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日常と伝説−『ドキュメント灰野敬二』レヴュー  Everyday Life and Legend−Review for "A Document Film of Keiji Haino"

  1. 2012/07/19(木) 18:01:32|
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【前口上】
 友人たちの評判が良いので、7月7日からシアターN渋谷でモーニング/レイト・ショー上映されている『ドキュメント灰野敬二』を観に行ってきた。観る前にはそれでもいろいろ構えるところがあったのだが、観終わって至極素直に感動したので、今回はこの作品について語ることにしたい。


1.記憶と現実、日常と伝説

 灰野=「灰」の「野原」。
 「本名なんですか」と訊かれることもあるという自身の名前について、灰野はこう絵解きしてみせる。この導入部ではむしろ彼の特異性が暗示される。今の灰野敬二へとなるべくして至った何か宿命的なものが。
 しかし、そうした感覚は、その後たどられる幼年時代からの記憶の中で、いつしか崩れ去り沈んでいく。千葉県市川市に生まれた彼は、川越市に引っ越すまでの間、近くにあった動物園「谷津遊園」へ両親に何度も連れていってもらったと語る。その頃は動物園の園長さんになりたいと思っていたとも。私も母方の祖父母が池袋から市川市に転居した関係で、祖父母の家に遊びに行った際に「谷津遊園」に連れていってもらったことがある。どんなところだったかもう全然覚えていないけれど。灰野の軌跡とのほんの小さな重なり。

 自由にさせてくれた幼稚園、集団の枠にはめようとする小学校、共働きの両親の帰りを待つ親戚の家、バス停まで出迎えに来てくれる母親、おそらくは束の間の息抜きの場となり得たであろう近くの教会の日曜学校、高鳴る期待が残酷に裏切られた子ども会‥‥。
 どこにでもありそうな園舎や校舎の映像、アルバムの古びた写真、ガスタンクのある風景が灰野の語りと共にたどられる。それらはどこにでもありそうな、極めて日常的な(何の特権性も主張し得ない)光景に過ぎない。そこに自宅でインタヴューに応える灰野の姿や、民族楽器のコレクションをうれしそうに取り出す手つき、生演奏シーン(現在の不失者)等が挿入される。
 幼時から小学、中学、高校、ロスト・アラーフへの加入、不失者の結成、初ソロ作『わたしだけ?』の制作、フレッド・フリスとの出会いをきっかけとしたニューヨーク・ダウンタウン・シーンとの交流等まで、時系列に沿った「記憶」の語りと、先に述べた現時点でのインタヴュー、ライヴ映像、CDやDVD制作に向けた綿密なリハーサル等、「現在」のシーンが交錯するが、編集の確かさもあって決して展開が錯綜することはない。過去の記憶は現在としなやかに結びつきながら、しかるべき奥行きを自然とかたちづくっていく。まるで音もなく雪が降り積もるように。

 過去の記憶が、決して現在を説明するために持ち出されているのではないことに、改めて注意しよう。小学校で強い閉塞感を味わい、これに反発を覚え、やがてそれが無視に変わっていったことや、子ども会での悲しい体験が疎外感/孤独感を強めたことが、その後の灰野の形成に大きく関わっているのはもちろん確かだろう。だが、映画はそうやって彼を説明しようとはしない。むしろ記憶の中にある環境を現在の風景や地図でたどり、それらが何の変哲もない、ありふれた街の景色であることを確認する。カメラはちっぽけな現実の手触りを丹念に積み重ねていく。そのことによって灰野敬二という「伝説的存在」を神話化することなく、観客と地続きの日常の中に立たせることに成功している。これは大きな達成だ。


2.伝達の方法−「わたし」と「あなた」を結びつけるもの

 灰野を神話化せず、日常の中に立たせることによって、彼がナスノミツル、高橋幾郎と繰り広げるリハーサルのシーンが、説得力を持つものとなってくる。文字のかたちや大きさを変えた「大」・「中」・「小」にさらに様々な書き込みを加えた灰野自筆の「楽譜」は、神話化されないことによって、訳のわからない御託宣ではなく、彼のやりたいことを何とか伝えるために編み出された、とてもローテクながら真摯に考え抜かれた伝達方法であることが明らかとなる。もちろん灰野は「暴君としての作曲者」ではなく、実現の過程で失われてしまう(あるいは新たに見出される)可能性に極めて敏感な演奏者/共同作業者である。それゆえ実際に試してみる中で、できること/できないこと/改善すべきことが明らかにされ、実際にかたちになったイメージと向き合いながら細かな修正が加えられる。

 このリハーサルや、その後で灰野自身によって説明される、擬態語的(?)に用いられた大きさや形の異なるひらがなに、音の推移を示すと思われる曲線が付された別種の「楽譜」(どこかかつての具体詩というか前衛詩的ではある。私はなぜか村山知義のことを思い出した)、あるいは音の「立ち上がり」や「濁り」をパラメータ/符号化した、また別種の「楽譜」等を見ていくと、これは一種のグラフィック・スコアではないかとの考えが頭を過ぎる。もしそうであれば、パラメータの管理を工夫して、ダイアグラム的な表現や、あるいは電子音楽の楽譜のようなグラフィックの作成も可能なはずだが、おそらく灰野が意図しているのはそんなことではあるまい。彼は音楽を彼の頭の中だけにあるもの、そこだけで鳴っているものとは考えていまい。むしろ「わたし」と「あなた」を結びつけるものとしてとらえているのではないか(ここで「あなた」とは共演者であり、スタッフであり、聴き手でもある。要は広義の「共同作業者」にほかなるまい)。彼が手っ取り早く一人多重録音で作品をつくりあげようとしないのは、そのためではないだろうか(たとえ自分で演奏したものであっても、あらかじめ録音された、その場で変わらない/反応しないものに対し、重ねて演奏する彼自身が嫌になってしまうということもあるかもしれない)。

 Plan-Bにおけるパーカッション・ソロの演奏の映像収録において、彼は照明のオンオフや照度/絞りの変化、カメラのズームのタイミングや度合いを、先ほどの「大」・「中」・「小」を用いた「楽譜」に似たやり方で組み立てようとする(もちろん彼自身の身体の運動や打楽器からの出音、響きの広がり等を含め)。実際、それは不失者の演奏に近い(具体的にはやはり『光と名づけよう』か)。異なる周期で(間歇的にあるいは伸び縮みしながら)繰り返されるリズムが重ね合わされ、ずれ、衝突し、砕け散る。灰野は撮り終えたパーカッション・ソロの映像について「たとえ音が聴こえなくとも音楽を体験できる」と語っているが、まさにこれこそが目指したことだろう。しかも極めて灰野的な仕方で。ねらいを説明し、理解を共有した上で、実際の手順・やり方について提案し、実際に試してみながら、できること/できないこと/改善すべきことを明らかにし‥‥という進め方は、まさにナスノや高橋とのリハーサルと同じである。むしろPlan-Bの方が灰野の撮影や照明に関する知識・経験が少ないため、それだけ試行錯誤が多くなり、集団創造の比率が高まっているが。

 彼は「やりたいことがだんだんできるようになってきた」と語りながら、「もっとこうしたい‥ということを、以前よりちゃんと説明し伝えられるようになった」と付け加えるのを忘れない。彼は亡くなった盟友小沢靖のことを毎日思い出すというが、長年苦労を共にし、阿吽の呼吸で事を進められたであろう彼を失ったことが、灰野に意志伝達の手段について改めて考え抜くことを課したのではないかとも思う。いずれにしても、彼の演奏/音楽が閉ざされた秘術などではなく、こうした開かれた地平を踏みしめ、度重なる挑戦と試行錯誤に支えられていることを、とても丁寧にかつ自然体で示し得たのも、本作の大きな功績だろう。


3.芽生えたばかりの決意

 終盤、がらんとした野外音楽堂で、灰野が「ここ」をひとり弾き語る。声は柔らかな吐息をはらんで聴き手の肌にそっと触れてくる。と同時にその声/言葉は、初めて自分の2本の足で立ち上がったような、まっすぐで瑞々しい決意に満ちている。優しく聴き手を包み込む子守唄であると同時に、自我が芽生えたばかりの子どもの痛々しい決意のひたむきな表明でもあるうたは、観客の心の奥深くにすっと触れてきて、これまでスクリーンに映し出されてきた幼稚園入園以前からの各場面、様々な出来事の甘苦いフラッシュバックを呼び起こす。ぐるぐると巡る、「いま」でも「遠い昔」でもあり、「わたし」のものでも「あなた」のものでもある記憶の群れが立ち騒ぐ。にもかかわらず、映像がとらえるのは、がらんとしたステージの上にぽつんと立つ、たった一人のアーティストに過ぎない。音楽や映画の力の偉大さを感じる瞬間だ。

 映画では屋外の映像であるため意識されないが、サウンドトラックCDでこの部分を聴くと、最後のギターが鳴り止んだ後に続く長い沈黙で、小鳥の声が聞こえる。そして灰野が「終わります」とぼそりとつぶやく。響きの行く末を見定めながら、音楽は永遠に続くことなく、一回一回いつも終わってしまう(終わってしまわないわけにはいかない)という運命、厳正な事実と正面から向かい合うように。


4.終わりに

 本稿でこれまで何度か書き付けてきたように、灰野の伝説化/神話化に与することなく、観客と地続きの日常の中に彼を立たせている点で、本作品を高く評価したい。そして、にもかかわらず、音や映像の力を存分に引き出している点においても。
 むしろ本作品は灰野を聴いたことがなく、名前すら知らない人に観てもらいたいと思う。他の作品との併映や(ドキュメンタリー)映画祭/特集のプログラムに組み込まれる等により、思いがけず灰野の姿を眼にして、あるいは声や演奏を耳にしてしまう人が増えればと願わずにはいられない。



【上映情報】
上映会場:シアターN渋谷(http://www.theater-n.com/)
モーニンク゛・ショー 11:00〜
レイト・ショー 21:10〜

映画『ドキュメント灰野敬二』公式サイト
http://doc-haino.com/
予告編等も見ることができる

「新・嵐が丘」讃−『Lupin the Third〜峰不二子という女〜』レヴュー  Hommage to "New Wuthering Heights"−Review for " Lupin the Third〜The Woman Called Fujiko Mine〜"

  1. 2012/07/08(日) 16:12:29|
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 もう先月のことになってしまったが、6月27日(水)の深夜(実際には日付が変わってもう28日になっていたが)、アニメ『Lupin the Third〜峰不二子という女〜』が全13話の放映を終え、無事完結した。今回はこの作品について述べてみたい。なお、一部ネタバレを含むので、未見の方は注意されたい。


 『ルパン三世』のアニメ・シリーズについては、第一シリーズ(いわゆる「旧ルパン」)の本放送時から観ており、その作品世界の独自の手触りやよく出来たプロット構成を楽しんでいた(萩原健一主演のドラマ『傷だらけの天使』の放映開始も同日、同じチャンネルだったような記憶がある)。第一シリーズについては、オリジナル演出の大隅正秋による前半と、彼が降板して入れ替わりに宮崎駿たちが加わった後半を明確に区別する見方もあるようだが、当時は一連の流れとして楽しんでいたように思う。
これに比べると、後になって始まった第二シリーズ(いわゆる「新ルパン」)は、ずいぶんと子どもっぽい造りになってしまい失望を禁じ得なかった。もちろん、観る側の年齢の変化も関係しているのだろうが。よく言われるように、宮崎が変名で関わった2回(ストーリー構成や演出だけでなく、作画や背景の仕上がりも含めて、作品の出来がまったく異なる)を除けば、概ね低調と言うことができるだろう。
 その後、シリーズは繰り返し再放送され、映画作品が制作され(実写版もあった‥忘れたい忌まわしい記憶)、2時間枠のTVスペシャル版も多数つくられて現在に至る(『カリオストロの城』以降はほとんど観ていないが)。替えが効かないと思われたルパン役の声優山田康雄の死すら乗り越えて継続しているということは、それだけ『ルパン三世』がコンテンツとして人気があるということなのだろう。

 そして今回。「40周年記念」と銘打たれ、深夜帯ながら30分番組のTVシリーズというオリジナルな枠組みが復活する。スタッフの充実も報道され(私が知っている名前は音楽担当の菊地成孔だけだったが)、期待は否応なく高まった。平日深夜という時間帯設定も、逆に言えば、ファミリー向けでない「尖った」作品内容に向けた冒険を可能にするかもしれないと。


 さて観終わった感想を言うならば、不満は多いが、数々の工夫もあり、総じてスタッフは健闘したのではないだろうか。基本的には1回完結のストーリーを積み上げながら(ただし、終わりには必ず「to be continued」と表示される)、終盤になって実は初回から張り巡らされていた伏線を次々に浮かび上がらせ、ジグゾー・パズルよろしく組み立てていく手並みは、いささか破綻もあり、決して鮮やかとは言い難いが、その意欲は買える。1クールのシリーズものならではの特質を活かしたトライアルではある。
 黒幕と思われていた人物がすでに死亡していて、彼に虐待されていた少女(年月が経過して、彼女はもうすでに少女の年齢ではなく、さらにその外見は実年齢以上に老いさらばえているが)の意識が、峰不二子に「捏造された過去の記憶」を植え付け、その後の人生を監視していた‥‥という種明かしは、屋台崩し的な大ドンデン返しではあるものの、そこまで崩してしまった結果、ルパンがあそこまで不二子に惹き付けられる魅力を与えていたはずの過去の傷跡も消し去ってしまい、結果としてルパンの不二子への執着は根拠を失って空転し、ギャグとして笑い飛ばされるしかなくなってしまう。この妙に「健全」な(お茶の間向きな?)結末はちょっともったいない気がした。というのも後で見るように、今回のシリーズの魅力は、そうしたプロット構成に回収しきれない「痛さ/イタさ」への執着/偏愛のように思われるからだ。

 そのことについて語る前に、他の点(アニメ作品としての完成度等)についてざっと振り返っておこう。まずは画調について。昨今のアニメのCG等も多用したクリアーさを嫌い、劇画的なラフなタッチと陰影を目指した狙いはよくわかる。画面に重ねられる手描きの効果線による陰影やあえて細密には描き込まない背景がその象徴だろう。けれど絵の質自体は安定しているとは言えなかった。動きについても稚拙さが目立つことがあった。これは予算上(制作作業期間)の問題もあるのだろうか。均質でない描線の採用が、絵の動きや質の確保を難しくした側面はあるかもしれない。絵コンテ段階のラフな絵だとずっと魅力的に見えたりとか。
 声優陣(先立つTVスペシャル版最新作「血の刻印」と同一キャストとのこと)は概ね好演。特に今回主役の峰不二子を務めた沢城みゆきは、むしろ第一シリーズで同役を務めた二階堂有希子の流れを受け継ぐ感じで、アニメアニメしない気品と知的なセクシーさを兼ね備えていたように思う。銭形警部役の山寺宏一は流石の貫禄。オスカーなる美青年キャラとのBL的な関係(!)も描かれるのだが、その辺も低音を効かせて魅力的に演じていた。ルパン(栗田貫一)、次元(小林清志)、五右衛門(浪川大輔)の三人組では、五右衛門が一番影が薄かったか。これはストーリー構成上の必要から、ニヒルさよりも純情ぶりをキャラ設定で強調され、中途半端にギャグ・メーカーを割り振られたことが大きいかもしれない。

 今回のシリーズ後半になると、不二子が少女時代に受けた忌まわしい虐待と幽閉生活(先に述べたように、実はそれは捏造された過去なのだが、この時点では彼女自身の過去のようにしか見えない)が繰り返し語られる。さらに、虐待とは単に身体的暴力(折檻や陵辱)にとどまらず、精神操作のための薬物投与や電気ショックによる人体実験を含むものであり、背後には巨大な製薬会社が存在し、かつて起こした流出事故により「オイレンシュピーゲル」なる街がまるまるひとつゴーストタウン化し、歴史の暗闇に葬り去られた事実が明らかにされる。
 それとともに、そうした黒幕たる強大な力の暗示として、フクロウ(ドイツ語で「オイレ=Eule」)の形象があちこちに散りばめられる。思えば初回に登場したカルト教団は「フロイライン・オイレ(フクロウの娘)」といったし(実際に背後でつながっていることが後に示される)、「オイレンシュピーゲル」とは「フクロウの鏡」を意味する(どうやらリヒャルト・シュトラウスの交響詩の元となった民間伝承「ティル・オイレンシュピーゲル」とは関係なさそうだ)。フクロウとは作品中でも語られるように「ミネルヴァのフクロウ」として知の象徴であるあるわけだが、ここではむしろ世界の混乱や人生の悪戦苦闘を小高い木の枝の上から距離を置いて冷ややかに見下す気味の悪い存在として描かれている。
 ここで注意すべきは、そうした忌まわしい過去が、単に部分的な「被害」としてではなく、不二子の人生/人格を形成する要因として執拗に描かれることだ。華美で豪奢なものへの執着も、セックスへの貪欲さ・奔放さも、そして盗むことへの押し止め難い欲望も、すべてがこのトラウマ/PTSDがもたらす強烈な依存(あるいは代償行為)のように見える。この狂乱が自意識過剰なまでの自虐的な痛み/イタさを振りまくことになる。シリーズ中には、とある芸術家によって全身に象嵌細工にも似た精緻な刺青を施され、言葉や思考すらも奪われて「生ける芸術品」とされた少女に対し、不二子が我を忘れターミネーターばりの不死身の追撃を見せるエピソードがある。「他人に自分の人生を自由に操られる存在」である彼女を抹殺することにより、不二子は自らの過去を抹消したいのだと説明されるが、これほどイタい行動もないだろう。

 そのことを圧縮して集約的に語っているのが(前もって正確に暗示しているのが)、オープニングのタイトル・バック(アニメーションと主題曲)にほかならない。甘美な繰り返しから急速に昇り詰める弦と、錯乱をはらんだ神経質なハープシコードの組合せによる、題曲「新・嵐が丘」は、むしろイタリア貴族の家族室内劇(ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』や『イノセント』みたいな)を思わせる(溺れるような精神的危機と近親相姦の澱んだ誘惑が匂い立つ)。
 橋本一子による語りの内容(作編曲同様、作詞もまた菊地成孔が担当している)も、タイトルにちなんで、かなり唐突にあざとく「嵐が丘」の名が語られる場面をはじめ、自意識過剰にして自虐的な、そして自己像と他者から見た像が限りなくズレていく自己耽溺的なイタさに満ちている(「嵐が丘」のキャサリンもまた典型的なイタい女ではなかったか)。このイタさは曲調(編曲を含む)と深夜アニメというカテゴリーとのズレ、あるいは『ルパン三世』のハブリック・イメージとの壊滅的なズレともども、「イタさ」をこそ目指した菊地の確信犯的所業と言うべきだろう(橋本の語りという人選も、イタさ中心に考えれば、ズバリ核心を突いている)。
 エリザベス・テイラーやウラジミール・ナボコフ『ロリータ』への菊地の偏愛はよく知られている。それはそのままイタさへの偏愛/執着なのではないだろうか。菊地は別にいたいけな少女や小悪魔そのものが好きなわけではなく、実はファッションとしてのロリータ好きですらなく、概念としての少女/ロリータがオブジェクト・レヴェルに舞い降りた際に身にまとわずはいられない「苦い」乖離性(それゆえ彼女を取り巻くアイテムが注目を集める)を、とびきり純度の高い「イタさ」として愛しているように思えてならない。

 そう考えると、本質的にイタい女のイタい物語である『Lupin the Third〜峰不二子という女〜』が、それゆえに菊地に参加を求めたとすれば(というより、よりによって『ルパン三世』の音楽をDCPRGの、ダブ・セクステットの、ペペ・トルメント・アスカラールの菊地に依頼する思考の脈絡が私には思いつかない)、これほど的を射た人選もない(それこそ嘘のように)。この点では、この作品の大要はオープニング・アニメーションに集約されている(尽きている)としても過言ではあるまい。(二人の不二子が交わす熱いキスがシリーズ中のエピソードでも語られる同性愛(レスビアン)的なものというより、二人の不二子の拳銃による決闘シーンに先立たれていることが示すように、ここでは自己言及/自己反復的な自己愛/自己耽溺でしかないのと同様、見せびらかされる裸身の放つエロスも、薔薇の棘に縛られるマゾヒズムも、すなわち自虐であり、肥大した自意識の病でしかない。
 「さあ すべてのことをやめ 胸だけをときめかせながら 私のことを見つめて」と始まる歌詞は一見女王様然としているようでいて、他者を消去し、自分自身だけを見詰めようとする不安に震えている。「盗むこと それは壊すことでも 奪うことでもない 特別に甘い悪徳」と彼女はそれが自らのための聖なる儀式であることを認めている。「心理的根拠は 不明」と念押ししながら(この辺は自称フロイディアンの菊地らしい)。以降、語りは「しゃべらないで逃げて 逃げないで隠して 見つけたら罰して 罰したら殺して 私を救って‥」と高揚は頂点に至る。自分でも止めようのない憑かれたようなモノローグとして、繰り返しの対称性を螺旋状に崩しながら加速を続け、自己愛と自己破壊の衝動の矛盾を祈るように爆発させながら。

 実は菊地は「新・嵐が丘」以外にも結構な量の音楽を、このシリーズのために書き下ろしており、それらは第一シリーズのチャーリー・コーセイを髣髴とさせるシャウトの入るホットなファンキー・ナンバーやピアノのフリーな乱舞など、かなり多岐に渡っている(「サムライ・フレンド」や「みんな大好き峰不二子」等の子どものうたや、古びた遊園地に響く手回しオルガンは演出の要請だったのだろうが)。これらの音楽が演出上効果的に使用されていたかと言えば、いささか疑問が残る。素材を充分に活かせなかったとの「宝の持ち腐れ」感が強い。菊地自身が本作品の音楽担当について、かなり緊張/苦労したと語ってもいるだけに。
 「新・嵐が丘」の終盤、タイトル文字のフラッシュと交錯しながら、昇り詰めた弦がピアノの連打とともにタンゴばりにたたみかけ、最後、ブラシによるスネアだけが残って淡々とコーダを締めくくる(画面は妖しく揺らめきながらモノクロームに沈むケシの花の図柄)あたり、なかなかよく出来ていただけに、本編中でも、こうした画面と音楽のシンコペーションぶりを味わいたいところだった。


『Lupin the Third〜峰不二子という女〜』OPから

記憶の復讐−韓国映画「母なる証明」レヴュー  Revenge of Memories − A Review for Korean Movie “Mother”

  1. 2011/10/25(火) 23:30:19|
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 昨日、BSで観たので、頭に浮かんだことをちょっとメモしておきます。最初にお断りしておけば、TVで観ただけで書いているので、本格的な映画評になどなるはずもありません(時間短縮のためにカットもされているだろうし)。それとネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。



 原題は『母』、邦題は『母なる証明』と、全編に渡って描き出される「母性の暴走」を強調しているが、これはむしろ「記憶」の映画と言うべきだろう。障害を持つトジュンがこめかみに指を当ててぐるぐると回す「呪われたこめかみ」のポーズをするたびに、過去が脈絡無くフラッシュバックする。
 作品の展開において重要なのは、このうち彼が母に殺されかけた(農薬を飲まされ無理心中させられるところだった)場面を思い出すシーンと、ラスト近く、母がトジュンによる殺人現場の唯一の目撃者である老人を殺害し(彼の目撃が見間違いでないことが「呪われたこめかみ」のポーズにより証し立てられる)、放火した焼け跡で見つけた母の鍼箱を、慰安旅行に出発するバスの待合室で渡すシーンの2つ。ここでトジュンは、あたかも母の罪を告発しているように見える。しかし、それは説話論的な役割=機械仕掛けとしてそうなのであって、彼に告発の意志などあるはずもない。彼は自分自身が少女を殺害したことすら自覚していないのだから(「真犯人」の発見により釈放されて、死体がわざわざ屋上に放置されていた理由を推理してみせるトジュン)。

 先の2つのシーンでトジュンは「童形をした神」のように現れている。どこまでも純真で罪無く、無垢であるがゆえに、かつかつと日々を生きる人間の小さな罪を告発してやまない存在として。
 ここで私は萩尾望都『訪問者』のことを思い浮かべている。新雑誌「プチフラワー」の創刊号に掲載された作品は、やはり彼女による作品『トーマの心臓』の登場人物オスカーの「前日譚」とでも言うべきもので、『トーマ』の舞台となるシュロッターベッツ・ギムナジウムへの転校以前、父親と過ごした子ども時代を描いていた。気弱な芸術家である父は、母を殺害し、一人息子オスカーを連れてあてのない旅に出る。早熟なオスカーは、それ以前から険悪な夫婦仲に責任を感じ、居場所の無さ(自分は「家の中の子ども」ではない)を感じていた。そしてついに、父親の眼に自らが罪の告発者として映っていることを知る。無垢な子どもの姿をして家々を訪れる神=「訪問者」として(やはり「家の中の子ども」ではなく)。結局、父は知り合いの寄宿学校校長(彼こそはシュロッターベッツの主であり、オスカーの実の父親だった)に彼を引き渡し、帰らない旅に出てしまう。
 『訪問者』においては、「ちっとも神ではない」オスカーの内面が描かれることで、「童形をした神」は言わば物語上の機能として登場するに過ぎない。しかし『母なる証明』においては、トジュンの内面が描かれず、理解/共感不能な不気味さをたたえていることから、そうした「神性」がより生々しく立ち現れてくることになる。それは「記憶」の寓意にほかならない。抑圧しても、忘却しようとしても、また別のかたちでよみがえり、自らを責め苛む「記憶」が人の形をして現れたもの(ウォンビンの底の知れない眼差しや生臭さを感じさせない肢体は、見事にその役割を果たしている)。
 通常のストーリー・テリングなら、例えば復讐者の悪意や突然のアクシデントにより明らかにされていく忌まわしい「記憶」が、ここではトジュンの「障害」を介することにより、意図でも偶然でもない、あるズレをはらんだタイミングにより暴かれていくことに注意しよう(一方、前半の2件の交通事故に見られるように、この作品では「アクシデント」は本当に唐突に偶然の結果として、サイコロの出目のように起こる。殺人事件すらも)。言わば何者かによって与えられた「運命」として。
 そうした酷薄な「運命」への、ちっぽけな、だが精一杯の抵抗として、母の「イヤなことを忘れるツボ」に鍼を打つ行為を位置づけることができよう。それはこれまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されていくのだ。

 だから、私にはこの作品が「母のどこまでも深く、狂気に満ちた愛を描こう」とつくり始められたようには思えない。障害により、シャッフルされ、あるズレを持った、並べ替えられたかたちでしか記憶がよみがえらない‥というアイデアがまずあり、そこに「忌まわしい記憶を消す」魔法という仕掛けが加わり、母と子と殺人といった要素は、それらをプロット化するために後から要請された要素なのではないだろうか。本作品の脚本における伏線の張り方はとても見事なものだが、「母の異常な愛情」という線で組み立てたと考えるよりも、先のように見立てた方が、すうっとひとつの見通しが浮かんでくる気がする(もちろんこれは後知恵に過ぎないが)。

 俳優陣の演技もまた素晴らしい。おそらくは確信犯的にブサイクな顔ばかりを選んでいたりするので、消化不良を起こす方もいるだろうが。
 ネット上にアップされた感想を見ると、「母の愛情の異常さ」に胃もたれを起こした方も多いようだが、もし、この作品からそうした異常さしか感じ取れないとすれば、それは身の回りの親子の愛情の異常さから眼を逸らしているか、その方自身が偏狭で異常な愛情の中にあってそのことに気がついていないかのどちらかだろう(もちろん、映画には慰撫的な心地よさ以外を一切求めない向きもあるだろう。それも立派な「異常」ではある)。
 本作品は、むしろ異常というか「切断」の少ない映画だ。同じポン・ジュノによる「殺人の追憶」が田舎町の中に突如として現れる大規模な土木工事現場のシーン(人寂しい暗がりから一瞬のうちに転じて、煌々とライトに照らされ大勢が行き来する、本当に眼の眩むような異空間が出現する)を持っていたのに対し、本作品はひとつの街の同質性の中に封じ込められたまま進む。風景の手触りの切断は基本的に無い。それゆえ、死体の放置された屋上からの均質化した街の眺めが効いてくる(簡単に一望できる、まるで水滴のように閉ざされた、ちっぽけな世界)。
 唯一の切断は、風景の中の母の姿によってもたらされる。例えば母がジンテの家、あるいは廃品回収業者のところに向って田舎道を歩くのを超ロングでとらえたショット。母の姿は本当にちっぽけで、広がりのある景色の中では映像のシミのようですらあるが、それまでの姿が投影されることにより、景色と拮抗し得る存在となる。映像の力の溢れる場面だ。そのことは枯れ草が風にたなびく草原を母が歩くショットでも現れる。それらの源泉に位置しているのが、やはり冒頭に置かれた奥行き深い景色の中で母が舞うショット(タイトルバック)だろう(途中、母の見詰める山裾に立つ一本の樹木を、同じようにカメラが回り込みながらとらえるショットがあり、この辺は確信犯的なうまさではある)。なお、誤解の無いように付言すれば、これは決して「閉塞」に対する「開放」ではない。先に挙げた各場面において、期待されるような開放感/解放感を得ることはできない。風景のホリゾントは高く掲げられ、視線を解き放つことはかなわない。むしろ眼は景色と母とが拮抗する「つばぜり合い」を見詰め続けること、そうした強度の圧迫に耐え続けることを強いられる。それは「見たいものだけを見る」ことが映画を観ることだと考えている観客には無縁の体験である。たとえば廃品回収業者の居所に近づき、ショットが切り替わると、足元がぬかるんでいる。ここでの触覚性の急浮上を味わうことができるのは、先の緊張に耐え続けた者だけの特権であるだろう。
 この点で撮影の素晴らしさを了解しながら、その画面の強度を、様々な生成の線を自在に結び合わせ、注意深い瞳をとらえて放さない編集/構成の見事さを賞したい。派手なシーンやあからさまな切断がないだけに目立ちにくいのだが。音楽もまた、楽曲の出来以上に、抑制された効果的な使い方を評価することとしたい。





血は黒く、すぐに乾く−「ぼくのエリ 200歳の少女」

  1. 2010/08/16(月) 23:02:25|
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 本来なら7月に書くはずだった感想を遅ればせながら。なお、ネタバレを含んでいるので、映画未見の方はご注意ください。ただし、個人的にはネタバレしたから価値が下がるような作品ではないと思います。

 毎日新聞映画評に載った好意的レヴューに誘われて銀座テアトルへ。吸血鬼、耽美、北欧、少年と少女‥と来ては、萩尾望都ファンとしては行かないわけには(実際には妻に連れて行かれたのだけど)。さて作品の出来という点から言うと決してつまらなくはない。傑作ではないかもしれないけれど(←誉めている)。ここでは、作品自体の出来不出来よりも、観に行くきっかけとなった映画評や後からネットで読んだ感想にちょっと違和感を覚えた点について書いておきたい。

 まず、演出は決して耽美的ではない。北欧系の白い肌と街を包み込む雪景色と、赤い血を映えさせる道具立てはこれ以上ないくらいに整っているのに、白地に深紅をぶちまけるようなシーンはない。むしろあえて避けられているといっていいだろう。毎日新聞の映画評が採りあげていた、少年が少女と血の契りを交わそうと自らの指をナイフで傷つけ、傷口から床に滴り落ちる血に、少女=空腹の吸血鬼がしゃぶりつくシーンも、血の赤さが鮮やかに示されないために、決して耽美的な陶酔を引き起こすことはない。その分、何か得体の知れない禍々しい力が噴出するのを目撃してしまった感じ、「見てはいけない暗がりを覗き込んでしまった」感じは際立たされる。それが演出の狙いなのだろう。至るところで血を流しながら、その血は黒く、白地に映えることなく、すぐに乾いて醜い跡だけを残す。演出として「これだけは譲れない」というメッセージがひしひしと伝わってくるところだ。
 そうした中で、本作品中、最もショッキングに血の赤が噴出するのが、吸血場面でも、終盤の大虐殺でもなく、主人公の少年がいじめっ子に反撃して、彼の横っ面(左耳の辺り)を長い棒で一撃し赤く血に染めるシーンだということは、もっと注目されてよいだろう。この「勝利」で暴力に酔った少年が、部屋を訪ねてきた少女につれなく接し、これに反発した少女が涙の代わりに眼や耳から血液をあふれさせるシーンが、もうひとつの「血のクライマックス」であることを考え合わせれば、ここでは理不尽に人を傷つける「暴力」こそが赤い血と結びつけられているのは確かなことだ。
 鼓膜を破られたいじめっ子が不良の兄に頼んで主人公に仕返ししようとして、助けに来た少女に皆殺しにされてしまう終盤の「大虐殺」シーンについても、黒いヒューモアすら感じさせる乾いた画面は、「耽美」よりも「パンク」の美学を感じさせる(金髪だけどプヨプヨしていて決して美少年ではない主人公と、黒髪に浅黒い肌と黒い瞳をした、これまた美少女とはいえない吸血鬼の少女というセレクションがまた)。
 
 ネットで見つけた感想の中には、吸血鬼の少女が実は去勢された少年であることが画面のぼかしによって隠されてしまい、邦題もまたこれを隠蔽していることに腹を立てているものがあったが、私にはそのことが作品の本質を損なってしまうほどの傷だとは思えなかった。むしろ、「吸血鬼映画だから耽美/退廃の美学」と決めてかかって疑わない方がよっぽど‥。
 それともうひとつ。やはりネット上に書き込まれた感想で、原作「モールス」では小児性愛者として描かれている少女の「保護者」役の中年男性が、映画ではそうではない(少なくとも、そのことを明らかにするシーンはない)ことに「キレイゴト」と不満を述べているものがあった。ここも違和感を覚えたところ。「小児性愛者」という設定も確かに「パンク」的で、「なるほどね」ではあるのだが、むしろ、こう考えられないだろうか。この中年男性もかつては少年であり、少女を愛し、共に生きることを選んだ。その結果、彼だけが歳を取り、吸血鬼である少女は老いること無く、その結果、見かけ上は「少女と中年男性」のカップルになってしまった‥と。すなわち、少女の食事である血液集めに失敗して、身元をわからなくするために劇薬で顔を焼き、最後は少女に自らの血を与えて、病院の窓から身を投げるこの男の悲惨な姿は、この作品のラストで少女との逃避行に旅立つ主人公の少年の40年後の姿そのものなのだと。毎日新聞の映画評では「吸血鬼版『小さな恋のメロディ』」と表現していたが、その内実はかくもブラックなものにほかならない。

 血の甘さに酔いに来た観客を、ブラックな現実のはらむ辛辣な棘で責め苛むところが、この作品の真骨頂と言うべきだろう。そして、そのためにこそ、白地に映える血の赤の鮮やかさは、禁欲的なまでに遠ざけられなければならなかったのだと。



アメリカでのリメイクがすでに決まっているとか。
う〜む。

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