受けていた彼女の負担はかなり大きかったと思う。それゆえ肩に力が入ったのか、もっとすっと筆を入れてすらりとまっすぐな線を描くべきところを、徒に流れを滞らせ、軌跡をうねらせていたように思う。それは旋律の歌わせ方に関してはルバートの多用、フレーズの提示についてはヴィブラートの不適切な適用として現れて洗われていた。これらの選択、というより箏の慣用的な語法の無頓着な名残は、演奏を重くして軽やかさを奪い、インタープレイにおける反応を遅らせる。それは箏がエキゾティックなスパイスの役割を超えて、インプロヴィゼーションの領野に身を投じていく際に再検討されるべき重要なポイントだと思う。沢井一恵は彼女のインプロヴィゼーション初体験となったフレッド・フリスとの無惨な共演(私はその「9×9」と題されたコンサートの聴衆だった)を踏みしめて、その後、鮮やかに羽ばたいた。
 さらに前述のグリッサンドをはじめとするノイジーで触覚的なサウンドを奏でる部分では、ドライヴ感を重視するあまり、音が垂直に立ち上がらず斜めによれてしまっている。ちょうどフィギア・スケートのジャンプで回転軸が傾いている感じか。だがこれも結局、沢井一恵の演奏と無意識に比較してしまっているわけで、あまりにも基準が厳し過ぎるかもしれない。先に述べたように彼女は多くの役割を献身的にこなし、見事な力演を見せたのだから。

 コントラバスのAnders Jorminについては前述の「パンツのゴムが伸びたような、びろびろにふやけた音色」への違和感に尽きる。運指の素早さは流石だが、出てくる音がこれでは評価のしようがない。アルコ音も上滑りで実体感に乏しく、どこを採ってもアーティキュレーションが不明瞭なものだから、アンサンブルは合わない入れ歯のようにフガフガしたものに成り果ててしまう。Bobo Stensonの共同作業者なのだから、これが本領とも思えないが、コントラバスのリアルなボディ感を消去して弦の振動だけをイコライザーやリヴァーブで加工したような「エアー・ベース」的音色設定は、PAエンジニアの責任ではあるまい。彼自身が今回の使用楽器(ライヴ・ツアー用のレンタルかもしれない)のサウンド戦略を確立できていないのではないか。今回の演奏空間の豊かなアコースティックを思えば、輪郭が固めのゴリッとしたピチカートや、切り裂くようなアルコ、深々とした胴鳴りや倍音領域へのアタック等が非常に効果的なものとなったことが明らかであるだけに、返す返すも残念でならない。


2013年10月22日(火) 世田谷区 富士見ヶ丘教会
LYOSTRAINI (リアストゥライニ)
 Lena Willemark (レーナ・ヴィッレマルク) ヴォーカル/フィドル
 Anders Jormin(アンダーシュ・ヤーミーン) ベース
 Karin (中川果林 なかがわかりん) 唄/二十五絃箏




ああ、まだ虫が鳴いていますね 外は雨が降っているのに  Ah, Crickets Are Still Chirping, Though It's Raining Outside

  1. 2013/10/24(木) 23:40:59|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 津田貴司から案内されたライヴの2日目は、Daisuke Miyatani Ensemble "utsuroi" リリースイベント。プログラムは出演順に三富栄治によるエレクトリック・ギターのソロ、津田貴司と笹島裕樹のデュオStilllife、あおやままさしによるエレクトリック・ギターのソロ、大人数によるDaisuke Miyatani Ensembleの演奏の4部構成。

1.デュオ
 「ああ、まだ虫が鳴いていますね。雨が降っているのに‥」演奏を始める矢先、津田がぼそりとつぶやく。
 デュオ演奏の準備として、スペースの中央が空けられ、そこに2枚のラグが敷かれ、音具というよりも様々な魅力的なオブジェが、まるでアンティーク・ショップの店先のように並べられる。素焼きの管、小石、陶器のかけら、水の入ったガラス壜、巻貝の貝殻(やはり水が入っている)、水とガラスの粒を入れたフラスコ、試験管、木の枝、藁の束、小型のチター‥‥。二人は靴を脱ぎ向かい合って座り、キャンドルを灯し、照明がすべて落とされ、空調も停められる。暗がりの中にぼうっと陽炎のように虫の音と雨音がうっすら浮かび上がる。
 腿に打ち付けた音叉の根元を木の床に押し当てマッチの閃きのような響きを立てる。素焼きの管を三本、掌で転がし感触を楽しむ。藁の束をまさぐり、感触を空間に投影する。竹の筒の切り口に息を当てる。吊るされて揺れる木の枝の触れ合い。竹の筒に吹き込まれる細い息の流れが、もつれながら引き伸ばされ紡がれていく。
 暗がりの中で耳が目覚めていく感覚。いつの間にか虫の声はさらに大きくはっきりと聞こえるようになっている。オブジェの奏でるか細い響きは、離れたあちらにありながら耳元で聞こえ、やがて耳の視界の大半を占めるに至り、くっきりと手触りを伝える。耳がそば立てられ対象に集中すればするほど、閉じていくはずの感覚は逆に開かれ、周囲の空間がますますくっきりと浮かび上がり、虫の音や足音、床の軋みが大きく聞こえるようになる。だが、それらは「対象」をマスクすることはない。手前から向こう側までピントの合ったディープ・フォーカスの空間が現れ、さらに視界は透明度を増していく。
 小石を転がし、石を打合せて口の中に響かせる。陶器のかけらをこすり合わせ、水とガラスの粒の入ったフラスコをゆっくりと振り混ぜる。チター弦の微かな震えがガラス壜に閉じ込められた水の揺らぎと重ね合わされる。
 アクションの連鎖(モンタージュ)ではなく、何物かの表面に触れている指先への集中と、それを距離を置いて冷ややかに眺める耳の眼差しの拮抗。意識が思い浮かべたものを指先でつくりだすのではなく、両者を切断し、触覚と聴覚をそれぞれ別の仕方でオブジェに横断させること。そこに新たな発見/遭遇が生じる。「沈黙」という白紙のキャンヴァスに物音を配置していく観念的な抽象性はここにはない。オブジェに焦点を絞り込み集中する感覚は感度と解像度をいや増し、空間も時間もすでに染みや汚れ、折り目や破れだらけであることにとっくに気がついている。
 この日の30分程度の演奏は、彼らにとってほんのイントロダクションに過ぎまい。聞けば夜中に出かけて山道をさまよい、谷の奥で録音した音源を作品化すべく現在作業中であるという(この日、「先行シングル」だというCD−Rが販売されていた)。アフターアワーズに暗い山道は危なくないかと訊くと、視覚が閉ざされる分、他の身体感覚が鋭くなるので、意外とこわくないとのこと(むしろシカやイノシシに出くわしてしまうのがこわいらしい)。そうした道行きに同道して、夜更けの谷間が白々と明けてくるまで彼らの演奏に包まれてみたいものだ(そうだな5時間くらい)。夜の森はしんと静まり返るどころか耳を聾する喧噪に満ちている。彼らの演奏に耳で触れ肌を傾けることにより、オブジェへの聴覚と触覚の集中を通じて、風の唸りに、森のざわめきに、水のせせらぎに耳を澄ますこと。


2.ソロ
 三富栄治もまた今年9月に新譜『ひかりのたび』をリリースしたばかり。そちらはフルートやチェロを配したジェントルな肌触りの室内楽だが、この日のソロでも同じく、いやそれ以上に陽だまり的な温もりを感じさせた。抱えたギターを赤子を寝かしつけるようにゆっくりと揺らし、フレーズを音色を同様にくゆらせる。香るようにたちのぼり、そのまま空間に溶けていく音楽。とりとめのない夢想は、一切の言い訳なしにそのまま提示されることにより聴き手を武装解除し、ゆったりと手足を伸ばして響きに浸ることを可能にしている。ただし眼の前で演奏されるべき音楽、あるいは他人といっしょに聴きたい音楽かといえば、私には違うように感じられた。彼はますますギターの上に身を屈め(ほとんど折り重なるように)、赤子のように言葉を解しないギターに密やかに語りかける。フィンガー・ピッキングの柔らかな指さばきは、決して音を周囲に飛び散らせることがない。浮かんでは消えながら「音もなく」通り過ぎていく情景。くっきりとした輪郭/陰影を持たず、夢うつつの間接的な距離を生きる音色は、ギター・アンプから漏れ広がるバックグラウンド・ノイズをスクリーン/フレームとして、8mm映画のようにありえない懐かしさとともにぼうっと浮かび上がる。音に沈み込むうちに世界の手触りはいよいよ遠ざかり、物語など気にならなくなる。時折告げられる曲名は、「暖かい夜」、「天国の月」と両極を結びながら対比を際立たせず、緩い勾配で結ぶともなく結んでいる彼の音世界をさりげなく言い当てている。
 同じくフィンガー・ピッキングによりながら、あおやままさしのギターは三富と対照的なあり方を示す。素早い指さばきが繰り出す音は砕け散るまぶしさをはらんでおり、空間になじむことなく響き渡る。高速アルペジオの繰り返しはモアレ効果の印象を与えながら、実際にはもつれることなく、重層化もせず、広がりやにじみも持たない。ただそこできらきらと輝く音の宝物。一言も発さずにただ黙々と演奏を続け、演奏中に何度も曲間でチューニングを改める偏執狂的な身振りは、響きの指紋ひとつない輝きと通底している。きれいな色ガラスのかけらや、鱗粉が金属質の光沢を帯びたモルフォ蝶の標本、曇り一つなく磨かれたコインを収集する潔癖性の少年。熱を持たない響きの蛍光灯的な輝き。だが私には運指が減速し、音に間が空いて、その消え様を明らかにする場面の方が、よりリリカルなように思われた。

3.アンサンブル
 再び客席の模様替え。中央にラグが敷き詰められ、周囲をギター奏者の座る椅子がぐるりと取り囲む。聴衆は13台のギターに包囲される。リーダーのDaisuke Miyataniがそのうちの一人に「コードはG。一音弾いたら3秒は間を空けてもらって‥」とルールを説明している。演奏が始まり、周囲でぽつりぽつりとギターが鳴り響いていく。音源の位置を移ろわせながら、軒先から滴る雫が庭先の石を打つように五月雨式に音がこぼれていく。ギターごとの音色の、そして発音の特性が際立つため、中世音楽の技法「ホケット」のように、振り撒かれた音がメロディを紡いでいく感覚はない。Stilllifeの演奏が深くたたえていた耳を目覚めさせる力もない。本来は多様にして豊かであるはずの音と音の出会いは、「アンビエント」な響きの広がりの安逸さに身を委ね、明度や彩度を引き下げ、自らを単色に染め上げて、聴き手の感覚を眠り込ませようとする。だが、小賢しい「表現」を離れ、自らの贅肉を削ぎ落とし、あるいは移ろい漂わせて、「無心に」(たとえ一人ひとりの演奏者がそうした無我の境地に至っていなくとも、コンポジションによる限定/抑制の仕掛けが「私」を濾過し希釈化する)「雨垂れ」と化す様に身を委ねるのが心地よいのは確かだ。虚ろな希薄化に向かって引き延ばされていく永遠のコーダ。
 だが愚か者はどこにでもいる。私のほど近くに位置した奏者は、どうやらじっとしていられない「お子ちゃま」のようで、演奏の終盤には自分を抑えきれなくなり、盛んに弦を擦ったり、ボディを撫でたりと悪戯を繰り返している。すぐそばのDaisuke Miyataniの様子を何とはなしに伺い、微かな音での逸脱/挑発にとどめているあたりが、何ともはや情けない。タイマー代わりに仕掛けられたと思しきカセット・テープレコーダーがカチャンと停止し、演奏者たちが自信なさげに顔を見合わせ、さらに疎らになった音が床の軋みやため息に呑み込まれていくエンディングを経て、お礼の挨拶をしているDaisuke Miyataniの傍らで、何を思ったのか彼はギターを弾き始める。BGMのつもりなのだろうか。一部の知り合いが笑みを浮かべ、仲間内の弛緩し澱んだ腐臭がたちこめ始める。彼の「演奏」は、自分の抱えているのが他ならぬギターであり、それを自分は多少なりとも弾けることを懸命にアピールしているようにしか見えなかった。そんなものは友人の誕生パーティの余興でやってくれ。いわゆる「空気を読む」とは、仲間内でのだらけた馴れ合いに身を染める貧しい体験でしかなく、即興的感性や本来の意味でのアンビエントな感覚とはまったく無縁であることを、いまさら実演で紹介する必要などないのだ。

2013年10月19日(土) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
三富栄治、Stilllife、あおやままさし、Daisuke Miyatani Ensemble

   

  

1+2+3 / 1982 Live Review for Gallery Septima 16/10/2013

  1. 2013/10/20(日) 23:42:07|
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 ほとんど真四角な白い部屋。古い木の床にあれこれ種類がバラバラな椅子が並べられている。無垢の木の丸いテーブル。壁際に置かれた白いソファ。反対側の壁際には木のベンチ。ぽっかりと開いた大きな窓と壁に作り付けの木製の棚がギャラリーらしいだろうか。
 音具とエフェクターが床に散らばり、左手奥に斜めに置かれたアップライト・ピアノ(上半分は手前の板が外されて弦が剥き出しにされている)の手前のテーブルにも、ガラクタ・オモチャな音具が山積みになっている。右手奥には簡素なドラム・セット。正面奥のテーブルにはヴァイオリンが2台。

1.ソロ
プログラムの幕開けは津田貴司のエレクトリック・ギターによるソロ。高域の張り詰めた音がディレイにより引き延ばされ、左右にパンで振られる。木の床の軋みと寄り添う「水琴窟」ギター。そうしたきらめきの波紋が広がる向こうにハーモニクスのうっすらとした影が揺らぎ、サンプル&ホールドされてさらに音が重ね描きされていく。口を尖らせた舌先でくるっと丸まってしまう響き。床の軋みや足音と親しく混じり合うのは、津田の耳の志向ゆえだろうか。
 素早い遷移のうちにある高音の繰り返し、ゆっくりと背筋を伸ばしていく低音、弦のさわり、分厚いドローンとか細いアルペジオ‥‥寝た子を起こすことのないよう細心の注意を払って取り扱われるギターから引き出される様々な響きは、それぞれに固有の速度と時間をはらんでいる。それは一方で「グリッチ以降」のエレクトロニカ美学の帰結だが、むしろ津田にとってはサウンドスケープに耳を傾け、ひとつの時間/空間のうちにあれこれの響きがマッピングされているわけではないことを、発見したのが大きいのではないだろうか。

2.デュオ
 minamoは結成当時からのコアである安永哲郎と杉本桂一によるデュオ編成で、音具を中心とするインプロヴィゼーションを繰り広げた。杉本がギターを、あるいは安永がピアノを弾いたり、二人がハーモニウム(?)に手を伸ばしたりする場面もあったが、それらはすべてゆったりと靄がたなびくようなエレクトロ・アコースティックなサウンドの一部を構成するに過ぎない。
 電子ノイズのひそやかなつぶやきがギター弦の弓弾きの倍音に水没し、金属質の打撃音の長い尾の揺らめきが遠い国からやってくる短波放送にも似た高周波の混信や変調に溶けていく傍らでは、アコースティック・ギターの爪弾きもあらかじめ散布された電磁波に逃れ難く汚染されており、すべての響きは空間を包み込む微かな波動の網の目にかかり、それを震わせてしまう。彼らはそうしてかたちづくられたサウンドの希薄でこわれやすいプラトーを、リアルタイムの音の加工を含め、崩してしまうことなくゆるゆるとくゆらせていく技術に長けている。

3.トリオ
 彼ら「1982」は、はるばるノルウェーからやってきたヴァイオリンとピアノとドラムのトリオ。東京でのライヴはここだけだという。すべてのマイクやアンプは取り払われ、演奏はすべてアコースティックで行われた。
 まるで音を高く放り上げ、あるいは遠くへと飛ばすように、一音を一弓で弾き切っていくヴァイオリン。冷ややかな音色が弧を描き、指で弦をミュートしたピアノのトレモロやドラムの打面や縁を擦って生み出される音の切れ端等のマイクロサウンドを見下ろしている。やがてヴァイオリンが掻き鳴らすようなピチカートに転じ、ピアノのミュートされたトレモロやブラシに擦られるドラムと、繊細なさざめきの重層をつくりだしていく。
 三人の真ん中に立つヴァイオリンは、演奏によって弓を取り替えて臨む。冒頭の冷気がたちのぼる鋭敏さは円弧型の弓によるもので、より希薄で透明な音色が生み出される。これに対し通常の弓はより輪郭が明確で中身が詰まった厚みのあるサウンドを提供する。
 ドラムが脚で鈴を鳴らし続け、ピアノがノイジーに掻き回されるざわめきの中で、なめらかに滑りゆく弓の推移がつくりだす音が、列車の車窓から眺める電信柱のように通り過ぎる。大きな空間を占有するヴァイオリンに対し、ピアノとドラムは緊密な連携で対応する。ピアノの左手が弾き出すむしろベース・ソロ的なつまづくリズムに、ドラムがアタックの強弱で拮抗し、この緊密なリズムのやりとりにヴァイオリンは胸に迫る叙情を覆いかぶせ、ピアノがミュートせずにトレモロを解き放ったことをきっかけとしたフリー風の盛り上がりには、極端に落差をつけた沈鬱な響きで均衡をかたちづくる。

 彼らはまた10歳ずつ年齢が違うのではないかと思われる「齢の差トリオ」でもあるのだが(vn > pf > dr)、演奏が進むにつれ、最初のうちに見せたトリオ内の役割分担を含め、そうした階層性を侵食し、自在に組み替えていく動きが見られた。
 ピアノの弦がガムテープでミュートされ、荒々しいグリッサンドが繰り出されるかと思えば、テープを剥がす際のノイズが際立たせられ、ドラムはと言えば打面の張りを緩め、輪郭の歪んだ不定形の響きを床に這わせ、ハイハットの下の皿に様々な音具(独楽の類?)を放り込んで音を立てる。アルバート・アイラーを思わせるカリプソ風のメロディをピアノが弾き散らかすフリーな盛り上がりを「苦々しげに」眺めていたヴァイオリンが割って入れば、懸命に美音を奏でる彼をよそに、ドラムは席を立ってピアノのところに密談に行き、ピアノの位置をずらし、少し向きを変えたかと思うと、天板の上で、靴下をはめた手をパペット代わりに陳腐なショウを繰り広げ、"Money,Money"とクッキー・モンスターみたいにパクパクする口の中に、ピアニストが小銭を押し込む。ピアニストがピアニカで「ハーレクイン・ロマンス」的な甘ったるいメロディを奏でれば、お高く留まっていたかに見えたヴァイオリンも辻楽士的な泣きの旋律で加わり、靴下パベットの熱き抱擁を引き立てる。いささかダダ的なヒューモアの破壊性が、奇妙に歪み始めたサウンドの化学変化を推し進め、「ノリ」を加速し、北欧的な昏い混沌へと突き落としていく(ここで私はInternatinal HarvesterやTrad Gras Och Stenar等の土臭くサイケデリックなスープを思い浮かべている。これらはスウェーデン産だけど)。ピアノ弦から剥がしたガムテープをつるつるの光頭に巻き付けるといったハン・ベニンク的なパフォーマンスもその一部に過ぎず(だからまったく「浮いて」しまうことなく演奏の血肉化される)、規制の窮屈な枠組みの底を荒々しく踏み抜いて、すべてをつなげてしまうことが目指される。足踏みしながらのダンス・チューンの演奏も、ミニ・ハーモニカのロング・トーンへの音響的な重ね描きも、ここではもっともらしいコンセプトの説明や編集意図を超えて、分ち難くひとつになっている。

 希薄さと透明さを突き詰めてどこまでも高く昇りつめていく響き。ライヴを予約した時点で思い浮かべていたのは、そうした冷ややかさだったが、そうした予想/期待は心地よく裏切られた。彼らの演奏は天井の高さがなく、それほど広くもない会場のルーム・アコースティックも踏まえた対応であったろう。確かな技量に支えられた自由闊達な演奏は、とびきり豊かな時間をもたらしてくれた。会場で買い求めた彼らの録音作品群がまた素晴らしかった。いずれ改めて紹介することとしたい。

2013年10月16日(水) 立川 砂川七番 ギャラリーセプチマ
「逆回りの音楽 vol.7」
津田貴司、minamo(安永哲郎+杉本桂一)、1982(Nils Okland, Sigblorn Apeland, Oyvind Skarbo)


   

  

他の耳が聴いているもの − 「タダマス10」レヴュー  What Another Ear is Listening to − Review for "TADA-MASU 10"

  1. 2013/07/31(水) 23:15:12|
  2. ライヴ/イヴェント・レヴュー|
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 触覚的な響きやレイヤー構造による異なる速度の重ね合わせ/ずらしといったサウンド傾向が広くシーンに浸透するにつれ、次第にポップな試みが出てくるようになった。これはいろいろな人に聴いてもらうために、より聴きやすいものを目指すミュージシャンの意図の現れととらえている‥とホスト役の益子が今回の選盤のねらいを説明する。
 今回のプレイ・リスト中、そうした説明に最もふさわしいのは冒頭を飾ったErimajだろう。ローズの奏でる各音の浮かび上がりとそれとは速度感の異なるドラムスのストロークがすれ違い、ベースとギターの絡みには、やはりドラムスが足を滑らせるようにタイミングを外しながら重ねられる。そうしたずれ/滑り/すれ違いはヴォーカルに対しても同様に仕掛けられる。
 しかし、こうした取り組みはよくあるケース、すなわち普及の結果としての平板化あるいはマニエリスム化のように思えてならない。プログレッシヴ・ロックやニューウェーヴの末期がそうであったように。Jonathan Finlayson & Sicilian Defence(‥って将棋の矢倉や穴熊みたいなチェスの陣形じゃなかったっけ)の演奏がHenry Threadgill的だという指摘もまったくその通りだが、いささか糸巻きの糸が緩んでいると言わねばなるまい。Colin Stetsonによる一人多重奏的なポリフォニーを「ポップだ」と言うのもこれまた異論のないところで、たとえBon Iverへの参加がなくとも、長短のリフを自在に繰り出し重ね合わせる演奏は、まさにポップ・ミュージック的な快感に満ちている。大道芸の名人的なパフォーマンス。だが、私にはそれ以上のものは感じられなかった。
 もちろんこうした「不満」が不当なものであることは承知している。益子は彼が魅せられている世界への入口を広げたいのだろう。それは疑いなく正しい。飽くなき挑戦を続けるミュージシャンたちを支えることにもなる。だがその一方で、今回の彼の手つきが、彼の魅惑されている音世界を「ある効果を得るための手法」のように見せてしまう危惧を感じた。後述するように、ここでの本質は明らかに結果ではなくプロセスにあるからだ。それも演奏の中でリアルタイムで繰り広げられる相互作用のプロセスに。
 これらの音楽が今日の、あるいは明日の「ジャズ」として語られるべき必然性は、私にはそこにあるように思える。「タダマス」に召喚されるミュージシャンたちは、これまでのジャズ共同体の決まり事を次々に破り捨てながら、むしろこの「リアルタイムの相互作用のプロセス」については放棄するどころか、ますます深く身を沈めているように見える。と言うより、ポスト・プロダクションですべてがつくりだされるポップ・ミュージックに抗して「演奏の現場」にこだわる者たちが、互いに深く触発しあえる空間として見出したのが、冒頭に掲げた傾向ではないのだろうか。
 今回、多田が珍しく益子と一見対立する「ジャズ耳」的な立場から「こんな音を聴かされて、いったい何を聴いたらいいんだってことですよ」といった旨の発言を繰り返していたのも、私には冒頭の益子の提言を反対側から補足していたように思える(当人は風邪のせいで頭がぼうっとしていたんだと言っているが)。ヴォーカルや明確なメロディ・ラインがあって取っ付きはいいが、それではその背後に広がる演奏の生成プロセスには耳が届かない。これはロック的な轟音の充満でも同様であり、サウンド・プロダクションの結果として造形/構築されたマスとしてのサウンドが提示されているのは事実としても、それだけに酔いしれていたのでは、飽和したサウンドから析出してくる音響のかけらや、うっすらとした変調が均質化した表面をふと過る素早い動きに注目することはできない。かつてのECMに特徴的だった「運動と空間」あるいは「構造と響き」を枠組みとして、前者を通して後者に耳を届かせる聴き方でも充分ではない。

 休憩を挿んだ後半のブログラムは、まさにこのプロセスの重要性を明らかにする、思わず耳をそば立てずにはいられない充実した作品ばかりだった。

 Bureau of Atomic Tourism / Second Law of Thermodynamics(かつて「Total Mass Retain 〜 」と歌っていたロック・グループがいたっけ)は、ちょうどガラスをはめられた額縁の中の絵画にも似た不思議な距離感があり、通常の録音のように演奏にフォーカスしたというより、演奏の周囲に広がるサウンドが滲むべき空間を併せて見込んだ視角が提示される。その中に輪郭を揺らめかせた管が漂い、パーカッションがちらちら瞬き、ローズの打鍵がきらめいて、それらの波紋をさらにどもるようなエレクトロニクスが空間の震えとして広げていく。庭先の水たまりに陽光が反射して薄暗い居間の天井に映し出す不思議な揺らめきを、ぼうっと眺めていた子ども時代の思い出がふとよみがえる。

 揺らめきの強度という点では、最近の「タダマス」の最多登場ミュージシャンと言うべきMary Halvorsonも負けてはいない。濃密なエレクトロニクス操作を介してではなく、ほとんど化粧っ気のない線の細い音色で、神経が震えるような深い揺らぎをつくりだしてしまうのが彼女の真骨頂と言えるだろう。Stephan Crump(double bass)とのデュオによる『Secret Keeper』では、ベースがぐいぐいと弾き込む分、彼女の浮遊する「引き」の魅力がよく出ていたように思う。

 Gerald Cleaverも「タダマス」の常連だが、Halvorsonと異なり、その本質を名指すのが難しいミュージシャンだ。2011年のジャズ系のベストと言いたいFarmers by Natureでも一番輪郭がおぼろで明度/彩度の低い、一種とらえ難い役回りを演じていたし、「タダマス」の初回でかかったGerald Cleaver 's Uncle Juneも、細部の切れ込みの深さにもかかわらず、全体としては像を結びにくい仕上がりだった。今回のGerald Cleaver Black Hostでもそうした底の見えなさは健在。アンサンブルのON/OFFの切り替え、ピアノとドラムスのサンプリング感覚のミニマルな繰り返し、アルト・サックスとギターのユニゾンと言うにはあまりに微妙な、触れ合うか触れ合わないかギリギリの持続、ピアノ・ソロ+α的な揺らぎ‥‥。実は今回、ホスト役の益子と多田の打合せに同席させてもらい、プレイ・リストの各曲を事前に一通り聴かせてもらったのだが、70歳近いヴェテラン・ピアニストCooper-Mooreによるいかにもなフリーっぽいソロは、その際に益子宅のスチューダー+マランツ+JBLというヴィンテージ銘機ながら、むしろカール・ツァイスのオールド・レンズを思わせる高解像度と丸みを持つサウンドで聴いた時には随分と他から「浮いて」聴こえた。だが、喫茶茶会記のアキュフェーズ+アルテックではそう聴こえない。これは打合せ時に「ミスキャストではないか」と問いかけて、益子から「でもCleaverがこのグループを組む際に最初に選んだのが彼なんだ」と説明を受けたせいなのだろうか。
 ここでdrums,sound designという本作におけるCleaverのクレジットは、まさにグループのサウンドの統括デザイナーと理解できる。先に述べたサウンドの堂に入った配合の仕方は、彼が事前にグラフィックを描き、「お前はこの青い線を演れ。あんたはこっちの赤いシミだ」と指図しているのではないかと思われるほどだ(本作のカヴァー・デザインのグラフィックも彼が制作している)。すなわちそこでは線的な推移よりも、面的な配置の方が優先される。ここでの彼のコンポジションは、そのように時間の軸をいったん捨象してつくりあげたサウンドのブロックを、サウンド・ファイルのデスクトップ操作感覚で改めて結合することによって成り立っているのではないか。
 そのように考えると、Cooper-Mooreが選ばれた理由も見えてくるように思う。他のCleaverと同世代のメンバーと異なり、彼は今回の「主素材」なのだろう。つまり彼の演奏の個性をどう活かすかが、このプロジェクトのテーマと言う訳だ。逆に言うと、彼の演奏を出発点/帰還点に置くことで、Cleaverはいくらでも過激にグラフィックを凝らすことが可能となるし、他のメンバーも逸脱を重ね遠くまで行ける。
 Cleaverのような深く読み込むことを求めるミュージシャンを聴く場合、複数で聴くことは大きな助けになる。多層的な展開に焦点を絞れず、推移を看て取れず、空を掴むばかりで途方に暮れかける耳を、それでも「ここには耳を傾けるに足るものが何かある」と引き止めてくれるのは、他の耳の眼差しの存在である。別に言葉を交わさずともよい。他の耳がそこに聴くべきものを見出したとの事実が、そして他の眼差しが見通す先を自分も見極めたいという願いが、とらえ難い茫漠とした広がりに、あるいはうごめくものの姿の定かでない暗がりに耳をそばだて続けさせるのだ。

 Eric Revis Trio / City of Asylumでは、Kieth Jarrett作曲の「Prayer」で、音を突き放すように孤独に輝かせ旋律を粒立たせていくKris Davis(彼女もまた「タダマス」がずっと追いかけている一人だ)の単音ピアノ、深く深く杭を打ち込むベース、空中に打音で象形文字を刻んでいくパーカッションの三者の距離感というか、間に覗く闇の深さが凄い。まるで真空中で演奏しているようだ。また、三者の即興演奏によるであろう表題曲では、ネックを軽く撫で回すように弦に触れ、つむじ風に舞う枯れ葉のようなリフを生み出すベースに対し、響きを抑えカタカタと乾いた音を立てるピアノの高弦が僅かずつタイミングを踏み外していき、暗がりに沈むタムの響きがそれらの影を縫い取っていく。前述の打合せ時にこの2曲に漂うあまりに深い静けさに、思わず「Clean Feedらしくないんじゃないか」と言ったら、益子は「Clean Feedはレーベル・カラーは決して強くない」と言いながら、でもこの盤で選んだ2曲は異色であることを教えてくれた。実際、その場で少し聴かせてくれた他の曲では、駆け回るピアノに対応したAndrew Cyrilleの身体の運動が、そのままドラムの軌跡となっており、そこにこのような深い闇はなかった。

 Gerald Cleaver Black Hostと並ぶ今回のハイライトがCraig Taborn Trio / Chants。実は本作は以前に聴いて「何かある」と思いながらも、その核心をしっかりとつかむことができず、ディスク・レヴューの対象から外して先送りした、私にとっての「難物」である。演奏は淀みなくさらさらと進む。細やかなさざめきの中で三者が互いに交感しあう。細部に眼を向ければ、必ずそこには精密なやりとりが潜んでいる。だがそれは暗闇に潜む巨大な全体を、ペンライトのちっぽけな灯りで探るのにも似て、いっこうに像を結ばない。聴き手の手元には膨大な材料が与えられ、至るところに痕跡が残されるが、所在はいっかな明らかにならない。そうこうするうちに耳はあてもなく空をつかみ、視線は虚ろにさまよって、時間ばかりが経過してしまう。
 前述の打合せ時に多田は、益子がこの盤から「All True Night/Future Perfect」を選んだことに驚いていた。そして一見して特徴のない、とっかかりの見当たらない長尺の演奏は、まさにそれゆえにこの盤の特質を表しており、このトラックを聴くことを通じて本盤の核心に耳を届かせることができることを、私たちは後ほど知ることになる。
 打合せ時に聴いて気がついたのは、この演奏が風景を編み上げないということだ。サウンドの多元的な生成を風景としてとらえることは、演奏者の輪郭をあらかじめ前提としないことにより、即興演奏の聴取において有効なアプローチなのだが、ここで演奏は言わば風景的な均衡に至ることなく、力のままに果てのない流動を繰り広げていく。
 四谷音盤茶会の場で、益子は本盤について「聴きどころが難しい」としながら、ピアノ・トリオというフォーマットを前提として聴くのではなく、個々の役割に注目して聴くことを提言していた。すなわち、Tabornが持続的に一定のサウンドを生み出すことによりキャンヴァスの役割を務め、Cleaverがこれに絵筆を振るい、そしてMorganが句読点を打っていくというような。
 打合せ時にも「これは他の耳が選んだトラックである」ことを前提とし、その理由、眼差しのありかを探りながら聴くことで、耳の視線の射程をより深めることができたが、今回のディレクションはさらにそうした効果を深めるものとして作用した。
 Tabornのつくりだすさざなみがある平面をかたちづくる。そこに生じる起伏を点で結んで線を描き、複数の流れをつくりだし、全体を洗うように押し流していくCleaverに対し、砂浜を洗う波が浜辺に取り残す漂流物を思わせる仕方でMorganのベースが響く。それは新たに杭を打ち立てるように見えて、実はすでにそこにあったものが波に洗われて姿を現すのだ。それは異物や抵抗というよりも、流れが流れであるために束の間つくりだす「構造」とでも言うべきものである。そして結果としてそれは流れの縁/布置をピンで留めるように流れを際立たせる。だがあくまで定常状態は「流動」であり、ドミナントなのはそちらである。
 途中、ピアノの響きがふと遠のき、入れ替わりにすっとベースが前面に出る瞬間がある。ここが曲の切れ目なのかもしれない。束の間、ベースはより積極的に演奏をコンダクトし、舞台を傾け、サウンドの濃度/演奏の密度の勾配をつくりだす。再びピアノとドラムスがすっと戻ってきて、示された方向性に肉付けしながらシンコペートされた明滅/脈動をつくりだす。益子が「同期」と指摘した部分だ。益子の選曲と言葉に導かれた聴取は、演奏者の皮膚感覚へと沈潜していく。演奏者自身、このレヴェルを意図として明確に対象化してはいないかもしれない。
 ただ、全体にかけられた深い「アイヒャー・エコー」が演奏を神秘化しているのは否めない。もちろん「アイヒャー・エコー」は事後的な音響操作として一方的に施されるものではなく、演奏者との相互交通が保証された下で、演奏の前提としてあるものなのだが、それでも直前にかけられたClean Feed盤のKris Davisのような音でTabornを聴くことができれば、また違うものが見えてくるかもしれないと感じたのも事実だ。NY帰りの益子によれば、生で聴くTabornのタッチはそれはそれは強力なんだそうだ(それは積み木を積み上げていくような「建築家」的なエレピの演奏からも想像されるところだ)。事前の打合せ時には、これが「アイヒャーがいじる前の『ネイキッド』音源が聴けないか」という話に膨らみ、『ネイキッド・ケルン・コンサート』などという多田のコアな発言も飛び出したりしたのだが。

 「他者の耳の視線を意識して聴くこと」、「同時に複数の耳で聴くこと」を存分に経験できた貴重な時間だった。

 なお、当日プレイ・リストの詳細については以下のURLを参照のこと。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?cid=43767



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